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中国共産党の最新禁書リスト

2007-01-20 17:39:39 | Weblog

香港のサウスチャイナモーニングポストによると、中国国家新聞出版総署副署長のウ・シューリンは1月18日宣伝出版工作会議の席で下記の8冊の本を禁書にし、出版社を処罰すると発表した。
下記はその全八冊の書名、著者名、出版年月、出版者名である。

1、『伶人往事』章詒和著2006年10月湖南文芸出版社
http://www.chinesepen.org/
gjwt/ShowArticle.asp?ArticleID=6694


2、『滄桑』暁剣著2006年8月上海文芸出版社

3、『我反対:一個人大代表的参政伝奇』朱凌著2006年11月海南出版社

4、『一個普通中国人的家族史(1850-2004)』国亜著2005年1月人民文学出版社
https://www.recordhistory.org/
mediawiki/index.php/
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E9%80%9A%E4%B8%AD%E5%9B%BD%
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E6%97%8F%E5%8F%B2


5、『風雲側記-我在人民日報副刊的歳月』袁鷹著2006年10月中国档案出版社

6、『年代懐旧叢書』昿晨編著2005年10月中国友誼出版社

7、『如焉』胡発雲著2006年10月中国国際広播出版社
http://www.chinesepen.org/
gjwt/ShowArticle.asp?ArticleID=6709


8、『新聞与官場的内幕故事:新聞界』朱華祥著2006年10月中国広播電視出版社

    《南华早报》报道指出,所有本禁作品都是知识分子对中国现代以及当代历史上大事的反思,这一禁令体现出中国当局仍在试图控制人们对敏感历史事件的讨论。
    
    报道称,遭禁的作品除了章诒和的《伶人往事》之外,还有从个人经历视角讲述辛亥革命到大跃进的中国历史的《沧桑》(作者晓剑)、有关民权活动人士姚立法经历的报告文学《我反对:一个人大代表的参政传奇》(作者朱凌)、讲述解放战争以来一个普通中国家庭经历的《一个普通中国人的家族史》(作者国亚)、《人民日报》退休编辑袁鹰的回忆录《风云侧记——我在人民日报副刊的岁月》、回顾50-80年代中国大事的历史丛书《年代怀旧丛书》(编者旷晨)、讲述非典疫情期间一名女子因钟情互联网而放弃作副市长的情人的《如焉》(作者胡发云)和家属中国新闻界幕后人情世故的《新闻界》(作者朱华祥)。
    
    《南华早报》报道称,有关禁书令由国家新闻出版总署副署长邬书林在上个星期的一次宣传和出版工作会议上宣布,并在星期四(1月18日)得到一名负责管理出版业的官员的证实。


何清漣:中国における統治の暴力化(6)

2007-01-20 10:51:29 | 中国異論派選訳
結語:統治手段の非正当化と社会構造の非正義化

 本研究報告は中国政治領域で発生している3つの大きな変化について十分に示した。それは公権力の私人化、政治暴力の公開化と普遍化、政府行為のヤクザ化である。それは、中国当局の非正当的統治手段への嗜好を示している。このような状況の出現の根本的な原因は、90年代から始まった経済改革が統治エリート集団による公共財産の収奪の口実と化している事である。このような資源分配の極度に不公平な構造は最終的には社会構造の非正義化を招き、中国政府も統治の合法性の危機に陥るであろう。このような合法性の危機は中国民衆が社会主義体制の略奪性と独裁性を悟ったことというよりも、中共が統治を維持するために頼ってきたイデオロギー神話を役人がぶち壊したことによるというべきである。

 中共のイデオロギー神話の主旋律は、社会主義国家の人民は国家の主人であるだけでなく、国家の富の主人であり、中国共産党政府は人民の政府であり、その行為の一切は人民への奉仕であるということである。かつて中国国民は長期間、社会主義体制はよいものであり、ただ基層役人の汚職が中国を害していると信じてきた。「中央の経典はよいが、みな下(基層政府を指す)の口の曲がった和尚が曲げて唱えている」という流行語は、中国民衆のこのような認識を示している。
しかし、90年代以降の社会の現実、とりわけ本文で分析した土地収用立退きにおける政府の行為ははっきりと、上述のイデオロギー宣伝がウソであることを示している。イデオロギー神話の支えを失った時、下層民衆の日増しに強烈な抵抗に直面し、民衆搾取の利益を確保するために、社会主義を維持する中国政府は袋小路に入るしかない。非正当的統治手段を借りてすべての抵抗を鎮圧するのである。

 統治手段の非正当化は主に政府の日常行政が益々暴力に頼るようになっていることに現れている。近年、中国の政府行為の暴力化は特に注目を集めている。このような暴力は次のような場面に現れる。

 第一の場面は警察・税務・商工業管理・都市管理・農村産児制限部門の法執行過程で弱者層に対して振るわれる暴力である。このような暴力の対象は沈黙と受忍を強いられることが多く、抵抗も個別的なものである。そうした砂粒のような抵抗は中国政府の統治危機感を引き起こさない。中国政府もこのような法執行方式の非正当性に気づいてはいるが、「公務員の法意識が薄弱である」という結論で済ませてしまう。

 第二の場面は政府とヤクザ組織が手を組んで暴力を濫用したり、政府部門が直接ヤクザ的手段で大規模に農民の土地と都市住民の住宅などの民衆の生活資源を略奪する場合などである。この種の暴力は統治権力を借りて、地方政府とエリート集団の利益を満足させるためのものである。しかも、往々にして現地政府の公布した行政規則を根拠とし、合法の形をとって公然とこれを行う。それは統治者が権力を傘にきて暴力を濫用して被治者を傷つけるものであり、その暴虐の程度は第一の公務執行過程での公務化された暴力の程度を超えており、一種の典型的な国家による非正義行為である。この種の国家の非正義行為により害される人の数も公務化された暴力を超えている。都市立退き住民の抵抗は未だに個別的であり、抵抗スタイルもせいぜい政府当局の良識を喚起することを期待しての自殺と自傷である。しかし、農村では地縁血縁などの関係により、団結して抵抗できる。とりわけ、多年にわたり地方政府の公務化された暴力に抵抗する過程で、各地で農民リーダーが育ってきている。さらに一部の中国の周縁知識人は専門的な人権活動家に育ってきており、彼らが団結して、強制土地収用や暴力的立退きに抵抗し、これに対し中国政府は大規模に国家暴力を濫用して農民の抵抗を弾圧している。このような強者と弱者の対立の中で、被治者の恐怖感を増し局面を制圧するために、中国政府は特務統治式のテロを用いている。

 第三の場面は特務統治による社会制圧の強化である。90年代後期以降、特務部門である国家安全部は広く社会の各分野に浸透し、最新技術を使って当局から異論派と目された人を追跡、監視している。そして国家安全部の権力乱用は他の政府部門よりさらにやりたい放題であり、しばしば無実の罪で人権活動家を弾圧する。このような無実の罪は、国家安全危険罪、国家機密漏洩罪、政府転覆謀議罪などの罪名乱用のほかに、盗品や禁制品を人の家に持ち込んだりかばんに入れておいてそれを所持していたとして罪を着せることもある。たとえば、2006年8月には北京の弁護士許志永が山東省に行って盲人の人権活動家陳光誠の弁護を行おうとしたところ、地方当局に「窃盗罪」で拘留された。同月、郭飛雄は北京に向かう列車の中で「ニセの切符で乗車した」とでっち上げられ拘留された。つづいて9月には「不法営業罪」ででっち上げられ拘留された。もっともひどいのは政府が行政責任を回避するためにヤクザ(すなわち「身分不詳の暴徒」)を使って、異論派と人権活動家に傷害を加えることである。また、大学の中ではいわゆる「情報員」制度が実施され、学生の中からスパイを養成して、教師の教室における言動を監視している。

 公権力の私人化、政治暴力の普遍化、政府行為のヤクザ化を特徴とする統治手段の非正当化は、すでに中国現代政治生活における抜け出すことのできない悪夢となっている。地方当局と民衆のたびたびの衝突の中で、事態が国際世論の批判を呼ぶまでに発展しても、例えば、河北省定州事件の定州市共産党委員会書記和風のように中国政府はたまに身代わりの羊を1,2匹裁くだけである。しかし、この種の政府行為の暴力化が中国の政治システムに植え付けられたことは中国の全体主義政治のもとでの権力秩序維持の必然的結果であり、決して「一部の政府役人のレベルが低く、法意識が希薄であった」からではない。よって、個別の役人を裁くだけでは政府の統治手段の非正当化の流れを食い止めることはできない。言い換えれば、現在の中国の非正義の社会構造を変えて始めて、政府行為のヤクザ化をとめることができる。そして現在のこの非正義の社会構造を変えるには、このような非正義の社会構造を作り出している政治体制を変えなければならない。

 中国の社会構造の非正義化はどのように形成されたか? 答えははっきりしている。中国が政治体制改革を拒絶し、公平で正義にかなう経済改革を拒絶したことによって造られたのだ。中国30年の経済改革は権力の市場化から始まり、公共権力はとうの昔にエリート集団が公共財と国民の財産を奪う手段へと転化した。このような権勢の私有化を起点とする富の分配構造はついに中国を非正義の社会構造にした。83%前後の社会下層は搾取と抑圧の下におかれている。このような非正義の社会構造は必然的に社会の構造的緊張をもたらす。そして中国は人口過剰で、資源が不足しており、政府は貧困人口を支援する社会福祉制度を構築して社会の緊張を緩和する能力がない。その結果ついには本研究報告で分析したような政府行為のヤクザ化をもたらした。

 統治手段の非正当化はまた中国の統治エリートの「末期心理」の反映でもある。支配者が口頭で信仰していると言うマルクス主義は彼らが行っている搾取行為を完全に否定している。権力を使って金銭を強奪すればたちまち豊かになるだろうが、引き起こす社会的憎悪は中国をいつ噴火してもおかしくない火山に変えてしまう。中国の高級・中級役人の一般的考え方は充分な金を稼いだら一家を挙げて外国に移民するというものである(一部はすでに家族だけ先に国外に送っている)。このような意識は国家の管理に現れる。すなわち民衆に対する恐怖心から権力支配に力を入れ、それが政治暴力の濫用とヤクザ的手段に表現されているのである。

 統治手段の非正当化は中国を民主化からいよいよ遠ざける。中共の統治はすでに50年以上になるが、その間に犯した罪は非常に多い。しかし、80年代には政府と人民の関係はこれまでになく和合していた。ところが、中国政府は自信のなさから、国家の犯したいかなる罪についても謝罪せず、むしろいわゆる「未来に目を向ける(向前看)」に名を借りて、すべての重大な歴史上の罪責を隠蔽してしまった。90年代後期以降、統治エリートの高度な略奪性と利己主義が引き起こす社会的憎悪は益々深くなっている。この現実は中国の統治エリートに民主化すれば、民衆の彼らにたいする政治的清算の実行は必然であるということを予知させる。よって、こんにちの中国の統治エリートの民主化排斥は、80年代の中共統治集団と比べ物にならないほど強烈である。

 中国の社会構造の非正義性は中下層民衆、とりわけ弱者層に対して「改革」に名を借りて略奪を行う。しかもこの略奪は政府によって法令として合法化される。弱者層は今日を奪われるだけでなく、高額の教育費を払えないがゆえにその子供たちは高等教育を受けられず、明日をも奪われる。中国の弱者層の我慢は臨界点に達しており、「生きていても何の意味もない」というのが多くの人の口癖になっている。2006年9月4日、「網易文化」がネット上の世論調査をした。「もしも来生があったら、あなたはもう一度中国人になりたいですか?」。9月10日夜11時までの時点で、10,234人がアンケートに答えたが、その内の64%は「来生には中国人になりたくない」と答えている。その理由として「なぜなら中国人には人としての尊厳がないから」というのがトップで総投票数の37.5%であった[63]。幼稚園から国民に愛国心を教え込む国で、三分の二近くの回答者がこのような気持ちを示すことからも、中国の政治的凝集力がどこまで低下しているかがわかるだろう。

 暴力を尊ぶ「弱肉強食」は深く中国人の行動様式に影響を与え、財産略奪を目的とする刑法犯と極端な暴力事件は急増している。社会的弱者層は体制の暴力とヤクザの暴力に抵抗できないので、社会の暴力は往々にして一般市民にむけられた無目的の暴力犯罪となる。このような暴力は社会的不公平に対するうっぷんを晴らす殺人であったり、より多くは財産略奪目的の殺人である。中国では近年金持ちの誘拐・殺人事件が激増しているが、それは中国における社会的暴力蔓延の結果である。

 中国政府の統治手段の非正当化の要点は赤裸々な暴力に依存した統治である。これは毛沢東の当時の「鉄砲から政権が生まれる」というスローガンの変形であり、その精神はヤクザ組織が暴力に頼って生存するのと一脈通じている。このように暴力をほしいままにした結果は、中国の民間社会と政府の間のゲーム空間の狭隘化であり、中国民衆の人権状況改善と政治の民主化は一層困難になってきている。(了)

[番号]に示された出典については原文参照。
原載:
http://www.chinayj.net/
StubArticle.asp?issue=060302&total=94