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ビクトル・ユゴー2

2023年04月08日 | 妙法

HEROES 逆境を勝ち越えた英雄たち〉第30回 ビクトル・ユゴー2023年4月8日

未来の勝者よ、立ち上がるのだ。
今日の課題は何か。戦うことだ。
明日の課題は何か。勝つことだ!
池田大作先生が創立したフランス・ビエーブル市の「ビクトル・ユゴー文学記念館」。大文豪の小説の下書き原本や直筆書簡など、貴重な資料が所蔵されている
池田大作先生が創立したフランス・ビエーブル市の「ビクトル・ユゴー文学記念館」。大文豪の小説の下書き原本や直筆書簡など、貴重な資料が所蔵されている

 新たな船出の4月が始まった。
 「人生は航海なり」――こう謳ったのは、かの大文豪ビクトル・ユゴーである。
 昨年、生誕220周年を迎えた彼の生涯は、相次ぐ艱難の波浪を乗り越え続けた闘争のドラマに彩られている。
 「諸君は未来の勝者であるのだ。あくまでも戦え」
 「今日の課題は何か。戦うことだ。明日の課題は何か。勝つことだ!」
 「昼となく夜となく戦い続けるのです。山も平野も森も戦うのです。立ちあがりなさい! 立ちあがりなさい! 戦いの手を休めてはなりません」
 フランス革命直後の動乱を駆け抜けたユゴーの言々句々には、民衆が主役の時代を築こうとする闘魂がたぎっている。
 1802年2月、フランス東部のブザンソンで生まれたユゴー。幼い頃に両親は別居し、母に育てられた。母はユゴーと2人の兄に読書を奨励し、息子たちが作家になることを夢見ていた。ユゴー少年の楽しみは、自作の詩を母にほめてもらうことだったという。
 青年に成長した彼は、その才能を遺憾なく発揮する。15歳で権威あるアカデミー・フランセーズの詩のコンクールに応募し、選外佳作に。その後、兄弟で雑誌を発刊し、20歳で初の詩集を著すなど、創作活動に没頭した。
 庶民目線で人間の心に焦点を当てた作品は、伝統や形式を重視する当時の社会にあって、批判されることも多かった。しかし、ユゴーは怯むことなく信念を主張し、“自由の旗手”として衆望を集めていく。
 やがて挑戦の舞台は政界へ(45年)。貧困の解決、教育権の独立や自由民権の擁護など、大衆の地位を向上させるため、激しい言論戦を展開。大統領ルイ・ナポレオンを支持するが、独裁への野心が見えるや、猛烈に攻撃した。
 権力と野望が渦巻く世界で、理想に生きるユゴーを阻もうとする者は少なくなかった。「光り輝くもののまわりには必ず、雑音を放つ黒雲が群がるものです」とは、彼の体験に基づく言葉である

〈HEROES 逆境を勝ち越えた英雄たち〉第30回 ビクトル・ユゴー(1面から続く)2023年4月8日

 
1991年6月21日、フランスのビクトル・ユゴー文学記念館を訪れた池田先生ご夫妻。正義の闘争を貫いた大文豪の生涯をしのんだ
1991年6月21日、フランスのビクトル・ユゴー文学記念館を訪れた池田先生ご夫妻。正義の闘争を貫いた大文豪の生涯をしのんだ
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【ユゴーを語る池田先生】
「思いもおよばぬ巨大な姿を、あなたが目覚めるという、あっと驚く奇跡を見せてやりなさい」
偉大な力があるのは「民衆」である。
日蓮仏法は「民衆のための仏法」である。
【ユゴー】
逆境にあっては、
まさに、かく叫ばねばならぬ、
「希望! 希望! また希望!」と。

 1851年、ルイ・ナポレオンがクーデターを起こし、ユゴーたち共和派は追放された。殺される者も出る中、ユゴーはフランスを出国することに。実に20年近くに及ぶ亡命生活の始まりだった。しかしその間も、彼が戦いをやめることはなかった。
 政府の圧政を痛烈に批判、風刺した『小ナポレオン』や『懲罰詩集』を出版。不朽の名作である小説『レ・ミゼラブル』など、ユゴーの作品の多くは、この激動期に生まれている。
 『レ・ミゼラブル』には、つづられている。「小さな奮闘のうちにこそ多くの偉大なる行為がなされる」と。
 そして、亡命の地でユゴーは堂々と訴えた。
 「逆境を好ましく思う。自由のため、祖国のため、正義のために、自分がなめる辛酸という辛酸を好ましく思う。わたしの良心は喜々としている」
 「逆境にあっては、まさに、かく叫ばねばならぬ、『希望! 希望! また希望!』と」
 「あと千人しか残らなくなっても、よし、私は踏みとどまろう! あと百人しか残らなくなっても、私はなおスラ(古代ローマの独裁官=編集部注)に刃向かおう。十人残ったら、私は十番目の者となろう。そして、たったひとりしか残らなくなったら、そのひとりこそはこの私だ!」
 70年9月、ルイ・ナポレオンがプロイセン軍に敗れた3日後、再びパリの地に立ったユゴー。彼を待っていたのは「ユゴー万歳!」という、市民らの絶大なる歓呼の声だった。
 帰国すると、ただちに普仏戦争終結のために筆を振るった。創作意欲は衰えることなく、不滅の名著『九十三年』をはじめとする作品を次々と発表。ペンの闘争は臨終の直前まで続き、亡くなる3日前には「愛するとは、行動することである」と記している。
 85年5月、83歳で命尽きるまで正義の炎を燃え上がらせた文豪のひつぎは、凱旋門の下に安置され、葬儀は国葬として執り行われた。国民的英雄を見送ろうと集まった人々は200万人に上ったといわれている。
 迫害の烈風にも揺るがず、見事な逆転劇で人生を飾った“ビクトル”の名は、今なお“勝利の人”として、文学史のみならず世界史に燦然と輝きを放っている。

 池田先生にとって、ユゴーの作品は「青春時代の、戦い生き抜く力となった大切な書」であった。
 病弱だった少年期にも、一身をなげうって恩師を支えた青年期にも、火を吐くようなユゴーの言論に魂を震わせた。
 その小説を教材に“戸田大学”で人権や革命などについて学んだこともある。
 1991年には、彼の精神の大光を永遠にとどめ、全世界に広げるため、文豪ゆかりのフランス・ビエーブル市に「ビクトル・ユゴー文学記念館」を創立した。
 2004年から翌05年には、先生が創立した東京富士美術館の海外文化交流特別展として、ユゴー生誕200周年(02年)を記念する「ユゴーとロマン派展」を開催。同展は関西などを巡回し、反響を呼んだ。
 彼の箴言を通し、先生が同志に贈った指針にこうある。
 「ユゴーは呼びかけた。
 『ああ! 民衆よ!』
 『思いもおよばぬ巨大な姿を見せてやりなさい。あなたが目覚めるという、あっと驚く奇跡を見せてやりなさい』
 『立ちあがりなさい! 立ちあがりなさい!』
 偉大な力があるのは、権力者でもなければ、有名人でもない。『民衆』である。
 民衆よ、小さくなるな。民衆が動く、巨大な姿。それを敵に見せつけるのだ!――と。
 日蓮大聖人の仏法は、『民衆のための仏法』である。
 民衆よ立ち上がれ!
 これがユゴーの叫びであり、戸田先生の叫びであり、創価学会の叫びである」(01年5月21日、第6回本部幹部会でのスピーチ)
 「恩師・戸田先生は烈々たる気迫で青年に語られた。
 『勝つことが正義である。ゆえに正義は、絶対に負けてはならない』と。
 妙法は、究極の正義の力である。不滅の勝利の原動力である。
 道理の上で正義であることを、現実に打ち立てることだ。
 ゆえに、この仏法を持った我々は、断じて勝たねばならない。勝たなければ、正義ではない。負ければ、正義ではない。(中略)
 ユゴーは叫んだ。
 『幸福の戦、偉大の戦、正義の戦、美の戦、真理の戦、悪を排し理想を求める善の戦の他には、戦なるものはあるまい』
 人生は戦いである。生きることは、あらゆる現実との戦いである。そのなかにあって、私たちは、最極の『使命の闘争』をしている。それが『広宣流布』である」(04年7月31日、全国最高協議会でのスピーチ)
 さあ、我らの「5・3」へ――新たな民衆凱歌を轟かせる「天の時」は来た。
 池田先生が戸田先生のもとで学んだ小説『九十三年』。その中でユゴーは訴えた。
 「戦闘の最後の勝利は、つねにもぎとるようにしてかちえられるものなのだ」

 【引用・参考】『ユーゴー全集』全6巻・神津道一ほか訳(本の友社)、『ヴィクトル・ユゴー文学館』全10巻・辻昶ほか訳(潮出版社)、辻昶著『ヴィクトル・ユゴーの生涯』(同)、『人間と文学を語る』(同、『池田大作全集』第106巻所収)ほか


ビクトル・ユゴー2

2023年04月08日 | 妙法

HEROES 逆境を勝ち越えた英雄たち〉第30回 ビクトル・ユゴー2023年4月8日

未来の勝者よ、立ち上がるのだ。
今日の課題は何か。戦うことだ。
明日の課題は何か。勝つことだ!
池田大作先生が創立したフランス・ビエーブル市の「ビクトル・ユゴー文学記念館」。大文豪の小説の下書き原本や直筆書簡など、貴重な資料が所蔵されている
池田大作先生が創立したフランス・ビエーブル市の「ビクトル・ユゴー文学記念館」。大文豪の小説の下書き原本や直筆書簡など、貴重な資料が所蔵されている

 新たな船出の4月が始まった。
 「人生は航海なり」――こう謳ったのは、かの大文豪ビクトル・ユゴーである。
 昨年、生誕220周年を迎えた彼の生涯は、相次ぐ艱難の波浪を乗り越え続けた闘争のドラマに彩られている。
 「諸君は未来の勝者であるのだ。あくまでも戦え」
 「今日の課題は何か。戦うことだ。明日の課題は何か。勝つことだ!」
 「昼となく夜となく戦い続けるのです。山も平野も森も戦うのです。立ちあがりなさい! 立ちあがりなさい! 戦いの手を休めてはなりません」
 フランス革命直後の動乱を駆け抜けたユゴーの言々句々には、民衆が主役の時代を築こうとする闘魂がたぎっている。
 1802年2月、フランス東部のブザンソンで生まれたユゴー。幼い頃に両親は別居し、母に育てられた。母はユゴーと2人の兄に読書を奨励し、息子たちが作家になることを夢見ていた。ユゴー少年の楽しみは、自作の詩を母にほめてもらうことだったという。
 青年に成長した彼は、その才能を遺憾なく発揮する。15歳で権威あるアカデミー・フランセーズの詩のコンクールに応募し、選外佳作に。その後、兄弟で雑誌を発刊し、20歳で初の詩集を著すなど、創作活動に没頭した。
 庶民目線で人間の心に焦点を当てた作品は、伝統や形式を重視する当時の社会にあって、批判されることも多かった。しかし、ユゴーは怯むことなく信念を主張し、“自由の旗手”として衆望を集めていく。
 やがて挑戦の舞台は政界へ(45年)。貧困の解決、教育権の独立や自由民権の擁護など、大衆の地位を向上させるため、激しい言論戦を展開。大統領ルイ・ナポレオンを支持するが、独裁への野心が見えるや、猛烈に攻撃した。
 権力と野望が渦巻く世界で、理想に生きるユゴーを阻もうとする者は少なくなかった。「光り輝くもののまわりには必ず、雑音を放つ黒雲が群がるものです」とは、彼の体験に基づく言葉である。