思いつくまま

みどりごを殺す「正義」はありや?
パレスチナ占領に反対します--住民を犠牲にして強盗の安全を守る道理がどこにあろう

中共教育部的“史盲”和“无耻”(転載)

2005-08-31 22:24:56 | Weblog

 
学者点评
在北京的政治评论人士刘晓波

上世纪八十年代中期,邓小平基于体育爱国主义的思路,曾提出“足球要从娃娃抓起”。自此,中共各级部门也爱用“从娃娃抓起”来应对各类精神危机,但很难收到什么实效。那些人五人六的大人先生们都在腐败大道上前赴后继,凭什么要拿还未被污染或污染较少的娃娃们的小心灵开刀。

邓小平基于体育爱国主义的思路,曾提出“足球要从娃娃抓起”。

最近,针对腐败越来越低龄化的趋势(如,大陆媒体常有关于中小学生靠送礼选班干部、班干部收了同学礼物就向对方提供方便的报道),中共团中央等部门发布了《关于在全国青少年中深入开展廉洁教育活动的通知》,与之相配合的中共教育部声称“反腐败要从娃娃抓起”。

教育部有关文件指出:从今年下半年开始,中共教育部将在北京、天津、上海、浙江、湖北、陕西、太原、南京、广州、深圳的大中小学开展这项“从娃娃开始抓起”的反腐败工程。

该文件还特别强调此项工程的微言大义:“在大中小学开展廉洁教育试点工作,是建立健全党风廉政建设和反腐败工作长效机制的必然要求,是加强和改进未成年人思想道建设和大学生思想政治教育的重要任务,对于促进青少年学生健康成长,确保党和人民的事业代代相传、长治久安,具有重要意义。”

最反讽的是,教育部居然把腐败低龄化的趋势归结为西方:“国际国内形势的深刻变化,使青少年学生面临着大量西方文化思潮和价值观念的冲击;某些消极腐朽的思想观念和侵害公众利益的腐败现象对他们的影响不可低估。”

真是独裁制度的教育部!

依我看,不抓倒好,一抓准更糟。

其一,官方为青少年确立价值标准,这本身就是权力滥用——强制性的观念灌输和思想独裁——无论怎样滥用公权力,都脱不了腐败的嫌疑。

其二,负责青少年思想教育的几个主管部门的官员,即便抛开他们自己的品如何不论,仅就他们的制度常识和历史知识而言,他们就是绝对不称职的教育者。

众所周知,自从东西方有了交往以来,大凡东方的独裁国家都喜欢为维护独裁找个外部理由,顺便也为内部危机找个外来的替罪羊。加强思想独裁和加大军事投入,是因为国际反华势力的存在,特别是美国霸权的“亡我之心不死”;国人的道堕落和普遍腐败,是因为西方腐朽思想的侵袭。于是,不但大人们而且娃娃们都要充当抗拒西方价值和反和平演变的先锋。

相对于东方国家、特别是相对于中国而言,西方国家的腐败程度要低得多,堪称东方廉政典范之一的香港政府,也是拜港英当局所留下法治传统及其“廉政公署”。奇怪的是,西方价值为什么没能腐蚀他们自己及其青少年,而在远渡重洋之后偏偏腐蚀了我们中国的成人和青少年!

首先,稍微了解一点政治常识的人都知道,腐败的最大根源,不在于人性的善恶之别,而在于制度弊端,在于权力得不到制约、人治代替了法治的制度。所以,“权力导致腐败,绝对权力导致绝对腐败腐败”,才会变成千古箴言。

现在的中共高层,不仅要强加大学里的思想教育和严控高校BBS,而且还专门召开关于未成年人的思想道的高层会议,在这种意识形态急遽左转的官方主旋律下,反腐败从娃娃抓起的工程,与其说是为了从根基上建立廉洁的道基础,不如说是加强意识形态的灌输和管制的洗脑工程。

其次,中国现在的各类腐败现象,实在是古已有之,于今尤烈!稍微了解点中国历史的人都知道,帝制时代的腐败传统可谓源远流长。现在的“跑官卖官”在古代叫“卖官鬻爵”,现在的“司法腐败”在古代叫“买法卖狱”,现在的“贪污受贿”在古代叫“贪渎”。

在家天下的中国,皇帝之腐败不能叫“贪渎”,而只能叫“昏聩”,因为天下是他家的,再荒淫无度也就落个“败家子”的恶名。帝王的荒淫无度始于先秦的殷纣王和周幽王,以慈禧太后挪用海军银两大办六十寿辰而作结;“卖官鬻爵”的制度性腐败早在秦朝就开始了,有所谓“纳粟授爵”;汉代的“卖官鬻爵”兴盛于汉武帝时期,直到清代的“捐纳”;南北朝时期的皇帝石虎一次就征集美女3万,隋炀帝更是挥霍无度的典型;贪图女色和享乐的荒淫皇帝,也有“从此君王不早朝”的唐代玄宗和明朝万历。就连农民起义的领袖诸如黄巢、李自成、洪秀全,一个个也是荒淫成性和挥霍无度。

贪官文化更是一代胜似一代,有人曾统计过史料上腐败记载,远古至先秦78起,秦汉至唐末五代460起,宋代贪官已是十有六七,宋末更是廉吏10%而贪吏90%,明代是贪官污吏遍布内外,清代是贪官污吏遍天下。据《亚洲华尔街日报》曾经评出千年历史上的世界最大富豪50人名单,中国人占去六席:成吉思汗、忽必烈、和珅、太监刘瑾、清商人伍秉鉴和宋子文。

六人中的三人和珅、刘瑾、宋子文的财富积累与腐败高度相关。太监刘瑾被处死后,从他家中搜出黄金3360公斤、白银725万公斤,而明末国库仅有200万公斤白银。乾隆一死,和珅就被清算,查出他贪污白银达2.2亿两,梁启超统计的和珅家财是8亿两,相当于清政府十年的财政收入。

看看那些来华传教士的回忆录,利马窦、丁韪良、李提太摩等人,每人都谈到了令他们吃惊的官场腐败。英国人赫之所以被朝廷委以大清国海关总管的重任,很重要的原因之一,就在于他治下的海关能够大大减少腐败,从而为朝廷财政多提供银子。当年的鲁迅,从满纸仁义礼智信的字缝里读出“吃人”二字,愤而发出“救救孩子!”的呼吁。

其实,地方官员为了在反腐败问题上出政绩,想出过许多令人昏招,诸如妻子监督丈夫的“贤内助工程”,家庭成员之间相互监督的“家庭廉洁工程”。“反腐败从娃娃抓起”的试验,也早就有地方政府尝试过。

比如,2004年4月,广州市芳村区推出一项“小眼睛盯住大眼睛”活动,通过任命学生监察员,用孩子们天真纯洁的眼睛来监督为官父母们的行为,防止贪污腐败的发生。在芳村区小学,该区纪委、共青团市委和区教育局等部门给12名党风廉政建设学生督察员和10名校外辅导员颁发聘书,赠送一批党风廉政教育的学习资料。

12名学生督察员,年龄最小的仅8岁,最大的17岁。他们的爸爸或者妈妈都是在芳村区任职的科级以上的干部。小督察员们表示“要好好发挥廉政监督作用,因为监督当官的父母就是对父母最大的爱?”

中共教育部放着老祖宗那源远流长的腐败史不提,而把腐败源头归于西方价值的传入,不是故意歪曲历史,就是“史盲”。其实,日理万机的官员们,要了解中国的腐败文化,也不必费力去翻检原始史料,只找一本吴思先生的《潜规则》读读,就足以达到“扫盲”的效果。

教育部如此兴师动众地“抓娃娃”,我以为还有更切身的利益在作祟。众所周知,当下中国的教育腐败之严重,已经达到国人公愤的程度,其根本原因在于教育权高度垄断下的产业化政策。而放着愈演愈烈的千夫所指的教育腐败不抓,却大张旗鼓地抓娃娃的廉洁教育,颇有转移视线和转嫁危机之嫌。

成人世界的腐败让孩子们当替罪羊,还有比这更无耻的教育部吗?

在知识上,中共教育部是“史盲部”!

在政上,中共教育部是“无耻部”!

2005年7月27日于北京家中

原載:http://news.bbc.co.uk/


「日人排斥」は如何?(転載)

2005-08-31 09:28:04 | Weblog

我很钦佩"爱国"者把"抵制日货"做到底。但,美中不足的是没人提倡"抵制日人"。在中国的大城市,农民工为城市建设做贡献的时候,有种种壁垒阻止他们安居乐业,从繁琐的暂住证件手续到昂贵的孩子就学费用等,几乎生活的所有领域受到歧视。使农民工感到祖国城市的冷漠。反而,从内外差价取消以后,日人在中国的大城市居住的时候,起码表面上吃饭、住宿等都享受平等待遇。难道农民工不如日人?还是农民工比日人有更多的历史包袱? 为了防止经济侵略和文化侵略,使日人感到中国的仇恨,中国大城市向日人索取比国人贵几倍的费用,如何? 另外,也应该抵制向日本出口产品和劳力,不让日人占便宜。这样做才是"爱国"到底!
国际友人, japan

正如余杰所说,除非中国自己尊重同胞的生命、正确对待历史,否则日本不会严肃看待中国的抗议。中国还在广场上供奉毛泽东的尸体,而他生前害死的中国人比日本侵略军害死的要多好几倍。我也不赞成抵制日货。贸易本身是互惠互利的,贸易不是抢劫。而且日本人生产的东西小到二极管、三极管,达到机车、起重机,无所不有。如果销毁所有日货,中国马上就会瘫痪。真有志气,就自己争点气,生产出更好的产品,卖到日本去!民主是大势所趋。中国最紧迫的任务是民主化。实现了这一步,国民的积极性就会调动起来,生产力会飞速发展。中国缺什么也不缺人才。到那时,任何问题都迎刃而解。中国如果实现民主,可以在整个东、南亚地区实现自由贸易,向欧洲那样,国界都不重要了,也就无所谓什么台湾问题、日本问题了。
bai, China Mainland

BBCの論壇より


アジアで大流行している覚せい剤の源

2005-08-30 10:26:50 | Weblog
メトアンフェタミンの覚せい剤としての使用の起源が日本軍にあったということは広く知られているが、下記引用文は具体的な経緯を書いていて興味深い。

以下引用:
1941年(昭和16年)、第七陸軍技術研究所に特殊任務が下された。一日100キロの行軍に耐える体力、夜間に周囲を見通す視力、三時間の睡眠で事足りる回復力、寒冷地においても防寒着を必要としない順応性などを開発せよ、という下命である。 薬の力で肉体的に「超人」を作り上げる計画である。科学者の英知を絞って研究していたのだが、同年に販売されたヒロポンの効力が勝っていた。「注射用アンプルと錠剤とがあり、主として夜間の軍事作業や重労働に用いられ」ていたようである。
次いで特攻隊向けに使われたのである。ヒロポンにお茶の粉末を混ぜたものを出陣の前に「特攻錠」として支給されたのだ。「神経を極度に高ぶらせ恐怖を取り除く効果が狙いであった」そうである。これから死ぬことを自覚した直前に、国家から覚醒剤を支給されて精神的には極度にハイな状態で突っ込んで行ったのだ。
終戦後にそのヒロポンが社会に出回ることになる。ヒロポンとは、ギリシャ語で「仕事を好む」の意味で大日本製薬が販売していた。

「陸軍技術研究所ノ所掌事項」(昭和17、10、13 陸達68)
第七條 第七陸軍技術研究所二於テハ左ノ業務ヲ掌ル
一 兵器ノ物理的基礎技術ノ調査及研究〔弾道二関スル基礎ノ研究ヲ含ム)ニ関スル事項
二 物理的兵器ノ考案ノ為ノ基礎研究二関スル事項
三 兵器二関連スル科学的諸作用ノ生理学的ノ調査及研究(第六陸軍技術研究所所掌ノモノヲ除ク)ニ関スル事項
四 所掌事項ノ技術及科学ノ研究二関スル事項
本達ハ昭和十七年十月十五日ヨリ之ヲ施行ス
陸軍大臣官房編纂:「陸軍成規類聚 第一巻第二類」昭和16年(第三十版) (防衛研究所図書館史料閲覧室所蔵)
引用終了
http://hayawasa.tripod.com/tuzimoto08.htm

また、現在の自衛隊法にも次のような規定があり、旧軍以来の「輝かしい」伝統を感じさせる。
(麻薬及び向精神薬取締法 等の特例)
第百十五条の三  自衛隊の部隊又は補給処で政令で定めるものは、麻薬及び向精神薬取締法 (昭和二十八年法律第十四号)第二十六条第一項 及び第二十八条第一項 又は覚せい剤取締法 (昭和二十六年法律第二百五十二号)第三十条の九 及び第三十条の七 の規定にかかわらず、麻薬又は医薬品である覚せい剤原料を譲り受け、及び所持することができる。この場合においては、当該部隊の長又は補給処の処長は、麻薬及び向精神薬取締法 又は覚せい剤取締法 の適用については、麻薬管理者又は覚せい剤原料取扱者とみなす。
2  前項の部隊が第七十六条第一項の規定により出動を命ぜられた場合における麻薬及び向精神薬取締法 の規定の適用については、前項後段に規定するもののほか、当該部隊が撤収を命ぜられるまでの間は、当該部隊の医師又は歯科医師は、麻薬施用者とみなす。

中国人記者の見た反日感情高揚の原因(翻訳)

2005-08-28 10:46:47 | 中国異論派選訳
中国人記者の見た中国民族主義(劉小彪・抄訳)

1、民間の反日感情高揚の4つの原因

 私の見るところ、中国の民間での反日感情の高揚には主に4つの原因がある。第一、歴史の痛み。第二、現実の摩擦(近年の日本の右翼勢力の跋扈)。第三、中国(中国共産党:訳注)の宣伝思想とマスコミ報道。第四、中国民族主義の隆盛。前の3つの原因に加えて国際枠組みの変動と中国の国力の増強がもたらした民族的自負心の増強などの原因が重なって今日の中国民族主義を後押ししている。しかし、その後の中国民族主義の隆盛はひるがえって前3者の強化もしくは顕在化をもたらしている。

2、マスコミ報道の「ロマンチック」から「憤怒」への変化

 少し前に、私は中国国家図書館(日本の国会図書館に相当:訳注)で20年前の人民日報を調べてみた。あのころの文章を読み返してみると、非常に感慨深い。たとえば、1984年1月15日の人民日報7ページには「札幌の夜」という記事が載っている。作者の蒋元椿はかつて人民日報の国際部主任を務めた人物だ。この記事は作者が札幌の小さな食堂で食事をした時の経験が書かれている。この文章は次のように結ばれている。「(店の主人伊藤さん)ビールを1本取り出し、栓を抜いて3つのコップに満々と注ぎ、一つを取って言った。『我々の二つの国の友好が永遠に続きますように!』。私たち(作者と同僚の孫さん)は立ち上がって、コップを取り、3人が向き合ってそれぞれのコップのビールを一気に飲み干した。私は、これを苦いビールではなく、甘い友誼の露と感じた。私たちは伊藤さんに別れを告げ、お互いに深々とお辞儀をした。店を出て街に出ると、外はピューピューと寒風が吹いていたが、札幌の夜のなんと暖かいことよ!」。
 このような文章は、今ではまず見ることはできない。

 1978年の改革開放から現在までの25年間、中国(中国共産党:訳注)の宣伝思想とマスコミ報道の分水嶺は1989年の天安門事件の前後であった。1989年以前は、中国の知識層のメインストリームは「親西側」と「反伝統」であった。中国の宣伝思想とマスコミ報道は西側諸国に対して「ロマンチックな感情」に満ちていた。1989年の天安門事件以降、西側諸国は中国に対して制裁を行った。それ以降、中国政府は中国伝統文化を発揚することに力を入れ、愛国主義と集団主義の教育を強力に推進し始める。とりわけ、「中華民族」概念を強調するようになった。私が以前行った人民日報の研究によれば、中国共産党中央委員会機関紙として、中国政治への影響力がもっとも大きい人民日報紙上に「集団主義」、「愛国主義」「中華民族」の3つの単語が登場した記事は1988年がそれぞれ、14本、113本、237本であった。それが1年を置いた1990年にはそれぞれ91本、517本、637本に激増している。コントラストはかくも強烈である。しかも、これらの単語の使用回数はその後も長期にわたって増加を続けた。

 中国政府がこのような行動に出るにはそれなりの理由があり、客観的にも積極的な作用も多かった。例えば民族団結力の強化などなど。しかし、それはまたマイナスの影響ももたらした。たとえば、一部の青年が「非理性的」に外部の世界に対して「NO」と言い始めたことである。
 近年、中国マスコミは日本と中日関係について大量の「マイナス報道」を行っているが、それは日本の右翼勢力の横行のような客観的事実の反映であると同時に、中国の民族主義的情緒の高揚の表現でもある。もちろん、他にも中国のマスコミが市場経済化の中で(部数を伸ばすために:訳注)読者の不良傾向に迎合するなどの要因も混じっている。

3、中国民族主義はすでに「高度危険期」に突入している。

 西北大学は私の母校である。私は10年前に西北大学の大学院生であった。また、最近、西安の取材をした時に、学校にも立ち寄っているので、西北大学と西北大学の学生についてある程度知っている。実際のところ、西北大学の学生は中国のほかのすべての大学の学生と同じである。愛国、愛民族について非常に単純で素朴である。彼らには功利思想や私心の雑念はない。彼らにあるのは熱血だけである。どの時代でも、大学生はわが国の最も愛すべき人々である。私は、学生たちの示威行動を理解できるが、賛成はしない。西北大学事件(2003年)が発生してから、私は国内外の大量のマスコミ報道を読み、また直接西北大学の教師・学生に聞いてみたし、さらに何人かの日本人ともこの問題を話し合った。私の現在の見方は、日本人留学生の演技は品位にかける恥ずべき行為であるが、彼らの行ったことは彼らの道徳的なレベルの低さと低俗な品位の問題であり、彼らのような人は日本国内であれ、インドネシア、シンガポールあるいはアメリカに行っても、やはり同じような演技をするだろう。もし彼らが意図して「中国を侮辱した」と批判するとすれば、私はそれは「うがちすぎ」た見方だと思う。

 実のところ、私は西北大学事件のカギは日本人留学生がどんな演技をしたかではなく、演技の時間と場所であると思う。同じ演技を「ロマンチック」な1980年代に行っていたとしたら、現在のような激しい反発は招かなかったと私は信じる。しかし、状況は変わってしまって、現在の情勢では全く異なる。民間の反日感情は日増しに高まり、民族主義が日増しに勢いを増している。このような時代には、どんなに小さな火種も、大火事を引き起こす可能性がある。とりわけ、大学のような「熱血青年」の集まったところでは、小さな事件がたちまち大きな危機を招く。

 西北大学事件は私たちに警告している!中国の民族主義はすでに「高度危険期」に入ってしまったのだ。もし、速やかに適切な指導と、科学的な説明を行わなければ、このような民族主義が中華民族にもたらすものは福祉ではなく、災難であろう。

4、憂慮すべきインターネット上の「沈黙の螺旋」現象

 中国のインターネット上の激越な反日言論と極端な民族主義的感情は中国の一部のインターネット利用者の感情の客観的反映であることは疑うべくもない。しかし、それは決して中国の青年と民衆の全体を代表した意見ではない。その意味では、それは片面的な真実であり、虚構の真実である。
 ネット上の激越な反日言論と極端な民族主義感情を分析してみることはとても有意義なことである。まず、主にどんな人が発言しているのか?それは、感情の激越な人である。一方、比較的温和な人は普通あまり発言したいとは思わない。そこで、我々はBBS論壇上では理性的な、温和な発言をほとんど見出すことができない。しかし、そのことは我々の周囲に理性的な、あるいは温和な意見が存在しないことを意味しない。つぎに、発言したあとの反応と境遇を見てみよう。少数の、理性的かつ温和な発言が登場するや否や、まず批判・非難される運命を免れることはできない。そして、極端な、非理性的な発言はたいていが賞賛され、批判しようとする者はほとんどいない。同じように激越な人は互いに重んじあうが、批判的意見をもつ温和な人は相対的により寛容であるか、あるいは全く「恐れ知らずの無知」な発言にかまけることに興味がないかである。
もし、事態がこのようなレベルにとどまっている限り問題もないだろう。恐ろしいことは、上述の2つの原因から、インターネット上では憂うべき「沈黙の螺旋」現象が形成されつつあることである。つまり、感情の極端な者が、絶え間なく激励され続け、声がますます大きくなり、勢力がどんどん強くなっていき、言説も激越さを増していくのである。そして、理性的で温和な者は、絶え間なく攻撃され続け、声は徐々にか細くなり、すこしずつ孤立感を増し自信を失っていく。そして、両者の中間にいて、人数の最も多い中間派は激越な言説を見慣れて影響を受けることで徐々に激越な方向に向っていくのである。そして、ついにインターネットは激越な言説が支配することとなる。
中国のいくつかのニュースサイトのBBSを見渡してみると、日本に関する内容であれば、ほとんど全部の言説が激烈な批判、譴責と悪罵である。だれであろうと、それに対して「NO」と一言いえば、決まって口汚く罵(ののし)られる。たとえ、れっきとした前駐日大使であってもその人格を侮辱される。その結果、一部の中国の学者は記者の取材を受けるときに、ネット上で「漢奸(漢民族の裏切り者≒非国民:訳注)」と罵られるのを恐れて、匿名取材を要求する人も現れている。

5、極端な少数が沈黙の大多数を左右しつつある

 現在、中国のインターネット上のBBSはすでに極端な民族主義的感情に占領されている。中国は今世界でインターネット利用者が2番目に多い国で、しかも、急速に一般民衆の間に普及しつつある。インターネットは今では中国の社会生活の中でますます重要な地位を占めつつあり、ネット上の言論も中国の一般民衆の考え方にますます大きな影響を与えつつある。とりわけ、青少年に対して。もし、インターネット上の「沈黙の螺旋」現象が実社会の関係領域にまで広がり、極端な少数が沈黙の多数を左右するようになったら、我々の国全体、我々の民族全体が「ハイジャック」されてしまうだろう。我々が経験したことから見て、我々の周囲で起こっている変化のなかに、この恐ろしい兆候がすでに現れている。極端な民族主義は初めのあいまいな感情から本物の信念に変化しつつある。当面の急務は、「沈黙の多数」が大きな声で、勇敢に発言し、不退転の決意で局面を転換する責任を担っていくことである。
 一般的にいって、民族主義は民族共同体のメンバーが自民族に対する熱愛と自民族の利益に対する関心を基礎とする、民族の生存、発展と民族の権利に関する観念である。民族主義は、「両刃の剣」であり、積極的な面もあり、消極的な面もある。歴史段階ごとに異なる役割を果たしてきた。しかし、現在では、民族主義が極端な感情を煽り立てることは、他人にとっても自分にとっても有害な、正真正銘の「毒剣」である。
 ここで、特に強調しておきたいのは、私は特定のだれかれに反対しているのではなく、そのような極端な感情に反対しているのである。2003年中国国内で盛んに行われた中日関係大討論のそれぞれの立場の代表的な人物に私はみな会っているし、そのなかには友人もいる。私はどの立場にも完全に賛同はしないし、全く理解できないという立場もない。また、彼らと面と向っての議論もしたことがある。私は彼らの出発点と動機は愛国であると信じる。また私は同様に、ネット上で極端な言説を振りまく大多数の人も非常に愛国的であると信ずる。動機と出発点は善良かつ素晴らしい。私はみんながより理性的に、そしてより寛容になることだけを希望する。そうすることが我々の国と民族、そして全世界にとって非常に有益なこととなる。(2004年1月8日)
原載:http://pinglun.youth.cn/xzjt/t20040421_3084.htm

中国における排外主義の実情

2005-08-27 18:51:27 | Weblog

「日本人と犬は入るなかれ」中国の元国有の大手家電メーカーTCLの雲南省の代理店が店頭に写真のような侮蔑的な掲示をしている。 

摘自http://www.discloser.net/html/178806,74232900.html この写真が中国内の多数のホームページに転載された結果、TCLは2005年上半期のパソコン売上を急増させた。

転載写真はだいぶ削除されているが、まだまだ残っている
http://www.guoqing.net/bbs/printthread.php?s=6b60e8c1825ff3a1c7c6f63ff5352495&threadid=19794

http://www.01am.com/bbs/dispbbs.asp?boardid=20&id=7703&star=2&page=20

また青島ではこんなものも
http://bbs.ujn.edu.cn/showthread.php?s=62879cec146f57b18171787b403ee1ff&threadid=
121098&perpage=15&pagenumber=1

湖南省にはこんな像もある(国営新華社が賞賛)
http://news.xinhuanet.com/newscenter/2004-06/27/content_1549242.htm


ある記者の見た中国マスコミの変化(転載)

2005-08-25 20:08:05 | Weblog

  从1978年中国改革开放到现在的25年间,中国宣传思想和媒体报道的分水岭出现在1989年政治风波的前后。在1989年之前,中国知识分子的主流思想是“亲西方”和“反传统”。中国的宣传思想和媒体报道对西方也充满着一种“浪温情怀”。1989年政治风波后,西方国家对中国进行制裁。随后,中国政府开始着力弘扬中国传统文化,大力倡导爱国主义和集体主义教育,并特别强调中华民族的概念。我曾对《人民日报》做过一些粗浅的研究,作为中共中央机关报、中国政治影响力最大的报纸,《人民日报》在1988年使用过“集体主义”或“爱国主义”或“中华民族”这三个词语的文章分别有14篇、113篇和237篇,而相隔一年后,到1990年,使用过这三个词语的文章却分别剧为91篇、517篇和637篇。反差如此强烈,并且这类词语上升的趋势在此后的很多年里也一直持续着。

原載:http://pinglun.youth.cn/xzjt/t20040421_3084.htm


王霄:中国為什麼漢奸多(転載)

2005-08-24 20:44:36 | Weblog
在慶祝抗戦勝利60周年的時候,提出“中国為什麼漢奸多”的問題,可能有点煞風景。但我認為在這一日子里,戰敗国即侵略者需要反省,戰勝国即被侵略者也需要反省。1945年9月2日,在密蘇里巡洋艦上代表中国接受日本投降的徐永昌将軍,在日本投降書上簽字后,發表簡短講話,他説:“今天是要大家反省的一天!今天毎一个在這里有代表的国家,也可同樣回想一下過去。假如他的良心告訴他有過錯誤,他就應当勇敢地承認過錯而懺悔!”
我深為贊佩徐将軍的講話和這个講話所展現的思想境界。雖然徐将軍具体指的是英、法、俄等国当年對、日的緩靖政策和与狼共舞瓜分波蘭終於造成了敵国野心的膨脹和本国的禍端,但推而广之,我們未始不應檢討国人的缺点助長了日本的侵略。
因此,在這个特殊的歴史時刻,談論一下漢奸的問題,我覺得是有意義的。
先来談抗日戰争時期的漢奸数量問題。据專家介紹,在日本无条件投降后,經過統計,除滿洲国以外所有駐華偽軍的数量被繳械的大約是118.6万人,而滿洲国和偽蒙古軍当時有40万軍警,再加上各省縣的偽地方武装,所以目前广泛流傳的版本中有逾200万偽軍的説法。其實這里還應加上整个抗日戰争期間,被斃傷、俘虜和投誠的共有118万余偽軍,這樣算起来偽軍就有了300多万。這个数量的偽軍几乎超過在華投降時日本軍隊的数量—-120万人的两倍。這个日軍数量還包括在台湾和越南北部的的日軍,而這些日軍一般是不在抗戰實際作戰数字里的。
漢奸不僅是偽軍,還包括偽政府的各級官員。這个数量不好統計,但其作用是极大的。此外,還有相当数量的漢奸文人。如周作人之類。
外族入侵,国難当頭,出現一些漢奸走狗賣國賊,也不奇怪。但是如果数量過多,就値得沉思。這里我們就要問:当時的中国為什麼会有這麼多的漢奸呢?
原因可能很多,但我想,歸根到底,是中華民族(漢族:転載者註)的民族性問題。換言之,就是中華民族是否有一个民族的核心凝聚力和精神支柱的問題。如果有這樣一个核心凝聚力和精神支柱,在民族危亡之際,国人就会同仇敵愾,万众一心,共御外侮而不屈;如果没有這樣一个凝聚力和精神支柱,国人就会分崩离析,認賊作父,甘愿当亡国奴,甚至当漢奸。
這个民族性的形成,既包括了一个民族的傳統文化價値理念,也包含着現状的政治、經濟、社会形態給国人的影响。
从第一点来説,中華民族似乎不缺乏這樣的文化價値理念。中国傳統文化一直有国家和民族的觀念,国家和民族認同是中国人的基本道信条和行為准則。自从夏商周以来,中国国家形態初歩形成,中国人就堅持国家正統和国家一統的理想,不但“王于興師,修我戈矛,与子同仇”,“兄弟鬩于牆,外御其侮”,而且華夷之区隔是很強烈的,在民族遭遇外侵的存亡之際,總有无数可歌可泣的精忠報国的民族英雄。岳飛《滿江紅》詞云:“靖康耻,犹未雪,臣子恨,何時滅,駕長車、踏破賀蘭山缺。壮志飢餐胡虜肉,笑談喝飲匈奴血。待从頭、收拾旧山河,朝天闕。”陸游《示兒》詩云:“死去原知万事空,但悲不見九州同。王師北定中原日,家祭无忘告乃翁。”都表达了這種強烈的愛国精神。
从第二点来説,我以為更重要。現状的国家的政治、經濟、社会形態是什麼樣的,這樣一種形態給人民帶来什麼樣的后果,在很多時候超越了意識形態的国家理念的影响力。因為理念不是空的,一个有價値的理念,必須給信奉這个理念的人民帶来實際的利益。国家理念固然重要,但“民為邦本”,人民的實際利益更重要。我們都看到,当国家的統治者實行暴政時,人民就会起来造反,国家就会改朝換代。如果在乱政或暴政下,有外族入侵,那往往会戰士臨陣倒戈,人民夾道歡迎入侵者。就像美国打伊拉克那樣。
当然,在国家的仁政和暴政二者之間,会有一个中間状態,就是国家統治者昏庸,政治不清明,經濟凋敝,民不聊生。在這个時候,并發的是全社会的思想混乱,古人所謂“世道澆漓,人心不古”,人們的道責任感下降,出現了價zhi觀念和行為准則与傳統和正宗的標准的背离和扭曲。在此時,倘有外敵入侵,内憂外患并舉,就会出現許多特殊的現象。
我們看中国li史上几个被異族入侵并建立了王朝的例子,莫不説明了這一点。蒙古族滅宋建立元朝,滿族滅明建立清朝,都是在前朝已是矛盾重重、兵荒馬乱、積重難返、人民离心离的情况下實現的。在那時,雖然還有史可法、文天祥、張煌言、黄宗羲這樣的民族英雄,但更多的是望風披靡的降軍降将。清軍入關時,滿族全民族才几十万人,軍隊不過20多万人。就是這支侵略軍,打敗了数千万人口的漢族政權,漢族人民没有抵抗异族侵略。相反,出現了大量漢奸部隊,就像抗日戰争中的偽軍一樣,他們瘋狂地参加了對自己同胞的残暴。
而到了清末,li史又重演,雖然晩清不乏林則徐這樣“苟利国家生死以,豈因禍福避趨之”的憂国憂民的英杰,但畢竟大厦将傾,力可挽。武昌炮响,全国响應,大清朝寿終正寝。
但中華民国建立后,并未給国家和人民帶来安定和幸福,相反是軍閥混戰,人民涂炭,外強凌辱,国運日衰。在這種背景下,日本開始了并呑東亞的“聖戰”。抗戰一開始時是个什麼情况呢?据遲浩田将軍回憶,日軍對我根据地進行掃蕩,八个日軍士兵五支歩槍,一挺機槍,着一个縣城数万軍民棄城而逃。于是,連汪精衛,那个当年在同盟会時刺殺滿清攝政王被捕后写下“慷慨歌燕市,从容作楚囚。引刀成一快,不負少年頭”的具有強烈民族气節的人物,都当了中国最大的漢奸。
当然,做為个人来講,毎一个漢奸,可能都有自己個別的原因:有的是貪生怕死,有的是好逸惡勞,有的是追求名利地位,有的是苟且偸生,有的是争權奪利,有的是受到要挟,甚至可能会如吴三桂一樣“冲天一怒為紅顏”。但我們這里研究的是一个群体的行為,因此應当从社会学的角度,从社会的總体環境中去分析和認識中国為何漢奸多的現象。
在抗戰前后,不但一般社会成員好多對国家的觀念模糊,就是当時的統治集團和軍事集團,由于利益的不同,對国家的認同也是有諸多復雜的情况。从国民党来説,先是“九一八”堅决不抵抗,将東北拱手相讓給日本;后来是公開宣揚“攘外必先安内”,堅决要先消滅共産党和紅軍;后来在張学良、楊虎城兵諫后,蒋介石同意了与共産党聯合抗日,但也搞了不少磨擦,甚至發動“皖南事變”,同室操戈,要消滅新四軍;汪偽政權成立后,蒋介石也没有中断和日本的曖昧的談判。从共産党来説,也在抗戰中奉行保存實力、發展壮大的方針,毛澤東怒斥彭懷發動百團大戰“是暴露了共産党的主力”,引来了日軍對八路軍的圍剿。以后八路軍、新四軍基本是在敵后搞游擊戰,抗戰勝利后,共産党的軍隊從紅軍僅剩的三万人,發展到百万之众。后来解放后毛澤東数次對日本客人説“我們要感謝日本”,意思是説如果不是日本侵略,共産党就要被国民党消滅了。抗戰勝利后,為了取得蘇聯的支持,国民党竟同意外蒙古独立,而共産党其時也是贊成的。
政治不清明,經濟不發展,社会不安定,必然会造成整个国家和民族的国家認同趨弱。
当年徐永昌将軍在代表中国参加日本投降儀式后,同行的部属建議大飲,且謂此真“痛飲黄龍”時。徐将軍立即制止之,并有所感而記云:“諸人不悟憂難之将臨,似怪余不尽人情者!”九月三日午后,徐永昌偕下属至東京市区游覽,他看到日本警察守崗如常,民众肅穆有序,報紙直称降伏,而不掩飾,慨然嘆曰:“日本之興,可計日而待也;不實在无紀律之国民,将来困苦必較日本為大!”,后来徐将軍指出:“中国必須經過一位有有才的總統,任滿做了平民,而仍能自然的享受到人生幸福自由,給那些愚迷的野心者看看,觀感所及,以后国家才有進歩,中国人的人格才能普遍提高。” 他主張自固吾圉(yu,音語),改良政治。這真是找到問題的根子。
小結:漢奸多,不在日本之強暴,而在吾人之政治。

原載:http://www.yannan.cn/data/detail.php?id=8314

8月15日の靖国事件に抗議する声明 (転載)

2005-08-22 11:52:50 | Weblog
2005年8月15日、軍国主義と民族排外主義を掲げる右翼団体が靖国神社にあつまり、6千人の大集会を行いました。核武装を主張する安倍晋三、石原慎太郎をはじめとして、複数の閣僚と多くの国会議員が、右翼団体とともに靖国神社に参拝し、戦没兵士への「哀悼」の意を表しました。それは、かつての東アジアへの侵略戦争から現在のイラク戦争に至るまで、他国の民衆への虐殺行為を不問にし、自らの加害と被害を無関心の淵に沈めることで、戦争を容認するものです。

正午の時報を合図に、軍国主義者たちが黙祷を捧げ、そこから数百メートル離れた路上で、戦争反対を訴える私たちの友人が警察官に逮捕されました。かれらは、戦没兵士への「追悼」がさらなる戦争を準備するものであることをうったえ、戦争と軍国主義に反対するプラカードを掲げていました。プラカードを持った約50名の市民が靖国神社に向かって足をすすめようとするなかで、おおぜいの重装備の警察官が彼らを取り囲み、たまたま通りがかっただけの人々をもまきこんで、暴力的に圧迫しました。そうして、包囲した市民のなかから4名を引きずり出し、逮捕したのです。警察は逮捕理由を「公務執行妨害」であると言っています。しかしそこにいかなる正当な公務があったというのでしょうか。

日本の警察が、些細な理由で市民を逮捕することや、逮捕した市民を「過激派」と呼びなすことは、珍しくありません。そういうことに、私たちは慣れてしまっています。市民が自由に活動し意思表示をする権利がおかされ、警察の横暴と強権はますますエスカレートしています。市民が集まることや表現することが、愚かしい行為であるかのようにされようとしています。私たちは、戦前戦中の怖ろしい時代に逆戻りしているのではないでしょうか。

私たちは戦争に反対します。そして、戦争反対の意思表示すら許さないような軍国主義と警察国家に反対します。裁かれるべきは、プラカードを掲げる市民ではなく、市民を圧迫する者です。戦争反対を訴える市民がいったいどれだけ「過激」なのか、警察は「過激」でないのか、本当の「過激派」は誰なのかを、私たちは問うていきたいと思います。

ご支援とご注目をお願いいたします。

8月15日事件救援会(ANTIFA 815)
http://antifa815.podzone.org/

「中華人民共和国」と民主主義は二律背反

2005-08-16 16:09:35 | 雑感
中国では、1979年以降経済体制は非常に大きな改革がなされ、とりわけ1992年以降大幅に市場経済化したが、市場経済を支える基本原理であるはずの民主化に向けての政治体制の改革は1989年以降ストップしてしまっている。この間に行われたことであげることができるとすれば、1995年に人民代表大会選挙権を農民戸籍住民の1票の重さが非農民戸籍住民の8分の1だったのを4分の1にしたこと!(選挙法12条)と、政府行政組織ではなく、自治組織である村の村長を共産党の指名から村民選挙に変えたことぐらいである(1998年村民委員会組織法)。それでも、村の実権は任命制の村共産党書記に握られている。
政治体制改革はなぜ進まないのだろうか。それは、1989年の天安門事件における民主化推進派の弾圧以降の愛国心教育の推進と軌を一にしている。
共産党は1979年までは革命の輸出路線をとり、その精神的支柱は毛沢東式共産主義であった。1979年に文革派が敗北し、近代化派が権力を握ると、経済発展に重点をおき、一定の成果を上げたが、近代化の足かせとなったので、国民統合の象徴としての毛沢東式共産主義は揺らぎ、共産党の内外に経済改革に見合う政治体制改革の要求が高まった。その中には、政治的安定を重視しシンガポールのリークアンユー政権やチリのピノチェト政権あるいは韓国のチョンドファン・ノテウ政権のような開発独裁型政治体制を目指すものから一気に民主主義体制の実現を要求するものまで、さまざまな主張があった。
それが、1989年の胡耀邦の死をきっかけにした民主派の政治的自由を求める運動(焦点は言論の自由の保障だった)を弾圧することによって、共産党は党内民主改革派を排除し、開発独裁の道を選び取った。そこで、精神的支柱とされたのは愛国心である。

中国共産党の学生弾圧が世界中に報道された結果、ペレストロイカでソ連の監視が緩み、体制が弛緩していた東欧諸国において、東欧共産主義政権崩壊のドミノ倒しが起こる。それが、さらにソ連に影響し、ソ連の民主化と解体へといたる。
ソ連はロシア帝国の広大な植民地を継承した植民地帝国であったが、中華人民共和国も同様に大清帝国の広大な植民地を継承した植民地帝国である。
中国は1989年に開発独裁型国家として、その国民統合の精神的支柱を共産主義から、愛国心に転換したが、その後の天安門事件の世界への余波は愛国心教育を強化する必要性を一層共産党指導部に確信させた。
なぜなら、民主化が植民地帝国の解体を招くのを目の当たりにしたからである。しかし、愛国心の強調は一方で、国内の少数民族に自らの独自性を自覚させ、分離へ向けた力としても働く可能性がある。とりわけ、言論の自由や政治的民主主義の普及は少数者の声が社会に反映されることになり共産党にとって極めて危険である。当然、富国強兵を目指す共産党にとって、民主化は国家の弱体化以外の何物でもないので、手をつけられるはずもない。
現在中国共産党は学校教育やマスコミを使った愛国心教育の一環として「中華民族」の創設=少数民族の漢族への同化を大々的に進めている。

中華人民共和国人、とりわけ漢民族中国人の近年の対日イメージの悪化も、このような中国共産党の愛国心の強調の結果と見ることができるが、日本人の中国イメージも1989年以降一貫して悪くなっている。そして、日本の学校教育現場における「日の丸」、「君が代」の強制など、復古主義的な動きと全く同じ性質のことが中国でも同時期に起こっている(学校における制服、朝礼、国旗掲揚、国歌斉唱、軍事教練の導入など)ことは実に興味深い。世界はみなシンクロしている。あざなえる縄の如し。

「中華人民共和国」の「人民共和国」とは人民民主主義専制(共産党独裁)の政治体制をとることを意味する。中国で共産党独裁が放棄されたら、東欧諸国やモンゴルのように国名も変わらざるをえない。その意味でも「中華人民共和国」と民主主義は二律背反である。では、戦後民主主義憲法体制の「日本国」は「民主主義」政治体制のもとでどこまで排外主義的、人権抑圧的になれるのだろうか?ある程度までいったら「大日本帝国」に改名するのだろうか?

崩壊した中国の農村医療システム

2005-08-12 15:21:12 | Weblog
農民医療保障の現状分析
宋斌文、熊宇紅、張強
武漢大学社会保障研究センター
『当代中国研究』2003年第4期より
http://www.chinayj.net/StubArticle.asp?issue=030408&total=83

改革前(1978年以前)、中国農民(中国で農民とは農業従事者のことではなく、戸籍上農民身分とされた人々を指す)の医療保障は主に合作医療(医療互助制度)によっていた。改革後人民公社が解体し、農村の集団経済(郷鎮以下の公的機関が運営する経済活動。県以上は国営)が急速に萎縮し、合作医療の基金集めが難しくなった。その間、中央と地方の政府はいずれも合作医療を放置した。その結果急速に合作医療の加入率が減少し、1980年の69%から1983年には20%以下に激減した。1986年には5%まで減ってしまった。全国農村の大多数の村の合作医療は解体もしくは停止し、村の衛生室(合作医療ステーション)は農村医師(正規の医師資格をもたない速成医師、農村部には正規の医師を配置しないため農村部で働く速成医師を農村医師と呼ぶ。中国医師法30条参照。)の個人診療所に変わってしまった。農民は医療保障を失ってから、医薬支出の増加速度が農民収入の増加よりもはるかに速かったので、病気にかかっても医者にもかかれず薬も買えないという状況が一般化した。1990年から1999年までの間、農民の平均収入は2.2倍になったが、一人当たり平均外来診療費用と入院費用はそれぞれ10.9元と473元が79元と2891元に増加した。6.2倍と5.1倍である。「小さな病気はこらえ、大きな病気とは闘い、重い病気になったら閻魔様に会うのを待つ」、「救急車のサイレンが聞こえたら、育てた豚が1頭無駄になる」というのが農民が現在の医療状況を表現した言葉である。農村では、貧困家庭の30%から40%が病気が原因で貧困になったり、貧困に戻ったりしている。地方によっては60%以上の貧困が病気が原因である。経済的に発展した蘇州地区でも、いまだに20%以上の農民が医者にかかれない。

 90年代、一部の地方でいくつかの種類の合作医療のモデル事業が行われた。おもに「福祉型」、「保険型」、「福祉保険型」の3種類である。1997年1月に中央政府は「極力2000年までに農村の大多数の地区で各種の合作医療制度を確立する」と表明したが、全国でわずか18%の行政村で合作医療が行われたにすぎない。人口で言えばわずか農民人口の10%である。90%の農民はいまだに完全自費医療である。1998年の国務院機構改革以降、もともと衛生部が農村衛生医療事業の担当だったものを労働社会保障部に移管された。労働社会保障部は事業予算も不十分だったし農民負担軽減などの政策問題も重なり、結局農村医療保障事業は宙に浮いてしまった。

 現在、全国人口の15%を占める都市住民(都市に非農業戸籍を有する人々、都市に居住する農業戸籍の人々は含まれない)が衛生医療資源の3分の2を享受し、85%の農村人口はわずか3分の1の衛生医療サービスを受けるにすぎない。2001年、全国71万の行政村に70万の村衛生室があり、農村医師と衛生員(速成医師でもない医療従事者)は129万人いたが、1997年から比べると大幅に減少している。(衛生部の統計によると2003年末時点では農村医師と衛生員の合計で86.8万人、1村当り1.25人、農民千人当り0.98人。ちなみに日本は医師だけで人口千人当り2人、全医療従事者だと13人)。農村の保健予防機関(保健所機能を営むところ)、郷鎮衛生院数とベッド数も減少した。医療設備が更新されず旧式であり、農村の医療従事者は研修の機会もなく、人材流出も深刻なので、伝染病予防態勢が脆弱化し、絶えて久しかった伝染病、風土病が再び流行している。世界保健機構(WHO)の『2000年世界保健レポートでは』、191ヵ国中、中国は衛生費用負担の公平性の面で後ろから4位(188位)、衛生系統の全体成績評価では144位であった。

 農村医療保障が厳しい局面に陥ったことは政策誘導と大きな関係がある。まず、農業は中国の産業弱者であり、経済貢献度は下がり続けている。農民もまた最大の弱者集団である。各レベルの地方政府は、上級政府がGDPや財政収入といった指標により幹部(共産党および政府の官僚)の業績を評価し、昇進を決定するので、当然有限な財政資源を合作医療に使うことはしない。次に、ここ20年ほど農村衛生医療政策は基本的に市場経済化の方向で進められてきた。本来政府が負担すべき農村公衆衛生事業も市場化された。例えば、村の衛生室を個人事業者に請け負わせたり、郷鎮の衛生院を売却したりしたのである。さらに、現行の「分税制」と呼ばれる財政体制のもとで中央政府は農村衛生医療事業への財政支出を減少させ、県と郷の2段階の地方政府の財政に総人口の70%の農村衛生医療事業負担を押し付けた。周知のように、中西部地区の経済は不振であり、県レベルの財政は大部分が人件費のみで消える「飯食い財政」であり、郷レベルの財政は大部分が「飯も食えない財政」で、農村「五保戸(生活困窮世帯)」の支援もできない状況なのに、どこに合作医療再建の金があるのだろうか。第四に、政府の合作医療政策は矛盾している。一方で、1997年に中央政府(衛生部)は合作医療の役割を評価し、各地で合作医療の回復と再建を行った。しかし、もう一方で、農業部などの関係政府部門は農民から合作医療負担金を徴収するのを「不合理な負担」とみなし、1999年と2000年に農業部など5つの部と委員会連名で、合作医療の「強制実施を禁止」した。第5に、合作医療に対してさまざまな誤解がある。一部の政府職員、末端幹部さらには一部の農民までが合作医療を「文革」の遺物とみなし、合作医療再建は平均主義であり、「大鍋の飯を食う」(1958年からの大躍進のときに村ごとに共同食堂を開設し、全員で大鍋で炊いた飯を食ったことから平均主義のたとえ)ことになるみなしている。一部の幹部は合作医療は経済成長に貢献が少ないから手をつけたくないと思っている。一部の農村末端幹部は政府の合作医療分野での政策が不安定なので、合作医療を推進しても評価されないし、資金が集めにくいだけでなく農民の不満を招きやすいと考えている。また、少なからぬ農民が以前の合作医療の教訓から、自分が負担金を払っても病気にならなければ損になるとか、「幹部はよい薬を飲んで、自分は安い薬しか飲めない」ことを嫌い、合作医療を信頼していない。第6に、農村合作医療は長期にわたって行政命令により強制的に実施されてきた。法的な根拠をもたず、「厳しくしたり、緩めたり、つぶれたり」不安定であった。最後に、農民は農村医療従事者はレベルが低く、大きな病気を治す技術も設備もないと感じているので、合作医療に参加しても何の助けにもならないと思っている。また、保険的な合作医療は「逆方向の選択」により困難に直面している。農村の青壮年は保険に入りたがらず、高齢病弱者は競って保険に入りたがることが、合作医療の維持をさらに難しくしている。

 もちろん、合作医療の基金を集めるのが困難なことが制度維持を難しくしている主要原因である。衛生医療事業は本来公共事業であり、政府が必要な予算投入をするのは当然のことである。しかし、近年中央政府は合作医療について明確な予算政策を欠いている。各レベル政府財政も合作医療への予算支出を嫌っている。1991年から2000年にかけて、中央政府が支出した合作医療経費は毎年500万元という名ばかりの金額であり、各レベルの地方政府の予算も500万元だけである。全国の農民で割ったら一人当たり毎年0.01元にしかならない。政府財政の合作医療への投入がこのように極めてわずかなので、集団(郷鎮・村)と個人の負担になる。しかし、中西部の各省では、県と郷は基本的に「飯食い財政」であり、村の経済はもっと苦しいので、集団資金からの合作医療への補助は極めて限られる。その結果、合作医療は実質的には個人出資となる。合作医療は、基本的に郷・村を単位として組織され、対象人数が少なく、実質的には農民が自分の金で小さな傷や小さな病気の費用を分担するにすぎず、大きな病気にかかった場合の高額医療費負担には対処できない。このような合作医療ではあるべき互助共済、リスク分散の目標を達成できない。しかも、規模が小さいので管理コストも高くなり、結局農民の合作医療への参加意欲をなくさせてしまっている。

 今年(2003年)中国の一部でSARSが流行したが、それは政府の長期にわたる経済成長重視、社会福祉発展軽視の結果であり、流行の広がりが公衆衛生システムの薄弱さを際立たせた。中国では70%の人口が農村に住んでおり、そこは交通が不便で、通信設備は遅れており、保健衛生システムは薄弱で、疾病予防能力が弱く、医療従事者のレベルは低い。だから、農村は都市よりもはるかに大きなSARS撲滅の任務をになっている。厳しい現実は、農村合作医療制度を医療・保健・リハビリテーション・予防など総合的サービス機能を持ったものとして早急に再建すべきことを要求している。過去に農民の医療サービス欠乏を解決することを目的に作られた合作医療は、農民の疾病による貧困化防止を主目的とする医療保障モデルに転換しなければならない。

 そのためには、まず政府が経済成長を重視するだけでなく、医療保険を含む民衆福祉の社会発展に発展観を改めなければならない。その次に、政府の農村衛生医療事業における職責を明確にしなければならない。市場メカニズムは絶対に衛生医療分野に導入してはならない。また、中国の衛生資源の投入重点は農村であるべきである。現在、社会保障部門(労働社会保障部)は農村衛生医療事業を行うには明らかに力不足である。農村衛生医療事業は長期にわたって衛生部が主管し、多くの経験を蓄積してきたことを考えれば、今後もこの事業は衛生部門が主管すべきである。また、農村合作医療制度の法制化を急がなければならない。各レベル政府の財政支出は合作医療制度が正常に運営される鍵である。財政支援がなければ、農村の3級(村-郷-県)医療予防保健ネットワーク整備と農村衛生人材養成は全く不可能であり、農村合作医療は「源のない水、根のない木」になってしまう。したがって、現行の財政制度を調整し、中西部地区の県・郷レベルの財政からも必要な資金が合作医療に支出されるようにしなければならない。(以下略)(文中の括弧書きはほとんどが訳注)
この問題については鈴木頌「中国の農村医療問題ノート」
http://www10.plala.or.jp/shosuzki/edit/china/ruralmed.htm
の解説を読むともっとよくわかる。

這是中国人説的“愛国主義”?

2005-08-09 11:27:03 | Weblog
据TCL集団的网頁,該公司的電脳銷量今年上半年劇。主要原因是該公司的一个直銷店在店門口擺出"日本人与狗不得入内"的牌子,并把報道這个事情的附帯照片的新聞在网絡上广泛転貼,樹立起TCL的"愛国形象"。看様子該公司很得意。但是,到底這是愛国主義的表現呢?還是種族主義的表現呢?看官如何看待?
另外,如果在日本的電器店門口擺出"中国人与狗不得入内"的牌子的話,又如何??