思いつくまま

みどりごを殺す「正義」はありや?
パレスチナ占領に反対します--住民を犠牲にして強盗の安全を守る道理がどこにあろう

大掃除

2006-12-29 17:16:04 | Weblog
今日は、1年間にたまった語彙(ごみ?)を総合辞書にまとめたエクセルファイルをこのブログにコピーした。年末の大掃除が完了した気分。
sinpenzakkiという1語と探したい日本語または中国語を入れればグーグルからでも探せるはずだが結果はいかに?

転載:広河隆一報告会「2007年・パレスチナ・日本」

2006-12-29 17:05:53 | Weblog

1967年に広河隆一さんがパレスチナ取材を始めてから40年目を迎える2007年。
 最新現地映像と、制作進行中の記録映画「1948年・パレスチナ難民の発生(仮)」のプレビューを見ながら、パレスチナと日本を取り巻くこの危機の時代に私たちは何をすべきか、考えたいと思います。

日時:2007年1月20日(土)開場・午後6時15分 開演・6時半
場所:東京ウイメンズプラザ・ホール(地下鉄表参道駅4分。渋谷駅12分 国連大学横)
入場料:800円
250名先着順。(予約の方優先)ご予約はファックス、またはメールでお名前、連絡先人数をお知らせください。
予約先
『1コマ』サポーター事務局  YIU27625@nifty.com FAX:045-894-0763
広河事務所 hiropress@daysjapan.net FAX:03-6807-9890
主 催:広河隆一パレスチナ記録映画制作委員会(supported by『1コマ』運動)
協 力:DAYS JAPAN

途中で禁止されたアンケート:生まれ変わっても中国人?

2006-12-27 21:23:56 | Weblog

多数网友不愿来生再做中国人

flther BY - 2006-9-16 13:42:00

9月4日,网易文化发布了一项调查:如果有来生,你愿不愿意再做中国人?多数的选票表示“来生不愿再做中国人”。调查共给出了十个选项,“不愿意”和“愿意”各五个。
以下是截至9月15日6点的投票结果:

共有 11271 人参加了投票
不愿意,因为做一个中国人缺乏人的尊严 39.1% 4402票
不愿意,因为在中国买不起房子,幸福离我很遥远 17.1% 1924票
不愿意,在中国看不到好的动画片 0.4% 42票
不愿意,在中国不能恶搞 0.7% 83票
不愿意,没有理由 7.8% 876票
愿意,我要做龙的传人 6.2% 695票
愿意,因为中国经济发展很快,前景看好 1.6% 180票
愿意,因为中国悠久的历史和博大的文化给我自豪感 6.6% 744票
愿意,因为我现在过得很幸福,相信来生也会这样 2.7% 299票
愿意,因为我爱我的祖国,没有别的原因 18% 2026票
投票起止时间:09月04日-10月11日

原載:
http://blog.bioon.com/user1/
9962/archives/2006/97947.shtml

経済気象台:教育再生会議への違和感

2006-12-23 23:48:38 | Weblog

 安部首相の肝いりで創設された教育再生会議が、教員の質向上やいじめ対策を中心に、1月に中間報告を出すそうだ。

 再生会議のこれまでの議論に、筆者は違和感を抱き続けてきた。それは問題が生じた責任を、教師や生徒など個人に帰する傾向が強く見られるからだ。企業において、ある事業や組織が期待した成果を上げられなかった時は、そのトップや担当者の能力と共に、人員、予算、権限、資本装備などインフラが十分整備されていたのかが問われる。航空機の運行や巨大プラントの操業においても、ヒューマンエラーを未然に防ぐシステム上の対策が重視される。

 そのような目で、教育現場を改めて見てみる。能力や信頼に欠ける教員がいることは否定しない。しかし、それ以上に、深刻化するいじめや不安を増大させている生徒、学校における規律の乱れ、学力の低下、保護者の期待に対し、十分な対応が可能なだけの教員、スタッフ、設備、権限が学校に与えられていなかったという問題があると感じるのは筆者だけか。

 財政制約の下で、教師の数は削減され、平均年齢も上昇してきた、カウンセラーもまだ少なすぎる。一方で、進学から生徒指導まで、保護者など周囲の要求はエスカレートし続けている。そのような中で、有能で高い志をもつ教師こそが体力と神経をすり減らし悩んでいる。病気休職中の教員数が過去最高を更新し続けているのは、その現れであろう。

 それなのに、再生会議は教員個人の責任だけを問おうとしているように見える。効率化をはかり保護者など外部の評価を意識することは重要だが、それは教員に対するいじめに容易に転化する。その前に、教育インフラが十分だったのかどうか、さらに言えば、日本の将来を考えるとき、政策の優先順位付けが間違っていないのかどうか、改めて考える必要があるのではないか。(山人)

2006年12月23日朝日新聞朝刊より


Hao Yanrong:中国農村行政組織体制の欠陥(2)

2006-12-23 10:50:43 | 中国異論派選訳
3、中国農村の活路は国の農村に対する管理方式を改めることにある

 世界的に見ると、農村の社会発展と近代化の主な道筋は2つある。一つめは、農村コミュニティに新たな経済関係と経済力が出現し、この力の発展が農村全体の近代化を後押しする。二つめは、国家がまず都市において工業化を完了させ、その後農村に投資を振り向けるか農村人口を都市に吸収する。しかし、中国の場合、この二つの道はどちらも実行しがたい。まず、中国は後発の発展途上国として、近代化は文化と政治の問題として輸入されたものであり、社会基層には近代化の動力が欠けている。つぎに、農村の地域は広く、人口が多いので、都市や国家の力だけでは農村を発展させることは難しい。中国農村の発展の困難は今日に始まったことではない。近代(中国共産党の欽定史学では1840年のアヘン戦争から1919年の五四運動までを近代とする)以降、中国農村は一貫して「危機――緩和、再危機――再緩和」というサイクルのプロセスであった。1930年代、学術界では「中国農村の活路はどこにあるのか」というテーマで論争が展開され、それを通じて鄭庄秋を代表とする「農業工業化」と呉景超、陳序経を代表とする「都市工業化」の二つのプランが提起された。しかし、どちらのプランも、当時の条件のもとでは実質的な意義を持ち得なかった。
 中国の現実から見ると、農村の状況は3種類のモデルに概括できる。第一モデルは、広東省珠江デルタ地域を代表とし、改革開放以降、大量に外資が流入し、工場を建設し、迅速な工業化を実現した。第二モデルは、江蘇省、浙江省を代表とするモデルで、改革後も農村のもともとの集団経済が残り、「村組織」の政治的機能が退化してからも、地域の経済実体(郷鎮企業)の代表となり、農村集団経済の発展を通じて、地域が工業化の道に乗った。第三モデルはもっとも普遍的なものであり、改革後集団経済が解体し、「村組織」の機能が弱体化し、一般農民は再び小規模経営農家となり、数ムーのわずかな耕地を耕すか、あちこちに出稼ぎに行くか、家に閉じこもっている。近代的大工業・大経済組織の前では、彼らはほとんど発展のチャンスがない。中国の広範な農村のこのような普遍的状況は、個人の努力だけでは、小規模自作農が近代化の道に乗ることは、非常に長く困難なプロセスだということを示している。
 農村社会経済の発展をどのように推進するか、現在の中国学術界には主に2種類の見方がある。最初の観点は、現在の農村経済発展の阻害要因は改革の不徹底にあるとする。政府は多くの計画経済時代の権力を握ったままであり、農民の経営活動に干渉を続け、権力を濫用して農民の収入を浪費し続けているというのである。よって、農村発展の活路はさらに農村体制の改革を進め、政府の農村社会活動に対する統制を減らすことである。第二の観点は、後発近代化国家の発展は政府の計画と指導なしにはできないとする。この観点に立つ学者が引用するのがアメリカの政治学者ハンティントンの理論である。つまり、近代化過程にある超大型社会の農村の発展は、政府の農村における改革と組織発展の能力に依存するとする。この一派の学者は中国の農村社会活動における各種の無秩序状態を、農村の発展は郷鎮政府の権力と機能の拡大から着手すべきであり、現在の国家の農村権力は郷までであるから、次に「村組織」も国家行政権力組織に組み込むことにより、国家の農村に対する管理と支配を強化すべきであるとする。理論的に言えば、どちらの観点にも根拠はある。しかし、現実には、どちらの主張も実施されたら、新たな問題を引き起こす。
 1949年以降の経験によれば、農村コミュニティの発展と農村基層組織の構造と性質は密接な関係がある。その基層組織とは過去の村級組織、今日では郷鎮級組織である。現在国家が農村に設置している郷鎮級の組織は3つに分けることができる。一つめは、専業的な経済実態、たとえば信用社・電力などの部門と公司である。二つめは、県に所属する各部門の農村における派出機構、たとえば工商・税務・司法・土地管理などの部門である。三つめは郷鎮政府である。これらの機構のうち、郷鎮政府の機能がもっとも整っており、権力ももっとも大きい。共産党委員会・政府・人民代表大会・規律検査委員会・共産主義青年団・婦女連合会などの機構や社会団体がそろっており、政治・経済・文化・教育などの機能すべてを含んでいる。農民がこれほど膨大な組織を扶養しているのであるから、農村発展の課題も郷鎮政府が担うべきである。しかし、事実が証明するところでは、現在の郷鎮政府は主に行政管理に名を借りて、農村から各種資源を取り立て、官僚機構の幹部職員の需要を満たすのみで、農村発展という根本的な問題については積極的な役割を果たしてこなかった。
 マックス・ヴェーバーの官僚体制に関する分析によると、すべての官僚化された組織は、組織であれ個人であれ、みな形式主義と上級への服従を原則とし、いかなる社会の組織・計画・激励・動員能力も持たない。それは組織メンバーの事業心と原動力に反対し抑圧する。社会と経済の発展には経済的成功のために奮闘する精神が必要なのだが、これは正に官僚組織が持ち合わせていないものである。膨大かつ権力に制限のない官僚組織の存在は、必然的に農村社会経済発展の活力を抑圧することになる。
 南村郷の農民と「村組織」および「村組織」と郷政府との関係の分析を通じて、現在の中国の郷鎮レベルの組織には2つの特徴があることが見て取れる。第1に、郷鎮幹部個人の角度からであれ、郷政府組織の角度からであれ、郷鎮レベルの機構は農村の発展の成否にいかなる責任も負わない。土地請負以降、経済発展の責任はすでに孤立した小規模自営農に移った。郷鎮政府は農村コミュニティの発展を計画する必要はないし、郷鎮政府の権限は主に管理・費用徴収・罰金の徴収などである。第2に、権力の集中と効果的な監督メカニズムの欠如と、それに加えて農民の教育が低く、砂のような状態にある(団結しない)ことにより、郷政府があたかも正当であり合法的であるようなふりをして、郷鎮組織と幹部個人の増収を図り、農民の負担を重くすることをとどめることができない。無責任化と権限濫用のほかに、郷鎮政府と県所属の各部門の派出機構、そのような機構は合計すると30余りに上るが、それぞれが小さな利益集団を形成している。各部門がそれぞれの権限と利益を争い、責任をなすりつけ合い、かつ、自らの権力を利用して農民を食い物にし、農民の利益を侵奪する。中国農村はかつて高度に発達した農業文明を育んだ東方文化の沃土であるが、ここ十年余りの各行政勢力の非常な搾取の下で、正に枯れあがった川床になろうとしている。そして未来の発展の重圧を担う力もなく、農民が自らの家族の生存と再生産を維持することさえも非常に困難になっている。
 農村基層組織のこの性質により、中国農村の発展は二重の困難に直面している。第一の困難は郷鎮共産党政府システムの中にある。この困難は2つの意味がある。その一、国家が大量の農村に関する政策と行政目標を郷鎮政府に担わせ、いわゆる「上には千本の糸、下には一本の針」状態になっている。郷鎮政府は上級政府が下ろしてくる各種の任務の対応に忙殺されている。その二、郷鎮政府は国家行政装置の一部として、現在の政治メカニズムの下での郷鎮幹部の主な目標は昇進である。そして大多数の郷鎮幹部の能力は低いので、農村社会発展の重責を担う能力はない。たとえ少数の能力ある者がいたとしても、体制の強い束縛を受け、能力を発揮できない。第二の困難は農村自体にある。その一、もし政府の組織・計画・支援がなく、小規模自営農の努力だけであれば、現有の観念と経済レベルのもとでは、農民の発展の前途は限られている。その二、もしも政府の権力と機能を拡大すれば、現在の体制のもとでは、それは政府の官僚的行為の追求と業務外の利益追求に走るであろう。「にんにく郷」や「タバコ郷」、「キュウリ郷」などにみられるように、それは結局より大きな経済的社会的災難をもたらすに過ぎない。
 南村郷調査が明らかにした中国農村発展が直面する困難から見て筆者が思うに、現在の農村の発展のカギは、国家の農村に対する管理の強化か国家の農村に対する規制の緩和かではなく、国家権力がいかなる体制と方式をもって農村を管理するかである。現在の農村発展が直面する問題を克服するには、体制と管理方式の二つの面から農村権力中心である郷鎮政府機構を改革しなければならない。行政官僚が農村を押さえつけるという現状を農村コミュニティ内のエリートが農村を自主管理するように変えなければならない。このような改革を通じてのみ、農村の未来の経済と社会の発展に新たなチャンスを提供できるであろう。

Hao Yanrong:中国農村行政組織体制の欠陥(1)

2006-12-23 10:48:42 | 中国異論派選訳
中国農村行政管理体制の欠陥
南村調査を通じた中国の郷・村基層組織の現状分析
(『当代中国研究』2006年第1期、通巻92期)
郝晏栄(ハオ・イエンロン)
河北省社会科学院哲学研究所

訳注:この雑誌に発表されたのは今年であるが、書かれた時期は90年代と思われる。
原文:
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/
e/58a6c9ef3fd5d38b5b3c2859fa87ee2b

1、南村基層組織と村民との間の関係
2、「村組織」と郷政府との関係
3、中国農村の活路は国の農村に対する管理方式を改めることにある

 中国農村改革はすでに20年にわたる。80年代の改革初期、中国農村経済は一時大きく発展した。しかし、今日では農村の貧窮と発展の遅れが、再び全社会が注目する問題になっている。農村経済と社会の発展を推進し、農村の負担を減少させるには、まず中国農村がどのような問題に直面しているのかを知らなくてはならない。本文は河北南部のある郷(仮称「南村郷」)に属する二つの村の基層組織の解析を通じて、村民自治組織が農村の発展においてどのような役割を果たしているのかを、また郷鎮政府の行政モデルにはいかなる弊害があるのかを分析することを通じて、中国農村の直面する二重の困難とこの困難から脱するためになすべき郷鎮政府改革を指摘する。

1、南村基層組織と村民との間の関係

 南村郷一分村は人口1860人で、現在の村基層組織(以下「村組織」)は1994年上級政府が定めたもので、村共産党支部書記、村民委員会主任(村長)、共産党支部委員11人で構成される。村支部書記の秦礼的は「村組織」ですでに20年以上仕事をしている。三分村の人口は1400人余り、現在の支部書記郝喜軍は十代のころから農業に従事し、生産隊長や生産大隊民兵中隊長を経て、今では三分村の第三世代基層組織の責任者である。

(1)「村組織」の日常業務と村民の評価
 一つの「村組織」の日常業務は大きく二つに分類できる。一つは村民が出してくる問題の処理、もう一つは上級政府の与えた任務をこなすことである。しかし、村民委員会の成績について、村民と「村組織」の評価は全く異なる。たとえば、「村基層組織は村民のためにどんな問題を解決しているか」という質問について、大部分の村民は調査者に、村幹部はしょっちゅう村民の家を訪問するが、その目的は金の要求か無償労役の要求かであると述べている。しかし、村幹部自身は、村民のために多くのことをやっていると思っている。たとえば、現役軍人家族や戦死者家族の状況報告をして救済金を受取る。困窮過程の状況を報告して、救済金を受け取る。さらには、災害報告、相隣紛争の調停、住宅建築用地の配分などなど。多くの場合、村民が村幹部に持ち込む相談は公務ではない。例えば、ある家で夫が出稼ぎに出て何年も帰ってこないので、妻が再婚を望んだとき、村支部書記は夫の親族に頼まれて、探しに行ったり、尋ね人広告を出したりした。また、ある村民のバイクが村外で没収されたら、村支部書記に取り戻してもらうよう頼みに来る。ときには「村組織」も村民の委託により村内の公務を行う。たとえば、1999年村で湛水被害が出たとき、村民は集団で村支部書記の家に来て、税の減免のために、上級政府に災害報告をするよう求めた。また、村内の高圧電線が数百メートルにわたって盗まれたときも、村民は村支部書記に、県の公安局(警察署)に訴えて盗まれた電線を取り戻すよう求めた。
 これら委託を受けたり、義務を履行したりする以外にも、「村組織」は一部の公共資源を握っている。我々が調査過程で目にしたのは主に住宅用地分配の権力である。法律規定上、住宅用地分配の権力は上級の土地管理部門にあるが、県と郷の土地管理部門の農村土地資源に対する理解は観念的な数字のレベルにとどまり、村の土地について具体的に計画管理する能力はない。そこで、農村の住宅建設用地配分の権力は実際には村民委員会に委ねられる。この権力の移譲はかつて「村組織」に多くの儲けの機会を与えた、しかし、県・郷土地管理部門の権力が農村基層にまで及んでくるに伴って、このような儲けの機会は少なくなった。

(2)郷政府の農民に対する費用労役徴収と「管理」
 実際には、郷政府やそれより上の各級政府部門が要求する費用労役の村民からの徴収こそが「村組織」の主な業務である。土地請負制の実施により、農民と国家の関係は変化し、それが郷政府の権力をある程度制限することとなった。そこで、郷政府は別の面から権力の「損失」を埋めようとし、その一つが「村組織」に対する管理と統制の強化である。
 筆者は調査中に「村組織」が郷政府の指示する多くの「任務」を担っているということを発見した。たとえば、毎年第1四半期には以下の「任務」が「村組織」に下される。第一項、「事実婚」と「早婚」の調査。郷政府は各村の人口総数に基づき、比率により員数を分配し、「村組織」は必ず員数分の事実婚と早婚人数を探し出し、郷政府に十分な罰金を納めなければならない。第二項、計画出産の四半期全数調査。各村は一定数の人口流産手術をしなければならない。たとえば、三分村には1400人いるので、比率に基づき8人の員数が配分される。員数に一人欠けるごとに、郷政府は「村組織」に2500元の罰金を科す。第三項、人頭税の徴収。本来徴税は税務部門の権限であるが、郷政府は徴収すべき税が十分に徴収できていないと考え、そこで、一人当り12元のノルマで各村に対して追加「徴税」する。この郷政府が勝手に決めた徴税を村民は「人頭税」と呼んでいる。「村組織」も郷政府も合法的な徴税証明書を発行できないために、この費用徴収は村民の抵抗に遇っている。そこで、最後には「村組織」は信用社から金を借りてこの「人頭税」を納めざるをえない。第四項は、「ゆとりある村(原語「小康村」英訳はwell-off village)検査」で、検査基準は15項目にも達し、どの項目も具体的な数字の基準がある。例えば一人当り収入が1300元以上の家が村民総戸数の80%以上、一人当り集団経済収入(村財政収入)1000元、学齢人口小学校入学率99%以上・在学率(中退しない率)99%以上・卒業率97%以上、「村文化建設」基準による村図書室は1000冊以上の蔵書、毎年5種類以上の新聞雑誌を定期購読し、3箇所の運動施設、3種類以上の運動設備、他にも住宅・用水・電気・道路・緑化・診療所および「村組織」整備、計画出産などの必須達成目標がある。

(3)農民が負担する各種の税金・負担金
 筆者が調査した一分村と三分村はいずれもすでに「ゆとりある村」になっているが、すべての指標を達成しているわけではない。実のところ、郷政府のいわゆる「指標達成」はまじめに行われてはおらず、一番の関心は「村組織」がどれだけの税・負担金を上納するかである。第1四半期の任務が終わる前から、第2四半期の「夏季買上金留保」工作が始まる。郷政府は上級政府が割り当てた任務を各村に割り振る。各村はそれに基づき、計画表を作り、任務を各戸に割り振る。一分村で私が見た前年の夏季買上金留保表の中の、趙常華という名の村民(請負耕地2.1ムー)の納めるべき夏季買上金留保は次のようなものだった。
 「村留保金」合計97元(内訳は、公共積立金42.2元、福祉資金18.3元、管理費36.5元)。「郷徴収金」合計169.9元(内訳は、教育費54.8元、産児制限費8.2元、軍人優待慰問費11.9元、民兵訓練費11.9元、道路修理費8.2元、衛生費4.6元、税金70.3元)。その総計は266.9元だった。
 夏季は農民が各種費用を納める主な季節である。一分村は1800人余りいるが、県と郷政府に上納する「夏季買上金留保」は以下のとおりである。公共積立金(使用目的は圃場灌漑・植樹造林・生産用固定資産購入・集団経営企業設立資金と定められている。農民承担費用和労務管理条例より。以下同)25,296元、福祉資金(使用目的は五保戸扶養・困窮家庭補助・合作医療保健およびそのた集団福利事業)12,648元、管理費(使用目的は村幹部報酬と管理支出)25,296元、無償労働分現金払い(無償労働の割当があり、それに参加しない場合現金を納めなければならない)3,720元、積立労働分現金払い(無償労働と同様)5,580元、教育費(小中学校の教育費。農村部の基礎教育費は国・省・県は負担しない。)39,774元、産児制限費5,692元、軍人優待慰問費8,220元、民兵訓練費2,530元、道路整備費5,672元、衛生費3,162元、小計126,480元、税金48,150元。「村組織」がこれをまとめた冊子を食糧供出所に持っていくと供出所は、各項目の徴収金を農民が売った穀物の費用(買上金)から差し引く(留保する)。

(4)「村組織」の農村コミュニティにおける作用
 調査結果からみると、「村組織」の民衆統制能力はどんどん弱くなっており、農村の公的生活における影響はますます小さくなっている。たとえば、「村組織」は井戸掘り、整地、生産計画などの経済事務を管理しなくなっている。また村民の慶弔行事、家の建替えに関与しなくなっている。「村組織」が農村の公的生活から退出した後は、その空白の一部は村民の自発的行為によって埋められている。たとえば、土地請負が始まったときは、分割された土地は細かく散らばっており、一家の請け負った土地は3~5ムーに過ぎないのに、7~8箇所にも分割されており、耕作に不便だった。そこで、村民たちは私的な交換を通じて、小さな土地を大きくまとめ、耕作の便宜を図った。他にも、井戸掘り、電線架設、耕作方式の改良など、いずれも民間の自発的な行為であり、基本的に「村組織」の関与はない。農民は文化活動の面ではより多くの自主性があり、宗族と家族活動の再活発化はその一例である。
 南村は郝氏が中心で、以前はここに大きな郝氏の祖廟があったが、文化大革命のときに壊されてしまった。数年前、村民たちが県の宗教局の許可を受けて、資金を集めて祖廟を再建した。廟に祭られているのは郝氏の初めに山西省洪洞県から移民してきた祖先である。毎年旧暦の正月15日と7月15日、廟の前で祖先の祭礼が行われる。しかし、黄宗智が『華北農民の経済と社会の変遷(華北的小農経済和社会変遷、2000年中華書局)』に書いているように、南方の農村と比べると北方農村の宗族観念は比較的淡白である。南村では、一部の宗教儀式と活動が復活したとはいえ、族長・族規はなく、また宗族の財産もない。宗族行為は完全に自発的なものであり、その活動も一種の儀式にすぎない。村民の帰属意識を満足させる以外の社会的機能はもたない。
 現在の南村の村民活動の中で、「村組織」の影はほとんど見られないし、宗族の影もほとんど見られない。生産計画、企業設立、建物の新築、冠婚葬祭などの活動において、隣近所・友人・家族・親戚の役割はほとんど同じ程度の重要さをもつ。そこからも、孤立分散し、有機的連携が欠けるという北方農民社会の基本的特徴が見て取れる。この特徴は国家権力が農村に浸透する有利な条件であり、国家権力の農村に対する支配が弱まっても、その権力の空白を埋める別の勢力が出てくるわけではない。

2、「村組織」と郷政府の関係

 農村改革は「村組織」と村民の関係のほかに、もうひとつの重要な内容として「村組織」と上級政府との関係の調整をもたらす。

(1)「村組織」機能の弱体化、郷政府権力の膨張
 筆者は調査を通じて「村組織」の社会統制機能の衰弱と共に、郷政府の組織と権力が大幅に膨張したことを発見した。改革以前の人民公社機関は通常10数人の常勤職員であったが、現在、南村郷の共産党委員会と郷政府の常勤職員は100人あまりになっている。共産党委員会、郷政府、郷人民代表大会、共産党規律検査委員会、共産主義青年団委員会、派出所、裁判所、銀行、土地管理部門、租税徴収部門、産児制限部門などの部門があり、いずれも県政府の組織にならって設置されている。この他にも農村管理のいくつかの特別な部門がある。「村組織」の大部分の業務は郷政府の要求に従わざるをえない。
 南村郷政府は20余りの行政村を管理する。機能から見れば、このように多様な機能のそろった郷政府は、完全に独立して農村コミュニティ管理の任務を担えるはずであり、村レベルの行政組織を必要としないはずである。では、なぜ郷政府の下にさらに「村組織」を設立したのか? これは完全に郷政府側の必要からである。郷政府の下に「村組織」を設立することで、郷政府の権力を増やせるだけでなく、郷政府の事務と責任を軽減することもできるからだ。
 「村組織」の自治を行うようになってから、郷政府と「村組織」との関係は一体どのようなものなのか? 調査を通じて明らかになったところでは、南村郷の「村組織」は名目は村民自治だが、その支配権は村民の手にはなく、上級政府が握っている。「村組織」が把握する資源はわずかであり、その権力基盤も薄弱であるから、上級政府の支援に頼らざるをえない。もちろん、このような依存は郷と村の双方の組織の共同の需要に基づく。郷政府は「村組織」が郷政府に経済上の支援(費用と労働徴収の代行)を提供することを必要とし、「村組織」は郷政府の権力の後ろ盾を必要とする。「村組織」の人事任免権は、村民選挙によるものもあれば、郷政府の任命によるものもある。いずれの場合も、「村組織」はほとんどの場合郷政府の指導に従わなければならない。三分村の村主任の話によれば、郷政府はいつでも彼らを「指図する」ことができる。会議を開かせ、任務を割り振り、賞罰を加えることができる。規定によれば、村が徴収する留保金(公共積立金・福祉資金・管理費)は、いずれも「村組織」の専用経費である。しかし、南村郷では郷徴収金だけでなく村留保金もすべて郷政府に納めなければ成らない。そのあとで、郷政府が状況に基づき「村組織」に留保金の一部を返還するのである。
 「村組織」に対する支配を強めるために、南村郷政府はすべての行政村に1名の郷幹部を配置し、長期間村に住まわせ、各村の基本動向を監視している。調査期間中、たびたび「村組織」幹部から、郷政府の締め付けがきつすぎて、村の業務がやりにくいという嘆きを聞いた。筆者が彼らに、村の状況に基づき、郷政府のやり方に異議を申し立てられないのか?と聞いたところ、「そんなことできるわけがない」と一分村の村主任は言った。「郷政府はおれたちの言うことなんか全く聞かない。それどころか、意見をしたら党規則、政府規則で処分されるのが落ちだ」。より重要なのは、もしも「村組織」が郷政府の「指図」に従わないとか郷政府が与えた任務を達成できなければ、郷政府は直ちに「村組織」責任者の首をすげ替えるということだ。

(2)「村組織」の支配力衰弱
 全体的に見ると、「村組織」は農民にたいしては人民公社時代のような生産大隊幹部の社員に対する強制命令式の任務割り振りを行うことは不可能である。しかしまた、郷政府が「村組織」を管理するやり方で業務を行うこともできない。「村組織」は国家権力を行使するのであり、配置の上では上級政府が割り振った任務ではあるが、「村組織」は国家権力の化身ではなく、国家権力の基層における「代理人」の役割を演じているにすぎない。その身分は多重的である。国家権力を行使するときは、それは国家権力の代理人である。それが村民サービスを行うときは、村民の代理人である。村民が彼らの手配に従わないときは、一般的には、彼らは県あるいは郷の力を動員して解決するしかない。さまざまな農民からの資金徴収と無償労働割当が完遂できるのは、主に農民が国家権力に服従するからである。よって、「村組織」は必ず、郷・県両級の政府権力の支持を政治的後ろ盾にしなければならない。指摘しておかねばならないのは、全国的範囲見ると、地域によって「村組織」の権力と支配能力には大きな違いがあるということである。一部の「村組織」は、ほとんど支配能力がない。一部の「村組織」、たとえば河南省の南街村、江蘇省の華西村などは、その権力と支配力は人民公社時代の生産大隊の権力を超えるほどである。そのことから、「村組織」の権力はその組織形態によるのではなく、むしろそれが掌握する経済的資源によることがわかる。一部の「村組織」には、ほとんど集団資産がなく、村留保金さえも郷政府に持っていかれる。「村組織」がいかなる資源も掌握していなければ、村民に対する支配力もなくなる。一部の村では、土地請負が始まってからも、「村組織」が、荒れ山・原野・林木・鉱山など一部の集団資産を掌握している。このような「村組織」は、大きな権威があり、農民を支配することができる。しかし、数から見ると、権威と支配力を持った「村組織」は少ない。
 改革が農村社会と権力構造に重大な変化と影響を与えたことを、学術界は未だ十分に理解し重視していないことは明らかである。たとえば、すでに「村組織」は実際的な政治的意義を持っていないにもかかわらず、多くの人がいまでも熱心に「村組織」の民主選挙と民主的意思決定の重要性について議論している。郷鎮政府がすでに農村コミュニティの大部分の権力を抑えているにもかかわらず、研究者は郷鎮政府の役割と権能についてはほとんど注意を払っていない。南村郷の現状の中国農村における普遍的意義に基づき、以下に農村の社会経済発展が直面する新たな問題について検討する。

陪我看日出(涙(なだ)そうそう)

2006-12-22 23:07:43 | 漢語の歌
陪我看日出
专辑:鲍比达与陈洁丽
陪我看日出
词:梁文福 曲:begin
编曲:鲍比达
专辑:《鲍比达与陈洁丽》
歌手:陈洁丽
歌词制作:日出东方
雨的气息是回家的小路
路上有我追着你的脚步
脚下边保存着昨天的温度
你抱着我就像温暖的大树
雨下了走好路 这句话我记住
风再大吹不走祝福
雨过了就有路 像那年看日出
你牵着我穿过了雾
叫我看希望就在夜的尽处
哭过的眼看岁月更清楚
想一个人闪着泪光是一种幸福
又回到我离开家的小路
你送着我 满天燕子都在飞舞

最愛

2006-12-22 22:48:44 | 漢語の歌
最 爱
词:李克勤 曲:miyuki nakajima
编曲:鲍比达
专辑:《鲍比达与陈洁丽》
歌手:陈洁丽
歌词制作:日出东方
天空一片蔚蓝 清风添上了浪漫
心里那份柔情蜜意似海无限
在那遥远有意无意遇上
共你初次邂逅谁没有遐想
诗一般的落霞 酒一般的夕阳
似是月老给你我留印象
斜阳离去朗月已换上
没法掩盖这份情欲盖弭彰
这一刹 情一缕 影一对 人一双
那怕热炽爱一场
潮汐退和涨 月冷风和霜
夜雨的狂想 野花的微香
伴我星夜里幻想
方知不用太紧张
没法隐藏这份爱
是我深情深似海
一生一世难分开 难改变也难再
让你的爱满心内
让我的爱全给你 全给我最爱
地老天荒仍未改

王碩:葡桃-非理性的思考を煽動するシニシスト

2006-12-22 11:35:35 | Weblog

下記の文章は、中国で2005年に発表されて流行した種族主義的な反日ラップ《日本你听着を歌った葡桃に対する批判。この曲は、インターネット上の音楽サイトで数週間トップを続けたという。

王硕:葡桃 一个煽动非理性思维的犬儒主义分子
   2006年01月05日

曾经一度在“玩乐吧”凭借《日本你听着》拿了好几周冠军的葡桃终于把自己的专辑给弄出来了。在这之前,我和“玩乐吧”的相关工作人员谈论这个现象时,觉得他的歌在彩信领域大有市场,但要想出专辑的话,估计没戏,因为文化审查制度的严格不是一天两天了。然而现在这张专辑竟然成功上市,为此我由衷的高兴,高兴的不是这张Cynical的专辑,而是文化部的人终于有了七情六欲。

  这是我今年听到的为数不多的几张比较让人恶心的唱片,除了田震的《38度5》之外,可能就是这张《Unhip-Hop》了。自从有了以DJ Krush和DJ Cam为代表的抽象主义Hip-Hop,传统的Hip-Hop在音乐上就没什么新意了,只能用中国快板一样的歌词来讨好听众。葡桃的这张专辑尤为明显,《大连站》、《留学垃圾》还有《日本你听着》都是属于这个类型,然而他选择的歌词内容不是积极健康,而是一种玩世不恭的方式,很容易让一些缺乏独立思考能力的人产生莫名其妙的冲动。

  冲动是魔鬼,这句话已经家喻户晓,但谁知道世界上最喜欢冲动的是什么人?不是游走于巴勒斯坦和以色列之间的人体炸弹,而是歌迷。歌迷在我看来一直是个最特殊的群体,虽然他们叫歌迷,但他们迷恋的并不是那些歌曲,而是唱歌的那个人,并且这种迷恋的程度不仅局限于报摊上拿他们照片做封面的杂志和小卖部里出售的由他们代言的方便面,有时候甚至要奉献出自己的生命。

  那时候Nirvana主唱Kurt Cobain一自杀,几年间有60多个男女青年也跟着相继自杀,在这些人的遗书里基本上都有这么一句话,“Kurt Cobain都死了,我活着还有什么意义呢”。如果你是一个放高利贷的,还能理解。因为你把全部的钱都放给了Kurt Cobain,结果他死了,你一分钱拿不到,从一个有点儿钱的小混混变成了身无分文的穷光蛋,那么这样的人自杀虽然也是一种脆弱的表现,但是脆弱的可以理解。然而那些和Kurt Cobain八杆子打不着的歌迷的脆弱又从何而来呢!他们和Kurt Cobain唯一的关系可能就是在几万人的草地上看了一场Nirvana的演出。

  那些为偶像献身的孩子死之后,人们对她的评论基本上都是“丫真傻”,但是在和他们家人谈论这个孩子的时候,肯定不会说“丫真傻”,而是说“这孩子一直都是这么单纯”。但单纯往往就是罪魁祸首,尤其在一个将中庸作为最高道标准的国家里,你用与生俱来的单纯去面对这个社会时,只能是处处碰壁。比如你听了葡桃的《大连站》,之后没几天就去了大连,你单纯的认为在大连唱一些和大连相关的歌可能会让大连人觉得亲切,不会像西客站北广场上的流氓骗大连人一样骗自己。于是在火车开进了大连市内的时候就开始哼哼这首歌,虽然歌词可能记不全,但大概意思还是表达出来了。只可惜他太过投入,没顾得上抬头看周围人的表情,没发现这时的他已经被火车上的大连社会盯上了,正谋划着在他下车之后给他臭揍一顿……

  很多偶像在孩子心目中的形象不是用来学习的,而是用来释放的。他们把所谓的偶像当作一个寄托,释放自己过盛的赫尔蒙。因此现在能走红的艺人只有两种,一个是有脸有胸有屁股的性感路线,另一个就是叛逆路线。这两种路线分别对应着赫尔蒙的两种释放途径,前者是性爱幻想,或者是行为冲动。

  我一直提倡理性思考的优越性,不要以你自认为准确的感觉去判断周围发生的一切。但在赫尔蒙面前,一切理性都是那么弱不经风。于是就产生了葡桃这样的犬儒主义者,用谩骂的方式解决自己内心的闷闷不乐。最可恨的是他还把自己骂人的话配上了四分之四拍的Hip-Hop节奏,做成了mp3供人下载,让本来就缺乏独立思考能力的人进一步踏入情绪化的深渊,毋庸置疑的接受了一些犬儒主义的思想,于是就成了另一个满面狰狞的犬儒主义者。

  在我看来,如果想反对一件事,或者是讽刺什么东西,最好的方法就是超越它,而不是坐在咖啡馆里谈论着革命与斗争,任由外面的世界随意变化。就拿《日本你听着》来说吧,其实就是在抵制日货浪潮中涌现出来的一首反日歌曲。这样的作品很容易煽动一批人反日情绪(更准确的说,是强了这批人的自信心)。然而这样的作品在日本人看来就是个笑话,只能让几个心胸狭窄的日本人产生一种叫做愤怒的情绪,并不能对他们的民族工业造成任何威胁。

  抵制日货的结果是什么?就是日本人不要山东的大葱。日本人对大葱的需求量相当高,他们街边的烤肉店里有一道菜就是烤大葱。但当地农产品生产的劳动力成本高,所以大葱的价格贵,于是许多葱贩子就给中国的山东省打了一个电话,和他们签订大葱的买卖合同,用价格相对便宜很多的大葱去赚取更多的差价。但中国这边一反日,弄得日本驻中国大使馆、领事馆很不安生,日本政府也觉得这事儿是无理取闹,但又拿这帮人没辙,于是只能用无理取闹的方式对待无理取闹,提高山东大葱的进口关税,让山东农民种的大葱全都卖不出去。

  在这种情况下,山东许多因为种大葱而负债累累的农民为了还债,只能在无法保证温饱的情况下更加辛勤的劳作,等过了几年,大部分都死于饥饿和劳累。这让不会用理性去思考的人又一次感觉到了愤怒,于是就在那几个农民的坟地附近盖了一个公园,并起名为山东大葱遗址公园,为山东省的旅游业做了一些微薄的供献。除此之外,我想不出更好的结果。

  我不希望这样一张专辑上市,是因为懂得独立思考的人太少了,而不是出于道貌岸然的传统卫道士心态。如今的青年人习惯在盲从之后进行分析,而不是分析之后再进行选择。他们在看一部电影或者听一首歌的时候,经常会全身心的投入其中,而不是把它当成一个娱乐产品用来休闲放松。

  如今的葡桃也一样,刚出了一张专辑,就被一帮稀里糊涂但又甘于媚俗的人赋予了“音乐界的李敖”的称号,并且每次用歌词当中的观点讲述娱乐圈、反日和留学时,还说这是一种十分李敖的观点。但真正的李敖不是这么没出息,当他听说日本政府要用钱封住慰安妇的嘴,让他们否则慰安妇历史时,拿出自己收藏的古董进行义卖,把这些钱给曾经的慰安妇,来替换日本政府的钱,让她们拒绝否认历史的要求。而不是面对这种行为时,在电视上冲着日本政府大喊“我操你妈”。

  要我说真正可以称得上“音乐界李敖”的人只有一个,那就是迟志强,只因为他和李敖一样,都蹲过监狱。

原載:
http://music.ent.tom.com/
1282/1293/200615-65485.html


農民承担費用和労務管理条例(2)

2006-12-20 11:54:23 | Weblog
第四章 其他项目的监督管理

  第二十二条 面向农民的行政事业性收费,其项目设置、标准的制定和调整,须经省、自治区、直辖市以上人民政府财政、物价主管部门会同农民负担监督管理部门批准,重要项目须经国务院或者省、自治区、直辖市人民政府批准。
  第二十三条 向农民集资,必须在法律、法规和国务院有关政策允许的范围内进行,并遵循自愿、适度、出资者受益、资金定向使用的原则。集资项目的设置和范围的确定,须经省、自治区、直辖市以上人民政府计划主管部门会同财政主管部门、农民负担监督管理部门批准,重要项目须经国务院或者省、自治区、直辖市人民政府批准。
  第二十四条 在农村建立各种基金,须经国务院财政主管部门会同农民负担监督管理部门有关主管部门批准,重要项目须经国务院批准。
  第二十五条 向农民发放牌照、证件和簿册,必须依照法律、法规的规定或者经省、自治区、直辖市以上人民政府批准。
  向农民发放牌照、证件和簿册,只准收取工本费。
  第二十六条 向农民发行有价证券、报刊和书籍,应当遵循自愿原则,任何单位不得摊派。
  第二十七条 组织农民参加保险,应当遵守法律、法规的规定。
  第二十八条 严禁非法向农民罚款和没收财物。
  第二十九条 国家机关工作人员在农村执行公务,所需经费不得向农民和集体经济组织摊派。
  第三十条 企业、事业单位为农民和集体经济组织提供经济、技术、劳务、信息等服务,应当遵循自愿原则。收取服务费用,应当按照国家有关规定执行。
  第三十一条 任何行政机关、事业单位在农村设置机构或者配备人员,所需经费不得向农民和集体经济组织摊派。
  第三十二条 任何单位和个人都有权举报违反本条例的行为。农民负担监督管理部门和有关主管部门接到举报,必须及时查处或者提请同级人民政府依法处理。

第五章 奖励与处罚

  第三十三条 有下列事迹之一的单位和个人,可以由人民政府给予表彰或者奖励:
  (一) 严格执行本条例规定,切实减轻农民负担的;
  (二) 在农民负担监督管理工作中,认真履行本条例规定职责,成绩显著
的;
  (三) 检举、揭发向农民乱收费、乱集资、乱罚款和各种摊派行为,有突出贡献的。 
  第三十四条 违反条例规定设置的收费、集资和基金项目,由农民负担监督管理部门或者有关部门报请同级人民政府予以撤销。
  第三十五条 违反本条例规定向农民和集体经济组织收费、集资和进行各种摊派的,由农民负担监督管理部门或者有关部门报请同级人民政府责令如数退还非法收取的款物。
  第三十六条 违反本条例和国务院有关规定加的农村义务工和劳动积累工,经乡农民负担监督管理部门核实,由乡人民政府在下一年度用工计划中扣减,或者由用工单位标准工日给予农民出工补贴。
  第三十七条 对违反本条例规定的单位负责人和直接责任人员,由农民负担监督管理部门提请上述人员所在单位或者有关主管机关给予行政处分。
  第三十八条 对检举、揭发、控告和抵制向农民乱收费、乱集资、乱罚款和进行各种摊派的单位和人员打击报复,属于违反《中华人民共和国行政监督条例》的,由行政监督机关依法处理;属于违反《中华人民共和国治安管理处罚条例》的由公安机关依法处罚;构成犯罪的,由司法机关依法追究刑事责任。

第六章 附 则

  第三十九条 各省、自治区、直辖市可以根据本条例,结合本地的实际情况,制定实施细则。
  第四十条 本条例由国务院农业行政主管部门负责解释,并组织实施。
  第四十一条 本条例自发布之日起施行。

農民承担費用和労務管理条例(1)

2006-12-20 11:50:18 | Weblog
中国の農村はサービスの面では人民公社時代と同様、公的行政サービスの埒外に置かれている。公的行政サービスは都市部に戸籍を有する住民のみが享受しうるのである。そして、農村住民は教育・医療・福祉など必要なサービスは「三提五統」という人民公社時代以来続く、税外税によってまかなわなくてはならない。これは、資源再配分を阻止する都市と農村の間に横たわる鉄のカーテンといえる。しかも、その法的根拠は、法律ではなく標記の国務院令である。つまり、共産党独裁下の中国においては「代表なくして課税なし」という思想のもとに近代諸国家において確立した租税法律主義が存在しない。
80年代に世帯員数で割り振られた請負農地面積を基礎に課され、実質的な人頭税であった農業税が廃止されたとはいえ、中国農村の税外税による過重負担と、共産党政権の行政サービスの責任を果たさず、もっぱら農村住民を搾取の対象とするという基本的枠組は変わっていない。

农民承担费用和劳务管理条例
1991年12月7日 国务院令92号

第一章 总则
第二章 村提留、乡统筹费、劳务的标准和使用范围
第三章 村提留、乡统筹费、劳务的提取和管理
第四章 其他项目的监督管理
第五章 奖励与处罚
第六章 附则

第一章 总 则

  第一条 为了减轻农民负担,保护农民的合法权益,调动农民的生产积极性,促进农村经济持续稳定协调发展,制定本条例。
  第二条 本条例所称农民承担的费用和劳务,是指农民除缴纳税金,完成国家农产品定购任务外,依照法律、法规所承担的村(包括村民小组,下同)提留、乡(包括镇,下同)统筹费、劳务(农村义务工和劳动积累工)以及其他费用。
  向国家缴纳税金,完成国家农产品定购任务,承担前款规定的各项费用和劳务,是农民应尽的义务。除此以外要求农民无偿提供任何财力、物力和劳务的,均为非法行为,农民有权拒绝。
  第三条 国务院农业行政主管部门主管全国农民承担费用和劳务(以下简称农民负担)的监督管理工作。县级以上地方人民政府农业行政主管部门主管本行政区域内的农民负担监督管理工作。
  乡人民政府主管本乡的农民负担监督管理工作,日常工作由乡农村经济经营管理部门负责。
  第四条 各级农民负担监督管理部门负责检查有关农民负担管理的法律、法规和政策的执行情况;会同有关主管部门审核涉及农民负担的文件;协助有关机关处理涉及农民负担的案件;培训农民负担监督管理工作人员。
  第五条 国家鼓励和支持发展农村集体经济,提倡主要依靠集体经营加的收入,兴办农村社会主义物质文明和精神建设事业。

第二章 村提留、乡统筹费、劳务的标准和使用范围

  第六条 农民直接向集体经济组织缴纳的村提留和乡统筹费(不含乡村集体所有制企业缴纳的利润),以乡为单位,以国家统计局批准、农业部制定的农村经济收益分配统计报表和计算方法统计的数字为依据,不得超过上一年农民人均纯收入的5%。对经济发达的地区,经省、自治区、直辖市批准,可以适当提高提取比例。
乡统筹费的最高限额由省、自治区、直辖市确定。
  第七条 村提留包括公积金、公益金和管理费:
  (一) 公积金,用于农田水利基本建设、植树造林、购置生产性固定资产和兴办集体企业。
  (二) 公益金,用于五保户供养、特别困难户补助、合作医疗保健以及其他集体福利事业。
  (三) 管理费,用于村干部报酬和管理开支。
  村干部报酬实行定额补助和误工补贴两种形式。具体定额补助人数、标准和误工补贴办法,由乡人民政府根据村规模、经济发展水平和实际工作需要制定,报县级人民政府农民负担监督管理部门备案。
  第八条 乡统筹费用于安排乡村两级办学、计划生育、抚兵、民兵训练、修建乡村道路等民办公助事业。
  乡统筹费可以用于五保户供养。五保户供养从乡统筹费中列支的,不得在村提留中重复列支。
  第九条 乡统筹费内的乡村两级办学经费(即农村教育事业费附加)用于本乡范围内乡村两级的民办教育事业。
  乡村两级办学经费在乡统筹费内所占比例,由省、自治区、直辖市人民政府教育主管部门提出,经同级农民负担监督管理部门审核,报省、自治区、直辖市人民政府批准,并报国务院农业行政主管部门和教育主管部门备案。
  第十条 农村义务工,主要用于植树造林、防汛、公路建勤、修缮校舍等。
  第十一条 劳动积累工,主要用于农田水利基本建设和植树造林。按标准日计算,每个农村劳动力每年承担10至20个劳动积累工。有条件的地方,经县级以上人民政府批准,可以适当加。劳动积累工应当主要在农闲期间使用。

第三章 村提留、乡统筹费、劳务的提取和管理

  第十二条 村提留和乡统筹费主要按农民从事的产业的经济收入承担。
  承包耕地的农民按其承包的耕地面积或者劳动力向其所属的集体经济组织缴纳村提留和乡统筹费。
  经营个体工商业和私营企业的,应在税后按经营所在地规定的提取比例,缴纳村提留和乡统筹费,但不计算在本条例第六条规定的限额比例之内。
  第十三条 对收入水平在本村平均线以下的革命军属、伤残军人、失去劳动能力的复员退休军人和特别困难户,经村集体经济组织成员大会或者成员代表会议讨论评定,适当减免村提留。
  第十四条 乡人民政府评定的贫困村,经村集体经济组织提出申请,乡农民负担监督管理部门审核、乡人民政府同意,报乡人民代表大会审议通过,可以适当核减乡统筹费。
  第十五条 农村义务工和劳动积累工以出劳为主,本人要求以资代劳的,须经村集体经济组织批准。
  对因病或者伤残不能承担农村义务工、劳动积累工的,经村集体经济组织成员大会或者成员代表会议讨论通过,可以减免。
  第十六条 村提留和乡统筹费,实行全年统算统收制度,由村集体经济组织和乡人民政府组织收取。
  第十七条 村提留,由村集体经济组织每年年底作出当年决算方案并提出下一年度预算方案,经村集体经济组织成员大会或者成员代表会议讨论通过,报乡人民政府备案。讨论通过的预、决算方案,应当张榜公布,接受群众监督。
  村民委员会应当对提留的收取和使用实施监督。
  第十八条 乡统筹费,由乡人民政府商乡集体经济组织每年年底作出当年决算方案并编制下一年度预算方案,经乡人民代表大会审议通过后,连同本乡范围内的村提留预算方案,一并报县级人民政府农民负担监督管理部门备案。讨论通过后的乡统筹费预、决算方案,应当张榜公布,接受群众监督。
  第十九条 乡统筹费属于集体经济组织范围内全体农民所有,主要用于本乡民办公助事业,不得混淆和改变乡统筹费的集体资金性质和用途。
  第二十条 对村提留和乡统筹费,应当实行严格的财务管理制度。集体经济组织应当对村提留和乡统筹费的使用实行内部审计监督制度。
  第二十一条 农村义务工和劳动积累工,由乡人民政府商村集体经济组织提出用工计划,经乡人民代表大会审议通过后执行,年终由村集体经济组织张榜公布用工情况,接受群众监督。

重編国語辞典修訂本:最大かつ無料の現代漢語辞典

2006-12-19 10:10:19 | Weblog

表題の重編国語辞典修訂本は、台湾教育部が運営しているインターネット上の台湾北京語辞典。収録語彙数が多いだけでなく、類義語、反義語、用例も掲載されている。中国で使われている共産党用語は収録されていないが、日常用語、近代語など中国で使われている言葉でもここにしか載っていない言葉も多い。また、中国普通話と台湾国語との対照表も附録についている。

http://dict.moe.gov.tw/dict/

なお、これとは別に教育部には編訳館という組織があり、英語学術用語の台湾国語訳データベースを運営している。
http://terms.nict.gov.tw/
このホームページの検索機能はあまりよくないので、google検索
http://www.google.com.tw/
に引きたい英語語彙とnictという4文字を入力するのが簡単。ちなみに、nictとは編訳館の略称。


朝日新聞:大きな物語

2006-12-18 22:50:47 | Weblog
 フランスの哲学者リオタールに初めてインタビューしたのは1986年の秋だった。『ポストモダンの条件』が日本でも翻訳され、ポストモダン思想を代表する理論家として脚光を浴びていた。
 「もう『大きな物語』の時代は終わったんですよ」。パリの静かな住宅街で、温厚な表情の哲学者は諭すように語った。いまの時代の顕著な変化は歴史の進歩や人間の解放という近代が目指してきた大きな物語を、人びとが信じなくなったことなのだという。
 大きな物語が消えると共に、その担い手だった知識人の時代も終わった。正義や理想といった、人類にとって共通の目標や普遍的な価値観も失われたという。「これからは人々は断片化した自分たちだけの小さな物語の中で生きるしかなくなったのです」。分かりやすい話だった。

 何日かあと、ニューヨークで「リオタールの大きな物語消滅論は明らかに間違っている」と激しく反論する知識人に会った。
 パレスチナ生まれの英文学者エドワード・サイードだった。このときは51歳。西欧近代の知のあり方を批判した著書『オリエンタリズム』で注目され始めていたが、一般にはパレスチナ問題とのかかわりで知られる程度だった。
 「解放の理想は失われたというが、いまも世界中で多くの人々が自由を求めて苦闘しているのです」。そう語るサイードは一方で、人類共通の価値観や大きな理想に背を向けて伝統や宗教のような小さな世界に閉じこもる傾向が、地球全体に強まっていることに強い危機感を示した。
 「だからこそ真実や普遍的な価値を追究する知識人の役割は少しも変わっていない。これからが知識人の存在が試される時代なのです。」
 言葉のとおり、その後のサイードは力を持たない人々の立場に立って世界の困難と向き合い、真実と大きな理想を求める知識人として一貫した道を歩み続けた。
 「知識人の声は孤独の声だ」とサイードは言う。「それでも知識人が果たすべき責務は、力の及ぶ限り真実を語り続けることだ」。晩年は白血病に冒されながら、その姿勢は揺るぎがなかった。
 サイードには94年と99年にもインタビューした。そのたびに視線は一段と遠くを見つめるようになっていた。「他の民族がこうむった苦難も人類共通の苦難として受け止めなければならない」。生まれ故郷の国と民族を思いながら、敵対する民の迫害の歴史にも目を向け続けた。

 リオタールは1998年に73歳で亡くなる。サイードも2003年に病魔との長い戦いに力尽きた。67歳だった。
 あとに多くの著書と言葉が残された。「君主ではなく、旅人の言葉に鋭敏に耳を傾けなければならない」。「大切なのは、ものごとをただありのまま見るのではなく、それがいかにしてそうなったかを見ることだ」。『知識人とは何か』(平凡社)など多くの翻訳を手がけた英文学者の大橋洋一氏は、サイードが好んだ「冬の精神」という言葉に注目する。
 春が近づく気配を予感しながら、希望の季節をただ待ち続けるだけではなく、あえて寒風に身をさらす。「いまが困難な冬の時代だからこそ、厳しい冬の精神を持たなければならないとサイードは考えた。晩年になると伝統やナショナリズムに回帰する知識人が多いが、彼は最後まで何かに帰属して暖かく包まれる生き方と無縁だった」と大橋氏は言う。

 自分が属する共同体の慣れ親しんだ空気に包まれて暮らしたい。人はそう思う。国や民族だけではない。何かの組織や集団に強い帰属意識を抱き、その一員として生きることは安逸につながる。
 だが、いつも仲間にあわせて気を配り、集団で思考する生き方からは新しいものは見えない。心地よいものの境界を超えて冬の精神を持て、とサイードは説き続けた。
 21世紀のいま、人類共通の大きな理想ではなく自分たちだけの閉ざされた物語を美化する動きが広がっている。無意識のうちに集団思考に流れる空気もある。
 孤立を恐れずに逆風に向かい、熱狂や集団思考から遠ざかる。冬の精神が受け継がれた時にはじめて、次の時代の新しい物語は見えてくるのかもしれない。
(編集委員・清水勝雄)

王丹:2006年12月1日からの胡錦涛(胡錦涛の真面目)

2006-12-18 10:59:26 | Weblog

RFA:2006年12月1日之后的胡锦涛 (王丹)

2006.12.07

(特约评论文章只代表评论员个人的立场和观点)

2006年12月1日,我们等来了陈光诚案的重审判决结果---山东省沂南县法院维持对陈光诚四年三个月的原判。同一天,北京法院也做出了对《纽约时报》研究员赵岩一案维持原判的决定。这两起案件的判决,使我们感到愤怒和悲哀,正如被软禁在家的北京人权活动人士胡佳所说:“2006年12月1日星期五,注定是中国司法史上蒙羞的色日子。全世界都看清了不仅仅雾锁山东,整个中国都被重重的国家社会暮气笼罩。”

对这两起是非白颠倒的刑事判决,局限在法律框架内的探讨已经毫无意义,在证人被绑架、律师被诬陷为小偷而不得进入法庭这种极端荒诞的事件公然上演的时候,如果有谁将这样的结果视作单纯的法律判决,那只能说明他头脑出了问题。

但2006年12月1日确实是一个重要的日子。两起案件,尤其是陈光诚案件的判决结果使我们彻底看清了“胡温新政”和“胡锦涛时代”的真实面目。一个月前,临沂市中级人民法院将陈光诚案发回重审的决定曾使人对中共自我纠错的能力产生了不切实际的幻想,使人们对胡温与民间达成和解的愿望产生了一相情愿的期待。然而,12月1日的重审判决结果说明,借助被海内外广泛关注的陈光诚案的审判,中共向外界释放这样一种信号:他们不仅不会在舆论面前做任何退步,相反,他们用一种十分傲慢的态度绑架法律,试图将陈光诚案办成铁案,而他们的目的,是用这样的审判结果来震慑民间的维权行动。

自今年8月15日以来,已相继有高智晟、力虹、陈树庆、严正学、池建伟等人被捕,抓人的频率之高,比江泽民时代有过之而无不及,而且,相距不过几天的时间里,中共男性警察分别对高智晟的妻子耿和、陈光诚的妻子袁伟静进行殴打和侮辱,以最无耻的行径再次向世人展示出这个政权的本质,这是在江泽民时代都很少发生的恶性事件。

自江泽民下台以来,胡锦涛不时向民间释放以暧昧的信号,暗示他可能会是一个相对开明的统治者,由于人们对江泽民的十三年充满了不满和无奈,这样的暗示便引来民间社会的叫好声,在胡锦涛巩固权力的过程中,民间的认可和赞扬成了他巩固权力的筹码。但随着时间的推移,胡锦涛的真实面目终于走出政治迷雾,陈光诚案的判决结果给了我们这样的答案,胡锦涛不过是千方百计维护中共专制统治的政客,他不是戈尔巴乔夫,不是蒋经国,而是江泽民第二。

因此,对于中国民主变革的艰难和曲折,我们应有更充分的思想准备,无论如何,我们不能把希望寄托在胡锦涛、温家宝这些“面目温和”者身上,中共最高领导人的身份,决定了他们和善的笑脸之后,是暗藏的杀机,这是不由他们的个人品行所决定的。在2006年12月1日之后,我们应该向世界清楚地表达我们的判断:胡锦涛,他不是允许中国走向民主、自由、和谐的人,他只是江泽民第二。

可以肯定地说,对陈光诚的重审判决是一个分水岭,自此之后,中国社会将不再相信胡温对民主、和谐的诚意。政治性判决是政权对民众态度的集中体现,是判断中共领导人真实取向的风向标,三个多月以来的密集的打压,足以说明胡温已经在“稳定”和“自由”之间做出了他们的选择,我们不必再以良好的愿望揣度他们。自此之后,中国民间的声音,应该重新审视自己的话语基调了。

2006年12月1日,胡锦涛与自由舆论的“和谐相处”,宣告结束。

(自由亚洲电台特约评论员王丹)
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pinglun/2006/12/07/wang_dan/


Hao Yanrong:中国郷村組織管理の体制的欠陥(3)

2006-12-16 19:41:49 | Weblog
    应当如何推动农村社会经济的发展,目前中国学术界主要有两种观点。第一种观点认为,当前农村发展的阻力在于改革的不彻底,政府保留了许多计划经济时期的权力,仍然对农民的经营活动横加干涉,甚至滥用权力挥霍农民的收入。因此,农村发展的出路就在于进一步推动农村体制的改革,减少政府对农村社会活动的管制。第二种观点认为,后起现代化国家的发展离不开政府的规划和指导。持这种观点的学者引用美国政治学家亨廷顿的理论,认为一个处于现代化进程中的超大社会的乡村的发展,有赖于政府在农村推进改革和组织发展的能力。这一派学者针对中国农村社会生活中的种种无序状态,认为农村的发展必须从扩大乡镇政府的权力和职能着手,目前国家在农村的权力仅设在乡一级,下一步应该把村组织也纳入到国家行政权力的设置之内,以进一步强国家对农村的管理和控制。从理论上讲,这两种观点都有一定的道理。但在现实中,两种主张中的任何一种如获实施,都会引发新的问题。

    1949年之后的经验表明,农村社区的发展与农村基层组织的结构和性质有密切关系。这样的基层组织在过去是村级组织,在今天则是乡镇级机构。目前国家在农村设立的乡镇一级的组织和机构总体上可以分为3种:其一是专业化的经济实体,如信用社、电力等部门和公司;其二是县属各部门在农村的派出机构,如工商、税收、司法、土地管理等部门;其三是乡镇政府。在这些机构中,以乡镇政府的职能最完整、权力最大,党委、政府、人大、纪检、共青团、妇联等机构和社会团体俱全,政治、经济、文化、教育等职能无一不包。既然农民养活了这么庞大的党政机构,农村发展的课题也理应由乡镇政府承担。然而,事实证明,目前的乡镇一级政府主要是以行政管理为名,从农村提取各种资源,满足其官僚机构干部职员的需要,而对农村发展这样一个关键性问题却久无积极的作为。

    根据马克斯·韦伯对官僚体制的剖析,一切科层官僚化的机构,无论其组织还是个人,都是以形式主义和服从上级为原则,不具备任何组织、规划、激励、动员社会的能力,它既反对也压抑组织成员的事业心和原动力。而社会和经济的发展需要有一种为经济成功而奋斗的精神,这恰恰是科层官僚组织所不具备的。一个庞大的、权力无边的官僚科层组织的存在,必然会压制农村社会经济发展的活力。

    通过剖析南村农民与“村组织”以及“村组织”与乡政府之间的关系,可以看到,目前中国的乡镇一级组织具有两个特点。其一,无论从乡镇干部个人角度还是从乡政府组织的角度来看,乡镇一级机构对农村发展的成败都不承担任何责任。土地承包之后,经济发展的责任已经落在一个个孤立的小农头上;乡镇政府无需规划农村社区的发展,其事权主要是管理、收费、罚款等。其二,由于权力集中且缺乏有效的监督机制,再加上小农素质低下,处于一盘散沙状态,这就为乡镇政府滥用权力提供了方便,其主要表现为寻租行为泛滥,乡政府用一切看似正当合法的理由,为乡镇组织和个人加收入,从而加重了农民的负担。除了无责任化和寻租行为泛滥之外,乡镇政府和县属各部门的派出机构(这样的机构加起来有30来个)还形成了一个个小型利益集团。各部门之间竞相划地为牢,争权夺利,推诿塞责,并利用自己手中的权力鱼肉乡民,蚕食农民的利益。中国农村这块曾孕育了高度发达的农业文明和东方文化的沃土,近十余年来在各方势力无情的榨取和吮吸下,正在变成一条乾枯的河床,不仅无力承载未来发展的重负,就连维持农民家庭的生存与再生产亦非常困难。

    由于农村基层组织的这一性质,中国农村的发展正面临双重困境。第一重困境在乡镇党政系统内。这一重困境包含两层意思:其一,国家把大量的有关农村的政策和行政目标都堆在乡镇政府那里,即所谓“上面千条线,下面一根针”,乡镇政府忙于应付上级政府下达的种种任务;其二,乡镇组织作为国家行政机器的一个环节,现有政治机制使得乡镇干部的主要目标是升官,大多数乡镇干部素质不高,无力承担推动农村社会发展的重任,即使有少数有能力创新者,也受到体制的严重约束,无法有所作为。第二重困境在农村本身:其一,如果没有政府方面的组织、规划和扶持,仅靠单个小农的努力,在现有观念和经济水平下,小农的发展前景十分有限;其二,如果扩大政府的权力和职能,在现有的体制下,它会以政府的官僚化行为追逐其寻租的目标,搞什么“大蒜乡”、“烟草乡”、“黄瓜乡”等,只能带来更多的经济和社会灾难。

    从南村调查所揭示的中国农村发展所面临的困境来看,笔者以为,目前农村发展的关键,不在于是强化国家对农村的管理还是减少国家对农村的控制,而在于国家政权以什么样的体制和方式管理农村。要克服目前农村发展所面临的困境,必须从体制上和管理方式两方面改革作为农村权力中心的乡镇政府机构,由行政官僚凌驾于农村之上转变为由农村社区精英对农村自我管理。通过这一改革,也许能够为农村未来的经济和社会发展提供新的机遇。