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曽田修司の備忘録&日々の発見報告集

スレイマン・アルバッサーム・シアター「カリラ・ワ・ディムナ」

2006-03-15 22:20:57 | アーツマネジメント
東京国際芸術祭2006の招聘公演、クウェートのスレイマン・アルバッサーム・シアターによる「カリラ・ワ・ディムナ」を観た(にしすがも創造舎特別会場)。

演出のスレイマン・アルバッサームは、父親がクウェート人、母親がイギリス人。1972年生まれというから、まだ30そこそこの若さだが、一昨年の東京国際芸術祭で上演した「アル・ハムレット・サミット」が演劇関係者の間で大変話題になった。
私は、そのときは舞台を観ることが出来なくて大変残念な思いをした。

で、今回は、新作をひっさげての再登場で、これが何と、東京国際芸術祭とロンドンのバービカンセンター(イギリス)、それにクウェートのイスラーム美術館の3者の国際共同制作(つまり資金を出し合って制作するということ)で、しかも、まず東京で初演してから、クウェート、ロンドンで上演するのだという。前回の「アル・ハムレット・サミット」がそうだったように、その他の都市からも当然引き合いが来るだろう。こういう、国際的なネットワークの中の重要な一員として東京国際芸術祭がそのたしかな存在を示していることは大変すばらしいことだ。

さて、舞台はというと、ムハンマドの時代から少しくだって、アラブ世界に成立したイスラーム帝国がウマイヤ朝からアッバース朝へ移ったばかりの時代の話である。

アッバース朝の二代目カリフとなったアル・マンスールが権力を掌握し、絶対的な君主として威をふるうようになるさまと、その間の熾烈な権力闘争、圧政、残虐な私刑などが、当時随一の物語作家ムカッファイの視点から描かれる。
「カリラ・ワ・ディムナ」とは、現代においてもアラブ世界で最も広く親しまれている寓話集だという。

舞台の展開は、シェークスピアの薔薇戦争三部作や「リチャード3世」、「リア王」などの歴史劇を彷彿とさせる仮借ない権力の暴虐と民衆への抑圧が次から次へと展開する。

当時のアラブ世界におけるいくつかの対立軸、すなわち、ムスリムと異教徒、スンニ派とシーア派、武力と知性(剣とペン)などの対立が果てしない暴力と怨嗟の連鎖を生み出していく様をするどく、しかし淡々と描いていく。

これは、一見、歴史物であるが、当然のことながら、今の世界のあり方を映す現代劇そのものだということができる。
登場人物の名前に馴染みがないので、誰がどの人物か、互いの関係性はどうか、というようなことが頭に入らないのが最初のうちは気になるが、実は、細かいことはどうでもよいのだ(もちろん、わかって観る方がよりよいのだが)。

この舞台は、権力が成立しそれが強大化するときには、必ずやこのような事態が起こりうる、という冷徹な世界認識を示している。そして、それは、たまたま誰かが悪いやつだったから、というような問題ではないのだ。

さて、われわれの普通の理解(学校の教科書に書いてあった範囲)では、イスラム教では偶像崇拝は禁じられているはずだった。
そう思って観ていたのだが、アッバース朝の統治形態はカリフの専制以外の何ものでもなく、劇中のセリフを聞いていると、そこではたらいている政治力学はまったく偶像崇拝そのものに見えてしまう。
アル・マンスールは自分のことを「神の影だ」という言い方をしていた。影なら実体がないから偶像にはならないのか。

イスラーム、アラブ、カリフ、etc. あまりにも普段知らないでいることが多い。

それにしても・・・。

ラストシーンで発せられるアシア(この芝居に登場する唯一の若い女性)の呪いの言葉のごとく、現代のアラブ諸国は、このような残虐な恐怖政治を行った王朝の直接の末裔だという認識(非難、告発)は、それ自体でたいへん峻烈なものだが、副題の「王子たちの鏡」が示すように、今度はそれが後代の支配者の暴虐に順々にとって代わられることを暗示し(これはシェイクスピアの「マクベス」に同じ場面がある)、最後には、客席にいる観客の私たちの姿を鏡に映し出して舞台は暗転する。

・・・・・・つまり、こういうことではないか。私たちは、何かに対して、誰もが迫害者(加害者)になりうる。いや、既にそうなっている。この舞台は、そのことを、なぜ、そうなのか、という理屈の説明がなくても私たちに対して直感的に力強く語るかけるものとなっていると私には感じられた。







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