インタビュアー:王力雄
【解説】これは2009年8月、つまりウルムチ7・5事件後間もなく、わたしが米国バージニア州のカハル家で彼に対して行ったインタビューの一部である。ここで発表するインタビュー記事はカハル・バラット博士本人の校訂を経ている。
カハル・バラット。歴史学者、言語学者、中央アジア史と文化の専門家。ウイグル人で、1950年イリ生まれ、中央民族大学修士課程(テュルク学)卒業。1993年ハーバード大学博士学位取得、中央アジアとアルタイ研究に従事している。新疆大学、ハーバード大学、イエール大学、インディアナ大学および台湾仏光大学などで教育と研究に従事し、中古漢語・仏教・音韻学など多くの分野を渉猟。
王力雄:あなたのハーバードでの学位論文は「回鶻〔ウイグル〕文唐僧玄奘伝巻九」でした。私たちはイスラム教を中心とする新疆はかつてひろく仏教が信じられていた時期があったことを知っています。仏教時代は新疆ではどれぐらい続いたんですか?
カハル:1500年ほどでしょう。(中国の)最も早い仏教の布教者と翻訳者はどちらも新疆人でしたし、最も古い千仏洞も敦煌ではなく新疆にあります。敦煌のものは私たちのより数百年あとです。私たちの最も古い千仏洞は4世紀にできました。仏教は中央アジアから中国に伝わったんですからね。いま中国の学者は仏教が紀元1世紀に伝わったと言っています。どこから入ったんでしょう? 新疆を飛び越えてきたわけじゃないでしょう。私たちは仏教が一世紀に伝わったという確かな証拠は持っていませんが、3、4世紀には仏教関係の文化財や文字記録があります。
王力雄:仏教時代は新疆ではいつまで続いたんですか。
カハル:18世紀です。私が以前ハミ〔クムル〕の巴大石峡谷で調査したところ、ウイグル人の仏教信仰は18世紀まで続いていました。伝説では当時のハミ王が、全世界がアッラーに帰順しているのに、ここの人間は何で仏を祭っているんだ、と怒って、ムッラ〔イスラム教の導師〕に命じて山の上にモスクを立てさせ、住民をイスラム教に改宗させたそうです。
王力雄:ハミ王の誰ですか?
カハル:誰かは分かりません。ハミ王位は1697年から1930年まで続いています。私が18世紀と言うのは控えめな見積もりで、あるいは19世紀まで続いたのかもしれません。甘粛で康煕年代に書写された回鶻文「金光明最勝王経」が出土したのも不思議なことではありません。私の調査によると、山村の人が信じているのはもともとのトルファンの回鶻仏教ではなく、モンゴル人、チベット人のラマ教〔チベット仏教〕です。地元の人の話では、彼らは昼間はモスクに行って礼拝し、家では隠れて小さな仏像を拝んでいるそうです。のちには(ハミ王が派遣した)モッラたちも地元の人から徐々に追い出されてしまいました。村民は私を村の入り口の高台にあるモスクの廃墟に案内しました。一般の歴史書は新疆のウイグル仏教は15世紀までだったと書かれています。確かに大都市はそうですが、深い山の中ではその後も数百年保存されていました。
歴史上新疆が安定していた時期は非常に長いです。仏教時代には戦争はありませんでした。玄奘の記録によれば、みんな良い生活をしていたようです。国王は毎年貧民に喜捨し、数千人が精進料理を食べたそうです。仏教は非常に慈悲深い宗教で、その結果社会の犯罪率も非常に低かった。
王力雄:仏教からイスラム教への改宗はなぜ起こったのでしょう?
カハル:仏教は慈悲深い宗教です。かつて外国の探検家がトルファンで土の中から発見した僧衣には血痕が付いていました。そしてイスラムの聖戦を称える詩歌には自慢げに「我々は回鶻異教徒の寺院をぶち壊し、彼らの寺院の上で糞と小便をした」と書かれています。
王力雄:じゃあ宗教の転換は暴力によって実現したんですか?
カハル:そうです。イスラム教はまずカシュガルから、平和的な布教によって進入してきました。のちにカシュガルからホタン、トルファンに拡張するときは聖戦を発動し、大刀を持って進んで行きました。
王力雄:イスラム教の進入とモンゴルの新疆統治とどちらが先ですか?
カハル:イスラムの統治が先です。イスラム教は10世紀にカシュガルに入りましたが、その後カシュガル、ホタン一帯からは出ておらずほぼ南疆に留まっていました。カシュガルはホタンに派兵して40年間戦い続けました。その時まだモンゴル人はいません。ホタンがカシュガルの支配を受けると、彼らの千年の仏教王国は滅ぼされました。しかし、そのときトルファンはまだ仏教国でした。その間、契丹人が一時期来て、新疆を80年間支配し、その後にモンゴル人です。みんなモンゴル人の支配下に入りましたが、モンゴル人は徐々に地元テュルク民族に同化されました。
王力雄:モンゴル人の統治下でもイスラム教は拡大しましたか?
カハル:モンゴル人は新疆を100~200年統治した後、都市のモンゴル人上流階層は徐々にテュルク化しました。その彼らがトルファンの仏教徒を殺し、イスラム教をトルファンまで広げたのです。
王力雄:あなたから見て、この宗教転換は良かったのでしょうか悪かったのでしょうか?
カハル:イスラム教が伝わったのはちょうど中央アジアシルクロードの断絶、文明の暗黒化の開始と一致します。しかし、イスラム化はウイグル族の民族と文化の統一性を強化し、ウイグル族を世界的に強大な宗教グループの一つにしました。
王力雄:いま多くの漢人は新疆の歴史について全く知らず、地理的概念しかありません。せいぜい、張騫、班超……。領土の視点からいえば、古代新疆は一つの統一した存在であったのか、それともいくつかの国に分かれていたのか? 領域はおおむねどんな範囲だったのでしょうか?
カハル:2000年間、新疆は様々な分離統一状態を経験しました。高山と砂漠、交通の不便さは一部の都市国家を数百年ないし千年も存続させました。552年に突厥西都が焉耆〔カラシャール〕一帯に建てられたことで、新疆地区のテュルク化の運命は決まりました。10世紀には全新疆がすでに完全にテュルク化、つまりウイグル化していました。のちのモンゴルの侵入でも新疆社会のウイグルとイスラム教という特徴は変わりませんでした。
回鶻はテュルクの一支族です。突厥の後、774年に回鶻が草原大帝国を100年間継承しました。846年に回鶻カガン国が滅ぼされてから、テュルク人は二度と統一した大きなカガン国の下にまとまることはありませんでした。しかし実質的には、モンゴルから東欧までのユーラシア大草原が全てテュルク人の手に握られていたのです。
王力雄:回鶻カガン国以降、新疆には統一王国はなかったんですか?
カハル:回鶻カガン国以後新疆には二つの大きな政権が出現しました。一つはトルファンを中心とする高昌回鶻カガン国。その領域については、いくつかの文献に書かれていますが、北はバラサグン、つまりクルグズスタン、南は沙洲、今日の敦煌です。もう一つはカシュガルのカラハン王朝で、トルクメン一帯まで支配していました。モンゴルの侵略後100~200年以内に、統治者のモンゴル上層部はすべてイスラム化、ウイグル化しました。彼らはヤルカンドハン国を建てました。トルファンが兄で、ヤルカンドが弟、彼らは一家でした。どちらもイスラム教の政権です。中央アジア史において史学界に見落とされている一つの重要な現象があります。匈奴から満洲族までの2000年間、草原遊牧政権と都市国家定住政権が並存していたということです。二つの文化、二つの社会は共存共栄していました。大部分の時間は騎馬民族の植民地とはいえ、各都市国家は自治状態でした。これは中央アジア史の二重性で、世界的にも珍しいものです。
王力雄:回鶻カガン国の中心はどこにあったのでしょう?
カハル:回鶻カガン国の中心は哈喇巴拉合孫〔ハラバラフソン?〕、外モンゴルのカラコルムです。以前の突厥ハン国と違うのは、回鶻カガン国は5つの都市を建設し、マニ教を国教とし、開墾を始めたことで、いずれも定住化を示しています。現在の南シベリアのトゥヴァで、20~30の回鶻人が作った砦が発見されています。今のトゥヴァ人は多分840年に北の黠嘎斯〔クルグズ〕に投降した回鶻の将軍句録莫賀〔キュリュグ・バガ〕の子孫かもしれません。当時回鶻の中心はエニセイ川、トゥラ川一帯です。トゥヴァはトゥラの語尾変化です。今のモンゴル人もこれをトゥヴァ川と呼んでいます。
王力雄:維吾爾〔ウイグル〕人と回鶻人はどういう関係ですか?
カハル:回鶻、回紇は古代漢語で、維吾爾は現在の漢語です。回鶻は仏教時代を代表し、維吾爾はイスラム教時代を代表して、どちらも漢字の上での区別で、実際は一つの族で、同じです。このように書くのは二つの原因があります。一つは元朝時代に新しい北方漢語が登場し、唐代の中古標準音に取って代わり、多くの事物が新たに表記されました。唐朝時代の回鶻という字は、元朝時代には畏兀爾という3文字で書かれるようになりました。これは漢語自体、漢音の変化です。
王力雄:ではウイグル人自身の自称に変化はありましたか?
カハル:少し変化がありました。中古時代uy ghurは一つの喉音と一つの唇歯音のあるhud ghurと言われていました。喉音〔hu〕がいつから母音〔u〕に変ったのかは分かりませんが、漢字の「回〔hui〕」が「畏〔wei〕」に変ったのを見ると少なくとも元代よりは前でしょう。唇歯音「d」が半母音「y」に変わったのは10世紀以降のことです。例えば、adaq>ayaq「足」、adiq>ayiq「熊」などです。裕固族〔ユグル族、ウイグル族と同系だが仏教を信仰するグループ。中共の人為的民族区分によってウイグルとは別の民族とされている〕は、完全に漢人が当て字を間違ったのです。裕固はつまりUighurですが、現地の漢人が彼らに裕固という漢字をあてたのです。
王力雄:高昌古城と交河古城はウイグル人のものですか、それとも外来人のもの?
カハル:高昌と交河は最初はウイグル人ではなく、地元の原住民が建てた、2000年前にさかのぼる非常に古い都市国家です。最初はKU CHIという音だったようです。あるいは後の「亀玆〔Qui Ci、現在のクチャ一帯にあった都市国家〕」、「車師〔Che Shi、都市国家名。中心都市は交河と言われている〕」と関係があるかもしれません。「高昌」その音訳です。後にこれらの地域は柔然と高車の奪い合うところとなりました。柔然はアルタイ系の民族のはずです。多くの学者が高車は回鶻と関係があると認めています。柔然は高車を打ち破ってから麴氏を高昌王に立てました。麴氏は半漢化した胡人で、彼らは漢字を用いましたが、言語は自分達の言葉を使っていました。「周書」にはそう書かれています。ですからトルファンで出土した当時の漢文文献には多くの奇妙な字句が混じっていますが、彼らは漢字で筆写して、土語で読んでいたのだと思われます。後にだんだんとテュルク化されました。
王力雄:ああ、では交河、高昌は漢人が作ったのではなく、発掘された漢文も実際は胡人が使った……
カハル:そうです。麴氏は蘭州から移民してきた頃は漢字を使っていましたが、自分達の民族的特徴を持っていました。では、彼らの漢化の程度はどれぐらいだったのか、私たちは分かりません。なぜなら、南北朝の北方では漢化プロセスは数百年にわたって続いたからです。
三国以降、中国北方にはほとんど漢人は残っていませんでした。北方の鮮卑人が中原に南遷し、五胡十六国を建て、仏教を受け入れ、漢字を受け入れました。仏教は彼らの漢化プロセスを促進し、多くの部族が自らの言語を放棄するに至りました。私たちは彼らがもともとどんな言葉を話していたのか知りません。ですが、基本的には拓跋語です。拓跋語はアルタイテュルク語に属しています。
(続く)
出典:http://wanglixiong.com/2010/07/22.htm
訳注:古代ウイグルと現代ウイグルを同一と考えている点で歴史学の通説と異なる。通説を簡単に要約したものについてはウィキペディアの「ウイグル」参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%AB
本文中の〔〕内は訳注。
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