深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

「鉄の門」の向こう側-あるマーガレット・ミラー論

2006-10-23 16:02:00 | 趣味人的レビュー

『鉄の門』をずっと読み返したいと思っていた。マーガレット・ミラーの初期作品群の中でも最高傑作と評される『鉄の門』──ずっと前に入手して読んでいたが、その後、行方がわからなくなったままだった。それが、この間、実家に帰って自分の部屋の本棚の本を調べていて、そこにあったことがわかった。書店でつけてもらったカバーのため、今まで気づかなかったのだが、いつからそこにあったのかよくわからない。私が置いたのでないことは間違いないのだが…。その謎のような現れ方が、いかにもミラーの本らしい、と心から思った。

先妻の影におびえる後妻が、ある男の訪問をきっかけに不可解な失踪を遂げる、この物語は、マーガレット・ミラーの作風の一端を如実に表している──ニューロティック・サスペンス。今はサイコ・サスペンスが一つのジャンルを築くまでになっているが、ミラーの描くニューロティック・サスペンスは、頭のおかしい人間が猟奇殺人を繰り返す、という意味合いの強いサイコ・サスペンスとは全く異なる。確かな人間観察と繊細な表現によって紡ぎ出される世界は、そんな見てくれだけの作品群とは比べものにならないくらい恐ろしいものだ。

しかし、ミステリ・ファンの中でも、マーガレット・ミラーの名を知る人は決して多くあるまい。何しろ、作品が手に入らない。これまで12作品が訳出されたが、そのどれも現在、書店で見ることはできない。一方で熱狂的なファンがいながら、マーガレット・ミラーは「忘れられた作家」なのである。

では、ミラーは二流の作家だったのかと言えば、決してそんなことはない。それは、かのアガサ・クリスティーがいつもミラーの新作を心待ちにしていた、ということからもわかる。にも関わらず、ミラーの作品がこれほど不遇をかこうのは、それが「ミステリの定型」から逸脱していることにあるのかもしれない。不可解な殺人事件の謎を名探偵が解き明かしていく、といった物語構造の作品は、(少なくとも邦訳された)ミラーの作品には皆無なのだ(厳密に言うと、『鉄の門』などには、そういった要素も含まれるが、そこに物語の主題があるわけではない)。「推理小説とは、推理が恐怖を生み出し、推理が恐怖を静める物語である」と定義されたフランス・ミステリとも全く違う。ミラーの書くミステリはミラーしか書き得ないものなのだ。

が、あえてマーガレット・ミラーと類似した作品を書いている作家には誰がいるか、と考えていたら、意外な名前が頭に浮かんだ。リチャード・ニーリィ──この名前を知っているなら、多分あなたは筋金入りのマニアだ。『殺人症候群』『オイディプスの報酬』『こころ引き裂かれて』という超弩級の作品が角川書店から相次いで邦訳されたが、その後、それらは長いこと絶版になったままだった。それが、ニーリィの作品を映画化した、シャロン・ストーン主演の『氷の微笑』が公開されたこともあってか、しばらく前に文庫で復刊された。しかし、現在はそれも入手困難になっている。作品のレベルの高さと、それに見合わない不遇な扱い、という点でも、両者は実によく似ている(そして今気づいたのだが、作品自体も…。しかし、ここではこれ以上触れない)。

ここで、マーガレット・ミラーと、その作品について触れておかなければならない。

夫はハ-ドボイルドの巨匠、ロス・マクドナルドである。夫婦でミステリ作家、というのは必ずしも珍しくないようだが、夫婦共に超一流のミステリ作家、というのは決して多くない(ちなみに、ロス・マクドナルドは本名をケネス・ミラーといい、マーガレット・エレン・スタームが彼の妻となって、マーガレット・ミラーになった。つまり、この夫婦は夫がペンネームで、妻が本名で作品を書いていたわけで、その辺も興味深い)。マーガレット・ミラーは自分の作家生活をユーモラスに「私は昼間に書き、良人は夜中に書きます。ときどき、階段で顔を合わせます」と述べていた。後にロス・マクドナルドは『ブルー・ハンマー』執筆中にアルツハイマー病に侵され、マーガレット・ミラーは記憶を失っていく夫の世話をしながら自分の作品を発表していった。

作風は、上でも述べたように、ニューロティック・サスペンスと呼ばれる。それは一つには、心を病んだ人間の悲劇を描いた作品を書いていることにもよるが、それだけではない。ミラーの作品については、『明日訪ねてくるがいい』の巻末に、宮脇孝雄氏によるすばらしい解説がある。それによると…
ミラーには『これよりさき怪物領域』という作品がある。このタイトルは、作品の中に登場する人物の一人が、自分の部屋の中に、人間の住む世界と怪物の住む世界とを分けた地図を貼っていることに由来する。その人は、人間と怪物の住まう世界の間には、明確な境界があると信じている。しかし、(非常に逆説的だが)ミラーはそこで、実は人間と怪物の住まう世界の境界は極めて曖昧なものだということを描いているのだ。それは『これよりさき怪物領域』だけでなく、描いてきた全ての作品において、「人が人でなくなってしまう、越えてはならない一線というものは、実は極めて曖昧なもので、知らず知らずの間に人はその境界を越えて怪物になってしまうのだ」ということを、ずっと描き続けてきたのではないか…
ということを、(本が手元にないため、正確さを欠くかもしれないが)宮脇氏は書いている。

最後に一つ、今度『鉄の門』を読んで、ふと感じたことがあった。私はこの『鉄の門』を読むのは(自分が記憶している限り)これで3度目になる。しかし不思議なことに、私はこの物語を全く憶えていなかったのである。昔読んだ本の内容を忘れてしまうことは、もちろん珍しいことではないが、それでも3度目ともなれば、ある程度は読んでいる途中でも思い出すものだ。だが、(ほんの一瞬、確かにこんな文章を読んだ気がする、ということがあったが)ストーリーも含めて、まるで初めての物語を読んでいるみたいだった。それは『鉄の門』ばかりではない。今『マーメイド』を再読しているが、この本も全く同じだ。私の頭の中からは、ミラーの本の内容がスッポリと抜け落ちてしまっているのだ。話がつまらなかったからではない。ストーリーが複雑すぎて、覚えきれなかったからでもない。では何故…? もしかしたら私の体はマーガレット・ミラーの物語の中身についての記憶を封印してしまっているのではないのか。あたかも、何か強烈なショックを体験した時、体がその記憶を封印してしまうように…

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マーガレット・ミラー著作リスト

01.The Invisible Worms(1941)
02.The Weakly-Eyed Bat(1942)
03.The Devil Loves Me(1942)
04.Wall of Eyes(1943) 『眼の壁』(小学館:絶版)
05.Fire Will Freeze(1944)
06.The Iron Gate(英題 Tasts of Fears) 『鉄の門』(ハヤカワ・ミステリ文庫:絶版)
07.Experiment in Spring(1947)-普通小説
08.It's All in the Family(1948)-普通小説
09.The Cannibal Heart(1949)
10.Do Evil in Return(1950)
11.Rose's Last Summer(別題 The Lively Corps)(1952)
12.Vanish in and Instant(1952)
13.Wives and Lovers-普通小説(1954)
14.Beast in View(1955)-アメリカ探偵作家クラブ賞受賞作 『狙った獣』(ハヤカワ・ミステリ文庫:絶版)→(創元推理文庫:絶版)
15.An Air The Kills(英題 Soft Talkers)(1957) 『殺す風』(ハヤカワ・ミステリ文庫:絶版)→(創元推理文庫:絶版)
16.The Listening Walls(1959) 『耳をすます壁』(創元推理文庫:絶版)
17.A Stranger in My Grave(1960) 『見知らぬ者の墓』(創元推理文庫:絶版)
18.How Like an Angel(1962) 『まるで天使のような』(ハヤカワ・ミステリ文庫:絶版)
19.The Fiend(1964) 『心憑かれて』(創元推理文庫:絶版)
20.The Birds and Beasts Were There(1968)-自叙伝
21.Beyond This Point Are Monsters(1970) 『これよりさき怪物領域』(ハヤカワ・ミステリ:絶版)
22.Ask for Me Tomorrow(1976) 『明日訪ねてくるがいい』 (ハヤカワ・ミステリ:絶版)
23.The Murder of Miranda(1979) 『ミランダ殺し』(創元推理文庫:絶版)
24.Marmaid(1982) 『マーメイド』(創元推理文庫:絶版)
25.Banshee(1984)
26.Spider Webs(1986)

付記:
・マーガレット・ミラーの作品は普通の書店では入手できなくなってしまったが、ネット・オークションなどを通じて手に入れることはできる。また、ハヤカワ文庫、創元推理文庫とも、定期的に復刊フェアをやっているので、その中で復刊される可能性もないではない
・ミラーの特に中期の作品群は、最後の1ページ、最後の1行に全てを賭けたものなので、ゆめゆめ途中で見てしまうことのないように、ご注意


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