「丕緒(ひしょ)の鳥」小野不由美作(新潮社)を読みました。
「十二国記」シリーズの最新作ですが、サイドストーリーに近いかな?
雑誌yomyomの第六号(2008.3月)に収録されています。ネタバレあります。ご注意ください。
丕緒(ひしょ)は新任の上官から大射の準備を命じられます。
大射とは、鵲(かささぎ)に見立てた陶製の的を投げて射る儀式で、今回の仕事は慶国の新王の即位に伴って行われる重大な仕事でした。
大射で使う的の陶鵲(とうしゃく)を誂えるのが丕緒の仕事。
上官からは趣向をこらしたものを、と言い付かります。
しかし三代続いた無能な女王の治世に失望した丕緒は気がのらぬまま工舎に向かいます。
丕緒が企図を考えているときに「頭が空白になった」というくだりに、小野さん自身の創作にまつわる話を聞いているような気持ちになりました。
(特に十二国記の続編が長い間書かれていないので・・・深読みしすぎ?)
「次をどうしようか、詰まったことは多々あった。だが、そういう場合にも丕緒の頭の中には、あれこれの断片が無数に漂っていたものだ。その中から何かを選ぼうにも気が乗らない。何となく気を引かれて取り出してみても続かない。
思案に詰まるというのはそういうことで、肝心の頭の中に何もない、断片すらなく、綿のような空白しか存在しないという経験は初めてだった。」
民のことを案じる丕緒は、日々の製作にはげむだけの蕭蘭(ショウラン)を現実に背を向けていると思います。
くすくすと笑いながら返す蕭蘭。
「あなたが哀れんでいるおかみさんは、王がどうとかより、今日の料理は上手くいったとか、天気が良くて洗濯物がよく乾いたとか、そういうことを喜んで日々を過ごしているのかも。」
この蕭蘭の台詞で「頭を使うより手を使え」ということわざを私は思い出しました。
丕緒から見れば私もきっと「卑近なこと」で日々頭がいっぱいなのでしょう。
でもそれは「卑近」ではなく、「小さな」だけのこと。
国政の目から見れば小さな世界だけれども、その「小ささ」は意外と侮りがたく、
日々生きていくことは楽勝ではないことも事実。
芥川龍之介の言葉のように、「人生は一箱のマッチ箱に似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わなければ危険である」という感じでしょうか・・・。
自分の生活にかかわってくる「政治」のことは念頭にあっても、まずは手を動かして日々の仕事をこなしていかなければいけない。
蕭蘭の弟子の青江(せいこう)の言葉。
「(蕭蘭は)決して現実に正面から向き合う方ではありませんでした。ただ、だからといって現実を拒んでおられたわけではないと思います。」
人それぞれの、世界との対峙のしかた・・・。
まわりまわって、蕭蘭(しょうらん)の希望したような陶鵲を作る丕緒。
「蕭蘭は何も言わなかったが、同じ気分でいたのだと思った。いや、丕緒が聞こうとしなかっただけだ。かたくなに自分の望みだけを追い、望みを失った今頃になって同じところに辿り着いた。」
自分の頭の中の考えだけでなく、他人の声が聞こえるようになった丕緒にとって、最後の慶王の「耳を傾ける、語り合いたい」という気持ちの伝わりはとてもありがたく、うれしいものだったでしょう。
形状はまったく違いますが、セレモニーのために趣向をこらしたもの、というと花火を思い浮かべました。丕緒が作った陶鵲(とうしゃく)、私も見てみたいです・・・。
yomyom第六号の特集は「ファンタジー小説の愉しみ」。
ほかにも畠中恵さんの「しゃばけ」の若旦那シリーズの一篇「ひなのちよがみ」。
荻原規子さんの読んだ欧米のファンタジー小説の紹介、「ライラの冒険」の著者フィリップ・プルマンのインタビューなど、盛りだくさんで面白かったです。
「十二国記」シリーズの最新作ですが、サイドストーリーに近いかな?
雑誌yomyomの第六号(2008.3月)に収録されています。ネタバレあります。ご注意ください。
丕緒(ひしょ)は新任の上官から大射の準備を命じられます。
大射とは、鵲(かささぎ)に見立てた陶製の的を投げて射る儀式で、今回の仕事は慶国の新王の即位に伴って行われる重大な仕事でした。
大射で使う的の陶鵲(とうしゃく)を誂えるのが丕緒の仕事。
上官からは趣向をこらしたものを、と言い付かります。
しかし三代続いた無能な女王の治世に失望した丕緒は気がのらぬまま工舎に向かいます。
丕緒が企図を考えているときに「頭が空白になった」というくだりに、小野さん自身の創作にまつわる話を聞いているような気持ちになりました。
(特に十二国記の続編が長い間書かれていないので・・・深読みしすぎ?)
「次をどうしようか、詰まったことは多々あった。だが、そういう場合にも丕緒の頭の中には、あれこれの断片が無数に漂っていたものだ。その中から何かを選ぼうにも気が乗らない。何となく気を引かれて取り出してみても続かない。
思案に詰まるというのはそういうことで、肝心の頭の中に何もない、断片すらなく、綿のような空白しか存在しないという経験は初めてだった。」
民のことを案じる丕緒は、日々の製作にはげむだけの蕭蘭(ショウラン)を現実に背を向けていると思います。
くすくすと笑いながら返す蕭蘭。
「あなたが哀れんでいるおかみさんは、王がどうとかより、今日の料理は上手くいったとか、天気が良くて洗濯物がよく乾いたとか、そういうことを喜んで日々を過ごしているのかも。」
この蕭蘭の台詞で「頭を使うより手を使え」ということわざを私は思い出しました。
丕緒から見れば私もきっと「卑近なこと」で日々頭がいっぱいなのでしょう。
でもそれは「卑近」ではなく、「小さな」だけのこと。
国政の目から見れば小さな世界だけれども、その「小ささ」は意外と侮りがたく、
日々生きていくことは楽勝ではないことも事実。
芥川龍之介の言葉のように、「人生は一箱のマッチ箱に似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わなければ危険である」という感じでしょうか・・・。
自分の生活にかかわってくる「政治」のことは念頭にあっても、まずは手を動かして日々の仕事をこなしていかなければいけない。
蕭蘭の弟子の青江(せいこう)の言葉。
「(蕭蘭は)決して現実に正面から向き合う方ではありませんでした。ただ、だからといって現実を拒んでおられたわけではないと思います。」
人それぞれの、世界との対峙のしかた・・・。
まわりまわって、蕭蘭(しょうらん)の希望したような陶鵲を作る丕緒。
「蕭蘭は何も言わなかったが、同じ気分でいたのだと思った。いや、丕緒が聞こうとしなかっただけだ。かたくなに自分の望みだけを追い、望みを失った今頃になって同じところに辿り着いた。」
自分の頭の中の考えだけでなく、他人の声が聞こえるようになった丕緒にとって、最後の慶王の「耳を傾ける、語り合いたい」という気持ちの伝わりはとてもありがたく、うれしいものだったでしょう。
形状はまったく違いますが、セレモニーのために趣向をこらしたもの、というと花火を思い浮かべました。丕緒が作った陶鵲(とうしゃく)、私も見てみたいです・・・。
yomyom第六号の特集は「ファンタジー小説の愉しみ」。
ほかにも畠中恵さんの「しゃばけ」の若旦那シリーズの一篇「ひなのちよがみ」。
荻原規子さんの読んだ欧米のファンタジー小説の紹介、「ライラの冒険」の著者フィリップ・プルマンのインタビューなど、盛りだくさんで面白かったです。