絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

自画像を描いて

2013-02-13 | 絵のこと
ここ何日か、顔を描いている。
一昨日は自画像も描いた。

以前は、よく自画像を描いていたが、しばらく描かなかった。35歳くらいの時、そっくりに描いた覚えがある。
あまりに良く似ているので、みんなが驚いた。しかし、リアル過ぎて気持ち悪いと思った。
それ以来、あまりそっくりに描くのはやめようと思った。

今回描いてみて、そっくりに描くとそれを見た人の反応が面白いことに気付いた。
「ワアーッ」と歓声をあげるのだ。それは、リアルさに対する驚きでもあるが、楽しさでもあった。
似ていることに対する楽しさ、そうだ、歌の物まねが上手だと、聞いていて楽しい。その類だ。

実は、父を描いてあまりに似たので、自分で笑ってしまった。それは、気持ち悪さではなく心地よさだった。

リアルさは、気持ち悪さを感じることもあるが、楽しい気分にさせることもあると知った。

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クロッキーをしていて、全体をフワーッと掴んだ後、勝負は顔と手と足だと最近は話している。
そのときも、顔に時間をかけると、結構似て来る。しかし、そっくりとは言い難い。
それは、時間的な制約の中で描いているので、それ以上追及できないためもある。
だから、少し似ているだけでも、似ていますねなどと感想が聞かれる。

しかし、顔だけを描き込むようなデッサンで、本人に似ることを目指すなら、このようななんとなく似ているというのではダメだろう。私は、似せるならとことん似せるということをやってみたい。誰が見てもその人以外の誰でもないというものにしたい。
そのくらい厳しい目で追究したい。

最も身近にいる家族でさえ、これは本人であると認めるくらいの似せ方である。
他人が見たら結構似ていると言われても、家族が見たら、これは違うということがある。
家族が見ても、本人だと思えるくらいの似せ方なら本物だろう。

どうせ似せるなら、見る人が似ていることで嬉しくなるようなリアルさを追究したい。

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また、違うことを思い出した。

以前、レオナルドの布のデッサンを模写したことがある。
それを画集からコピーして、鉛筆で描いたのだが、描き終えて見比べたら、どちらがコピーなのか分からなくなった。
どちらがというか、みんなにコピーして配ったので、何枚もコピーがあって、自分の描いた物がその中に紛れ込んで、
どれが自分の描いた物か見分けがつかなくなった。表面を触ってみれば、鉛筆だから分かるのだが、そうすると鉛筆が落ちてしまう。かなり微妙な表現なので、鉛筆が落ちるとその部分だけ、違ってしまうのである。
それで、困ったことがあった。

そのときに、思ったのは、そっくりに描くと、コピーと見分けがつかなくてつまらないということだった。

実は、今回自画像を描いてみて、それと似たようなことを感じている。
「そっくりに近づくとつまらない」ということである。
写真をモノクロでコピーしたのかと思ったという感想をいただいて、ちょっと待てよと思った。
それと変わらないのかと。

だから、父を描いた方は未完成なのだが、未完成であるからこそ面白い。写真とは違う。

デッサンでも、顔と手と足に力を入れて、他はアバウトでフワッと捕まえておけばいいなどと言っている背景には、
そっくりとことん描くと、写真みたいでつまらなくなるという考えがあるのだ。
むしろ、絵の魅力は描く部分と描かない部分があることで、生まれるのではないか。
強調する部分と弱める部分で生まれる。その画家が描く部分を選び出しているのだ。
そこで、個性が出て来るように思う。

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これが、今回自画像を描いてみて、思ったことである。





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