市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

それごっこ?!

2007-03-03 | Weblog
 担当と呼ばれる看守に同じ価値を見出して、抵抗・反逆から模範囚人に転向という結末も「愛と青春の物語」のハリウッドメロドラマ映画ではないのだ。「調律の帝国」は、文学と哲学を駆使した壮大な観念の構築物ということを忘れていけない。背後には著者の文学、哲学、歴史、社会、法律と膨大な読書渉猟があり、その読解力も並ではない。一例をあげれば、刑務所の国家権力と戦えるのは、願箋、情願、訴状、幹部面接、人権委告発、弁護士呼びを実現させる法の駆使である。このような法への習熟もおどろくほどである。これらの該博な知識の習得のうえに構築されていく自己認識の結果の果ての結末なのである。

 そして、なによりも圧倒的なのは、この刑務所の実態は、実体験をしたものだけが描写しうるという迫真力がある。サディストとしかいいようのない看守、主人公のような政治犯、強姦魔、強盗、殺人の凶悪犯、老人もわかものも、東大でのインテリもやくざもいて、模範囚から反抗魔、懲罰常習者、ふぬけ、精神異常者とありとあらゆる人間とその意識と行動がある。それが、調律されて阿鼻叫喚の地獄画が展開していく。凶悪犯よりも凶悪な担当看守、精神が異常としかいいようのな精神科医とこれら囚人の世界で、人間とは個人をはなんかがむきだしになっていく。その過程は、地獄絵であり、バルザックも引く人間喜劇であり、国家権力の底力に恐怖を覚えさせられるのである。

 そこに対抗してものされた哲学書、思想書であり、青春物語でもある。これは今の若者をひきつけうる読解不能の魔書でもあると思う。本書は、三島由紀夫賞の最終候補に残ったというが、そんな賞の範疇で計れない異様な日本文学の異端部として在りつつけよう。実は避けたくなる。といってもぼくは正常部の日本文学にもなんの魅力も感じなてない。
 
 さて、三沢知廉は、1959年東京生まれ、中央大法科除籍、暴走族、左翼学生、右翼、テロと粛清リンチの殺人で獄中12年を過ごした。獄内で、新日本文学賞受賞作
「天皇ごっこ」を執筆、翌年「囚人狂時代」がベストセラーとなり「調律の帝国」に結実している。つまり彼自身の実人生に基づいているのだ。

 かれの人生はまさに、普通人の想像も不可能な非日常の異常な領域を歩んだ挙句の自己認識であった。そして、ここにかれのそれをなげうつべき「美しきもの」が
生まれてくるのだ。安部晋三の問いは、かくして異常化されしかも事実認識ができていないことが、三沢を下敷きにすると明瞭にわかってくる。
コメント
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