習志野捕虜収容所に来る前大分(おおいた)にいたドイツ兵の写真展が10月14日から大分で開催されています。
ドイツ兵が見た大分の人々と風景の写真展〜大分県桜ヶ丘聖地から始まる日独交流〜|イベントのご案内|
別府大学では、10月14日(木)から別府大学18号館2階ギャラリーホールにて、「ドイツ兵が見た大分の人々と風景の写真展〜大分県桜ヶ丘聖地から始まる日独交流〜」を開催いたします。本写真展は、第一次大戦中に大分県立第一尋常小学校(現大分市立金池小学校)内にあった、大分収容所に収容されていたドイツ兵俘虜の生活や、兵士らがみた大分の風景や人々の写真を展示します。
写真からは、制約の中でも規則正しい生活を送り、地域の人たちと交流したり、娯楽を楽しんだり、収容所外に出かけて大分の文化を知る機会があったことがわかります。
テレビでも放送されました。
ドイツ人捕虜の子孫が墓参し地元と交流【大分】
ドイツ人捕虜の子孫が墓参し地元と交流【大分】(OBS大分放送) - Yahoo!ニュース
第一次世界大戦中に大分市内の捕虜収容所で亡くなったドイツ兵の子孫が10月14日、墓参りをして地元の人たちと交流しました。来県したのはドイツ大...
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第一次世界大戦中に大分市内の捕虜収容所で亡くなったドイツ兵の子孫が10月14日、墓参りをして地元の人たちと交流しました。来県したのはドイツ大使館の武官カルステン・キーゼヴェッター大佐で10月14日、大分市志手の旧陸軍墓地だった県桜ケ丘聖地を訪れ墓参りをしました。大佐の曾祖父の弟は第一次大戦中に日本軍の捕虜となり大分市金池にあった捕虜収容所で1917年に亡くなりました。大佐は日本の戦没者と共に眠る先祖に花を手向け感謝の意を示しました。
(キーゼヴェッター大佐)「皆さんと一緒に慰霊ができることが日独の国民を結ぶ深い友情の現れです。大分の皆様に心から感謝したいと思います」
キーゼヴェッターさん、昨年1月26日に習志野市役所で行われたドイツ捕虜解放100周年記念行事「ナラシノの記憶-ドイツ兵たちの記録が語るもの-」にも、ご夫婦で参加してくださいました。
ドイツ捕虜解放100周年記念行事「ナラシノの記憶ードイツ兵たちの記録が語るものー」 習志野市 (narashino.lg.jp)
ドイツ兵俘虜収容所講演会大盛況 - 住みたい習志野
1月26日に習志野市役所グランドホールで開催された講演会は会場に(170人定員)参加者であふれ入りきれない人が階段に座りターフビジョンでも鑑...
ドイツ兵俘虜収容所講演会大盛況 - 住みたい習志野
「住みたい習志野」でこれまでに取り上げた捕虜収容所関係の記事もご覧ください。
「俘虜収容所」のブログ記事一覧-住みたい習志野
なお、「ドイツ兵士の見たニッポン」の執筆者Hさんから、次のような面白いエピソードをご紹介頂きました。
大分の収容所について書かれた論文に、習志野収容所にいたフリッツ・ルンプという学者のことが書かれている
大分収容所の詳細についてはこちらをご覧ください。
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/gr01860.pdf?file_id=6369
「八、脱走事件」の中に、脱走した捕虜が遊郭に上がり込んでお楽しみ中、憲兵隊に踏み込まれて逮捕された、という「珍事件」が書かれていますが、その中に習志野収容所にいたフリッツ・ルンプという日本文化研究家に関する記述があります。
遊郭では日本名を記帳のうえに登楼したという。このような日本文化への知識を思うと、(脱走した)少尉自身の高い教養よりも、曹長として俘虜になっていた「大分黄表紙」の作者フリッツ・ルンプフの存在が注目される。かれは、第一次大戦より日本の近代の文芸グループ「パンの会」のメンバーの一人だったからである。「パンの会」では江戸文化の再評価がなされており、メンバーのルンプフも江戸文化には強い関心を抱いていた」
大分の「大脱走」事件の新聞記事です。
大正7年2月11日 東京日日新聞
●俘虜浮れ出す
大分収容所の少尉及び従卒2名
大分俘虜収容所に収容中の予備歩兵少尉キュールボルン(29)、其従卒ナーゲル(26)、 同ダウデルト(30)の3名は、9日午後12時過、収容所の柵を乗り越え遊廓に入込み、春日楼に登楼、遊興し、記名を求めたるに日本文字にて「長野正」「高岡刈一」「中山信吉」と記入し臥床したるが、大分憲兵隊にては直に俘虜の点検を行い、取押えて、歩兵第72連隊の営倉に入れ、10日朝、収容所に於て西尾所長の取調べあり。ナーゲル、ダウデルトの2名は営倉30日、キュールボルンは将校の事故、謹慎を申渡したり(10日、大分電報)。
大正7年3月31日 東京日日新聞
●大分の俘虜浮る
脱柵して妓楼に登る
大分第二俘虜収容所に収容中の兵曹ハインクッヒハーゼン(26)、ルトドルッヒマイエル(26)、レヲンハルト(25)の3名は、30日午前1時頃、降雨を冒して収容所を脱出し、大分停車場より鉄道線路を辿り、かんたん遊廓に到り、打連れて中川楼に登楼したるが、同楼より大分署に届出で、同署よりは憲兵隊に通知すると同時に4名の巡査を派して取押え、憲兵隊にて取調の上、重営倉30日間に処したり(30日、大分電報)。
2回も立て続けにあったのですね。
アジア歴史資料センターにも調書が残っています。
第二の脱走事件では、
「翌30日午前1時30分頃中川楼に登楼せしに、同家にては漁夫ならむと思い」
「外套の頭巾を脱したる時、その俘虜なるに驚き、直ちに巡査派出所及び憲兵分隊に電話にて通報」
「当時彼等の服装は軍衣袴・軍帽なりしも、外套を着し頭巾を被り居たる為、一見普通人と異ならざりしと云う」
「彼等の何れも日本語に通ずるものなし」
などという記述が見られます。
服装は軍服・軍帽だが、外套とフードでわからなかった。日本人の漁夫だと思った。日本語が話せる者はいなかったが、簡単な言葉のメモを持っており、言葉ではドイツ兵とわからなかった、というのです。
第一の脱走事件についても
「当夜、俘虜の服装は軍服に鳥打帽子を被り、少尉は兵卒の外套を着し、兵卒2名は日本傘を携帯せり」
軍服にハンチングをかぶり、番傘など持っているのでドイツ兵とはわからなかった、というのですね。
(編集部より)
フリッツ・ルンプについては、以下の記事もご参照ください。
絵本「バウムクーヘンとヒロシマ」似島ドイツ人捕虜収容所で誕生したお菓子の物語 - 住みたい習志野
https://jdg-chiba.com/about/pdf/kouennroku_1.pdf
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