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何清漣:中国における統治の暴力化(3)

2007-01-17 11:28:54 | 中国異論派選訳
三、失地農民の絶望的な抗争

1、耕地の減少と失地農民の増加

 家を追われた都市立退き住民は400万人近くになる。また土地を失った農民の数はもっと多い。耕地の減少と失地農民の増加に関するデータは中国の残酷な現実を見せ付ける。不動産業の繁栄の直接の結果は耕地の減少である。中国農業部の報告によると、全国の耕地面積は1996年の19.51億ムーが2004年には18.37億ムーに、8年で1.2億ムー、平均毎年1,425万ムー減少した。2005年10月31日時点では、18.31億ムーに減少した。一人当り耕地面積は1.4ムーで、世界平均の40%にも満たず、土地面積はすでに人の生存最低ラインに近づいている。今日耕地面積は絶え間なく減少し、人口は絶え間なく増加しており、将来予測によると、2020年には、耕地の不足は1億ムー以上に達する[43]。これら冷酷な数字の後には、無数の土地を失った農民の慟哭がある。

 中国の失地農民はどれほどいるのか? 今でも大方の承認を得た信頼できるデータはない。国家統計局農村社会経済調査総隊は2003年に「失地農民現況調査を緊急に実施することに関する通知」を発布し、各地方政府もそれに合わせて調査を実施した[44]。政府統計によると、2005年3月、中国の失地農民の総数は4000万人を超えており、毎年約200万人の速度で増加している[45]。浙江師範大学教授が最近、河北省・山東省・湖北省・広西チワン族自治区・浙江省・雲南省など11省の134の県で行ったサンプル調査によると、土地の分配を受けた人口は総人口の84.5%であり、そこから推測すると全国では少なくとも13.7%の農民が土地を持っておらず、失地農民の数は5,093万人から5,525万人にのぼる。もしも、計画外出産などで土地の分配を受けられない人口を入れると、中国の土地を持たない農民は6千万人を超える[46]。2006年3月、中国農業部は、毎年農民の耕地が200万ムー余り転用されていると発表した。これは毎年100万人余りの農民が耕地を失っていることを意味する[47]。農業部のこの発表は一人当り2ムーで計算しているが、これによって推測すると、1996年から2004年までの8年間に1.2億ムーの耕地が減少し、6千万人の農民が土地を失ったことになる。

 中国農民の土地が強制収用されることと中国の土地制度とは密接な関係がある。中国の現行土地制度によると、農民は土地の使用者にすぎず、所有権はない。このことがいま農村で進行している「新土地囲い込み運動」に制度的保証を提供している。中国基層幹部が土地所有者の代表としての身分で、農民不在の(あるいは騙された)情況の下で、彼らの土地を剥奪している。

 中国政府は農民と労働者が当局のコントロールの外で団体を結成することを禁止しているので、各地の農民はいかなる集団行動のための組織的資源も持ちえず、遅延と血縁などの関係を利用した緩やかな臨時の組織を利用するしかない。一切の組織資源を独占し、かつ日増しにヤクザ化していく地方政府とそれに支えられた不動産業者と対決するには、農民のこのような反抗はほとんど絶望的状態におかれている。

2、河北省定州事件から見た地方政府のヤクザ化の特徴

 2005年6月11日に発生した河北省定州事件は、人々が地方政府のヤクザ化を理解するのに一つの見本を提供した。この事件の関係者の相互関係はもっともよく政府行為のヤクザ化の特徴を示している。

 関係部門が提供したある資料によると、河北省国華定州発電有限責任公司(以下「火力発電所」と略称)は2001年に着工し、2004年から稼動している大型火力発電所であり、国家第10次五ヵ年計画の重点プロジェクトである。火力発電所は縄油村から2キロメートル弱のところに建設され、縄油村の南の379ムーの土地を関係部門が火力発電所の石炭灰堆積処理場にすることを計画した。この土地は三つの部分からなっていた。80ムーは村の果樹園(集団所有)で、3000本近くの梨の成木があった。200ムーは村民個人に請け負わせた林地であり、樹齢2~3年以上のポプラが植えてあった。それから100ムーの麦畑は、縄油村村民の請負農地だった。今回の衝突の原因は土地収用補償にあった。これについて村民、地方政府と補償金を支払う火力発電所の言い分は食い違っている。

 政府の言い分は、鄭州市の石炭灰堆積場問題工作組の2004年8月27日「石炭灰堆積場に集まっている者に対する公開状」にいわく、火力発電所は「2002年9月7日に法に基づき石炭灰堆積場の使用権を取得し、縄油村のすべての村民もすでに合法的な補償を受け取っている」とする。火力発電所の工場長の言い分は、収用費用は4600万元余りであると言う。村幹部は、鎮からは村に587万元ぐらいしか来ていないという。村人は、大量の収用費用が「上部」(上級政府組織)に横領されたと考えている。この「上部」がどの政府か、定州市か、鎮政府なのか、あるいはみんなで横領したのか、未だに説明はない。こんなにも多額の収用費用がどこに行ったか分からず、村民たちは土地を失ったのに、合理的な補償は得られないので、犯行の道しか残されなかった。農民は火力発電所の着工を阻止するために、2004年7月から交代で工事現場に泊り込んでいた。

 定州市政府はこの土地収用事件で奇怪な一人二役を演じた。一方で、政府は次のような手段を使って、直接表立って鎮圧した。その一、政府幹部が人を引連れて火力発電所の施工チームのために工事現場の村民を追い払った。2004年3月15日、共産党定州市委員会副書記の趙国軍は自ら警察、政府職員と施工業者200名余りと、フォークリフト8台を引連れて石炭灰堆積場の強制着工をした。その二、警察が表に立って反抗する農民代表を捕らえた。村民代表の牛才民夫妻、村民牛旭光、牛同順など10人あまりに「集合社会秩序騒乱罪」の罪名を着せて、逮捕した。この村ではこれまでに公安局に逮捕された村民が2~300人にも上る。その三、石炭灰堆積場工事予定地を守る村民を暴力を使って追い立てた。2004年3月から7月9日までの間、定州市政府はのべ5000人あまりの警官を出動させ、10回以上も強硬着工し、大きな衝突を引き起こした。2004年4月7日、定州市共産党委員会書記の和風が縄油村に行ったとき、1000人以上の村民が土下座して訴えた。これに対して和風は「そんな芝居は見飽きた、その手は食わないぞ!」と言った[48]。一方では、地方政府は公然とヤクザの暴力を利用した。政府と村民の衝突がしばしば起こった時、村民代表の牛烟平らはたびたび「身分不詳の人物」の襲撃を受けた。このような「身分不詳の人物」は実際には政府に雇われたヤクザであるが、一般の状況下では地方政府は決してそれを認めない。2005年6月11日未明、約300人の迷彩服を着た「身分不詳の暴徒」が農民が熟睡しているすきをついて襲撃し、農民の6名が死亡し140名が負傷した(多くの人が障害が残り、労働能力を失った)。このような事件は中国では珍しくないので、当時、中国政府はこのことに関心を示さなかった。しかし、アメリカのワシントンポスト記者が現地の農民から襲撃を記録したビデオを手に入れたので、はっきりとした映像でこの暴力事件を世界に暴露した[49]。映像が暴露した残忍な弾圧は、多くの「中国政府のよき友人たち」に弁護の余地を与えず、国際世論は批難一色となった。そうして初めて中国政府は定州市共産党委員会と和風らを処分した。事件発生後7ヶ月、河北省邯鄲市中級人民裁判所は2006年2月に事件にかかわった27名について「村民殺害を計画し実行した罪」の成立を認め、4名に死刑、5名に無期懲役を言渡した。無期懲役には殺害計画で裁かれたもと定州市共産党委員会書記和風が含まれていた[50]。事件が発生してから今日に至るまで、現地政府は一貫して政府の責任を認めておらず、この事件は一部の公務員の違法行為にすぎないと主張し、また土地収用自体は合法だったとして、村民への賠償を拒絶している。

 筆者が定州縄油村事件を分析の典型事例として選んだのは、「定州事件」が以下の3つの特徴をもっているからである。第一、定州事件は政府、企業、村民という3つの利害関係者が関係している。それは近年の土地収用事件における主要な利害関係者である。第二、定州市政府、市共産党委員会は土地収用過程で購入者(農民から土地を強制収用する)と販売者(収用した土地を高値で不動産開発業者などに売りつける)の二重の役割を演じており、ほとんどすべての中国における土地収用事件における政府の役割の縮図である。政府部門は法執行権と法解釈権を持っており、ゆえにこれら強制収用行為も法律の名を借りて行われないものはない。第三、定州市政府が暴徒に村民を襲撃させ、非政府の暴力で農民を屈服させようとしたこのやり方は、最近の土地収用において頻繁に見られる。

3、地方政府の土地収用過程における不法行為

 「定州事件」のような農民を一方当事者とし、政府と企業をもう一方の当事者とする利益衝突は、中国の90年代後半以降の農村土地収用における衝突の典型的なモデルとなっている。そしてそれはふつう最終的には政府が失地農民を鎮圧して終わる。例えば、2003年3月から2004年10月までの期間、陝西省楡林市の18,000人の失地農民と楡林市政府は土地収用問題で激烈に対抗した。現地政府は一年半の間に4回武装警察(少ないときで数百名、多いときは三千名の警官)を出動させ、農民の激しい抵抗を鎮圧し、双方が激しく衝突した。政府は最後に高拉定ら27名の農民リーダーと抵抗する主要メンバーを「集合社会秩序騒乱罪、監禁罪、公務執行妨害煽動罪」などの罪名で逮捕し、かれら権利擁護農民を重刑に処し、投獄した[51]。このような状況は他の農村でも頻繁に発生している。四川省自貢市の1993年から今日(2006年)まで続く農民の抵抗、2005年7月から10月までの広州市番禺区太石村の村民の権利擁護行動、2005年12月に発生した広東省の「汕尾事件」などである。指摘しておかなければならないのは、自貢市、太石村などでは村幹部が村民と政府の衝突の中で卑劣な役割を演じていることである。土地収用交渉の中で、村幹部は農民の前に「俺も仲間だ」という顔で現れ、農民の信頼を得るが、実際にはこれら村幹部は政府役人集団の土地譲渡金山分けに預かる。例えば、自貢市紅旗郷郷長の陳文賢がこのような人物である。陳は郷長という低い役職にすぎないが、しかし土地、別荘、個人企業、各種自動車など有形資産を数千万元も持ち、その上5千万元以上の金融資産を持っていた。現地の農民は次のような戯れ歌を作って陳文賢の生活を形容している。「住むのは豪華別荘、動くにはベンツが足代わり、着るのは高級ブランド、遊ぶのは正妻一人とめかけ5人、食うのは山海の珍味」[52]。

 地方政府が土地の収用者と販売者という二つの役割を手放さないのは、土地の強制収用を通じて暴利を得られるからである。しかし、政府が表に立てるのは自分で解釈した各種の法律規則である。陝西省楡林市楡陽鎮三岔湾村の事件は典型事例である。この村は市街地から僅か7キロしか離れておらず、1999年に楡林市政府はここに楡林開発区を作ることを決めた。そこで、「国有地使用権の回収」の名の下に、農民の土地を強制収用した。その補償額は、村民が土地基盤整備と管理を行ったことのある荒地はムー当り500元の労賃を基準とした補償であった。一方、政府が企業誘致のために示した価格はムー当り35万元であった。楡林市、区、鎮の各級政府はいずれもこれは「国有地」だという。彼らは2つの根拠を示す。一つめは、1951年11月19日の「西北軍政委員会の土地改革に合わせて林木所有権整理のための規定に関する命令」であり、この「命令」の第五条には「農耕に適さない荒れ山と沙漠の縁、河川両岸の砂地のうち、面積500ムー以上の土地は、等しく国有とする」とある。二つめは、1995年の旧国家土地局の「土地所有権と使用権の確定に関する規定」第4条であり、そこには「1950年の『中華人民共和国土地改革法』の規定に従い、当時土地所有権を農民に分配しなかった土地はすべて国有とする。1962年の『農村人民公社工作条例改正草案』実施時に農民集団所有(村有)にしなかった土地は国有とする」と定める。しかし、現地の農民は、政府が彼らの村の土地を「国誘致」と宣告したのは法的根拠がないと考える。この事件に関係する10,800ムーの土地はこの村の集団所有であり、村民たちの祖先が清朝の嘉慶16年(西暦1811年)に買ったもので、契約書もある。1949年以降はこの土地は村有地となり、50年余りに渡って村民は防砂のために多くの労働力を投入して、ついには砂漠を林地と耕地に変えた。従って、農民は地方政府は勝手にこれらの土地の所有権の性質を定めることはできないと考えている。いわんや、いわゆる楡林開発区の開発は中央や省政府の決定ではなく、この開発区は実際には楡林市政府が株式の大部分を占める官営会社であり、その株式はすなわち政府役人が私人の身分で握っているのだ[53]。

 四川省自貢市政府も土地収用において似たような役割を演じている。1993年、自貢市政府は3万人もの農民の15,000ムーの畑地を収用した。政府は収用した土地を譲渡して50億元を得たが、農民への補償は極めて低かった。18歳から40歳の農民には一時金で8千元、40歳以上の農民には生活費として年金で月54元、取壊した住宅については平米150元、すべてを合わせても政府が得た土地譲渡金の2%ほどにしかならない。失地農民はこればかりの補償金では生活も、住宅の建て替えもできない。現地の農民は土地を失って困窮したが、自貢市政府の権力集団は土地開発を通じて暴利を得た。たとえば、自貢市の元共産党委員会書記劉佑林の弟、市郊外の農民劉偉林はこの土地収用を通じて一挙に1億元以上の財産を得た[54]。

 東南沿海各省では、一部の地方政府は、開放の風潮が先に来たので、早いうちから土地資源の希少性に目をつけ、直接行政権力を使って土地をまず貯め込んだ。広東省仏山市南海区政府がその例である。早くも1992年には、仏山市南海区政府は区内の三山港の1万ムー以上の農地を含むおおむね12平方キロの土地をあらかじめ収用し所有権を南海区国土管理部門に帰属させた。2005年、現地の農民が当時の土地譲渡契約の条文に違法があることを発見し、省政府の関係部門に訴えたが、取り合ってもらえなかった。現地政府の強制収用に抗議するために、2005年3月から南海区三山港の村民は困難な権利擁護活動を始め、何回も政府に弾圧された。7月2日の午後、2千名余りの村民が三山鎮派出所を取り囲み、当局に捕まえた村民と事件の調査をしていた研究者を釈放するよう要求した。結果、当局は600名の警官と30台余りの警察車両を動員して抗議者を追い散らした[55]。

 河北省の「定州事件」を起した役人は処罰されたが、それは非常に珍しいことである。なぜなら、この事件は外国メディアで報道され、国際世論の圧力があったから、中国政府は定州市共産党委員会書記和風の刑事責任を追及したのだ。しかし、大多数の農民の強制収用反対闘争においては、処罰されるのは普通農民であって役人ではない。2005年に広東省の地方政府が太石村の権利擁護闘争を弾圧したときは、番禺区当局は武装警察を出動させただけでなく、ヤクザを使って村民を支持していた郭飛雄を拉致し、14日後になってやっと家族に連絡が取れた。その間、地方政府は現地に入って真相を調査していた弁護士と支援者を「身分不詳の暴徒」として、警察とヤクザを使って妨害し逮捕した。たとえば、2005年9月26日午後、太石村権利擁護闘争に参加していた中山大学教授の艾暁明と弁護士の唐荊陵、郭艶が太石村で証拠収集をしていたところ、「身分不詳の人物」の妨害と包囲攻撃にあった。この妨害者たちのやりかたはほとんどごろつきで、例えば艾たち3人に対し汚水を撒き、罵倒し、小突いた。艾暁明らは3回警察を呼んだが、しかもその場所は現地の派出所の前であり、当直の警官や警察車両が警備していたにもかかわらず、警察は故意に取り合わなかった。彼らが電話で警察を呼んだ時、受話器を取った警官は、艾暁明拉がいつ現場を離れるのかだけを知りたがり、何度も詰問した。郭艶がバイクに乗って包囲を破ってタクシーを捜しに行きにぎやかな太石工業開発区を通った時、数台のバイクに取り囲まれ、「身分不詳」の追跡者は木の棒で彼女を殴って道路に倒し、交通事故をおこさせようとした[56]。

[番号]に示された出典については原文参照。
原載:
http://www.chinayj.net/
StubArticle.asp?issue=060302&total=94