Straight Travel

日々読む本についての感想です。
特に好きな村上春樹さん、柴田元幸さんの著書についてなど。

「闇の奥」ジョゼフ・コンラッド著(黒原敏行訳)光文社

2010-03-17 | 外国の作家
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「闇の奥」ジョゼフ・コンラッド著(黒原敏行訳)光文社を読みました。
船乗りマーロウはかつて、象牙交易で絶大な権力を握る人物クルツを救出するため、アフリカの奥地へ河を遡る旅に出ました。募るクルツへの興味、森に潜む黒人たちとの遭遇、底知れぬ力を秘め沈黙する密林。
ついに対面したクルツの最期の言葉と、そこでマーロウが発見した真実とは。
光文社古典新訳シリーズで出版されているもの。
私はこの訳で初めて読んだので既訳との比較はできないのですが、訳者あとがきによるとマーロウの若い語り口を大事にした、また読みやすさを重視した訳になっているようです。
原題は「Heart of Darkness」。
「闇の奥」、いい題名です。

読んでいて作品の世界に潜っていく感じがしました。
それは文章がとても美しいから。

「ほかの者は眠っていたのかもしれないが、私は起きていた。起きて耳を澄ましていた。河の重い夜気から人の唇を介さず形作られてくるかのようなこの話 - それが掻き立てるかすかな不安の正体を解き明かす鍵となる言葉が現われるのを待っていた。」

マーロウは友にアフリカの魔境の話を語ります。

マーロウはアフリカへ向かう途中に「同義的な理念を引っさげてやってきた」というイギリス人クルツ氏の噂を聞きます。
現地では一介の会社員クルツ氏が神のようにあがめられ、「教化」を掲げながら残虐な行為で村を支配し象牙を搾取していました。

クルツ氏の最期の言葉。「The horror!」
それは世界に対して?自然?それとも人間、自分に対して向けられた言葉?

アフリカの暗い密林、そして人の心の闇の奥が重なります。

「ああ、なんて素晴らしい!」ショーン・ウィルシー著(坂野由紀子訳)新潮社

2010-03-11 | 村上春樹
「ああ、なんて素晴らしい!」ショーン・ウィルシー著(坂野由紀子訳)新潮社を読みました。
ママの親友だったはずの女ディディに大富豪のパパを奪われ、家庭は崩壊。継母になったディディにいじめられ、寄宿学校に追いやられた僕に待っていたのは、おかしな生徒たちばかり。僕はイジメに走り、ドラッグを覚え、本当にダメになりかけます。
雑誌「McSweeney’s」の編集者がくぐり抜けた今までを描いた半自叙伝です。

以前はテレビ出演を、その後ゴルバチョフやダライ・ラマにも会い、ノーベル平和賞の候補にあがるような平和活動をしているママ。ふさぎがちで自殺願望がある一方でプライドが高く、マスコミに注目されることが大好き。(存命)
バター会社を経営する仕事熱心な大富豪で、自家用ヘリであちこち飛び回り、数々の著名人とのつきあい、数々の女性との浮気、その葬式には「サンフランシスコ中が集まった」といわれるほどのマッチョな人物。(著者がこの本の執筆中に他界)
その生い立ちからしてケタはずれ。

両親の離婚後ひきとられたパパの家での継母(ママの元親友。こちらも存命)のいじめ。
追いやられた全寮制学校では成績不振で退学、その後二校を転々。
彼が厳しい現実をのりきるために口にする言葉「Oh The glory of it all(ああ、なんて素晴らしい!)」が表題になっています。
最後にいきついたイタリアのアミティ校で、初めて「とりつくろわないで感情を出していい」ことを知った僕。

村上春樹さんが「まるでディケンズの小説のようだ」と評したこの本。
でも小説ではないのです!事実は小説よりも奇なり。
まだ存命中の人物が多いので、辛らつに書かれている側からしたら「自叙伝」というより暴露本と思ってしまうかも。でも基本は他者(主にディディ)への攻撃ではなく、著者自身の心の葛藤をつづった本です。少年・青年時代の性にまつわる恥かしい過去も赤裸々に描いていて、それを出版してしまう著者の胆力に脱帽です。

本書を読んで一番心が痛むのは、僕をいじめてきた継母ディディと、それを黙認してきたパパ。そして「パパの理想とするような息子たれ」と権力を振るわれてきたパパと僕との関係です。
継母と継子の関係とは、やはり感情より「理性の愛」が必要なものなのでしょうか。継子に対して、半分流れている夫の元妻の面影が見え嫌悪感を覚えてしまうことは理解できなくはありません。
でも「だから自分と血がつながった子しか愛せない」というのは、貧しく悲しいことです。
そして同時に継母が継子とうまくいかない話というのも昔からずっとある問題です。
難しい。

アミティ校で自分の今までを振り返り、「水漏れしているみたいに」泣きじゃくった僕。

「感情があふれ出した。僕はある事実に気づく。
、、、、、、、、、、、、、、
ママとパパは僕を愛していない。

そして僕は泣き出した。それは真実だった。自己憐憫ではない。
ママとパパが愛したのは、いつも自分たちだったのだ。僕にできたことは、二人のうちの一人を敵とみなすことで、もう一人を味方につけることだけだった。」

パパとママは僕を愛していない。でも僕は愛して欲しい。
読んでいて一番胸が痛くなった文章です。

その後ニューヨークで自分で大学を見つけ、職を得、伴侶を見つけた著者。「自分で自分の人生を建て直し」、自分の今までを振り返って書いた処女作がこの本です。

本としては「自分の数奇な生い立ちとも折り合いをつけつつある」という方向で終章を迎えています。
でも個人的には35歳(現在は39歳)でそこまで人間できてるかな・・・という疑問もあります。一旦理性では受け入れたとしても、これからも著者には何かのきっかけで、何度もつらい記憶や感情がまざまざとよみがえる瞬間があると思います。著者の3歳の息子さんと過ごす中で、「嫌な時のパパ」のような対応を自分がしてしまい、自身が怖ろしくなる経験もするかもしれません。そういうことは「関係者が亡くなったから全部チャラ。終わり」というものではないので。
願わくは著者のこれからの仕事や家庭が穏やかで安定したものであるように、本当に祈っています。

「誠実な詐欺師」トーベ・ヤンソン著(富原眞弓訳)筑摩書房

2010-03-02 | 外国の作家
「誠実な詐欺師」トーベ・ヤンソン著(富原眞弓訳)筑摩書房を読みました。
雪に埋もれた海辺に佇む「兎屋敷」と、そこに住む老女性画家アンナ。
アンナに対して、従順な犬をつれた風変わりなひとりの娘カトリがめぐらす長いたくらみ。しかしその「誠実な詐欺」は、思惑とは違う結果を生んでいきます。
改訳のうえ出版された文庫版で読みました。内容について触れますのでご注意ください。

愛想が悪く礼儀正しさもないため人々から敬遠されていますが、計算に天賦の才を発揮する「誠実な」カトリ。カトリはあるきっかけで解雇され、弟マッツと自分の生計をたてるために、兎屋敷で住みこみで働くために計画をたてます。
屋敷の女主人アンナは親の遺産がありお金に不自由せず、人の悪口を言ったことがない画家。ふたりとマッツと犬はひとつの屋敷で一緒に住むようになり、3人と一匹の関係はいやおうなく変わっていきます。

ふたりだけの密な姉弟関係に入り込む、アンナとマッツの本を介した親しい関係。
カトリの犬をカトリからひきはなしたアンナのたくらみ。

数字、命令、利権。あいまいさを考慮しない価値観で生きてきたカトリ。
みんなに頼られはするものの愛されてはいない。
妄信、怠惰、つきあい。人の悪意を考えず、金の計算に無頓着で芸術の世界に生きてきたアンナ。お人よしでだまされやすいけれど一定の地位を築いて暮らしている。
ふたりは当然のごとく反発しあいますが、でも次第にお互いの価値観が自分たちに侵食してくるのも感じます。

「カトリ、四六時中不信感に苛まれるより、騙し取られるほうがずっといいわ。」
「でも手遅れですよ。あなたはもう人を信用しなくなっている。」

どちらの生き方や考え方が正なのではありません。
個人的には今まで「お嬢さん」で生きてきたアンナが、老年になってから「人への懐疑」を植えつけられるのは読んでいて心が痛むものがあります。
でも変わってしまったものはもう変わったままでいくしかない。
最後、アンナが「失意」ではなく新しい目で森を見るようになるのは救いです。

「モモ」ミヒャエル・エンデ著(大島かおり訳)岩波書店

2010-03-02 | 児童書・ヤングアダルト
「モモ」ミヒャエル・エンデ著(大島かおり訳)岩波書店を再読しました。
町はずれの円形劇場あとにまよいこんだ不思議な少女モモ。
町の人たちはモモに話を聞いてもらうと、幸福な気もちになるのでした。
そこへ、「時間どろぼう」の男たちの魔の手が忍び寄ります。

私がこの本を初めて読んだのは中学一年生のとき。
その当時「モモちゃんとアカネちゃん」という児童書のイメージが強かった「モモ」という名前。友人に薦められた本でしたが「(装丁からいっても)こどもの本でしょ・・・」とあまり気もすすまず読んだのですが、どかん!とやられました。

灰色の男たちは限りなく怖ろしく、時間の花は限りなく美しい。

それ以来大好きな本なのですが、今回の再読は久しぶり・・・大学の時以来?
社会人になって、母親になって。
毎日時間に追い立てられている自分にこの本はしみました。
子供の本だけれど、大人が読むと身につまされる。
やさしい言葉で深い真実が語られている。
本当にすばらしい本です。

「時間とはすなわち生活なのです。そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって、なくなってしまうのです。」

私は「今」に体はあるけれど、心は「今」にない。
今目の前にあるごはんを食べながら、こどもの話にもうわのそら。
今日人に言われた嫌な言葉(過去)を思い出している。
今目の前にあるごはんを食べながら、なまへんじ。
心はこの後のお風呂や、寝かしつけ(未来)を考えている。
過去に囚われ、未来を思い煩い、今目の前にあるこどもと食べるごはん(現在)を味わっていない。
そんなふうに「今」の時間を味わっていない生活をしている自分。
「効率的な段取り」ばかりを考えて、味わわないで過ごした時間は灰色の男にとられてもう私の元には戻ってきません。

時間の花は、自分でしっかりとつかまえていなきゃなぁ・・・。

映画「ノルウェイの森」監督インタビュー

2010-02-22 | 村上春樹
本日(2010.2.22)の朝日新聞の朝刊中面の「GLOBE」に映画「ノルウェイの森」の監督を務めるトラン・アン・ユンさんのインタビューがのっていました。
撮影監督は台湾のリー・ピンビン、音楽はレディオヘッドのジョニー・グリーンウッドだそうです。(「海辺のカフカ」で、カフカ君がアルバム「A」をヘビーリピートしていたこと思い出します)

監督のインタビューの抜粋。
「舞台は40年前の日本だが、当時の曲でもあまり有名でないものを多く使いたい。だれもがわかる曲だとある意味、美化されたノスタルジーになってしまうが、傷口がまだ開いたままであることを表現したい。」

直子の物語は「おじさんたちの世代が若かったときの思い出話」ではなく、今現在に生きる誰の感情にも訴えうる、病と、死の物語。

私はトラン・アン・ユン監督の映画は「青いパパイヤの香り」しか見たことはないのですが、映像がとても美しかったことが強く印象に残っています。

「伝えたいことは感情で、それは日本人と外国人で違うのではなく、一人一人で異なるものだ。まだ編集作業中で作品を客観視することはできないが、筋が通った、強い作品を作ったとは思う。」

映画スタッフは国際的なメンバーですが、「グローバル」という言葉ではない、親密な作品を見せてくれそうで、今から公開が楽しみです。

「タール・ベイビー」トニ・モリスン著(藤本和子訳)早川書房

2010-02-19 | 外国の作家
「タール・ベイビー」トニ・モリスン著(藤本和子訳)早川書房を読みました。
カリブ海に浮かぶ雨林の生い茂る小島で、二人は偶然に知り合う。
白人の大富豪の庇護を受けて育ちソルボンヌ大学を卒業した娘・ジャディーンと、黒人だけに囲まれてフロリダの小さな町エローで育った青年・サン。
異なるがゆえに惹かれあいはげしい恋におちていくふたり。
そして異なるがゆえにすれちがい相手を深く傷つけていく。
黒人同士でありながら決定的なちがいを持ち合せた二人の恋の行方。
藤本和子さんの訳ならばはずれはないだろうと手に取ったのですが、著者はノーベル賞作家だったのですね・・・シラナカッタ。

ハイチ、閉ざされた「騎士の島」の濃密な空気。島をおおいかくす霧を独身の叔母の髪の毛にたとえるなど、自然を描くにもさまざまなイメージがかさねあわされている読み応えのある文章です。
初めは文章に慣れないとちょっと読みにくいのですが、4章のサンが登場するあたりから作品の世界にはまってきます。

サンとジャディーンのふたりの空間はとても官能的。

「彼女は答えず、彼も脈拍が数打する間、もう何もいわなかった。そして、それから彼はやった。足裏に人差し指を置いて、そのまま、そのまま、そのままにした。
「やめてちょうだい」と彼女が言うと、彼はやめたが、それまで指のあった足の谷間に、人差し指の印象は残った。布製の靴の紐を結んだあとでさえ。」

ふたりが触れている場所はわずか指一本なのに、とてもエロティックな場面です。

それからもうひとつ印象的なのは、サンがジャディーンに目をつぶらせるところ。

「何が見える」
「何も見えない」
「想像してみるんだ。暗闇にふさわしいものを。闇は夜の空だと考えてごらん。そこにある何かを想像してみる。」
「星ひとつ?だめ。見えない。」
「そうか、見ようとしなくてもいい。それになろうとしてみるんだ。なったらどういう気持ちか知りたいか?」

こんな風に話をされたら女性はおちます!

しかしふたりの燃え上がる想いは、ふたりの生い立ち、価値観の違いから次第に齟齬をきたしていきます。

ジャディーンの育ての親であるシドニーとオンディーン夫妻、その主人のヴァレリアンとマーガレット夫妻、ヴァレリアン夫妻の息子で、実家によりつかない息子のマイケル。
さまざまな年代、職業、人種の人物がそれぞれの立場でものを考え、十字架館につどっています。その屋敷がアメリカという多人種の国を表しているひとつのもののようにも思えてきます。

あとがきでは訳者の藤本さんが表題の「タール・ベイビー」の話(民話のようなもの)を紹介しています。



「うたかたの日々」ボリス・ヴィアン著(伊東守男訳)早川書房

2010-02-15 | 外国の作家
「うたかたの日々」ボリス・ヴィアン著(伊東守男訳)早川書房を読みました。
夢多き青年コランと、美しく繊細な少女クロエの恋。だがそれも束の間、結婚したばかりのクロエは、肺の中で睡蓮が生長する奇病に取り憑かれていました。
パリの若者たちの姿を描いた著者の代表作。新潮社版では「日々の泡」という題名で出版されています。私が読んだ早川の文庫の解説は小川洋子さん。
内容について触れますので未読の方はご注意ください。

音楽をかなでるとカクテルができるピアノ。水道管を伝ってパイナップル味の歯磨き粉を食べに来るうなぎ。キッチンに住むハツカネズミ。寒さをしのぐために鳥かごを首の下に入れて歩く通行人。鳩の首をもつスケート場の係員。

「コランは黄色いシルクのハンカチで風向きを測った。すると、ハンカチの色が風に持ってかれ、不規則な形をした大きな建物の上に乗っかった。すると、それがモリトール・スケート場だった。」

シャガールの絵のように、自由に飛び交うイメージの交差。
小説ってこんなに遊べるジャンルなんだ!と読んでいて楽しくなります。

クロエとコランが初めてデートする場面。

「私に会えてうれしい?」
「うん、もちろんさ!・・・」
二人は、最初の歩道沿いに、わき目もふらず歩き始めた。小さなバラ色の雲がひとつ、空から降りてきて、彼らに近づいた。
「行くぞ」と雲がいった。
「行こう」とコラン。
雲が二人をすっぽりつつんだ。中に入ると熱く、シナモン・シュガーの味がしていた。

映画「アメリ」を思い出させるような小さな恋の始まりです。

しかし結婚した彼らにしのびよる影。クロエの肺の中には睡蓮の花が。
コランは彼女の寝室を「睡蓮をおっかながらせるために」たくさんの花で埋め尽くします。
病、次第に進む困窮、友の殺人。
かわいらしい恋の前半と後半とは激しいコントラストを成しています。

最後の葬儀の場面は悲劇、そして喜劇。

ほかに類をみない、ヴィアン独自の世界が描かれている小説です。

「二つの時計の謎」チャッタワーラック著(宇戸清治訳)講談社

2010-02-12 | 外国の作家
「二つの時計の謎」チャッタワーラック著(宇戸清治訳)講談社を読みました。
モンコン男爵の放蕩息子チャクラが、床屋の老人を殴った傷害事件を調べるサマイ警部は、同じ夜に発生した二つの事件に突き当たります。
チャクラの出資する輸入品販売店の共同経営者の縊死。
チャクラの懐中時計を握ったまま運河で発見された娼婦の溺死体。
状況からチャクラの関与が疑われましたが、現場で発見された二つの時計は、同じ時刻、九時五五分を指して止まっていました。三つの事件はどう結びつくのか。
醜聞を恐れる男爵はサマイ警部の父親にまで働きかけ、警察へ圧力をかけます。
さらに中国マフィアの不穏な動きも。
1932年、立憲革命直後のバンコクを舞台に、サマイ警部と相棒ラオーの活躍を描くミステリー小説。島田荘司さん選の「アジア本格リーグ」シリーズの第二巻です。

今までいろいろな外国文学を読んできて、一番名前が覚えづらいのはロシア文学だなーと思っていたのですが、タイ文学がそれをうわまわるとは!
バンチョン・ケーヌパン警察少尉、モンコンシンパイサーン男爵・・・本書ではわかりやすく縮めて表記してありますが、原文に忠実に訳してあったらきっと途中で挫折していたことでしょう。
少し難点をいえば、直接のストーリーの流れには不要な注釈が多い気がしたのと、「今日はドロンは勘弁してくれ」「人力車(←これはトゥクトゥクのことかしら?)」などの訳文が古い感じがしました。(本自体は2007年に書かれ、昨年9月に邦出版されたものです。)

警察官でありながら私服で隠密調査をするサマイとラオーは、ハードボイルドな探偵的。格闘シーンもかっこいいです。
話の流れとしてはごくスタンダードな謎解き小説ですが、それだけではなくタイ人街や中国人街、運河、さまざまなタイ料理、とオリエンタルな雰囲気をたっぷりと味わえる本です。


「太陽のパスタ、豆のスープ」宮下奈都著(集英社)

2010-02-11 | 日本の作家
「太陽のパスタ、豆のスープ」宮下奈都著(集英社)を読みました。
暗闇をさまよう明日羽(あすわ)に、叔母のロッカさんはリストを作るよう勧めます。溺れる者が掴むワラのごとき、「ドリフター(漂流者)ズリスト」。明日羽は岸辺にたどり着けるのか、そこで、何を見つけるのでしょうか。
宮下さんの最新作、内容について触れますので未読の方はご注意ください。

宮下さんの作品らしく、今回もおいしそうな食べ物がキーワードになっています。
郁ちゃんの豆のスープ、お兄ちゃんのホットケーキ。
六花さんのまずい料理でさえ、ちょっと味見してみたい。

自分のしたいこと、やりたいことをつづるドリフターズリスト。
リストをつくる過程で自分のいままで、これからを見つめなおす明日羽。
これだけだとちょっと「自己啓発本ぽいな」と感じていたのですが、「それって不可能リストじゃない?」と、途中でちゃーんと桜井さんが落としてくれます。

リストは自分を鼓舞しやる気にさせてくれる。
自分へのきっかけ、チャンス、希望。
でも逆にそれに囚われすぎると、自分自身を縛るものにもなりうる。
「宣言」は物事を成就させたいときに重要なものですが、それに届かないときには自分で自分にストレスをかけてしまう要因にもなり得る・・・なかなか難しいものです。
京の言うように、自分を「やわらかく」して自分の選びたい方向に行くというゆるやかさが長続きのコツなのかな。

明日羽にとってはとても悲しいできごとでしたが、逆に彼女にとって、今までの自分を見つめなおすきっかけとなりました。自分が変化すべき時が、初めはマイナスの顔をして現われたということですね。そのままマイナスの方向に進んでいかなかったのはもちろん明日羽の資質もあるでしょうが、まわりの人々がとても温かい素敵な人たちだからだったのだろうなと感じました。

余談ですが、年の近い姪と風変わりな叔母という設定が、吉本ばななさんの「哀しい予感」に似てるなと思って読んでいたのですが、叔母の六花さんが郁ちゃんに初めて会ってうろたえる場面・・・ふたりの続柄は、作品には描かれていませんがもしかして???

「結婚のアマチュア」アン・タイラー著(中野恵津子訳)文藝春秋

2010-02-08 | 外国の作家
「結婚のアマチュア」アン・タイラー著(中野恵津子訳)文藝春秋を読みました。
結婚30周年を祝うパーティが開かれた晩、「それなりに楽しい結婚生活だったわよね」と振り返るポーリーンに、「地獄だった」と夫のマイケルはつぶやく。それはいつもの夫婦喧嘩のはずだったのだが・・・。
どこにでもいる夫婦とアメリカの60年間を描いた物語です。

楽天的で感情の起伏が激しく楽しいことが好き。
「女性によくあるタイプ」のポーリーン。
口下手で慎重で現実的、分別のある理性派。
「男性によくあるタイプ」のマイケル。
惹かれあって結婚したふたりだけれど、次第にそのふたりの性格の違いが夫婦生活にひずみをもたらしていきます。

「ポーリーンはほんとうにいい人間だ。まあ、自分もそうだが、とマイケルは思った。ただ、二人いっしょになると、よくなくなる。というか・・・つまり、マイケルが言いたいのは・・・優しくないというか。お互いに対して必ずしも優しくなれないのだ。なぜそうなのか、マイケルには説明できなかった。」

読みながらポーリーンとイメージがかぶったのが「アンパンマン」のドキンちゃん!
はたから見ていると、性格がカラフルで女性らしくてかわいらしいのだけれど、そばにいる立場(身内)だったらキツイな~。息子も「母は「奥様は魔女」みたいな能天気なキャラクターではなかった」と語っていますしね。
ちなみに色気は足りないけれど、一人で何でもできる女性アンナはもちろんバタ子さん。

まわりの夫婦はみな仲良く、家族はみな結束しているように見える。
けれどうちの夫婦は、家族は違うと悩む。

この本に描かれているどの人も、どの悩みもできごとも、自分や、自分のまわりの人たちと少しずつ似ていて身につまされます。
橋田ドラマなみに延々と描かれる日常生活。でもこの小説の主眼は「エゴのぶつけあいによる人間関係のドロドロ」にあるのではありません。
マイケルの台詞「父さんたちはできるだけのことをしたんだ。ほんとうに精いっぱいな。俺たちは、ただ・・・未熟だったんだよ。どうやっても物事のコツがわからなかった。努力しなかったわけじゃないんだ。」
この台詞に表れているように、善意からやったことでも素直に受け入れてもらえなかったり、誤解したりすれ違ったり、そういう各人による物事の受け止め方の違い、相性、この世のままならなさを描いていてなんだかせつなくなるのです。

最後にポーリーンを回想するマイケルの姿が印象的です。
穏やかで幸せなアンナとの日々より、うまくいかずに格闘したポーリーンとの日々が後から「充実」という印象すら放って思い出される不思議。

すったもんだあっても死ぬ前に笑えれば全てよし?
私も結婚の、人生のアマチュアです。
私も死ぬ前に今を振り返って微笑めるように、明日からも健闘の日々!

「南フランス日時計街道」上野秀恒編・解説(クロック文化研究所)

2010-02-05 | エッセイ・実用書・その他
「南フランス日時計街道 壁に描かれたアートたち」上野秀恒 編・解説/ 熊瀬川紀 写真(クロック文化研究所)を読みました。
プロバンス、アルプ、コート・ダジュールはそれぞれ日照量が多い地方。当地を何度も訪れ日時計を1000枚以上の写真におさめた熊瀬川氏の写真の中から約100点を選び、特徴的なものに解説を加えた写真集が本書です。
旅人に時を知らせ、その意匠で目を楽しませてくれる。それぞれの家のさまざまな味付けを見せる南フランスの日時計。
巻末には日時計の写真のみがずらりと並べられ、図鑑のような趣で見ているだけで楽しいです。目盛りだけを打ったシンプルなものから、鳥や蔓草模様、十二星座を描いたものなど意匠はさまざま。私はつりがね草が描いてある紫色の日時計が素敵だなと思いました。

昔は機械式時計は故障も多く、日時計と併用して使われていたんだとか。
確かに、雨の日はあったとしてもお日さまに故障はありませんもんね。
7~4時(ものによっては6時くらいまで)の目盛りのみで用を成せた昔の時間感覚に思いをはせるのも楽しいです。

日本だと地面においてある日時計はよく見ますが、南仏のように壁に描かれてある日時計はあまり見たことがありません。もしいつか旅行することがあったら、ぜひ見てみたいです。

週末うちのベランダに棒をたてて、こどもと日時計つくってみようかな。


「かのこちゃんとマドレーヌ夫人」万城目学著(筑摩書房)

2010-02-01 | 日本の作家
「かのこちゃんとマドレーヌ夫人」万城目学著(筑摩書房)を読みました。
かのこちゃんは小学一年生の元気な女の子。
マドレーヌ夫人は犬語を話す優雅な猫。
その毎日は、思いがけない出来事の連続で、不思議や驚きに充ち満ちています。
万城目さんの最新作です。

「かのこ」ちゃんの名前は「岡本かのこ」からとったのかと思いきや、実は・・・。
万城目さんの既作品とのつながりが連想される素敵な命名です。

かのこちゃんとすずちゃんの「大人のお茶会」、男子女子の「難しい言葉勝負」など、子供らしさいっぱいでおかしくてとてもかわいらしかったです。私がもし勝負するなら?・・・「まこもたけ」かな。
「フンケーの友」もすごい。本当にあんなこと、トイレでできるの???

本作で描かれる「不思議」はホルモーや鹿男とは違って、いかにも日常にひそんでいそうな雰囲気があって、面白かったです。
別れの9月はもらいなきしてしまいました。

出版されてまだ間もないので、ネタバレはこれくらいにしておきます。
新書なのでお財布にも優しいのがうれしいところ。
装丁はクラフト・エヴィング商会です。


「料理人」ハリー・クレッシング著(一ノ瀬直二訳)早川書房

2010-02-01 | 外国の作家
「料理人」ハリー・クレッシング著(一ノ瀬直二訳)早川書房を読みました。
ヴィレッジ・ヴァンガードで見かけたPOP。「これ一作に根強いファンがいます!」
惹かれて文庫を買ってしまいました。・・・で、実際に読んで正解。面白かったです!

舞台は平和な田舎町コブ。自転車に乗りどこからともなく現われた料理人コンラッド。
街の半分を所有するヒル家にコックとして雇われた彼は、舌もとろけるような料理を次々と作り出します。やがて奇妙なことがおきます。彼のすばらしい料理を食べ続けるうちに、肥満した者は痩せ始め、痩せていたものは太り始めたのです。

人をぐいぐいひっぱっていくストーリーテラーぶりがすばらしい著者・クレッシングは、覆面作家だそうで、正体はいまだ明かされていないそうです。いったい誰なのでしょう?
しかしこのカバー絵、平井堅さんに似てるよな。

彼がまずつくったのは朝食のマフィン。
奥様が召使に聞きます。「このマフィンのお代わりはないのかしら?」

そして次々と彼が作りだす素晴らしい朝食、ディナー、野外料理。
その料理の腕と巧みな弁舌で屋敷内で、村で、のしあがっていくコンラッド。
彼は「悪魔的」でありながら必ずしも「悪魔そのもの」ではない。
ブラック・ファンタジーでありながら、もしかして現実に似たようなケースがあるのかも?とも思わせるのが面白さのひとつのツボ。主従関係が次第に転倒していくのですが、それでも元主人側がにこにこしているのがまた不思議で面白い。

ひとつ難点をいえば、最後は結婚式の場面で終わってもよかったのでは。
太ったコンラッドはちょっと嫌だな・・・。

コンラッドほどの力を持つ人物が、シティでどんな生活をして、コブに来ることになったのか。
作品に描かれていないサイドストーリーも気になりました。

サリンジャー氏のご冥福をお祈りします。

2010-02-01 | 柴田元幸
本日(2010.2.1)の朝日新聞の朝刊に柴田元幸さんが「サリンジャー氏を悼む」という表題で寄稿されています。

サリンジャーさんは御年91歳だったそうです。「ライ麦畑~」の中でホールデンが「いい本とは、読み終えてすぐその作家に電話をかけたくなるような本だ。」という意味の台詞を話しますが、もし電話番号を手に入れられたとしても、もう永遠にサリンジャー氏の肉声を聞ける機会はなくなってしまいました。

私が初めて「ライ麦畑でつかまえて」を読んだのは20代前半です。
その時は「いい本だな」とは思ったのですが、すでに社会人だった(大人の領域に入っていた)ため、「10代に読んだほうがもっとその後の生き方を変えかねないように、心にずんときただろうな」とも感じました。
今思うと、野崎さん訳のホールデンは「べらんめえ」口調なので「大人はわかってくれない」的少年の匂いが強かったのだろうと思います。
03年に出版されている村上さん訳の翻訳は「いい家庭の子」的な口調ホールデンなのでまた印象が違います。
現代の10代の人たちは村上さん訳ホールデンをどう感じて読んでいるのでしょうか。

柴田さんは記事の中で「(サリンジャーが時代を超えて読み継がれているのは)ありていにいえば、自分がいまここにこうして在ることへの違和感・いらだちといった、むろん若者にありがちではあれ、決して若者占有ではない相当に一般的な思いが、「キャッチャー」や「ナイン・ストーリーズ」のせわしない、自意識過剰気味の語りを通して伝わってくるのではないか。」と語っています。

サリンジャーの作品は「若者のため」のものだけではない。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」、また再読してみようかなと思います。これから読む方は読後に柴田さん・村上さん共著の「サリンジャー戦記」もあわせて読むのもおすすめです。

しかし、あれほどの作品を残された方が、家の中で何も書かずにいたとは正直考え難いので、何かしらの文章を書かれていたのではないでしょうか?
もしあれば当然各出版社の激しい争奪戦でしょうね。(ちょっと不謹慎かな・・・)
今後サリンジャー氏のほかの作品が発表されるのか、気になります。

「ガラスの街」ポール・オースター著(柴田元幸訳)新潮社

2010-01-30 | 柴田元幸
「ガラスの街」ポール・オースター著(柴田元幸訳)新潮社を読みました。
深夜のニューヨーク。孤独なミステリー作家クインのもとにかかってきた一本の間違い電話。彼は探偵と誤解され、仕事を依頼されます。クインはほんの好奇心から、探偵になりすますことにします。依頼人に尾行するようにいわれた男を、密かにつけます。しかし、事件はなにも起こらず…。
オースターのデビュー作がついに柴田さん訳で刊行されました!
この作品は以前角川書店から「シティ・オヴ・グラス」という題名で別の訳者で出版されているのですが、雑誌「Coyote」に初めて柴田さん訳で掲載され、今回新潮社から単行本化され出版される運びになりました。(←詳しい経緯はわかりませんが、新潮社が角川書店から版権を買ったということかしら??)

なにはともあれ読者としてはとってもうれしいニュースです!(以前の訳者の方、ごめんなさい。
内容について触れますので、未読の方はご注意ください。

この作品は著者がもし現在の妻シリに会っていなかったら自分がどうなっていたかを思い描こうとして書いた作品だそうです。
いわばクインはオースターの双子的存在。
(作中に実際にオースターという人物も出てくるのでヤヤコシイのですが。)

作中では同じように「ふたつに分かれた存在」が何度も登場します。
親と息子で同じ名を持つふたりのピーター。
駅でみかけたピーター(父)とそっくりの青いスーツの男。
ピーター(父)が語る、「クインはツイン(双子)と韻を踏む」という台詞。

しかしその「ふたつ」は決して類似の存在ではなく、「ひとつ」である個人も固定された存在ではありません。
現われるたびに次々と名前を変えるクイン。
次第に堕ちていき(ピーター(父)が拾った物のように壊れ)、金も家も仕事もなくしていくクイン。
その時彼の名前は何だったのでしょうか?

冒頭の番号違いの間違い電話、ピーターを尾行する過程、いつまでも話し中のヴァージニアの電話、クインはどこでこの事件を降りても、どこで運命の分かれ道を曲がってもおかしくなかった。けれどこの話のように一本の道をたどって最後まで行き着いてしまった。
クインの最後はまるでNYの街に溶けてしまったかのようです。

「結局、偶然以外何ひとつリアルなものはないのだ。」
「違った展開になっていた可能性はあるのか、それともその知らない人間の口から発せられた最初の一言ですべては決まったのか、それは問題ではない。」

オースターが「運命の偶然」と呼ぶものがすでにデビュー作であるこの小説にしっかりと描かれています。