Straight Travel

日々読む本についての感想です。
特に好きな村上春樹さん、柴田元幸さんの著書についてなど。

「さりながら」フィリップ・フォレスト著(澤田直訳)白水社

2009-04-17 | いしいしんじ
「さりながら」フィリップ・フォレスト著(澤田直(さわだ なお)訳)白水社を読みました。
パリ、京都、東京、神戸。四都市をめぐり、三人の日本人―小林一茶、夏目漱石、写真家山端庸介の人生を語りながら、自身の体験、創作について綴った評論のような、エッセイのような、「私」小説です。
BS2の「週刊ブックレビュー」で以前いしいしんじさんが紹介していたので読んでみました。内容について触れますので、未読の方はご注意ください。

表題は小林一茶の句からとられています。

 露の世は 露の世ながら さりながら

小林一茶は幼くして母と死に別れ、義母とうまくいかず、思春期を迎えた頃江戸に旅立ちます。その後も国中を放浪し、中年になってからやっと故郷に戻り、妻を向かえ子を持ちました。
しかしひとりめの息子は生まれてすぐ亡くなります。
三年後に生まれた娘は最初の冬は越しましたが、その後疱瘡の病を生き延びることができずに、またもやその命を召されます。
その後生まれたふたりの男の子も一歳を越えずに亡くなり、妻の菊も死亡。
三番目の妻ヤヲとの間に娘を授かりますが、その子が生まれたのは一茶自身がなくなったあとのことでした。

一茶が「露の世は」の句を詠んだのは、そのように幼い子を亡くしたときのこと。

私はこの世が 露のように儚いことを知っていった そうではあるのだが

著者のフィリップさん自身も娘さんが三歳の時に定期健診で異常が見つかり、検査の結果、骨癌が判明。闘病の末幼くしてお亡くなりになったそうです。
受け入れたくない、乗り越えられない苦しみ。
著者は「世界の裏側へ逃げたい」気持ちで日本を訪れたそうです。

同じ幼い子どもを持つ私にとっても、もし自分の子どもが同じような境遇になったらと仮定で考えるだけでも辛くなる思いです。
それが実体験である著者の悲しみは本当にはかりしれません。

そして夏目漱石にも幼い娘を失った経験があります。
最初の子を早産し、月に満たずに死亡。
そしてその後数人の子どもに恵まれた後に生まれた末娘のひな子。年は二歳足らず。
彼女は夕食の最中に苦しみを訴えることもなく突然倒れ、そのまま息をひきとり、医者にも原因がわからなかったそうです。
雨の中で行われた葬儀。焼き場で拾い集めた骨。

著者は語ります。
「そのあとにはいつも普通の言葉がやってくる。生のほうへと戻り喪失をできるだけ早く置き換えることを促す言葉が。しかし、別の子どもができたとしても、失われた子供でなければだめなのである。
娘の死を語りながら、漱石はその強烈な悲しみについて語っている。
この悲しみのうちに可能な限りのあらゆる美と純粋さがあり、すでに彼のなかでこの服喪の苦しみを激しく懐かしむ気持ちが大きくなっているかのようだ、と。」

漱石の娘の死は小説「彼岸過迄」に語られています。
著者はその表題を単なる漱石の執筆の予定と捉えず、「死(彼岸)とその先」と捉えます。

「実際、ひとりの小説家にとって、物語が生だけで終わる理由はないのだ。」

そして山端庸介。彼は原爆の翌日に長崎を、そして広島を写真に収めた人物だそうです。
当時すでに日本が降伏を申し入れる打診をアメリカにしていたのに、新兵器実験のために日本に落とされた原爆。無慈悲な暴力により地獄と化した地上の様子が面々と書き連ねられています。

そして著者は山端の写真のひとつ、おにぎりを持つ少年の写真について語ります。

「死が生の周りをすっかり襲うときでさえも生があるということを思い起こすのだ。
虚無については、誰も何も知りたがらない。初めてそれを見たものは、仰天し、愛しいものがみなそこに消えうせていく虚無のうちに自らも陥ってしまう。
世界を真実の正しき光に呼び戻すためには、それを再び見る二度目の視線が必要だ。」

そして95年の神戸の大震災。自然が引き起こす残酷な殺戮。
「大地震の生存者たちは誰を相手にすればよいのか。それはほとんど死そのものを相手に争うようなものだ。」

著者は結びにこう語っています。

「私が唯一理解したことは、生き延びることが試練であり謎であるということだ。」

人が人生で必ず避けては通れない「愛するものの死」。
胸が引き裂かれるような苦しみ。この世の儚さ、むなしさ。
「この世は露の世」、までしか心は進まず、そのまま凍ってしまうのではないでしょうか。
「さりながら」人はその苦しみすら記憶し、生き延びる。
その先には何があるのでしょう。


  露の世は 露の世ながら さりながら




「四とそれ以上の国」いしいしんじ著(文藝春秋)

2008-12-15 | いしいしんじ
「四とそれ以上の国」いしいしんじ著(文藝春秋)を読みました。
いしいしんじさん待望の新刊!
ネタバレありますので、未読の方はご注意ください。



すべて四国が舞台になっている短編集です。
収録されている短編の数も表題と同じ4+1の5篇。短編の題名はすべて漢字一文字になっています。

「塩」
この本で私が一番印象的だった作品はこれです。

語り手は12人の異母兄弟の末っ子ユキ。
この12人の兄弟たちの名前がまたすごい。「三女イノシシ」とか、「シオマツリ」という同じ名前をもつ五女と次男とか。なくなった兄弟の名前はついぞわからず。

舞台は香川県の小さな町、仁尾そして高松の箱屋へ。
ここの女主人がこわいです。
「女主人は人間を見るのが好きなのだった。正確には人間がだんだんどうしようもなくなっていうのを見る、そのことをしたいと思っているのだった。
女主人は、世間的に、一見どうしようもないと思われる人間にも、さらに一層どうしようもなくなる可能性がある、ということをわかっていた。」

薄笑いを浮かべながら知能障害のあるウキと人形浄瑠璃を見に行くようになる女主人。浄瑠璃で繰り広げられる暴力、殺人。
そこで受けた衝撃を逃がすすべも知らず奇声をあげ、のたうちまわるウキ。
あおりたてる女主人。この場面の描写は壮絶です。

それから常人には見えないけれどユキには見える「筋」も不思議です。
地面をはっていったり、女主人の腕にうきあがったり。
これは血の筋なのでしょうか?地のエネルギーなのか、死者の指し示す道なのか・・・。
不思議といえば瓶に入った四女、(塩で鎮まったり暴れたり)
スティーマー(登場人物の中では唯一物をわきまえた人らしいのですが誰なのか)
など、この作品には不思議な要素だらけです。

そして物語は塩祭りの日へ向かいます。
家々の屋根や橋の欄干に積もる塩の結晶のきらめき、思い描くだけで美しい。
そして祭りのクライマックスで起きた大地震。
みそっかすだったユキの最後の変化にはびっくりしました。


「峠」

祖母の病気を見舞っていた高校教師。祖母の病が峠を越したので、自分も峠を越そうと、愛媛・松山から電車で高知へ。
夏目漱石と小泉八雲。
外国と日本、教師としての仕事などの思考が進むうち、彼は鰍沢(かじかざわ)という卒業生に会います。
紅のてぬぐいをさした乗客たち、鰍沢の売るウグイ丼。
現実と幻想のなか列車は進みます。


「道」

四国をめぐる男の巡礼の旅。
考えてみると、四国は霊場をめぐる道にぐるりと囲まれていて、とても呪術的な土地なんですね。
男の歩む道と交差する記憶の道筋。男は遍路宿へ、海沿いの巡礼路へ。

「捕鯨の漁師たちは昼間のぼさぼさ髪を日暮れまでに刈り揃え、白いシャツや赤いチーフで着飾っていた。半数以上が平たいきのこのような丸帽をかぶり、パイプから煙をあげているものもいた。角を曲がると鯨の絵の描かれた酒の瓶を縁台に置き麻布を巻いただけの老人がふたり茶碗で飲んでいた」

もっといい場面があるだろう!といわないでくださいね・・・。
いしいさんはこういう何気ない力の抜けた場面の情景の描写がとても上手だと思います。しみじみ情景を思い浮かべてしまいます。


「渦」
病院に入院している弟と、見舞いにきた男。
南半球で野球が発明されていたらダイヤモンドは右回りになっていた?
馬に利き足はあるのか?などの考察が面白いです。
正岡子規が書いた野球のルール書で一塁手・二塁手を「番人」と表現しているのは初めて知りました。
ほかの作品ではちょっと理が優っているかなという描写もあったのですが、この作品では知識と物語が有機的にかみあっている印象を受けました。

鳴門の渦潮、野球のダイヤモンド、空気の渦、記憶の渦。
まわっているだけではない、なにかが注ぎ込んでくる、それで渦を巻く。
遠くに飛んでいく男の意識。


「藍」

舞台は徳島。
発酵が進む染料・藍になる一歩手前の「すくも」。人間でいえば十六、七。
その「藍」が逃げ出します。それを追う男、五郎。
こういうおとぎ話のような話、大好き!
藍玉を追ううちに舞台はまわりまわって仁尾へ。
塩田、浄瑠璃、うどん、札所、カリエス。
前四作に登場したキーワードがあちらこちらに登場します。
いしいさんの描くラストは暖かくてよかったですが、もし私だったらもっと民話のような荒唐無稽なラストにするかも?たとえば藍をお嫁さんにするとか?

前作「みずうみ」第三部で特に固有名詞にこだわって描写していたいしいさんですが、今回の作品でも、土地と物語が密接に関係している印象を受けました。
四の国、そして「それ以上」。
記憶、死者、自分の中に流れている血とその時間。
なんだか四国を歩いてみたくなったなー。

面白かったのですが、わずかに消化不良なのはいしいさんの真骨頂は長編小説だと思うから。
(ちなみにMy Bestは「麦ふみクーツェ」です。ねこ。)
前作の「みずうみ」もどちらかといえば連作短編よりの長編でしたし、次作こそ長編小説が読みたい!・・・と早くも願ってしまう欲張りな私・・・。



「本からはじまる物語」恩田陸ほか(メディアパル)

2008-10-19 | いしいしんじ
「本からはじまる物語」恩田陸ほか(メディアパル)を読みました。
18名の作家が「本」「本屋」をテーマにした掌編小説集です。

この本を手に取ったのはいしいしんじさん目当て。
「サラマンダー」期待どおりよかったです。犬に「サラマンダー」と名前をつけること自体娘さんのキャラクターを表しているようで面白いかった。
いしいさんはストーリーも面白いのですが、本当に言葉の達人。

「祖父は声に出して笑った。乾いた太鼓を指先で撫でるような声だった。私は祖父の気をひけたのが嬉しく、空のグラスにぬるい水を注ぎ足しながら、昔っからおじいちゃんは本がいちばんの宝物なんだね、といった。」

春の午後のふたりの情景。誰にもまねのできないいしいさんの絶妙な言葉づかい。
来月刊行予定のいしいさんの新刊、早く読みたいなあ。

「世界の片隅で」柴崎友香さんは今回初めて読みましたが、とても印象に残りました。好きな本、作家の話をからめた物語が多いなかで、書店の中で「自分が(たぶんこれからも)読んでいない本」「知らない本」が放つ空気を、海のように描く物語、面白かったです。

有栖川有栖さんの「迷宮書房」は、私が大好きな宮沢賢治のパロディで楽しかった。
梨木香歩さんの「本棚にならぶ」は出だしや設定はとっても期待できそうだったのですが、最後なんだか観念的に流れてしまった気が。
もっとぶっとんだラストでもいいような気がしました。

どの作品も本や本屋さんへの愛情がたっぷり詰まっていると思いました。
ただ18作品も集まっているので仕方ないのかもしれないのですが、本がはばたく鳥にになる、本の背表紙が暗号になっているなど、発想がかぶっている作品がいくつかあったのがちょっと残念。

「世界の果てのビートルズ」ミカエル・ニエミ著(岩本正恵訳)新潮社

2007-09-25 | いしいしんじ
「世界の果てのビートルズ」ミカエル・ニエミ著(岩本正恵訳)新潮クレスト・ブックスを読みました。
凍てつく川、薄明りの森。スウェーデンの北極圏、笑えるほど最果てのパヤラ村で育ったぼく・マッティと、親友のニイラ。
きこりの父たち、殴りあう兄たち。そして姉さんのプレーヤーで聞いた衝撃のビートルズ。スウェーデンでは12人に1人が読んだというベストセラーになった小説。カバーにいしいしんじさんの短いコメントが寄せられています。

スウェーデンの超田舎町の情景が目に見えてくるような小説。
リアリズム小説かと思いきや、突然ボイラーに閉じ込められたまま巨人になったり、3年前に亡くなった祖母を退治する場面になったり、なんの注釈もなく空想的な世界に飛んでしまう文章も面白いです。
町には楽器店もなく、最新ポップ・チャートを聞くには高い木に銅線をはってラジオを受信しなければならない町。そんな中で聞いたビートルズの一枚のレコードがどんなに少年たちに興奮と憧れをもたらしたかがよくわかります。
結婚式でのホラ話とサウナ対決、ねずみを退治する夏のアルバイト(最後が辛い!)、下水処理場でのどぶろく合戦、すべてが生き生きとして面白い。
最後の冬の闇の場面は静かでとても心象的です。



いしいしんじさんのトークショーに行ってきました

2007-09-17 | いしいしんじ
今日は青山ブックセンター本店リオープン3周年記念のイベント、いしいしんじさんのトークショーに行ってきました。聞き手は永江朗さん。
いしいさんにじかにお会いするのは初めての私。
いしいさんは白のジャケットにTシャツ、コーラルピンク(ピンクというか紅?)のパンツ姿で登場。テーマはいしいさんの読書遍歴でした。

トークショーの後はサイン会。サインに加えて、それぞれの方にいしいさんが思いつくままにひとつ絵をつけてくれます。牛とか、音符とか靴とか。みんないしいさんに気軽に話しかけて、そしていしいさんもそれに応えておしゃべり。
私も何か話したかったのに、私の大好きな「麦ふみクーツェ」を書いた人がここに・・・!と思うとただただ心臓がバクバクしてしまい「ありがとうございます」としか言えませんでした。(もったいない&情けない)
でも握手していただいた手は大きくてあたたかくて、「この手からあのいろんな小説が生み出されたんだー」と思うと、とっても感動しました。
ちなみに私に描いてくれた絵は「ねこ」。「クーツェ」の主人公にちなんでかな?うれしいです。

トークショーの内容を簡単に。

小さいときの本の記憶は母の実家にある古い大きな本をパタンパタン閉じたり紙を触る感覚が好きだったこと。
絵本は読みながら、たとえば長新太さんの絵のつづきを画用紙に書いたり、読むことと描くことが一緒だった。
一番古い作品は4歳の頃書いた「たいふう」。(「ぶらんこのり」に収録。)
小学生の頃は父親が教育者(大阪で一番古い塾で教えている。今も現役)のためか、近所の本屋の本は全部ツケで買えた。ちょうど角川文庫などが出始めた頃で知らない作家が出ると文庫で片端から買って読んでいた。
教科書に載るような作家の中では夏目漱石が好きだった。「それから」とか。(渋すぎる・・・)
中学の頃は大藪晴彦など。兄の影響でミステリを読んだり、SFを読んだり。作品の中にHな場面が出てくるかが結構重要だった。思春期ならでは。
高校の頃はパンクやビートニク、ヌーベルヴァーグ、シュールレアリスムなど「若い感覚がいいんだ」的なものにもれなくはまる。植草甚一さんの影響でブローティガンなどを読み、それまで読んできた小説とはまるで違う、「意味がなくていいんだ」という感覚に目からウロコ。
特に印象に残っているのは原書で読んだブラッドベリの「たんぽぽのお酒」。
あの街の雰囲気が見たくて、高2の時は交換留学でイリノイ州で二ヶ月過ごした。
(ただ街の人たちは「ブラッドベリ?読んだことない」という反応でがっかり)

大学に入ってからは京都の古書店街でいろんな言語の本を読めないのに持っている感覚だけがうれしくて買ったり。(原書のカラマーゾフとか)古い博物学にはまっていたこともあり、小説以外の本を読むことが多かった。
社会人になってからは東京にきて神保町でたくさん本を買ってきて読んだ。浅草の部屋は台所まで本だらけ。現実逃避的な傾向もあった。
小説の出版は2000年34歳の時。4歳の時に書いた「たいふう」の感覚を、大人になってから習得した言葉で書きたいと思ったのがきっかけ。
長編小説を書くときは読書はしないそう。

ほかにも現在住んでいる松本市の鶴林堂がつぶれてショックだった話。三崎にある本屋で必需品として官能小説を買う遠洋漁業の漁師さんの話(何度も何度も読むうちに気にいらなかった女性が気に入ってきたりする、そこまで読んでもらえる読書はうらやましいという話)などいろいろな話がありました。

トークショーは一時間半。いろいろな本の名前がとびだして、さまざまな読書の土壌がいしいさんの小説書きの滋養になっているのだなーと思いました。
面白かったです!


「ナンバー9ドリーム」デイヴィッド・ミッチェル著(高吉一郎訳)新潮社

2007-07-12 | いしいしんじ
「ナンバー9ドリーム」デイヴィッド・ミッチェル著(高吉一郎訳)新潮クレスト・ブックスを読みました。
主人公、19歳の詠爾(えいじ)は故郷の屋久島を出ました。彼は名前も知らぬ父を探すために東京へ。村上春樹やジョン・レノンへのオマージュに溢れた疾走する物語。いしいしんじさんが「週刊ブックレビュー」で紹介されていました。

とっても面白かったです。こんなに面白かった作品は本当に久しぶり。
舞台は現代の日本。作者はイギリス人の方(奥様は日本人)ですが、日本語でもとから書かれていたようにまったく違和感がなく読みました。
作品は9章にわかれています。
章ごとに詠爾の妄想であったり、映画のストーリーであったり、手紙であったり、ある人の小説であったり、日記であったり・・・詠爾の語りとは別の要素が入りこんできて話が重層にふくらみます。
「埋立地」の第四章は迫力。圧倒されました。

「九番目の夢の意味はあらゆる意味が死に絶え消滅した後に始まる・・・」
詠爾の父親の正体は?第九章に描かれる夢とは?

作者は村上春樹さんの作品に深い共感を抱いているようで、作中にも「ねじまき鳥クロニクル」が登場していますが、私はどちらかというと「父を求める詠爾」が「母を求めるカフカ」(「少年カフカ」)に重なりました。
とはいってもストーリーはもちろんまったくオリジナルのもの。
本の分厚さを忘れて一気に読んでしまいました。
この作者のほかの作品の邦訳が待たれます!


「やせる旅」都築響一著(筑摩書房)

2007-05-10 | いしいしんじ
「やせる旅」都築響一著(筑摩書房)を読みました。
旅に出ると太る。でも旅に出て、やせたい!
90キロ・オーバーの48歳の都築さんが、1年間で20キロ減を目指して日本を、世界を駆け抜けた、ダイエット・トラベローグ。
いしいしんじさんがTVの「週間ブックレビュー」で紹介されていました。
行き先は長野の断食リゾートから礼文島のトレッキング、死海で泥パック、チェンマイのタオ思想のアーユルヴェーダ施設などなど。
裏表紙を見ると本当にやせているからすごい。
女性に比べて男性の痩身情報は少なすぎる。
「たとえばエステって気持ちよさそうだなー、とか思っても、オヤジがひとりで行っていいものかすらわからない。男だって、痩せたい人はたくさんいるのに!きれいになりたいのに!」
おじさんの叫びが、おかしい・・・。
私が行ってみたかったのはハンガリーの極楽温泉。
東京二十三区が入るくらい巨大な露天風呂にハスの花が浮かんでいるらしいです。

「東京夢譚」鬼海弘雄著(草思社)

2007-04-24 | いしいしんじ
「東京夢譚」鬼海弘雄著(草思社)を読みました。
長年撮り続けた東京、神奈川の街の風景を収めた写真集。本人のエッセイも収録されています。
TVの「週間ブックレビュー」でいしいしんじさんが推薦されていました。
いしいさんは番組の中で「一写真あたり(見る)滞在時間15分はかけてます。どの写真にもなにかひとつ面白いポイントがあるんですよ」とお話されていました。
でも私には「なんでこの写真選んだのかな?」と思う写真もいくつかあったりして、いしいさんの眼力にはとてもかなわず。

昭和の面影が残る街並み、キッカイな形の現代の建物、植物に侵食された家、人の住むにおいがむんむんする裏通り、洗濯物におふとん。
私も毎日見ているような風景ばかりなんですが、鬼海さんのファインダーに切り取られると、そこから何か面白い物語が始まるような感じがします。

エッセイも昔かたぎのヤーさんやら風俗のおねえさんやらこぎれいな犬を連れたおばさんやら、さまざまな人が登場しています。
写真と同じく「体臭を感じる」文章です。


「みずうみ」いしいしんじ著(河出書房新社)

2007-04-01 | いしいしんじ
「みずうみ」いしいしんじ著(河出書房新社)を読みました。
いしいしんじさん待望の新作です。
これから先、ネタバレがあるので、本をこれから読む予定の方は読まないでくださいね。


全3章からなる長編小説。
各章は目に見えるつながりはなく、ゆるやかに水の底の流れのようにいくつもの細部によってつながっています。
「どれが原因でも結果でもない。すべてがつながっている。透明な大きなつながりの、目に見える岸への漂流物だ。」

第一章の舞台は湖の畔(ほとり)の村。
そこには家族の中に必ず一人眠り続ける人がいます。月に一度湖水が「コポリ」「コポリ」とあふれ出すと、眠り人の口からも水があふれ、遠く離れた風景や出来事を語りだします。水の香りのする、全体的に霧のかかったようなファンタジックな章。

第2章は毎日一定の場所にしか客が向かわなかったり、一日に何度も同じ客を乗せたり、奇妙な偶然に支配されるタクシー運転手の話。
彼はある決まった日になると体が膨張し体内から水があふれる体質。娼婦によってその体質を鎮めています。ある日彼は不思議に心惹かれる女性をタクシーに乗せます。彼女のことを思う彼の生活はだんだん変化していきます。

第3章の主人公は、松本に住む作家「慎二」と「園子」夫婦。
そして慎二の英語翻訳家であるボニーとその夫ダニエルのニューヨークやキューバでの体験が重なり合います。

第一章は今までのいしいさんの作品を好きな方(私も含め)なら文句なく気に入ると思います。水辺が舞台ということから前作「ポーの話」も連想されます。
第二章はタクシーの運転手の毎日の単調な仕事という現実の中に、主人公の特異な体質やさまざまな出来事の符号がちりばめられる不思議な作品。
主人公がラスト近く石を吐き出す場面が印象的。

そして全体を読んで思ったことは、章立てより連作短編という形をとったほうがよかったのではということ。「満ち引きする水」「運命を左右する水」「体の外と、中にある水」というイメージは各作品共通しているのですが、それはあくまでイメージであって一本通った太いストーリーがあるわけではないので。

特に第三章の主人公は名前からもある通り、いしいしんじさんと、奥様園子さんの分身のような存在だと思いますが、全体の中で特に浮き上がっているような感じがしました。
文章も「成田という空港」「つくねという食べ物」というように意識的に外側から見たまわりくどい書き方をしており、場面もこまぎれに変わって非常に読みづらく、ほかの章とは一線を画しています。

作中に「園子が鹿のきぐるみを着て慎二の前に現れたら、慎二はちょうどその時、作品に鹿を登場させていたところで驚いた」という偶然があります。
これは雑誌「文芸春秋」の昨年のいしいさんの特集号を読んだ方ならわかると思うのですが、「園子さんが熊の着ぐるみを着て現れたときにちょうど自分が「プラネタリウムのふたご」の熊が踊る場面を書いていて驚いた」という言葉があります。
ほかにもキューバの街中の描写や葉巻売りなどは既刊「キューバ日記」そのままのような記述が多いですし、私がもうそういういしいさんの日常を知っていることで、第三章を読んでいると「あ、もうこの話は知ってるよ知ってる」となってしまい、純粋に小説として楽しめなかったのが残念です。
 
読売新聞でのいしいさんのインタビューを読みましたが、1章を執筆後に、実際に奥様が死産の悲劇に見舞われたそうです。
その事実と痛みを知ってしまうと「作品としてどうこう」とはもう言えなくなってしまうのですが、この第三章自体がいしいさんの奥様へと、生まれなかった子供へのラブレターというか、とても個人的な作品の感じがして、この部分だけいっそ別の本にしたほうがよかったのではという感じもしました。

第三章は書かれている内容だけではなく、文体としても新しいものだと思います。これからのいしいさんの作品にどうつながっていくのか、それともこの章だけはこれからもぽかっと浮いた感じなのか。
早くも次回作が気になる・・・。






「聖女チェレステ団の悪童」ステファノ・ベンニ著(中嶋浩郎訳)集英社

2007-03-30 | いしいしんじ
「聖女チェレステ団の悪童」ステファノ・ベンニ著(中嶋浩郎訳)集英社を読みました。
いしいしんじさんが雑誌「飛ぶ教室」で「私の選ぶ少年少女小説」で紹介していたのがこの本。読んでいる間いしいさんの頭の中をずっとサッカーボールがとびかっていたそう。

架空の国グラドニアの首都バネッサには聖女チェレステ孤児院がありました。
そこには伝説の予言がありました。
昔、院を寄贈した伯爵の娘・10歳のチェレステが、非道な父親が引き起こした惨事で昇天し、その時遺した予言です。
時は現代、孤児院のキリスト像がある日突然倒れ、預言の一つが現実となります。さらに孤児が三人、忽然と姿を消します。
次々と実現する予言。それと同時進行して、謎の人物が各国の悪童を集め、普通の反則なら何でもOKという摩訶不思議なストリートサッカー世界選手権を開こうとしていました…。

ボールはできるだけでこぼこなもの、競技場は一部が砂利、樹木や岩、勾配、泥水のたまった水溜りを有していること。
足払い、あご殴り、踏みつけ、引掻き、ズボンおろし、エビ固めなどは許可。
こんなストリートサッカー、見てみたい!

また作中には風変わりな人物たちが沢山登場します。
冒頭に登場するのはパンで彫刻する芸術家。ほかにも他人の肌に触れただけで興奮する修道士、肉を一切使わないハンバーガーチェーンの青髭オーナー、ハイテク扇子で会話するテレビ界の大物ムッソラルディ。
そして何より魅力的な子供たち!

話はギャグマンガのような展開も多く、自分の足を切られたので人の足とつけかえて鷺みたいになった男の話や、 独裁者になった男が島民を一人残らず殺してしまうレモン島の話など。
サッカーの場面はサーカスのようで、ラストシーンはしんとした印象を残す・・・。
昔と今、聖と俗、崇高と野卑がからみあってうごめく不思議な作品世界。