Straight Travel

日々読む本についての感想です。
特に好きな村上春樹さん、柴田元幸さんの著書についてなど。

映画「ノルウェイの森」監督インタビュー

2010-02-22 | 村上春樹
本日(2010.2.22)の朝日新聞の朝刊中面の「GLOBE」に映画「ノルウェイの森」の監督を務めるトラン・アン・ユンさんのインタビューがのっていました。
撮影監督は台湾のリー・ピンビン、音楽はレディオヘッドのジョニー・グリーンウッドだそうです。(「海辺のカフカ」で、カフカ君がアルバム「A」をヘビーリピートしていたこと思い出します)

監督のインタビューの抜粋。
「舞台は40年前の日本だが、当時の曲でもあまり有名でないものを多く使いたい。だれもがわかる曲だとある意味、美化されたノスタルジーになってしまうが、傷口がまだ開いたままであることを表現したい。」

直子の物語は「おじさんたちの世代が若かったときの思い出話」ではなく、今現在に生きる誰の感情にも訴えうる、病と、死の物語。

私はトラン・アン・ユン監督の映画は「青いパパイヤの香り」しか見たことはないのですが、映像がとても美しかったことが強く印象に残っています。

「伝えたいことは感情で、それは日本人と外国人で違うのではなく、一人一人で異なるものだ。まだ編集作業中で作品を客観視することはできないが、筋が通った、強い作品を作ったとは思う。」

映画スタッフは国際的なメンバーですが、「グローバル」という言葉ではない、親密な作品を見せてくれそうで、今から公開が楽しみです。

「タール・ベイビー」トニ・モリスン著(藤本和子訳)早川書房

2010-02-19 | 外国の作家
「タール・ベイビー」トニ・モリスン著(藤本和子訳)早川書房を読みました。
カリブ海に浮かぶ雨林の生い茂る小島で、二人は偶然に知り合う。
白人の大富豪の庇護を受けて育ちソルボンヌ大学を卒業した娘・ジャディーンと、黒人だけに囲まれてフロリダの小さな町エローで育った青年・サン。
異なるがゆえに惹かれあいはげしい恋におちていくふたり。
そして異なるがゆえにすれちがい相手を深く傷つけていく。
黒人同士でありながら決定的なちがいを持ち合せた二人の恋の行方。
藤本和子さんの訳ならばはずれはないだろうと手に取ったのですが、著者はノーベル賞作家だったのですね・・・シラナカッタ。

ハイチ、閉ざされた「騎士の島」の濃密な空気。島をおおいかくす霧を独身の叔母の髪の毛にたとえるなど、自然を描くにもさまざまなイメージがかさねあわされている読み応えのある文章です。
初めは文章に慣れないとちょっと読みにくいのですが、4章のサンが登場するあたりから作品の世界にはまってきます。

サンとジャディーンのふたりの空間はとても官能的。

「彼女は答えず、彼も脈拍が数打する間、もう何もいわなかった。そして、それから彼はやった。足裏に人差し指を置いて、そのまま、そのまま、そのままにした。
「やめてちょうだい」と彼女が言うと、彼はやめたが、それまで指のあった足の谷間に、人差し指の印象は残った。布製の靴の紐を結んだあとでさえ。」

ふたりが触れている場所はわずか指一本なのに、とてもエロティックな場面です。

それからもうひとつ印象的なのは、サンがジャディーンに目をつぶらせるところ。

「何が見える」
「何も見えない」
「想像してみるんだ。暗闇にふさわしいものを。闇は夜の空だと考えてごらん。そこにある何かを想像してみる。」
「星ひとつ?だめ。見えない。」
「そうか、見ようとしなくてもいい。それになろうとしてみるんだ。なったらどういう気持ちか知りたいか?」

こんな風に話をされたら女性はおちます!

しかしふたりの燃え上がる想いは、ふたりの生い立ち、価値観の違いから次第に齟齬をきたしていきます。

ジャディーンの育ての親であるシドニーとオンディーン夫妻、その主人のヴァレリアンとマーガレット夫妻、ヴァレリアン夫妻の息子で、実家によりつかない息子のマイケル。
さまざまな年代、職業、人種の人物がそれぞれの立場でものを考え、十字架館につどっています。その屋敷がアメリカという多人種の国を表しているひとつのもののようにも思えてきます。

あとがきでは訳者の藤本さんが表題の「タール・ベイビー」の話(民話のようなもの)を紹介しています。



「うたかたの日々」ボリス・ヴィアン著(伊東守男訳)早川書房

2010-02-15 | 外国の作家
「うたかたの日々」ボリス・ヴィアン著(伊東守男訳)早川書房を読みました。
夢多き青年コランと、美しく繊細な少女クロエの恋。だがそれも束の間、結婚したばかりのクロエは、肺の中で睡蓮が生長する奇病に取り憑かれていました。
パリの若者たちの姿を描いた著者の代表作。新潮社版では「日々の泡」という題名で出版されています。私が読んだ早川の文庫の解説は小川洋子さん。
内容について触れますので未読の方はご注意ください。

音楽をかなでるとカクテルができるピアノ。水道管を伝ってパイナップル味の歯磨き粉を食べに来るうなぎ。キッチンに住むハツカネズミ。寒さをしのぐために鳥かごを首の下に入れて歩く通行人。鳩の首をもつスケート場の係員。

「コランは黄色いシルクのハンカチで風向きを測った。すると、ハンカチの色が風に持ってかれ、不規則な形をした大きな建物の上に乗っかった。すると、それがモリトール・スケート場だった。」

シャガールの絵のように、自由に飛び交うイメージの交差。
小説ってこんなに遊べるジャンルなんだ!と読んでいて楽しくなります。

クロエとコランが初めてデートする場面。

「私に会えてうれしい?」
「うん、もちろんさ!・・・」
二人は、最初の歩道沿いに、わき目もふらず歩き始めた。小さなバラ色の雲がひとつ、空から降りてきて、彼らに近づいた。
「行くぞ」と雲がいった。
「行こう」とコラン。
雲が二人をすっぽりつつんだ。中に入ると熱く、シナモン・シュガーの味がしていた。

映画「アメリ」を思い出させるような小さな恋の始まりです。

しかし結婚した彼らにしのびよる影。クロエの肺の中には睡蓮の花が。
コランは彼女の寝室を「睡蓮をおっかながらせるために」たくさんの花で埋め尽くします。
病、次第に進む困窮、友の殺人。
かわいらしい恋の前半と後半とは激しいコントラストを成しています。

最後の葬儀の場面は悲劇、そして喜劇。

ほかに類をみない、ヴィアン独自の世界が描かれている小説です。

「二つの時計の謎」チャッタワーラック著(宇戸清治訳)講談社

2010-02-12 | 外国の作家
「二つの時計の謎」チャッタワーラック著(宇戸清治訳)講談社を読みました。
モンコン男爵の放蕩息子チャクラが、床屋の老人を殴った傷害事件を調べるサマイ警部は、同じ夜に発生した二つの事件に突き当たります。
チャクラの出資する輸入品販売店の共同経営者の縊死。
チャクラの懐中時計を握ったまま運河で発見された娼婦の溺死体。
状況からチャクラの関与が疑われましたが、現場で発見された二つの時計は、同じ時刻、九時五五分を指して止まっていました。三つの事件はどう結びつくのか。
醜聞を恐れる男爵はサマイ警部の父親にまで働きかけ、警察へ圧力をかけます。
さらに中国マフィアの不穏な動きも。
1932年、立憲革命直後のバンコクを舞台に、サマイ警部と相棒ラオーの活躍を描くミステリー小説。島田荘司さん選の「アジア本格リーグ」シリーズの第二巻です。

今までいろいろな外国文学を読んできて、一番名前が覚えづらいのはロシア文学だなーと思っていたのですが、タイ文学がそれをうわまわるとは!
バンチョン・ケーヌパン警察少尉、モンコンシンパイサーン男爵・・・本書ではわかりやすく縮めて表記してありますが、原文に忠実に訳してあったらきっと途中で挫折していたことでしょう。
少し難点をいえば、直接のストーリーの流れには不要な注釈が多い気がしたのと、「今日はドロンは勘弁してくれ」「人力車(←これはトゥクトゥクのことかしら?)」などの訳文が古い感じがしました。(本自体は2007年に書かれ、昨年9月に邦出版されたものです。)

警察官でありながら私服で隠密調査をするサマイとラオーは、ハードボイルドな探偵的。格闘シーンもかっこいいです。
話の流れとしてはごくスタンダードな謎解き小説ですが、それだけではなくタイ人街や中国人街、運河、さまざまなタイ料理、とオリエンタルな雰囲気をたっぷりと味わえる本です。


「太陽のパスタ、豆のスープ」宮下奈都著(集英社)

2010-02-11 | 日本の作家
「太陽のパスタ、豆のスープ」宮下奈都著(集英社)を読みました。
暗闇をさまよう明日羽(あすわ)に、叔母のロッカさんはリストを作るよう勧めます。溺れる者が掴むワラのごとき、「ドリフター(漂流者)ズリスト」。明日羽は岸辺にたどり着けるのか、そこで、何を見つけるのでしょうか。
宮下さんの最新作、内容について触れますので未読の方はご注意ください。

宮下さんの作品らしく、今回もおいしそうな食べ物がキーワードになっています。
郁ちゃんの豆のスープ、お兄ちゃんのホットケーキ。
六花さんのまずい料理でさえ、ちょっと味見してみたい。

自分のしたいこと、やりたいことをつづるドリフターズリスト。
リストをつくる過程で自分のいままで、これからを見つめなおす明日羽。
これだけだとちょっと「自己啓発本ぽいな」と感じていたのですが、「それって不可能リストじゃない?」と、途中でちゃーんと桜井さんが落としてくれます。

リストは自分を鼓舞しやる気にさせてくれる。
自分へのきっかけ、チャンス、希望。
でも逆にそれに囚われすぎると、自分自身を縛るものにもなりうる。
「宣言」は物事を成就させたいときに重要なものですが、それに届かないときには自分で自分にストレスをかけてしまう要因にもなり得る・・・なかなか難しいものです。
京の言うように、自分を「やわらかく」して自分の選びたい方向に行くというゆるやかさが長続きのコツなのかな。

明日羽にとってはとても悲しいできごとでしたが、逆に彼女にとって、今までの自分を見つめなおすきっかけとなりました。自分が変化すべき時が、初めはマイナスの顔をして現われたということですね。そのままマイナスの方向に進んでいかなかったのはもちろん明日羽の資質もあるでしょうが、まわりの人々がとても温かい素敵な人たちだからだったのだろうなと感じました。

余談ですが、年の近い姪と風変わりな叔母という設定が、吉本ばななさんの「哀しい予感」に似てるなと思って読んでいたのですが、叔母の六花さんが郁ちゃんに初めて会ってうろたえる場面・・・ふたりの続柄は、作品には描かれていませんがもしかして???

「結婚のアマチュア」アン・タイラー著(中野恵津子訳)文藝春秋

2010-02-08 | 外国の作家
「結婚のアマチュア」アン・タイラー著(中野恵津子訳)文藝春秋を読みました。
結婚30周年を祝うパーティが開かれた晩、「それなりに楽しい結婚生活だったわよね」と振り返るポーリーンに、「地獄だった」と夫のマイケルはつぶやく。それはいつもの夫婦喧嘩のはずだったのだが・・・。
どこにでもいる夫婦とアメリカの60年間を描いた物語です。

楽天的で感情の起伏が激しく楽しいことが好き。
「女性によくあるタイプ」のポーリーン。
口下手で慎重で現実的、分別のある理性派。
「男性によくあるタイプ」のマイケル。
惹かれあって結婚したふたりだけれど、次第にそのふたりの性格の違いが夫婦生活にひずみをもたらしていきます。

「ポーリーンはほんとうにいい人間だ。まあ、自分もそうだが、とマイケルは思った。ただ、二人いっしょになると、よくなくなる。というか・・・つまり、マイケルが言いたいのは・・・優しくないというか。お互いに対して必ずしも優しくなれないのだ。なぜそうなのか、マイケルには説明できなかった。」

読みながらポーリーンとイメージがかぶったのが「アンパンマン」のドキンちゃん!
はたから見ていると、性格がカラフルで女性らしくてかわいらしいのだけれど、そばにいる立場(身内)だったらキツイな~。息子も「母は「奥様は魔女」みたいな能天気なキャラクターではなかった」と語っていますしね。
ちなみに色気は足りないけれど、一人で何でもできる女性アンナはもちろんバタ子さん。

まわりの夫婦はみな仲良く、家族はみな結束しているように見える。
けれどうちの夫婦は、家族は違うと悩む。

この本に描かれているどの人も、どの悩みもできごとも、自分や、自分のまわりの人たちと少しずつ似ていて身につまされます。
橋田ドラマなみに延々と描かれる日常生活。でもこの小説の主眼は「エゴのぶつけあいによる人間関係のドロドロ」にあるのではありません。
マイケルの台詞「父さんたちはできるだけのことをしたんだ。ほんとうに精いっぱいな。俺たちは、ただ・・・未熟だったんだよ。どうやっても物事のコツがわからなかった。努力しなかったわけじゃないんだ。」
この台詞に表れているように、善意からやったことでも素直に受け入れてもらえなかったり、誤解したりすれ違ったり、そういう各人による物事の受け止め方の違い、相性、この世のままならなさを描いていてなんだかせつなくなるのです。

最後にポーリーンを回想するマイケルの姿が印象的です。
穏やかで幸せなアンナとの日々より、うまくいかずに格闘したポーリーンとの日々が後から「充実」という印象すら放って思い出される不思議。

すったもんだあっても死ぬ前に笑えれば全てよし?
私も結婚の、人生のアマチュアです。
私も死ぬ前に今を振り返って微笑めるように、明日からも健闘の日々!

「南フランス日時計街道」上野秀恒編・解説(クロック文化研究所)

2010-02-05 | エッセイ・実用書・その他
「南フランス日時計街道 壁に描かれたアートたち」上野秀恒 編・解説/ 熊瀬川紀 写真(クロック文化研究所)を読みました。
プロバンス、アルプ、コート・ダジュールはそれぞれ日照量が多い地方。当地を何度も訪れ日時計を1000枚以上の写真におさめた熊瀬川氏の写真の中から約100点を選び、特徴的なものに解説を加えた写真集が本書です。
旅人に時を知らせ、その意匠で目を楽しませてくれる。それぞれの家のさまざまな味付けを見せる南フランスの日時計。
巻末には日時計の写真のみがずらりと並べられ、図鑑のような趣で見ているだけで楽しいです。目盛りだけを打ったシンプルなものから、鳥や蔓草模様、十二星座を描いたものなど意匠はさまざま。私はつりがね草が描いてある紫色の日時計が素敵だなと思いました。

昔は機械式時計は故障も多く、日時計と併用して使われていたんだとか。
確かに、雨の日はあったとしてもお日さまに故障はありませんもんね。
7~4時(ものによっては6時くらいまで)の目盛りのみで用を成せた昔の時間感覚に思いをはせるのも楽しいです。

日本だと地面においてある日時計はよく見ますが、南仏のように壁に描かれてある日時計はあまり見たことがありません。もしいつか旅行することがあったら、ぜひ見てみたいです。

週末うちのベランダに棒をたてて、こどもと日時計つくってみようかな。


「かのこちゃんとマドレーヌ夫人」万城目学著(筑摩書房)

2010-02-01 | 日本の作家
「かのこちゃんとマドレーヌ夫人」万城目学著(筑摩書房)を読みました。
かのこちゃんは小学一年生の元気な女の子。
マドレーヌ夫人は犬語を話す優雅な猫。
その毎日は、思いがけない出来事の連続で、不思議や驚きに充ち満ちています。
万城目さんの最新作です。

「かのこ」ちゃんの名前は「岡本かのこ」からとったのかと思いきや、実は・・・。
万城目さんの既作品とのつながりが連想される素敵な命名です。

かのこちゃんとすずちゃんの「大人のお茶会」、男子女子の「難しい言葉勝負」など、子供らしさいっぱいでおかしくてとてもかわいらしかったです。私がもし勝負するなら?・・・「まこもたけ」かな。
「フンケーの友」もすごい。本当にあんなこと、トイレでできるの???

本作で描かれる「不思議」はホルモーや鹿男とは違って、いかにも日常にひそんでいそうな雰囲気があって、面白かったです。
別れの9月はもらいなきしてしまいました。

出版されてまだ間もないので、ネタバレはこれくらいにしておきます。
新書なのでお財布にも優しいのがうれしいところ。
装丁はクラフト・エヴィング商会です。


「料理人」ハリー・クレッシング著(一ノ瀬直二訳)早川書房

2010-02-01 | 外国の作家
「料理人」ハリー・クレッシング著(一ノ瀬直二訳)早川書房を読みました。
ヴィレッジ・ヴァンガードで見かけたPOP。「これ一作に根強いファンがいます!」
惹かれて文庫を買ってしまいました。・・・で、実際に読んで正解。面白かったです!

舞台は平和な田舎町コブ。自転車に乗りどこからともなく現われた料理人コンラッド。
街の半分を所有するヒル家にコックとして雇われた彼は、舌もとろけるような料理を次々と作り出します。やがて奇妙なことがおきます。彼のすばらしい料理を食べ続けるうちに、肥満した者は痩せ始め、痩せていたものは太り始めたのです。

人をぐいぐいひっぱっていくストーリーテラーぶりがすばらしい著者・クレッシングは、覆面作家だそうで、正体はいまだ明かされていないそうです。いったい誰なのでしょう?
しかしこのカバー絵、平井堅さんに似てるよな。

彼がまずつくったのは朝食のマフィン。
奥様が召使に聞きます。「このマフィンのお代わりはないのかしら?」

そして次々と彼が作りだす素晴らしい朝食、ディナー、野外料理。
その料理の腕と巧みな弁舌で屋敷内で、村で、のしあがっていくコンラッド。
彼は「悪魔的」でありながら必ずしも「悪魔そのもの」ではない。
ブラック・ファンタジーでありながら、もしかして現実に似たようなケースがあるのかも?とも思わせるのが面白さのひとつのツボ。主従関係が次第に転倒していくのですが、それでも元主人側がにこにこしているのがまた不思議で面白い。

ひとつ難点をいえば、最後は結婚式の場面で終わってもよかったのでは。
太ったコンラッドはちょっと嫌だな・・・。

コンラッドほどの力を持つ人物が、シティでどんな生活をして、コブに来ることになったのか。
作品に描かれていないサイドストーリーも気になりました。

サリンジャー氏のご冥福をお祈りします。

2010-02-01 | 柴田元幸
本日(2010.2.1)の朝日新聞の朝刊に柴田元幸さんが「サリンジャー氏を悼む」という表題で寄稿されています。

サリンジャーさんは御年91歳だったそうです。「ライ麦畑~」の中でホールデンが「いい本とは、読み終えてすぐその作家に電話をかけたくなるような本だ。」という意味の台詞を話しますが、もし電話番号を手に入れられたとしても、もう永遠にサリンジャー氏の肉声を聞ける機会はなくなってしまいました。

私が初めて「ライ麦畑でつかまえて」を読んだのは20代前半です。
その時は「いい本だな」とは思ったのですが、すでに社会人だった(大人の領域に入っていた)ため、「10代に読んだほうがもっとその後の生き方を変えかねないように、心にずんときただろうな」とも感じました。
今思うと、野崎さん訳のホールデンは「べらんめえ」口調なので「大人はわかってくれない」的少年の匂いが強かったのだろうと思います。
03年に出版されている村上さん訳の翻訳は「いい家庭の子」的な口調ホールデンなのでまた印象が違います。
現代の10代の人たちは村上さん訳ホールデンをどう感じて読んでいるのでしょうか。

柴田さんは記事の中で「(サリンジャーが時代を超えて読み継がれているのは)ありていにいえば、自分がいまここにこうして在ることへの違和感・いらだちといった、むろん若者にありがちではあれ、決して若者占有ではない相当に一般的な思いが、「キャッチャー」や「ナイン・ストーリーズ」のせわしない、自意識過剰気味の語りを通して伝わってくるのではないか。」と語っています。

サリンジャーの作品は「若者のため」のものだけではない。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」、また再読してみようかなと思います。これから読む方は読後に柴田さん・村上さん共著の「サリンジャー戦記」もあわせて読むのもおすすめです。

しかし、あれほどの作品を残された方が、家の中で何も書かずにいたとは正直考え難いので、何かしらの文章を書かれていたのではないでしょうか?
もしあれば当然各出版社の激しい争奪戦でしょうね。(ちょっと不謹慎かな・・・)
今後サリンジャー氏のほかの作品が発表されるのか、気になります。