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東條内閣発足から80年  (読者投稿)

2021-10-20 08:53:31 | 歴史

岸田内閣が発足しましたが、ちょうど80年前、1941年10月18日に成立した東條内閣のもとで日本は太平洋戦争に突入していきました。ブログ読者の方から以下の投稿を頂きました。有難うございます。なお、内容については異論のある方もおられると思いますが、歴史を多角的に見る一つのテキストとしてご理解ください。

80年前の新内閣

第100代岸田総理大臣の内閣が成立し、解散・総選挙と世間が騒がしくなってきましたが、今から80年前、昭和16年(1941)の10月18日にもニュースは新内閣の成立で沸いていました。東條内閣です。今年は太平洋戦争開戦から80年になるのです。

(安倍元首相のおじいさん、岸信介氏も「商工大臣」として出て来ます)

戦争回避のため、東條首相が陸軍大臣、内務大臣を兼務するよう昭和天皇が指示した?

ニュース映画を見ると、内閣総理大臣兼陸軍大臣兼内務大臣と、いかにも「独裁者・東條」を思わせる肩書ですが、実は陸相・内相を兼務するようにというのは昭和天皇の指示だったと言われています。

戦争回避への不満分子が再び二・二六事件のようなことを起こすことを恐れた昭和天皇

行き詰まった日米交渉を臥薪嘗胆(がしんしょうたん)、戦争回避へと急ハンドルを切った場合、必ず二・二六のような不満分子の叛乱が起きる。その時、命がけで鎮圧に当り得るのは東條しかいない。ついては憲兵を掌握する陸相、警察を掌握する内相も他人に任せず東條が兼務せよ、という内意だったそうです。

(編集部注)二・二六事件については、こんな記事があります。

「ヒロヒト、ヒロヒト……」昭和天皇は二・二六事件で何を語ったか(辻田 真佐憲) @gendai_biz

「朕自ら近衛師団を率ひ……」の背景

では、二・二六事件当時の様子はどうだったのだろうか。昭和天皇の発言を中心に振り返ってみよう。

昭和天皇は、当初より「暴徒」ということばを使い、繰り返し鎮圧を督促するなど、事件にたいしてきわめて批判的だった。

2月26日には、川島義之陸相に「速に事件を鎮定すべく御沙汰」をし、閣僚の辞表を捧呈した後藤文夫首相臨時代理にも「速かに暴徒を鎮圧せよ、秩序回復する迄職務に励精すべし」と指示するなどした。

しかるに、陸軍の首脳部は青年将校に同調的で、鎮圧に向けてなかなか本腰を入れなかった。それに痺れを切らした天皇は、陸軍出身の本庄繁侍従武官長をなんども呼び出し、早く鎮圧するように指図した。

明けて27日にも、青年将校への同情論を本庄より聞かされてもまったく意に介さず、逆に「朕が股肱(ここう)の老臣を殺戮(さつりく)す、此の如き兇暴の将校等、其精神に於ても何の恕(ゆる)すべきものありや」「朕が最も信頼せる老臣を悉(ことごと)く倒すは、真綿にて、朕が首を締むるに等しき行為なり」と鋭く批判し、ついには「朕自ら近衛師団を率(ひき)ひ、此が鎮定に当らん」とまで述べた。
この日、川島陸相と山下奉文(陸軍省軍事調査部長)より、首謀者たちを自決させるので、勅使を遣わして「死出の栄光」を与えて欲しいとの申し出が、本庄を介してあった。

ところが、天皇はこれにたいへん不満で、「自殺するならば勝手に為すべく、此の如きものに勅使など、以(もっ)ての外なり」と叱責した。

「ヒロヒト、ヒロヒト……」の怪電話

昭和天皇が情報収集のため、騒動のさなかに麹町署(現・千代田区)に電話をかけたという驚くべき証言も存在する。

それは、27日の夜8時のことだった。署長室の非常電話が鳴ったので、たまたま28歳の青年巡査、大串宗次が受話器を取った。すると、

「ヒロヒト、ヒロヒト……」

という声がした。
大串は、電話の相手がまさか昭和天皇だとは思わなかったらしい。ところが、受話器の向こうから、「チンは誰と連絡をよればよいのか」「チンは一体、誰に聞けばよいのか」というつぶやきが漏れ聞こえてきた。(ここまで編集部注)

「戦争回避」のための大命を受け、真っ青になった「主戦派」東條

つまり、対米妥協やむなし、戦争回避というのが天皇の本音だったのであり、組閣の大命を受けた“忠臣”東條陸相の顔色は真っ青だったといいます。元々主戦派だった東條はこの大命を受け、自分の持論を捨てて日米交渉の打開を図ります。その結果、いわゆる甲案・乙案というものをアメリカに提示するところまで漕ぎつけるのです。

しかし、交渉相手のアメリカはそうは受け取りませんでした。主戦派の東條を首相に据えたということは、日本はいよいよやる気だなと、疑心暗鬼に陥ります。日本から妥協案を示しても時間稼ぎ、ごまかしとしか見なくなってしまった。こちらが示した甲案に対して、ハル・ノートという、これまでの交渉をぶち壊しにするような通告が突き付けられるのです。

こんな動画があります。ハル・ノートの当初の案では「満洲を除く」中国全土から日本は撤退せよ、という内容で、在米日本大使もそう理解していた、と説明されています。

 Wikipediaの「中国本土」の項目には、添付の写真を示して、Chinaには広狭二義があることを示しています。中華民国とか中華人民共和国の版図(はんと)としてのChinaと、歴史的に漢民族の地であったChinaです。この写真ではこの歴史的なChinaのことをChina Properとしています。
 この万里の長城以南の漢民族の地チャイナ・プロパーを、日本では古来「支那」と呼んできたわけです。ところが現在では「支那は中国に対する差別語なので使ってはいけない。中国と呼び変えましょう」などと言われ、チャイナ・プロパーを表す「支那」という日本語を使わなくなっているので、余計ややこしくなっています。

チャイナ・プロパー=支那だから、その東は東シナ海であり、南は南シナ海になる。支那の地の一番北にある都だから北京なのであって、さらにその北に「東北地方」があるのも変な話だと気が付きます。
 マンチュリアもモンゴリアも、新彊ウイグル(1944〜46年にはソ連の支援を受けた「東トルキスタン共和国」が存在していた)もチベットも、チャイナ・プロパーではない。しかし現在では、マンチュリアもモンゴリアも、ウイグルもチベットもチャイナ(広義)人民共和国の版図である、とされているわけですね。

 だからハル・ノートは、チャイナ・プロパーから撤兵せよ、と言えば良かったのに、あえてボカした。わざと受け取った方が困惑するようにしたのでしょう。
 ハルその人は、できれば暫定協定案で行きたかった。なので、この対日挑発文書を後世「ハル・ノート」と呼ばれることに、ハル自身は忸怩(じくじ)たるものがあったでしょう。実際にこの文書を起案したのは、デクスター・ホワイトという人物。ルーズヴェルト側近にあまたいたコミンテルンのスパイの一人であったことが後に「ベノナ文書」で明らかになりました。
ハリー・ホワイト - Wikipedia
 もっとも、満州国を否定するものではなかったとしても、汪兆銘政権(日本の傀儡政権)が出来ているチャイナ・プロパーからの撤兵など、日本は吞まなかったでしょうね。

「戦争回避に失敗して内閣総辞職」とはならず、トンチンカンな方向に進んでしまった日本

結局、昭和天皇の意に沿うことはできず、戦争に突入してしまいます。天皇の意に沿えなかったのですから普通ならそこで、内閣総辞職になるところですが、それでは始まったばかりの戦争も負けてしまいます。そこで「不肖東條、国民諸君の陣頭に立って…」とがんばり出したところから、トンチンカンなことになっていく。世に「東條幕府」「憲兵政治」と言われるような独裁が始まってしまうのです。

「格下げ」にされた「文官」岸信介が辞職に応じず、総辞職に追い込まれた東條内閣

その戦争指導も、昭和19年(1944)7月、サイパン島が陥落し「絶対国防圏」が崩壊したことで頓挫してしまいます。岡田元首相(海軍大将)ら重臣は、早期和平を唱えて“東條おろし”に入ります。東條は内閣改造で乗り切ろうとするのですが、そこで思わぬ伏兵に会い、遂に総辞職に至るのです。その伏兵とは、上のニュース映画に「商工大臣」として登場する岸信介でした。彼は内閣が成立したとき商工大臣だったのですが、商工省は昭和18年(1943)11月、軍需省に編入されてしまいます。そして新設の軍需大臣は東條首相兼任でした。商工大臣から無任所大臣、実質的に軍需次官に格下げになってしまった岸は面白くなかったようです。岸は「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし」と東條に進言します。カンカンになって「ならば辞職せよ」と迫る東條首相の要求を岸は拒絶、閣内不一致となります。

明治憲法の下では総理大臣が大臣を罷免することはできなかった

明治憲法の下では内閣総理大臣は「同輩中の首席」として、国務大臣の罷免権を持っていませんでした。そこで例えば、第二次近衛内閣は松岡洋右外相と意見が合わなくなり、総辞職。次の首相には再び近衛に大命が下り、第三次近衛内閣が組織されます。松岡一人を罷免するために、いったん総辞職しなければならなかったのです。その後を継いだ東條内閣も、岸の抵抗で総辞職に追い込まれます。そして東條に再び組閣の大命が下ることはありませんでした。

戦前はいわゆる「軍部大臣現役武官制」によって内閣がつぶれたり、流産したりしたことは有名ですが、こうして文官の「反乱」で内閣が倒壊した例もあるのです。

この機会に、あの大戦争がなぜ避けられなかったのか、80年前の歴史を改めて見直してみたいものですね。

こちらは「あの戦争は何だったのか 日米開戦と東條英機」

平成20年(2008)12月24日にTBS系列で放送されたものです。(了)

 

(編集部より)岸信介氏については、以下の記事があります。

安倍首相が心酔するおじいちゃん・岸信介の戦争犯罪! アヘン取引でブラックマネーを集め戦争を遂行 (2015年8月16日) - エキサイトニュース

 満州を抑える関東軍はこの収入に目をつけ満州国の西隣りに接する中国熱河省へ侵略の兵を進めた(熱河作戦)。熱河にはアヘンの原料となるケシ畑が広がっていたからだ。「満州の背後を固める」というのは口実で、アヘンを求めての進軍だったというのである。消費地も満州国内だけでなく北京、上海、広東、厦門へと拡大していった。

こうして得た莫大なアヘンマネーを岸ら首脳陣は、国家経営や戦争遂行、謀略工作に回す一方、一部を私的に着服していったという。

『細川日記』に出てくる「里見某」は、里見甫という元新聞記者で、中国に渡って里見機関という特務機関を率いていた。実態は、陸軍の依頼でアヘン取引を扱うブローカーだ。中国では「アヘン王」の異名で知られていた。

その里見の墓が千葉県市川市の総寧寺という寺にあるが、墓碑銘を揮毫したのは誰あろう岸信介その人だった。「アヘン王」里見と岸の浅からぬ関係を示す証拠のひとつだ。

安倍-菅-岸田、と安倍一強が続く中、アメリカの言いなりになることしか能がなく「外交で解決する」能力を完全に喪失してしまった日本。総裁選でも候補者たちが口を揃えて「敵基地攻撃能力の向上」「改憲」を叫び、「攻撃的姿勢、威勢の良さ」を競い合う日本の政治の惨状、80年前と似ています。

 

 

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