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秦暉:西側の経済学者はなぜ中国をもてはやすのか

2011-03-25 11:46:06 | 中国異論派選訳
秦暉:西側の経済学者はなぜ中国をもてはやすのか

初出: 2010年09月25日

彼らは褒めることはできても、民主制を放棄しない限り、中国に倣うことはできません。理由は簡単です。彼らの土台の上では福祉と自由の両方を後退させることなど、ほとんど全く不可能だからです。

  ――『中国の台頭と「中国モデル」の台頭』シリーズその2

 現在世界の社会学界、政治学界には中国に対する批判もあります。しかし経済学界は私の見るところ称賛一色です。最初は「左派」、ケインズ主義者の称賛で、「中国が自由放任を行っていないのは素晴らしい!」と言い、 次いで「右派」も出てきて、「中国が福祉国家を目指していないのは素晴らしい!」と言いだしました。ネイスビッツ〔米国の未来学者〕が1997年に中国で出版した『アジアのメガトレンド』に対するある人の書評は「アジアは自由主義の手本か?」という題でした。この本は全世界がいま福祉国家によって台無しにされているが、中国だけが全く福祉に構わず、庶民は自分と家族の努力だけに頼っているから、非常に我慢強くなって、経済の奇跡を生み出せたと主張しています。当時彼はこの本を書いたあと、中国に来て急いで翻訳を依頼し、英語より先に中国語でこの本を出版して、中国でベストセラーになって大もうけしました。当時彼はこの主張にあまり自信はありませんでした。最近彼はもう一冊『中国のメガトレンド』という英語で書かれた本をフランクフルト・ブックフェアで大々的発表し、この観点をさらに膨らませたが、今回は「中国は確かにいける、世界に福祉国家を打ち破る道を切り開いた」と自信満々でした。張五常〔香港の経済学者〕も最近、「中国は人類最良の体制を創造した。それは福祉もなければ労働組合もない国家だ」とか「世界の趨勢は欧州が米国に学び、米国が中国に学ぶことだ」(つまりは高福祉国家が低福祉国家に学び、低福祉国家がマイナス福祉国家に学ぶことだ)と言っています。要するに、いま西側経済学の左右両派はどちらも中国モデルに魅力があると思っており、左派は中国の低自由を称賛し、右派は中国の低福祉を称賛して、称賛の大合唱をしています。

しかし実際は、彼らは褒めることはできても、民主制を放棄しない限り、中国に倣うことはできません。理由は簡単です。彼らの土台の上で福祉と自由の両方を後退させることなど、ほとんど全く不可能だからです。まして、彼らは本当にそうしたいと思っているのでしょうか? 実際は西側の左右両派は「中国の奇跡」をそれぞれの主張の論拠に使って、相手をたたき合っているに過ぎません。左派は中国の低自由を持ち上げることで福祉国家の正当性を証明しようとし、右派は中国の低福祉を持ち上げることで自由放任の正当性を証明しようとしていのです。ですが、低自由かつ低福祉の可能性など彼らは考えてもいません。

 もちろん、低自由かつ低福祉は「競争の優位性」を体現します。しかし、それはグローバル化に参加した後に初めて体現されます。もし二つのモデルが門戸を閉じて体制間競争をしていたら、優越性などあり得ません。北朝鮮がその例で、改革前の中国もその例です。ですから、門戸を開き、一つの市場に融合し、投資行為が高度にグローバル化し、金融も高度にグローバル化し、一方で人権基準はグローバル化しないという条件の下で競争したとき、はじめて中国モデルの優越性が体現されるのです。なぜなら自由経済の本当の優位性はそのイノベーション・インセンティブであり、人々を必死で働かせたとしても〔中国のような〕鉄腕体制に対抗できるとは限らないからです。フォーゲル(R. W. Fogel)はかつて南北戦争前の米国南部奴隷制は北部より「効率的」だったことを論証していますし、ドーマー(E. D. Domar)もかつて17世紀以降の東欧の「第二次農奴化」経済は自由農民経済よりも効率的だったことを論証しています。それはどちらも大市場を背景としています(フォーゲルは全米経済の一体化状況、ドーマーは西欧市場に輸出する東欧の商業化された農奴制荘園)。奴隷制の下でも、「物質的刺激」は可能であり、決して「たくさん働いても少なく働いても同じ」ではありません。主人は奴隷の中の「労働模範」に多くの報酬を与えることができます。人々が良く議論する監督コストの問題が、フォーゲルとドーマーが検討した農業においてさえ解決できるのであれば、製造業ではより簡単なはずです。自由経済は人に必死に働かせることによってではなく、活発な絶え間ないイノベーションの点で鉄腕体制に勝るのです。

しかし、グローバル化条件の下では、前者のイノベーションの成果を後者がまねることはできますが、後者の鉄腕を前者がまねることはできません。そこで、後者はある意味で「優位性」を有するだけでなく、確かに一つの可能性、つまりグローバル化の中で「悪貨が良貨を駆逐する」現象が出現する可能性があると思います。ここで私は可能性とだけ言っておきます。私は歴史になんらかの「必然性」があるなどと考えたことはありませんし、その可能性にどれほどの出現確率があるとも思いません。なぜならそのやり方の弊害は明らかであり、持続可能性に大きな問題があるからです。しかし、西側の民主モデルは確かに困難に直面していますから、どちらの問題が先に爆発するとも言えないので、その〔専制が民主制に勝利する〕可能性は確かに排除できないのです。

「縦方向の進歩と横方向の落差」そして「低人権の優位性」

 もちろん逆のトレンドも存在します。中国の今日のこの「モデル」の積弊については、識者はすでに多くを語っています。とりわけ、今回の危機が発生してから、外需が委縮したので、投資で引張るよう転換し、その結果投資が生産能力を形成するとさらに深刻な生産能力過剰をもたらします。去年は内需拡大が大きく進んだと言われますが、多くの人がそれは政府消費であって家計消費ではないとか、伸びたのは「官内需」であって「民内需」の伸び率が大きいわけではなく、またリスクが潜んでいると述べています。要するに、今では「成長方式の転換」(実際は体制転換の婉曲表現)は不可避となっているのです。

 同時に、その転換にも実現の条件がないわけではありません。華生さんは私のこの分析に反対しています。彼は改革〔1978〕以降自由と福祉はどちらも進歩したと考えています。もちろん、私も自分の書いた文章の中で中国の人権は「縦方向の進歩と横方向の落差」だと言ってきました。「低人権の優位性」は主に横方向についてであって、その「優位性」が縦方向の比較で人権が進歩していることと矛盾するものではありません。中国の改革30年来自由と福祉の二つの面で、人権は疑いもなく進歩しました。改革前の中国の人権状況は現在よりも悪いに決まっていますから、私は改革の進歩性は肯定し、改革後は改革前より悪いと主張する「左派」理論には賛成しません。しかし、それは今日の人権水準に対して我々が批判的態度を取ることを排除するものではありません。

 実は、私が最近提起した南アフリカもやはり同じです。アパルトヘイト時代はそれ以前の奴隷制時代と比べて、またアパルトヘイトの末期は初期と比べて、人権状況はいずれも改善していました。とりわけ1978年以降の数年間、その改善は非常に大きかったのです。もっと前にさかのぼっても同じことが言えます。人々は「移動労働」制度〔南アフリカで行われていた単身男子労働者の出稼ぎ就労制度。就労先地域への定住を認めない点で中国の戸籍制度の下での出稼ぎ制度に類似している。〕を批判しますが、それ以前の徴用労働制度の方がよりひどかったということを知っています。人々は「飯場労働」制度を批判しますが、アパルトヘイト末期には黒人労働者の家族同居率はかなり高くなっており、少なくとも今の中国〔の出稼ぎ労働者〕より高かったことを知っています。経済の高度成長について言えば、黒人と白人の間の著しい不平等はありましたが、黒人が成長の中で多少なりとも利益を得てたことを否定することはできません。縦方向で比べれば、南アフリカ黒人の収入は以前より増加しており、白人との格差も縮小傾向でした。横方向で比べれば、南部アフリカ周辺諸国の黒人より収入は高かったのです。実際、南アフリカの1994年の民主化も、突然の出来事ではなく、「量の変化」の積み重ねが「質の変化」に転化するプロセスでした。しかも、それはそれまでの黒人人権運動の漸進的推進の結果でした。ですが、それら一切は、この時期全体の南アフリカの人権状況に対して人々が批判的態度を取ることを排除するものではないのです。

 そしていわゆる横方向の比較としての「低人権の優位性」もまた縦方向の人権の進歩が経済成長率に及ぼすプラスの効果を否定するものではありません(経済成長の質もしくは成長の共有性〔公平な分配〕のプラス効果はほとんど争いがないのでここではふれません)。中国の改革時代に改革前と比べて人権が進歩したことは当然〔経済に〕プラス効果がありました。私たちが言う「移動労働」のような低人権労働方式が南アフリカの経済成長に効果があったように。つまり「移動労働」は奴隷制度や徴用労働制度に比べればやはり進歩しているのです〔改革開放前の農村統治も出稼ぎ移動さえ認めない点、生産資材の私有を認めない点で農奴制的だった〕。その点から言えば、人権の進歩は経済成長に効果を発揮します。

問題は、そのように言っただけでは、なぜ横方向の比較の中で人権がより進歩している諸国家で、成長率は逆に(少なくともある時期)低いのかについて説明できないことです。例えば、なぜ民主化した中東欧諸国の経済成長率は中国より低いのか(それらの国の民衆の生活は中国より悪いとは言えませんが)? なぜアフリカの一部の民主国家の経済成長率はかつての南アフリカより低いのか? なぜ国際資本は中東欧に投資せずに、競って中国に投資するのか? なぜ大量の低価格商品が中東欧からではなく、中国から世界に押し寄せるのか? 実はグローバル化の下では、これは決して難解な問題ではありません。もしも「投資誘致」面での「競争力」がグローバル市場経済の下で成長率にとって極めて重要であれば、労働組合がなく、好き勝手に土地収用のできる国家と、労働組合が発達し、土地収用も困難な国家(たとえば中東欧国家)を比べてどちらが「投資誘致」しやすか、はっきりしているでしょう? だから、縦方向の比較での人権の進歩と横方向の比較での「低人権の優位性」の双方を考慮して初めて「奇跡」に対する信頼に足る分析ができるのです。

中国は必ずしも「自由経済を行う専制国家」の典型ではない

 一部の「自由主義経済学者」は経済が自由であればあるほど高い成長を実現できると信じ込んでいます。彼らは中国はあまり民主的ではないが、地方政府がGDP競争をするので、往々にして西側よりも徹底した経済的自由主義政策を実行していると主張しています。確かに、一部の民主制国家は平等と福祉を重視するのでそれほど「自由放任」ではありませんから、一部の専制国家は経済面でより自由であり得ます。その種の現象は確かに存在します。ですから、世界で一部の「新自由主義」嫌いの「左派」が、一部の専制国家が民主制国家より経済の成長が速いのを見て大喜びしていることは、全く理解に苦しみます。

 しかし中国はいささか異なります。中国は明らかにそういう「左派」が想像するように福祉と平等が好きではないが、「自由主義経済政策を行う専制国家」の典型でもありません。それは中国経済が改革前より自由化しそれによって経済の発展を促したことを否定するものではなく、いわゆる中国経済は西側より自由だから成長もより速いという説が、最低限の事実に反しているということです。中国は福祉と弱者保護のための経済的自由の制限でははるかにスウェーデンに及ばず、それどころか多くの面で「低福祉」の米国にも及びませんが、権力者や独占企業家、特権集団のための経済的自由の制限では、米国を上回るだけでなく、「右派」から見て経済的に非常に不自由なスウェーデンさえも大幅に上回っているのです!

 例を挙げましょう。スウェーデンのいわゆる不自由は主に高負担・高福祉政策によって財産の蓄積を制限していることを指していますが、税引き後の財産は十分に保障され、中国ではありふれた「暴力的収用」のような赤裸々な財産権の侵害は起こり得ません。スウェーデンの労働組合は雇用主がほしいままに従業員を解雇する自由を制限するかもしれませんが、中国が自治労組を禁止しストライキ権を奪っているのは別の側からの労使間の自由なゲームの制限です。まして一部の地方では「奴隷労働」制まであります! いわんや戸籍制度は、移転の自由を否定し、都市に行った農民を野蛮な「都市管理局員」のような南アフリカ式「移住労働者」制度によって正常な労働市場をかく乱するものです。こうした点からは、中国の労働市場はスウェーデンよりも自由だなどと言えるはずがないでしょう? スウェーデンの 福祉住宅保障は一定程度商品住宅の自由取引空間を狭めていますが、中国の「マイナス福祉」住宅、土地独占と低水準住宅の勝手気ままな「撤去」つまり「福祉も与えず、自由も与えない」という貧乏人追い出し政策は、住宅市場をより大きくゆがめているではないでしょうか?

 上にのべた自由は主に貧乏人にとってのことですが、私はそれは非常に重要だと思います。なぜなら、左派からは自由(経済的自由を指す)を支持することは、「金持ちの代弁」にしかならず、自由は金持ちにとってだけ有利であるから、絶対反対しなければならないと思われているからです。この右と左の二つの誤解はどちらも非常に流行っています。しかし、私は少なくとも中国のような国では、貧乏人が自由(経済的自由を含む)を制限されている苦しみは金持ちに劣らず、貧乏人が自由を必要とする程度も福祉を必要とする程度に劣らないと思います。しかも、少なくとも中国のような「マイナス福祉」国家では、貧乏人の自由と金持ちの自由(平民の金持ちであって権力者ではない)は対立関係にはありません。一部の人が中国は「西側より自由だ」というのは、おもに金持ちの自由のことです。しかし、その意味の自由でもこの言い方は事実ではありません。たとえスウェーデンのように一般に経済的自由が少なく、とりわけ金持ちの自由が少ないとみなされている国家では、彼らの自由な蓄財が「高負担・高福祉」の制限を受けており、中国の貧乏人は高福祉ではないとしても、中国の広義の負担はスウェーデンよりも少ないでしょうか? 中国の平民の金持ちが受ける国家の搾取と役人のゆすりたかりの苦しみはスウェーデンより軽いでしょうか? スウェーデンの金持ちの経済行為は法律の制限を受けますが、我が国の金持ちは法律の抜け穴を利用することは上手いかもしれませんが、様々な役人の悪習と「不文律」の制限は少なくないでしょう? スウェーデンの資本家は労働組合を怒らせることはできないかもしれませんが、役人に平身低頭する必要もありません。スウェーデンの社長は確かに好き勝手に労働者を解雇できませんが、スウェーデンの役所はなおさらのこと好き勝手に社長の財産を没収し、「国進民退」することはできません!

 もちろんこの現象は一方でいわゆる金持ちが不自由なスウェーデンより、はるかにひどい中国の「資本逃避」、「投資移民」現象を招き、もう一方で中国の「投資誘致」にはまったく影響しません。なぜなら、政府、金と権力のある人々もしくは「御用商人」とさえコネをつければ、スウェーデンとは言わず、米国より「自由」になることは大いにあり得るからです。しかし、「貧乏人の自由」と「金持ちの自由」は衝突するとは限りせんが、「役人の自由」と「民衆の自由」は必ず衝突します。政府が制約を受けなければ、貧富に関わらず民衆の自由はありません! それは「福祉国家」の主張者も「自由放任」の主張者も認めていることです。

(ネットワーク編集 陳君)

〔 〕内は訳注及び訳者による補足、( )内は原文。

原文出典:http://www.caijing.com.cn/2010-09-25/110529687.html
(転載自由・要出典明記)

秦暉:中国モデルの特徴は非民主的土台

2011-03-24 20:05:43 | 中国異論派選訳
秦暉:中国モデルの特徴は非民主的土台

初出:財経網 2010年09月25日

中国の左右両派はまず「皇帝」のために考えているのであって、民衆のために考えているのではない――問題は彼らの生存基盤が違うからだ

  ――『中国の台頭と「中国モデル」の台頭』シリーズその1

 最近「中国モデル」についての議論がにぎやかになっています。すでにそういうモデルがあると言う人もいれば、まだだと言う人もいます。すでにあると言う人の中には、これは良いモデルだと言う人もいれば、悪いモデルだと言う人もいます。良いと言う人に中には、これを広めることができると言う人もいれば、中国の特殊条件にしか合わないから、広めるべきではないと言う人もいます。ですが、これらすべての論争の前提は、いわゆる中国モデルとは一体何なのかということです。

「中国モデル」とは何か?

 中国は何でも特殊だというわけではなく、その成長の要因の一部は他と共通だと私は思います。例えば、社会主義であれ資本主義であれ、この世界には中国だけにあるのではなく、両者の結び付いた「第三の道」や「中道路線」、「中道左派」、「中道右派」から「混合経済」まで、どれも普遍的現象だと言えます。結局いまは「純資本主義」や「純社会主義」はこの地球上で見つけることはできません。各国はどこも混合経済であり、それは資本主義が多めか社会主義が多めかという混合比率の問題に過ぎませんから、我が国が何か特別なわけではありません。

 もちろん、中国にも特徴があります。それを「中国的特色」あるいは「中国の道」、「中国経験」はたまた中国モデルと呼ぼうと、実際は比較的な概念に過ぎません。そして比較の主な参照系はつまり西側です。いわゆる「ワシントン・コンセンサス」への「北京コンセンサス」の対置にしろ、「中国は西側とは異なる近代化の道を切り開いた」という言い方にしろ、どれも中国が西側とは違うと言っているのです。

 問題はその「西側」内部も千差万別だということです。この前、北京大学の姚洋教授がまとめた中国モデルの特徴は、一に比較的平等を重んじ、二に「中性政府」を持つことだそうです。第二点については後述します。第一点について、もし我が国が米国より「平等を重んじる」と言うなら、議論はあるでしょうが少なくともそのような主張もあり得ましょう。しかし、スウェーデンと比べたらどうでしょう? たとえ彼の定義によるとしても、スウェーデンより「平等を重んじ」ていると恥ずかしげもなく言えるでしょうか?

 私たちが「中国モデル」が「西側」と違うというときは、西側の一つの国、例えば米国と違うというのではなく、全ての西側諸国、少なくとも主な西側諸国と違うのでなければいけません。いわゆる西側、つまり米国からスウェーデンまでの国々に共通に存在していて中国にはないなんらか特徴、あるいは中国にあって、それら諸国(米国からスウェーデンまで)のどこにもない特徴。それが多分中国モデルでしょう。

 今回の危機はそうした「特徴」を観察する得難い機会を提供しました。私たちはいわゆる「西側」とは実は万華鏡であり、その中にはスウェーデンのように、中国よりも「社会主義(社会平等、共通の繁栄)」の「左派」国家もあれば、米国のような自由競争と市場開放を重んずる「右派」国家もあります。しかも、それらの国々の内部もやはり万華鏡であり、それぞれ左右両派が論争しています。しかし一つ共通な点は彼らがいま難題に直面しており、しかも両派はどちらも万全の策を持っていないことです。「金融危機」以降外国の左右両派は騒々しく論争しています。左派はこれは右派の自由放任政策による金融監督の緩みがもたらした失敗だと言い、右派は左派がケインズ主義を進めたために赤字が膨らんで国家財政が破たんしたのだと言っています。

 しかし党派の偏見を取り除いて見れば、左派と右派が主張する理論にはそれぞれ長短があります。しかし、現在我々が目にしている状況はこの両派の問題のどれでもありません。今の西側では、米国であれ欧州であれ、今回爆発した危機の核心問題は民間と政府の債務が多すぎ、欠損が大きすぎて、資金繰りに行き詰まっていることです。民間債務はすこし複雑ですが、その根源は政府債務の根源と同じです。民間債務については、他の所で述べたので、ここでは省略します。では、政府はなぜそれほど大きな債務を抱えたのでしょう? 左派の主張する高負担・高福祉であれ、右派の主張する低負担・低福祉であれ、それぞれ欠点があるとはいえ、理論的には収支が釣り合うはずです。ケインズ主義は赤字財政を認めますが、コントロールできるはずです。なぜ今のようになってしまったのでしょう?

 実のところ理由は簡単です。つまり西側の左右両派はどちらも民主制の土台の上に立っており、双方がともに民衆のために発言しなければならないからです。左派は高福祉を主張するときは自信満々ですが、高負担を主張するときはしどろもどろです。右派は低負担を主張するときは自信満々ですが、福祉を後退させるとなるとしどろもどろになります。もしも、高福祉・高負担、もしくは低福祉・低負担の組み合わせなら、どちらも財政破たんには至りません。しかし、低負担・高福祉なら当然財政に大穴が開きます。西側の左派が政権を取ると政府は民衆のためにより多くのお金を使おうとし、右派が政権を取ると政府は民衆からの徴税を抑えようとします。それを何回か繰り返していたら、国家財政が破たんしない方が不思議です。お互いを恨んで何になりましょう? それはもともと両派が共同で作りだした結果ではないですか。とはいえ、民主制がいつもこのように運営されていたら、とっくに破産してしまうでしょう。

 私はもちろん民主制の方が専制よりいいと思います(もう少し控えめな言い方をすれば、制度としては民衆は専制よりデメリットが少ないです)。ではなぜ民主制はこれまではうまく運営されてきたのでしょう? それは民衆も道理が分からないわけではなく、もし本当に財政に問題が生じたら、本来ならすぐに社会に反映され、小さな危機が生じても民衆は気付くからです。そして、民衆がそれを問題と感じたら、増税であれ、福祉の削減であれ、受け入れないわけではありません。ここ二百年ほどの民主制発達史を見れば、税収は明らかに増えてきています。もし民主制の下では増税ができないのであれば、どうして今日まで維持できたでしょう? 福祉もまた同じで、民主制の下で民衆が福祉の削減を受け入れたという前例には事欠きません。

 では、ここ二十年はなぜそうできないのでしょう? それはグローバル化の大幅な深まりと広がりに関係しています。またグローバル化の性質のねじれとより大きく関係しています。

深まりとは、つまり経済のグローバル化の深まり、とりわけ金融のグローバル化の深まりです。旧来のグローバルな売買では大きな問題は起きません。今はグローバルに借金ができ、グローバルに借り越し〔国債の外国による引き受けのことか〕ができるようになって問題が起きたのです。なぜなら債務の穴は借り越しで埋められ、社会に反映されないので、民衆は危機に気づかず、そのため「餌をやらずに馬を走らせる」というゲームを続けることになったのです。とりわけ米国では、米ドルの地位にたよって借り越しが特にはなはだしいです。しかし、これはもちろん長期間続けられるものではありません。長引けば欠損は大きくなり、破綻したら小さな危機では済まなくなります。

 広がりとは、以前はグローバル化に参加していたのは西側とその植民地だけでしたが、その後開発途上国が参加し、冷戦後は「旧計画経済諸国」も加わったので、グローバルな借り越しの対象が大幅に増えたのです。とりわけ中国は西側諸国の最良の借り越し対象となっています。

「中国モデル」の特徴は「主義」にではなくその土台にある

 この点中国は西側と正反対ですから、これこそ「中国モデル」と言えます。中国にも左派と右派がおり、中国の左右両派の理論(たとえば社会主義と自由主義)もすべて西側から伝わったものですから、正直なところ「特色」には程遠いです。中国の特色は、「主義」にではなく、その土台にあります。西側の左右両派はどちらも民主制の土台の上でゲームをしていますが、中国の左右両派は西側とは正反対の土台の上にいます。つまり、中国の左右両派はまず「皇帝」のことをおもんぱかるのであって、民衆のことをおもんぱかるのではありません。私はなにも「道徳的な非難」をしているのではありません。中国の左右両派の良心はあるいは西側の両派に劣らないかもしれません。問題は彼らが生存する土台が異なるということなのです。だから彼らは右であれ左であれ、演じる役割は西側とは正反対です。私たちの左派は国家がしゃにむに民衆からお金を吸い上げることを主張し、そうでなければいまいましい「新自由主義」だと非難します。一方私たちの右派は国家は民衆のためにお金を使う必要はないと主張し、そうでなければにくらしい「福祉国家」だと非難します。以前は、我が国のやり方は「左折ランプを点けて、右折している」と言われました。実は西側にも似たような問題があります。ただ方向は逆です。私たちの政府は「社会主義式の権力」を持って「資本主義式の責任」しか負担しません。一方、西側の政府は「資本主義式の権力」しかないのに、「社会主義式の責任」を負担しなければならないのです。

我が国の以前の言い方では、市場経済改革とは民衆が「市長ではなく市場に解決を求める」ことです。この言い方は非常に面白い。理論的に言えば、市場経済は政府の権力を制限し、「市長が命ずるのではなく、市場が命ずる」、つまり市場経済の下では「市長」は勝手気ままに民衆に難癖をつけてはならない。彼が民衆を動かそうとしたら、市場の力を借りなければならないのです。

 例えば、「市長」が官営企業が好きなら、計画経済の下では彼は民営企業に難癖をつけて、つぶすことができます。ですが、市場経済の下ではそれはできません。官営企業は市場で民営企業と競争しなければならないのです。計画経済の下では新聞が「市長」の怒りを買ったら、市長は新聞社をつぶすことができます。ですが、市場経済の下ではそれはできません。新聞が気に入らなければ、自分で民衆にもっと好かれる新聞を発行し、市場競争で相手を圧倒しなければならないのです。これが「市長が命ずるのではなく、市場が命ずる」ということであり、西側の市場経済です。

 ですが我が国では、そんなことを言っても、「市長」は聞いてくれません。そこで、彼が聞き入れる言葉を探してこう言います。「計画経済の下では民衆の薪米油塩、生老病死みんな市長が世話しなければならないんです。それは面倒でしょう? 市場経済をやれば、自然に任せればいいから、『市長に解決を求め』られる面倒はなくなります」。こうして「権力の制限」は「責任の回避」に変わります。責任は回避しても、権力は制限を受けません。「市長」は「民衆」をわずらわせることができますが、民衆は「市長に解決を求める」ことはできません。何と素晴らしいことでしょう!

 しかし、問題は市場経済の下で市長の仕事は何かということです。 それは民衆にサービスを提供することですから、民衆が市長に解決を求めてはならないなんてことがありえましょうか? 民衆が市長の所に来たら、「市場に行け」と言って追い出すのでしょうか? 「市長」は勝手気ままに民衆から徴税できるのに、民衆は「市長」に対して福祉を求められないのであれば、どの国も大金持ちなるに決まっています。私が言う「大金持ち」とは国家財政のことで、民衆の懐具合のことではありません。私たちが現在目にしている中国モデルの特徴とは何でしょう? それは政府が大金持ちだということです。西側の政府が財政がひっ迫してあちらこちらに布施を求めている時、我が国の政府は湯水のようにお金を使っている。我が国の鎮政府の豪華ビルは西側の大都市の市役所よりもずっと豪華ですし、私たちの都市には「イメージ・プロジェクト」〔共産党中央のメガネにかなうように、街の目に就くところを飾り立てる事業〕が充満していて、西側の「豊かな国」から来た観光客はあっけにとられています。「ビッグパンツ(「大褲衩」中央テレビ局ビルのあだ名、建築費50億元と言われている)や、ゆで卵(「水煮蛋」中国国家大劇院のあだ名)、他人ができないことを、俺たちはやった!」。それでもお金を使いきれないので、米国にお金を貸しています。国内に隠しておいても心配ですからね!

 これこそが我が国の「モデル」です。中国は決して他の国より左だったり右だったりしているわけではありません。ただ、中国が「左」になると政府の権力拡大は簡単になりますが、政府の責任追及は困難になります。中国が「右」になるとどうでしょう? そうなると政府の責任逃れは簡単になりますが、その権力を制限することは難しくなります。それにはそれでもちろん優越性があります。原始的蓄積が速いということと、非常事態を収拾する能力が非常に強いことです。手中に巨額のお金を握っているから、経済刺激策を実行するのはもちろん容易です。もめごとの解決にも、物惜しみをしません。ですが、その結果はどうでしょう? こんなに投資を加速していて生産能力は過剰にならないでしょうか? 独占部門の利益追求は社会の二極化を激化させないでしょうか? 人為的に家計消費を抑えることは内需不足を招かないでしょうか? そして、権力集中の様々なリスクなどなど。これらについてはここでは議論しません。いま私が話したいのは、もしもこのようなモデルおよびこの中国モデルと前述した西側のモデルの相互作用を特徴とする、現在私たちの目の前で進行しているグローバル化がこのまま進展していったら、中国と世界の未来は一体どうなってしまうのだろうかということです。
  
原文出典:http://www.caijing.com.cn/2010-09-25/110529684.html
(転載自由・要出典明記)