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1969年(昭和44年)「建設の年」

2022年10月19日 | 妙法

〈栄光の共戦譜〉第10回 1969年(昭和44年)「建設の年」2022年10月19日

正義の言論を高らかに!

 池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を1年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第10回は、「建設の年」と銘打たれた1969年(昭和44年)を掲載する。

「2・5」井上靖と初会談
「8・17」文芸部結成の日
池田先生との会談の席上、井上靖氏は「日本文化に貢献するためにも、ぜひ」と、連載対談の実現を強く望んだ(1975年3月4日、東京・信濃町で)
池田先生との会談の席上、井上靖氏は「日本文化に貢献するためにも、ぜひ」と、連載対談の実現を強く望んだ(1975年3月4日、東京・信濃町で)

 小林秀雄氏や加藤周一氏、有吉佐和子氏など、日本を代表する文人たちとも語り合ってきた池田先生が、文学界の巨匠である井上靖氏と都内で会談を行ったのは、1969年(昭和44年)2月5日のことだった。以前から、氏は先生の思想に関心を持っていた。氏が編集し、前年12月に出版された書籍にも、先生の言葉の抜粋が名言集として収録されていた。先生も、井上文学の読者だった。
 69年11月末ごろから、“言論問題”が起こり、学会への批判は激しさを増した。氏が理事長を務める日本文芸家協会でも、学会に抗議声明を出すべきだという声が上がった。そんな中、氏は月刊誌「潮」の編集長に、こう述べた。
 「あれほど深く文学を理解し、また、ご自身でも筆を執られる先生が、『言論の自由』とか、民主主義の基本となることに対して、間違ったとらえ方をされるはずがない」「協会として特定の人びとを排斥するような、そんな声明を出すなど、少なくとも私が理事長をしている限り、するつもりはないし、させません」
 学会を深く理解する氏の叫びだった。
 氏は「作家に志がなくなった」と、文学界の憂慮を先生に吐露したことがある。
 先生も、文学の衰退を憂い、仏法を基調にした新しい文学の興隆の必要性を感じていた。そうした中、69年8月17日に発足したのが文芸部だった。先生は結成式で「情熱の訴えが、人の心を揺さぶる」と語り、自らもペンを執り続けた。
 言論問題が起きた同年は、創価の文芸の流れが生まれる黎明の年ともなった。
 先生と氏は、75年(同50年)春から、手紙での語らいに取り組んだ。「故郷」「師弟」等、幅広いテーマについて論じ合った。この往復書簡は『四季の雁書』(潮出版社)として発刊されている。

「7・26」鼓笛隊の初の海外演奏
「満点の演技でした!」「お父さん、お母さんによろしくね」――鼓笛隊一人一人に励ましを送る池田先生(2002年11月17日、東京・八王子市の創価大学で)
「満点の演技でした!」「お父さん、お母さんによろしくね」――鼓笛隊一人一人に励ましを送る池田先生(2002年11月17日、東京・八王子市の創価大学で)

 「“友よ、世界は一つ” 鼓笛隊の熱演に絶賛の嵐」――富士鼓笛隊初となる海外演奏を報じる聖教新聞の見出しだ。
 1969年(昭和44年)7月26日(現地時間)、米国ロサンゼルスで開催された全米総会に、富士鼓笛隊が出席。終了後に開かれた「日米友好の夕べ」で、アメリカ鼓笛隊と共に演奏した。
 翌日には、全米総会を記念する“日米鼓笛隊パレード”が晴れやかに行われ、サンタモニカ市を走るオーシャン大通りを行進。パレードは市が全面的に支援し、協力した。
 沿道の5万人の観衆や近隣の建物からは大歓声と拍手が響き、「サンタモニカで、これほど見事なパレードを見たのは初めて」などと感嘆の声が寄せられた。
 日本にいる池田先生は、その模様を聞くと、「学会の鼓笛隊は、世界一だもの。全会員の誇りだね」と、感慨深く語った。
 鼓笛隊の結成は56年(同31年)7月22日。先生が、私財を投じて楽器を用意した。当時、楽器の未経験者も多い中、何度も練習会場に激励に訪れ、「今に、世界の友と演奏する時が、必ずくるよ」と希望の灯をともしたのが、先生だった。
 69年の鼓笛隊の初の海外演奏は、師の願いを実現する一大イベントとなった。師匠の手作りで発展を遂げた鼓笛隊は、その後も海外での出演を重ね、平和と友情の調べを奏でてきた。
 本年は、2002年(平成14年)11月17日、先生が出席して開催された歴史的な「音楽隊・鼓笛隊合同演奏会」から20周年の佳節を刻む。この日、先生は演奏が終わると真っすぐ舞台へと向かい、出演者を激励。そして、万感の和歌を贈った――。「華麗なる/世界一なる/鼓笛隊/優雅な乙女の/音律 天まで」

「12・21」烈風の和歌山指導
天空をかけるがごとき気迫の指揮(1969年12月21日、和歌山県立体育館で)。和歌山の同志はこの姿を生命に焼き付け、勝利の道を切り開いてきた
天空をかけるがごとき気迫の指揮(1969年12月21日、和歌山県立体育館で)。和歌山の同志はこの姿を生命に焼き付け、勝利の道を切り開いてきた

 新大阪に向かう新幹線の車中、池田先生はシートに身を委ねていた。1969年(昭和44年)12月20日、高熱と咳に苦しむ中、体調不良を押して、この年7度目となる関西指導を決行。1年ぶりとなる和歌山訪問も予定されていた。
 先生は、同年5月の本部総会で、明70年(同45年)5月3日までの目標として、会員750万世帯の達成を掲げた。五体をなげうつ覚悟で全国各地を激励に走り抜く中、疲労が重なり、12月半ばに体調を崩してしまったのである。
 大阪に到着した日の夜、東京から香峯子夫人も駆け付けた。医師からは「急性気管支肺炎」との診断。
 しかし、先生は「必ず行きます」と和歌山の友に約束していた。広宣流布にまい進する友を励まそうと心に強く決めていた。翌21日、医師に同行してもらい、先生は和歌山へと向かった。
 和歌山県立体育館で開催された幹部会に先生が姿を現すと、会場は「先生!」と大歓声に包まれた。
 先生は冒頭、「シュプレヒコールをやろう!」と呼びかけた。「和歌山は戦うぞ!」「和歌山は、断じて勝利するぞ!」と、力強い先生の声に続いて、決意みなぎる参加者の声が響く。そして、先生は24分にわたって指導し、“創価の民衆運動こそが社会に活力を与える”と訴えた。
 「よーし、やるぞ!」――先生は、同志が喜ぶならと、最後に武田節の指揮を執った。命を削っての師の舞に、同志は胸を熱くした。皆が「断じて勝ちます!」と固く誓った。
 師匠の不惜身命の激励は、和歌山の不滅の原点である。当時の模様をつづった小説『新・人間革命』14巻「烈風」の章の連載から20周年を刻む明年へ、和歌山の同志は、“常勝の誓い”に燃える。

◆年表◆
1969年

 〈1月1日〉
 聖教新聞に詩「建設の譜」を発表
  
 〈2月5日〉
 作家の井上靖氏と会談(東京)
 後に交わされた往復書簡は『四季の雁書』として刊行
  
 〈2月15日〉
 沖縄指導(~18日)
  
 〈2月23日〉
 第1回婦人部総会(東京)
  
 〈3月16日〉
 第1回広宣流布大願成就勤行会。第1回壮年部総会(東京)
  
 〈5月3日〉
 第32回本部総会で750万世帯の目標を発表。
 開学を目指す創価大学に「人間教育の最高学府たれ」
 「新しき大文化建設の揺籃たれ」
 「人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」との建学の精神を示す(東京)
  
 〈6月6日〉
 女子部の看護師グループの結成式にあたり、「白樺グループ」との名称を贈る(東京)
  
 〈6月20日〉
 聖教新聞に連載中の小説「人間革命」(第5巻)で「日中平和友好条約」の早期締結を主張
  
 〈7月17日〉
 創価学園の第2回栄光祭で“2001年に世界に輝く存在となって集おう”と目標を示す(東京)
  
 〈7月26日〉
 富士鼓笛隊を第6回全米総会に派遣
 〈鼓笛隊の初の海外演奏〉
  
 〈8月15日〉
 第2回高等部総会(東京)
 西暦2000年の再会を提案
 〈後日、この総会参加者で「2000年会」を結成〉
  
 〈8月17日〉
 文芸部結成式(静岡)
  
 〈9月7日〉
 生命の尊厳、人間性の回復を掲げた民衆のための美術展、第1回第三文明展を鑑賞(東京)
  
 〈9月――〉
 イギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビー博士から会談を望む手紙が届く
  
 〈10月30日〉
 福島総合本部幹部会
  
 〈12月20日〉
 関西・中部指導(~23日。大阪、和歌山、奈良、三重)
 最悪の体調のなか訪問を決行し、和歌山では「武田節」を舞う(21日)

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