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栄光の共戦譜

2022年02月15日 | 妙法

〈栄光の共戦譜〉第2回 1961年(昭和36年)「躍進の年(青年の年)」2022年2月15日

  • 広布の伸展は青年の飛躍とともに

 池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を一年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第2回は、「躍進の年(別名・青年の年)」と銘打たれた1961年(昭和36年)を掲載する。

1・28~2・14 アジアへ平和旅
1961年1月28日、池田先生は香港の地にアジアの平和旅の第一歩をしるした
1961年1月28日、池田先生は香港の地にアジアの平和旅の第一歩をしるした

 1961年(昭和36年)元日、学会本部で池田先生が新年のあいさつを行った後、戸田先生の和歌が紹介された。
 「雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日をぞ送らん」
 翌日、池田先生は、恩師の墓前で、アジア訪問への決意を報告。そして1月28日、東洋広布を熱願した戸田先生の思いを実現するため、アジアへの平和旅に出発した。
 2月14日までの18日間で、香港、セイロン(現・スリランカ)、インド、ビルマ(現・ミャンマー)、タイ、カンボジアの5カ国1地域を訪れる行程だった。当時、香港に10世帯の学会員がいたが、他の訪問地には、ほとんどいなかった。
 1月28日、香港に降り立った先生は、早速、海外ではアジア初となる地区を結成。31日には、初めてインドの地を踏む。そして、幾万、幾十万の地涌の人材が誕生することを深く祈念する。さらに、ビルマを訪れ、この地で戦死した長兄をしのびつつ、日本人墓地で戦没者の追善法要を行い、恒久平和を誓う。
 この訪問では、先生の“一対一”の激励行によって、アジア各地に平和の種が植えられていくとともに、重要な平和・文化構想も語られた。
 「私は、必死になって、平和と文化の道を開こうとしているんです。私が東洋の哲学や民族、文化の研究機関をつくろうというのも、また、音楽の財団を設立しようというのも、そのためです」
 その展望はやがて、東洋学術研究所(後の東洋哲学研究所)や民主音楽協会などの設立につながっていく。
 日蓮大聖人は、“仏法西還”の未来記を御予言された。先生のアジア訪問は、仏の未来記を実現し、平和と文化の道を開く歴史的な第一歩となった。

10・4~23 初の欧州訪問
イギリスのウィンザー城を見学する池田先生(1961年10月14日)
イギリスのウィンザー城を見学する池田先生(1961年10月14日)

 池田先生が初の欧州訪問に旅立ったのは、1961年(昭和36年)10月4日。翌5日、デンマークのコペンハーゲンにその第一歩をしるした。東西冷戦の対立の溝が深まり、ドイツのベルリンが「壁」で分断された直後だった。
 8日、先生は西ベルリン(当時)を訪れると、建造されたばかりの「ベルリンの壁」へ。「ブランデンブルク門」を仰ぎながら同行の友に語った。
 「30年後には、きっと、このベルリンの壁は取り払われているだろう……」
 先生の言葉は、単なる願望ではなかった。“分断の壁”を取り除き、平和のために戦おうとの、断固たる決意にほかならなかった。
 その後、先生は民族やイデオロギーを超えて、世界の指導者と粘り強い対話を重ねながら、「平和」と「連帯」の潮流を広げていった。そして、28年後の89年(平成元年)11月、「ベルリンの壁」は、東西ベルリン市民の手によって壊されたのである。
 61年の初の欧州訪問では、先生は20日間で、デンマーク、西ドイツ(当時)、オランダ、フランス、イギリス、スペイン、スイス、オーストリア、イタリアの9カ国を歴訪。パリの凱旋門、ウィンザー城、ベートーベンの墓碑、サン・ピエトロ大聖堂などの歴史的建造物も視察した。
 2度の世界大戦をはじめ、絶えず戦火の舞台となってきた欧州に“ヒューマニズム”の種子をまく開道の旅路だった。
 先生は古代ローマの遺跡を訪れた際、「ローマの 廃墟に立ちて 吾思う 妙法の国 とわにくずれじ」と詠んだ。
 今、欧州では16万人を超える地涌の陣列が、仏法のヒューマニズムの輪を広げ、一人一人の心に、崩れざる“人間共和の永遠の都”の建設に挑んでいる。

11・5 男子部総会 11・12 女子部総会
10万人が一堂に会した第10回男子部総会(1961年11月5日、東京・国立競技場で)
10万人が一堂に会した第10回男子部総会(1961年11月5日、東京・国立競技場で)

 「躍進の年」と銘打たれた1961年(昭和36年)5月3日、池田先生は男女青年部の幹部と懇談し、こう語った。
 「青年の大飛躍の節にするために、今日を出発点として、今年を『青年の年』としたいと思うが、どうだろうか」
 先生は自らが、“青年の一人”との思いで、青年部の真っただ中に入り、若人たちに激励を送り続けた。
 11月5日、先生が「青年部の室長としての最後の仕事」と位置付けていた“10万結集”の男子部総会が開催された。
 “10万結集”は、54年(同29年)に戸田先生が「国士訓」を発表し、「青年よ、一人立て! 二人は必ず立たん、三人はまた続くであろう。かくして、国に十万の国士あらば、苦悩の民衆を救いうること、火を見るよりも明らかである」と呼び掛けて以来、青年部の室長だった池田先生の大きな誓いであった。
 恩師との誓いを果たし、男子部総会の会場となった東京・国立競技場で、先生は力説した。「諸君が、それぞれの立場で、全民衆の幸福のため、広宣流布のために、大仏法の正義を証明する、人生の勝利者になっていただきたい」
 11月12日には、「原水爆禁止宣言」の発表の場である神奈川・三ツ沢の競技場で、8万5千人の女子部総会が行われ、「次の時代の女性指導者は、最高の哲学をもった皆さんである」と訴えた。
 先生は、当時の総会を振り返りながら、「青年の魂とは何か。偉大な目標に挑む気概だ。自ら求めて、新たな戦いを起こす覇気と行動力だ」と述べている。
 学会が飛躍する時、そこには必ず青年の躍進がある――。それは、戸田先生の弟子として、さらには第3代会長就任後も、池田先生が示してきた広布の不変の方程式である。

◆年表◆
1961年

 <1月8日>
 九州3総支部結成大会(福岡)
  
 <1月28日>
 アジア訪問(~2月14日。香港、セイロン、インド、ビルマ、タイ、カンボジア)
 香港でアジア初の地区を結成(28日)
 仏法西還の意義をとどめ、インド・ブッダガヤで「東洋広布」の石碑を埋納(2月4日)
  
 <2月19日>
 東北方面の支部結成大会(~23日。宮城、青森、秋田)
  
 <3月8日>
 関西3総支部合同幹部会(大阪)
  
 <3月16日>
 青年部第1回音楽祭(東京)
  
 <4月2日>
 戸田先生の四回忌法要(東京)
  
 <4月3日>
 上越指導(~4日。群馬、新潟)
  
 <4月12日>
 関西・中部指導(~16日。大阪、三重、愛知、岐阜)
  
 <4月22日>
 中国指導(~24日。岡山、島根、広島)
  
 <5月3日>
 第23回本部総会(東京)
 会長就任1年で61支部から139支部に発展・拡大
  
 <5月7日>
 九州・関西指導(~11日。福岡、京都、奈良、兵庫)
  
 <5月14日>
 沖縄総支部結成大会
  
 <5月17日>
 東北3総支部合同結成大会(福島)
  
 <5月19日>
 言論部結成式
 正義の言論を展開する使命を語る(東京)
  
 <6月10日>
 教育部の結成式が行われる(東京)
 中部指導(~12日。愛知)
  
 <6月17日>
 関西指導(~18日。京都、大阪)
  
 <6月27日>
 第14回本部幹部会で200万世帯の達成を発表(東京)
  
 <10月4日>
 初の欧州訪問(~23日。デンマーク、西ドイツ、オランダ、フランス、イギリス、スペイン、スイス、オーストリア、イタリア)
 東西対立の象徴であるベルリンの壁を視察(8日)
  
 <11月5日>
 第10回男子部総会で、戸田先生の遺訓である「国士10万」の結集(東京・国立競技場)
  
 <11月12日>
 第9回女子部総会で8万5千人が結集(神奈川・三ツ沢の競技場)
  
 <11月20日>
 東北本部の落成入仏式。「新世紀の歌」が発表される(宮城)
  
 <12月16日>
 大阪事件裁判の第83回公判で最終陳述を行う(大阪)

 ※年表は『栄光の共戦譜』から転載

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