思いつくまま

みどりごを殺す「正義」はありや?
パレスチナ占領に反対します--住民を犠牲にして強盗の安全を守る道理がどこにあろう

ウイグル人歴史学者カハル・バラット新疆の歴史を語る(一)

2010-07-22 14:59:14 | 中国異論派選訳
ウイグル人歴史学者カハル・バラット新疆の歴史を語る(一)

インタビュアー:王力雄

【解説】これは2009年8月、つまりウルムチ7・5事件後間もなく、わたしが米国バージニア州のカハル家で彼に対して行ったインタビューの一部である。ここで発表するインタビュー記事はカハル・バラット博士本人の校訂を経ている。
カハル・バラット。歴史学者、言語学者、中央アジア史と文化の専門家。ウイグル人で、1950年イリ生まれ、中央民族大学修士課程(テュルク学)卒業。1993年ハーバード大学博士学位取得、中央アジアとアルタイ研究に従事している。新疆大学、ハーバード大学、イエール大学、インディアナ大学および台湾仏光大学などで教育と研究に従事し、中古漢語・仏教・音韻学など多くの分野を渉猟。

王力雄:あなたのハーバードでの学位論文は「回鶻〔ウイグル〕文唐僧玄奘伝巻九」でした。私たちはイスラム教を中心とする新疆はかつてひろく仏教が信じられていた時期があったことを知っています。仏教時代は新疆ではどれぐらい続いたんですか?

カハル:1500年ほどでしょう。(中国の)最も早い仏教の布教者と翻訳者はどちらも新疆人でしたし、最も古い千仏洞も敦煌ではなく新疆にあります。敦煌のものは私たちのより数百年あとです。私たちの最も古い千仏洞は4世紀にできました。仏教は中央アジアから中国に伝わったんですからね。いま中国の学者は仏教が紀元1世紀に伝わったと言っています。どこから入ったんでしょう? 新疆を飛び越えてきたわけじゃないでしょう。私たちは仏教が一世紀に伝わったという確かな証拠は持っていませんが、3、4世紀には仏教関係の文化財や文字記録があります。

王力雄:仏教時代は新疆ではいつまで続いたんですか。

カハル:18世紀です。私が以前ハミ〔クムル〕の巴大石峡谷で調査したところ、ウイグル人の仏教信仰は18世紀まで続いていました。伝説では当時のハミ王が、全世界がアッラーに帰順しているのに、ここの人間は何で仏を祭っているんだ、と怒って、ムッラ〔イスラム教の導師〕に命じて山の上にモスクを立てさせ、住民をイスラム教に改宗させたそうです。

王力雄:ハミ王の誰ですか?

カハル:誰かは分かりません。ハミ王位は1697年から1930年まで続いています。私が18世紀と言うのは控えめな見積もりで、あるいは19世紀まで続いたのかもしれません。甘粛で康煕年代に書写された回鶻文「金光明最勝王経」が出土したのも不思議なことではありません。私の調査によると、山村の人が信じているのはもともとのトルファンの回鶻仏教ではなく、モンゴル人、チベット人のラマ教〔チベット仏教〕です。地元の人の話では、彼らは昼間はモスクに行って礼拝し、家では隠れて小さな仏像を拝んでいるそうです。のちには(ハミ王が派遣した)モッラたちも地元の人から徐々に追い出されてしまいました。村民は私を村の入り口の高台にあるモスクの廃墟に案内しました。一般の歴史書は新疆のウイグル仏教は15世紀までだったと書かれています。確かに大都市はそうですが、深い山の中ではその後も数百年保存されていました。
歴史上新疆が安定していた時期は非常に長いです。仏教時代には戦争はありませんでした。玄奘の記録によれば、みんな良い生活をしていたようです。国王は毎年貧民に喜捨し、数千人が精進料理を食べたそうです。仏教は非常に慈悲深い宗教で、その結果社会の犯罪率も非常に低かった。

王力雄:仏教からイスラム教への改宗はなぜ起こったのでしょう?

カハル:仏教は慈悲深い宗教です。かつて外国の探検家がトルファンで土の中から発見した僧衣には血痕が付いていました。そしてイスラムの聖戦を称える詩歌には自慢げに「我々は回鶻異教徒の寺院をぶち壊し、彼らの寺院の上で糞と小便をした」と書かれています。

王力雄:じゃあ宗教の転換は暴力によって実現したんですか?

カハル:そうです。イスラム教はまずカシュガルから、平和的な布教によって進入してきました。のちにカシュガルからホタン、トルファンに拡張するときは聖戦を発動し、大刀を持って進んで行きました。

王力雄:イスラム教の進入とモンゴルの新疆統治とどちらが先ですか?

カハル:イスラムの統治が先です。イスラム教は10世紀にカシュガルに入りましたが、その後カシュガル、ホタン一帯からは出ておらずほぼ南疆に留まっていました。カシュガルはホタンに派兵して40年間戦い続けました。その時まだモンゴル人はいません。ホタンがカシュガルの支配を受けると、彼らの千年の仏教王国は滅ぼされました。しかし、そのときトルファンはまだ仏教国でした。その間、契丹人が一時期来て、新疆を80年間支配し、その後にモンゴル人です。みんなモンゴル人の支配下に入りましたが、モンゴル人は徐々に地元テュルク民族に同化されました。

王力雄:モンゴル人の統治下でもイスラム教は拡大しましたか?

カハル:モンゴル人は新疆を100~200年統治した後、都市のモンゴル人上流階層は徐々にテュルク化しました。その彼らがトルファンの仏教徒を殺し、イスラム教をトルファンまで広げたのです。

王力雄:あなたから見て、この宗教転換は良かったのでしょうか悪かったのでしょうか?

カハル:イスラム教が伝わったのはちょうど中央アジアシルクロードの断絶、文明の暗黒化の開始と一致します。しかし、イスラム化はウイグル族の民族と文化の統一性を強化し、ウイグル族を世界的に強大な宗教グループの一つにしました。

王力雄:いま多くの漢人は新疆の歴史について全く知らず、地理的概念しかありません。せいぜい、張騫、班超……。領土の視点からいえば、古代新疆は一つの統一した存在であったのか、それともいくつかの国に分かれていたのか? 領域はおおむねどんな範囲だったのでしょうか?

カハル:2000年間、新疆は様々な分離統一状態を経験しました。高山と砂漠、交通の不便さは一部の都市国家を数百年ないし千年も存続させました。552年に突厥西都が焉耆〔カラシャール〕一帯に建てられたことで、新疆地区のテュルク化の運命は決まりました。10世紀には全新疆がすでに完全にテュルク化、つまりウイグル化していました。のちのモンゴルの侵入でも新疆社会のウイグルとイスラム教という特徴は変わりませんでした。
回鶻はテュルクの一支族です。突厥の後、774年に回鶻が草原大帝国を100年間継承しました。846年に回鶻カガン国が滅ぼされてから、テュルク人は二度と統一した大きなカガン国の下にまとまることはありませんでした。しかし実質的には、モンゴルから東欧までのユーラシア大草原が全てテュルク人の手に握られていたのです。

王力雄:回鶻カガン国以降、新疆には統一王国はなかったんですか?

カハル:回鶻カガン国以後新疆には二つの大きな政権が出現しました。一つはトルファンを中心とする高昌回鶻カガン国。その領域については、いくつかの文献に書かれていますが、北はバラサグン、つまりクルグズスタン、南は沙洲、今日の敦煌です。もう一つはカシュガルのカラハン王朝で、トルクメン一帯まで支配していました。モンゴルの侵略後100~200年以内に、統治者のモンゴル上層部はすべてイスラム化、ウイグル化しました。彼らはヤルカンドハン国を建てました。トルファンが兄で、ヤルカンドが弟、彼らは一家でした。どちらもイスラム教の政権です。中央アジア史において史学界に見落とされている一つの重要な現象があります。匈奴から満洲族までの2000年間、草原遊牧政権と都市国家定住政権が並存していたということです。二つの文化、二つの社会は共存共栄していました。大部分の時間は騎馬民族の植民地とはいえ、各都市国家は自治状態でした。これは中央アジア史の二重性で、世界的にも珍しいものです。

王力雄:回鶻カガン国の中心はどこにあったのでしょう?

カハル:回鶻カガン国の中心は哈喇巴拉合孫〔ハラバラフソン?〕、外モンゴルのカラコルムです。以前の突厥ハン国と違うのは、回鶻カガン国は5つの都市を建設し、マニ教を国教とし、開墾を始めたことで、いずれも定住化を示しています。現在の南シベリアのトゥヴァで、20~30の回鶻人が作った砦が発見されています。今のトゥヴァ人は多分840年に北の黠嘎斯〔クルグズ〕に投降した回鶻の将軍句録莫賀〔キュリュグ・バガ〕の子孫かもしれません。当時回鶻の中心はエニセイ川、トゥラ川一帯です。トゥヴァはトゥラの語尾変化です。今のモンゴル人もこれをトゥヴァ川と呼んでいます。

王力雄:維吾爾〔ウイグル〕人と回鶻人はどういう関係ですか?

カハル:回鶻、回紇は古代漢語で、維吾爾は現在の漢語です。回鶻は仏教時代を代表し、維吾爾はイスラム教時代を代表して、どちらも漢字の上での区別で、実際は一つの族で、同じです。このように書くのは二つの原因があります。一つは元朝時代に新しい北方漢語が登場し、唐代の中古標準音に取って代わり、多くの事物が新たに表記されました。唐朝時代の回鶻という字は、元朝時代には畏兀爾という3文字で書かれるようになりました。これは漢語自体、漢音の変化です。

王力雄:ではウイグル人自身の自称に変化はありましたか?

カハル:少し変化がありました。中古時代uy ghurは一つの喉音と一つの唇歯音のあるhud ghurと言われていました。喉音〔hu〕がいつから母音〔u〕に変ったのかは分かりませんが、漢字の「回〔hui〕」が「畏〔wei〕」に変ったのを見ると少なくとも元代よりは前でしょう。唇歯音「d」が半母音「y」に変わったのは10世紀以降のことです。例えば、adaq>ayaq「足」、adiq>ayiq「熊」などです。裕固族〔ユグル族、ウイグル族と同系だが仏教を信仰するグループ。中共の人為的民族区分によってウイグルとは別の民族とされている〕は、完全に漢人が当て字を間違ったのです。裕固はつまりUighurですが、現地の漢人が彼らに裕固という漢字をあてたのです。

王力雄:高昌古城と交河古城はウイグル人のものですか、それとも外来人のもの?

カハル:高昌と交河は最初はウイグル人ではなく、地元の原住民が建てた、2000年前にさかのぼる非常に古い都市国家です。最初はKU CHIという音だったようです。あるいは後の「亀玆〔Qui Ci、現在のクチャ一帯にあった都市国家〕」、「車師〔Che Shi、都市国家名。中心都市は交河と言われている〕」と関係があるかもしれません。「高昌」その音訳です。後にこれらの地域は柔然と高車の奪い合うところとなりました。柔然はアルタイ系の民族のはずです。多くの学者が高車は回鶻と関係があると認めています。柔然は高車を打ち破ってから麴氏を高昌王に立てました。麴氏は半漢化した胡人で、彼らは漢字を用いましたが、言語は自分達の言葉を使っていました。「周書」にはそう書かれています。ですからトルファンで出土した当時の漢文文献には多くの奇妙な字句が混じっていますが、彼らは漢字で筆写して、土語で読んでいたのだと思われます。後にだんだんとテュルク化されました。

王力雄:ああ、では交河、高昌は漢人が作ったのではなく、発掘された漢文も実際は胡人が使った……

カハル:そうです。麴氏は蘭州から移民してきた頃は漢字を使っていましたが、自分達の民族的特徴を持っていました。では、彼らの漢化の程度はどれぐらいだったのか、私たちは分かりません。なぜなら、南北朝の北方では漢化プロセスは数百年にわたって続いたからです。
三国以降、中国北方にはほとんど漢人は残っていませんでした。北方の鮮卑人が中原に南遷し、五胡十六国を建て、仏教を受け入れ、漢字を受け入れました。仏教は彼らの漢化プロセスを促進し、多くの部族が自らの言語を放棄するに至りました。私たちは彼らがもともとどんな言葉を話していたのか知りません。ですが、基本的には拓跋語です。拓跋語はアルタイテュルク語に属しています。
(続く)

出典:http://wanglixiong.com/2010/07/22.htm

訳注:古代ウイグルと現代ウイグルを同一と考えている点で歴史学の通説と異なる。通説を簡単に要約したものについてはウィキペディアの「ウイグル」参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%AB
本文中の〔〕内は訳注。
(転載自由・要出典明記)

張潔平:チベット環境活動家でっち上げ逮捕の裏事情(2)

2010-07-10 22:02:21 | Weblog

    浦志强:之前巴州公安局出具的《嘎玛桑珠抓获经过》,开庭的时候控方又把证据抽掉了,可能觉得这个不妥,泄露了政法委的天机,结果举证就变成证据不全。等于拿九八年已经销案的东西来证明抓他的经过。开庭的时候我说你交还是不交,控方说全交完了,我说那好,我来交,我给你补。我就把我们抄到的这个材料,作为辩方证据交上去了。有好几个证据是这样的情形交上去的。

    李会清:三天给我的感觉是:我们要说的话还让说,说的还算充分,但我们依法提的申请和要求都没支持,比如审查证据是否合法?没有;应该传证人到庭,也没有;涉及到关键问题,都不答复,都驳回了我们的申请。我们要求启动非法证据审查程序,它始终推诿。最后检察院提交了侦查人员证明自己没有刑讯逼供的笔录,这真是此地无银,提前准备好的,相当于已经承认了有刑讯逼供的材料。

    浦志强:他们做假也做得不准确。阿不力孜的笔录原本没有签名,更没有办案民警的签名,连证据的形式要件都不具备。五月二十七日我们看复印件的时候还是没签名的。他们拿回去之后,按照公安部的要求补签名,一天之内就补了。九八年的笔录是钢笔,前后几次审讯形成的签名时隔好几个月,但阿不力孜的签名用的显然是一枝笔。开庭的时候我都问他们,没人回答,因为他们回答不了。

    庭审时法官收短信

    法官说的最重要的、频率最多的一句话,就是:不许说话!谁让你说的!辩护人注意言辞!不许侮辱公诉人!第一次开庭时,至少三次,法警上去给庭长送信封;第二天还这样。我就说了:我想知道,审判长你拿那个东西到底是什么?咱们的审判,我希望在你们几个之外,没有另外的人,在指挥着你们该做什么或者不该做什么。结果不送信封了,人家传递消息改成收发短信了。我怎么知道的?就三个法官、两个被告、两个辩护律师身前有话筒,短信一来会干扰,其它人的手机都被收掉了。出老千出到这种程度,又偷牌,又不让我抓牌,自个儿又换牌。哎哟,真有意思。

    六月二十三日晚上休庭后,我们曾应合议庭要求做过「私下」沟通,我接受指出的对法庭和公诉人有失尊重的批评,但也对审判长郭廷志提到了「锦囊妙计」多次现身庭审现场的问题。所以我说,法院在检察官面前违法,检察官在法院面前造假,然后公安机关声称自己没有刑讯逼供,嘎玛呢,坚决不承认自己的罪名。就是这个状况。

    既然控方的证据如此薄弱,前后矛盾的情况又很多,最终还是很快地判了重刑,你觉得背后的原因到底是什么呢?

    浦志强:新疆文物大量被盗这是个事实,新疆的盗墓行为急需依法惩治也是必要的。但当局远远没必要到翻这个十几年前的老帐,投入这么大的力量跑去北京、成都抓个西藏人,整这整那的,调动多大的资源办这个案子,犯得着吗?

    有种说法,是嘎玛这次倒霉,是因为他是西藏老家贡觉县上访群众的后台。这个我觉得警察举证的时候,还是有些盲目的。嘎玛的「狱友」努尔买买提的证词说了两点,第一是说嘎玛跟他讲,说自己进来是西藏政府弄他,因为他有意识地挑动群众上访,因为两会期间上访容易成功,所以自己就支持他们,并出主意;第二是说十几年前那个盗墓贼再次跑进沙漠拿棺材里的干尸和棺材,是他让去拿的。我认为这都不合乎常理。

    针对藏区上访的事情,我提了一组反驳证据,一份是嘎玛桑珠写给孜荣村上访群众的信,信里劝大家相信政府相信党,要给王书记解决问题留出余地。这封信能证明他不是一向主张上访或者挑动上访的,相反,他是受政府委托出来跟上访者斡旋的。第二是一份备忘录,那是昌都地区党政领导跟孜荣村几十个上访群众所签的备忘录,里边说你们回去,你们的问题会解决,退耕还林农地补偿都会解决,然后老百姓和党政领导一起签字。这说明群众确实有上访,政府确实与群众签了备忘录要解决问题。结果审判长直接说这个证据没有关联性不准提交,我说证据的关联性成立与否是举证质证后才归合议庭认定的问题,你们可以不做认定,但你不能拒绝我们提交证据,他说就是不行,我感觉他们对此很是紧张。

    我个人不太相信是这点因素。类似西藏的这种小小村子的上访,全国各地几乎是处处都是,因为天下乌鸦一般。打个比方,我的老家就有人来北京上访,但假如有我的老乡跑来北京上访,并且偏偏也有人怀疑我是上访的后台,难道就会找个别的地方——比如香港的「公检法」把我也抓起来判刑吗?这个让新疆出面,不值得,因为新疆连自己的事,还干不过来呢,他们犯得上着擦西藏的屁股吗?就为这么个事儿?解决西藏一个村的上访问题?

    我觉得我们所看到的原因都不是真的。真正的原因是什么呢?你说嘎玛招谁惹谁了?修桥铺路,尽做好事,跟政府的关系不坏,也没有刻意得罪谁。我觉得这两个自治区背后可能还有别的力量,在推动这个事情。但目的是什么呢?我搞不清楚。我是律师,不是政客,我也没这个精力。

    几次见嘎玛桑珠是什么情形?印象如何?

    李会清:五月十七日我又见过嘎玛。一月见的时候,他挺胖的,大长头发,胡须都在,到五月十七日,人瘦了四十多斤。他当时简单说了两句,里面的人怎么打他。后来庭审时他说的比较详细。(见本刊上期)嘎玛给我的印象比较实在,他说这个入狱,我要有罪,你判我死刑都可以。我没有那事儿,你非得判我,就不行。他用藏族的言语剖白自己:「雪山本来是白色的,但黄疸病人看到的是黄色,可惜这改变不了雪山本来的颜色。」

    浦志强:我对嘎玛印象非常好。这个人是一尊神。刑讯逼供到这份上,仍然什么证据都得不到。这种意志,我觉得汉人啊,像我这样的,还需要不断用文天祥来勉励我,我处在他的那个境地,我得一会儿想想文天祥,一会儿想想岳鹏举(岳飞),然后还可能顶不住,要是想到了雷锋,那我就更顶不住了。而嘎玛呢,他不需要,他什么都不需要想,他完全就是一种自在、自然的状态。佛教的生死观和我们汉人不一样。他们觉得还有来世,有因果。

    嘎玛坦然面对冤狱

    这次的磨难,可能就是他在人生过程中需要面对的劫难,他会坦然承受这个,但你是让他说假话不行。他说也不恨这些人,「对我来说,你们抓完打我判我,就是天灾,我知道的,这就像是文化大革命,这是天灾!」他开庭时就这么看待自己的遭遇。开庭前我问他,从九八年到现在你的汉语怎么样了?他说进步很快的,两回坐牢让他的汉语进步很快很快的,原来他是几乎不懂的。这种人我觉得,对他来说,坐牢,下油锅,都无所谓。以我们的俗人的眼光来看,应该叫莫敢仰视吧。我曾经跟他讲过,我愿意成为你的私人朋友,我相信我们会成为好朋友。我告诉他我认为你无罪,我会把你带走。他高兴啊。


出典:http://www.canyu.org/n17722c12.aspx


張潔平:チベット環境活動家でっち上げ逮捕の裏事情(1)

2010-07-10 21:57:57 | Weblog

張潔平:チベット環境活動家でっち上げ逮捕の裏事情--浦志強、李会清両弁護士のインタビュー

张洁平:西藏环保领袖冤案幕后玄机——专访:辩护律师浦志强、李会清
[日期:2010-07-09] 来源:浦志强博客 

 

    西藏环保领袖嘎玛桑珠十二年前盗墓旧案重翻,当时无罪释放,现在却被判刑十五年。控方证据有些是刑讯逼供取得,所有笔录几乎都有篡改、补签名。判决书错漏百出,律师浦志强、李会清强烈抗辩。

    在新疆维吾尔自治区一个蒙古族自治州的回族自治县开审一个西藏人的案子——二零一零年六月二十二日至六月二十四日,在新疆焉耆县人民法院开庭审理的嘎玛桑珠涉嫌盗掘古墓案,也算创了一个「多民族合作」的纪录。

    六月二十四日,焉耆法院一锤定音,一审宣判嘎玛桑珠唆使盗掘楼兰古墓棺材及干尸等文物罪成,判处有期徒刑十五年,剥夺政治权利五年,并处罚款一万元人民币(约一千五百美元)。两位律师和嘎玛桑珠的家人七月三日递交了二审上诉材料。有西藏「天珠王」之称的嘎玛桑珠,与他的兄弟仁青桑珠等人一起,积极投身于西藏文化与环保事业,但近日先后被判。七月三日仁青桑珠被成都中级法院以煽动分裂罪判处五年监禁。

    一九九八年五月,几乎同样的证据材料,新疆自治区检察院认定嘎玛桑珠无罪,不予立案。没想到时隔十二年,这个西藏商人热心于用慈善「帮助全世界」的时候,却再次被抓,并在遭遇了严酷的刑讯逼供之后,被判重刑。判决书错漏百出,令法律人咋舌。亚洲周刊专访了嘎玛桑珠的辩护律师浦志强、李会清,以下是访谈摘要:

    嘎玛桑珠涉嫌盗掘古墓,这是一九九八年曾经被认定无罪的一档旧案,为什么此时重新审理?

    浦志强:这个案子的起因,就公开材料来讲,我们看到的是新疆政法委来启动的。巴州公安局刑侦支队出具过一个《嘎玛桑珠抓获经过》,由巴州检察院向法院交过。这份文书提到,零九年十二月二十七日,新疆自治区政法委执法检查组工作中发现旧案,认为应追究嘎玛桑珠的刑责。自治区政法委、自治区公安厅转交巴州公安局办理,零九年十二月三十日立案。一月三日到成都就把嘎玛抓了,抓到库尔勒然后到若羌,换了个罪名提到巴州,新的罪名又放到焉耆,焉耆检察院公诉,焉耆法院审理。

    十二年前嘎玛只是嫌疑人,后来检查机关审理后证明他无罪,并没有立案。同案再审,为什么结果如此不同?有什么新的证据?

    浦志强:控方所提交的证据里有一个九八年盗墓案侦查终结的报告,是九八年五月把嘎玛桑珠取保候审的过程。当时那个案件的移送审判起诉就没有他,报告里,侦查机关做出了嘎玛桑珠不构成犯罪的结论。所以说,九八年阿不力孜等人是盗墓罪,这指控不包括嘎玛,审理也不涉及他,更谈不上审判他。现在如有必要改的话,就说明那时办了错案,你把一个最重要的主犯给放了;如果那时没办错案,那现在他就更加不构成犯罪。按照法律适用上的从旧兼从轻原则,如一个行为在当时的刑法不认为构成犯罪,哪怕现在的法律认为构成犯罪,在处理上还是应该认定行为人不构成犯罪。

    所有笔录都几乎被改

    另外控方这次所举的证据,也没有能够证明他构成犯罪。证据本身有些是刑讯逼供取得,所有笔录几乎都经过拙劣的篡改、补签名,且大多是九八年的旧笔录。

    至于九八年的笔录,当时嘎玛被抓的时候,很长时间没有翻译,基本上不能沟通,二十天以后给他配了一个翻译,是一个蒙古喇嘛,会蒙文和一点点佛经上的藏语,还是日喀则地区的,这和康巴藏语又是两回事。当时前期没有翻译,后期翻译是用他们理解的康巴藏语,翻成维吾尔语,然后一个懂维吾尔语的警察用汉语记录。这中间有什么偏差发生那就很难说了。所以最后的定罪,还是嘎玛九八年的笔录加上阿不力孜的笔录——等于是警察刑讯逼供的一面之词,加上盗墓贼的一面之词,它不光不能等同于事实的真相,而且离真相的距离只会越来越远。我觉得,这个案子在程序上,完全是个假东西。

    判十五年这个刑期的依据是什么?

    浦志强:刑法三二八条第一款写明,盗掘古墓葬,有下列情形之一的,要处十年以上、无期徒刑或者死刑。其中第一项就是盗掘全国重点文物保护单位和省级文物保护单位之内的古墓葬。楼兰的遗址在焉耆县境内,这里属于全国重点文物保护单位。那么假设认定嘎玛桑珠是主犯,指使教唆行为成立,那么判他十年以上有期徒刑、无期徒刑,甚至死刑,都是在这个法律规定的范围之内。但焉耆县法院没有权利行使无期徒刑、死刑,这是单一罪名,又不是数罪并罚,所以判决之前我分析,如果这个罪名成立,他会面临一个十到十五年的有期徒刑,附加剥夺政治权利。最终选择的是十五年,应该说判得还是比较狠的。但关键不在这个问题上,因为嘎玛桑珠并不构成犯罪。

    这个案子从开始接手,到三天庭审,到最后判决,作为律师整体上的感觉是什么?

    李会清:盗墓案本身应该说是普通的刑事案件,只是这里涉及少数民族。只是做的过程中,从一月最初去若羌看守所见当事人,办案民警张卫东批准我们会见后来又不让见,当时对方说,自治区成立了一个项目组,我们也不知是真是假。到五月到检察院的时候,法院说六月一日开庭,一般情况下不会这么仓促。

    法官不让律师看卷宗

    在焉耆看守所见当事人的时候,那里竟然说没这个人,请示了所长才让我见的。保卫和我说,这是一个保密案件。我才意识到这案子不太一样,好像背后总有其它力量在干预。五月二十七日,马庭长干脆以卷宗上有两处问题,要指给我们看这个理由,把卷宗给骗回去了!拿到手之后他就不给了,说领导定了不能给你们,也不让复印。我和浦律师只好从当天下午四点一直抄写到第二天凌晨三点,二十九号又抄了整整一天。我们一直要求他们允许我们依法复制卷宗,结果六月二十二日正式开庭,六月二十一日才允许我们复印,还抽出去了一部分材料。


カネミ油症ドキュメンタリー映画上映会(転載)

2010-07-08 23:12:34 | Weblog

『食卓の肖像』上映会
(DV作品、約100分)
取材・構成 金子サトシ
撮影    内野敏郎/金子サトシ/福本淳
スーパーバイザー 土屋豊
         OurPlanet-TV

1968年に発覚した戦後最大の食品公害、カネミ油症。
40年以上たった現在もその影響下に生きる被害者の人たちを見つめたドキュメンタ
リー作品。

(上映日時) 
<INS>8月5日(木)午後6時30分開場、午後7時開始</INS>午後7時より、『食卓の肖像』上映。
上映後に、平林祐子(都留文科大学准教授、環境社会学)氏の司会でティーチ・イン、
質疑応答などあり。

<INS>9月8日(水)午後6時30分開場、午後7時開始</INS>
午後7時より、常石敬一(神奈川大学教授、科学史、著書に『七三一部隊』『化学物
質は警告する』など)氏のお話(約30分)(予定)。
午後7時30分より、『食卓の肖像』上映。
上映後に、質疑応答などあり。

(上映会場)
杉並区立産業商工会館 3階 講堂
(JR阿佐ヶ谷駅南口徒歩5分、地下鉄丸ノ内線南阿佐ヶ谷駅徒歩3分、杉並区阿佐ヶ
谷南3ー2ー19)
*地図は下記の通り。(ただし、この地図にはUFJとジョナサンがありますが、2
つとも現在はありません。UFJとジョナサンを消して見てください。)

http://www.laputa-jp.com/laf2005/workshop/map.html

http://www.mmjp.or.jp/rmc-jyosai/map/sugisangyo.htm

(料金)700円(当日、前売ともに)

(問い合わせ)
金子サトシ
携帯090ー1793ー6627
メール n3946062@yacht.ocn.ne.jp

出典:http://blue.ap.teacup.com/documentary/