思いつくまま

みどりごを殺す「正義」はありや?
パレスチナ占領に反対します--住民を犠牲にして強盗の安全を守る道理がどこにあろう

旌旗書店:あるネット書店の閉鎖

2007-11-30 21:55:12 | Weblog

以前から禁書を販売して処罰を受けたりしていた旌旗書店が夏前に共産党につぶされたらしい。ネット上に何の消息もないし、百度(baidu)に出た質問も答えがのる前に閉鎖されている。質問が残されているだけましか?
ちなみに、2000
年の処分のときに辞職させられた会社の責任者の名前は焦国武。この人は出版した本が禁書とされ北京大学の教職を追われた焦国標の兄弟だろうか?

この書店では章诒和の発禁となった本を発禁になってもトップページで宣伝していた。周作人の本も在庫がたくさんあった。

残念至極!それにしても憎きは中国共産党!

関連:
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/
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ラビア・カーディルさん講演(2007年11月10日)

2007-11-30 14:25:35 | Weblog
出典:http://saveeastturk.org/jp/index.php

私は暗黒の世界で苦しむ民族の声を伝えるために日本に来た。自分の声を世界に伝えたくても伝えることができない民族の声を聞きに来てくれた来場者の皆に感謝したい。私の名前はラビア・カーディル、民族はウイグルである。
1949年から中国となった東トルキスタンは、中国共産党によって新疆ウイグル自治区とされ、中国の支配下にある。東トルキスタンはチベット、キルギス、ウズベキスタン、カザフスタンと接している。
私は11人の子供の母であるが、今日は母親としてではなく、ウイグルの代表として話をしたい。私はアルタイの商人の家で生まれ、家族と共に幸せに暮らしていたが、13歳から不安定な生活を送るようになってしまった。結婚し6番目の子供を産んでからウイグル人を救うため商売をはじめ、成功を重ね中国で7番目の富豪となった。自分が経済力をつければ民族の役に立つと思っていたが、さまざまな地域の現実を見るにつけ、経済力だけでは彼らを救えないということを理解するようになった。自分のビジネスと共に、学校に寄付したり、孤児や貧民に経済援助しているうちに社会的な影響力が増していき、ついには中国共産党によって自治区政治協議会の一員として、自治区の代表として選ばれるようになった。私は政治家として企業家として中国の最高レベルにまで達したのである。このことでウイグル人の置かれている境遇についてより詳しく理解できるようになってきた。自分の目が世界に開かれていき、世界には民主というものがあることを知るようになった。
そもそも中国が新疆ウイグル自治区を設置したときには、ウイグル人を幸福にし、自由にし、民族の文化を保護し、民族自決を保証し、宗教も尊重し、教育や仕事も保証する、自然や天然資源はその土地の人々のために活用できるようにし中国は協力するだけであると言っていた。中国共産党の支配が始まった1949年の段階では漢人は人口の2%を占めるのみであったし、自治区として成立する際にはソ連の協力があったからこそ可能であったのである。中国からの移民を増やさないとも約束していた。
しかし、そのような約束は全て反故にされ、ウイグル人は地球上のどこの民族よりも酷い経験をすることになってしまった。経済は停滞し、人口は抑制され、言論の自由・表現の自由・移動の自由が制限され、そしてついには言語と宗教にまで制限が及ぶようになってきた。中国共産党がこの地域を支配した直後には、ウイグル人のことを「優しく、客好きで、心根の良い素晴らしい民族である」と評価していた。しかしその素晴らしいと言われた民族はどうなってしまったのか。一夜にしてテロリスト、国家分裂主義者、反革命主義者、犯罪人、野蛮人と呼ばれるようになってしまった。世界が発展しているときに、ウイグル人は後退してきたのである。
1954年からは富裕層や知識人が刑務所に入れられ数万人が処刑された。1957年からは多くの知識人が、1967年からはウイグル人の役人が、1987年からは現在は宗教指導者らが刑務所に入れられ弾圧を受け、処刑されるようになった。東トルキスタンにおける全ての就職口は中国からの移民に与えられ、豊かな天然資源は中国内地へ持ち去られ、その開発や運搬の労働力でさえウイグル人には与えられなかった。
このような酷い扱いを改善して欲しいと訴える人々は刑務所に入れられた。農民は日に3食の食事すらできず、10人の家族がいればその10人が一つの布団に寝るようなひどい有様であった。あの「優しく、客好きで、心根の良い素晴らしい民族」は、終始ビクビクして何でも言いなりになってしまう民族に変えられてしまったのである。
私はこのような酷い状況を何とかしたいと思い、前に出ることにした。子供を教育し、貧しい人を助けたいと思っていたが、色々な障害によってまともにできなかった。社会的な地位も与えられたが、この地位がウイグル人の犠牲の上にあるということに耐えられなくなった。そして中国の全国協議会でウイグル人の現状を報告し改善を訴えた。今置かれている民族の状況を良くしていかなければ不満が高まり、社会が不安定化し、大きな事件に発展すると中国政府に対して警告した。
1997年冬にイリで1万~1万5千人のデモが起きた。地域の集まりであるマシュラップが禁止されたことに対して異議を唱えるために始まったデモであった。暴力などを伴わない平和的なデモであったが、この武器を持っていない群集に対して中国政府は武装警官でもって当たらせた。407人がその場で銃殺され、千人以上の人がサッカー場に集められ消防車の放水を受けた。集まった若者は自由や言語、文化が尊重され、人間らしい暮らしを送りたいということを要求しただけなのに、政府はこれを弾圧したのである。
自治区政府は私達、人民政治協商会議の議員らを呼び、このデモは犯罪者による暴動であり、中国共産党が行った措置は正しかったと宣伝するよう要求した。自分の地位のためにこれに従ったウイグル人もいた。この事件では8千人が捕らえられ、トラックに乗せて市中を引き回され処刑場に運ばれていった。一家族で2~3人が同じ日に処刑されたというケースもあった。
私はこのような酷い扱いを北京政府に直接抗議した。「ウイグル人は土地も資源も、仕事さえ奪われてしまった。多くの漢人が移住してくるために、中国のほかの地域と同じような土地になってしまった。ウイグル人には平和と安定が必要である。しかし中国政府は大勢の若者を捕らえ刑務所に入れている。」
政府指導者はこの私の訴えを聞き、その場では改善の約束をしたのであるが、私が北京からウルムチに戻ったときに、私の全ての役職が解かれていることが分かった。そのときから私は政府の監視下に置かれるようになった。中国政府は、「あなたは愚かなことをした。あなたに経済力を与えたのも、社会的な地位を与えたのも中国であり、もし元の地位に戻りたいのなら政府に言うことに従うように。」と言ってきた。しかし私の経済力は自分の手で獲得したものであり、中国政府が与えてくれたのではない。
この時からウイグル人の境遇は益々酷くなっていた。今までウイグル人の老人らが「こんにちは。」と普通に言っていたものが、「お宅の息子は元気にしているか。」「逮捕されていないか。」が挨拶代わりとなってしまった。歴史家や文学者らも捕らえられるようになっていった。
このように、私は国内だけでウイグル人の境遇を変えるのは不可能であると悟り、アメリカの議員に対してウイグルの置かれている状況をまとめたレポートを渡そうとした。しかしこのことで、私も1999年11月に逮捕されることになってしまった。それまでの大富豪から一転、犯罪者として扱われるようになってしまったのである。
刑務所で過ごした最初の2年間は、真っ暗な部屋で暮らした。40日のうち1回だけ外に出してもらうだけで、それ以外は光の差さない真っ暗な部屋に座らせられ、ものを言うことも文章を書くことも、体を動かすことも禁止された。このような状況下で自分の意識を保てたのは、ウイグル人を助けるという信念であった。本当なら処刑されるはずであったのであろろうが、国際人権団体など国際組織の働きかけによって明るい部屋へと移ることができた。
あるとき看守に「お前が助けようとしている民族を見せてやろう。」と言われ、ある部屋に連れて行かれた。その部屋の両隣の部屋から拷問を受けている人間の声が聞こえたが、とても人間のものとは思えず、けもののような声であった。その声が大きくなったり小さくなったりした後に、私は部屋から外に出されたが、その時に隣の部屋で拷問を受けていた20~25歳くらいの若い男が血だるまになって連れ出されてきた。「お前が救おうとしている者の運命はこうだ。救える力があるなら救ってみろ。」と言われた。私自身が彼らと同じように拷問を受けた方が、ただ見ているだけであるよりもよっぽど楽だっただろう。
刑務所にいる6年間、私は笑うことも話すことも本を読むこともなく、じっと座っているだけであった。肉体的な暴行こそ受けなかったが、彼らは私を精神的に追い込もうとしていた。ある看守は扉の前の地面を指差し、「お前は死んでここに埋められる。そして私はお前の死体の上を通って扉を出入りするのだ。」と言った。また私の髪を可笑しげな形に切ったりした。中国人の看守は常に私を非人間的に扱った。「そんな酷い姿、人間とは思えない姿でどうする?」、「自分を救えずにどうやって他人を救う?」、「ウイグルの母はなんて美しい姿をしているんだ。」というような言葉を投げかけた。
しかしアムネスティ・インターナショナルなどの国際人権組織やアメリカ政府の働きによって、2005年3月に釈放され、アメリカのシカゴの空港に降り立つことができた。迎えに来ていたRFAの記者によって、私の声が始めて外の世界に発せられた。
2003年からウイグル語は学校で禁止され、幼稚園から大学まで中国語が使われるようになってしまった。大勢の子供達が教育を施すという名目で、東トルキスタン域外に連れ出されてしまった。
私には11人の子供がいるが、そのうちの5人が中国に残っている。中国政府は私の母性愛につけこんだ嫌がらせをするようになった。世界ウイグル会議の会長就任の話が出たら、新疆に残っている子供達が全て逮捕された。息子が拷問されているその声を国際電話を通して聞かされた。そのときに電話で会話したのは娘であったが、「いま弟達が殴られている。今引き倒された。死んだかもしれない。」と電話で話していた。そして最後に、息子の大きな悲鳴が聞こえたときに電話が切られた。2006年11月に世界ウイグル会議の会長に就任したその日に、2人の息子に有罪判決が出された。その他の逮捕されていない子供達や孫達も中国の監視下に置かれている。自分の子供達が今現在どうなっているかも分からない。しかし私はこの子供達のことで、今の活動をやめるつもりはない。私が刑務所から出されるときには、「5人の子供が我々の手元にある、下手なことはするな。」と中国に脅されていた。子供の一人は国家転覆罪で、もう一人は脱税で有罪とされた。私のビジネスを引き継いだ息子達は中国の厳重な監視下にあったはずある。息子達がビジネスを始める以前は、一人は医者で、もう一人はコンピューターエンジニアだった。脱税で捕まった息子に対しては、「お前の母親が脱税していたから、代わりにお前が逮捕されたのだ。」と言ったそうであるが、それまでに私は18回も模範的な納税者として表彰されていたのである。そして今、私はテロリスト呼ばわりされている。ウイグル人もテロリストであるとして世界中に喧伝されている。しかし私はペンと口によって平和的に解決を訴えているだけである。ウイグル人に安定を、自由を与えるよう働きかけている。ウイグル人の人権が改善され、ウイグル語で自由に話ができるようになり、刑務所にいる数十万人の政治犯が釈放されるようにしたい。
中国では、漢人に対してはそれなりの裁判が行われているが、ウイグル人の政治犯は秘密法廷で裁かれ、全く公平な裁判が行われていない。2004年にに新疆の書記長である王楽泉は、8ヶ月間で22団体から55名の政治犯を処刑したと笑顔で発表した。公式でこれだけの人数に上るのであるから、非公式ならどれだけの人数になるのか想像もできない。東トルキスタンの政治活動家は国外に亡命しているが、カザフスタンやウズベキスタン、キルギスといった、ウイグル族とは兄弟民族の国でさえ、SCO(上海協力機構)によって中国に協力するようになっており、ウイグル人の亡命者を中国に強制送還しているのである。中国政府は中国国内から逃げ出したウイグル人が政治犯であろうがなかろうが、全て刑務所に入れて刑罰を与えているのである。
私達の民族が置かれている状況はこのような悲惨なものである。もっと他にも、例えば若い娘達が強制移住させられている話もしたいが、またの機会にしたいと思う。
私はウイグル人の置かれている状況を日本に伝えるためにきた。日本は世界有数の経済大国であり、アジアでもっとも進んだ民主国家である。東トルキスタンにいる人々を自分のことのように、自分の家族のことのように捉え同情し、支援して欲しい。


RFA:激増する国家安全危害罪(旧反革命罪)逮捕者

2007-11-30 11:45:34 | Weblog

中国以危害国家安全罪被捕者人数激

2007.11.28

中国2006年以危害国家安全罪被捕者的人数为604人,比2005年的296人加了一倍以上。人权组织“对话基金会”表示,中国近年来加紧了对异议的压制。下面是自由亚洲电台记者杨家岱的采访报道。

中美对话基金会研究部负责人罗助华星期三接受电话采访时说,中国政府大约从2005年年中以来,加紧了对异议的压制: “我们从大约2005年年中开始跟踪了解中国政府加紧压制异议人士的趋势。中国式的颜色革命从那个时候开始受到镇压。政府担心出现社会动乱,重点打击那些试图组织民众的政治活动人士和维权人士。政府的行为与2008北京奥运的来临也有关系。政府想保证奥运期间不出任何事。”

罗助华表示,中国政府有关所谓国家安全的定义过于宽泛,不符合国际标准: “中国有关国家安全的定义相当宽泛。中国共产党把自身的安全等同于国家的安全,任何对中共的威胁,都被它看成是对国家的威胁。其实,中国政府所谓的危害国家安全的活动,许多是受国际人权法保护的,比如结社和表达政治观点。”

纽约城市大学教授、政治评论家夏明表示,从江泽民执政后期开始,中国政府就加紧了对五种所谓敌对势力的打击: “从江泽民的后期,中国政府就加紧了对所谓五大反华势力一方面是控制,一方面是反击,一方面是打压。这五大势力里包括所谓反华的民运势力、地下教会、疆独分子和藏独分子,法轮功。应该说对他们的打压是绝对地加强、升级了。”

夏明说,中国政府打击所谓敌对势力的主要手段之一,就是给这些人加上“危害国家安全”的罪名: “他目前用的手段主要是有几种。一种是用危害国家安全罪、用间谍罪来起诉这些人。但是另一方面,更多的我们看到的,是把政治的罪名普通的刑事犯罪化。第三种做法是把政治行为、政治人物用道的问题来进行打压,说涉嫌招妓嫖娼等等行为,就是用这种泼道污水来把一个政治人物--尤其在宗教和政治方面这些比较敏感的具有影响力的人物--进行打压。”

夏教授表示,中国政府应当学会用民主协商方式来对待政治异议、处理社会公众危机: “从国家政权的角度,我觉得中国共产党的领导人有需要学习的地方。学习什么呢?在管理社会公众危机的时候,如何能够用民主的方式、用协商的方式、用非暴力的方式,把老百姓的危机、冤屈,或者把老百姓与政府的冲突能够妥善的解决、和谐地解决,从而达到一种和谐的社会。我觉得目前中国政府领导人过于迷信暴力的有效性,迷信自已如果有权力的掌控,那么社会就会稳定,而没有想到怎么样用民主的方式把权力进行下放,把公共事务能够在基层予以解决。”

夏教授说,专制体制才是对国家安全和安定的危害。

这是自由亚洲电台记者杨家岱的采访报道。 


五一七宣言(1989年5月17日)

2007-11-29 18:33:33 | Weblog

从五月十三日下午二时起,三千余名同学在天安门广场进行了近一百小时的绝食,到现在已有七百多位同学晕倒。这是我们祖国历史上空前悲壮的事件。同学们要求否定《人民日报》四月二十六日社论,要求现场直播和政府对话。面对我们祖国儿女一个又一个倒下去,同学们的正义要求迟迟得不到理睬,这就是绝食不能停止的根源。现在,我们祖国的问题已充分暴露在全中国和全世界人民面前,这就是,由于独裁者掌握了无限权力,政府丧失了自己的责任,丧失了人性。这样一个不负责任和丧失人性的政府,不是共和国的政府,而是在一个独裁者权力下的政府。 清王朝已灭亡七十六年了,但是,还有一位没有皇帝头衔的皇帝,一位年迈昏庸的独裁者。昨天下午,赵紫阳总书记公开宣布,中国的一切重大决策,都必须经过这位老朽的独裁者。没有这位独裁者说话,四月二十六日《人民日报》社论就无法否定。在同学们进行了近一百小时的绝食斗争后,已别无选择:中国人民再也不能等待独裁者来承认错误,现在,只能靠同学们自己,靠人民自己。在今天,我们向全中国、全世界宣布,从现在起,同学们一百小时的伟大绝食斗争已取得伟大的胜利。同学们已用自己的行动来宣布,这次学潮不是动乱,而是一场在中国最后埋葬独裁、埋葬帝制的伟大爱国民主运动。

让我们高呼绝食斗争已经取得的伟大胜利!非暴力抗议精神万岁!

打倒个人独裁!独裁者没有好下场!

推翻“四.二六社论”!

老人政治必须结束!独裁者必须辞职!

大学生万岁!人民万岁!民主万岁!自由万岁! 


新世紀:包遵信の追悼会を共産党が卑劣な手段で妨害

2007-11-29 18:02:23 | Weblog
北京包遵信追思会遭卑劣手段破坏
来源:新世纪 | 日期:2007-11-26 | 网址: http://www.aboluowang.com

包遵信先生追思会11月24日下午3点半在北京陕西大厦举行,原定50人出席,结果20多人被拦阻在家,近40名白发苍苍的老者和年轻人与会。会场提前由包遵信先生子女布置好,正面是追思会的横幅和挽联,不大的屏幕准备放映11月3日追悼大会的录像资料,四周是包先生的彩色照片,宛如栩栩如生的包遵信仍旧和朋友们在一起。但是3点钟会议室突然停电,一批穿饭店制服和佩戴徽章的人,搬着4米高的梯子,进来"修电"。早到的朋友只得自己搬桌椅,先坐下来。会议时间到了,穿制服的人越进越多,开始给来宾照相,主持人张显扬作主持讲话,高瑜和姚监复先后发言,穿制服的人用对讲机高声喧哗,只有十多分钟会议就开不下去 了,穿制服的人进来抢与会者正在使用的桌椅,把高梯子竖到房子正当中,为避免事态激化,张显扬宣布追思会结束。与会者想在两个花圈下合影,结果遭到一群身高一米八至一米九以上的"员工"极粗暴的遮挡。在100多名穿饭店制服的警察严密监视下,与会者不得不走出饭店。包先生家属头一天已经交纳了4千元费用, 包括开会和用晚膳,使用时间至晚上9点,完全是家庭活动,结果遭到了当局采用卑劣手段的破坏。

张显扬不得不把远道来的朋友们领到他家,使追思会得以继续进行,会上发言的有孙长江、于浩成、顾骧、
黎明
、朱学文、刘米拉、黄钟、毕谊民、雷祯孝和其他人。大家对包遵信作为80年代思想启蒙的发动 者和主将的功绩和人品予以高度赞扬,赞叹他是中国优秀知识分子的楷模,几乎人人怀念他的道文章。

包遵信夫人王淑苓和女儿、儿子、女婿,出席了两个会场的活动。包夫人王淑苓夫最后说 : 她感谢大家,她说自己只是个普通人,和包遵信生活几十年,也没有像大家这么了解他,朋友使她更了解了自己的丈夫,使孩子更了解父亲。

被拦住未能出席会议的有江棋生、陈子明、莫少平、刘苏里、张先玲、浦志强、余世存、俞梅荪、李 海、刘 荻、这些基本上也是包遵信送别仪式上遭到警方阻拦而未能出席的人,不同的是这次追思会的组织者刘晓波和张祖桦竟然也遭到警方阻拦未能出席;而前次遭到阻拦的王力雄,这次成功突围参加了追思会。

包遵信先生追思会遭破坏现场照片


1 ,家属提前布置好的追思会。



2 。会议才开了十来分钟会场突然断电。



3 、记者闪光灯拍下穿饭店制服的国保进会场干预



4、记者闪光灯拍下与会者与穿饭店制服的国保理论



5、记者闪光灯拍下穿饭店制服的国保驱会场里的人



6 ,记者闪光灯拍下当局派工人在会场钻顶棚"修电"



7、 抢走桌椅后的会场一片狼藉
 

曾金燕:東南アジアのスラムと中国の都市の比較(2)

2007-11-29 11:43:30 | Weblog

抵达孟买的第一个星期,我在震惊中忍受痛苦的煎熬。我们住在邻近机场的一个狭小但干净整洁的旅馆,附近是据称全亚洲最大的贫民窟。每天行走在街头,看着四周低矮破旧拥挤的贫民窟建筑,或者街头破布和棍子搭建的临时居所,以及一无所有躺在街头睡觉的大批女人、老人和孩子,我觉得自己丰衣足食的生活是一种罪恶。某天外出在离旅馆不远的街头拐弯处有条水沟,看见一个母亲用棍子支起两块布作为遮挡,为她几个孩子清洗身体。几乎每天外出都能遇到乞讨的孩子敲打汽车窗户,某天我们在车里把饮用水给了一个年幼乞讨的女孩,结果来了更多的孩子,要走了剩下的水和所有带着的少量食物,孩子们包围了车想要更多。尽管印度本地人Ashish一再警告我们不要给街头乞讨的人任何东西,因为一旦给了一个,就会有一群围着你。可是当我回头看那群街头孩子小心翼翼地轮流喝我们给的饮用水并露出愉快的笑容时,一点点的欣慰、更多的痛苦和负罪感涌上心头。我明白就算把所有的东西给乞讨者,也不能解决问题,可是那么多人生活在极度的贫困中,我能做什么?我们需要更积极地做更多。

看着街头孩子们喝水的瞬间,我感觉到圣雄甘地,觉得自己以前不能理解的一些“极端”的禁欲观突然开朗了。在这样的环境下,就算一个普通的有社会责任感的人,也不会在一大群的同胞缺衣少食时,自己却享受刺激感官的美味和衣着,从而大量地占有、消耗自然和社会资源。更何况忧国忧民、爱人如己的甘地呢!

根据印度政府的统计,孟买有60%的人口生活在贫民窟。这些贫民窟的居民中,大概有20%的人居住在稳固但条件差的建筑内,包含1947-1960年之间政府建立的房屋;20%-25%的人居住在临时建筑的房屋内;还有55%-60%的人居住在临时搭建的、更不稳固的、条件更差的居所内,没有水电和公共厕所。但是许多研究机构认为,目前将近70%的孟买人居住在贫民窟,因为政府没有把街边居住的大约100万的人口计算在内。

随着孟买工业化和城市化的进程,越来越多人从乡村和小城镇涌到大城市。1981年以后,进入孟买的农村人口减少了,贫民窟人口长主要是市区和贫民窟内部的人口长。由于缺乏良好的、具有远见的市政规划,缺乏基本的供水、供电、排污和绿化设施;由于许多移居者收入低,无力建设更好的住房;由于没有受到法律保护的产权、居住权或建设权,即使有一定经济能力的贫民窟居民,也不愿意花钱投资在居住条件改善方面;再加上由于数量众多的庞大的贫民窟,政府无力补偿居民进行房屋重建;导致城市许多居民区变得越来越拥挤,不适合人类居住。贫民窟的居民,不同程度上面临随时被政府拆迁、无清洁水源和合理排污措施带来的健康威胁、居民失业、家庭低收入导致儿童大量失学、无足够食物营养不良等问题。

11 月3 日, 在CRH(Committee for the Right toHousing)的安排下,我们访问了名为Behrampada (第一个到这个地方居住的人的名字)和Pipeline (意为管道,这个贫民窟的人住在孟买市政供水管道边)的两个贫民窟社区。Behrampada 社区很大,有自来水,属于情况中等的贫民窟,房屋大多高于4层楼,建筑与建筑之间的通道非常狭小,往往不到0.5米,地面泥泞,抬头几乎看不见天空,有些地段通道上方被两边建筑伸出的阳台覆盖,光线不足,昏暗甚至完全暗。街道两旁的居民,即使是正午,也开着日光灯。我们跟着社区妇女组织的工作人员到了社区集市上,商贩们沿着一米多宽的街道摆摊,卖蔬菜水果和各种生活用品,集市很热闹,拥挤不堪。我们一行“外国人”引起孩子们的好奇跟随,导致街道阻塞。整个社区的卫生状况很差,到处都是垃圾,雨季到来时居民屋内积水及腰。

小学老师X英语好,我们交流很方便,X邀请我们到她家小坐。X有气质显得漂亮,40岁左右的模样,她的儿子和丈夫都去世了,她与一个在技术学校念商业专业的女儿相依为命。X的家很小但是很干净,室内包括楼梯所占的空间大概十平方米的面积,第一层是合法建筑,用于出租;第二层、第三层和阁楼是她丈夫在世时建起来的,是“非法建筑”。她强烈不同意拆迁的一个原因是只能获得第一层楼的补偿,她认为自己的损失太大。X很为自己和会弹吉它的女儿自豪,也为自己家有独立卫生间骄傲。她平时在小学教书,假日在家为附近的一些小朋友补课,对待学生如同亲生孩子。同时X还是社区妇女组织的成员,免费为妇女提供英语教学。此外她也积极组织贫民窟社区的居民自我管理。X说她正在给政府写信要求政府修理门口的道路,如果政府不作为,她就会自发组织居民集资,修建道路,方便大家行走。Behrampada是穆斯林为主的社88 区,X是基督徒,通过教会做一些慈善工作。

走到Pipeline社区时情况就完全不一样了。在供应孟买全市水源的大水管旁,人们用硬纸、塑料、布、棍子支起“家”。“家”低矮,非常小,刚好够家人平躺下。“家”里空空如也,最好的情况是拥有锅、勺、碗和一些衣服。没有电,通过偷偷地凿市政输水管一个细小的出水口获得水源,几个男孩在臭水湖里玩。一个母亲抱着幼小的婴儿在门口看着我们,皮包骨的小婴儿也看着我。这个脆弱小生命游离的眼神却击痛我,我心中默念特丽莎修女的名字,获得勇气和信心走完接下来的路程。离开Pipeline时,看见一个青壮年男子在大水管的阴凉处躺着,背对着我蜷缩着身体一动不动似乎正在睡觉。印度正午强烈的阳光照着大地,我却感到沁骨的悲凉。年轻人,孩子们,老人们,我们不要放弃希望!我时刻鞭策自己,过更简朴的生活,更加努力地为社会服务,因为还有这么多和我们一样有尊严的人,却在忍受饥饿、干渴和居无定所。

现在印度政府急切地宣称要把孟买建立成中国上海那样的大都市,我暗问要奋斗多少年?除了历史基础,上海地处发达的长江三角洲,周边城市和工业区的发展为上海的繁荣提供了支持;土地公有和强制拆迁为上海建立摩天大厦提供了便利;国家政权对上海的重视为上海集中了大量的资源。而孟买首先要解决占人口总数70%左右的贫民窟问题,民主政治在这些问题上成了弱势者的保护伞,强制拆迁或血腥驱在印度行不通。在印度人眼中,任何一个政府导致的死人事件都是“大事”,而公开自由的媒体报道又能为受害平民提供支持。土著人Hement说政府执政党没有绝对的权力,他们有的只是每5年一次的选举机会。孟买是无法复制上海的。除非孟买所有的人民得到适宜的就业机会和住房安置,人民能得到发展的好处而无需付出沉重的代价,在这样的政治环境下,孟买无法一蹴而就成为繁荣的国际大都市,一切只能慢慢来。 


曾金燕:東南アジアのスラムと中国の都市の比較(1)

2007-11-29 11:40:11 | Weblog

东南亚贫民窟见闻

文/曾金燕

转载自「民间」杂志
http://www.min-jian.org/archives/66.html

贫民窟一般指的是一个聚居场所,它的定义有各种争议,根据联合国专家组建议的“操作型定义”,贫民窟具有以下特征:

1. 安全用水不足;

2. 卫生条件和基础设施不足;

3. 住房建筑质量差;

4. 过度拥挤;

5. 无保障的居住权。

换句话通俗地说,一片居民区,如果房屋条件差,脏乱拥挤,居民的住房权随时有可能被侵犯或剥夺,我们就可以称之为“贫民窟”。

2006年10月和11月,我分别访问了泰国曼谷与印度孟买的贫民窟。曼谷Klongtoei Port(意为“居住在铁路旁的社区”) 和附近的贫民社区,被挡在高大美丽的广告牌下,外人从曼谷繁华的街道上经过时,并不能看到背后的贫困人群。KP社区沿着一段货运铁路线建立起来,大概有500多个家庭。大部分是从农村来的移动人口,他们强制占有了土地(泰国的土地是私有制,可以买卖)并建起了简易居所,并渐渐地维修加固,有些人已经在此居住60多年。至今大部分人愿意支付土地使用租金给政府,但是政府不收租金想把他们走,因此他们自发组织管理社区并与政府和社区工人所在的工厂谈判抗衡。历届政府多次驱该社区的居民试图收回土地,却最终失败。目前社区里有一个家庭主妇组织,还有社区委员会。家庭主妇组织非常活跃,他们和曼谷的其他50个贫民窟以及7个区域性贫民窟工作网保持了积极的联系。

Ba是一位戴眼镜身穿黄色T恤的老年妇女,在社区居住了60多年,很有威信。她去印度贫民窟访问回来后,成功动员大家出资建立社区的储蓄基金,为紧急需要资金的老年人和社区居民提供小额借款。Ba告诉我们,年轻的时候政府在她所拥有的土地上建高速公路,她认为这是有利于乡村发展的好事,捐出了自己的土地且没有向政府要求更多。政府向Ba颁发了一张纸,上面写着Ba是一个好公民。带着这张纸Ba来到城市却得不到任何政府的帮助。她和其他来到城市的农村移民在一块政府所有的土地上建起居所,依靠打工生活。渐渐的聚集的人越来越多,形成了一个社区。

进入社区我简直不敢相信这就是贫民窟。尽管有一些居所根本谈不上是房屋,但也有房子建得不错;尽管空间狭小拥挤,但家家户户都把室内打扫得干干净净,保持进屋脱鞋的传统习惯。几乎每家每户的门口都摆放着花盆,一些花儿正开得鲜艳。小区通水电,有公共活动室、广播、小诊所和托儿所。把孩子送到托儿所只需支付极其少量的伙食费。小学和中学的孩子进公立学校念书,只需支付少量的杂费;如果生病,可在公立医院接受便宜的治疗;如果完全失业,可以得到政府的补助完全免费就医。社区里来来往往的人很多,大多忙着干活。社区的广播经常播放一些公共信息,让我想起中国的公社。

难道我访问的不是一个贫民窟吗?和曼谷居住在宽敞明大的广告牌围着公路不让行人发现背后的贫民。但是泰国政府“不敢”像中国那些地方政府那样一夜推平拆迁区。有趣的是,尽管贫民们是非法占有政府的土地,仍然能够持续获得政府和社会基金会的资金投入,帮助他们改善基础设施以及抵抗危机和风险。居住在贫民窟的人们自发组织管理,每个成员在社区享有平等的公民经济、政治和文化权利,持有10年以上房屋所有权的贫民窟居民才有权参加曼谷的选举或被选举。社区委员会的委员变动,他们也一并通知当地的政府管理机构。Nu说目前最大的危机和不安全感来自于土地的使用,他们不知道政府最后将会如何处理这块土地,因此一部分人重建了房屋,另一部分人犹豫着要不要对房屋进行建设投资。

来自中国的学员对访问的贫民窟惊叹不已:这不就是中国的城乡结合部吗!这个贫民窟的管理和运作,是远远强于中国城乡结合部的棚户区啊!我身边真正的贫民窟是北京南站附近的立交桥下和火车站附近的墙根和空地,那里一年被扫荡几十次,有时候一夜两次。无处可去的人被粗暴地打骂、暂时关押、遣送,更有甚者被劳教或送进精神病院。Nu说KP社区在曼谷是普通的贫民窟,但比泰国南方的贫民窟要好得多。依据宪法,公民有自由结社的权利。在泰国,穷人们自发组织管理,挣扎着过更好的生活。贫穷并不可怕,可怕的是一旦贫穷,没有改善的机会,被欺压,永远相对更贫穷。


劉暁波:なぜ自由世界は中共独裁政権にミャンマーへの関与を求めるのか(2)

2007-11-29 10:20:56 | Weblog
冷战后的国际政治不再是白分明,而是你中有我我中有你的复杂关系,无论是自由国家推动全球民主化民主的事业,还是独裁政权抵制民主化进程,双方阵营中都有不同的层次,并运用不同的方法。正是改革开放以来中国的内部变化和新的国际定位,使中共政权与西方国家关系的意识形态色彩越来越淡,既交往又斗争的现实主义越来越凸显。在国际主流社会的眼中,今日中国毕竟不同于毛时代、甚至邓时代的中国,不再是铁板一块的极权国家,而是一直处在转型中的威权国家。如果说,缅甸政权是处在停滞阶段的全封闭的极权政权,使缅甸沦为一个完全失败的国家,那么,中共是处在转型中的半开放的威权政府,中国起码在经济发展还有不错的数据,政治上也不再是铁板一块。

首先,经过了三十年的改革开放,中国经济的高速发展有目共睹,其发展方向是市场化和私有化,这是国际主流社会所鼓励的。而且,以加入WTO为标志,中国对全球经济的参与日益加深,与西方各国的经贸关系长迅速,中国经济对世界经济的影响也越来越大,已经变成美国和欧洲大国无法忽略的庞大经济体,越来越密切的经贸利益已经让双方不得不追求合作互利。

其次,在政治上,今日的世界大势也不再是冷战时代的势均力敌,今日的中国民间也不再是愚昧的一群,来自国内外的政治压力不断加大,推动着中国国内政治和人权状况的渐进变化,带来了废除收容遣送、人权入宪、物权法等制度进步;也让追求大国地位的中共现政权不得不有所表示,从江、朱到胡、温,一踏进国际舞台,中共高官就越来越喜欢表演政治开明秀,不断派出大量官员前往欧美国家学习,在法治、人权、选举、非政府组织等敏感问题上,与欧美国家建立了定期对话机制。

再次,在外交上,今天的中共不再是毛时代的发飙极权,而是精于利益计算的理智独裁,在经济上大力推进加入全球化进程,也越来越愿意参与国际政治事务。所以,中共在处理与西方国家的关系上,不再是一味对抗,而是灵活应对,既合作又拒绝。在与独裁小国的关系上,中共不再是毛时代不顾代价的胡来,而是权衡利弊的应对,既要用伙伴关系笼络独裁小国,又要与西方大国展开某种程度的合作。所以,北京才会出面主办朝核问题六方会谈,显示自己的大国地位;也才会在苏丹达尔富尔问题上作出某种妥协,表示自己对国际呼吁的正面回应。这些举动,多少赢得了西方阵营的肯定。

面对处在转型时期和无赖小国保护伞的中共,西方国家基于自身利益和普世价值的双重考虑,逐渐将其中国战略建立在“利益相关者”的现实上。特别是美国,在上世纪七十年代基于冷战战略的考虑,将中国纳入对抗苏联的行列。换言之,与其将中国完全推向极权小国一边,不如让中国加入国际主流社会的政治游戏,在棘手的国际问题上分担责任。所以,国际主流社会才会不断呼吁中国政府承担更多的国际责任,做一个“负责任的大国”;才会在朝核、达尔富尔、伊朗核问题、缅甸危机等一系列国际问题上向中共政权发出呼吁,敦促其发挥调解、斡旋、施压等积极作用。在我看来,西方的这种玩法,确实有道义瑕疵,但也是西方国家推动中国民主化转型的方式之一,其现实效果上肯定强于意识形态口水战。与直接批评中国人权状态的施压相比,虽然这种方式看上去更为委婉软弱,但起码能够破除独裁国家所坚守“主权至的上”说辞。

面对“袈裟革命”和西方世界的敦促,中共现政权也是采取灵活策略,玩弄阴阳两手。

一方面,中共的核心利益是维持独裁统治,它也象缅甸军政府一样对本国人民欠下血债,1988年的屠杀与1989年的屠杀都是震惊世界的政权暴行。中共当然害怕近邻缅甸爆发又一场成功的“颜色革命”。如果缅甸的“袈裟革命”成功,必然清算1988年血债,也必然唤起中国人对1989年血债的记忆,激发中国人争取自由的意愿;何况,如果缅甸的“袈裟革命”成功,很可能在亚洲带来连锁效应,让中共独裁陷于四面楚歌的境地。所以,无论如何,中共都要在公开场合袒护缅甸独裁者,为其提供经济上的喂养、军事上的支持和政治上的保护。

另一方面,随着中国的经济融入世界、硬实力迅速膨胀和国际地位的提高,中共政权很想改善自己的国际形象,提升自己的国际声誉,努力扮演负责任大国的角色,所以,中共越来越多地介入国际政治博弈,国际主流社会的呼吁也会满足中共现政权的虚荣心,使其觉得国际重大问题的解决离不开中国。胡温政权把西方世界的要求变成自我标榜的口号,君不见,现在的中共高官及其新闻发言人,动不动就对外宣称:“中国是个负责的大国。”所以,对中共现政权来说,如果在应对缅甸局势上处理不好,将会对其国际声誉带来巨大的损害。特别是在北京奥运日益临近之时,胡温为了把这个最大的国际Party办成自己的盛宴,恨不得使出了浑身解数来改善形象。西方国家在苏丹的达尔富尔问题上的压力,已经够胡温头痛,不得不作出一定的妥协,给予物质援助和派出维和部队;现在的缅甸危机无疑是雪上加霜,弄不好就将严重地损害其国际形象,甚至带来国际上更大规模的抵制奥运的行动。所以,中共发言人才会呼吁缅甸当事各方克制,才会一面在安理会上行使否决权,一面与西方大国商谈缅甸危机。
 
对于缅甸军政府,胡温政权既要在公开场合为之全力袒护,又要在私下场合对其施压。据海外媒体报道,在“袈裟革命”之前,中共官员在秘密督促缅甸军政府与反对党寻求调解的同时,也秘密会晤了缅甸民主运动代表,还安排了美国副助理国务卿艾瑞克·约翰与军政府代表的会晤,商谈释放缅甸民族英雄昂山素季的问题。在此次缅甸危机中,一方面,中共政权也在通过私下管道向缅甸军政府施加影响,要求其保持克制;私下说服缅甸军政权允许联合国特使前往缅甸,当联合国的缅甸问题特使到达仰光机场时,接机者中就有中国驻缅甸大使馆的轿车。也正是中共政权的私下斡旋,才促成联合国特使前往缅甸并两次会见反对党领袖昂山素季。另一方面,在联合国内,尽管中国否决了美、英、法提出的严厉制裁案,但同意了措辞比较温和的谴责声明,也同意了联合国人权理事会强烈谴责缅甸军政权的声明。

与此同时,缅甸军政府也开始作出有限的妥协姿态,一向强硬的军政首脑丹瑞通过官方严控的电台发表令人惊讶的声明,向反对派领袖的昂山素姬伸出橄榄枝,希望彼此重开和解之路的谈判,但附带一些条件,即昂山素姬需先放弃与军政府对抗,不得从事颠覆,停止支持国际社会对缅甸的经济制裁等行为。缅甸官方电视台还播了联合国特使与昂山素姬晤谈的录像画面,这是昂山素姬自2003年再遭拘禁以来,在国营媒体上首次曝光,电视台破例地尊称她为“昂山素姬女士”。

外界普遍认为,缅甸军政府的这些妥协姿态与中共的私下施压有关。

尽管,有评论认为,缅甸军事独裁统治的这些变化,标志着“袈裟革命”很可能是又一次颜色革命,但我对此不敢太乐观,因为要一个统治缅甸四十年的、并敢于大开杀戒的军政权善待反对派和人民,也许还要有漫长历程。

就当今世界民主化的进程而言,缅甸或朝鲜这类无赖小国开始民主化,其世界意义显然不如中国民主转型的成功。因为,中共不仅是当今世界的最大独裁政权,而且还是诸多独裁小国的最大保护伞。如果国际主流社会能够帮助世界上最大独裁国家尽快转型为自由民主的国家,崛起的中国对于人类文明就将具有难以估量的正面价值:一旦中国变成自由国家,必将是继苏东极权体制崩溃之后独裁体制的又一次世界性雪崩。所以,国际社会的主要着力点应该放在仍然处于艰难转型期的中国身上。

2007年10月25日于北京家中

劉暁波:なぜ自由世界は中共独裁政権にミャンマーへの関与を求めるのか(1)

2007-11-29 10:17:45 | Weblog
自由世界敦促独裁中共干预缅
刘晓 (北京)

原載:「人與人権」
http://www.renyurenquan.org/ryrq_article.adp?article_id=766

中共不仅是当今世界的最大独裁政权,而且还是诸多独裁小国的最大保护伞。



苏东共产帝国解体之后,在世界上仅存的几个极权国家中,最为残暴的政权有三个,除了制造达尔富尔大屠杀的苏丹政权之外,另外两个都在亚洲——缅甸军政府和朝鲜的金家政权。近几年来,金家政权因对世界的核讹诈而大出风头,成为曝光率最高的极权国家,风头远远盖过其他极权国家。但是,自从9月22日缅甸爆发“袈裟革命”以来,缅甸军政权的暴力镇压,使之一跃而成为国际社会关注的中心。

自缅甸独立以来,军政府的野蛮统治已经持续40年。在无能而暴虐的军政府治下,自然资源丰富的缅甸,却沦落为亚洲最腐败、最封闭、最穷困的国家之一(与金家政权治下的朝鲜相似),缅甸人均GDP仅217美元,有接近90%的贫困人口,被联合国确定为世界上20个最不发达国家之一。

经济的凋敝源于政治的野蛮,缅甸国家财政的40%被用于军费开支,而用于教育的资金只占国民收入的0.5%,用于医疗卫生的国民收入仅有0.17%。所以,在本应慈悲祥和的佛教国,却屡屡上演震惊世界的血腥。1988年的民主运动遭到了镇压,估计高达3000人被屠杀;1990年“国家民主联盟”在大选中胜出,军政府非但不承认选举结果,反而大肆逮捕反对党人士,将民间领袖昂山素季软禁至今。现在,当大片紫红色的袈裟出现在仰光街头之时,再次凸显了军政府统治危机的深重。但那些脑满肠肥的将军们仍然不思改悔,再次出动军队镇压和平示威的僧人和平民,象征着缅甸希望的佛光也再次迸出血光。据国际媒体报道,自从军政府动用武力进行镇压以来,军队进驻寺庙,封锁道路,切断了互联网通讯。现在,至少已有10人确认被枪杀,其中包括一名日本的摄影师。流亡的海外缅甸人宣称的死亡人数要高得多。另外,缅甸军政府承认抓捕的三千多人,至今还有几百名僧人和民主人士没有获释。

近些天来,缅甸的“袈裟革命”一直是世界各大媒体的头条,世界舆论的主流显然是站在“袈裟革命”一边。但在“袈裟革命”被军政府暴力镇压之后,国际社会对缅甸军政府的施压主要集中于两个方面:

一是强烈的舆论谴责和更严厉的制裁。美国、欧盟及欧洲大国、加拿大、澳大利亚、日本纷纷以强烈的措辞进行谴责,美国、欧盟先后宣布对缅甸军政府的严厉制裁措施,很少关心他国人权的日本也叫停了对缅甸的经济援助,甚至一向奉行不干涉成员国内政的东盟也破例发表声明,以强硬的措辞谴责缅甸军政府的暴行。在韩国、泰国、菲律宾,法国、意大利、伦敦、澳大利亚等国家的首都先后爆发了抗议缅甸军政府的示威。在联合国内,美、英、法提出严厉的制裁议案,由于中国和俄国的反对而流产,但最后中国还是同意发表一份措辞相对温和的谴责声明,联合国人权理会的47个国家也一致通过谴责缅甸决议;联合国安理会经过紧急磋商后,敦促缅甸军政府保持克制,并派遣联合国特使甘巴里前往缅甸进行斡旋。

二是呼吁中共政权出面干预。面对缅甸军政的暴行,国际社会当然希望通过更严厉的措施来切实有效地制止暴行的继续蔓延,但以往的经验表明,由于亚洲大国、特别是中国与缅甸的密切关系,中共政权对缅甸军政府的全方位支持,使西方国家的谴责和制裁大打折扣。所以,才会出现当今世界政治的诡异现象;此次缅甸危机的焦点,除了缅甸军政府之外,还有缅甸的最大保护者中共政权。世界舆论和西方政府在谴责缅甸军政府的同时,也纷纷把关注的目光投向北京,西方各国的政要和国际人权组织直接向中共领导人发出呼吁,西方的20名前世界领导人致信胡锦涛,敦促中国对缅甸军政府施压,避免暴力镇压的升级,促其与反对党展开对话,促进缅甸的组织和解与民主进程。各国民众举行谴责军政府暴行的示威中也向中共政权喊话,抗议中国政府包庇和支持缅甸军政府。甚至,在联合国特使前往缅甸之后,前美国驻联合国大使波顿表示,中国才是促使缅甸政治改变的关键所在,而非衔命抵缅甸会晤军政府领袖的联合国特使甘巴瑞;之后的10月24日,联合国特使甘巴瑞专门访问北京,与唐家璇会晤讨论缅甸问题,甘巴瑞赞扬中共政权的斡旋努力。25日,缅甸反对派领袖昂山素季与军政府官员进行了会面。

众所周知,中共政权是缅甸军政府的唯一伙伴,有的西方媒体甚至把缅甸比作中国的一个省。中共对缅甸军人独裁政权的支持是全方位,经济上,中共不仅为军政府提供大量无偿外援,而且在缅甸投入大量资金,用以建造新的道路桥梁、电力厂、造纸厂、拖拉机厂、造船厂等等工程。缅方回报给中国的是石油、天然气、宝石和木材,全长2380公里的石油天然气管道正在中缅两国之间修建。在军事上,缅甸的主要军火来源是中国,包括坦克、车辆、炮舰、飞机、火箭、自走炮等等都由中共供给;另外,中共投资15亿美元,建立起连接中缅两个独裁政权的高科技电子监控和作战网路系统,可以共同监视缅甸克伦族、华族和瓦族等少数民族的游击队活动;共同监视经过印度洋和麻六甲海峡的、包括美国战舰在内的所有船只。在政治上,中共政权一直以“不干涉他国内政”为理由赦免缅甸军政府的暴行,更是利用联合国常任理事国的地位阻挠通过制裁缅甸的决议。作为联合国常任理事会会议上,作为中国只投过五次否决票,居然就为了维护缅甸军政府而投了两次否决票。在应对此次“袈裟革命”中,胡温政权故伎重施,再次祭起”不干涉他国内政”的王牌,一面在国内尽量封锁“袈裟革命”的信息,一面在联合国动用否决权。

胡温政权如此反应,与其说是低调,不如说是纵容。其实,中共政权的“不干涉内政”,纯属扯淡。无论是毛时代还是后毛时代,为了确保中共独裁这一最大的利益,中南海主人从来都是大慷中国纳税人之慨,充当“干涉他国内政”的先锋。毛时代是公开干涉他国内政,因为按照老毛的世界革命论和解放全人类口号,只有干涉所有国家的内政,才能实现全球上下红彤彤的共产理想。韩战、越战、红色高棉、孟加拉猛虎组织、缅甸游击队……中共都是最积极的干预者;后毛时代,随着苏东共产帝国的崩溃,中共政权学乖了,一面对西方世界高喊决不当头,一面扮演独裁国的大哥大,向那些苟延残喘的独裁小国提供物质援助和政治支持。特别是对最为残暴的两个亚洲独裁政权的扶持,中共更是出手大方。可以说,在今日世界上,中共是陷于国际孤立的金家政权和缅甸军政权的唯一伙伴。

你可以说,这个世界真够讽刺,面对缅甸军政府这样的独裁小国之暴行,世界上那么多强大的自由国家似乎已经束手无策,不得不把遏制暴行的希望寄托在中共政权这个大独裁身上,而在18年前,这个大独裁用坦克追碾年轻的大学生,制造了震惊世界的六四大屠杀。

你也可以说,这就是国际政治现实的丑陋,昂山素季的美丽再动人,也难以在短期内融化这坚硬的丑陋。世界上的独裁小国之所以敢于肆无忌惮,就在于它们的背后站着独裁大国。冷战时代,大多数独裁国家的背后都站立着老大哥前苏联,所以,自由世界只能忍受开进布达佩斯和布拉格的坦克;后冷战时代,大多数独裁国家的背后都站立着中国这个独裁大哥大,国际主流社会制止苏丹、朝鲜、缅甸的人道灾难的努力,总要遭遇中共政权的从中作梗,致使国际努力大打折扣。

然而,自由国家、人权组织、西方各大媒体,为什么非要呼吁一个大独裁向一个小独裁施压呢?

 

RFA:選挙妨害やり放題の共産党

2007-11-28 19:32:15 | Weblog

孙文广谈竞选失败

2007.11.27

山东大学退休副教授孙文广作为非官方确定的候选人参加了11月10号举行的山东大学人大代表的选举。按官方公布的结果,他没有当选。孙文广与几位学生联名上书全国人大,反映选举弊端,要求重选,还没有得到答复。下面是自由亚洲电台驻香港记者方媛的报道。

山东大学人大代表选举在本月10号结束,但是,四天之后才公布结果,学校推荐的四名候选人三人当选,由于在参选过程中的许多箱作业,疑点重重,作为独立候选人的山东大学退休副教授孙文广在选举结果公布后询问有关部门一些情况得到的回答孙文广认为明显有漏洞。

星期二,孙文广对本台表示:“十号选举,十四号才出来结果,拖了四天,我就去问他,开票是在什么地方开的?拖了四天,学校说在院里开得票,院里说在学校开得票,他们推来推去,最后我也弄不清出了,还有可能就是把票拿到外面单位开,但他们不愿意透露,第二,除了三个当选的以外,第四个票数最多的是谁?他们也说不出来,完全是一种暗箱操作。’

据了解,在选举的第三天,孙文广及三位法学院的学生就联名写信给全国人大,要求重新选举,并提出重选的六点理由,但是,他们至今没有收到任何回复。

而从选举之后到现在,孙文广至少收到了三十多个学生的电话及留言,孙文广表示:“学生用手机给我来了很多短信,说也没有办法,领导让他们投谁得票他们不投怕打击报复。有学生表示我心里想投你得票,但是最后还不敢投,但是我把四个官定的候选人都给他打成差了,这是比较勇敢的学生这样讲。”

一直留意这次选举的四川异见人士邓焕武星期二对本台表示,选举结果是预料到的,但非常支持及敬佩孙文广勇于挑战的做法。他说:“我对孙先生的做法是非常支持的,宁知不可为而为之,他清楚这样的结果,就是要冲击它一下,看看他们假在什么地方,公诸于世,做得很好,很有效,他也付出了很大的努力,也付出了很多辛苦,目的就是想把事情公诸于众,那种丑陋的东西就是要见光死,就是有这样的功效”。

多位体制内人士在十七大之后,向中国领导人胡锦涛等发出公开信,要求政治改革,包括民主选举,比如安徽的政协常委汪兆均发表几万字的政见,提出公平,公开,公正的选举。南京师范大学的副教授郭泉提出多党竞争,多党竞选,实现多党平等。对此,孙文广都发表文章对他们的政见加以赞赏及评论,孙文广表示,相信接下来将会有更多的不同阶层人士公开的提出他们的政见。

但是,孙文广认为,在一党专政下,要想真正的公平竞争,民主选举还依然遥远。

他说:现在他极力的守住人民代表大会不让有异见的人士加入,他就是要进行一党的垄断,因为人大在宪法上他的权力是很大的,这样他就严格的把住人大代表的口子不放松,跟共产党保持一致,让你通过什么就是什么,不能让异见人士在里面。’

以上是自由亚洲电台记者方媛的采访报道 


RFA:台湾政府が中国異論派蔡陸軍の亡命受け入れへ

2007-11-26 19:35:55 | Weblog

台湾接受中国异见人士蔡陆军的政治庇护申请
2007・11・23

台湾陆委会周五对由大陆逃往台湾的中国异见人士蔡陆军来台申请政治庇护一案做出决定,接受蔡陆军的申请。有大陆维权人士对此表示高兴,认为台湾当局做出了正确的决定。

一直帮助蔡陆军联络各方人士的台湾中央广播电台记者温金柯对本台粤语组表示,台湾行政院大陆委员会周五开会讨论蔡陆军在台湾寻求庇护一案,并决定接 受其申请。目前蔡陆军仍居住在台湾扣留非法入境人士的拘禁中心,但已经可以出来自由活动。估计还需要一两个星期的时间安排他在台湾的保证人、住宿等事宜。 台湾政府将在一段时间内接纳并照顾蔡陆军的基本生活,并可以按照他的意愿,协助他到第三国。

今年39岁的蔡陆军原籍河北省石家庄市。曾经就职河北省工艺进出口公司,之后辞职下海开设私人外贸公司。曾在互联网发表大量呼吁民主人权的文章 ,2001年起在海外网站陆续发表《河北农村访谈录》等文章,揭露农民税收负担重,批评农村村委会假选举,并为其他异议人士入狱呼吁。2003年2月,蔡陆军被石家庄国安局抓捕,后被以“煽动颠覆国家政权罪” 判刑3年,剥夺政治权力1年。2006年3月出狱后,继续从事人权活动,多次遭到当局威胁和骚扰。今年8月,他在多方朋友帮助下,逃离大陆抵达台湾。参与帮助蔡陆军的“六四天网” 主编黄对本台记者表示,他周五上午刚刚与蔡陆军通电话,对方告知情况良好,因为陆委会的决定是下午才做出,估计蔡陆军本人还没获得消息。黄对台湾当局做出了正确的决定而感到高兴。

蔡陆军在8月离开之前,曾发表文章讲述他逃离中国大陆的原因。他表示从中学时代的历史书中,他便对共产党政权的行为感到不满,六四事件更使他对中共 独裁彻底失望,并从此决心走一条自己的路。随著接触外界大量信息,他逐渐认识到危害中国的根本就是中共一党独裁的专制制度。并决心逃离大陆投奔自由。(李静文报道)


DW+RFA:三峡ダムが環境災害を引き起こす

2007-11-22 11:59:34 | Weblog
DW:三峡大坝将带来环境灾难 2007.09.30

世界规模最大的水利工程三峡大坝历经15年建设,已接近尾声。但是围绕着三峡工程、尤其是关于三峡工程可能带来环境隐患的争论却始终没有停止。当年,中国官方在反对声浪中坚持三峡工程上马。但最近三峡工程的官方代表公开表示,如果不重视三峡大坝带来的环境问题,可能会导致灾难性后果。这一不同寻常的表态究竟意味着什么呢?

据中国官方媒体报道,众多中国高级官员和专家学者近日在武汉召开研讨会,商讨三峡工程的环境建设与保护问题。尽管官方传媒在报道中还是强调三峡工程在发电和疏洪方面带来的效益。但不同寻常的是,中国官方公开承认三峡工程带来的环保危机。

国务院三峡工程建设委员会办公室主任汪啸风在会议上透露,政府总理温家宝曾经指出三峡工程面临的首要问题是生态环境问题。很多与会者也表示,三峡工程带来了诸多环境隐患,比如山体滑坡进入长江后,甚至会引发高达数十米的浪涌,波及数十公里范围,给周边民众生命安全带来严重威胁。此外,三峡工程蓄水后,造成湖北与重庆等地的支流水质恶化,部分地区出现水质富营养化的问题。

生活在北京的独立知识分子戴晴早在上世纪八十年代就参与了反对三峡大坝的民间活动,她在接受本台采访时表示,目前官方所承认的三峡生态问题根本不是什么新问题,她“作为民间人士,非常正式地向当局反映过。包括开会,回答记者提问,正式给人大写信,不知道写过多少封信”。

她说:“关于山体滑坡、水质和涨落带的问题,关于移民问题,所有这些都是老问题,都是在1980年代中期,从政协科技组前往调查和我们后来出的一本小书“长江长江”,一直到后来,民间的声音就没有停止过,就告诉他们会有大问题,会有大乱子。”

尽管民间反对声浪高涨,但中国政府依然推动三峡工程的实施。而在目前这个时机,官方突然召开三峡工程环境会议,由主管行政工作的办公室主任来提出生态环保问题,并且通过媒体大张旗鼓的进行报道,长期关注三峡工程的戴晴认为,这其中一定另有玄机,她说:“我觉得有两种可能,一个就是推脱责任,中国有句话叫,“莫谓言之不预也”。就是我说了,你别说我没说过,是我说了你们不处理的。采取这种态度,这是一种可能。第二个可能就有点像三峡水库蓄水之前,钱正英和张光斗大骂重庆环保局长,说你们为什么不把库底清干净,为什么不把两岸排污口解决,那么我蓄水后水质不合格怎么办,然后他们就去向中央要钱。这次他们也是这样,他们在这个时候把这个问题提出来,就是为了要钱。”

长江三峡水利枢纽工程于1992年正式动工兴建,总工程分三期,合计18年。根据官方数字,工程总投资达2039亿人民币。

RFA:三峡库区生态环境存在诸多隐患 2007.09.27

中国官方新华网的报道说,星期二召开的三峡工程生态环境建设与保护工作会议,讨论了三峡库区生态环境目前存在的诸多隐患,例如,三峡库区自然灾害频发、水土流失严重;三峡水库蓄水后,流速减缓,水体交换能力减弱,支流富营养化问题显现,塌岸、滑坡等地质灾害发生的诱发因素多;三峡建坝后泥沙运动规律发生变化,存在库区淤积、坝下清水冲刷、河口水文生物环境改变等隐患;生态环保缺乏统一规划;突发事件应急处置机制有待加强等。报道说,国务院三峡办主任汪啸风在会上表示,对于三峡工程可能引发的生态环境安全问题,不能掉以轻心,决不能以损失生态环境为代价换取一时的经济繁荣。谈到中国三峡库区的诸多问题,总部设在美国弗吉尼亚州的国际中国环境基金会总裁何平表示:

“水库是因为淤积可能需要加固,这是正常的,只要采取技术措施的话大部分都能够得到解决。我想中国政府可能以前重视不够,这是主要原因;另外,这主要是会直接威胁到人的生命安全,所以很容易造成损失。如果政府重视了,就不会造成太大的威胁,因为政府能控制。”

旅居美国的社会学者刘晓竹表示,中国的三峡工程上马之前,已有很多专家学者预测到了三峡工程可能带来的生态环境灾难,并因此反对修建三峡大坝,但工程还是上马了。刘晓竹说:

“我觉得当时的情况都知道,问题是当时就没有言论自由。第二是长官意志高于一切,实际上就是李鹏当时拍脑门下了决心要干,其他人都要为他清场,让路,叫做配合大局。什么是大局?现在我们看清了,这个大局就是官僚体系的意志,不是老百姓的意志。所以言论自由在权力结构上自下而上的参与是防止未来出现同样问题的一个根本解决之道。”

新华网的报道说,国务院三峡办将按国务院要求,编制一系列专项规划,综合采取经济、法律、行政和教育等手段,加强对水库的管理;严格控制落后生产力向库区转移;加快推进污染源在线监控,重点污染源要安装在线监控设备,并与环保部门联网;加强生态环境监管能力建设,开展污染源普查等基础工作。对此,刘晓竹评论说:

“三峡的问题也不是现在才出来,为什么现在要拿出这个问题来?这是中共又是故伎重演,叫做宣传战。因为现在中国的环境问题已经是灾难了,所以在这种压力下要找一个突破口,打一个翻身仗,在舆论上挽回影响,就找到三峡,想把三峡做成一个样板,树立人民的信心。我觉得少来这一套,还不如紧在根本上做一些决断的措施,比如应该开放民间环保,让老百姓在体制上,在信息流通上参与,在权力制衡方面,老百姓的自由和参与民主权利方面做一些切实的努力。这个灾难也可能会得到缓解。”

中国的三峡工程建设了14年,主体工程一年前才竣工。中国官方的《光明日报》报道说,审计署已经纠正的三峡工程违规问题涉及的金额达2.64亿元人民币


12月8日「パレスチナと国際社会」講演と音楽の集い

2007-11-22 09:56:20 | Weblog
◆日時:2007年12月8日(土)
   15:00~19:00(開場14:30)
◆会場:梅窓院・祖師堂
   (東京・地下鉄銀座線外苑前駅下車1b出口 徒歩1分)
   地図:http://www.baisouin.or.jp/
◆参加費:2000円(前売り1500円)中学生以下無料
   ※収益は現地での支援事業に使われます
   ※前売り券のお申し込みは、当会ホームページをご参照下さい。
    また、チラシもダウンロードできます。お知り合いの方にご紹介下さい。
    → http://www32.ocn.ne.jp/~ccp/

◆主催:パレスチナ子どものキャンペーン
◆共催:アーユス=仏教国際協力ネットワーク
◆後援:梅窓院

---<プログラム>--------------------

□■第1部:シンポジウム■□ 15:00~17:30 

 「パレスチナ難民と国際社会」

問題提起:広河隆一さん「パレスチナ人の60年」

 討論:「国際社会の責任と私たち」

   板垣雄三さん(東大名誉教授)
   滝澤三郎さん(国連難民高等弁務官事務所・駐日代表)
   広河隆一さん(DAYS JAPAN編集長)


□■第2部:アラブ音楽コンサート■□ 18:00~19:00

 「Kull da Kan leh(私に起こったすべてのこと)」

 演奏:Farha(ファルハ~喜び~)with松本泰子


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1947年、国連はパレスチナの土地を分割し、ユダヤ人国家とアラブ人国家を
作るという決議を採択しました。ユダヤ人国家はその翌年にイスラエルとして
建国されましたが、アラブ人国家は今に至るも作られないままです。そして
この過程で100万人といわれる難民が生み出され、中東各地の難民キャンプには
パレスチナ難民が過酷な条件の下、基本的な人権を持つことなく生活しています。

60年たとうとするいま、その数は400万人をこえ、国連は「世界の難民の4人に
1人はパレスチナ人」と述べています。また5度にわたる大きな戦争に加えて、
ヨルダン川西岸とガザでの軍事占領も長く続いていています。

私たちは一日も早いパレスチナ問題の解決が、パレスチナとイスラエル
のみならず中東と世界の平和にとって重要な課題だと考えています。
また、その解決は当事者だけでは達成できず、この問題の発端に関わった
国際社会の責任なのです。


---<出演者紹介>--------------------

◆広河隆一さん
1943年生まれ。ジャーナリスト。月刊誌「DAYS JAPAN」編集長。大学卒業後
イスラエルへ渡り、キブツで生活するなかでパレスチナ問題と出会う。パレスチナ・
中東問題やチェルノブイリなどの核問題を中心に取材を続け、精力的に発表。
土門拳賞、早稲田ジャーナリズム大賞など多くの受賞がある。「ジャーナリスト
本来の監視の目を担うべく、大手メディアが報じない世界の現実を伝えるために」
2004年以来「DAYS JAPAN」を発刊し、編集長として活躍中。

◆板垣雄三さん
1931年生まれ。東京大学名誉教授。専門は中東現代史。日本における中東・イス
ラーム研究の組織化に尽力し、日本さまざまな共同研究を組織し、中東学会会長、
日本学術会議会員、日本イスラーム協会理事長などを歴任。文化功労者でもある。

◆滝澤三郎さん
1948年生まれ。国連難民高等弁務官(UNHCR)事務所駐日代表。1981年より
国連に所属し、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)、国連工業開発機関(UNIDO)
を経て、2007年1月までUNHCRジュネーブ本部財務局長・財務官。難民問題の
エキスパートでもある。

◆「Farha(ファルハ~喜び~)」with松本泰子
常味裕司さん(ウード)、太田恵資さん、平松加奈さん(ヴァイオリン)、
海沼正利さん(カーヌーン)、和田啓さん(レク)、大坪寛彦さん(コントラバス)、
松本泰子さん(ヴォーカル)

NHK「新シルクロード」の音楽を作曲家吉田潔と担当しているウード奏者の常味
裕司さんを中心とするアラブ古典音楽アンサンブル。
ウード、カーヌーン、打楽器といったアラブ古典楽器に、ヴァイオリン2台、
コントラバス1台を加えたアンサンブルの華麗な演奏は日本ではこれまでなかったもの。

廖祖笙:国際社会に政治亡命の受け入れを求める

2007-11-18 19:53:51 | Weblog
 
中国作家廖祖笙向国际社会请求避难
(博讯2007年11月18日发表)

    廖祖笙更多文章请看廖祖笙专栏
    
     中国作家廖祖笙向国际社会请求避难

    
      今天是2007年11月18日,是我的独生子廖梦君惨烈遇害校园的第491天,同时也是他在冰棺之内度过的又一个生日。虐杀学生的恶魔在邪恶势力的庇护下,迄今逍遥法外!与此同时,我夫妇俩长期遭受邪恶集团百般的折磨和迫害,不但生活来源被阻断已久,生命安全也不断受到严重威胁,不时履险蹈危,处于朝不谋夕的状态。呼天不应、叫地不灵,万般无奈,中国作家廖祖笙向国际社会呼救,并请求避难!
    
      我在20岁那年参军,次年加入中国共产党并荣立军功。回地方后,我陆续出版了7部著作(其中一部长篇官场小说在中国召开十六大前被官方悄然查禁),作过编辑、记者,并在多家媒体开设过专栏。在遭受迫害之前,我十几年里均系以文为生。近年以写时评为主,主要致力于帮助百姓争取最基本的生存权利,坚持以我手写我心,为百姓的看病难、上学难、买房难不断苦苦呼吁。本着为自己的文字负责的精神,这之间我的文章基本上署的是实名。
    
      怪事由此不断发生:有很长一段时间,我的电子邮箱内每天涌入数十封的病毒邮件;有人“代我”在美国的互联网上“征友”;有人多次把别人写的文章署上我的名字,贴进国内网上论坛;不少稿费我莫名其妙收不到;之后教育系统又强行要我孩子把“择校”当作中考的“第一自愿”,择校费竟高达3万元……我抗争数月,挥笔痛斥教育积弊,笔锋直指教育系统最高长官。几个教师就此对我一向品学兼优的孩子百般刁难,甚至殴打,就在中考的前两天,廖梦君再次被班主任谭观南毒打,且被残酷精神虐待了一整天。
    
      2006年7月16日,也就是我孩子惨烈遇害的那天,国内媒体报称:中国9个政府部门联合制定了《尸体出入境和尸体处理的管理规定》。是日上午,我写下《严禁尸体买卖促人深思和感伤》一文,将稿件传给时评编辑,并收录进新浪博客(已被封删)。同日傍晚,我的独生子廖梦君即被校方召回已放假的学校,转瞬化为一具刀口累累、从头顶到脚面都是伤的尸体!事后我们了解到,涉嫌杀害我孩子的是三个老师和一个保安!中国广东省佛山市南海区黄岐中学,既是我孩子展开梦想的母校,也是终结廖梦君年幼生命的魔窟!
    
      案发当晚我夫妇俩去报失人口,警官们神色异样,时隔8个多小时,才肯告知我夫妇俩噩耗,前面我夫人即便泪流满面,跪求答案,对方仍说“要等上面的通知”。官方紧锣密鼓,对此惨案统一宣传口径,指鹿为马,颠倒白,并下达“封口令”,阻止众媒体对此血案进行报道!尸检结论则公然严重造假,尸检报告和伤情照片宛若“国家机密”,至今不让家属、律师触及;家属、律师、记者均不被允许给遇害学生的遗体取证、拍照,律师不被允许依法调阅卷宗;诉诸法律,两级法院均不受理……
    
      一批公认的“5毛”(中国新兴的一种职业,据说在网上论坛发一个跟帖的酬金是5毛钱人民币,主要担负“引导网上舆论”的“重任”),一度在据称已被“招安”的热门论坛内无分日夜,对我父子俩肆意诋毁和辱骂,网友们为我家声援的发言,则被大量禁止和删除。我要对那些谣言和辱骂进行反驳,也同样被禁止发言。国内稍微热门一点的网上论坛,在强权压迫下均不敢让我说话;网友们撰写、转贴的相关网文,大量被删。长期与媒体互动频繁的我,从家破人亡之日起,在国内媒体就再没有了话语权。
    
      我前后给数十名官员寄出特快专递和挂号信近200封,苦苦申诉,无一回复。两次赴京上访,两次光天化日在首都遭截访人员非法绑架。向党和国家最高领导人不断申诉、呼救、乞讨,也无任何回应。在为儿申冤的过程中,我夫妇俩先后被抓、被打、被恐赫、被频繁监视跟踪、被一再限制人身自由……我夫人前后被官方非法绑架了3次,我前后被官方非法绑架了4次!到今天为止,我已有3个博客、近30个网站被封删,其中多数网站建站几天即遭屏蔽,并被断开FTP连接。没有一个我仍在更新的博客或网站,是能建在国内的。
    
      当地组成了一个所谓的协调小组,“协调”了几十次的结果,是既没有协助我们拿到尸检报告,也没有协助律师依法调阅卷宗,就连最做起码的善后工作也没做。我们一去上告,就被推到这个协调小组的面前,说是要“协商解决”。协调小组提出,我夫妇俩得首先同意火化孩子刀口累累的遗体,并承诺不追究任何人的责任,不再于网上说道这事,等等,然后政府便能给我们几十万元人民币。这不仅让我夫妇俩无法接受,我的亲友们也无一可以接受。该协调小组的核心成员在惨案发生后,同样参与了掩盖血腥,他们能“协调”出个什么结果来,可想而知。
    
      长期以文为生的我被剥夺了话语权,家庭顿时失去了唯一的生活来源,捐助的渠道也早已被阻断。想出去一边工作一边为儿申冤,又成了这起虐杀学生事件的人质,经常受到官方兴师动众的严密监控,有时尚未走出广东,即遭非法绑架。政府的人明确向我表示,就是我找到了工作,也将把我的工作给“搞掉”;有人警告我不要再公开发表文章;有人挂来恐赫电话……在申冤过程中,我夫妇俩步履维艰,债台高筑,被逼迫得连续数月行乞街头,多次病卧床头无法就诊,可即便如此,我们也看不到真正意义上的党和政府在哪里!
    
      这起惨案迫害的迹象非常明显,基本上是“文革”时期“肉体上消灭,道上抹,经济上拖垮”的又一次重演,没有高官在幕后操纵和撑腰,不会呈现这样怪异的局面,当地的某些公权行使者也无胆量如是嚣张,同时,他们并不具备令媒体噤若寒蝉并剥夺我话语权的能量。不断有律师、作家、记者、维权人士、信仰群体、访民等遭受迫害或抓捕的消息传来,令人瞠目结舌,感觉犹如处在纳粹时代。如此雕心鹰爪迫害良善,实乃丧天害理,谁能不为之心寒齿冷?在这样的国情下,正义显系难于得到伸张,冤魂依然得无所归依。
    
      在将要承办奥运会之际,泱泱大国人权状况尚且如此,丝毫不顾及国际影响和社会舆论,横行无忌,我料定奥运会之后,人权状况还将进一步恶化。风雨如晦,我无力改变什么,在生存状况和人身安全均受到严重威胁的非常时期,我夫妇俩不想被迫害致死,也唯有姑且逃生。而这,应该也正是某些人所想要的——这起虐杀学生的惨案,公权一步错步步错,根本无法对社会公开交待,这样总算是可以不了了之了。
    
      任何时候,我依然会是忠贞不渝的炎黄子孙。但在邪恶势力非得变相置我于死地、将我不断逼入人生绝境的危急时刻,我只能痛彻心腑这样说:不论那个能让我夫妇俩重新展开人生的地方,有多么遥远,多么陌生,只要有一分人间的温暖,有最起码的人权保障,我夫妇俩都愿意暂且按下心头的悲愤,洒泪走向远方,离开这块伤心地。我们为着给无辜遇害的孩子寻求公道,已是苦苦哀求、奔走、撑持了将近500天,早已身心俱疲。现实如此不堪,令我们渐渐明白:要让梦君沉冤得雪,唯有熬到天亮。
    
      目前的我夫妇俩求生不能,求死不得,贫病交加,危如累卵,且“狱外服刑”已久。在这个绝世无双的国家,官场犹如秀场,从上到下这般无尽装聋作哑,对反人类反文明的暴行总是视若无睹,尤其令我夫妇俩心寒。对这个国家和民族的前程,我深表忧虑。迫不得已,我夫妇俩只有向国际社会请求避难——
    
      请求联合国垂怜两个异常悲惨的中国难民,帮助我夫妇俩及早脱离魔爪!请求崇尚民主、自由、人权的国家和地区,接纳我们!请求国际社会能让我们有个地方疗伤,以便我夫妇俩渐渐愈合心灵淌血的创口!请求海内外民主、人权、慈善团体帮帮我们,使我夫妇俩能够及早免于危险!请求正直、善良的先生、女士,把我的呼救和请求,传递给联合国或您所在国家或地区的相关机构!廖祖笙夫妇泣谢!
    
      泣告:中国作家廖祖笙及其夫人向国际社会含泪呼救,并请求避难!
2007-11-18

張華林:農村医師を救え

2007-11-10 09:39:05 | Weblog

救救乡村医生

文/张华林 (浙江龙泉乡村医生协会会员)
乡村医生吐真言

回想和全国乡村医生一起战斗的岁月,往日画面仍然历历在目, 遥想当年的你我他是多么的纯真朴实,它们就是一幅历史变迁的画卷,诉说着时代的变迁,也包含着龙泉市140 多名执业乡村医生、114 个村卫生室付出的辛劳。

乡村医生在最基层直接服务农民群众,被称为农民的 “家庭医生”,是农村“永久牌”的责任医生, 在20 世纪60
年代,乡赤脚医生在村级合作医疗中没有报酬地向儿童发放Ⅰ、II、III型糖丸,带着开水把防疾病药送到田头,在村级负责预防保健工作,实行分流化管理, 预防接种, 填卡证、接种率统计、上报传染病调查, 改水改厕,
妇幼保健知识宣传,抗洪救灾......白天一身水,晚上一身泥, 在防止霍乱、勾端螺旋体和其他肠道传染病的发生上,无不倾注了乡医们的心血和汗水。

20 世纪80 年代, 赤脚医生们经培训考试成为乡村医生,农民们称呼为:家庭医生,为村民真正服务了30-40 个春秋的老乡医,现已年迈花甲,白花苍苍, 任劳任怨,无怨无悔。

2003年“非典”肆虐, 丽水、龙泉虽是万幸, 但人们恐惧得不知所措, 外地民工纷纷返乡, 领导下达紧急动员令:这是一项艰巨的政治任务,是一场没有硝烟的战斗, 你们应该冲锋陷阵! 我们没有防护措施,自己掏钱买口罩、体温表,那时的乡医都是赤膊上阵,与国内各地返乡的疑似病例全是零距离接触。让我们如何生存。

20世纪90年代的民工潮,基层卫生工作状况有着很大改变, 许多村人员外流打工,医疗服务对象减少,服务着老龄化对象,乡村医生为他们垫付药费是经常,随着平价药店遍地开花,我们业务受到冲击,在以药养医的环境下,我们依靠药品让利维持生存。新型合作医疗是一项农民的健康工程, 但是2005-2006 年出台参保农民10 元钱门诊报销政策( 到乡镇卫生院、分院、分店买20元的药品、保健品返还10 元), 农民到乡医处看病得不到相应补偿, 这又使村卫生室业务受到巨大冲击,乡村医生的经济收入陷入困境;此外还承受名目繁多的收费项目,如各种培训费(例如2006年11月28日,就上交乡村医生每2年参加一次的培训费6元)、考试发证费、换证费、医检费, 使我们乡村医生不堪重负, 但乡村医生还是坚守岗位。剑池街道石马离卫生院40多公里,地处偏远的小山村,许多老人离不开当地乡村医生,乡村医生郑昌荣, 不怕艰辛, 放弃外出打工机会, 情愿种上2 亩田的粮食来补充维持生活,他说要亲自把老人们送走,才考虑自己的未来。

乡村医生应得的钱去了哪儿

然而国家出台农村医疗保障体系, 规定村村须有驻村责任医生。并按村人口给与责任医生补贴,乡村医生也因此规定可以得到相应每村每人口2.50元的补贴, 这是救乡村医生于倒悬啊。然而在实行时,因为将经费交给乡卫生院支付,结果乡卫生院纷纷将自己的医生列为责任医生,真正为村民服务的乡村医生反而置之一旁, 那些不称职的责任医生,难得到村里来, 却白白享受村民的人口卫生补贴。目前我们这儿只有少数偏远农村,责任医生由乡村医生担任。

结果兰巨乡东山村在2004 年12 月22日一次食物中毒特发事件中,上百人食物中毒时,本应负责的责任医生在乡里全不知晓, 反而是乡村医生奔走相告,乡村医生协会连夜送药,使村民得救。屏南镇干上村卫生室,乡村医生陈大炎担任了本村的责任医师, 照公共卫生三大类十二项如实完成做好公卫项目工作,不怕艰辛,
翻山越岭,上门为农民提供公共卫生服务。想不到自己负出的辛劳得到的是每人1元的补贴,劳动保障被他人剥夺, 有感寒心, 可是与其他90%的乡村医生相比, 后者被一些见利忘义的卫生院领导剥夺了责任医生的权利,他还是幸运者,由于卫生院利用职权,一些收费员、化验员甚至不懂医理的家属亲属, 倒承担起公共卫生工作成为责任医生, 帮忙闭门造车应付上级考核检查。遗憾的是,政府花钱,农民得不到公共卫生服务的质量,尽管向当地政府和相关部门提出申请反应,要求解救弱势群体,至今未能解决落实,我们看见劳者不得食,充数者得势,巨大的落差,深感心寒。

救人者先应得救

看到年轻人建设新农村, 听到孩子们校园里朗朗读书声, 我们由衷高兴,因为这两代人的健康倾注了乡村医生的心血与汗水。遗憾的是, 建国以来,教育卫生是一对孪生兄弟, 耕读教师与赤脚医生一同工作, 而且待遇多年相同, 但耕读教师在1985-1990 年全转为国家教师,现在退休继续享受公务员待遇和住房公积金发放补助政策。兽医也转正发国家工资,而赤脚医生转成乡村医生后现在仍承担预防保健工作,从1990 年至今,不仅没有享受国家下拨的卫生资源或补贴, 各种杂费却多如牛毛。甚至国家规定的由政府财政支出的乡村医生年培训费, 也向乡村医生索要。生存艰难,很多人被迫含泪离开岗位。

救救乡村医生吧,就是救了偏远农民群众的卫生健康事业。要求政府的投入应该以完成任务为依据,给乡村医生一定的公共卫生服务任务,解决乡村医生经济困难,安心扎根农村卫生服务事业。乡村医生深信——我们的倾诉是理性的,乡村医生要求享有公平的合法权利,把乡村医生纳入政府管理农村卫生社区编制,有执业资格的乡村医生, 应当享有相同的国家农村卫生院医生平等权利, 使我们能够成为农村的责任医生,得到职业劳动公共卫生及劳动保障, 更好地为农民兄弟提供优质的公共卫生服务。

http://www.min-jian.com/2007/10/post_38.html