【ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち】第24回 クーデンホーフ=カレルギー2022年10月16日
正しいことのために戦うことは
幸福を意味している。人生は、
いつまでも闘争であるべきである。
55年前の10月、池田大作先生は世界の識者や指導者と本格的な文明間・宗教間対話を開始した。その最初の相手となったのは「欧州統合の父」と仰がれるリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵である。
伯爵が“欧州を一つにまとめることが、平和につながる”とする「パン・ヨーロッパ運動」に立ち上がったきっかけは、第1次世界大戦だった。オーストリアの皇太子がサラエボの青年に暗殺された事件が端緒となり、全欧州を戦場に1914年から4年以上も続いた、人類最初の世界戦争である。
戦後、多くの小国に分裂した欧州は、新たな火種が生まれ、第2次世界大戦がいつ起きてもおかしくない状況下にあった。
欧州統合の理念自体は古くから存在していた。だが分断や対立が激化する社会で、その実現はどこか夢物語にすぎなかった。
大学を卒業し、20代後半で中部ヨーロッパの有力な思想家として認められるようになっていた伯爵は、今から100年前の1922年、パン・ヨーロッパ運動に関する論文を発表する。
翌年、28歳の時に『パン・ヨーロッパ』を出版し、大きな反響を呼んだ。さらには「パン・ヨーロッパ連合」を結成し、各国に「パン・ヨーロッパ協会」を設立。“欧州は一つ”の理想へ、各地を精力的に駆け巡った。運動に「全て」を意味する「パン(汎)」を掲げたのは、主権国家同士の共同体を築くとの決意からであった。
しかしその夢は、ナチス・ドイツの台頭で一度は挫折する。海外への亡命を余儀なくされ、ウィーンにある本部を占拠したナチスにパン・ヨーロッパ関連の文書を破棄されてしまう。39年には、恐れていた第2次大戦が勃発した。
それでも伯爵は諦めず、アメリカに渡ってパン・ヨーロッパ思想への支持を拡大。45年の終戦後に欧州へ戻り、統合実現に向けて再び動き出す。49年に欧州評議会が発足すると、続いて57年に欧州経済共同体(EEC)、67年に欧州共同体(EC)が誕生し、夢は現実となった。
伯爵の信念の言葉にこうある。
「平和の領域は一歩一歩づつしか占拠できないものであって、現実に一歩前進することは空想で何千歩進むより以上の価値がある」
「正しいことのために戦うことは幸福を意味している」
「人生は闘争であり、また、いつまでも闘争であるべきである」
1894年11月17日、クーデンホーフ=カレルギー伯爵は、7人きょうだいの次男として日本で生まれた。日本名は「エイジロウ」である。
父・ハインリヒはオーストリア=ハンガリー帝国の有力貴族で、母・光子は日本の商家の娘。2人は、外交官だった父が代理公使として日本に赴任していた時に出会い、結婚した。一家は伯爵が生後1年を経たころ、父の帰国とともにオーストリアへ移住する。
オランダ、ドイツ、ロシア、ポーランド、ギリシャの血を引いていた父は18カ国語に通じ、アラビア、インドをはじめ東洋に深い関心を寄せていた。自宅には海外から多くの来客が訪れ、少年時代の伯爵は父の“国際人”としての仕事を目の当たりにしながら成長した。書斎には哲学者の像や多くの書籍が並び、父が地球儀を回しながら世界について語ってくれることもあったという。
母は移住後、周囲からの偏見と向き合いながら、伯爵夫人としてふさわしい女性になるため、言語や教養を身に付けつつ、7人の子育てに奮闘した。
円満だった一家に試練が襲ったのは、移住から10年がたった1906年。父が心筋梗塞のため急逝したのである。周囲は、日本人の光子が財産を相続することに反対したが、彼女は批判の声にも屈さず、一家の家長として子どもたちを立派に育て上げていった。
後年、伯爵は述懐している。
「母は、子どもの教育については、夫である私どもの父の精神を、そのまま受け継いでおりました。(中略)私は、こうした母がいなかったとしたら、決してパン・ヨーロッパ運動を始めることはなかっただろうと考えています」
後に欧州連合(EU)へと発展する、欧州統合の出発点は“世界市民”である伯爵の両親だったともいえよう。
他人や環境を変えようとする
前に、まず自分自身を変える
努力をすべきである。
さらに、こうも語っている。
「一人の人間の周りに、家族、友人、社会、国家などがあります。人間は自分自身に対して、第一の義務を負っているわけですから、他人や環境を変えようとする前に、まず自分自身を変える努力をすべきだと思います」
「真に世界平和を保証する唯一の道は結局、宗教以外にはない」
伯爵がこの真情を伝えた相手こそ、池田先生であった。
EUの前身であるECが発足した1967年、クーデンホーフ=カレルギー伯爵は71年ぶりに日本の土を踏んだ。72歳の時である。
創価学会を「世界最初の友愛運動である仏教のよみがえり」と評価していた伯爵。訪日に当たって会見を希望した1人が、池田先生だった。
10月30日、初の出会いが実現。「私は直ちに池田の人物に強く感銘した。やっと39歳の、この男から発出している動力性に打たれたのである」――そう振り返った会談は「東京滞在中のもっとも楽しい時間の一つ」になったという。
伯爵と先生が再会したのは3年後の70年10月。再来日の折に4度会い、のべ十数時間に及ぶ会見を行った。語らいは対談集『文明・西と東』として結実。先生が海外の識者と編んだ対談集の第1号となった。発刊から2カ月後の72年7月、伯爵は77歳の生涯を閉じた。
青年が勇気をなくしたら、
もはや、青年ではない。
人々に「気持ちがいいな!」
「素敵だな!」と思わせる、
勇気の声を響かせていくのだ。
自らも若き指導者であった伯爵は「青年」に期待を寄せていた。その心を知る先生は、伯爵の言葉を通し、こう呼びかけている。
「博士が、青年への信頼を込めて語っていたことが忘れられない。
『人類の未来は、明敏な頭脳が主導権をにぎる世界となるだろうと思います。したがって、現在の学生たちが明日の世界を決定づける指導者となるのであって、彼ら自身は、その自覚に立って、未来に向かって自己形成し、準備をするべきだと思います』
青年は、自己形成を怠ってはならないと博士は遺言されたのである。頭脳も心も人格も鍛えなければならない。知識だけで『人間』が置き去りにされれば、社会は、どんどん誤った方向へ進むであろう。人格形成を根本に均衡のとれた人間形成が必要なのである」(95年5月21日、常勝関西第1回青年部記念総会でのスピーチ)
「(伯爵は)語っておられた。
『青年のみが熱意と、意志と、希望と、信念と、力を持っている』『青年は炎を持っており、その炎がなかったら、いかなる理念も光を発しないし、また勝利を占めることが出来ない』と。
創価学会も、青年で勝ってきた。青年が炎となって戦ったから、勝ってきたのである。(中略)
青年が勇気をなくしたら、もはや、青年ではない。青年は『勇気の皇帝』である。『平和の皇帝』である。若いというだけで、すでに、無限の財産と希望を持つ皇帝なのである。ゆえに若き皆さんは、『あの青年は気持ちいいな!』『あの青年は素敵だな!』――周囲の人々にこう思わせる、凛々とした勇気の声を響かせていっていただきたい」(2001年9月23日、第1回千葉青年部総会でのスピーチ)
両者の初会見から55年。創価の青年スクラムは今、日本、欧州、世界に大きく広がっている。
【引用・参考】『クーデンホーフ・カレルギー全集』全9巻・鹿島守之助ほか訳(鹿島研究所出版会)、『講演集 大陸日本』香川徹ほか訳(潮出版社)、『文明・西と東』(『池田大作全集』第102巻所収)ほか