いつか書かなきゃなー、と思いつつ、ついつい後回しにしていたら、自分でもどこまで書いたのかわからなくなってしまった「ゲーデル・ファンタジー」だが、やっとその気になったので続き。
今までのところでは何を書いていたかというと、
1.現代数学というのは、自然界をそのまま反映したものではなく、最初に定義という約束事を定め、その約束事の上に人工的に構築された世界である、ということ(だから数学は同じ自然科学の中でも、「自然界にあるものを解釈する」ことが目的である物理、化学、生物などとは根本的に異なる)。
2.数学者の1つの目標は「十分な複雑さを持ちながら、その中には一切の未解決な問題を含まない、完全な数学体系」を作り出すことだった。しかし、ゲーデルは「そんな体系は決して作り出せない」ことを証明してしまった。それが不完全性定理である。
ということだった。
では、これを医療の世界に適用したら何がわかるか?
医学の基礎は解剖学と生理学だが、それは煎じ詰めれば物理学と化学だ。そして物理も化学も、数学の言葉で記述できる1つの数学モデルである。かつまた、その数学モデルは十分な複雑さ(もっと厳密に言えば、自然数の体系以上の複雑さ)を持っている。つまり、不完全性定理が成り立つ条件を満たしている。それは薬学でも同じことが言える。
従って結論:解剖学と生理学に基づくいかなる医学体系も、完全ではあり得ない。つまり、今後どこまで(見かけ上)それが発展したとしても、全ての病気を治せるようにはならない。
かつて「医学が発展すれば、人間は将来、あらゆる病気から解放される」なんて未来予想があった。それを見た時、私は個人的には「え~本当かい??」とちょっと眉唾な感じがした。「さすがに、それはないだろう」と。これはある意味、直感的には明らかなことだが、不完全性定理を用いることで、その直感が間違っていないことが純粋数学的に導かれたわけだ。めでたし、めでたし。
──で終わってしまってはいけない。
医学に限界があることはわかった。だが、その限界は決して越えられないものなのだろうか?
数学の定理は、たとえ神の力をもってしても覆すことのできない、この世界における絶対的な真理だ。この世界が数学モデルの中にある限り。
──ならば数学モデルから脱すればいい。
医学が単に形を変えただけの物理学と化学に過ぎないなら、どこまで行っても数学モデルから脱することはできない。だが、仮に医学がそうであったとしても多分、医療はそれだけのものではない。そこには例えば、人の意思──治そうとする意思、治らんとする意思──といったものが介在してくる。それは数学の言葉で記述することはできない。そうした意思を介在させることで、医療は単なる数学モデルではなくなる。つまり、単純に不完全性定理が成り立つことはなくなるのである。
よく「もう治らない」と医者から見放された人が奇跡の回復を遂げた、などという話があるが、それは本人──あるいは、まわりの人──の意思の力が、その人を単純な医学-数学モデルを超えた別のところにシフトさせた、ということなのかもしれない。
もちろん、数学モデルから別のところにシフトさせることができるものは意思だけではないだろう。重要なのは、あるレベルを越えていくためには、数学の言葉では記述できない(つまり、数学モデルを超えた)何かが必要なのではないか、ということであり、最近のスピリチュアル・ブームというのも、一方ではかなり批判されているが、こうした文脈の中で考えると、全く別の容貌が見えてくるように思うのだ。だがまた一方で、数学モデルは数学モデルとして必要なものであって、そうしたものを否定したり軽視したりすることも間違っているような気がする。要はバランスが大事、ということで。
──というわけで、ゲーデルの不完全性定理について書きながら、ずいぶん遠いところまで来てしまったような気がする。結局は陳腐な結論に辿り着いて終わりになってしまったが、そうした陳腐な結論が数学的に導き出せることに気づいてちょっと感動したのが、この文章を書き始めた1つの動機だったので、書いた本人としては、めでたし、めでたし、というところ。
今までのところでは何を書いていたかというと、
1.現代数学というのは、自然界をそのまま反映したものではなく、最初に定義という約束事を定め、その約束事の上に人工的に構築された世界である、ということ(だから数学は同じ自然科学の中でも、「自然界にあるものを解釈する」ことが目的である物理、化学、生物などとは根本的に異なる)。
2.数学者の1つの目標は「十分な複雑さを持ちながら、その中には一切の未解決な問題を含まない、完全な数学体系」を作り出すことだった。しかし、ゲーデルは「そんな体系は決して作り出せない」ことを証明してしまった。それが不完全性定理である。
ということだった。
では、これを医療の世界に適用したら何がわかるか?
医学の基礎は解剖学と生理学だが、それは煎じ詰めれば物理学と化学だ。そして物理も化学も、数学の言葉で記述できる1つの数学モデルである。かつまた、その数学モデルは十分な複雑さ(もっと厳密に言えば、自然数の体系以上の複雑さ)を持っている。つまり、不完全性定理が成り立つ条件を満たしている。それは薬学でも同じことが言える。
従って結論:解剖学と生理学に基づくいかなる医学体系も、完全ではあり得ない。つまり、今後どこまで(見かけ上)それが発展したとしても、全ての病気を治せるようにはならない。
かつて「医学が発展すれば、人間は将来、あらゆる病気から解放される」なんて未来予想があった。それを見た時、私は個人的には「え~本当かい??」とちょっと眉唾な感じがした。「さすがに、それはないだろう」と。これはある意味、直感的には明らかなことだが、不完全性定理を用いることで、その直感が間違っていないことが純粋数学的に導かれたわけだ。めでたし、めでたし。
──で終わってしまってはいけない。
医学に限界があることはわかった。だが、その限界は決して越えられないものなのだろうか?
数学の定理は、たとえ神の力をもってしても覆すことのできない、この世界における絶対的な真理だ。この世界が数学モデルの中にある限り。
──ならば数学モデルから脱すればいい。
医学が単に形を変えただけの物理学と化学に過ぎないなら、どこまで行っても数学モデルから脱することはできない。だが、仮に医学がそうであったとしても多分、医療はそれだけのものではない。そこには例えば、人の意思──治そうとする意思、治らんとする意思──といったものが介在してくる。それは数学の言葉で記述することはできない。そうした意思を介在させることで、医療は単なる数学モデルではなくなる。つまり、単純に不完全性定理が成り立つことはなくなるのである。
よく「もう治らない」と医者から見放された人が奇跡の回復を遂げた、などという話があるが、それは本人──あるいは、まわりの人──の意思の力が、その人を単純な医学-数学モデルを超えた別のところにシフトさせた、ということなのかもしれない。
もちろん、数学モデルから別のところにシフトさせることができるものは意思だけではないだろう。重要なのは、あるレベルを越えていくためには、数学の言葉では記述できない(つまり、数学モデルを超えた)何かが必要なのではないか、ということであり、最近のスピリチュアル・ブームというのも、一方ではかなり批判されているが、こうした文脈の中で考えると、全く別の容貌が見えてくるように思うのだ。だがまた一方で、数学モデルは数学モデルとして必要なものであって、そうしたものを否定したり軽視したりすることも間違っているような気がする。要はバランスが大事、ということで。
──というわけで、ゲーデルの不完全性定理について書きながら、ずいぶん遠いところまで来てしまったような気がする。結局は陳腐な結論に辿り着いて終わりになってしまったが、そうした陳腐な結論が数学的に導き出せることに気づいてちょっと感動したのが、この文章を書き始めた1つの動機だったので、書いた本人としては、めでたし、めでたし、というところ。
解らないのも数学的に導き?!!!
解らないから楽しいです。
何でも単純な構図ではとらえられないです。
「俺はついに掴んだ! 鍼(鍼じゃなくても)が効く理由はコレだ!」と思ってしまうと、その瞬間、鍼の効果は手からこぼれ落ちてしまうのではないでしょうか。だから最後に落ち着くのは
>解らないから楽しいです。
という地点しか考えられないです。
西洋医学が科学性という幻想の呪縛にとらわれている限り、我々には活動する広大な余地が保証されていますね。
治療家が頭の中で「こういう状態だから、コレをこうやったら治るだろう」と考えているのと、よく似ている気がします。
そして、治療しながら証明していく。
マッサージとか鍼とか矯正とか、個々の手技は、計算にあたるでしょうか?
>数学は「ある約束事に基づいて、世界そのものを“創造する”」学問
治療は「ある約束事に基づいて、世界そのものを“創造する”」学問
第二部からの引用です
言い換えても私的には違和感ないです。
計算も数学も苦手だけど、数学的モデルに縛られていたのか
だから不完全なのね
純粋な数学モデルは、あくまで概念の中にしか存在しないもので、現実にはそんなものはないのです。ただ、何かを考えようとすると、それを無意識的に単純化して「疑似数学モデル」としてとらえてしまう。
>治療家が頭の中で「こういう状態だから、コレをこうやったら治るだろう」と考えている
というのは多分、人体を「疑似数学モデル」化しているのですね。しかし、「疑似数学モデル」化された人体は、どこまで行っても生身の人体とイコールにはならない。それでも人は人体を「疑似数学モデル」化しなければ、とらえることはできない。
結局、治療家は常に何かが見えない状態で体に向かいあわなければならないのですね──って、あれ? 以前、先生のブログに書いたコメントと同じになっていまいましたね。