Straight Travel

日々読む本についての感想です。
特に好きな村上春樹さん、柴田元幸さんの著書についてなど。

「最後の物たちの国で」ポール・オースター著(柴田元幸訳)白水社

2005-07-30 | 柴田元幸
「最後の物たちの国で」ポール・オースター著(柴田元幸訳)白水社を読みました。
住む場所も食物もなく、盗みや殺人がもはや犯罪ですらなくなった国に、アンナは行方不明の兄を捜して旅立ちます。この作品はアンナが旧友にあてて、自分の歩んできた道を書簡にしたためる形式で描かれています。

常に死を意識しながら、一分たりとも気を許せない日々。すべてが刻々と姿を変え、生きる術さえ見つけられずなりゆきにまかせるしかない国。
架空の舞台でありながら現実の国を描いたような、リアリティのある作品です。
作中でアンナが「生きるためには自分を殺さなければいけない。」と語る場面があります。このパラドックス・・・。それでも人は生きつづける。生き延びる。
このような国で生きることを思えば、私の現実世界での悩みなどなんてたわいもないことだろうと思ってしまいます。
一番心が痛んだのはアンナの赤ちゃんが流産し、サムと離れ離れになった場面。

オースターは重苦しい世界を描きながら、決してそれだけではなく温かい子供時代の記憶や、時折おとずれる他人とのやさしい邂逅も巧みに織り交ぜています。
それがこの作品を単なる「世界への嘆き」にしていない大きな理由ではないかと感じました。



「シティ・オヴ・グラス」ポール・オースター著(角川書店)

2005-07-30 | 柴田元幸
「シティ・オヴ・グラス」ポール・オースター著(山本楡美子・郷原宏訳)角川書店を読みました。
深夜。孤独な作家クィンのもとにかかってきた一本の間違い電話。
探偵と誤解され、ほんの好奇心から、クィンは探偵になりすますことにします。
男を尾行するうちクィンのなかで何かが変わっていきます。
この作品はオースターのデビュー作であり、ニューヨーク三部作の第一作目でもあります。

「尾行する」というテーマは二作目の「幽霊たち」にも通じるものがあります。
「追う立場」であるはずの自分が、「追われるもの」(尾行する対象)に行動を規定され、追われるものの心理を考察するうちに、自分がとりつかれてしまう。
この小説では、本名のクィン、クィンのペンネームであるウィリアム、ウィリアムが描く小説の主人公ワーク、そしてクィンがなりすます探偵ポール・オースター・・・といくつもの「自分」が重なり合います。
表題の「ガラスの街」はいろいろな意味を含んでいるのでしょうが、私としては「鏡の街」という意味合いを強く感じます。読み進むうちミラーハウスのようにめまいのする感覚があり、どれが本当の自分なのか?それどころか「本当」などないのではないか?と疑問が湧いてきます。
ピーターの話はどこまで「本当」なのか?探偵オースターは「本当」にいたのか?
クィンの迎えるラストはあまりにせつなく、さびしかったです。




「生半可な学者」柴田元幸著(白水社)

2005-07-28 | 柴田元幸
「生半可な学者」柴田元幸著(白水社)を読みました。
東大英文学者の講談社エッセイ賞を受賞している作品です。
雑誌に「時事英語」のタイトルで連載したものを収録、というと堅く聞こえますが、
英語と日本語による文化の違いなどをわかりやすく織り交ぜた内容で笑いながら一気に読んでしまいました。
92年初版ですが、時の流れをあまり感じさせない楽しいエッセイです。
たとえば、英語では「小さい家」を全面的に肯定するのに対し、日本語では「狭いながらも」と限定して表現したほうがより幸せがリアルに響くという考察。
また、「肉じゃが」と「potate&meat」の違いでは、「「肉じゃが」は肉が神の恩寵のようにちょっとだけ顔をみせる、たとえるなら肉じゃがじゃがじゃがじゃがじゃがであるのに対し、英語の「potate&meat」といえば明らかにステーキのことである」など、なるほどと思える表現の違い。
英語に見られる外来語(フランス語やドイツ語)の話も面白かったです。
柴田先生のところどころのつっこみも楽しく、ほかのエッセイもぜひ読んでみたいと思いました。

「リヴァイアサン」ポール・オースター著(柴田元幸訳)新潮社

2005-07-21 | 柴田元幸
「リヴァイアサン」ポール・オースター著(柴田元幸訳)新潮社を読みました。
一人の男が道端で自作の爆弾が暴発し、死亡します。
アメリカ各地の自由の女神像を爆破し続けた「自由の怪人」であることに、主人公は気付きます。
そして、それが自分の親友サックスであることも。
サックスはなぜそのような行為にいたったのか。
主人公とサックスの家族や友人をからめながらその経緯があかされていきます。

これは主人公が時系列に物事を進めていく小説ではなく、複数の人物がそれぞれの行動や考え方、誤解をもからめながら物事を描いた作品。
自覚している自分、演じている自分、人から見られている自分、密接にかかわってくる他人。
世界(の認識)は決してひとつではないということが強く感じられます。
同著者の「ムーンパレス」には「物語におわりというものはない。好むと好まざるとにかかわらず物語は続いていく」という意味の文章がありましたが、同じ事を思いました。

サックスが非常階段から転落してからの心境の変化は正直私にはあまり理解できませんでした。
彼にとっての切実な理念・哲学があってやがてファントムオブリバティに至ったのだということはわかるのですが・・・。

この作品に登場する芸術家マリアはフランスのソフィ・カルがモデルになっているそうです。
色によるダイエット、見知らぬ他人を尾行した記録など、芸術というか遊びというかとにかく風変わりで面白い女性です。
この作品で一番印象に残った人物でした。




「ムーン・パレス」ポール・オースター著(柴田元幸訳)新潮社

2005-07-14 | 柴田元幸
「ムーン・パレス」ポール・オースター著(柴田元幸訳)新潮社を読みました。
人類が始めて月を歩いた夏、主人公は唯一の血縁である伯父を失います。
主人公は人生を放棄し始め、餓死寸前のところを友人に救われます。
体力が回復すると主人公は奇妙な仕事を見つけます。そのうちに主人公は偶然に自分の家族の謎を知ることになります。

この作品は随所に「月」が登場します。表題は大学のそばの中華料理屋の名前。
伯父の参加するバンド、シラノドベルジュラックの月旅行、エフィングの友人の絵画、ラストシーンに主人公がたどりつく場所。
主人公は現実を生きながらもどこか月の住人のような、ほかの人と重力が違う場所を生きているような趣もあります。
全体を通じて感じたのは、いつもすれ違ってしまう人々の姿。
孫を知らずに死んだエフィング、父親の名乗りをあげた直後に死にいたるバーバー、そしてもっとも愛していたキティを取り戻す時期を逃した僕。
「現実は自分が聞きたいと思うときには違う言語でしゃべっている」という主人公のことばがそれを端的に表しているように感じます。
作者ポール・オースターはこの作品を「自分の初めて書いたコメディ小説だ」と語っているそうです。
確かにこの作品は思わず笑ってしまう場面もたくさんあってひきこまれます。
エフィングの食事風景や、バーバーの身なりなど。
主人公が極貧生活の中で卵を床に落とし、「大いなる太陽がたった今死に絶えたような思い」になるのは、かわいそうと思いつつつい噴き出してしまいます。
しかしこの作品はそれだからこそ全体を包むせつなさ、郷愁や切実さがきわだっているように感じます。登場人物たちがカラフルで、全体的には不思議な透明感がある・・・。
面白くて、かなり私好みの作品でした。