Straight Travel

日々読む本についての感想です。
特に好きな村上春樹さん、柴田元幸さんの著書についてなど。

「南仏プロヴァンスの12ヶ月」ピーター・メイル著(池央耿訳)河出書房新社

2009-03-31 | エッセイ・実用書・その他
「南仏プロヴァンスの12ヶ月」ピーター・メイル著(池央耿(いけ ひろあき)訳)河出書房新社を読みました。
オリーヴが繁り、ラヴェンダーが薫る豊かな自然。
多彩な料理とワインに恵まれた食文化。素朴で個性的な人々との交流。
ロンドンを引き払い、プロヴァンスに移り住んだ元広告マンが綴るエッセイ。
以前日本でもベストセラーになりました。

毎月ごとの出来事をつづっているのですが、やはり特筆すべきはフランスの人の料理にかける情熱。
それほど裕福ではないブルーカラーの職人さんでも三ツ星レストランの評価を語ったり、街の肉屋の主人は延々と肉の部位の話から香辛料の話、レシピ、ワインのおすすめと語りだしたら止まらず。
パンやさんにあるカルト・デ・パンには見たこともないようなパンが並びます。
アペリティフにはこれ、魚介にはこれ、肉にはこれ・・・。

そういえば以前パリに一ヶ月間出張していた友人が言っていました。
フランスの人たちはランチの間一時間中、あの店のランチがどうの、こんな料理のレシピがどうのと嬉々として毎日話し合いネタが尽きることがない。
肉の部位も日本ではモモかカタかくらいだけど、フランスの人はレシピによって買いわけるのを子どものおつかいの頃から当たり前にしてるから、美食に育つらしい、と。
う~ん、この本を読んで、その友人の言っていたことに納得。

そしてワインがごく生活の身近にあることも。
献血の会場でワインを出す、ってことにちょっとカルチャーショック。

プロヴァンスの人々の手での会話、なかなかスピーディにはすすまない改築工事。
それほど仲良くないのに、無料宿をもとめて突然やってくるロンドンの知人。
日々の生活がユーモラスに語られています。

「おとなを休もう」石川文子編(フロネーシス桜蔭社)

2009-03-31 | 児童書・ヤングアダルト
「おとなを休もう」石川文子編(フロネーシス桜蔭社)を読みました。
1965年から2004年度までの40年間に出版された、小学3、4年生の「こくご」の教科書(全300冊)のなかから、採用頻度の高いベスト10の童話を調査して収録したアンソロジー。さらに、編者の選出10作品が掲載されています。
ちなみに、この40年間で最も頻繁に採用された作品は『ごんぎつね』だそうです。エチオピアの民話や、中国少数民族の民話なども収録。

収録作品は以下のとおり。
おおきな木   シルヴァスタイン著 
モチモチの木  斎藤 隆介著
白いぼうし  あまん きみこ著
おにたのぼうし あまん きみこ著
ワニのおじいさんのたからもの  川崎 洋著 洋
ソメコとオニ 斎藤 隆介著
島ひきおに 山下 明生著
一つの花 今西 祐行著
アディ・ニハァスの英雄  渡辺 茂男訳
つりばしわたれ 長崎 源之助著
花さき山 斎藤 隆介著
やまんばのにしき 松谷 みよ子著
チワンのにしき 君島 久子訳
サーカスのライオン 川村 たかし著
青銅のライオン 瀬尾 七重著
月の輪グマ 椋 鳩十著
はまひるがおの小さな海 今西 祐行著
うぐいすの宿 光村図書出版株式会社編
手ぶくろを買いに 新美 南吉著
ごんぎつね 新美 南吉著

私がなつかしかったのは「白い帽子」(確か教科書の一番最初にのってた)と、「手ぶくろを買いに」。
白い帽子の中に夏みかんをいれた、までは覚えていたのですが、その後の展開は覚えてなかった。
「手ぶくろを買いに」はとにかくこぎつねがかわいい。
雪に反射する光を見て「母ちゃん、目になにかささった、ぬいてちょうだい。」
「おかあちゃん、お手々が冷たい、お手々がちんちんする」
これも手袋を買いにいった後、もう一軒の家の描写があるのは忘れていました。

それから初読でしたが胸に残ったのは椋鳩十さんの「月の輪グマ」。

毎年国語の教科書をもらうたびに先まで全部読んでしまって、一年間手持ち無沙汰にしてた授業中を思い出します。

「世界の食文化 トルコ」鈴木董著(農山漁村文化協会)

2009-03-29 | トルコ関連
「世界の食文化 トルコ」鈴木董(ただし)著(農山漁村文化協会)を読みました。
台所と食卓から世界を読み解くシリーズのトルコ編。
レシピ本ではないのでこの本はあくまでも読み物です。
前半は文化の説明が多く、資料的。
後半(第八章以降)は実際の料理名を列挙し、味の説明や著者の感想も入り面白くなってきます。

「シャルガム(蕪)・スユというジュースがあり、焼肉などとともに食する」とありますが、大根おろしのようなもの??など、実際に見てみたい料理がたくさん。

トルコではお菓子には砂糖をたっぷり使うけれど、料理にはまず砂糖を使わない。
蒸し物は水が豊富な日本ではポピュラーな調理法だけれど、トルコ料理のレパートリーにはほとんどない、など、日本とトルコの文化の違いからくる食卓の違いが興味深いです。

あとトルコならではというのが、西欧化が進んだトルコでも、朝食にはハムもベーコンも食べないと。
なぜ?・・・・あ、そうか、大半がイスラム教徒(豚を食べることは禁忌)だからか!など、文化のみならず宗教にもとづく食の知識も。

また、単なる料理の紹介だけでなく、その料理のエピソードも豊富で読み応えがあります。
宮廷ではラマダン(断食)の月に常備軍団の兵士たちを宮廷に招き、御下賜のバクラヴァ(パイを重ねた菓子)を受け取る「バクラヴァ行列」が年中行事だったとか。
「ヘルヴァ(練り菓子)・ソフベッティ」という熟語があり、イメージとしては冬の寒い日に、トルコ式のこたつタンドルに入りながら人々がつどい、かたわらにトルコ式火鉢マンガルをすえ、そこの小鍋でヘルヴァを作り、つまみながら四方山話をする光景であるとか。(人の輪があったかそうでうらやましい!)
アキーデ・シェケリという「信心糖」とでも呼ぶべき飴は、オスマン帝国の国政を左右しかねない重要なときに、トプカプ宮殿の御前会議で政府高官たちに配られたとか。

私が口にしてみたいと思ったのは、冬にあらわれるボザ(キビを発酵させる飲み物)店。あるいはイスタンブルの冬の景物サーレプ(蘭の根からとった澱粉からるくられるとろっとした飲み物)。
以前トルコにいったのは初夏だったので、一度寒い季節のイスタンブールも見てみたいなあ。





「にぎやかな外国語の世界」黒田龍之助著(白水社)

2009-03-25 | エッセイ・実用書・その他
「にぎやかな外国語の世界」黒田龍之助著(白水社)を読みました。
世界にはたくさんのことばがある。文字や音、数のかぞえ方だっていろいろある。かたち、ひびき、かず、なまえといった項目から、世界の言語を少しずつ覗き、その多様性を楽しもう。
ヤングアダルト向けに書かれた、「地球のカタチ」シリーズの言語編。

外国語についての勉強の本ではなく、世界にはこんな文字があるよ、音があるよという面白さについて語られた本。読みやすいし楽しかったです。
文字の上に物干し竿のような棒があって、ひと単語をつなげて表記するインドのナーガリー文字。
のどの奥で声門を開けるときに出る「ポコン」という音を言語に使うアフリカのコサ語。
単数・複数のほかに両数(ふたつ)は言葉が異なるスロベニア語。
お母さん(マミンカ)が「お母さーん!」と呼ぶときだけマミンコ!に変化するチェコ語。これだと「ゆうか」さんは呼ばれるとき「ユウコ!」に変わってしまう!?など。

にぎやかな外国語の世界を「めんどくさい」とか、日本語の常識にあてはめて「変だ」などと拒否せず、面白がり、その多様性を愛す著者の姿。
まさに、世界は広い・・・。

「クマグスの森 南方熊楠の見た宇宙」松居竜五編(新潮社)

2009-03-24 | エッセイ・実用書・その他
「クマグスの森 南方熊楠の見た宇宙」松居竜五編(新潮とんぼの本)を読みました。
表紙は冬の山中、腰巻一丁で煙草をふかす怪しげな男の姿。
彼こそ、紀州和歌山が生んだ先駆的エコロジスト、南方熊楠42歳の姿。
博物学者として、また生物学者、民俗学者として広く知られる熊楠。
研究対象は粘菌、キノコ、藻、昆虫から男色、刺青、性、夢まで、この世あの世のすべて。世界を放浪、原生林を駈け巡り、果て無き大宇宙の謎を追い、森羅万象の本質に迫るため、生涯その目で見たままを詳細に記述しまくりました。
本書では、奇才が遺した膨大で不思議な資料が公開されています。

写真満載で見やすく、熊楠を初めて知る人向けに、彼の全体像が見渡せる導入書ともいえる一冊。
少年時代は和漢三才図会を模写し、毘沙門天の申し子といわれます。
青年になりイギリスへ。フロリダへ、キューバへ。時にサーカスの団員を務めることも。孫文と交わり、「ネイチャー」誌に論文を発表して認められ、帰国の後も神社合祀反対運動、新種ミナカテルラ菌の発見、昭和天皇へのご進講などエピソードには事欠かない人物だったそうです。

写真を見てもがっちりしたたくましい大男の風貌。さぞや破天荒な人物だったのだろうと思ったら、十四の頃から精神的な病を発していた兆しがあり、十八の時にはてんかんの発作を起こし、予備門を退学することになったそうです。
病の自覚が深ければ深いほど、学問への集中力が増し、結果として創造性の源となっていたのだろうと。熊楠のその内面の光と影の深いコントラストに思いをはせます。

なかで興味をひいた記事は飯沢耕太郎さんのエッセイ。
「だがなぜ菌類だったのだろうか。彼ほどの記憶力と語学の才能があれば、学問の世界で華やかな活動を展開することは十分に可能だったはずだ。」
「精密かつ正統的な学の体系とは別に、いわば「キノコ的思考」とでもいうべき奇妙な王国が広がっており、そこに無限の可能性が胚胎しているというこではなかっただろか。」
セクソロジーやカニバリズムなど、民族史の陰の部分を研究していた熊楠。
「隠花植物」という存在にまさに惹かれていったのでしょうか。

熊楠の数あるエピソードの中でも、好きなのが家の柿の木から珍種のミナカテルラ・ロンギフィラという粘菌を発見した話。

「その気になれば自分の足許で世界的発見ができる」


「龍使いのキアス」浜たかや著(偕成社)

2009-03-24 | 児童書・ヤングアダルト
「龍使いのキアス」浜たかや著(偕成社)を読みました。
アギオン帝国は、初代神皇帝アグトシャルの夢の呪縛にもう三百年もの間、くるしめられていました。
一方巫女見習いのキアスは、その出生の秘密を知らず、大巫女マシアンさまを探しに旅に出ます。
巫女がいる神殿と、戦士のいる大都市という組み合わせ、どことなくゲド戦記の「失われた腕輪」を思い出します。ほかにも日本神話のイザナギ・イザナミとその三人の子の話を思い浮かべたり。海へ、山へ、都市へ、辺境の地へと旅する壮大な物語です。

物語の舞台はロールという架空世界。
主人公キアスは女神ノアナンに仕えるモールの神殿の巫女見習い。
ある日モール林に捨てられていたのを巫女ナイヤが拾い育てた赤い髪の少女、キアス。
モールマイ族は女児が生まれるとモールの苗木を植えます。それがその子の「根」となり、その子が死ねば「根」も枯れます。
キアスは三百年前に生きていた大巫女マシアンの木がまだ生きていることから、まだマシアンさまが生きていると確信し、マシアンさまを探すたびに出ます

一方この世界で強い力を持っているのが戦神アーグを掲げ、武勇にすぐれたアギオン族でした。
自分たちの宗教と法を他民族に押し付けるアギオン族。
そんなアギオン族の頂点は三人。皇帝アグトシャトル、大神官キーオ。「内の外の賢者」、竪琴を背負う放浪詩人のイリット。
この三人は初代神皇帝(しんこうてい)アグトシャトルの三人の子からずっと同じ名前をひきついでいる一族です。

アーグ神殿では、「近く帝国を崩壊させるほどの力をもった巫女があらわれるだろう」と神託がくだり、巫女狩りが始まります。
生まれてから一度も夢をみたことがないという皇帝の秘密とは?
そして皇帝の前で弾いてはいけないと語り継がれているイリットの竪琴と皇帝との結びつきとは?

この物語はメインの物語の面白さもさることながら、脇を固める人々の個性も魅力です。
特に私が好きなのはダグニ族のフル。
悪口大会で一等賞をとった「おろかな賢者」。でも彼に悪口を言われると作物は見事に実り、人は生き生きとしてくるのです。

それからオーラーの神殿に仕える巫女の長ジルさま。
鳥に姿を変えた恋人の巫女マヌを追い、軍を脱走したゴア。
「若者の無謀なふるまいをいましめるのが、年長者の義務だとこころえますが」といさめるイリットに、
「そういって、年長者はいつも若者の牙をぬいてきました。」とひややかに答えるジルさま。かっこいい・・・。
若者の無謀をとめるのは思いやり?結局自分が面倒をさけたいだけなのかも。

「なにより大事なのは、もしマヌを助ければこの若者はとても貴重なものを手に入れたことになるということです。その貴重なものとは、もちろんマヌのことではありません。そして、もし助けに行かなければ、その貴重なものをうしなうことになるのです。」
貴重なもの・・・恋人に対する誠意、闘いにひるまない勇気、自分の気持ちを自分は裏切らなかったという誇り・・・かな。

それから「好き」ではないですが、印象的なのが闇を抱える男、大神官キーオに仕えるオゴス。
「アグトシャトルの血をひくなら、捨て子の血をひきたかった。」と語るキオスに、
「おろかだな、キアス。外にいるものは、中の世界にあこがれるものだぞ。」と返すオゴス。
なんだか「カラマーゾフの兄弟」のスメルジャコフを思い出します。

キアスの出生の秘密、マシアンさまの行方・・・
最後の最後まで読みどころたっぷりのおすすめファンタジーです。

「読むので思う」荒川洋治著(幻戯書房)

2009-03-23 | エッセイ・実用書・その他
「読むので思う」荒川洋治(あらかわ ようじ)著(幻戯(げんき)書房)を読みました。
「本を読むと、何かを思う。本など読まなくても、思えることはいくつかある。だが本を読まなかったら思わないことはたくさんある。いつもの自分にはない思いをさそう。読まないと、思いはない。そのままはこまるので、ぼくも読むことにした。」
ことば、本について語られるエッセイです。

著者が詩人であるせいか、細かい言葉遣いや漢字、文学全集や辞書について語られているものが多いです。
出版社が作る、中身は白紙の本の見本(「つか見本」というらしいです)を手に入れた喜びがなんだかほほえましかった。

著者がほかの方の本から抜粋したもので面白かったのは、北村太郎さんが子ども向けに書いた文章。
「読書によって心が広くなるより、狭くなる人のほうが多い。」
「一つの小説の型、考え方の型、生き方の型、美の型だけにしがみついて、それ以外のものを認めようとしない。その一つの型あるいはそれを中心とした一つの態度の範囲においては、知識の量はますます増えてゆきますが、その人の心は、いよいよかたくなになるばかりです。」

ふ~む、私は読書は純粋な楽しみなので、好きなものだけ読んでます。ちょっと耳が痛い話。
実際に荒川さんは古典文学から町田康、一青窈まで、古いものも新しいものもわけへだてなく楽しんでいて、その感性のやわらかさにあこがれます。

黒川創さん「かもめの日」より。
「ふつうの人間っていうのは、いいかい、まず、いったんはそういうことも考えてみる、ということだ。右に揺れ、左に揺れる。その場その場で、いろんな条件を勘定に入れながら、あえてそこからどれかを選んだり、互いの妥協点を探したり、あきらめたり、やせ我慢もしたりしながら、生きている」

この場合の「ふつう」とは「凡庸」という意味ではなく、「まっとう」という意味なのでしょう。私も自分の内側の感覚と、外から見たときの考え、いつでもいろいろな視点を自分の中に持っていたいと思います。

「書物迷宮」赤城毅著(講談社)

2009-03-21 | 日本の作家
「書物迷宮 ル・ラビラント」赤城毅(あかぎ つよし)著(講談社)を読みました。
恩田陸さんがこの本をすすめていたので読んでみました。
合法非合法を問わず、あらゆる手段を用いて世には出せない危うい本を手に入れる、書物狩人。スペイン内戦に斃れたロルカの詩集、各国情報部が狙うポーランド、ポズナンの書物、国家機密を匂わす満鉄の時刻表。
書物狩人だけが解ける、稀覯本に隠された物語。

面白かったです。なんといっても書物狩人の凄腕、銀髪のル・シャスールの仕事、人となりが魅力的。
書物狩人が集めるのは単なる稀覯本ではない。
世に出れば一国の政治や経済までも揺るがしかねない本。
その本をめぐって各国の情報機関が火花を散らします。

印象に残ったのは第二話の満鉄の時刻表の話。舞台は北京。
終戦間際、満鉄の臨時便には何が載せられていたのか?
特に日本人には馴染み深い土地、歴史が舞台になっているため、とても面白かったです。

第三話の「愛された娘」では、普段なかなか表情を変えない書物狩人、ル・シャスールの素顔がかいま見られる感じで面白かったです。
ポーカーフェイスの彼が、書物を繰り始めるときにだけかすかにゆるむ頬。
最後エレーナがル・シャスールに言われる言葉。
「美意識で行動される方は好きです。」
この言葉にル・シャスールが仕事に、人生にかけているものが感じられるように思いました。

著者の赤城さんはドイツ近代史、軍事史が専門だそうで、この本もさまざまな書物と歴史の話にあふれていて知識欲をビンビン刺激されました。

でもただひとつ不満なのは挿絵は不要なのではないかということ。
表紙は重厚なのに、挿絵の絵柄はマンガ。物語が安っぽく感じられてしまうような。特にル・シャスール本人の顔は描いてほしくなかった・・・。
物語は面白いので、それだけが残念。

「ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で」ジョン・マグレガー著(小出由紀子訳)作品社

2009-03-19 | エッセイ・実用書・その他
「ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で」ジョン・マグレガー著(小出由紀子訳)作品社を読みました。
ヘンリー・ダーガーはアメリカ人。
4歳直前で母を亡くし、その後体を悪くした父が彼の面倒を見られなくなったことから、7歳で児童施設へ。その後知的障害施設に移され17歳でシカゴに戻る頃には父はすでに亡くなっていました。その後50年以上清掃人や皿洗いといった仕事をつづけ71歳で退職を余儀なくされ、社会保障で暮らすようになります。
その後1973年81歳になるまで友人もなく家族もなく孤独な独り暮らしをし、亡くなりました。
ある日、彼の家主が部屋を片付けるために立ち入った部屋で発見されたのがこの作品群です。
それは15巻、1万5千ページ超にもおよぶ非現実の王国を描いた物語と挿絵でした。

93年にロサンゼルスの美術館で開かれた「パラレル・ヴィジョン」展で彼の作品は世界に衝撃を与えました。
この本にはダーガーの挿絵の一部と、物語のあらすじ、そして美術史家の著者の作品分析が掲載されています。

物語の主人公は七人の少女戦士、ヴィヴィアン・ガールズ。
子供を奴隷にする残虐な大人たち、グランデリニア軍と彼女たちとの死闘が繰り広げられます。

作品を見てまず思うのは色彩がとても美しいこと。
女の子たちも可愛くて、構図も絶妙。

でも良く見るとナンカヘン。・・・少女たちに男性器がついてる!
ほかにも蝶の羽をつけ、尻尾を生やした不思議な生き物なども。

誰に見せるわけでもない、自分自身の楽しみのために描いたこれらの作品が、とても丁寧で愉快で豊かなことに驚かされます。

そしてその残虐さも。
子どもたちが虐殺される凄惨な場面、血が飛び散り手足がもげ・・・。
これもまたダーガーの世界。

ダーガーの脳内世界をのぞきみるようなこの画集。
可愛く、美しく、そしてすさまじい。

「何でも見てやろう」小田実著(講談社)

2009-03-18 | エッセイ・実用書・その他
「何でも見てやろう」小田実(おだ まこと)著(講談社)を読みました。
若さと知性と勇気にみちた体当り世界紀行。
留学生時代の著者が、笑顔とバイタリティーで欧米・アジア22ヶ国を貧乏旅行して、先進国の病根から後進国の凄惨な貧困まで、見たまま感じたままに書いたもの。旅行自体は60年頃で、初版は79年です。
まだアメリカに「黒人専用席」があり、ロシアがソ連だった時代のこと。

「めいめいの趣味、主張、主義にしたがって、上品なところ、きれいなところ、立派なところばかり見る、あるいは逆に、下品なところ、汚いところ、要するに共同便所のようなところばかり見てくる、私はそんなことはきらいである。
世の旅行者というものはたいていその二つ、上品立派組と共同便所組のどちらかに所属してしまうようであるが、これはどうもやはり困りものではないのか。」

「とにかく私は「何でも見てやろう」と思った。国会議事堂から刑務所からスラム街から金持ち街から豪華ホテルから簡易宿泊所からカテドラルから広告塔から何から何まで、そしてまたコーヒーの国、ビールの国、ぶどう酒の国、チョコレートの国、紅茶の国、可能な限りのさまざまな国、さまざまの社会、そこに住み、うごめくさまざまな人間、それらすべてを見てやろう、私はそんなふうに考えたのである。」

生活信条は「まあなんとかなるやろ」という著者の人柄もあるのでしょうが、世界のあちこちでいろいろな人たちと話して、ごはんを食べて(おごってもらって)、感じ、考え、率直に文章にのせる姿。
なんだか読んでいて心が熱くなります。
学生時代に読んでいたら、私もまず海外に飛び出していそう。

「日本」というのがいいイメージだった時代(黒澤映画、日本製品の質の良さ、神秘的なZEN)など、日本人だというだけでみなの好奇心をあおり、親切にしてもらえたというのも大きいようです。
それにしても、「地球の歩き方」も日本人宿ももちろんインターネットだってない時代、貧乏旅行するのは大変だったんだろうなあ。
でも情報がない分、自分の目で世界を発見していく喜びはかけがえのないものだったんだろうなとうらやましくも感じます。

まずはフルブライト留学生としてアメリカへ。
アメリカのゲイとビートの話。
「結局のところ、ビートもゲイも「画一主義」に満ちたアメリカの社会を嫌い、憎み、哂う。が、それでいてもちろん彼らには、その主義を打ち破るだけの、彼らの社会を根本的に変革させるだけの力はないのだ。それどころか、彼らの「画一主義」に対する反応、反動ほど画一的なものを私は知らない。
狂っているとすれば、誰もが同じしかたで、しかも同じ程度に、狂っている。」

見えない隅々にまで金のかかっているアメリカの富裕さの実感。
南部での人種差別の体験。黒人席があることにいきどおりながら、自分はそっちに入れられなくてよかったと実は安堵していることに気づき、自分のなかの矛盾について考える。
著者の言葉はいつもとても正直で的確で、「世間の常識」に染まりません。

メキシコで感じた、メキシコ人のアメリカへの劣等感、日本人とのシンパシー。

イギリスからオスロを通ってコペンハーゲンへ。
ヨーロッパの人に見た、アメリカに対する「あいつらは金はあるけれど文化がない」という軽蔑的な態度。

オランダからベルギー、フランスを通ってスペインへ、イタリアへ。
「ミラノにはスカラ座というのがあって、おのぼりさんは誰でもでかけることになっている。もちろん、私もでかけた。
私もおのぼりさんであることが人一倍うれしいほうなのである。」

ギリシャへ。
古代ギリシャ語を専攻していた著者には感慨深いギリシャ文学の地。
好奇心いっぱいのギリシャ人による矢継ぎ早の質問に閉口。
古代ギリシャの偉大な文化、しかし今では後進国であるというギリシャの国の苦しみ。

エジプトへ。
貧困を目の当たりに。なにかというと小銭を要求する人々。
そして無銭旅行を続けて堕落していくヒッチハイカーたちの姿。
「彼らは長旅に疲れ、倦み、それでいて旅を切り上げて、自分の所属した社会に敢然と立ちかえることもしないでいる。彼らは匂った。精神的にも肉体的にもそうであるに違いなかった。」

シリア・レバノンへ。イランのラマダン。

インドへ。
「人口六百万、ひとにぎりの大金持ちと無数の街路族、コジキ。
暑さと病気と、そして何よりも貧困。ここに存在するのは抽象的、カッコつきの「貧困」ではなくて、なんの形容詞も虚飾も誇張も必要でない、むき出しの事実としての貧困、それ自体であった。」

「アジアはひとつ」ではない。
でも「西洋」のなすがままにブランブランと揺れていた、というところは共通である。「われわれ」被支配国、植民地国、後進国、そして貧困。」

アメリカからヨーロッパへ、アラブ文化圏へ、そしてアジアへの大旅行。
羽田に着いたときは見事に一文無し。
メキシコで著名な画家シケイロスに会ったかと思えば、インドでは路上で寝ている。新聞貨物便で機上の人に。へさきで寝たオスロ行きの船。
たくましく、多様な記録。大変さを実感しつつも、なんだかこういう「さすらい」にあこがれてしまう気持ちもあります。


「感無量というのではなかった。しかし、やはりハラにこたえた。」


この旅行記のあとに、ベトナム戦争の平和運動をしていた時期の再訪の記録も付記されています。