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小説「新・人間革命」学習のために 第19巻

2020年10月23日 | 妙法

マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために 第19巻 2020年10月23日

 小説『新・人間革命』の山本伸一の激励・指導などを紹介する「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」。今回は第19巻を掲載する。次回の第20巻は11月6日付2面の予定。挿絵は内田健一郎。

 
学会のこんぽん精神はの心

 <1974年(昭和49年)2月、山本伸一は「平和への波動」をテーマに行われた沖縄広布20周年記念総会に出席。創価の運動の根本をなすものは何かについて講演する>
 
 「それは一言すれば、どこまでも相手のことを思いやる『利他』の一念です。この利他の心を人びとの胸中に打ち立てることこそ、平和建設のポイントとなります」(中略)
 
 創価学会は、民衆の心に「利他」という生き方の柱を打ち立ててきた。
 
 メンバーの多くは、病苦や経済苦、家庭不和など、苦悩の解決を願って信心を始めた。いわば、自らの救済を求めての入会といえる。
 
 しかし、御書に「我もいたし人をも教化候へ」(1361ページ)と仰せのように、日蓮仏法は「自分も信心に励み、人にも仏法を教えよ」と説く。つまり、人びとの幸福を願い、広宣流布に生きてこそ、わが幸福が築かれるというのである。そこには、「自行」と「化他」の融合がある。自分自身の煩悩が、広宣流布という最極の菩薩行を推進する活力源となるのだ。
 
 そして、その「利他」の実践によって、「利己」に凝り固まり、汲々としていた、小さな生命の殻が破られ、自らの境涯が大きく開かれていくのである。まさに、この「利他」の一念こそ、「境涯革命」「人間革命」を成し遂げる、生命の回転軸なのである。
 
 友の幸せを祈り、懸命に弘教に走る同志の胸中には、歓喜が込み上げ、勇気がうねり、希望が広がっている。病苦や経済苦などの、さまざまな悩みを抱えながらも、あたかも波乗りを楽しむかのように、悠々と乗り越えていくことができる。
 
 信心の本当の大功徳とは、この「境涯革命」「人間革命」である。自分の境涯が変わるから、依正不二の原理で、環境も変化し、一切の問題が解決できるのである。
 
 

真実の歴史を伝え残す使命

 <2月、伸一は、沖縄の名護会館で中学・高校生らと懇談。戦争体験者の証言集出版を提案する>
 
 「今、戦争の記憶が、社会から忘れ去られようとしている。だからこそ諸君には、二十一世紀のために、お父さん、お母さんたちの戦争の苦しみを、厳然と伝え残すべき使命と責任と義務があります」(中略)
 
 「戦争を引き起こした権力の魔性を打ち砕こうと、広宣流布を決意し、敗戦直前の焼け野原に一人立たれたのが、第二代会長の戸田先生です。
 
 先生は、それまで、師である初代会長の牧口先生と共に、軍部政府の弾圧で投獄されていた。牧口先生は獄死するが、弟子の戸田先生は生きて牢獄を出た。そして、“牧口先生の志を受け継いで、平和社会を創ろう。それが先生の敵を討つことだ!”と深く心に誓います。
 
 その二年後、私は十九歳で戸田先生とお会いし、信心を始めました。戦時中は軍部政府の弾圧と戦い、さらに、人類の幸福と平和を築くために生涯を捧げようとされている先生の生き方に、私は感動しました。先生の弟子となれたことに、無上の誇りと喜びを感じていました。そして、先生と共に戦うなかで、私は“この先生の伝記を必ず書こう。後世に真実を伝え残そう”と決意しました。
 
 その時に、最初の章のタイトルは“黎明”にしようと、密かに決めていました。この構想が、後に小説『人間革命』となって結実したんです。戦争も、歳月がたてば真実が忘れられ、歴史のなかに埋もれてしまう。書き残さなければ、真実は伝わらない」
 
 (「虹の舞」の章、100~101ページ)

 

「人格」のしょくはつが人間をはぐく

 <3月、伸一は中米の国立パナマ大学を訪れ、同大学総長と会談。総長が、教授と学生の理想の関係として、ソクラテスとプラトンの師弟関係をあげると、伸一は答えた>
 
 「全く同感です。ソクラテスは青年との対話に終始していますが、決して権威的な態度で、高みからものを言うのではなく、どこまでも青年を尊重し、対等の立場で接しています。一方、プラトンはソクラテスを師として敬愛し、全幅の信頼と尊敬を寄せております。この互いの尊敬のうえに成り立つのが、本来の師弟という人間関係なんです。
 
 その魂の結合があってこそ、真の触発があり、学問の深化もあるといえます。単に断片的な知識を得るだけならば、書物があれば、師はなくてもよいかもしれません。しかし、人生の真理を探究する、また、人間を育むという作業は、人格を通してのみ行われるものです。ゆえに教育には、『師弟』が不可欠であると思います」
 
 総長は、何度も頷きながら、伸一の話に真剣に耳を傾けていた。
 
 「私は、戸田城聖先生という師匠から、万般の学問を教わりました。先生は最高の思想家であり、優れた数学者でもありました。それはそれは、厳しい師匠でしたが、この師に学んだことが、私の最高の誇りです。
 
 戸田先生は、既に十六年前に亡くなっておりますが、私は今でも、日に何度となく、師と心で対話しています。一つ一つの問題に対して、先生ならどうされるかを常に考えています。また、自分の行動や決断をご覧になったら、先生は喜ばれるか、悲しまれるか、日々、自分に問いかけております。
 
 師をもつということは、自分の生き方の規範をもつことであり、それは教育の根幹をなすものであると思います」
 
 伸一は、戸田の弟子として師を語る時、最も誇りに燃え、歓喜があふれた。それが真の弟子の心である。
 
 (「凱歌」の章、124~126ページ)

 
師は「じっせんの人」と共にあり

 <4月、北米を訪問中の伸一は、サンタモニカのアメリカ本部で、戸田城聖の十七回忌法要を挙行。恩師への思いを語る>
 
 「私はいつ、どこの地にあっても、戸田先生のご指導が、あの師子吼の姿が、瞬時も脳裏から離れたことはありません。
 
 そして、常に“先生が今の私をご覧になったら、なんと言われるか”“先生ならば、どうされるか”と自分に問い続け、師の遺志を受け継いで広宣流布に邁進してまいりました」(中略)
 
 「戸田先生を知らない皆さんは、先生のことを、もっと、もっと、知りたいと思われていることでありましょう。しかし、先生と何度もお会いし、指導、激励を受けながら、広宣流布のために本気になって戦おうともせず、退転していった人もおります。
 
 先生を知るとは、先生の信心を学び、実践することです。その人の心にこそ、戸田先生がいらっしゃるんです。平和を願い、広宣流布に邁進する、生命の脈動のあるところに、戸田先生の生命が通うのであります。
 
 私たちは、ともどもに広宣流布の大指導者たる戸田先生の弟子として、この四月二日を人生と信仰と広布への意義ある跳躍の日と定めて、前進していくことを誓い合おうではありませんか!」
 
 法華経には「在在諸仏土 常与師俱生(在在の諸仏の土に 常に師と俱に生ず)」(法華経317ページ)とある。
 
 師の心をわが心として広布の庭で戦う人は、常に師と共にある。
 
 (「陽光」の章、226~227ページ)
 

 

海外での初の大学講演
池田大作先生はカリフォルニア大学ロサンゼルス校で「21世紀への提言」と題する歴史的な講演を行った(1974年4月)
池田大作先生はカリフォルニア大学ロサンゼルス校で「21世紀への提言」と題する歴史的な講演を行った(1974年4月)
 

 <1974年(昭和49年)4月1日、山本伸一はアメリカのUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で記念講演する。その講演は、海外の大学・学術機関での最初の講演となった>
 
 彼は、仏法では人生を、生老病死など苦しみの集積であると説いていることを語り、「ではなぜ、人は人生に苦しみを感ずるのか」を論じていった。
 
 
 ──それは、万物万象は「無常」であるにもかかわらず、「常住不変」であると思い、そこに執着し、煩悩のとりこになっているからであると、仏法では説いている。
 
 現代文明も、この「無常」なるものへの執着、煩悩の充足をバネに発展してきた。その結果、人類は便利さや快適さなどを手にしたものの、環境破壊や核戦争の脅威に怯え、滅亡の淵に自らを追い込んできたといえよう。
 
 一部の仏教では、苦悩を離れるには、煩悩を断つ以外にないと教えてきた。では、人間は煩悩を断つことができるのだろうか。生ある限り、生きることに執着し、愛を大切にし、利を求めようとするのは、人間の自然な感情である。仏法の真髄の教えは、煩悩を断って、執着を離れることを説いたものではない。
 
 無常の現象に目を奪われ、欲望に翻弄され、煩悩に責められているというのは、自己自身の小さな我、すなわち「小我」にとらわれている状態である。真実の仏法は、煩悩や執着の働きを生み出す生命の奥に、また、無常の現実の奥に、それらを統合、律動させている常住不変の法があると説いているのである。
 
 そして、この普遍的真理を悟り、そのうえに立って、無常の現象を包み込んでいく生き方、つまり「大我」に生きることを教えているのだ。この「大我」とは、生命のさまざまな動きを発現させていく宇宙の根源的な力であり、「法」である。(中略)
 
 さらに彼は、「大我」に生きるということは、「小我」を捨てることではなく、「小我」をコントロールし、人間の幸福のために生かすことであると述べた。
 
 もし「小我」を驀進する列車とするなら、「大我」は、その軌道と考えることもできよう。軌道を踏み外せば、暴走し、転覆してしまうが、「大我」という確かな軌道を進めば、崩れざる幸福を実現することができるのだ。
 
 (「陽光」の章、216~219ページ)
 

 
 

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 聖教電子版の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」第19巻「解説編」の池田博正主任副会長の紙上講座と動画を閲覧できます。

 第19巻「解説編」はこちら

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