Straight Travel

日々読む本についての感想です。
特に好きな村上春樹さん、柴田元幸さんの著書についてなど。

「ボタニカル・ライフ 植物生活」いとうせいこう著(新潮社)

2009-01-03 | エッセイ・実用書・その他
「ボタニカル・ライフ 植物生活」いとうせいこう著(新潮社)を読みました。
著者の個人的なHPの文章がのちに雑誌連載となり、単行本化したものです。
庭のない都会暮らしを選び、ベランダで花を育てる「ベランダー」。
そのとりあえずの掟。
隣のベランダに土を掃き出すなかれ。隙間家具より隙間鉢。
水さえやっときゃなんとかなる。狭さは知恵の泉なり。
ある日ふと植物の暮らしにはまった著者の、いい加減なような熱心なような「植物生活」の全記録です。
第15回講談社エッセイ賞を受賞しました。

花や、それを育てる自分の姿を何かに見立てる文章がとにかく面白い!です。

「きちんとした知識の元に植物を育てているわけではない俺は、山賊が美女をかっさらってきたかのように不器用に植物を見つめてきた。」

「「死者の土」とは死んでいったほかの植物たちがその根を張っていた土のことだ。何キロもする新しい土を買ってくるのは面倒なので、わざわざ「死者の土」などという名前をつけて自分をごまかしている」

「わが鉢植え軍団が布陣をしくにあたって、花を終えたニチニチ草を斥候(せっこう)に出すことにしたのだ。なにしろやつは強いから、多少のことではくじけない。おかげで他の鉢たちは万全の状況で戦うことができた。」

「花屋において胡蝶蘭はエリート官僚のようなものだ。必ずどこの地方にもひそんでいて、他の花を後ろからひっそりと、しかし睥睨(へいげい)するように存在している。とりあえず信頼も篤(あつ)いが、あまりにも見慣れているため軽蔑もされやすい。そんな東大卒の花が、俺の部屋に来るほどにおちぶれたのである。」

「苦土石灰を混ぜたら普通、その土を風にさらしたりするはずなのだが、我が家にその余裕はない。できたら即使用。つまり、風呂から出た途端に就寝を要求される子どものようなものだ。それで風邪を引くようなガキならいらん。」

「サボテンは根元を腐らせて倒れていた。鉢のふちに体を持たせかけているそいつを俺はピサと名づけて見張ることにした。これまで名前などなかったのに、死にかけで初めて名づけられたとなれば、ほとんど戒名みたいなものであった。
ピサ居士(こじ)。」

「俺は吊り忍をトイレの貯水タンクの上において、みずやりをする作戦をあたためていた。しかし「さらし水」という条件はクリアされていない。さらした水は便を流すのに使われてしまい、忍のほうはいきなりのカルキ責めである。忍の立場に立てば、なんで俺よりも便を大切にするのだという話である。」

「シクラメンは誰でも買いやがるし、なんというか凡庸のきわみである。あの歌が一番いけない。「シクラメンのかほり」。「かほり」はだめだ。
ところがある日小さな植木市で安いシクラメンを買う気になったのだ。クリーム色は清潔で力強かった。ついに俺はシクラメン好きになった。
シクラメン購入後、一度も歌っていなかったあの歌が口をついてでてきた。
「真綿色したシクラメンほど清(すが)しいものはない」
俺は仰天した。俺の目の前にあるのがまさにその真綿色したシクラメンだったからである。なぜだ、なぜ俺が小椋色したシクラメンを買ってしまったのだ!」

ひと日記中、ひとつといわずいくつもオチがある文章で楽しい!

しかもオチがあるだけでなく、深い考察もあってふむふむとうなずいてしまいます。
「俺はつまり植物全てに弱いのだ。死んだものが生き返り、信じられない速度で育っていくこと。それが俺の中の根源的ななにかをくすぐってやまない。」
「人々が神に花をささげるとき、神や仏が先にあるのではない。花こそが先にあり、その奇跡を余すところなく受け取ってくれる存在が後から必要になったのである。」

この本を読んでいると私もベランダーになりたいなあと思うのですが、私はムシがだめなので・・。
ヒヤシンスのような水で栽培できるものからはじめてみようかな??

「パリからの紅茶の話」戸塚真弓著(中央公論新社)

2009-01-03 | エッセイ・実用書・その他
「パリからの紅茶の話」戸塚真弓著(中央公論新社)を読みました。
パリに暮らして三十年、フランス料理とワインを愛好する著者が書く、歴史と文化の考察にいろどられた紅茶にまつわるエッセイです。

パリは「紅茶」というときどったものというイメージが強いらしく、普段パリの人が飲むのは圧倒的にコーヒーで、紅茶を飲むのは趣味に近いものらしいです。
日本でいう抹茶に近い感覚なのかな??

そのため「パリの紅茶事情」というよりは、日本やアジアからオランダ、ポルトガルを通じてヨーロッパに渡った茶の変遷、茶器についての考察、専門書で調べた知識、小説のぬきがきなど「論文」に近いようなエッセイです。

その中で比較的軽めに読めて面白かったのが「失われた時をもとめて」の紅茶とマドレーヌを考察するくだり。
どうすればマドレーヌがぶよぶよにならず紅茶と一緒にすすれるのか?
原文を読み飽くなき実験を繰り替えす著者。
「ばかばかしい!」とあきれかえる夫。
そこから派生してパリの人は紅茶に日常的にお菓子やパンを茶にひたして食べるのか?という身近な人々へのアンケート。
そしてプルーストが草稿時点では「マドレーヌ」ではなく「焼きパン」と書いていた事実にまでたどりつきます。
記憶をよみがえらせるきっかけは、プルーストの推敲次第で、もしかしてパンとカフェオレになっていたのかも・・・。
きっとそうだったら今ほど有名なワンシーンにはなっていなかったことでしょう?