市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

公の異常性

2007-03-01 | Weblog
 今週の月曜の朝、新聞で、鹿児島県知覧の特攻基地に触れた特集記事があり、知覧の特攻基地跡を訪れた記憶がなよみがえった。ここから出撃していった20歳前後の若者たちの1036人の特攻隊員の遺影、遺書に立ちすくみ、流れる涙を隠すために家族から隠れたのを思い出す。こんな軍国日本のために死んでいった若者の無念さ、家族の苦しみが同じ年頃にちかづいた息子たちと重なって、その悲痛さに涙がこらえられなかった。その感情こそ「知覧特攻平和会館」の一般的感情であろう。

 この特集記事の冒頭に安部晋三首相の著者「美しい国へ」で、一人の特攻隊員へ寄せたかれの心情が述べられていた。 
 
「たしかに自分のいのちは大切なものである。しかし、ときにはそれをなげうっても守るべき価値が存在するのだ、ということを考えたことがあるだろうか」と
彼は戦後世代へといかけるのだ。ぼくは、そこに安部晋三の異様なまでの現実認識を感じざるを得ないのだ。つまりそこには、普通の人の人間感情が喪失しているのだということを、ありありと感じてしまうのだ

 いったいこの心情の異様さはなんなのだろう。「それを(命)をなげうっても守るべき価値の存在」とは、なんなのか。かれはそれが美しい日本というのか。

 あの特攻隊員、1036人の遺影のまえで、わかものにいのちをすてても守るべきものを現世代に問う意識はどこから沸いてくるのだろう。

 ぼくが問いたいこの問いにわずかに回答を示してくれたものに三沢知廉の小説
「調律の帝国」がある。調律とはピアノ調律の調律であるのは自明、人間の調律の
グロテスクな国家模様が、圧倒的なリアリズムで書かれた小説だ。そこで人はどうなっていくのかと。今この小説を紹介してみたい。
コメント
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