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姚立法:私の選挙経験(2)

2007-01-31 09:26:18 | 中国異論派選訳
選挙法に関する系統的な学習を通じて、私はよりはっきりと我が市の選挙におけるさまざまな弊害を見抜けるようになった。私は自費で合計2万部余りの選挙法解説ビラを印刷し、選挙民に選挙の意義、注意すべき事項を紹介し、大胆に選挙の中で行われている不法行為を指摘した。選挙期間中私は選挙民に13回ビラを配った。

「選挙民への5通目の手紙」のなかで、私は選挙民に次の問題について考えるよう呼びかけた。
人民代表は私たちが普段いう「役人」だろうか?
人民代表選挙参加の権利は国の法律で保護されているだろうか?
あなたの個人的利益から出発して、あなたは誰に投票するか?
あなたが入れた人が当選し、彼が市長、裁判所長、検察庁検察長を選ぶ時、あなたの意思と一致するだろうか?
潜江の発展と政府、裁判所、検察庁の官吏の人品と才能は関係があるだろうか?
潜江の発展と我々みんなの神聖な一票の投票とは関係があるだろうか?

6番目のビラの表題は「潜江市選挙弁公室[1998]4号通知を学習しての4つの疑問」で、潜江の選挙に関する通知の多くの箇所が国の法律と矛盾があることを指摘した。

潜江市選挙弁公室4号通知第二部の中に「また、選挙民グループ長、選挙民代表が協議した意見をよく聞き、多数意見に沿って正式候補者を決める」という記述と選挙法31条の「選挙民グループでの討論を通じて、選挙民の比較多数の意見に基づき、正式候補者名簿を確定する」と言う規定との間の矛盾である。「多数意見」と「選挙民の比較多数」の意見は全く違う。なぜなら前者は文中に選挙民グループ長と選挙民代表の中の多数だけを指しているので、選挙区の選挙民の比較多数とは全く別物である。もしも、「多数意見」が選挙区の全選挙民の多数であれば、過半数か、あるいはそれより多くなくてはならない。しかし、4号通知はどこにも「候補者は賛成意見の多寡の順序により」とは書かれていない。では、この「多数意見」とはどこから生まれるのか? 協議と確定の差も非常に大きい。正式候補者は協議によって確定してはならず、「選挙民の比較多数の意見」によって決めなければならない。協議は正式候補者選びの3つの段階、つまり推薦、協議、確定のうちの2つ目の段階にすぎない。しかし実際は、「正式候補者を協議する」が内定や指名になっている。

「選挙民の皆さんへの7通目の手紙」の中で、私は教育選挙区の中の問題点を指摘した。
この間選挙民グループの掲げた「××選挙弁公室」および教育選挙区作業チームの「指導グループ長」はどの法律によって選ばれているのか?
教育選挙区作業チームは各選挙民グループに会議を通じて1~3名の一次候補者を選ばせているが、これは不法であり、法に基づけば選挙民10名以上の推薦で選ばれるべきである。
このビラの末尾では選挙民に選挙に信念を持ち、共に努力するよう呼びかけた。

そのころ、私に関心を寄せ、支持し、理解してくれる選挙民はみな手に汗握って心配していた。しかし、そんな必要はない!
もっと私を激励すべきだ!
法律は守り、法執行は厳格にし、違法は必ず追及するという社会の雰囲気は、私たちみんなの努力で始めて実現できるのだ(有法必依,執法必厳,違法必究的社会雰囲,是靠我們大家的努力才能実現的)。

「選挙民の皆さんへの9通目の手紙」の中で、私は教育選挙区の3名の正式候補者選出プロセスは不法であることを指摘した。
11月14日午前、教育局3回会議室で46名の投票によって3名の「正式候補者」が確定していた。このやり方は、選挙法31条に違反し、また実施細則28条にも違反する。

「選挙民の皆さんへの10通目の手紙」の中で、私は代表が備えるべき能力について書いた。
代表の能力いかんは、我が市の国家権力機関が本当に人民を代表して国の事務を管理するかどうか、効率的に法律の与えた職権を行使するかどうか、などに関係する大問題である。よって、決して代表を名誉職として考えてはならない。人民代表は、人民大衆との密接な関係を維持し、人民の利益と意思を代表し、代表大会の決議を速やかに人民大衆に伝えなければならない。また、政治参加、政策議論および社会活動の高い能力を持ち、法律が与えた職権を効果的に行使しなければならない。

これらのビラは、原稿書き、公正、印刷、配布、すべてを私一人でやった。私の所属する教育選挙区は、潜江師範学校、潜江ラジオテレビ大学、市教育局機関、潜江中学など16の部門が含まれる。私はいつも夕食を食べてから、各家庭、各宿舎のドアにビラを差し込んで回る。全部配り終わるころには、夜が白んで、朝食の時間になっていることが良くあった。そのころ、私は重い足を引きずって家に帰るのであった。

教育機器工場の受付は私の立入を認めず、「おまえを入れてはならないと上から通知があった」と言われた。文昌中学の一人の副校長は私を校門の外で遮って、怒って言った「俺たちはおまえには投票しない、ビラを配るな! ここには優秀な教師がいくらでもいるから、彼らが人民代表をやればいいんで、おまえみたいなガスボンベ担ぎの出る幕はない!」。

これに対して、私が取った方法は、こっそりと塀を乗り越えることである。

11月25日、投票日まで残すは僅か3日の日に、私はすべての教育選挙区の選挙民に正式立候補公約を配った。

宣誓書
教員、職員、学生、友人および教育選挙区のすべての選挙民の皆さん。もしもみなさんが神聖な一票を私に入れてくれたら、私はすぐに次の2つのことに着手します。
第一、国の関係する法律と国務院、財政部、国家教育委員会の通知通達をしっかりと学習・研究し、省政府の関係する通知通達をしっかりと学習・研究する。自費で周囲の県・市を訪問し、学校教職員の待遇を調査し、根拠のしっかりした説得力ある報告書を作成し、市政府に対し全教職員の焦眉の課題と後顧の憂いである賃金と医療費の問題を速やかに解決するよう促す。
第二、汚職に反対し清潔な政治を実現するために、矛先を直接幹部集団の中の無学無能で、人品卑しく、接待されるのが好きで、鼻にかけたりへつらったり、賄賂を贈ったり貰ったり、部下をしいたげ上司をあざむく少数の蛆虫に向け、もっぱら彼らを告発し、彼らを監督し、彼らを鞭撻し、もって彼らの更生を促す。
宣誓者:皆さんの友人姚立法
1998年11月25日

私を支持してくれた選挙民は、主に教育選挙区の教師、師範学校学生、高校三年浪人生(大学受験に失敗して再度高校三年のクラスで学ぶ学生)であった。11月27日、投票日の前日、潜江中学(中国の中学には日本の中学同等の初級中学と日本の高校同等の高級中学があり、一貫校もある)の1名の高校三年の学生が潜江の時事問題について、教室の廊下に詩のような雑感のような文章を張り出した。

とりの羽根に金をつけたら高く飛べない。
多すぎる栄誉はしばしば行く人の足に絡みつく!
人民代表選挙に
我々が選ぶべきはいわゆる先進者ではない、彼らは結局先進ではない。
むしろ票を向ける先は、
時流に乗らず主張することのできる人である。
潜江の空気は余りに重苦しいから、
この得がたい主張者がぜひとも必要だ!

教師が見つけて、学校の秩序に影響することを心配しこっそりはがしたが、非常に感動して、写しを私にくれた。私はこれを貴重な贈り物として丁寧にしまいこんだ。

この日の夜、私は潜江予備校の事務室で、何人かの教師と選挙の問題を話していた。夜10時半になって、教師たちが私に教室に行って学生に最後の選挙演説として少し話をするよう勧めた。私は、学生たちが自習が終わったばかりで疲れているのではないかと心配したが、教師たちは笑って言った「早く行けよ、学生たちが待ってるぞ!」。

私が一つ一つの教室に入るたびに、嵐のような拍手が起こり、出るときもやはり嵐のような拍手が起こった。つぎの日、この学校のほとんどすべての学生が私に投票してくれた。

11月28日、関係部門は教育局選挙区に6つの投票所を設置して投票した。選挙民は今回の選挙に異常な関心を寄せた。千人以上の人が選挙区の本部会場の潜江実験小学校に集まり開票台の前で最後の結果を待っていた。非正式候補者姚立法の得票が1706票で、得票数が二人の正式候補者を上回ったと発表されたとき、会場は拍手が鳴り止まなかった。

その日の昼、潜江ラジオテレビ大学の選挙民の王天星先生たちは一枚の紙を私の家のドアの隙間に差し込んだ。そこには次のように書かれていた。

今日は人民の記念日だ
今日は君の忘れがたい日だ
1998年11月28日午前11時23分

私は人民代表に当選して以降の4年間、ずっと代価を惜しまず、リスクをいとわずに職責に答えてきた。私のあらゆる行為は法律の授権の範囲内であり、私の一言一言が選挙民の擁護と支持を得た。まさに選挙民の擁護と支持、激励と支援、信任と委託があったからこそ、私は勇気を持って実行することができた……。

2002年12月末に潜江市は第四期人民代表大会第五回会議で新しい省人民代表を選ぶという情報が伝わってき。多くの選挙民と市人民代表たちが続々と私に立候補するように勧めたので、私も試してみようと決めた。

市人民代表の推薦人集めには自信があった。しかし、心配なのは関係組織が推薦人に撤回を働きかけることだった。そこで、私は潜江市第三期人民代表大会第五回会議において省人民代表を選ぶ時に議決した「大会選挙規則」の原文(この規則のなかには「正式候補者名簿確定前に、推薦人が推薦を撤回したい場合、あるいは被推薦人が推薦を受けたくない場合には、書面により申し出ることができる。その場合、議長団は推薦人あるいは被推薦人の要望を尊重し、同意しなければならない」という規定はない)と全国人民代表大会常務委員会書記グループ副グループ長蔡定剣教授編集の出版されたばかりの『中国選挙状況報告』の次の一節のコピーを市人民代表大会の関係する指導者に送り、今回の「大会選挙規則(草案)」制定の参考にするよう申入れ、また、私が省人民代表に立候補する意向であることを伝えた。中国選挙状況報告』には次のように書かれている。「わが国の法律に人民代表が推薦を撤回できるという規定はない。このような方法は主に上級共産党委員会組織部門の意見と地方人民代表大会選挙規則の規定……しかし注意しなければならないのは、推薦の撤回は、共産党組織が人民代表が連名で候補者を推薦するのを規制することに便宜を与えることになる……現在の選挙実務によれば、連名による推薦はまだ余り一般的でも充分でもなく、複数候補制選挙に対する認識と対応は非常に不十分であり、選挙の競争性は非常に薄い。したがって、我々は法律上であれ実務上であれ、推薦撤回を認めるべきではなく、むしろ禁止すべきである。」。

続いて、12月16日、全市の300名余りに市人民代表に私の選挙資料――「我が市の人民代表大会常務委員会への第23番目の手紙および市人民代表への第1番目の手紙」および『南風窓』、『農民日報』、『民主と法制時報』、『南方週末』の私に関する記事――を郵送したり持っていったりした。その後数日間、ある郷鎮の関係者は人民代表に声をかけて回った。「連名で省人民代表候補を推薦するな。特に姚立法なんかを推薦するな。」。

12月25日午前、市人民代表が集合した。午後2時、まず代表全員の参加する予備会議が開催され、続けて大会が開幕し、第一回全体会議を行った。大会議長がアナウンサーが読み上げた「大会選挙規則草案」について何か意見はないかと代表にうながした時、私は真っ先に立ち上がって反対した。「大会選挙規則にある『正式候補者名簿確定前に、推薦人が推薦を撤回したい場合、あるいは被推薦人が推薦を受けたくない場合には、書面により申し出ることができる。その場合、議長団は推薦人あるいは被推薦人の要望を尊重し、同意しなければならない』という規定は法的根拠がなく、削除すべきだ」。議長は「我々は省人民代表大会が国の代表を選ぶ選挙規則を参考にこの規定を入れている。我々の選挙規則は省のよりも民主的だ。我々の規則では何人も推薦人に推薦の撤回や被推薦人に推薦を受けないことを薦めてはならないと規定している」と釈明した。私はまた立ち上がって聞き返した「もしも関係組織や個人が代表に推薦の撤回を要求したらどうするのか?」。「我々には対策があるから、君が心配しなくてもいい」。議長の回答は千人近くの大会に出席している人民代表、列席している政治協商会議委員およびその他の列席者の満場の笑いと議論を呼んだ。「大会選挙規則草案」の挙手による裁決では、私1人が反対した。

当日の午後3時過ぎに、大会は第一回会議を終了し、続けて大会議長団会議を開いた。4時半、各代表団に分かれて会議を開き、省人民代表候補者について話し合った。各代表団の団長は代表に中共潜江市委員会が大会議長団にあてた推薦書を読み上げた。「共産党市委員会は検討の結果、共産党省委員会の同意を得て、下記の17名の同志を湖北省第10期人民代表大会代表候補者に推薦する。何根法……」。この17名の中身は、共産党省委員会の推薦3名、共産党・政府・人民代表大会の官僚6名、企業の社長5名、以前省直轄だった国有農場の責任者1名、教師1名、村党支部書記1名であった。

26日11時半は「大会選挙規則」に定めた連名推薦候補者の締切時間である。それまでに人民代表大会書記処組織グループに届けた連盟推薦の候補者はたったの3名だった。そのうちの一人は連名推薦者が10名に満たないため無効。もう一人(市裁判所所長)は推薦を断ったため、議長団が正式候補者としなかった。私は、大会主席団に提出した16名の推薦人の内、選挙規則が議決されてからの署名が10名に満たないという理由で、推薦を無効とされた。

今回の選挙は、多くの問題をさらけ出した。例えば中共潜江市委員会は大会議長団に17名(枠は13名)を推薦したが、これは同数推薦の原則に違反している。被推薦人が辞退した場合、議長団がそれに同意して推薦を無効としたのは、全国人民代表大会の規定に反する。人民代表の連名推薦の時間が「大会選挙規則」議決前の場合、大会議長団が推薦を無効としたのは、法的根拠がない。一部の組織や個人が人民代表に連名推薦をしないように働きかけ共産党市委員会が推薦した17名の中から当選者を確保しようとしたのは、選挙妨害の疑いがある。

私は第10期省人民代表選挙では落選したが、潜江市の省人民代表選挙の正式候補者以外では、得票数は1位だった。

1987年から2002年までの16年間、私は5回省と市の人民代表選挙に立候補した。その間には、数え切れない喜びと人にいえない苦労があった。

また、体得したものもあった。
1、実直であること。是非をはっきりさせ、思い切ってことを行い、潔く責任を取ることが、選挙民の信頼を得る。
2、活発に宣伝し、多くの選挙民に自分を理解してもらう。独りよがりや、遠慮して譲ることは、人民代表にとって決して美徳とはならない。
3、法律を熟知すること。とりわけ憲法と選挙法、代表法などの関係深い法律。自己の権利と義務について明確かつ確固とした認識を持つこと。そうして始めて、ものごとの是非の弁別ができ、通俗的見解や「権威」の圧力に流されることがなくなる。
4、落選を恐れることはない。あなたを知る人がどんどん多くなるから、落選は失敗ではない。本当の失敗は社会の弊害を指摘する勇気を失うことであり、選挙が公正であるべきだという信念を放棄することである。
5、立候補する人が多くなればなるほど、我々の社会は活力と希望を増していく。
2003年3月16日
(了)

劉暁波:禁書に見る中共の合法性敗血症

2007-01-30 22:34:20 | Weblog
最近中共が発表した禁書リストに対する批判文。

 
刘晓波:从禁书看中共的合法性败血症 
    
     在没有言论出版自由的中国,有专门负责言论管制的意识形态衙门,党有中宣部,政府有新闻出版总署和广电总局。它们对图书出版的例行管制措施,就是每逢岁末年初都要召开出版界的内部通风会。会议召集者是中宣部和新闻出版总署,参加者是全国各地的宣传部、出版署的官员,全国各大出版社和著名刊物的头头。会议要按照中共的“政治正确”来总结过去一年的出版工作,而每年的总结都少不了开出一份“禁书单”,由新闻出版总署分管出版发行的副署长来宣布。被点名的书籍,不得继续印刷发行;被点名的出版社,轻则检讨和罚款,重则撤职,再重关门。 (博讯 boxun.com)

    
    这几年,海内外知道的著名禁书就有:李佩甫的《羊的门》,王跃文的《国画》,岳建一编辑的丛书《中国知青备忘录》,卫慧的《上海宝贝》,吴思的《潜规则》,春桃夫妇的《中国农民调查》,章诒和的《往事并不如烟》,阎连科的《为人民服务》,余世存的《非常道》,北岛的《失败之书》,徐晓的《半生为人》,等等。还有一些中共前高官的回忆录,根本无法在国内出版,只能拿到香港去出,如,《吴法宪回忆录》,老左派邓力群的《在中南海十二个春秋》等。三联书店杭州分销店2006年因盗版《在中南海十二个春秋》被吊销执照。
    
    可以说,禁书是中国体制的必然,绝大多数国人已经见怪不怪;出版社和作者虽有不满,但出于生存的需要,也大都保持沉默,自然不会引起舆论风波。然而,年年有禁书,今年却不同,著名作家章诒和女士的公开抗议打破了以往的普遍沉默。
    
    在今年的例行通风会上,新闻出版总署副署长邬书林点了八本书,湖南文艺出版社出版的章诒和女士的《伶人往事》也在其中。邬副署长还特别不点名地强调:“这个人已经反复打过招呼,她的书不能出,……你们还真敢出……对这本书是因人废书。”
    
    章诒和女士得知自己的书再次被禁后,公开发表了《我的声明和态度》,对“因人废书”提出强烈的抗议:“这次,邬先生没有对《伶人往事》做出任何评价,却对我本人的个人权利进行了直接的侵害。我们的宪法有明文规定:‘中华人民共和国公民有言论、出版、集会、结社、游行、示威的自由。’他的‘因人废书’,直指我本人,直接剥夺我的出版权,而这是一个公民的基本权利。”
    
    与此同时,另一位禁书作者胡发云也起而维权。他给新闻出版总署写信,要求官权堂堂正正摆明禁书的理由,不要再搞偷偷摸摸的类似道打闷棍的禁书方式。遭禁作品《我反对:一个人大代表的参政传奇》的传主姚立法,已经将禁书寄给胡锦涛和温家宝并投书申诉。
    
    章诒和的声明一出,顿时引发知识界和网民的支持,上海剧作家沙叶新、北京作家邵燕祥﹑北京学者陈小雅、浙江记者昝爱宗、北京学者余世存、北京律师浦志强等一大批人士纷纷公开发言,网络上关于禁书事件的点击率超过十万,上万网民发出跟帖,支持被禁作家的抗议和起诉新闻出版总署及邬书林。
    
    一禁就是八部,同一位作家连续三本书被禁,怪不得著名剧作家沙叶新先生在《支持章诒和,正告邬书林们》一文中,把邬书林等意识形态官员称为“精神刽子手”。然而,在我看来,这些意识形态官员,统统患上了合法性败血症,霸道是霸道,但因于法无据、与理相悖,只能霸道得浅薄而怯懦——理不直、气不壮。
    
    说他们浅薄,乃因他们的权力狂妄。面对利益分化和价值多元的现实,面对道义在民间和民间评价标准日益独立的时代,他们仍然故步自封,总以为自己大权在握就可以为所欲为,他们践踏基本人权的恶行就可以通行无阻,而被整肃的无权者只能忍气吞声。然而,他们恰恰被权力傲慢蒙住了双眼,看不到民间社会的巨大变化,还以为中国仍然停留知识人任由摆布的毛时代。他们在严重地高估了权力的威慑力的同时,也低估了知识分子捍卫个人自由的决心和勇气;他们在严重地高估了封杀效力的同时,也低估了互联网时代民意表达的难以封杀。
    
    说他们怯懦,源于禁书没有任何法律的道义的依据。所以,堂堂政府机构却不敢公开禁书,而只能玩弄幕后的箱操作,禁书令不敢拿到媒体上公开,只能以内部的通风会宣读、电话打招呼、口头传达的形式进行,还不许录音,不留文字,但必须牢记脑中;堂堂副署长邬书林训斥湖南文艺出版社时,居然不敢直呼“章诒和”的名字,而是用“这个人”来代替。多可怜的官僚,一面耍威风,一面说话,权再大,也是不敢见光的社会。所以,这个老大的执政党只能象地下党一样偷偷摸摸地干脏活。
    
    更怯懦的是,当这种社会式官权遭遇无权者的公开反抗,官僚们大都是缩头乌龟,从来不敢公开回应那些公开挑战官权的良知。去年的“冰点事件”,中宣部和团中央的官员不敢回应李大卢跃刚的公开挑战;今年的“禁书事件”,新闻出版总署及邬书林们也不敢正面回应章诒和的挑战。
    
    与官权的懦弱形成鲜明对比的是,章诒和女士却是无权者无畏,非要向邬书林讨个公开的说法。有权者的阴暗与无权者的阳光,可谓白分明。暗中的小官僚如同躲在阴影里的鬼魅,白昼中的个人如同阳光下的天使。1月24日,章诒和再次公开发言《我没有了退路——关于“声明”的说明》,要求邬书林公开回答:“一,您是否在会上点了我?二,您是否说了‘这个人的书不能出’这句话?三,无论是封杀我,还是封杀书,您能否启动法律程序通知我,我随时恭候。”
    
    从禁书事件中,我看到两种恐惧和一种勇气。一是多年来的大多数被禁作者的沉默,说明政治恐怖仍然让人心有余悸;二是当权者不敢公开回应无权者的挑战,说明了官权对大势所趋民心所向的畏惧;三是章诒和的公开反抗与民意对章的公开支持,说明官权的整肃不再具有杀一儆百的威慑效应。
    
    一句话,自六四以来,北京政权就患上了道义合法性败血症,穷的只剩下蛮横的权力,也只能喂养一群干脏活、怕见光的官僚,除了谎言,再无其它资本为自身辩护。若不是患上这种败血症,领导着一个正在崛起堂堂的大国的老大执政党,何以处处表现出草木皆兵的恐惧和虚弱,以至于,恐惧到禁书、封网、整肃冰点、把盲人维权者陈光诚投入监狱;虚弱到满口谎言、不敢正面回应一支笔的挑战。
    
    现在的中国,民间的饭碗来自市场而非官赐,知识分子的信誉来自民间而非册封。所以,官权在变,变得越来越越缺乏道义自信,虽然恐怖政治依旧,但残暴性和威慑力都在不断下降;民间在变,反抗官权的勇气在不断提升,虽然恐惧仍如魔影四处游荡,但敢于冲破魔影的反抗者也越来越多,他们愿意为捍卫自己的尊严和权利而付出代价,致使官权通吃的时代一去不返。
    
    2007年1月26日于北京家中(BBC2007年1月29日)
http://www.peacehall.com/
cgi-bin/news/gb_display/
print_version.cgi?art=/gb/pubvp/
2007/01&link=200701300054.shtml

姚立法:私の選挙経験(1)

2007-01-30 16:14:03 | 中国異論派選訳
下記の文章は、最近共産党が禁書にしたルポルタージュ『我反対』(朱凌著)の主人公である姚立法が書いた自らの選挙運動経験談である。

私の選挙経験
姚立法

原文:
http://www.chinaelections.org/
NewsInfo.asp?NewsID=35542

1980年の春、私が在学していた湖北省潜江師範学校の人民代表選挙の時、私もクラスメートも選挙での投票は国民の法定の政治的権利であることも、投票に参加する誰もが被選挙権を持っていることも知らなかった。投票人の選挙権に対する期待など全く考えもしなかった。

私が最初に潜江県人民代表選挙に立候補したのは、1987年末である。そのころ私たち県教育局の事務所で一緒に仕事をしている若者たちはしょっちゅう集まって政治の話をしていた。特に1986年の全国に波及した学生運動について話し合った。

10数名の青年が第一次候補者推薦締め切りの日に連名で私を推薦したので、教育局の選挙事務担当の管理職は非常に怒った。推薦者に名前を連ねた人は自分の職場の管理職から、自由主義の誤りを犯したとか、ブルジョア自由化の現れだといって批判された。また、姚立法のどこが先進的なのかと詰問された。

日をおかずに、選挙区が掲示して発表した第二次候補者名簿の中にまだ私の名前があった。しかし、私も選挙民も第二次候補者がどのように選ばれたのかを知らなかった。正式候補者名簿が発表されたときには、私の名はすでに削られていた。最後に、私は当選しなかったが、それでも30票余りを得票し、非正式候補者の中では最多だった(正式候補者は印刷されていてその名前に丸をつけるだけ、それ以外の人に投票したい場合は名前を書く)。

1990年、潜江市(1988年に県から市になった)で第二回市人民代表選挙が行われた。

このときは、私は選挙の数ヶ月前から「中華人民共和国全国人民代表大会および地方各級人民代表大会選挙法」(以下選挙法と略称)と「中華人民共和国全国人民代表大会および地方各級人民代表大会代表法」(以下代表方と略称)など関係する法律の勉強を始め、また同僚を選挙運動に誘った。より多くの選挙民に私を知ってもらうために、私は2000枚の個人履歴を謄写版で刷ってすべての選挙民に配った。私が当選する可能性は小さいとわかっていたので、みんなには業務態度が比較的清廉だとみんなが認めている教育局共産党紀律検査委員会書記の饒徳清同士に投票するよう勧めた。市共産党委員会宣伝部は私の行動を知ると、二人の職員を派遣して私に選挙運動をしないよう、ビラを配らないよう要求した。一人は私に「法律の抜け穴を利用するな」と言った。もう一人は「党の指導こそが民主だ、おまえはこの上どんな民主が要るというんだ? おまえのようなのが選挙運動をやったら、共産党市委員会の意図が実現できないじゃないか?」と詰問した。私は、「私は選挙民だから、当然被選挙権がある。自分を宣伝しないで、私の被選挙権はどうやって実現するんだ」と答えた。そして、二人に聞き返した「厳格に法に基づいて選挙を行うよう要求することが、党の指導と矛盾するというのか? 君達がこれまでに決めた人民代表の正式候補者は選挙法の第何条第何項によって選ばれたのだ?」。

この年、饒徳清は非正式候補では得票数1位、私が2位で50票を獲得した。二人とも当選しなかった。

私が三回目に市人民代表選挙に参加したのは、1993年である。

前の2回の選挙では負けたが、私はあきらめはしなかった。厳格に法に基づき公開、公正な選挙を行えば、私が当選する可能性は大きいと信じていた。また、私が選挙に参加し選挙民に選挙の法定手続きを宣伝すること、とりわけ正式候補者確定の法手続きを宣伝すること、および人民代表の権利、人民代表大会の職権などを宣伝することは、選挙の手続きの適正化とより多くの選挙民にわが国の根本的な政治制度である人民代表大会制度の先進性を宣伝するのに積極的な意義があると考えた。

1993年11月1日午前9時、教育局選挙区は11の選挙民グループのグループ長および選挙民代表が出席して、いかに正式代表候補者を確定するかの会議を開いた。会議は左義凱副局長が議長だった。

会議の席で、選挙事務担当の教育局政治工作科(人事・思想政治工作担当部門)楊邦新科長は、党の上級組織が市政府総務部門共産党委員会が私たちの選挙区に推薦した黎喜農同志を当選させるよう要求していると発言した。彼の話が終わる前にほとんどの会議参加者が反対した。

会議で次のように決めた。24名の一次候補者(黎喜農をふくむ)の略歴を100部刷り、選挙民全員に紹介し宣伝する。各選挙民グループは4日午前中にまとまって予備選挙を行う。票は教育局で印刷し、選挙民は一人3票のみをもつ(選挙区の正式代表定員は2名だから、正しくは2票であるべき)、選挙区で各選挙民グループの投票結果をまとめ、得票数の上位3名を正式候補者とする。

1日午後、私と金兆茂がそれぞれの選挙ビラを選挙民に配った。

「選挙民の皆さんへ」の中で、私は次のように自己紹介している。

私は厚かましくなく、腹黒くなく、口はうまくなく、骨なしではなく、謀反を起こさず、外国かぶれでなく、接待したり袖の下を贈ったりせず、鼻にかけたりへつらったりせず、放縦にならず、汚職をせず、卑屈にも高慢にもならない。
皆さん私に一票を投じてください。もし私が市人民代表に当選したら、私は必ず次のことをやります。5年間の無給休職を申請し、5年のうちに選挙区選挙民と市人民代表大会、政府の間を走り回り、正正堂堂とすべての選挙民の声と意見を伝達し、市政府と関連政府機関が法に基づいて行政を行っているかを監督します。

2日午後5時ごろ、潜江中学と市機関幼稚園(市役所職員向け幼稚園)で前倒しの予備選挙が行われた。私は潜江中学で218票で第二位、幼稚園で32票、第一位だった。情報はすぐに広まった。

3日午前、教育局は選挙民グループ長(主に各部門の責任者)を集めて緊急会議を開いた。会議で、投票ではなく協議方式で正式候補者を選ぶことに変更された。

8日、私の「再び選挙民の皆さんへ」が選挙区の全戸に配布された。その中で次のように厳しく指摘した。

選挙民の推薦によって選ばれたのではない選挙民グループ長や、副グループ長の身分は不法である。第一次候補者の選出を選挙民に知らせることなく、グループ長が先に候補者を決め、その上で責任者の署名をもらって報告するのは不法である。ある選挙民グループ長は3人の候補者だけを紹介して選挙民と「協議」し、投票も、挙手も、口頭での表決も行わず、実際には検討の余地のない協議であったが、これも不法である。

ビラの中で、わたしは選挙法34条の規定を力を込めて宣伝した。「選挙人は代表候補者に対して賛成票を投じることも、反対票を投じることもできる。正式候補者以外の任意の選挙民に投票することも、棄権することもできる。」そして、わざわざ投票用紙の見本をつけて投票注意事項を説明した。

市教育局はこれに不安を抱き、各選挙民グループに共産党教育局委員会メンバーを貼り付け、重点対象者にくりかえし説得工作をするよう指示した。主な目的は選挙が「意外な結果」にならないようにするためである。また、市政府弁公室と教育局の管理職が大勢私を捕まえて説得を始めた。一人の管理職は机を叩きながら声を荒げて「もしまたビラを撒いたら、それは憲法が禁止する行為だぞ!」と怒鳴った。私は「私は選挙プロセスに違法行為があったから公開して争っているので、当然あなた方の支持と法律の保護を受けられるはずだ」と答えた。するともう一人の管理職は「私は君と同郷だから腹蔵なく言うが、政府に逆らわないほうがいい。君の条件なら、まじめに勉強すれば前途は無限に広がって、出世もできる」。私と個人的に仲の良い教育局局長の鄒象斌は「この選挙が不法だということは、我々の代表が不法に選ばれたということになるが、我々の政府は人民代表が選んだんだから、おまえの理屈で行くと、我々の政府も不法な政府ということになるんじゃないか?」と質問してきた。私は断固として「私は選挙プロセスに、確かに不法行為があったのを見たから、責任感のある選挙民として、当然指摘すべき事を指摘したまでです」と答えた。相手はいかんともしがたいと思ったようだ。

私が公然と選挙運動をしビラを撒いたことが、市のある主な幹部に知れ、ある会議の席で、この幹部は心配そうに私のビラを読み上げ、このような風潮は「非常に危険」であり、決して放っておいてはならないといった。

私の選挙宣伝は多くの妨害にあった。多くの職場の守衛が姚立法の立入を許してはならない、貼ったビラはすぐはがせという通知を受けた。

11月10日、「選挙民への三通目の手紙」が選挙民に配られた。ビラの中では、主に次のように述べた。話し合いで正式な候補者を決めるのは違法である。法律には明確に「公布した(第一次)候補者名簿は、各選挙区の選挙民グループの中で話し合い、相対多数の選挙民の意見により、正式な候補者名簿を決定する」と定められている。

ビラの末尾には次のように書いた。皆さん、民主を促進し、人治を法治に代え、文化的で豊かで公正な社会を実現することは、人類共同の事業であり、同様に我々みんなの事業でもあります!

このときも、やはり正式候補者には選ばれなかった。しかし、11月18日の選挙結果では非正式候補者中で第一位の598票を獲得し、非正式候補への投票総数の30%を超えた。情報は潜江の町中に伝わった。

私が3回選挙に参加して当選しなかったことについて、すでに退職した元教育局副局長の左義凱が最近「南方週末」記者の黄広明に次のように語っている。「姚立法の人民代表選挙への立候補は法律に合致し、正常なことでもある。しかし、特定の環境の中で異常なこととみなされる」。左義凱はかつて私に立候補を取りやめるよう説得したことを認めている。「上部から私に圧力があった。人民代表の人選は、普通は上部で内定している」。

1993年以降、私は厄介なことに見舞われ続けた。例えば、職場で仕事から完全に外され、職階・賃金・住宅分配でも多くの嫌がらせを受けた。一年以上全く給料をもらえなかった。予め資金を支払っていた住宅も、私には配分されなかった。職階は14年間昇進していない。職員の中には私が人民代表選挙に立候補したのは派手な言動で人気を博そうとしたとか、出世したい一心でやったことだとか、ひどいのは精神病だなどと言う者もいた。

1995年末、教育局は私に5年間の「無給休職」手続きをとるよう指示した。

私は1996年から、小商いをはじめたが、すぐに赤字経営になった。そのあと武漢に行って株相場をやったがこれも大赤字になった。1997年、私は潜江の戻って、液化石油ガスボンベ注入の小さな店を始めた。しかし、車でボンベを運ぶ途中で事故で人に怪我をさせ、数千元の賠償を払った。あっちこっち壁にぶつかり、生計の道がほとんど断たれてしまった。

1998年の春になるとすぐ、私はまた年末の潜江市第四期人民代表選挙の準備に取り掛かった。

私は3回の選挙で落選し、障害が大きいことを実感したが、回を重ねるごとに得票は増えたので、希望と自信もなくはなかった。

最初の代表選挙以来、私は参選の明確な目的をもっていた。それは、選挙の公正と手続きの正義を実現し、また人民を代表して国家を管理する権利を獲得することである。選挙の公正と手続きの正義がないために、選挙権は選挙民にいかなる真の利益ももたらしえない。利益のない選挙権を選挙民は放棄するか政治的任務の一つとして対応する。であれば、選挙活動の主体である選挙民――すなわち国家権力の所有者――は国家の主人の位置にはいない。これは憲法の原則に反する。従って、私は精力を主に選挙法の学習と宣伝に注いだ。

人民代表の正式候補者を公開・公正に法に基づいて確定することは選挙の全プロセスの核心であり、私はこれについて研究した。

選挙法第31条第1項と「湖北省県郷級人民代表大会代表選挙実施細則」(以下実施細則と略称)。第28条はどちらも正式代表候補者選出方法についての規定である。
しかし、どちらの規定も可操作性が欠けている。選挙区選挙管理グループにとってわかりずらい。実施細則は本来選挙法の実施のために選挙法よりも具体的に定められるべきだが、実際は、実施細則第28条は選挙法第31条1項の丸写しである。「交付された人民代表候補者名簿は、各選挙区の選挙民グループが討論を通じて、相対多数の選挙民の意見に基づき、正式代表候補者名簿を決定する」。

私はまた上は中央から下は区県級までの指導者の選挙管理会議での演説などを探し出した。彼らの正式代表候補者をどのように決めるかについての説明は、やはり選挙法の原文をそのまま読んでいた。

専門家が書いた選挙法解釈は参考にすぎず、また法律上の効力を有する解釈は探し出せなかった。

5月に、私は潜江市人民代表大会常務委員会弁公室主任の李従雲から全国人民代表大会常務委員会編纂の「地方人民代表大会改選選挙事務便覧」を手に入れた。便覧には「直接選挙のときに、名前の上がった候補者が多いときは、話し合いを経て、最後にどんな方法で正式候補者を決めるか」という問題の答えは、「意見募集の方式でも、挙手あるいは投票方式でも良いが、最終的に選挙民の比較多数の意見により正式候補者を確定する。」とあり、私は貴重な宝物を手に入れたように嬉しかった。

しかし、答えの中の「意見募集の方式」をどのように解釈するかが難題である。この問題を抱えて、私は市人民代表大会、省人民代表大会の関係委員会を駆け回ったが、明確な解釈は得られなかった。

私は他の考えが浮かばない中で、全国人民代表大会常務委員会法律工作委員会に思い至った。6月4日、私は法律工作委員会副主任の喬暁陽に手紙で尋ねた。「県郷の人民代表直接選挙においてどのように『意見募集の方式』により正式候補者を確定するのですか?」。まもなく返事が来た。

姚立法同志:
こんにちは!
手紙を拝読しました。喬主任はあなたの国の法律に対する関心と研究を賞賛し、私にあなたの質問に回答するよう指示しました。
人民代表を直接選挙するときに、候補者が多いときには、実務においては、各選挙民グループのグループ長がグループ内の選挙民の意見を聞き、選挙区が各選挙民グループの意見を取りまとめ、候補者が得た賛同意見の多寡の順序により、正式候補者を確定します。この方法は簡単で実施しやすいので、法律もこれを認めています。
全国人民代表大会常務委員会法律工作委員会国家法行政法室
1998年7月8日

電子辞書について

2007-01-28 17:07:59 | Weblog
キャノンのワードタンクG90は使える。
搭載されている新語辞典は現代漢語詞典第五版の語彙も拾っているそうなので、この点も良い。
中日大辞典が入っているので、ヒット率が格段に高い。ただし、まだまだ改善の余地は大きい。カシオが中国で出しているEW-V3500Lとくらべての優位性も僅かである。

もしも、キャノンもしくは他のメーカーがこれらを超える電子辞書を作るのであれば、その際には下記のソフトが盛り込まれるのが望ましい。そして、できるだけ早く実現してほしい。

1、カシオと同様に現代漢語大詞典(精選版2冊本)。これには外来語の初出年が入っていたはず、その後に出た1冊本では省略されている。→載っているのは「漢語大詞典」の10数冊本、「現代」とは全く関係ない(2007年4月29日訂正)。

2、同じくカシオにはすでに入っている上海訳文出版社の日漢大辞典。「峠」から正しく「山口」に行き着くためにはキャノンでは一旦「pass」を経由しなければならないが、この辞書があれば直接行き着く。

3、小学館日本国語大辞典精選版(三冊本)。この辞書にも初出年が入っているので、この辞書が入ると、日中両国で使われている外来語漢字語彙が日本産なのか中国産なのかが1との比較で一目瞭然となる。つまり、自然科学社会科学を問わず、中国で使われている近代科学技術語彙のほとんどが日本由来であることが誰の目にも明らかになる。

4、現在書籍版がなく、インターネットでしか公開されていない台湾の重編国語辞典修訂本。この辞書は語彙数も多く、解説もよく、用例、類義語、反義語も提示されていて非常に良い。この辞書をパソコンに向かわなくてもいつでも手元で使えたら非常に便利。

5と6、キャノンの辞書は漢英・英漢が弱いのでそれを補うためにロングマンの当代高級英語辞典(英英・英漢双解本)とハワイ大学出版部の漢英大詞典。ハワイ大学の辞書は語彙数20万語と漢英辞書の中ではいちばん多い。

中文導報:中国に適応できない在日新華僑二世たち(2)

2007-01-27 16:18:54 | Weblog
(三)中国的小孩都是神童吗?

刘立萍(化名)有一儿一女,这让她非常骄傲,以前带孩子去国内看望外婆,使孩子们最高兴的一件事。丈夫虽是日本人,但也非常喜欢中国,有时间就跟他一起回去。中国南到桂林、昆明,北到哈尔滨、大连,东到青岛、上海,西到敦煌、西安,他都去过,比刘立萍还中国。可是自从孩子上了中学后,开始拒绝与父母去中国旅游探亲了。

刘立萍介绍,问原因,孩子们也说不出个所以然,就是不愿意去了。但一次女儿告诉他,讨厌大姨和老舅老叫她“小日本”。表哥有一次和她一起看排球赛,是中国队对日本队的比赛,表哥一次次地说,“扣死它,打死小日本。打死日本傻X。”这让女儿非常不舒服。女儿对妈妈说,“妈,中国话我平时听不太懂,但表哥的话我全明白,我听懂了,表哥声援中国队,但表露出的是非常讨厌日本,讨厌日本人。”

而儿子不愿回中国的原因是不愿与舅舅家的表妹比学习。刘立萍介绍,儿子与表妹同年,上同一学年,小学的时候放暑假,刘立萍带他回中国姥姥家过暑假,带了暑假作业。与表妹一块作作业,表妹很兴奋的和小表哥比了起来,刘立萍的儿子稀稀拉拉写了一页日语汉字时,表妹一些了密密麻麻近两页的汉字。姥姥说,表妹从幼儿园时就学写字了,上学时写字又快又好,还会背唐诗宋词,会拉小提琴,聪明极了。以后回国表妹都回与小表哥比一比,看是日本的学生学习好,还是中国的学生学习好,比过数学,刘立萍儿子的数学作业只有花花绿绿的几页,而表妹的作业整整一大本,刘立萍看了一下,同类的习题,量至少是儿子3倍。当然作起来,表妹的速度也让小表哥望尘莫及。儿子曾认真地问妈妈:“中国的小孩都是神童吗?”刘立萍告诉他:“中国的小孩学习认真刻苦,你若认真学习,也会变神童的。”儿子却坚决地说:“不,我要和朋友们玩,我不要作那么多的习题。”

刘立萍说,其实女儿和儿子在日本中学和小学学习,学习成绩还是不错的,家长面谈时老师对他们的评价也很好。孩子们小的时候和他们的爸爸一样很喜欢去中国。现在女儿初三,儿子小学6年级,但他们不愿去中国了,想想语言交流障碍可能是孩子们不愿回国的因素之一,但不愿与舅舅家的表妹比学习,不愿听大姨家的表哥骂日本人,是孩子们列举的具体原因,这让刘立萍和他的老公都很头疼。

刘立萍说,想不到文化的冲突,不同生活环境、价值观念、生活习俗的隔膜,这么快孩子们就感受到了,生活在日本的华人二代,对父母成长的故乡生活,也会产生疏离,一种不理解。

原載:
http://www.chubun.com/modules/
article/view.article.php/32036/c11

中文導報:中国に適応できない在日新華僑二世たち(1)

2007-01-27 16:16:47 | Weblog
下記の文章に書かれている事例を見たら、むしろ適応することの方が不自然であると思う。

孩子回国也有无根的感觉
中文導報 07年01月3期
本报记者 李春雁

无根的感觉,一般第一代移民,来到异国打拼,生活中往往会产生母国文化与所在国文化的冲突,对异文化有一种隔阂一种疏远,自身往往会产生一种远离乡土漂泊在外的空虚感,有一种无根的感觉。

对于在日华人来说,尽管许多人来日生活多年,已习惯了在日生活,但“无根的感觉”还是会时时浮上心头。尤其年纪渐长回想往事,逢年过节思念亲人的时候,一种异乡游子的孤独感,一种对异文化排斥感,对周边环境的隔离感,更会“才下眉头又上心头”。对此很多华人深有体会,但往往被人们疏忽的是,生活、成长在日本社会的华人二代,他们在回国探亲、旅游或居住时,也会遭遇日本文化、生活习惯与中国家乡文化习俗、的冲突,遭遇日本生活环境与家乡生活环境不同的碰创,也会显现一种“无根的感觉”。元旦刚过,春节将至,一批元旦归国探亲的华人刚刚缓和旅途的疲劳,投入工作、上学的奋斗之中,一批春节返乡的华人,又即将启程出发,可是您知道那些随家长出行或只身回国的旅日小华人们,他们在并不熟悉的故乡,会发生那些生活上、文化上、思想上的撞击吗?这些撞击又会对他们的心灵、对他们对中国对故乡的认知产生什么样的影响呢?本文特别选取了几个华人二代在回国生活中发生的故事,以提醒广大家长,关注孩子回国后的“无根的感觉”。

(一)被称为“国际大傻”

关玲(化名)的儿子张亮(化名)13岁了,他出生在日本,每2、3年由父母带回国探亲一次。无论在奶奶家还是姥姥家,他都是最受欢迎的人,堂兄堂弟表姐表妹也爱围着他转,由于父母都是中国人,平时家里用中国语交谈,张亮的中国语还能应付日常交流。但今年元旦回国返回日本后,关玲注意到儿子闷闷不乐,仔细询问,儿子说以后再也不会回中国了,原因是堂兄堂弟表姐表妹们给他起了个绰号,管他叫“国际大傻”。

后经与儿子谈心并于国内的亲属交流,关玲才知道事情的原委。原来儿子在于堂兄堂弟表姐表妹的玩耍中,太实在了,有啥说啥,从不知道变通,出去也不管什么情况,非常自觉遵守秩序,遵守各个场所的规定,在堂兄堂弟表姐表妹的眼中,“太傻了”。因而被笑称“国际大傻”。

如孩子奶奶在问在学校的情况和学习成绩时,其他堂兄堂弟学习好的都说考了第几名等,学习不好的只说个“一般”“马马虎虎”等,而张亮却告诉奶奶他最得意的是参加了学校的足球队,学习上“拼命努力了,但成绩不好,倒数第三名”,奶奶夸赞他,问他班级有多少人能参加足球队时,他回答“谁想参加都可以参加,我还找了一位朋友参加呢。”令堂兄堂弟笑他笨。

还有一次,大家去游戏房玩,游戏房的墙上贴了一张告示,表明不许中小学生来玩,堂兄堂弟都是中学生,都大摇大摆地玩,店主也没有任何表示,但张亮看到了告示,问明白其中的意思后,就坚决不玩了。任堂兄堂弟怎么说也不听。同样一次去游乐场玩游戏,一个玩具车道具标明一排座席可乘坐2人,但这班车只剩一排座席了,他们同去的却有兄弟3人,因都是孩子,管理员同意3人挤挤坐下,带他们去的叔叔也让他们挤挤坐下,可张亮就是不坐,非要等下一班车来,而下一班车一等就是半小时,无奈叔叔只的让那两个兄弟把座席让给别人,他们一起等30分钟后的下一班车再坐。对张亮这么遵守“本来没用”“只是用来给检查的人看的”的规章秩序,堂兄堂弟们笑他“太傻了”。

还有一次叔叔带兄弟三人去吃“麦当劳”,堂兄堂弟去站座位去了,因店里人多,叔叔让他带为排队,自己出去办点事,结果直到叔叔回来,张亮还站在原地,原来前边不断有人夹塞儿,而张亮又不往前挤,所以只好原地踏步了。对于张亮“连排队都不会排”,堂兄堂弟们更是连连摇头,于是偷偷给他其了一个外号:“国际大傻”。

弄清了事情的原委后,关玲表示,也许是因为他们的家乡所在的是中国北方的一个小城市,社会效率和人的观念相对落后,人们对自觉、秩序的要求显然水准太低。儿子是认死理,但这个死理认的没有错。为此她表扬了儿子,并告诉儿子中国人正在像儿子一样,都在往“傻”上变,堂兄堂弟他们过两年就会明白“傻”是好的,也会变“傻”的,儿子听后虽是半信半疑,但显然很高兴。

(二)再也不想回国了

苏先生的儿子苏启明(化名)现已上了大学,自从3年前从中国奶奶家回日本后,再也没有去中国,原来3年前在国内旅途上发生的事,至今仍让他记忆犹新。

苏启明上小学时来日本,刚来日本时也常常随父母回国,后来上了中学,学习忙了,回国的次数少了,中国语说的也不太流利了。3年前,苏启明17岁,上高中二年级,暑假时父母因工作忙脱不开身,就让他一个人去长春看奶奶。考虑到苏启明已有7、8年没回国了,对国内环境不了解,父亲为他买好了先飞大连,然后从大连转机飞长春的机票,并约好叔叔去长春接机。准备就绪,父亲还不放心,就买了一张可从中国打往日本的电话卡,嘱咐儿子一下飞机就给父母打电话。

父亲在成田机场把儿子送上了飞往大连的飞机,心就一直提着,焦急地等待着儿子的消息。果然当天因大连大雾,飞机无法降落,就降落在了沈阳。接到儿子从沈阳机场打来的电话,苏先生要儿子在机场等着,听从机场人员的安排,并每半个小时来一次电话,告知情况。苏先生又给弟弟打电话告知航班有变。然而半小时后,儿子没有来电话,一小时后儿子还没有来电话。苏先生急了,给机场打电话问情况,机场回答没有找到这位乘客,可能去沈阳北站乘火车去了。苏先生又给弟弟去电话,弟弟来到长春火车站,等候从沈阳过来的火车。然而从下午等到天,没有半点孩子的消息。苏启明的奶奶一家人都极了,从长春打了两辆出租车连夜到沈阳找人。从飞机场到沈阳北站,一遍又一遍的寻找,找了一宿,终于在天已大亮的时候,叔叔在北站附近的一座立交桥下找到了只身占在那里的苏启明。

原来,在沈阳飞机场等候机场安排时,一位机场工作人员问苏启明,“你去哪里?”“长春。”“去长春,那还等什么,快出门打出租车去沈阳北站,坐火车4小时就到了。”于是苏启明座出租来到了沈阳北站,在日本长大的他哪里了解国内的社会环境,按在日本的习惯,他把随身带的手提箱放在身边,钱包放在裤子的口袋里,排队买票。哪知之一眨眼的时间,他的手提箱就不见了,心里着急,启明又急忙去拿钱包,发现钱包也不见了,从来也没有想过在国内会有这么多的贼,这么肆无忌惮,启明一下子就懵了,看着身旁一双双冷漠、嘲讽的眼神,启明感到从来没有过的寒冷,他不知道自己处在一个什么样的处境,也说不清楚这贼究竟是怎么偷的,不敢去找警察报案。钱包丢了,电话卡丢了,他没办法跟家里联系。毕竟还是个孩子,一下子身处这种凶险的环境,他不知道该如何是好了,而这时天已经完全了下来,启明就漫无目的的来到一座立交桥下,又饿又冷地等待天亮。叔叔找到启明后,急忙给亲人们打电话报平安,而这时一宿没合眼,差点急疯的父母已经开始里买机票准备去中国找儿子了。

找到了儿子,苏先生心中一块石头落了地。了解情况后,苏先生给沈阳机场和航空公司打了电话,质问机场和航空公司,这样处理一个已经买好到长春的机票的乘客是否合理,结果答复一会儿说,找不到让苏启明去火车站的管理人员,怀疑其不是工作人员,而是一般乘客。一会儿说,苏启明已经是大小伙子了,谁知道他懂不懂中国,他的行为应该自己负责,等等,最后不了了之。苏先生生气地说,其实也没想让谁来负责,钱丢了可以再挣,不是什么大问题。但这件事对孩子伤害太大了,只想要求机场和航空公司以后不要再发生类似的事件了。

苏先生事后讲述,出了这件事后,奶奶在也不让孙子在中国单独行动了,儿子回日本时,苏先生和妻子都去机场接机,儿子见到父母后,第一句话就时,“爸爸,我再也不去中国了,太可怕了。”苏先生说,“听了儿子的话,我心中的滋味难以形容,说不出来的难受。”

朗士林:「優遇」を「取締り」の口実にするな

2007-01-26 10:26:24 | 中国異論派選訳
人民日報は2006年10月18日「北京の出稼ぎ労働者の子女が無料で公立学校に入学」と報じている。出稼ぎ農民子女でも無償教育を受けられるようになたという。
http://www.china.org.cn/
japanese/266921.htm
しかしこれは真っ赤な「ウソ」。そのことは、2007年1月24日付け甘粛日報の下記の批判記事からも明らかである。農民学校強制閉鎖で1万人以上が教育の場を失ったのに、この人民日報によると公立校に転校できたのは4千人ほどにすぎない。6千人以上の子供は学校に行けなくなるか、親と分かれて戸籍地に一人帰るしかなかったのだ。
ちなみに、人民日報は中国共産党中央委員会の機関紙、甘粛日報は中国共産党甘粛省委員会の機関紙で、身内からの批判である。

「優遇」を「取締り」の口実にするな
朗士林

原文:
http://comment.gansudaily.com.cn/
system/2007/01/11/010233518.shtml

1月9日付け「蘭州晨報」に載った二つのニュースは一緒に読むに値する。一つは「上海が出稼ぎ農民子女学校を一校閉鎖」という記事。内容は、上海市普陀区にある建英希望学校が先週の金曜日に関係当局の派遣した300人によって強制閉鎖されたというもの。この学校は10年間続けてきたが、教育局は許可証を得ていないことと、安全リスクがあることを閉鎖の理由にあげている。もう一つは、「『四証優待』が就学の道を阻んでいる」という記事。内容は、はじめて発表された「蘭州市出稼ぎ農民子女教育の現状」という社会調査のなかで蘭州大学副教授の張咏梅が、蘭州市が打ち出した出稼ぎ子女入学優遇策は実際の運用においては農民子女の入学の関門になってしまうと指摘しているということ。この二つのニュースはある共通の事実を明らかにしている。それは、出稼ぎ農民子女が教育を受けるのは難しく、政府の政策の合理性と実効性に疑問が投げかけられていることである。

このことから去年の7月、北京市海淀区が30校余りの出稼ぎ農民子女学校を強制閉鎖し、1万人あまりの出稼ぎ農民子女が突然教育を受ける機会を失ったことを思い出す。この行動は、あまりに荒っぽいとか軽率であるなどと世論の強い疑念を呼んだ。北京市教育当局が当初準備した出稼ぎ農民子女の処遇は、「五証」(暫住証、居住証、労働許可証、原籍で発行した無監護人証明、戸籍簿)を取得して、居住地の街道弁公室(区の下の行政組織)あるいは郷鎮政府に行って「在京入学許可証明」を発行してもらい、その後近くの公立学校に転校するというものだった。この「五証一証明」はのちに非常に高いハードルであることが明らかになった。身分と境遇が特殊な出稼ぎ農民にとっては、このハードルはほとんど越え難いほど高いものだった。蘭州市が2004年に打ち出した「出稼ぎ農民子女学校義務教育実施に関する通知」もこれに似ている。規定によると、出稼ぎ農民は「四証」(転出証、暫住証、計画出産証、賃貸もしくは持ち家の住居証)があれば政府が指定する小中学校に子女を入れられ、借読費(学区外戸籍生徒から徴収する割増学費)は徴収しないという。張咏梅の調査によると、このあたかも優遇しているような政策は、実際は出稼ぎ農民子女の都市における就学の制限になっている。なぜなら、出稼ぎ農民にとって、「四証」を全部そろえることは、非常に時間と精力を労し、つてを頼り、あちこち役所を回って、やっと全部そろえられるからだ。とりわけ住居証はほとんど発行してもらえない。

出稼ぎ農民子女入学の優遇政策はなぜ往々にして入学の障害に転化するのか? 政府当局も出稼ぎ農民も内心よく分かっている。都市の教育資源には限界があり、公立学校の収容能力も限界があるので、高額の借読費は解消することのできない「不合理な存在」なのだ。このような状況の下で、教育資源は都市戸籍住民の子女に傾斜配分され、もしくは独占されている。「平等に教育を受ける権利」が絵空事にすぎないのであれば、なぜ政府は口先だけの「優遇政策」で出稼ぎ農民の脆弱な神経を逆なでするのか? そして、毎回の「強制閉鎖騒ぎ」が過ぎるたびに、教育秩序は正常化されるかもしれないが、多くの人の教育を受ける権利は堪えがたい侵害をこうむる。蘭州市城関区で優遇政策を受けられた出稼ぎ農民子女は僅か16%に過ぎないことがその明らかな証拠である。同様な「優遇政策」を実施した南昌市では、出稼ぎ農民子女30万人の内、僅か300人しか公立学校に受け入れてもらえなかった(「中国青年報」2005年11月13日の記事)。

私が疑いを抱くのは正常な教育秩序や優遇政策を実施する本意ではなく、その合理性と実効性である。政府通達がもたらすものは事実上の権利の平等であるべきで、文章が太平の世を謳歌することではない。政府は少なくとも次の2つの点に留意すべきである。一、いわゆる「優遇政策」が実際の効果を上げていない間は軽率に民間学校を取り締まるべきではない。二、出稼ぎ農民子女学校により多くの支援と指導を与え、調和社会の積極的な力として利用すべきである。
(了)

北京の出稼ぎ農民:アパルトヘイト下の子女教育(2)

2007-01-25 11:30:09 | 中国異論派選訳
質問:私の調査によると、教師のレベルは出稼ぎ農民学校にとって大きな問題ではなく、より大きな問題は教師の頻繁な交代の問題だと思いますが、どう解決したらよいでしょう?

韓嘉玲:教員資格の目標達成は政府の規定であり、実のところこういう書類上の規定よりも教師の学生に対する思いやり、関心と共感の方が重要なのです。
この面は試験や学歴で測ることはできません。特に小学校では、先生が本当に生徒に関心をもち、温かい言葉をかけられれば、資格である学歴は余り重要な問題ではないのです。しかし、出稼ぎ農民子女学校の先生の給料は非常に低く、彼らの生活はとても苦しいので、農民子女学校の先生の出入りは非常に多く、深刻な現象です。私たちが2000年に行った調査では、ある学校のあるクラスでは1学期間に7人も先生が変わったということがありました。そして、今でも、先生の出入りの問題は根本的には変わっていません。先生の出入りは、生徒の学習と成長に影響するので、あなたの意見に賛成です。

質問:都市の発展に出稼ぎ農民を必要とするのであれば、出稼ぎ農民子女学校は都市の発展の必然の産物であり、正規化すべきであると考えますが、あなたもそう考えますか?

張保貴:そうです。私も同感です。

質問:出稼ぎ農民子女学校の現状はどうなっていますか?

張保貴:出稼ぎ農民子女学校は現在2つの傾向があります。第一の傾向は、すでに認可を得た学校で、彼らは社会の支援、政府の支援を受け、条件はいくぶん改善され、現状も多少なりともよいです。もう一つは、認可を受けていない学校で、政府の支援もなく、弱い立場に立たされ、展望は明るくないです。

質問:あなた方は北京にいる出稼ぎ農民子女が「両免一補」(貧困家庭の生徒に対する雑費、教科書費の免除と寄宿舎生活費の補助)を受けられないことについてどう考えますか?

張保貴:私は出稼ぎ農民の子女が北京で就学する場合、出稼ぎ農民子女学校であれ、公立学校であれ、彼らも「両免一補」の待遇を受けられるべきだと思います。北京市教育委員会と北京市人民政府はかつて出稼ぎ農民子女学校の生徒を「両免一補」の対象とするかを議論しました。彼らは出稼ぎ農民子女はその戸籍地の戻って「両免一補」を受けるべきだと結論付けました。しかし、私が思うにそれは非現実的です。なぜなら彼らの両親は出稼ぎに出ており、彼らも両親について出てきているのです。彼らはどこに暮らしても祖国の児童であり、平等に「両免一補」待遇を受けられるべきです。

質問:張先生、もし生徒を行政に転校させられたら、学校は続けられないでしょうが、あなたはどうするつもりですか?

張保貴:私は一生教育に従事してきました。もう30年です。私は体が悪く、年も取ったので、もし出稼ぎ農民子女学校が続けられなくなったら、他の仕事も知らないので、何をしたらいいか分かりません。

質問:よくわからないのですが、出稼ぎ農民子女学校はみんな不法なのですか?

張保貴:許可証を取得していないところはみな不法です。しかし、私は不法教育ではあっても、違法ではないと思います。もし違法だと思ったら私たちは学校を作りませんでした。私は学校は「情理にかなっており、不法であっても違法ではない」と思います。

質問:張さん、あなたの農民学校での体験の中で最も印象深いことはなんですか? あなたは社会にどんな呼びかけがありますか?

張保貴:もっとも印象深いのは何度も挫折を味わったことです。しかし、挫折のたびに私は腰をまっすぐに伸ばして、持ちこたえてきました。一番よく覚えているのは1996年、私の学校が3週間閉鎖されたことです。1996年9月1日に授業開始、学校は9月20日から閉鎖され、丸々3週間閉鎖されました。あちこちに掛け合っても役に立ちませんでした。当時、学校が閉鎖されてから、私は父母たちが理解してくれず、学校に来て騒ぐのではないかと心配しました。しかし、父母たちはそうはしませんでした。彼らは閉鎖が私の本意ではないことを知ってくれて、閉鎖の3週間、私に恨み言もいわず、抗議もせず、むしろよく理解し、支持してくれました。彼らはあちこち場所を探し、つてを頼って交渉してくれ、それでも再開のめどがつかない時に私に解決案を出してくれました。八家地区を離れて学校を別のところに移すという案です。3週間後には学校は清河に移りました。引越しのその日、すべての保護者が子供をつれて学校に集まり、車のある人は車を提供し、担いだり、抱えたり、持ったりしてみんなが荷物を運んでくれました。あの日が私の一生の中で一番忘れがたい日です。とても感動しました。それ以降、たとえどんな挫折を味わっても、あの日を思い出して持ちこたえてきました。どんなに大きな困難も克服でき、何年も持ちこたえてこれたのは、80%は生徒と父母の理解と支持のおかげです。
社会への呼びかけは、私は以前、中央テレビ局、北京テレビ局、そして人民大学、中国農業大学の学生のボランティアに呼びかけてきました。私は以前ボランティアにたくさんの学校紹介冊子を送り、学生組織を通じて社会に関心と支持を呼びかけてきました。しかし、こうした呼びかけは何の効果もありませんでした。

質問:社会の偏見は出稼ぎ農民子女を大きく傷つけていますが、我々はどうしたらこれを避けることができ、どう対処すればよいでしょう?

韓嘉玲:出稼ぎ農民子女がもし公立学校で学ぶことができれば、それはこのような偏見を無くす非常に大きな力になるでしょう。公立学校で勉強し、都会の子供と一緒に成長し、一緒に学ぶということは彼らを社会に溶け込ませ、偏見を除去する舞台になります。このような偏見を除去するには、学校だけでなく、社会の一人一人の出稼ぎ農民に対する態度が問題です。私は、みんなが自分自身の出稼ぎ農民に対する偏見を取り除くことを呼びかけます。一人一人がそれを実現して初めて、全社会の彼らへの偏見が根本的に解決するのです。

質問:留守番児童(親が出稼ぎに出ても田舎に残っている子供)について、社会は彼らが遭遇する問題の解決にどのような手助けができるでしょうか?

張保貴:行政による出稼ぎ農民子女学校の閉鎖は2種類の児童を生み出します。一つは不就学児童、もう一つは留守番児童です。このような子供の状態は私たちが望まない状態です。不就学児童は、家庭の経済条件が悪いと、児童が公立学校に入学できないので、学業を止める結果生じます。また、北京で就学できなくなって、故郷に戻しても、誰も面倒を見る人がいないと留守番児童になります。留守番児童はもっと大変です。大変というのは、時間が長くなると、子供の性格がひねくれてきます。また、監護する人がいないので、子供の命も危険です。私の故郷では、毎年夏になると、多くの子供がおぼれて死にます。原因は誰も監護する人がいないからで、死亡者は多くが留守番児童です。

質問:あなたは不合格の出稼ぎ農民子女学校を閉鎖し、子供たちを公立学校に入れることについてどう考えますか? 都会の子供との交流の中で、出稼ぎ農民子女学校の子供は劣等感などを生じませんか。どうやって彼らの心の健康を保障しますか?

韓嘉玲:2001年6月に発布された『国務院の基礎教育改革と発展に関する決定』に「移民子女が義務教育を受ける問題の解決のために、流入地区の政府管理を主とし、全日制公立小中学校を主とし、各種の形式を採用して、法に基づき移民子女の義務教育を受ける権利を保障する」と明確に指摘しています。ここでは、全日制公立小中学校を主とし、流入地区の政府が移民の子女入学問題に主な管理責任をもつと、「二つの主」を明確にしています。二つの主原則は教育の公平に合致しています。流入地の政府の財政状況は流出地よりも豊かで、流入地が移民を雇用しており、移民は流入地の経済発展に貢献しているのですから、流入地政府が出稼ぎ労働者の子女の教育に責任を持つべきです。また、義務教育は本来政府が費用を支出すべきであり、公立学校は移民児童の教育により大きな責任を負うべきです。多くの流出地区の学校の生徒が減少しているので、客観的にも移民が大都市の優良な教育資源を享受することができます。公立学校と出稼ぎ農民子女学校の比較調査によると、北京では公立学校で学んでいる移民児童の方が農民学校の移民児童より成績がよいです。移民児童が公立学校に入ることは彼らが地域に溶け込む助けになるといえます。一般的に、公立学校の学区外戸籍生徒は学区内戸籍生徒と割りとよく溶け込んでおり、生徒間の交流と助け合いは一般的です。公立学校の調査では、学区外戸籍生徒、学区内戸籍生徒、教員いずれに対する調査でも、いずれも関係は良好で、大きな偏見や矛盾はないとでています。とりわけ移民児童は新しい環境への適応期を過ぎ、学校で一定期間生活すると、聞き取り調査と観察比較によると、小さいうちから北京の公立学校で学んでいる学区外戸籍生徒は、言葉、行動、生活方式などの面でかなりの程度北京化しています。もし聞かなければ、誰が外地戸籍か誰が現地戸籍かは見分けがつきません。ですから、より多くの移民児童を公立学校に入れることが、彼らが都市生活に溶け込み、近代都市に適した国民かつ主人になることです。また、出稼ぎ農民子女を地元の公立学校に入れることは、地元の生徒にとっても教育の機会です。しかも、多くの事例が彼らの間の関係が良いことを証明しています。現在多くの人が地元の生徒の移民児童に対する偏見を強調していますが、しかし私の見るところこうした偏見は大人からきています。子ども自身はそんなに偏見はありません。新しい公立学校に入ったばかりのうちは移民児童はすぐには適応できないかもしれませんが、時間が立てば、子供はすぐに打ち解けます。出稼ぎ農民学校は実際には出稼ぎ農民子女の孤島です。彼らを公立学校に入れることが、このような偏見を打ち破ることになり、非常に良い交流の舞台となるでしょう。地元の生徒に移民児童の生活状態を知らせ、また移民児童に彼らが住む都市をよく知らせ、お互いに長所と短所を学びあうことができます。

質問:張保貴さん、あなたは出稼ぎ子女学校の先生と生徒は、幸福だと思いますか?

張保貴:出稼ぎ子女学校の先生と生徒はとても幸福だと思います。なぜなら彼らは祖国の隅々からやってきて、朝から夕方まで分け隔てなく一緒に過ごします。彼らは、町の子供のような出稼ぎ子女に対する見方をしません。偏見も、身分の上下もありません。ですから、みんな同じスタートラインにいるので、とても幸福だと感じています。

質問:出稼ぎ農民子女の教育問題の根本的な解決法とはなんだと思いますか?

韓嘉玲:現行戸籍制度を基礎とする義務教育入学政策を改め、学齢児童がその居住地で義務教育を受ける制度を実行すべきです。移民児童は9年制義務教育普及の、とりわけ大都市の義務教育普及の穴となっています。政府は移民を義務教育の対象に含めるべきです。政府は移民児童が都市の未来の主人になることを認識すべきです。彼らの発展と成長は都市の長期的な発展レベルに影響していきます。政府は現行の戸籍簿登録者を基礎とする戸籍管理体制を廃棄し、定住住民を基礎とする戸籍管理体制を作るべきです。政府は戸籍簿登録者にサービスを提供するだけでなく、定住住民全員を日常の管理とサービス提供の対象とすべきです。基礎教育の面では、外来労働者の子女の就学を現地政府の生徒募集計画に盛り込むべきです。教育財政支出にあたっては、移民子女の教育費も予算に盛り込み、移民児童の入学率を義務教育普及評価指標に盛り込むべきです。

質問:韓先生、あなたの移民教育研修センターはどんな仕事をして、どんな業績をあげていますか?

韓嘉玲:都市の中の移民がより良く都市に適応できるように、私たちは1999年に移民教育研修センターを設立しました。コミュニティを基礎に移民を掘り起こし、彼らに支援を提供するためです。
その主旨は、1、移民と都市戸籍住民の間の格差を縮小し、社会の公平を実現し、彼らがよりよく都市の溶け込むようにすること。2、出稼ぎ農民と政府当局の間に立ち、政府に出稼ぎ農民の生活状況とそのニーズを理解させ、出稼ぎ農民が都市において生存発展していくのに役立つ規則・政策を制定させることです。
そのサービス内容は、1、移民児童プロジェクト。移民児童のために都市生活の常識、安全および保健衛生に関する知識講座を開講し、彼らに授業の補習を提供し、心身の健康な発達をうながし、よりよく都市の生活に溶け込むようにすること。2、青年プロジェクト。コミュニティの青年は2つのグループに分けられる。一つは学生、もう一つは労働者。よって、青年プロジェクトはこの2つのグループを対象とする。主に、法律知識、保健衛生知識講座の開講、心理カウンセリングの実施、などを通じて成長過程での困難と挫折に向き合えるように支援する。3、成人プロジェクト。成人とは移民児童の父母であり、彼らは一方で仕事をし、一方で子供を養育しなければならない。そこで、センターの成人プロジェクトは法律と衛生の知識講座開講のほかに、育児講座も開講し、また彼らに子供の入学、保育所入所などの情報を提供し、父母同士の対話を促し、移民の互助ネットワークを形成し、彼らがよりよく都市の生活に溶け込むように促す。4、図書の貸し出し。センターはコミュニティの中の移民児童、青年、父母に図書を貸し出している。子供の教育図書、父母の育児図書、新聞、雑誌などがある。5、情報支援。センターは移民関連の政策、情報を収集し、定期的に公表している。6、政策提案。移民のニーズと生活状態に関する情報を収集し、それを国の関係機関に伝達し、政府と社会公衆が移民問題に関心を持つことを提唱し、政府が移民に有益な政策、規則を制定することを後押しし、北京の移民の生活条件を改善することを目指しています。

質問:あなたの学校の学費は公立の学費より高いのではないですか? そうしないと維持できないのでは?

張保貴:私たちの費用徴収基準はもともと公立学校より低く、しかもとても低いです。私たちの学校は、公立学校が徴収する借読費(外地戸籍児童から徴収する割増学費)もありませんし、寄付金(公立学校が生徒の父母に要求する)もありません。毎学期僅か300元から500元ほどの学費だけです。しかもそれには各種の雑費も含まれています。現状を維持するだけでも、支援のない学校は多くの問題があります。学校によっては債務がかさんでいるところも多いです。

質問:国の最高指導者に対して出稼ぎ農民子女の就学問題解決について言いたいことはありますか?

韓嘉玲:現在の出稼ぎ農民子女学校は今まだバラバラな状態です。もし、農民子女学校教育協会のような団体を設立し、みんなでまとまれば、組織的に問題を提起でき、発言力も増すと思います。

張保貴:ネットユーザーの皆さん。皆さんの出稼ぎ農民子女学校に対するご理解に感謝します。皆さんは多くの質問を寄せてくださいました。余りうまく答えられなかったかもしれませんが、ご了解ください。もしも、私の小学校が(当局に閉鎖されずに)これからも続けることができたら、私は皆さんを失望させるようなことはしません。私は心をこめて一人一人の子供たちに接します。学校を残すことができたら、100%の努力で教育条件を改善し、長い間実現できなかった夢を実現するようがんばります。もし学校が閉鎖されても、皆さん私を理解してください。私に能力がなかったのではなく、運が悪かったのだと。私は私の能力を疑ったことはありません。私は運が悪いだけです。皆さんありがとうございました。時間が来たのでこれで終わります。さようなら。

参考(昨年11月段階でのこの小学校の様子についての朝日新聞の記事)
http://www.asahi.com/international/
weekly-asia/TKY200611070148.html

北京の出稼ぎ農民:アパルトヘイト下の子女教育(1)

2007-01-24 15:53:36 | 中国異論派選訳
北京で最初の出稼ぎ農民子女学校を始めたわけ

原文:
http://www.people.com.cn/
GB/32306/54155/57487/4819096.html

2006年9月14日午後3時、北京市社会科学院移民教育研修センター主任韓嘉玲と北京で最初の出稼ぎ農民子女学校創設者張保貴を強国論壇(中国共産党中央委員会機関紙「人民日報」が運営している「人民ネット」のBBS。普段は愛国心と排外主義を宣揚する書き込みが多い。)のゲストに招き、出稼ぎ農民子女の教育を受ける権利などについてネット仲間と意見交換した記録である。

張保貴:皆さんこんにちは。私は張保貴です。今日は人民ネットにお招きいただき大変光栄です。この機会に皆さんとお話をしたいと思います。
韓嘉玲:皆さんこんにちは。今日は出稼ぎ農民子女学校のことについて皆さんとお話ができるのでとても嬉しいです。

質問:最初の出稼ぎ農民子女学校を始めたわけは?

張保貴:私は北京で出稼ぎ農民子女学校を始める前は、河南省の農村小学校の教師でした。故郷は人が多く土地が少ない貧しいところで、改革開放に伴って、出稼ぎの人が大勢大都市に出てゆきました。私たちは毎年学齢児童の入学調査をするのですが、その中で、多くの児童が学齢期に達しても学校に行かないことを発見しました。なぜでしょう? あちこち聞いてみると、これらの子供たちは両親と一緒に家を離れて、遠く北京や上海などの大都市にいるのです。そこで、私は子供たちに教育を受けさせるという責任感から、1993年のメーデー休暇に北京に来て、最初の学齢期児童調査をしました。そこで私は、子供たちがこちらでも学校に行っていないことを発見しました。もし、お父さんが野菜売りをしていれば、子供は野菜の露天の傍らにしゃがんで父の野菜売りを手伝っています。もし、両親が果物売りをしていれば、露天に果物を並べています。一番かわいそうなのは、親が廃品回収をしている子供で、子供を家において置くのも危ないので、朝早く子供を連れ出して夜になってから戻ってきます。彼らはうわさのように北京や上海で学校に行っているのではありませんでした。私はほとんどの子供が街角にいるのを見て、悲しい気持ちになりました。調査を終えてから、学校にいけない子供たちのところに学校を作り、彼らに両親の下で義務教育を受けられるようにしようという、大胆な考えが生まれました。そこで、出稼ぎ農民子女学校を作ろうという考えが生まれたのです。1993年7月、故郷が夏休みのときに、もう一度北京に出て、農民子女学校経営の生活が始まりました。これが私が農民子女学校をはじめた理由です。

質問:出稼ぎ農民子女学校の現状はどうなっていますか?

韓嘉玲:出稼ぎ農民子女学校の出現と移民児童の教育問題は単純な教育問題ではなく、「労働力流動」の副産物であり、三農問題の拡張であり、社会の転換期に旧来の体制と管理方法の遅れが生み出した問題です。移民児童学校の出現は中国社会の急速な変化の中で、現行教育体制が社会の転換と変化に適応できない結果です。移民児童学校は現在までのところ低収入移民子女の義務教育にかかる社会問題を解決し、現行教育体制の「補充」あるいは「救済」の機能を発揮してきました。出稼ぎ農民子女学校の運営は、ありあわせの物を利用し、事情に合わせて適当な方法をとり、低コストの運営方式で農村の教育モデル(昨年まで農村部の学校も国の財政支出はなかった)を行っています。出稼ぎ農民学校には国は1銭も投資しておらす、ほとんど完全に学生の僅かな学費によって維持されています。出稼ぎ農民が、農村の学校のありあわせの物を利用し、事情に合わせて適当な方法をとるという原則に基づいて運営し発展させてきたのです。北京市の各区県教育委員会のまとめた統計によると、2002年北京市の出稼ぎ農民子女学校は348校、就学児同数は85,882人です。2004年には学校数は237校に減っていますが、生徒数は83,632人とほとんど減っていません。こうした学校は生徒も学校も変動が大きいので、実情をつかむことは難しいのですが、教育委員会が掌握している数字よりも多いと思います。出稼ぎ農民子女学校で学んでいる児童数は北京市の移民児童の30%を占めるでしょう。つまり、この30%の移民児童は移民の最下層のグループであり、つまり出稼ぎ農民の子女です。

質問:出稼ぎ農民子女学校は公立学校ですか?

張保貴:出稼ぎ農民子女学校は公立学校ではなく、民間の学校です。

韓嘉玲:出稼ぎ農民子女学校は公立学校ではなく、学費によって運営されており、国の公共予算からは出資されていません。

質問:張さん、あなたの学校は今生徒は何人いますか? 彼らはどこの出身ですか? 今回(一部の出稼ぎ農民子女学校に対して当局による強制閉鎖があった後)転校してきた生徒はいますか?

張保貴:今は2つの学校があります。二つ合わせて学童は1800人、海淀区と大興区にあります。海淀区はもともとの学校で、最初の出稼ぎ農民子女学校です。大興区は私が2005年に作ったばかりの学校です。なぜ2005年に学校を作ったかといえば、私は海淀区での14年間に10回も立退きを迫られ、学校は放浪状態でした。立退きのたびに学校は大きな損失をこうむります。私の学校は私が投資し、私が建物を建てるので、立退きに全く補償はありません(訳注:張保貴は北京市民ではないから転居補償を受けられない)。そのたびに投資はすべて失われてしまいます。1993年からの長い間の夢がありますが、いまだに実現していません。その夢とは合法的に学校運営をできる身分を得ることです。私はいまだに「不法学校運営」のレッテルを貼られています。今回海淀区は37校の出稼ぎ農民子女学校を閉鎖しようとしていますが、第一番は私の学校です。私は他の学校からの転校を受け入れられないばかりか、自分の生徒も他の学校に転校させねばなりません。ですから、この問題を話すととても悲しくなります。大興区の学校は、条件は比較的よく、最近、建築検査も衛生許可証も取得しました。目的は教育委員会に学校運営許可証を発行してもらい、合法的に学校運営ができる身分を得るためです。しかし、他の条件を満たしても、教育委員会は学校運営許可証を出そうとしないので、私はとても苦しく、心を痛めています。出稼ぎ農民子女学校を運営するために、私自身の収入を犠牲にするだけでは足りず、たくさんの借金を抱えているのです。

質問:出稼ぎ農民子女学校の先生のレベルはどうですか? 彼らはなぜ出稼ぎ農民子女学校で教えることを選んだのですか?

張保貴:出稼ぎ農民子女学校の先生の80%は短大卒以上の学歴で、一部の先生は中東師範学校卒業程度です。先生の募集方法は一部は私たちが直接師範学校にいって募集し、一部は公募して退職教師や農村で教えていた民営学校の先生を招いています。いずれも、経験のある教師です。教員は基本的に充足しています。先生がなぜ出稼ぎ農民学校を選択したかは、私は次の二つの理由があると思います。第一、師範学校で学んだということ、つまり彼らは子供との交流が好きだということ。第二、彼らが北京に来て、出稼ぎ農民の子供たちがこんなにも粗末な学校で学んでいるのを見て、強い責任感から、この職業を選んだ。つまり思いやりからです。実際、彼らは北京でもっといい仕事につくこともできるのに、そうしないで出稼ぎ農民子女学校を選んだということは、偉大で、崇高なことだと思います。

質問:現在社会の各層からの農民学校への募金は多いですか? 整った募金システムはありますか?

張保貴:他の農民学校にどれくらいの募金があるのかは分かりませんが、私の学校は中国農業大学が最近の2学期間毎学期500元の「ロウソク基金」を提供してくれたほかには、全く一般からの募金はありません。この毎学期500元の「ロウソク基金」は、農業大学の学生が廃品回収をして作ったお金です。

質問:あなたの学校が閉鎖されたあと、どれくらいの比率の生徒が公立学校に転校しましたか。 あなたたち先生には何か配慮はありましたか?

張保貴:今のところ私の学校は閉鎖されていません。今までのところ一人の生徒も公立学校に転校していません。なぜなら、海淀区の出稼ぎ農民子女受入は今まだ実行されていません。私たち教師をどうするかは、教育委員会は何の約束もしていません。以前教育委員会とこの問題について話し合いました。私たちの学校は多くの資金をつぎ込みました。もし学校の生徒を転校させ、学校を閉鎖するのであれば、私は政府から補償をしてほしいと思います。失業する先生に補償してほしいと思います。しかし、政府からは今のところ何の回答もありません。

質問:出稼ぎ農民子女学校はオーブン型の私立学校のカテゴリーに分類されるのでしょうか? 学校の教科書やカリキュラムは教育部門が指定するのですか?

張保貴:私たちが使っている教材は人民教育出版社が出版した統一教科書で、教育は完全に定められたカリキュラムに沿って行っています。出稼ぎ農民子女学校は地域社会による教育の一形式で、私立学校とは違います。

質問:大学ではなく、小中学校の段階で、義務教育法の対象で、このような学校をどうやって運営しているのですか? 経費はどこから? 学費は取ってる?

張保貴:農民学校の運営は完全に父母から徴収する僅かの学費によってまかなわれています。

質問:出稼ぎ農民の地元の政府も出稼ぎ農民子女の就学問題に責任を持つべきだと思いませんか?

張保貴:私は農民子女学校と出稼ぎ農民の子女に対して、全社会が関心を払うべきだと思います。なぜなら出稼ぎ農民の子女は非受益層のなかの非受益層だからです。出稼ぎ農民子女の学校は以前はありませんでしたし、将来も多分ないかもしれません。出稼ぎ農民子女教育は改革開放の過程で生まれた新しい課題です。農民子女学校ができたのですから、私は政府がもっとこれらの子供たちに関心を払うべきだと思います。なぜなら彼らはみな祖国の子供であり、彼らも都市の子供と同様に教育を受けられるべきだからです。現在、私たちの農民子女学校はいろいろな面で公立学校と比べて条件は劣っています。これらの子供たちはもう充分つらい思いをさせられています。ですから、政府であれ、教育委員会であれ、出稼ぎ農民子女学校に多くの関心を寄せ、支援をすべきだと思います。

質問:張保貴さん、出稼ぎ農民子女学校をあなたが作れるのに、地元の政府はなぜ作れないのですか?

張保貴:出稼ぎ農民子女学校を私たちが作れるように、政府も作ることができます。ではなぜ作らないのか? 原因はいろいろあります。一つは、出稼ぎ農民子女は全国各地から来ており、彼らの親は都市の周辺部に住んでいますから、公立学校に入学するのは難しいです。まず教科書が故郷の教科書と違います。私たちが使っているのは人民教育出版社の教科書ですが、北京市の公立学校は北京版を使っており、もし故郷に戻ったら、内容がずれてしまいます。第二に、出稼ぎ農民子女は北京でいろいろな仕事についており、子供の送り迎えの時間がありません。出稼ぎ農民子女学校は多くがスクールバスで迎えに行きます。第三に、出稼ぎ農民の子女が公立学校に入学するには、たくさんの手続きがあります。5つの証明書(暫住証、居住証、労働許可証、原籍で発行した無監護人証明、戸籍簿)がすべてそろっていなければなりません。もし、一つでも欠けたら高額の学費を支払わなければならないのです。これが以前北京市政府が出稼ぎ農民子女を受け入れない原因でした。現在、北京市全体で一部の出稼ぎ農民子女学校を閉鎖し、出稼ぎ農民子女を公立学校に受け入れようとしています。私はこれは客観的に見れば、良い流れだと思います。なぜなら公立学校は設備、ソフト、ハードの面でいずれも私たちの農民子女学校より優れているからです。しかし、条件はよくても、出稼ぎ農民子女が行きたがるかどうかが問題です。理由は今言ったような原因です。例えば、私たちの学校は今回清河第一小学校分校への転入を指示されましたが、大部分の親は拒否しました。彼らは、子供が学校にいけなくなっても、転校はさせたくないのです。なぜなら、学校までは非常に遠いのに、送り迎えをすることができないからです。

質問:あなたは出稼ぎ農民の住んでいるところの政府が責任を負うべきだとは思いませんか?

韓嘉玲:流入地の政府が公共サービスを提供する対象は、「戸籍人口に限る」という考え方は改め、地域社会に貢献する住民も含めなくてはなりません。移民は都市近代化のための建物、橋梁、道路を作っています。彼らは野菜を作り、それを売って、流入地の住民に安くて新鮮な野菜を提供しています。彼らは廃品を回収し、大通りを掃除して、流入地の人に清潔で整った都市生活を提供しています。彼らは勤勉な労働と、安い給料で、流入地の財政負担を軽減しています。彼らは流入地の都市整備、経済社会の発展に貢献しているのですから、流入地の政府は彼らの子女の教育費を予算に盛り込まなければならないのです。

質問:今回北京市政府が「不法」出稼ぎ農民子女学校を取り締まる理由は、教員のレベルが低すぎ、教育条件が整っていないというものでしたが、この問題をどう見ますか?

韓嘉玲:確かに出稼ぎ農民子女学校は教員の水準が基準に達していないとか、教育条件が整っていないという問題があります。これまでのべられたように、それは低額の学費で運営されており、条件に合わせたやり方と低コストの運営というわが国農村の教育モデルでやっています。ですから、移民の就学問題をほぼ解決しているのです。もしも、彼ら自身の力で教員資格、教育条件を解決するとしたら、かなり難しいです。ですから、移民児童の就学問題は、「国務院の基礎教育改革と発展に関する決定」に戻って、義務教育は公費で財政負担し、公立学校と流入地政府が主体となるという原則で解決すべきであり、出稼ぎ農民子女学校は補助的な手段であるべきだと思います。

質問:北京と出稼ぎ農民出身地の政府はあなた方に感謝すべきです! あなたはそれら政府に出資を求めて教育条件を改善するという考えはありませんか?

張保貴:教育委員会の要求にかなう学校を作るというのが、私の夢です。私だけの能力では限界があるので、政府と教育委員会が理想的な学校を作ることを支援してほしいと思います。私はこれまでに何度も政府に教育条件改善のための支援を申請してきました。最近、海淀区政府は教育条件改善に8,000万元を支出しましたが、大部分は公立学校で、出稼ぎ農民子女学校には支援はありませんでした。もしも、今政府が我々に100万元を支援してくれるのであれば、今の学校も教育委員会の基準に合格することができます。100万元は国にとっては小さな金額ですが、私たちの学校にとっては大変な額です。今回、石景山区の3つの学校、黄庄、台京、華奥の学校は閉鎖された農民子女学校の転校生を受け入れました。どの学校も生徒数が3,000人に達し、極端な定員超過です。もともとは1クラス40人だったのが、今では80人になっています。こうなると安全リスクも非常に大きくなります。昨日の「新京報」によると、石景山区は多分もう一度転校させなければならない、つまり一度転校した生徒をさらに他の学校に転校させなければならないだろうということです。このように政府が何度も転校させたら、生徒の勉強にも影響しますし、先生の意欲にも影響します。生徒の安全も保証されません。

韓嘉玲:移民は流入地の経済と社会に貢献すると思います。流入地政府はこうした出稼ぎ労働者の子女の教育を担う責任があります。『国務院の基礎教育改革と発展に関する決定』には、明確に移民児童の教育の問題は流入地の政府が主な責任を負うと指摘されています。つまり、流入地政府は彼らに公的サービスを提供しなければならず、責任を出身地政府に押し付けてはならないのです。一般的には流入地政府の財政状況は出身地政府より豊かですし、流入地で働いているのです。ですからそれは流入地政府の責任です。ましてや出稼ぎ農民子女も私たち中華人民共和国の国民であり、わが国の将来の主人です。ですから、流入地政府は公共サービスを提供するときに、戸籍人口にだけ提供するという考えを改め、地域に貢献のあるすべての住民に提供しなければならないのです。

質問:あなたは出稼ぎ農民についてどのような印象を持っていますか?

韓嘉玲:私の長期間の調査を通じて、私は深い印象を持っています。それは、彼ら出稼ぎ農民子女は非常に努力家で、独立心が強く、自立心と向上心が強いことです。1998年に私がある家庭にそこの子供をたずねた時、それは雪の日でしたが、その家には暖房もありませんでした。非常に寒くて、私は手足がかじかんでしまいましたが、その子は非常に思いやり深く自分の唯一の掛け布団を私の足に掛けてくれました。私は掛け布団を汚れた服の上に掛けるのはよくないと思って、戻そうとしましたが、彼はずっとそのままにさせてくれました。今でもこの子のことを思い出します。当時その家に訪問したころ、多くの子供たちが放課後、食事を作り、多くの家事をこなし、弟や妹の面倒を見ていました。そのことも非常に印象に残っています。

質問:あなたは自分の学者としての身分をどう思いますか? 非受益層のために正義を求める過程でどんな困難や挫折がありましたか?

韓嘉玲:私は自分を社会研究を行う者と位置付けています。社会下層の研究に従事する以上、自分に対する期待は研究を通じて正しく非受益層の困難とニーズを描き出し、この問題をよりよく研究することです。研究の過程で、ときには政府当局の調査拒否にあったりしますが、それは普通のことです。私はこの事情を肯定的に見ています。私は長い間移民児童の教育問題に関心を向けてきましたが、社会と政府の態度は大きく変化してきていると思います。私が97,98年に政府当局と交渉したときは、彼らはみな「私に聞くな」「私に資料を請求するな」「この問題を話すな」という対応でした。しかし、ここ数年は、彼らの態度は大きく変化し、ほぼ、自ら進んでこの問題に関心を向け検討しています。私はこれは社会の進歩だと思います。ですから皆さんの共同の努力が、私にこの仕事に意義を感じさせ、私に前に進ませる力になっているのです。

質問:調査の中で発見したのですが、今回(閉鎖された農民子女学校からの)転校生を受け入れたほとんどの公立学校は、1,000元から6,000元の学校選択費(入学金)を徴収しています。この問題についてどう考えますか?

韓嘉玲:学校選択費は移民児童だけの問題ではなく、全体的な教育資源配分の不均衡の具体的な表現です。学校選択費は教育の中で古くからの難しい問題で、新しい『義務教育法』(2006年9月1日施行)も学校選択費について多くの努力をしていますが、教育資源の不均衡の問題を根本的に解決できなければ、学校選択費の問題も根本的にはなくならないでしょう。学校選択費は都市(に戸籍のある)児童の就学困難の問題ですし、移民児童が公立学校に入る場合に立ちはだかる超えがたい壁になっており、公平な教育機会を得られなくしています。

中国共産党の最新禁書リスト

2007-01-20 17:39:39 | Weblog

香港のサウスチャイナモーニングポストによると、中国国家新聞出版総署副署長のウ・シューリンは1月18日宣伝出版工作会議の席で下記の8冊の本を禁書にし、出版社を処罰すると発表した。
下記はその全八冊の書名、著者名、出版年月、出版者名である。

1、『伶人往事』章詒和著2006年10月湖南文芸出版社
http://www.chinesepen.org/
gjwt/ShowArticle.asp?ArticleID=6694


2、『滄桑』暁剣著2006年8月上海文芸出版社

3、『我反対:一個人大代表的参政伝奇』朱凌著2006年11月海南出版社

4、『一個普通中国人的家族史(1850-2004)』国亜著2005年1月人民文学出版社
https://www.recordhistory.org/
mediawiki/index.php/
%E4%B8%80%E4%B8%AA%E6%99%AE%
E9%80%9A%E4%B8%AD%E5%9B%BD%
E4%BA%BA%E7%9A%84%E5%AE%B6%
E6%97%8F%E5%8F%B2


5、『風雲側記-我在人民日報副刊的歳月』袁鷹著2006年10月中国档案出版社

6、『年代懐旧叢書』昿晨編著2005年10月中国友誼出版社

7、『如焉』胡発雲著2006年10月中国国際広播出版社
http://www.chinesepen.org/
gjwt/ShowArticle.asp?ArticleID=6709


8、『新聞与官場的内幕故事:新聞界』朱華祥著2006年10月中国広播電視出版社

    《南华早报》报道指出,所有本禁作品都是知识分子对中国现代以及当代历史上大事的反思,这一禁令体现出中国当局仍在试图控制人们对敏感历史事件的讨论。
    
    报道称,遭禁的作品除了章诒和的《伶人往事》之外,还有从个人经历视角讲述辛亥革命到大跃进的中国历史的《沧桑》(作者晓剑)、有关民权活动人士姚立法经历的报告文学《我反对:一个人大代表的参政传奇》(作者朱凌)、讲述解放战争以来一个普通中国家庭经历的《一个普通中国人的家族史》(作者国亚)、《人民日报》退休编辑袁鹰的回忆录《风云侧记——我在人民日报副刊的岁月》、回顾50-80年代中国大事的历史丛书《年代怀旧丛书》(编者旷晨)、讲述非典疫情期间一名女子因钟情互联网而放弃作副市长的情人的《如焉》(作者胡发云)和家属中国新闻界幕后人情世故的《新闻界》(作者朱华祥)。
    
    《南华早报》报道称,有关禁书令由国家新闻出版总署副署长邬书林在上个星期的一次宣传和出版工作会议上宣布,并在星期四(1月18日)得到一名负责管理出版业的官员的证实。


何清漣:中国における統治の暴力化(6)

2007-01-20 10:51:29 | 中国異論派選訳
結語:統治手段の非正当化と社会構造の非正義化

 本研究報告は中国政治領域で発生している3つの大きな変化について十分に示した。それは公権力の私人化、政治暴力の公開化と普遍化、政府行為のヤクザ化である。それは、中国当局の非正当的統治手段への嗜好を示している。このような状況の出現の根本的な原因は、90年代から始まった経済改革が統治エリート集団による公共財産の収奪の口実と化している事である。このような資源分配の極度に不公平な構造は最終的には社会構造の非正義化を招き、中国政府も統治の合法性の危機に陥るであろう。このような合法性の危機は中国民衆が社会主義体制の略奪性と独裁性を悟ったことというよりも、中共が統治を維持するために頼ってきたイデオロギー神話を役人がぶち壊したことによるというべきである。

 中共のイデオロギー神話の主旋律は、社会主義国家の人民は国家の主人であるだけでなく、国家の富の主人であり、中国共産党政府は人民の政府であり、その行為の一切は人民への奉仕であるということである。かつて中国国民は長期間、社会主義体制はよいものであり、ただ基層役人の汚職が中国を害していると信じてきた。「中央の経典はよいが、みな下(基層政府を指す)の口の曲がった和尚が曲げて唱えている」という流行語は、中国民衆のこのような認識を示している。
しかし、90年代以降の社会の現実、とりわけ本文で分析した土地収用立退きにおける政府の行為ははっきりと、上述のイデオロギー宣伝がウソであることを示している。イデオロギー神話の支えを失った時、下層民衆の日増しに強烈な抵抗に直面し、民衆搾取の利益を確保するために、社会主義を維持する中国政府は袋小路に入るしかない。非正当的統治手段を借りてすべての抵抗を鎮圧するのである。

 統治手段の非正当化は主に政府の日常行政が益々暴力に頼るようになっていることに現れている。近年、中国の政府行為の暴力化は特に注目を集めている。このような暴力は次のような場面に現れる。

 第一の場面は警察・税務・商工業管理・都市管理・農村産児制限部門の法執行過程で弱者層に対して振るわれる暴力である。このような暴力の対象は沈黙と受忍を強いられることが多く、抵抗も個別的なものである。そうした砂粒のような抵抗は中国政府の統治危機感を引き起こさない。中国政府もこのような法執行方式の非正当性に気づいてはいるが、「公務員の法意識が薄弱である」という結論で済ませてしまう。

 第二の場面は政府とヤクザ組織が手を組んで暴力を濫用したり、政府部門が直接ヤクザ的手段で大規模に農民の土地と都市住民の住宅などの民衆の生活資源を略奪する場合などである。この種の暴力は統治権力を借りて、地方政府とエリート集団の利益を満足させるためのものである。しかも、往々にして現地政府の公布した行政規則を根拠とし、合法の形をとって公然とこれを行う。それは統治者が権力を傘にきて暴力を濫用して被治者を傷つけるものであり、その暴虐の程度は第一の公務執行過程での公務化された暴力の程度を超えており、一種の典型的な国家による非正義行為である。この種の国家の非正義行為により害される人の数も公務化された暴力を超えている。都市立退き住民の抵抗は未だに個別的であり、抵抗スタイルもせいぜい政府当局の良識を喚起することを期待しての自殺と自傷である。しかし、農村では地縁血縁などの関係により、団結して抵抗できる。とりわけ、多年にわたり地方政府の公務化された暴力に抵抗する過程で、各地で農民リーダーが育ってきている。さらに一部の中国の周縁知識人は専門的な人権活動家に育ってきており、彼らが団結して、強制土地収用や暴力的立退きに抵抗し、これに対し中国政府は大規模に国家暴力を濫用して農民の抵抗を弾圧している。このような強者と弱者の対立の中で、被治者の恐怖感を増し局面を制圧するために、中国政府は特務統治式のテロを用いている。

 第三の場面は特務統治による社会制圧の強化である。90年代後期以降、特務部門である国家安全部は広く社会の各分野に浸透し、最新技術を使って当局から異論派と目された人を追跡、監視している。そして国家安全部の権力乱用は他の政府部門よりさらにやりたい放題であり、しばしば無実の罪で人権活動家を弾圧する。このような無実の罪は、国家安全危険罪、国家機密漏洩罪、政府転覆謀議罪などの罪名乱用のほかに、盗品や禁制品を人の家に持ち込んだりかばんに入れておいてそれを所持していたとして罪を着せることもある。たとえば、2006年8月には北京の弁護士許志永が山東省に行って盲人の人権活動家陳光誠の弁護を行おうとしたところ、地方当局に「窃盗罪」で拘留された。同月、郭飛雄は北京に向かう列車の中で「ニセの切符で乗車した」とでっち上げられ拘留された。つづいて9月には「不法営業罪」ででっち上げられ拘留された。もっともひどいのは政府が行政責任を回避するためにヤクザ(すなわち「身分不詳の暴徒」)を使って、異論派と人権活動家に傷害を加えることである。また、大学の中ではいわゆる「情報員」制度が実施され、学生の中からスパイを養成して、教師の教室における言動を監視している。

 公権力の私人化、政治暴力の普遍化、政府行為のヤクザ化を特徴とする統治手段の非正当化は、すでに中国現代政治生活における抜け出すことのできない悪夢となっている。地方当局と民衆のたびたびの衝突の中で、事態が国際世論の批判を呼ぶまでに発展しても、例えば、河北省定州事件の定州市共産党委員会書記和風のように中国政府はたまに身代わりの羊を1,2匹裁くだけである。しかし、この種の政府行為の暴力化が中国の政治システムに植え付けられたことは中国の全体主義政治のもとでの権力秩序維持の必然的結果であり、決して「一部の政府役人のレベルが低く、法意識が希薄であった」からではない。よって、個別の役人を裁くだけでは政府の統治手段の非正当化の流れを食い止めることはできない。言い換えれば、現在の中国の非正義の社会構造を変えて始めて、政府行為のヤクザ化をとめることができる。そして現在のこの非正義の社会構造を変えるには、このような非正義の社会構造を作り出している政治体制を変えなければならない。

 中国の社会構造の非正義化はどのように形成されたか? 答えははっきりしている。中国が政治体制改革を拒絶し、公平で正義にかなう経済改革を拒絶したことによって造られたのだ。中国30年の経済改革は権力の市場化から始まり、公共権力はとうの昔にエリート集団が公共財と国民の財産を奪う手段へと転化した。このような権勢の私有化を起点とする富の分配構造はついに中国を非正義の社会構造にした。83%前後の社会下層は搾取と抑圧の下におかれている。このような非正義の社会構造は必然的に社会の構造的緊張をもたらす。そして中国は人口過剰で、資源が不足しており、政府は貧困人口を支援する社会福祉制度を構築して社会の緊張を緩和する能力がない。その結果ついには本研究報告で分析したような政府行為のヤクザ化をもたらした。

 統治手段の非正当化はまた中国の統治エリートの「末期心理」の反映でもある。支配者が口頭で信仰していると言うマルクス主義は彼らが行っている搾取行為を完全に否定している。権力を使って金銭を強奪すればたちまち豊かになるだろうが、引き起こす社会的憎悪は中国をいつ噴火してもおかしくない火山に変えてしまう。中国の高級・中級役人の一般的考え方は充分な金を稼いだら一家を挙げて外国に移民するというものである(一部はすでに家族だけ先に国外に送っている)。このような意識は国家の管理に現れる。すなわち民衆に対する恐怖心から権力支配に力を入れ、それが政治暴力の濫用とヤクザ的手段に表現されているのである。

 統治手段の非正当化は中国を民主化からいよいよ遠ざける。中共の統治はすでに50年以上になるが、その間に犯した罪は非常に多い。しかし、80年代には政府と人民の関係はこれまでになく和合していた。ところが、中国政府は自信のなさから、国家の犯したいかなる罪についても謝罪せず、むしろいわゆる「未来に目を向ける(向前看)」に名を借りて、すべての重大な歴史上の罪責を隠蔽してしまった。90年代後期以降、統治エリートの高度な略奪性と利己主義が引き起こす社会的憎悪は益々深くなっている。この現実は中国の統治エリートに民主化すれば、民衆の彼らにたいする政治的清算の実行は必然であるということを予知させる。よって、こんにちの中国の統治エリートの民主化排斥は、80年代の中共統治集団と比べ物にならないほど強烈である。

 中国の社会構造の非正義性は中下層民衆、とりわけ弱者層に対して「改革」に名を借りて略奪を行う。しかもこの略奪は政府によって法令として合法化される。弱者層は今日を奪われるだけでなく、高額の教育費を払えないがゆえにその子供たちは高等教育を受けられず、明日をも奪われる。中国の弱者層の我慢は臨界点に達しており、「生きていても何の意味もない」というのが多くの人の口癖になっている。2006年9月4日、「網易文化」がネット上の世論調査をした。「もしも来生があったら、あなたはもう一度中国人になりたいですか?」。9月10日夜11時までの時点で、10,234人がアンケートに答えたが、その内の64%は「来生には中国人になりたくない」と答えている。その理由として「なぜなら中国人には人としての尊厳がないから」というのがトップで総投票数の37.5%であった[63]。幼稚園から国民に愛国心を教え込む国で、三分の二近くの回答者がこのような気持ちを示すことからも、中国の政治的凝集力がどこまで低下しているかがわかるだろう。

 暴力を尊ぶ「弱肉強食」は深く中国人の行動様式に影響を与え、財産略奪を目的とする刑法犯と極端な暴力事件は急増している。社会的弱者層は体制の暴力とヤクザの暴力に抵抗できないので、社会の暴力は往々にして一般市民にむけられた無目的の暴力犯罪となる。このような暴力は社会的不公平に対するうっぷんを晴らす殺人であったり、より多くは財産略奪目的の殺人である。中国では近年金持ちの誘拐・殺人事件が激増しているが、それは中国における社会的暴力蔓延の結果である。

 中国政府の統治手段の非正当化の要点は赤裸々な暴力に依存した統治である。これは毛沢東の当時の「鉄砲から政権が生まれる」というスローガンの変形であり、その精神はヤクザ組織が暴力に頼って生存するのと一脈通じている。このように暴力をほしいままにした結果は、中国の民間社会と政府の間のゲーム空間の狭隘化であり、中国民衆の人権状況改善と政治の民主化は一層困難になってきている。(了)

[番号]に示された出典については原文参照。
原載:
http://www.chinayj.net/
StubArticle.asp?issue=060302&total=94

何清漣:中国における統治の暴力化(5)

2007-01-19 10:39:09 | 中国異論派選訳
五、強制土地収用・立退きプロセスから見た全体主義政治の下での「法治」の実質

 ここ20年余り、中国政府は自らが現代政治的文明化に向けてまい進してきていると公言している。そして、「法に基づく統治」という金看板を折に触れてひけらかしてきた。大多数の中国人(国際社会も含めて)は往々にして次のような希望をもつ。すなわち、たとえ民主主義のない政治であるとはいえ、中国政府が法令体系を整備し続けて、しかも「法律があってもそれに依らず、法執行が厳格でない」という状況を改めれば、たとえ中国が独裁政治体制であるとはいえ、その政治文明は大いに高まるであろう、というのである。

 筆者もかつてこのような考え方を受け入れていた。しかし、いかなる理論的仮定も政治的仮定も必ず実証研究という関門を通過しなければならない。近年の民衆の権利を剥奪するいとの法律規則が続々と制定されている状況と、私自身の政府の「法に基づく統治」のケーススタディによると、筆者は次の問題を考えざるをえない。中国の現在の政治体制の下で、「法に基づく統治」を行おうとすれば、基本となる政治倫理を明確にしなければならない。すなわち、立法は必ず政治的廉恥がなければならず、最低限の政治道徳がなければならないということである。ここで言う「政治的廉恥」と「政治道徳」とは、統治者が法律の形式で民衆の権利を害したり剥奪したりしてはならないということである。現下の中国では、法律体系は法律と行政規則によって構成されており、中央政府と各部委員会、各省、直轄市はいずれもこの種の行政規則を公布している。よって、これら行政規則も筆者の検討の対象範囲に含まれる。

 この文章は90年代後期以降の農村土地収用と都市立退きを例として一つの事実を指摘した。各省市地方政府はひとつとして「法に基づく土地収用」あるいは「法に基づく立退き」の旗印を掲げないものはない。そして、土地収用や立退きの過程でのすべての暴力行為は「法に基づく行政」と解釈される。こうして、当局は被略奪者を法律上非常に不利な立場に追いやり、自己の権利を擁護しようとする人々は往々にして「社会治安撹乱」や「公務執行妨害」などの罪名で投獄されている。

 紛争を引き起こしている収用補償金分配問題のほかにも、土地収用と立退きの過程で発生している大量の衝突の根源は依るべき法律がないとか、法があっても守らないとか、法執行が厳格ないということではない。それは、人民の権利を侵害する法令自体から生じている。水資源プロジェクトの土地収用を例に取ると、『土地管理法』のきていする補償がもともと低すぎて農民の利益を守れないのに、国務院が1991年2月に発布した『中規模以上水資源水力発電施設整備土地収用補償と移民転居条例』はさらに補償基準を下げている。もっとひどいのは、この「条例(規則)」で、「土地補償費の基準は上述の土地補償費基準よりも低くできる。具体的な基準は(一方当事者である)水利部が関係部門と協議して制定する」と定めていることである。これで、農民が法律上どれほど不利な立場に追いやられているかを知ることができよう。この規則は15年間実施されてきたが、その間に中国各地で水資源施設工事のための土地収用で地方の政府と民衆の衝突が絶え間なく発生している。2004年の四川省の漢源事件はそのうちの1例にすぎない。今年(2006年)7月7日になって、国務院はようやく改正条例を公布した。改正条例はこの荒唐無稽な規定を削除したとはいえ、全体としてみれば、農民の土地収用における不利な地位は根本的な改善を見ていない[60]。

 また、多くの北京市民が悲嘆にくれる都市再開発も「法に基づく立退き」である。根拠法令は主に、1991年26号『北京市市街地家屋立退き管理条例実施細則』と1998年16号『北京市市街地家屋立退き管理弁法』の2つである。この規則は、「本市行政区域内の国有地上で建物立退きを実施する場合、立退き対象者への補償と、転居が必要な場合には、すべてこの弁法を適用する」と定めている。しかし、「国有地」とは何か? 1995年7月21日北京市家屋土地局局長が発布した第434号文書に次のような解釈が示されている。「82年憲法第10条に『都市の土地は国家所有とする』……けつろんは、本局は、都市再開発により私有建物を立ち退かせるときは、建物本体と付属物についてのみ補償することができ、私有建物が占有する国有地使用権に関しては補償できないと解する」[61]。こうして、大量の私有建物の立退きは「合法的な国有地使用権の回収」となり、多くの私有家屋所有者は家屋所有権の補償のみを得られ、最も価値のある土地使用権についてはいかなる保障も受けられない。この二つの規則は後に改正されたが、立退き住民に有利にはなっていない[62]。

 他にも、民衆の権利の剥奪を意図した法令が次々と制定されている。2006年7月5日全国人民代表大会で可決された『突発事件対処法案』は、メディアの自由を一層奪うばかりでなく、国民の知る権利をも剥奪し、全く現代政治文明に反する悪法である。

 法令が統治者の意志を反映して国民の権利を奪う道具に変わってしまうということは、全く政治的廉恥心のない、政治道徳の欠如した政治行為である。このような「法に基づく統治」であれば、その精神と現代の法治主義とは全く共通点はなく、むしろ中国古代の法家とあい通じる。この種のいかなる政治的廉恥もない法的暴虐は、中国をどこに向かわせるのか、多分筆者の多言を要しないであろう。

[番号]に示された出典については原文参照。
原載:
http://www.chinayj.net/
StubArticle.asp?issue=060302&total=94


何清漣:中国における統治の暴力化(4)

2007-01-18 11:50:25 | 中国異論派選訳
四、地方政府はなぜヤクザを使いたがるのか?

 近年中国大陸の各地で頻繁に地方政府がヤクザを使って権利擁護運動の活動家に暴行を加える事件が頻発している。活動家が「身分不詳の暴徒」の襲撃を受けても、警察は故意に傍観し、被害者が救いを求めても取り合わない。政府がヤクザ組織を雇って権利擁護活動家を弾圧するのは、すでに一般的な手段になっているということができる。各地の地方政府は全力でこうした事件の情報を遮断しているが、それでも多くの事件が漏れ聞こえている。

 最近の典型事例は、湖北省秭帰県で発生した。そこは三峡ダム湖区域で、多くの水没地からの移民がいる。その一人付先財は、90年代から陳情を重ね、中央政府に三峡ダムのために転居させられた100数十万人の移民が政府の約束した補償金を受け取っていないことを訴えてきた。2006年春に彼は「第一ドイツテレビ」北京特派員の取材を受けた。5月19日、ドイツのこのテレビ局が付先財のインタビュー場面を放送すると、秭帰県公安局は付先財をドイツメディアの取材を受けたことを理由として、公安局に召喚した。召喚が終わってから、彼が公安局から帰る路上で、一群の「身分不詳の暴徒」が付先財を襲撃し、彼は頚椎骨折した。付は病院に送られたあとも、治療を受けられず、現地政府は情報を遮断しようとし続け、警官を派遣して24時間体制で病院と病室を監視し続けた[57]。

 似たような事件は、福建省福州市倉山鎮でも発生した。2005年8月1日、この鎮の万里村の村民は倉山区政府が権力を利用して無償で村民が興した工場を接収しようとしたのに反対したために弾圧された。現地政府の役人が警官のほかにヤクザを10人あまり引連れて襲撃した。この弾圧事件で、万里村の村民15名が負傷した[58]。

 ここまで読んで、読者はあるいは次のような疑問を持つかもしれない。中国政府の弾圧の力は強大ではないのか? 弾圧手段もいろいろあるではないか? なぜ中国の地方政府は不法なヤクザ組織を使わなければならないのだ?

 実は、こうした弾圧手段のヤクザ化は、中国政府が「国際的イメージ」を守るために採用した新しい対策なのだ。「身分不詳の暴徒」を使って人権活動家を弾圧することは中国政府にとって少なくとも2つの「利点」がある。

 第一、中国当局はこれら「身分不詳の暴徒」を捜査することを約束するほかにいかなる責任を負う必要もない。世論が暴徒が政府の指示を受けているのではないかと疑ったとしても、証拠はどこにあるのか? 国際社会は世論が騒ぎ立てたとしても、中国政府に「身分不詳の暴徒」の責任までは負わせられないだろう? しかも、捜査の約束も国際社会が注目する事件、例えば付先財の事件に限られる。もしも、国内の注目しか集めていない事件だとすれば、政府はそのような約束さえ免れる。例えば郭飛雄が太石村で何度殴られても、政府は「犯人捜査」の約束をしたことがあろうか?

 第二、ヤクザ組織の力を借りることは、人権活動家に強力な心理的圧力をかけることができる。人権活動家にとっては、彼らの戦いを支える主な動機は政治的使命感である。政府からの直接的な圧力は、彼らは弾圧者が誰かがわかる。また、政府はその自尊心から、必ず最低限度があるし、そうでなければ完全にサダムの仲間に堕落する。しかしヤクザの行動はなんら最低限度を考慮しない。被害者の恐怖感を増す手段であれば、どんな手段であれなんの憚りもなくそれを選ぶ。人権活動家の中でも勇敢な人は自らの危険を省みることはないだろう。しかし、家族が危険にさらされるとしたら、勇者であっても躊躇するであろう。

 自らを「大国の風格」があり、益々文明化していると標榜する中国政府にとって、いまはまだ国際社会から「圧制国家」に列せられたくはない。政府の棒旅を「身分不詳の暴徒」の指摘暴力に代えるだけで、中国政府は今回付先財事件を処理したのと同様に、外交部報道官に聞こえのよい役所言葉で、国際世論の多くの批判を遮ることができる。そして付先財本人の治療、犯人の処罰などは、全く実行する必要はない。国際社会の人権組織にいくら能力があっても、道義の基準によって別の国の「身分不詳の暴徒」を大挙して征伐するほど愚かではない。経済制裁によってヤクザ組織に対抗するなどということは、なおのこと聞いたことがない。

 筆者が2004年に発表した「権威主義的統治の下での中国の現状と展望」という文章の中で、中国にはすでに「公共権力の私物化、政治的暴力の合法化、政府行為のヤクザ化」という傾向が現れていると指摘した[59]。このような情況の下で、国際的に通用する人権、民主、自由という価値理念によって、益々喜んでヤクザ的手段で社会を管理する中国当局を規律することは、木に登って魚を探す(孟子)ことと同じである。

[番号]に示された出典については原文参照。
原載:
http://www.chinayj.net/
StubArticle.asp?issue=060302&total=94


何清漣:中国における統治の暴力化(3)

2007-01-17 11:28:54 | 中国異論派選訳
三、失地農民の絶望的な抗争

1、耕地の減少と失地農民の増加

 家を追われた都市立退き住民は400万人近くになる。また土地を失った農民の数はもっと多い。耕地の減少と失地農民の増加に関するデータは中国の残酷な現実を見せ付ける。不動産業の繁栄の直接の結果は耕地の減少である。中国農業部の報告によると、全国の耕地面積は1996年の19.51億ムーが2004年には18.37億ムーに、8年で1.2億ムー、平均毎年1,425万ムー減少した。2005年10月31日時点では、18.31億ムーに減少した。一人当り耕地面積は1.4ムーで、世界平均の40%にも満たず、土地面積はすでに人の生存最低ラインに近づいている。今日耕地面積は絶え間なく減少し、人口は絶え間なく増加しており、将来予測によると、2020年には、耕地の不足は1億ムー以上に達する[43]。これら冷酷な数字の後には、無数の土地を失った農民の慟哭がある。

 中国の失地農民はどれほどいるのか? 今でも大方の承認を得た信頼できるデータはない。国家統計局農村社会経済調査総隊は2003年に「失地農民現況調査を緊急に実施することに関する通知」を発布し、各地方政府もそれに合わせて調査を実施した[44]。政府統計によると、2005年3月、中国の失地農民の総数は4000万人を超えており、毎年約200万人の速度で増加している[45]。浙江師範大学教授が最近、河北省・山東省・湖北省・広西チワン族自治区・浙江省・雲南省など11省の134の県で行ったサンプル調査によると、土地の分配を受けた人口は総人口の84.5%であり、そこから推測すると全国では少なくとも13.7%の農民が土地を持っておらず、失地農民の数は5,093万人から5,525万人にのぼる。もしも、計画外出産などで土地の分配を受けられない人口を入れると、中国の土地を持たない農民は6千万人を超える[46]。2006年3月、中国農業部は、毎年農民の耕地が200万ムー余り転用されていると発表した。これは毎年100万人余りの農民が耕地を失っていることを意味する[47]。農業部のこの発表は一人当り2ムーで計算しているが、これによって推測すると、1996年から2004年までの8年間に1.2億ムーの耕地が減少し、6千万人の農民が土地を失ったことになる。

 中国農民の土地が強制収用されることと中国の土地制度とは密接な関係がある。中国の現行土地制度によると、農民は土地の使用者にすぎず、所有権はない。このことがいま農村で進行している「新土地囲い込み運動」に制度的保証を提供している。中国基層幹部が土地所有者の代表としての身分で、農民不在の(あるいは騙された)情況の下で、彼らの土地を剥奪している。

 中国政府は農民と労働者が当局のコントロールの外で団体を結成することを禁止しているので、各地の農民はいかなる集団行動のための組織的資源も持ちえず、遅延と血縁などの関係を利用した緩やかな臨時の組織を利用するしかない。一切の組織資源を独占し、かつ日増しにヤクザ化していく地方政府とそれに支えられた不動産業者と対決するには、農民のこのような反抗はほとんど絶望的状態におかれている。

2、河北省定州事件から見た地方政府のヤクザ化の特徴

 2005年6月11日に発生した河北省定州事件は、人々が地方政府のヤクザ化を理解するのに一つの見本を提供した。この事件の関係者の相互関係はもっともよく政府行為のヤクザ化の特徴を示している。

 関係部門が提供したある資料によると、河北省国華定州発電有限責任公司(以下「火力発電所」と略称)は2001年に着工し、2004年から稼動している大型火力発電所であり、国家第10次五ヵ年計画の重点プロジェクトである。火力発電所は縄油村から2キロメートル弱のところに建設され、縄油村の南の379ムーの土地を関係部門が火力発電所の石炭灰堆積処理場にすることを計画した。この土地は三つの部分からなっていた。80ムーは村の果樹園(集団所有)で、3000本近くの梨の成木があった。200ムーは村民個人に請け負わせた林地であり、樹齢2~3年以上のポプラが植えてあった。それから100ムーの麦畑は、縄油村村民の請負農地だった。今回の衝突の原因は土地収用補償にあった。これについて村民、地方政府と補償金を支払う火力発電所の言い分は食い違っている。

 政府の言い分は、鄭州市の石炭灰堆積場問題工作組の2004年8月27日「石炭灰堆積場に集まっている者に対する公開状」にいわく、火力発電所は「2002年9月7日に法に基づき石炭灰堆積場の使用権を取得し、縄油村のすべての村民もすでに合法的な補償を受け取っている」とする。火力発電所の工場長の言い分は、収用費用は4600万元余りであると言う。村幹部は、鎮からは村に587万元ぐらいしか来ていないという。村人は、大量の収用費用が「上部」(上級政府組織)に横領されたと考えている。この「上部」がどの政府か、定州市か、鎮政府なのか、あるいはみんなで横領したのか、未だに説明はない。こんなにも多額の収用費用がどこに行ったか分からず、村民たちは土地を失ったのに、合理的な補償は得られないので、犯行の道しか残されなかった。農民は火力発電所の着工を阻止するために、2004年7月から交代で工事現場に泊り込んでいた。

 定州市政府はこの土地収用事件で奇怪な一人二役を演じた。一方で、政府は次のような手段を使って、直接表立って鎮圧した。その一、政府幹部が人を引連れて火力発電所の施工チームのために工事現場の村民を追い払った。2004年3月15日、共産党定州市委員会副書記の趙国軍は自ら警察、政府職員と施工業者200名余りと、フォークリフト8台を引連れて石炭灰堆積場の強制着工をした。その二、警察が表に立って反抗する農民代表を捕らえた。村民代表の牛才民夫妻、村民牛旭光、牛同順など10人あまりに「集合社会秩序騒乱罪」の罪名を着せて、逮捕した。この村ではこれまでに公安局に逮捕された村民が2~300人にも上る。その三、石炭灰堆積場工事予定地を守る村民を暴力を使って追い立てた。2004年3月から7月9日までの間、定州市政府はのべ5000人あまりの警官を出動させ、10回以上も強硬着工し、大きな衝突を引き起こした。2004年4月7日、定州市共産党委員会書記の和風が縄油村に行ったとき、1000人以上の村民が土下座して訴えた。これに対して和風は「そんな芝居は見飽きた、その手は食わないぞ!」と言った[48]。一方では、地方政府は公然とヤクザの暴力を利用した。政府と村民の衝突がしばしば起こった時、村民代表の牛烟平らはたびたび「身分不詳の人物」の襲撃を受けた。このような「身分不詳の人物」は実際には政府に雇われたヤクザであるが、一般の状況下では地方政府は決してそれを認めない。2005年6月11日未明、約300人の迷彩服を着た「身分不詳の暴徒」が農民が熟睡しているすきをついて襲撃し、農民の6名が死亡し140名が負傷した(多くの人が障害が残り、労働能力を失った)。このような事件は中国では珍しくないので、当時、中国政府はこのことに関心を示さなかった。しかし、アメリカのワシントンポスト記者が現地の農民から襲撃を記録したビデオを手に入れたので、はっきりとした映像でこの暴力事件を世界に暴露した[49]。映像が暴露した残忍な弾圧は、多くの「中国政府のよき友人たち」に弁護の余地を与えず、国際世論は批難一色となった。そうして初めて中国政府は定州市共産党委員会と和風らを処分した。事件発生後7ヶ月、河北省邯鄲市中級人民裁判所は2006年2月に事件にかかわった27名について「村民殺害を計画し実行した罪」の成立を認め、4名に死刑、5名に無期懲役を言渡した。無期懲役には殺害計画で裁かれたもと定州市共産党委員会書記和風が含まれていた[50]。事件が発生してから今日に至るまで、現地政府は一貫して政府の責任を認めておらず、この事件は一部の公務員の違法行為にすぎないと主張し、また土地収用自体は合法だったとして、村民への賠償を拒絶している。

 筆者が定州縄油村事件を分析の典型事例として選んだのは、「定州事件」が以下の3つの特徴をもっているからである。第一、定州事件は政府、企業、村民という3つの利害関係者が関係している。それは近年の土地収用事件における主要な利害関係者である。第二、定州市政府、市共産党委員会は土地収用過程で購入者(農民から土地を強制収用する)と販売者(収用した土地を高値で不動産開発業者などに売りつける)の二重の役割を演じており、ほとんどすべての中国における土地収用事件における政府の役割の縮図である。政府部門は法執行権と法解釈権を持っており、ゆえにこれら強制収用行為も法律の名を借りて行われないものはない。第三、定州市政府が暴徒に村民を襲撃させ、非政府の暴力で農民を屈服させようとしたこのやり方は、最近の土地収用において頻繁に見られる。

3、地方政府の土地収用過程における不法行為

 「定州事件」のような農民を一方当事者とし、政府と企業をもう一方の当事者とする利益衝突は、中国の90年代後半以降の農村土地収用における衝突の典型的なモデルとなっている。そしてそれはふつう最終的には政府が失地農民を鎮圧して終わる。例えば、2003年3月から2004年10月までの期間、陝西省楡林市の18,000人の失地農民と楡林市政府は土地収用問題で激烈に対抗した。現地政府は一年半の間に4回武装警察(少ないときで数百名、多いときは三千名の警官)を出動させ、農民の激しい抵抗を鎮圧し、双方が激しく衝突した。政府は最後に高拉定ら27名の農民リーダーと抵抗する主要メンバーを「集合社会秩序騒乱罪、監禁罪、公務執行妨害煽動罪」などの罪名で逮捕し、かれら権利擁護農民を重刑に処し、投獄した[51]。このような状況は他の農村でも頻繁に発生している。四川省自貢市の1993年から今日(2006年)まで続く農民の抵抗、2005年7月から10月までの広州市番禺区太石村の村民の権利擁護行動、2005年12月に発生した広東省の「汕尾事件」などである。指摘しておかなければならないのは、自貢市、太石村などでは村幹部が村民と政府の衝突の中で卑劣な役割を演じていることである。土地収用交渉の中で、村幹部は農民の前に「俺も仲間だ」という顔で現れ、農民の信頼を得るが、実際にはこれら村幹部は政府役人集団の土地譲渡金山分けに預かる。例えば、自貢市紅旗郷郷長の陳文賢がこのような人物である。陳は郷長という低い役職にすぎないが、しかし土地、別荘、個人企業、各種自動車など有形資産を数千万元も持ち、その上5千万元以上の金融資産を持っていた。現地の農民は次のような戯れ歌を作って陳文賢の生活を形容している。「住むのは豪華別荘、動くにはベンツが足代わり、着るのは高級ブランド、遊ぶのは正妻一人とめかけ5人、食うのは山海の珍味」[52]。

 地方政府が土地の収用者と販売者という二つの役割を手放さないのは、土地の強制収用を通じて暴利を得られるからである。しかし、政府が表に立てるのは自分で解釈した各種の法律規則である。陝西省楡林市楡陽鎮三岔湾村の事件は典型事例である。この村は市街地から僅か7キロしか離れておらず、1999年に楡林市政府はここに楡林開発区を作ることを決めた。そこで、「国有地使用権の回収」の名の下に、農民の土地を強制収用した。その補償額は、村民が土地基盤整備と管理を行ったことのある荒地はムー当り500元の労賃を基準とした補償であった。一方、政府が企業誘致のために示した価格はムー当り35万元であった。楡林市、区、鎮の各級政府はいずれもこれは「国有地」だという。彼らは2つの根拠を示す。一つめは、1951年11月19日の「西北軍政委員会の土地改革に合わせて林木所有権整理のための規定に関する命令」であり、この「命令」の第五条には「農耕に適さない荒れ山と沙漠の縁、河川両岸の砂地のうち、面積500ムー以上の土地は、等しく国有とする」とある。二つめは、1995年の旧国家土地局の「土地所有権と使用権の確定に関する規定」第4条であり、そこには「1950年の『中華人民共和国土地改革法』の規定に従い、当時土地所有権を農民に分配しなかった土地はすべて国有とする。1962年の『農村人民公社工作条例改正草案』実施時に農民集団所有(村有)にしなかった土地は国有とする」と定める。しかし、現地の農民は、政府が彼らの村の土地を「国誘致」と宣告したのは法的根拠がないと考える。この事件に関係する10,800ムーの土地はこの村の集団所有であり、村民たちの祖先が清朝の嘉慶16年(西暦1811年)に買ったもので、契約書もある。1949年以降はこの土地は村有地となり、50年余りに渡って村民は防砂のために多くの労働力を投入して、ついには砂漠を林地と耕地に変えた。従って、農民は地方政府は勝手にこれらの土地の所有権の性質を定めることはできないと考えている。いわんや、いわゆる楡林開発区の開発は中央や省政府の決定ではなく、この開発区は実際には楡林市政府が株式の大部分を占める官営会社であり、その株式はすなわち政府役人が私人の身分で握っているのだ[53]。

 四川省自貢市政府も土地収用において似たような役割を演じている。1993年、自貢市政府は3万人もの農民の15,000ムーの畑地を収用した。政府は収用した土地を譲渡して50億元を得たが、農民への補償は極めて低かった。18歳から40歳の農民には一時金で8千元、40歳以上の農民には生活費として年金で月54元、取壊した住宅については平米150元、すべてを合わせても政府が得た土地譲渡金の2%ほどにしかならない。失地農民はこればかりの補償金では生活も、住宅の建て替えもできない。現地の農民は土地を失って困窮したが、自貢市政府の権力集団は土地開発を通じて暴利を得た。たとえば、自貢市の元共産党委員会書記劉佑林の弟、市郊外の農民劉偉林はこの土地収用を通じて一挙に1億元以上の財産を得た[54]。

 東南沿海各省では、一部の地方政府は、開放の風潮が先に来たので、早いうちから土地資源の希少性に目をつけ、直接行政権力を使って土地をまず貯め込んだ。広東省仏山市南海区政府がその例である。早くも1992年には、仏山市南海区政府は区内の三山港の1万ムー以上の農地を含むおおむね12平方キロの土地をあらかじめ収用し所有権を南海区国土管理部門に帰属させた。2005年、現地の農民が当時の土地譲渡契約の条文に違法があることを発見し、省政府の関係部門に訴えたが、取り合ってもらえなかった。現地政府の強制収用に抗議するために、2005年3月から南海区三山港の村民は困難な権利擁護活動を始め、何回も政府に弾圧された。7月2日の午後、2千名余りの村民が三山鎮派出所を取り囲み、当局に捕まえた村民と事件の調査をしていた研究者を釈放するよう要求した。結果、当局は600名の警官と30台余りの警察車両を動員して抗議者を追い散らした[55]。

 河北省の「定州事件」を起した役人は処罰されたが、それは非常に珍しいことである。なぜなら、この事件は外国メディアで報道され、国際世論の圧力があったから、中国政府は定州市共産党委員会書記和風の刑事責任を追及したのだ。しかし、大多数の農民の強制収用反対闘争においては、処罰されるのは普通農民であって役人ではない。2005年に広東省の地方政府が太石村の権利擁護闘争を弾圧したときは、番禺区当局は武装警察を出動させただけでなく、ヤクザを使って村民を支持していた郭飛雄を拉致し、14日後になってやっと家族に連絡が取れた。その間、地方政府は現地に入って真相を調査していた弁護士と支援者を「身分不詳の暴徒」として、警察とヤクザを使って妨害し逮捕した。たとえば、2005年9月26日午後、太石村権利擁護闘争に参加していた中山大学教授の艾暁明と弁護士の唐荊陵、郭艶が太石村で証拠収集をしていたところ、「身分不詳の人物」の妨害と包囲攻撃にあった。この妨害者たちのやりかたはほとんどごろつきで、例えば艾たち3人に対し汚水を撒き、罵倒し、小突いた。艾暁明らは3回警察を呼んだが、しかもその場所は現地の派出所の前であり、当直の警官や警察車両が警備していたにもかかわらず、警察は故意に取り合わなかった。彼らが電話で警察を呼んだ時、受話器を取った警官は、艾暁明拉がいつ現場を離れるのかだけを知りたがり、何度も詰問した。郭艶がバイクに乗って包囲を破ってタクシーを捜しに行きにぎやかな太石工業開発区を通った時、数台のバイクに取り囲まれ、「身分不詳」の追跡者は木の棒で彼女を殴って道路に倒し、交通事故をおこさせようとした[56]。

[番号]に示された出典については原文参照。
原載:
http://www.chinayj.net/
StubArticle.asp?issue=060302&total=94


何清漣:中国における統治の暴力化(2)

2007-01-16 13:59:18 | 中国異論派選訳
二、市街地再開発:立退き住民の悪夢

1、都市立退き対象者の経済的権利が剥奪されている

 中国では、都市での立退きのすべての過程に地方政府が関与する。地方政府が関与しなければ、千万人百万人の住居権を剥奪する立退きは一歩も前に進まないといえる。地方政府はどのような手段を使って民衆の生存権を侵害する悪行を公然と行うのか? 答えは、「公共の利益」にかこつけて立退きに合法性を与えるということだ。第一に、都市広場・道路・緑地など公共インフラの整備にかこつける。第二に、「都市再開発」にかこつける。もっとも、中国政府は法律上こうしたやり方にとても「中国的特色」のある言い方をする。まず、すべての建物を建物所有権だけがあり、土地所有権のない物品と定義し、「このような国民の土地所有権を没収するやり方は国家の性質によって決定される」と述べる。そこからさらに、中共が政権を樹立した時にすべての個人所有の土地(当時没収しなかった不動産の土地所有権部分)を没収し、すべて国家所有としたことをもって地価が「公」に帰することの根拠とするのである。こうして、地方政府は正正堂堂と多くの都市住民の先祖伝来の宅地を国有とみなし、立退きのときの補償を拒否する[18]。

 「公共の利益」を旗印とする立退き「政策かご」の中で、「都市再開発」は底なしの穴である、一部の都市では、立退き住民の悪夢となっている。ある都市では立退き住民が戻ることを許さず、大多数の住民が都市郊外に追いやられ、生活コストが大幅に増えた。住宅と家庭用品購入だけでなく、生活スタイルも変えざるを得なくなる。交通・買い物・子供の入学などいずれも厄介な問題である。ある不動産開発会社は立ち退いた土地に高級マンションや豪華一戸建てを建てるので、立退き住民が戻ってくることを許したとしても、補償基準が低いので戻るために住宅を買うことはできない。よって、住まいを失うという脅威の下で、立退き住民は往々にして強烈な反抗をする。

 中国共産党政権樹立初期の「土地改革」、「商工業改造」の富める者から奪って貧しいものを救う政策とは反対に、現在の立退き対象住民の土地を囲い込む行為は実質的には貧しき者から奪って富める者を救う政策である。それだけでなく、政府は立ち退きのときに「貴賎を分ける」政策を明確に規定している。たとえば、北京市は「副部長級以上の公民、特殊公民(民主党派の上層部、外国籍、台湾で元国民党の上層部)の不動産は、立退き過程で土地使用権を法律に基づいて評価・補償しなければならない」と規定する[19]。これは赤裸々に土地使用権は国有ではなく、「法律に基づき」等級に基づく差別があるということだ。権力階層と「特殊公民」にとっては、彼らの住宅は「法律に基づき」私有でき、立退きのときはその土地使用権は必ず十分な補償をされなければならない。権勢のない一般公民にとっては、彼らの住宅は「法律に基づき」公有であり、政府の略取に委ねるほかない。

2、中国政府はこの10年でどれほどの住宅を取り壊したか?

 この10年間どれほど多くの中国人が家を失っただろうか? 中国政府はこのようなデータを提供することはない。しかし、各方面の情報を総合すると、概況は推測できる。2005年11月29日、スイスのジュネーブに本部をおく国際人権組織「居住権・強制立退き問題センター(COHRE)」は、中国が2005年の居住権侵害がもっともひどい三つの国の一つであることを発表した。この組織は、中国に対してその署名した国際人権規約の遵守し、経済発展のために人民の居住権を侵害しないよう促した。「居住権・強制立退き問題センター」の執行主任ライチ(音訳)は記者の取材に答えて次のように語っている。彼らは毎年三つの居住権侵害のもっともひどい国を選んでおり、2005年に中国は初めて入選した。中国入選の主な原因は、彼らの組織が毎日、北京、上海およびその他の中国の都市や農村からの強制立退きに関する報告を受け取っていることだ。中国と同時に名前を挙げられた残りの2つの国は、ジンバブエとインドである。近年ジンバブエは継続的に居住権を侵害し続けており、都市の浄化計画の名のもとに70万人が家から追い出された。インドのマハラシトラ州はムンバイを「世界レベルの都市」にするために、2004年12月以降35万人を強制的に立ち退かせた。しかし、中国と比べるとこの2つの国の強制立退き被害者の数は大幅に少ない。「我々は数千数万人の家を失った人の報告を受け取った。もし彼らが強制立退きに反抗すればもっとひどい嫌がらせ・逮捕・監禁などさまざまな問題に見舞われる。中国からの報告は急増しており、我々は非常に驚いている。2008年のオリンピック施設を作るだけで40万人以上が立ち退きを迫られ、しかもその多くが強制立退きや補償額不足の立退きである」とライチは語っている[20]。「居住権・強制立退き問題センター」が発表したのは都市立退き住戸の数字であり、農村の土地を奪われた農民はここには含まれない。しかし、中国当局は過去10年に立退きをさせた住戸は少なくとも125万戸あり、370万人が転居し、その多くが強制的な立退きである。政府と不動産開発業者が提供する補償金は極めて少なく、多くの人が強制立退き後に行き場所を失っている[21]。立退きはすでに中国民衆の耐えがたい痛みになっている。

 説明しなくてはならないが、この10年間にどれほどの住宅を取り壊したかということは中国政府が機密扱いしており、納得できるような公開されたデータはない。しかし、下記のデータから実情をある程度推測できるだろう。

 雑誌『了望』には次のような数値が載っている。1992年から、北京では都市再開発問題での陳情が急増している。1995年を例にとると、1月から7月までに163件、のべ3,151人。同時期の陳情件数と人数のそれぞれ46.5%と43.2%を占めた[22]。北京での立退き問題は全国と比べると比較的早く始まった。なぜなら、陳希同が北京市長だったときから大規模立退きが始まったからである。そのご、立退きは全国に蔓延し、しかも各地の政府は北京市政府の立退きにヤクザを使うというやり方も模倣した。

 中国政府は2つの部門が立退きの陳情を受理する。一つは建設部、もう一つは国家信訪(投書・陳情の意味)部である。建設部の発表によると、2002年の1月から8月までに、投書をのべ4,820件、陳情をのべ1,730件、集団陳情を123件受理した。そのうち立退きの苦情はそれぞれ28%、70%、83.7%を占める[23]。2003年に受理した立退き陳情は3929件、18071人だった。2004年上半期の土地収用立退きの陳情は4,026件、18,620人、その内集団陳情が905件、13,223人、個別陳情が3,121件、5,397人と、半年で2003年一年間の量を超えている[24]。国家信訪局は具体的なデータを発表しておらず、陳情案件の増加率のみを公表している。2000年以降、都市再開発とりわけ立ち退き代替住宅問題での投書が毎年急増している。立退き投書は2003年8月末が前年同期比50.34%の増加。立退き陳情は、2002年が2001年比64.86%の増加、2003年8月末時点で前年同期比47.19%増加している[25]。2005年の投書と陳情人数は2003年比50%と47%増加している[26]。

 このように陳情によって抗議する立退き対象住民はごく一部にすぎない(全体の2%から5%)。上海の例では、2003年5月末、上海の富豪周正毅が上海の中心市街地静安区に17.64万平米の土地を手に入れた。これは上海最大の不動産開発プロジェクトであり、12,000戸の住民の立退きが必要になった。補償は低すぎたが、それでも500戸ほどの住民しか抗議行動をおこさなかった。そして、積極的な抗議手段、例えば陳情や訴訟に訴えたのは僅か100人余りで、1%にも満たなかった[27]。2002年2月北京市の立退き住民1万人訴訟を起した。すなわち、10,357名の立退き対象住民が連名で北京市第二中級人民裁判所に行政訴訟を起した有名な事件である。しかし、各地の立退き住民の受忍限度は異なり、集団行動の一致した利益要求にも欠け、加えて組織化コストも高い(主に政治的リスクが大きすぎる)ため、このような大規模な集団行動は全国でほとんどこの1例のみである。

 大部分の立退き住民は家族全員が終わりもなく、希望もない荊の道を歩むことを望まないがゆえに、やむを得ず耐え忍ぶ。また一部の人は、勇気を振るって請願に行くが、北京につく前につかまって連れ戻されてしまう。このような妨害を民間では「請願妨害」(当局は「説得帰郷」)と呼ぶ。「説得帰郷」させられるのが請願者の相当大きな比率を占める。黒龍江省は全国でも立退き紛争の多い省ではないが、それでも多くの北京への請願者がいる。黒龍江省政府の発表した内部データによると、2004年上半期だけで「説得帰郷させた北京請願者が218組のべ861人におよび、その内9月1日から年末までの説得帰郷者が153組のべ534人であった。また、省政府への請願者40組のべ130人を説得帰郷させた。」[28]。他の地方の説得帰郷者も少なくはない。

3、政府が暴力的立退きを指揮・関与あるいは支持放任する

 立退き過程での暴力行為はなぜたびたび発生するのか? 地方政府はなぜこうした法律違反の暴力行為を見て見ぬふりをするのか? また各地の政府はどのようにして多くの立退き住民を家から追い立て、極めて不当な立退き補償を受け入れるよう迫るのか? 答えは、政府行為のヤクザ化である。

 多くの事実が、地方政府の「立退き弁公室」と不動産開発業者の間には緊密な利害関係がある。一部の地方では、地方当局は世間を欺くために、「立退き弁公室」と不動産開発業者を形式上は別の組織にし、看板だけ2つにして実際は人員は同じである。

 以下に中国の「首都」北京市を例に、地方政府と不動産開発業者の関係を説明する。北京市西城区金融街建設開発公司の主管部門は西城区政府であり、新興不動産開発公司の主管部門は北京市政府住宅制度改革弁公室であり、朝陽区不動産経営開発公司の主管部門は朝陽区土地建物管理局である。ほとんど例外なく、商売の繁盛している不動産開発業者には政府の背景があり、往々にして総経理は政府派遣の役人が兼務している。この関係を理解すれば、政府が不動産会社と立退き住民の間に利益紛争が生じたときに、住民の家屋の評価決定と強制立退き命令を発するときに、なぜ少しも隠すことなく開発業者の肩を持つのかが理解できる。多くの開発業者はしばしば公然と立退き住民に対して「おれたちと政府は一家なんだから、おまえたちが訴えても無駄だ」と言っている[29]。

 民主国家では、裁判所は各種利益集団から超脱した公権力機関である。しかし、中国では、裁判所という公権力が大きく変質しており、不動産業者と深い利害関係をむすんでいる。北京市西城区裁判所副所長の李立千はしばしば部下の裁判官を指揮して不動産業者を代表して立退き住民と交渉し、しかも自ら多くの立ち退きを指揮した。そしてこの裁判所副所長自身は北京市西城区金融街建設開発公司立退き担当公司の経理を兼任していた[30]。

 地方政府と不動産開発業者が共生関係をむすぶのは、北京だけのことではなく、中国の普遍的な現象である。例えば、南京では2003年に立退き住民翁彪の焼身自殺事件が起こってから、2004年に立退き担当会社を整理し、12の各区県政府の立退き転居弁公室を公益法人(原文:事業単位)から、企業に改めた[31]。陝西省西安市碑林区の暴力的立退きの主力は西安市碑林区建設局であり、中央テレビ局記者の取材に対して副局長の杜波は建設局と立退き弁公室は「二枚看板、同一人員」であることを認めている[32]。

 政府が公務員を直接指揮して強制立退きに参加することはもっと多い。長沙市の立退きはきっぱりと市立退き弁公室が直接表に立っておこない、住民の抵抗に遇うと、直接警察と武装警察を動員して立退きを拒否する住民を殴打した。立退き弁公室の公務員は公然と立退き対象住民に対して「一人殴り殺すごとに数万円の補償を払っても、我々は開発を続ける」と公然と発言した。軍隊も強制立退きに介入する。たとえば長沙大韵投資不動産有限公司の法人代表胡子木はもともと湖南省軍区財務処処長であり、除隊後軍隊の看板を掲げて開発事業を行い、たびたび武装警察を使って暴力的立退きを行っていた。長沙天園家屋解体公司は長沙市天心区政府労働サービス公司に所属しており、立退き弁公室の職員は天心区政府からの出向である[33]。広東省従化市政府の強制立退きの場面はさらに「壮観」である。2005年3月7日午前8時、市政府は1000人近い解体執行部隊をそろえ、従化市街口鎮小海橋区で暴力的に商店と住宅の取り壊しを行った。この解体部隊に参加していたのは市政府公安局(及び警察犬)、計画出産弁公室、都市管理部門、国土資源局、家屋管理局、法制局、信訪局そして医療人員であった。部隊を率いたのは従化市副市長陳加猛と二人の公安局副局長であった。この日は数名の老人と女性が消防の高圧放水を受けて気絶して倒れたことでやっと中止となった[34]。

 地方政府はさらにほしいままに強圧的な手段で民衆の反抗を押さえつける。例えば、成都市政府は錦江区内の住民を転出させるために、多年にわたって各種の陰険な手段を使ってきた。まず、2004年には先頭に立って抵抗していた李廷恵女史を「違法に陳情にかこつけた抗議行動をし、人を集めて騒いだ」という罪名で逮捕され有罪とされた[35]。つぎに、住宅に放火し、立退き弁公室の職員は日常的に立退き対象住民を殴ったり罵倒したりしている[36]。多くの立退き対象住民はどこにも訴えられないという状況のもとで、追い詰められて焼身自殺という極端な方法で政府と不動産業者の財産の侵奪に抗議しているのだ。たとえば、2003年8月22日南京市府巷同慶里の住民翁彪は暴力的立退きに抗議して、立退き弁公室でガソリンをかぶって焼身自殺した。本人が死亡したほかに、6名の立退き弁公室の職員が火傷を負った。この事件がインターネット上で伝えられると全国を震撼させた[37]。行き場のないところまで追い込まれる陳情者が余りにも多いため、北京市政府はなんと『北京市信訪条例(修正草案)』につぎの条項を書き加えた。「陳情者は陳情受付場所以外に訪問の形で陳情してはならない。国家機関の事務場所およびその周辺・公共の場所に不法に集まり、騒ぎを起こし、取り囲み、国家機関に押し寄せ、公務車両を妨げ、せき止め、交通を遮断し、あるいは自殺、自傷により威嚇してはならない。そうした場合は、罰する」[38]。

 「暴力的立退き」と言う言葉は人々に立ち退き過程での殴打、罵倒、侮辱などの暴力的行為を連想させるが、十分に立ち退きのために使われる暴力の程度を体現してはいない。読者に暴力的立退きの実情をいくぶんでも理解してもらうために、以下に例をあげる。一つ目は立退き強制手段の中でわりと「文明的」な事例である。この事件は遼寧省瀋陽市のダウンタウン和平区で発生した。董国明という名の立退き対象者が立ち退きを拒否したところ、瀋陽蕪湖立退き公司によって家に閉じ込められ、ほぼ1ヶ月近くに渡って立退き会社は董と外部との一切の往来を断ち切り、董の家族が水や食物を差し入れることも禁じた。董国明は立退き請負業者が水も電気もガスもとめてしまった中で、家にあったインスタントラーメン、生のジャガイモ、生のニンジンなどで約1ヶ月間持ちこたえた。この住民を自分の家に閉じ込めた瀋陽市蕪湖立退き公司は瀋陽市政府立退き弁公室の委託を受けて立退きを実施していた[39]。もうひとつの例は上海市で発生した極端に暴力的な事例である。2005年1月9日早朝、上海市開発住宅配分有限公司は徐匯区ウルムチ中路179弄の住民を転出させるために、なんと火を放ってこの家を焼いてしまった。その結果この弄の62号の住民朱水康老夫婦が焼死した。この会社は最近対象住民に立退きを迫る時、ヤクザのやり方を使ってきた。例えば、重民を殴打侮辱したり、水電気を止めたり、住民が留守の時を狙って家の周りに糞便を撒き散らしたり、爪楊枝で鍵穴を塞いだり、大勢で住民の家に押しかけて、住民の持ち物を外に投げ出したりと言うやり方である。多くの住民はこのように昼夜を分かたず苦しめられても、涙を飲んで耐え忍び、ごく僅かの「転居補償」を受け取って出て行く。態度の断固とした住民がいると、この立退き請負業者はブルドーザーで住宅を壊して更地にした。上述の朱さんという老夫婦は転出に応じないので、この会社は彼の家に3回放火したが、地元の政府は知らぬふりをしていた[40]。地方政府の容認と支持のゆえに、この開発住宅配分有限公司はこのように恐れることなく暴力をふるい、このような惨事を招くに至ったのだ。

 一部の地域では、ヤクザ勢力が直接都市立退きに関与している。たとえば、深圳市の陳毅鋒、遼寧省の曲全国などである。これらヤクザ組織を背景にした会社が不動産開発事業行い、多くの暴力的立退きにより、対象住民は恨んでも訴えられない[41]。多くの立退き請負会社はそれ自体がヤクザ組織である。例えば内モンゴル自治区フフホト市城郷建設家屋解体有限責任公司は1994年に設立され、フフホト市都市建設局労働服務公司に所属している。この会社は8年間に30余りの立退き業務を請け負い、対象住民の両足切断など暴力的手段を用いて、純利益400万元余りを得た[42]。

 全国の地方政府の立退き弁公室と政府と関係のある立退き請負業者は似たような行為によって多くの都市住民を家から追い出し、彼らの土地を奪い、連続5年間中国暴利産業トップの不動産業を太らせている。そして、富豪リストに載る中国の富豪と多くの汚職管理を太らせている。

[番号]に示された出典については原文参照。
原載:
http://www.chinayj.net/
StubArticle.asp?issue=060302&total=94