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秦暉:低自由かつ低福祉の中国モデルにはいかなる優越性もない(2)

2010-12-31 19:01:12 | 中国異論派選訳
秦暉:低自由かつ低福祉の中国モデルにはいかなる優越性もない(2)

自由と福祉

いま中国の未来について二つの予言があるが、私はそれらが現実となるのを望まない。予言の一つ目は中国崩壊論であり、中国のようなやり方を続けていたらいつか大混乱に陥ると言う。だが中国の現在の経済的エネルギーと世界経済への影響の勢いからすれば、もし中国が崩壊したら、おそらく世界もそれに続いて崩壊するだろう。たとえいまはそのような影響が出なくても、将来はその可能性を排除できない。中国の崩壊は中国にとって良いことでないことは確かだが、世界のどの国にとっても良いことではない。だが、中国がもし現在のモデルでずっと低人権の優位性の下で発展を続けたら、それは実際には自分を搾取することにより他人の借り越しの対象となるということである。このような優位性に何か良いところがあるだろうか? 世界にとって良くないことが、中国人にとって良いことなのだろうか? 多分一握りの権力者にだけは良いことだろう。

だから私は中国は変わるべきだと思う。変わることは実は簡単だ。自由も福祉も外国から学ばなければならない。政治的自由の意義は言うまでもなく、経済的自由も増やさなければならない、独占に反対し、「国進民退」〔官営企業による民間企業の圧迫、排除〕を改めなければならない。それはなにも素晴らしい思想解放とみなす必要はない。みんな忘れているかもしれないが、それは中国共産党の昔の主張なのだ。1949年以前、中国共産党は当時の国有資産を「官僚資本」と呼び、私営企業を「民族資本」と呼んだ。「官僚資本」を罪深い「三つの大山」の一つに挙げ、当時の「国進民退」を共産党は「官僚資本が民族資本を壊滅させる」と称した。だから「民族資本の官僚資本による壊滅からの決別」は決して「新自由主義」の特許ではない。

福祉国家について言えば、確かに多くの問題がある。しかし、中国はまだ「福祉病」にははるかに遠い。私は中国は福祉問題で最も避けるべきはマイナス福祉現象だと思う。周知のように先進国には高福祉の国も低福祉の国もある。低福祉というのは最も貧しい人だけを対象にし、他の人は対象としないことで、米国がそれに当たる。いわゆる高福祉というのは福祉の対象範囲が広く、それほど貧しくない人も対象とする。例えば米国は一般に福祉が低すぎるとみなされ、政府が提供する福祉的医療保障の対象範囲はヨーロッパ諸国より狭い。それは二種類の人々だけを対象とする。ひとつは65歳以上の老人、もうひとつは貧困線以下の貧乏人であり、その二種の人々は米国総人口の18%を占める。この制度は確かに問題だが、オバマの医療制度改革は民主主義の枠組みの下でなぜ難航しているのだろう? それはつまり米国の現在の制度がすでに最も弱い18%の人々の医療問題を解決しているので、この18%の人々はオバマの医療制度改革を支持していないからだ。彼らは、新たに大幅に財政支出を増やすことは国の彼らに対する支払い能力を弱めると考えている。そして、金持ちはもちろん支持しない。医療制度改革に反対する米国の多くの人が最もよく口にする理由は、医療保険のない人々は米国の「次弱階層」で、最弱ではないというものだ。買えるのに買わず、国に払わせる。だが国に払わせれば様々な副作用が生じる。これが医療制度改革に反対する人々の主な理由である。

米国の医療制度は確かに問題があるが、実際には高福祉には高福祉の問題があり、低福祉には低福祉の問題がある。しかし、西側の国では、いわゆる低福祉は最貧層を保障し、いわゆる高福祉はそれほど貧しくない層も保証する。だが私たちはどうだろう? 我が国が提供する福祉的医療の対象範囲はどれだけか? 米国は18%だが、我が国は当時公費医療を受けられる人はどれだけいただろう? 少なくとも改革前は非常に少なかった。農民にはなく、生活用品製造企業労働者にもなかった。工場〔生産財生産企業〕も労働者本人にはあったが、家族にはなかった。しかも周知のように、公費負担基準には大きな格差があった。衛生部のある副部長が退職後に語ったところでは、中国の公費医療資金の80%が指導幹部に使われている。これは低福祉だろうか? それとも高福祉だろうか? 対象範囲は米国と同様狭いが、対象とする方向は米国と逆である。中国の保障対象は最貧層ではなく、富裕層であり、しかも最富裕層ほど厚く保障される。

中国はここ数年医療保険の面で確かに大きな進歩があった。周知のように現在農民にも医療保険が始まった。この「新農村合作医療」は以前人々が自慢げに話していた文革期の合作医療とは異なる。以前の合作医療は国家は負担しなかったが、今の「新農村合作医療」は国家も負担する。2007年時点では、江蘇省の「新農村合作医療」は先進的だった。当時国家は「新農村合作医療」の医療基金は一人あたり50元にすべきと定めていたが、江蘇省はそれを超えて一人あたり76元にした。4300万人の農民が新農村合作医療に参加した。一方、全額公費医療を享受するのは、つまりいくら使っても全額公費負担となる人は、主に役人だ。当時わずか14万人が、福祉的医療資源を一人あたり6000元享受していた。ジニ係数を計算すると、福祉的医療資源の江蘇省での分配のジニ係数は0.7だった。一方、江蘇省の一次分配のジニ係数は0.4に過ぎない。それはどういう意味を持つのだろう? それはつまり二次分配後に江蘇省では不公平は減少するのではなく、拡大していたのだ。

たとえそうであっても、私は江蘇省の医療改革は大きな意義があると思う。なぜなら、農民の医療保障は以前は全くなかったが、いまはとにもかくにも70元の保障があるからだ。その視点から言うと、今のジニ係数0.7の福祉資源分配の、マイナス分配の幅は以前より小さくなった。以前は多分0.8だっただろう。いま中国の進歩はマイナス福祉の程度の減少にある。だが「ゼロ福祉」まではまだ距離があり、それが達成できて初めて「プラス福祉」に進めるのだ。そうなって初めて西側と同じレベルで低福祉か高福祉かの議論が始められる。

要するに我が国の福祉と自由はどちらももっと多くなくてはならない。いまは「福祉国家病」など心配する必要はなく、まずやるべきは我が国のマイナス福祉の問題を解決することだ。自由主義者なら、まず特権福祉を否定すべきだ。民衆の福祉はまだ中国では始まったばかりなのに、何か反対すべき理由があるだろうか? 社会主義者なら、まず国家が社会的脆弱層に対して責任を負うことを推進すべきだ。ここで強調したいのは、それは責任であって、皇帝の恩寵ではないということだ。福祉国家と「皇恩国家」の最大の違いは、後者の福祉は民衆が要求できるものではなく、皇帝の恩賜だということだ。いただいたら感謝すべきであり、いただかなくても要求することはできないものだ。このような状態は改めなければならない。スウェーデン人は揺りかごから墓場まで国家に保障されているが、だれかがそのために「国王万歳」と叫んだり、「救いの神」〔毛沢東に対して言われた〕などと称えたりしているだろうか? スウェーデンもかつて右派政府は福祉制度を嫌っていたが、国民が要求したからやらないわけにはいかなかった。政府が福祉を提供するのは当然であり、やらなければ責められる。福祉国家とはそういう意味だ。まして自由については言うまでもない。もし我が国がこの二つの面で進歩したら、中国と世界には希望が持てる。

〔 〕内は訳注

出典:http://finance.ifeng.com/opinion/xzsuibi/20100406/2014127.shtml

(転載自由、要出典明記)

参照ページ:
①「『中国モデル』を巡る論争」 関志雄, 2010年12月28日発表
http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/101228kaikaku.htm
②サリバン原則
http://www009.upp.so-net.ne.jp/juka/Sullivan-Principles.htm

秦暉:低自由かつ低福祉の中国モデルにはいかなる優越性もない(1)

2010-12-31 18:59:20 | 中国異論派選訳
秦暉:低自由かつ低福祉の中国モデルにはいかなる優越性もない(1)

初出:2010年04月06日 経済観察報

秦暉(清華大学歴史系教授)

思うに、中国モデルとは比較によって導かれる概念である。もし、私たちが他の国家から何らかの特徴を帰納したとき、その特徴が中国にはなく、また、中国のある種の特徴がそれらの国家のどこにもないとき、それ〔他にあって中国にないことと、中国にあって他にないこと〕はたぶん中国モデルと言えるだろう。

中国の左右と西側の左右

今回の危機〔リーマンショック後の金融危機〕は、私たちにそのような「特徴」を観察するのに得難い機会を提供してくれた。いわゆる「西側」は、実は万華鏡であり、その中にはスウェーデンのように中国よりずっと「社会主義」(社会の平等、共通の繁栄)の「左派」国家もあるし、米国のように自由競争・市場開放を重視する「右派」国家もある。しかもそれらの国家の内部も万華鏡であり、それぞれ内部で左右両派が論争していることを、私たちは知っている。だが、一つの共通点は、各国が難題に直面しており、しかも率直に言って、両派はどちらも良策を持っていないということだ。金融危機以降、外国の左右両派は騒々しく論争している。左派はこれは右派の自由放任によって金融監督が緩んだからだと言い、右派は左派がケインズ主義で赤字を膨らませたため国家財政が破たんしたのだと言っている。

派閥の偏見を取り除けば、実際は左派と右派の主張にはどちらも長短がある。だが、いま私たちが目にしている状況はこの二つの欠点のどちらでもない。今西側では、米国でも欧州でも、今回の危機の核心問題は民間と政府の債務が多すぎ、財政の穴が大きすぎて、資金繰りに行き詰ったことだ。民間債務の問題は複雑なので、別の機会に譲って、ここでは省く。だが国家はなぜそれほど大きな債務を負ったのだろう? 左派の主張する高税率高福祉であれ、右派の主張する低税率低福祉であれ、どちらも欠点はあるとはいえ、理論的には収支は釣り合うはずだ。ケインズ主義者が認める財政赤字はコントロールできる範囲内のはずだ。なぜ今のようになってしまったのだろう?

実のところ理由は簡単だ。つまり西側の左右両派はどちらも民主制の土台の上に立っており、双方がともに民衆のために発言しなければならないからだ。左派は高福祉を主張するときは自信満々だが、高税率を主張するときはしどろもどろだ。右派は低税率を主張するときは自信満々だが、福祉を後退させるとなるとしどろもどろになる。もしも、高福祉・高税率、もしくは低福祉・低税率の組み合わせなら、どちらも財政破たんには至らない。だが、低税率・高福祉なら当然財政に大穴があく。西側の左派が政権を取ると国家は民衆のためにより多くのお金を使おうとし、右派が政権を取ると国家は民衆からの徴税を抑えようとする。それを何回か繰り返していたら、国家財政が破たんしない方が不思議だ。お互いを恨んで何になろう? それはもともと両派が共同で作りだした結果ではないか。もし民主制がいつもこのように運営されていたら、とっくに破産してしまうだろう。

では、なぜ民主制はこれまでうまく運営されてきたのだろう? それは民衆も道理が分からないわけではなく、もし本当に財政に問題が生じたら、本来ならすぐに社会に反映され、小さな危機が生じたら民衆も気付く。そして、民衆がそれを問題と感じたら、増税であれ、福祉の削減であれ、受け入れないわけではない。ここ二百年ほどの民主制発達史を見れば、税率は明らかに高くなってきている。もし民主制の下では増税ができないのであれば、どうして今日まで維持できようか? 福祉も同じだ。民主制の下で民衆が福祉の削減を受け入れたという前例には事欠かない。

では、ここ二十年はなぜそうできないのか? それはグローバル化の大幅な深まりと広がりに関係している。またグローバル化の性質のねじれとより大きく関係している。深まりとは、つまり経済のグローバル化の深まり、とりわけ金融のグローバル化の深まりである。もともとのグローバルな売買では大きな問題は起きない。いまはグローバルに借金ができ、グローバルに借り越し〔国債の外国による引き受けのことか〕ができるようになって問題が起きた。なぜなら債務の穴は借り越しで埋められ、社会に反映されないから、民衆は危機に気づかず、そのため「餌をやらずに馬を走らせる」というゲームを続けることになる。とりわけ米国では、米ドルの地位にたよって借り越しが特にはなはだしい。

広がりとは、以前はグローバル化に参加していたのは西側とその植民地だけだったが、その後開発途上国が参加し、冷戦後は「旧計画経済諸国」も加わったので、グローバルな借り越しの対象は大幅に増えた。とりわけ中国はかれらの最良の借り越し対象となっている。

この点中国は西側と正反対だから、これこそ「中国モデル」と言える。中国にも左派と右派がおり、中国の左右両派の理論(たとえば社会主義と自由主義)もすべて西側から伝わったものだから、正直なところ「特色」には程遠い。中国の特色は、「主義」にではなく、その土台にある。中国の左右両派は西側とは正反対の土台の上にいる。その結果、中国の左右両派は民衆を第一に考慮するのではない。私は「道徳的な非難」をしているのではない。中国の左右両派はあるいは良心は西側の両派に劣らないかもしれないが、問題は彼らが生存する土台が異なるということだ。だから彼らは右であれ左であれ、演じる役割は西側とは正反対である。私たちの左派は国家がしゃにむに民衆からカネを吸い上げることを主張し、そうでなければいまいましい「新自由主義」だと非難する。一方私たちの右派は国家は民衆のためにカネを使う必要はないと主張し、そうでなければにくらしい「福祉国家」だと非難する。以前は、私たちのやり方は「左折ランプを点けて、右折する」ものだと言われた。実は西側にも似たような問題がある。ただ方向は逆だ。私たちの政府は「社会主義式の権力」を持つが「資本主義式の責任」しか負担しないが、西側の政府は「資本主義式の権力」しかないのに、「社会主義式の責任」を負担しなければならないのだ。

私たちの以前の言い方で言えば、市場経済改革とは民衆が「市長ではなく市場に解決を求める」ことだ。この言葉は非常に面白い。理論的に言えば、市場経済は政府の権力を制限し、「市長が命ずるのではなく、市場が命ずる」、つまり市場経済の下では「市長」は勝手気ままに民衆をいじめてはならない。「市長」は官営企業が好きだから、計画経済の下では彼は民営企業をいじめて、つぶすことができる。だが市場経済の下ではそれはできない。官営企業は市場で民営企業と競争しなければならない。計画経済の下では新聞が「市長」の怒りを買ったら、市長は新聞社をつぶすことができる。だが、市場経済の下ではそれはできない。新聞が気に入らなければ、自分で民衆により好かれる新聞を発行し、市場で相手をつぶさなければならない。これが「市長が命ずるのではなく、市場が命ずる」ということであり、西側の市場経済だ。

ところが私たちのところでそれを言っても、「市長」は聞かない。そこで、彼が聞き入れる言葉を探して言う。「計画経済の下では民衆の薪米油塩、生老病死みんな市長が世話しなければならない。それは面倒でしょう? 市場経済をやれば、自然に任せればいいから、『市長に解決を求め』られる面倒はなくなります」。こうして「権力の制限」は「責任の回避」に変る。責任は回避しても、権力は制限を受けない。「市長」は「民衆」をわずらわせることができるが、民衆は「市長に解決を求める」ことはできない。何と素晴らしいことだろう。

だが、問題は市場経済の下で市長の仕事は何かということだ。それは民衆にサービスを提供することだから、民衆が市長に解決を求めてはならないなんてことがあろうか? 民衆が市長の所に来たら、「市場に行け」と言って追い出すのだろうか? 「市長」は勝手気ままに民衆から徴税できるのに、民衆は「市長」に対して福祉を求められないのであれば、その国家は大金持ちならないはずはない。私が言う「大金持ち」とは国家財政のことで、民衆の懐具合のことではない。私たちが現在目にする中国モデルの特徴とは何か? それは政府が大金持ちだということだ。西側で政府の財政がひっ迫してあちらこちらに布施を求めている時、私たちの政府は湯水のようにカネを使っている。私たちの鎮政府の豪華ビルは西側の大都市の市役所よりもずっと豪華だし、私たちの都市には「イメージ・プロジェクト」〔共産党中央のメガネにかなうように、街の目に就くところを飾り立てる事業〕が充満していて、西側の「豊かな国」から来た観光客はあっけにとられる。「ビッグパンツ(「大褲衩」中央テレビ局ビルのあだ名、建築費50億元と言われている)、ゆで卵(「水煮蛋」中国国家大劇院のあだ名)、他人ができないことを、俺たちはやる!」。それでもカネを使いきれないので、米国にカネを貸している。隠しておいても心配だからね。

これが我が国の「モデル」だ。中国は決して他の国より左だったり右だったりしているわけではない。ただ、中国は「左」になると政府の権力拡大は簡単になるが、政府の責任追及は困難になる。中国が「右」になるとどうだろう? そうなると政府の責任逃れは簡単になるが、その権力を制限することは難しくなる。これはこれでもちろん優越性がある。原始的蓄積が速いということと、事態を収拾する能力が非常に強いことである。手中に巨額のカネを握っているから、経済刺激策を実行するのはもちろん容易だ。もめごとの解決にも、物惜しみをしない。だが、その結果はどうだろう? こんなに投資を加速していて生産能力は過剰にならないだろうか? 独占部門の利益追求は社会の二極化を激化させないだろうか? 人為的に家計消費を抑えることは内需不足を招かないだろうか? そして、権力集中の様々なリスクなどいろいろなことを人々は心配している。これらについてはここでは議論しない。いま私が話したいのは、もしもこのようなモデルおよびこの中国モデルと前述した西側のモデルの相互作用を特徴とする、現在私たちが目にしているこのグローバル化が進展していったら、中国と世界の未来は一体どうなるのだろうかということだ。

悪貨は良貨を駆逐する

現在世界の社会学界、政治学界には中国に対する批判もある。だが経済学界は私の見るところ称賛一色である。最初は「左派」、ケインズ主義者の称賛で、「中国が自由放任を行っていないのは素晴らしい!」と言い、 次いで「右派」も出てきて、「中国が福祉国家を目指していないのは素晴らしい!」と言いだした。ネイスビッツ〔米国の未来学者〕が1997年に中国で出版した『アジアのメガトレンド』に対するある人の書評は「アジアは自由主義の手本か?」という題だった。この本は全世界がいま福祉国家によって台無しにされているが、中国だけが全く福祉に構わず、庶民は自分と家族の努力だけに頼っているから、非常に我慢強くなって、経済の奇跡を生み出せたと主張している。当時彼はこの本を書いたあと、中国に来て急いで翻訳を依頼し、英語より先に中国語でこの本を出版し、中国でベストセラーになって大もうけをした。当時彼はこの主張にあまり自信はなかった。最近彼はもう一冊『中国のメガトレンド』という本を英語でフランクフルト・ブックフェアで大々的発表し、この観点をさらに膨らませたが、今回は「中国は確かにいける、世界に福祉国家を打ち破る道を切り開いた」と自信満々だった。張五常〔香港の経済学者〕も最近、「中国は人類最良の体制を創造した、それは福祉もなければ労働組合もない国家だ」とか「世界の趨勢は欧州が米国に学び、米国が中国に学ぶことだ」(つまりは高福祉国家が低福祉国家に学び、低福祉国家がマイナス福祉国家に学ぶことだ)と言っている。要するに、いま西側経済学の左右両派はどちらも中国モデルに魅力があると思っており、左派は中国の低自由を称賛し、右派は中国の低福祉を称賛して、大合唱している。

だが本当のところは、彼らがいくら称賛しても、彼らが民主制を放棄しない限り、中国に学ぶことはできない。理由は非常に簡単だ。彼らの民主制の土台の上に福祉を切り下げ、同時に自由を切り下げることは、ほとんど全く不可能だからだ。しかも、彼らは本当にそうしたいと思っているのだろうか? そうとは限らない。西側の左右両派は「中国の奇跡」をそれぞれの主張の論拠に使って、相手をたたいているに過ぎない。左派は中国の低自由を持ち上げることで福祉国家の正当性を証明しようとし、右派は中国の低福祉を持ち上げることで自由放任の正当性を証明しようとしている。だが、低自由かつ低福祉の可能性など彼らは考えてもいないだろう。

もちろん、低自由かつ低福祉は「競争の優位性」を体現する。だが、それはグローバル化に参加した後に初めて体現される。もし二つのモデルが門戸を閉じて体制間競争をしていたら、優越性などあり得ようもない。朝鮮がその例で、改革前の中国もその例だ。だが、門戸を開き、一つの市場に融合し、投資行為が高度にグローバル化し、金融も高度にグローバル化し、一方で人権基準はグローバル化していないという条件の下で競争したとき、はじめて中国モデルの優越性が体現される。なぜなら自由経済の本当の優位性はそのイノベーション・インセンティブであり、それが人の命をすり減らして働かせる鉄腕体制に対して対抗できるとは限らない。グローバル化条件の下では、前者のイノベーションの成果を後者はまねることができるが、後者の鉄腕を前者がまねることはできない。そこで、後者はある意味で「優位性」を有するだけでなく、確かに一つの可能性(ここで私は可能性とだけ言う。私は歴史になんらかの「必然性」があるなどと考えたことはない。)、つまりグローバル化の中で「悪貨が良貨を駆逐する」現象が出現する可能性があると思う。

もちろん逆の流れも存在する。中国「モデル」の今日までの積弊については、識者も多くを語ってきた。とりわけ今回の危機発生後、外需が委縮したので、投資に頼って経済を刺激し、投資によって生産能力が形成されると、より深刻な生産能力過剰をもたらした。昨年の内需拡大はかなりの進展があったと言われているが、多くの人がそれは主に政府消費であって家計消費ではなく、「民内需」ではなく「官内需」の拡大が非常に大きな比率を占め、問題が内蔵されていると言っている。つまり、今では「成長方式の転換」(実際は体制転換の婉曲表現)はすでに必須となっている。

またその転換も無条件ではない。華生〔中国の経済学者〕は改革以降、中国の自由と福祉はどちらも進展したと考えている。もちろん、私も自分の文章の中で、中国の人権は「縦方向では進歩しているが、横方向では落差がある」と書いた。「低人権の優位性」はおもに横の比較についてであり、その種の「優位性」は縦方向で比較した時に人権が進歩していることと矛盾するものではない。中国の改革30年間、自由についても福祉についても、人権は疑いもなく進歩してきた。改革前の中国の人権状況は今より確かに悪かった。だから私は改革の進歩性を肯定しており、改革後は改革前に及ばないと考える「左派」理論には賛成しない。だがそれは、私が今の私たちの人権水準に対し批判的態度を有することを排除するものではない。

それどころか、私が最近提起した南アフリカもやはり同じだ。アパルトヘイト時代はそれ以前の奴隷制時代と比べて、またアパルトヘイトの末期は初期と比べて、人権状況はいずれも改善している。とりわけ1978年以降の数年間、その改善は非常に大きかった。もっと前にさかのぼっても同じことが言える。人々は「移動労働」制度〔南アフリカで行われていた単身男子労働者の出稼ぎ就労制度。就労先地域への定住を認めない点で中国の戸籍制度の下での出稼ぎ制度に類似している。〕を批判するが、それ以前の徴用労働制度の方がよりひどかったということを知っている。人々は「飯場労働」制度を批判するが、アパルトヘイト末期には黒人労働者の家族同居率はかなり高くなっていたこと、少なくとも今の中国より高いことを知っている。経済の高度成長について言えば、黒人と白人の間の著しい不平等はあったが、黒人が成長の中で多少なりとも利益を得てたことを否定することもできない。縦方向で比べれば、南アフリカ黒人の収入は以前より増加しており、白人との格差も縮小傾向だった。横方向で比べれば、南部アフリカ周辺諸国の黒人より収入は高かった。実際は、南アフリカの1994年の民主化も、突然の出来事ではなく、「量の変化」の積み重ねが「質の変化」に転化するプロセスであった。しかも、それはそれまでの黒人人権運動の漸進的推進の結果であった。だがそれら一切は、この時期全体の南アフリカの人権状況に対して人々が批判的態度を取ることを排除するものではない。

そしていわゆる横方向の比較としての「低人権の優位性」もまた縦方向の人権の進歩が経済成長率に及ぼすプラスの効果を否定するものではない(経済成長の質もしくは成長の共有性〔公平な分配〕のプラス効果はほとんど争いがないのでここではふれない)。中国の改革時代は改革前と比べて人権が進歩したことは当然プラス効果があった。私たちが言う「移動労働」のような低人権労働方式が南アフリカの経済成長に効果があったように。つまり「移動労働」は奴隷制度や徴用労働制度に比べればやはり進歩しているのだ〔改革開放前の農村統治も出稼ぎ移動さえ認めない点、生産資材の私有を認めない点で農奴制的であった〕。その点から言えば、人権の進歩は経済成長に効果を発揮する。問題は、そのように言っただけでは、なぜ横方向の比較の中で人権がより進歩している諸国家で、成長率は逆に(少なくともある時期)低いのかということを説明できないことだ。例えば、なぜ民主化した中東欧諸国の経済成長率は中国より低いのか(それらの国の民衆の生活は中国より悪いとは言えないが)? なぜアフリカの一部の民主国家の経済成長率はかつての南アフリカより低いのか? なぜ国際資本は中東欧に投資せずに、競って中国に投資するのか? なぜ大量の低価格商品が中東欧からでなく、中国から世界に押し寄せるのか? 実はグローバル化の下では、これは決して難解な問題ではない。もしも「投資誘致」面での「競争力」がグローバル市場経済の下で成長率にとって極めて重要であれば、労働組合がなく、好き勝手に土地収用のできる国家と、労働組合が発達し、土地収用も困難な国家(たとえば中東欧国家)を比べてどちらが「投資誘致」しやすか、はっきりしているではないか? だから、縦方向の比較での人権の進歩と横方向の比較での「低人権の優位性」の双方を考慮して初めて「奇跡」に対する信頼に足る分析ができるのだ。

このような「低人権の優位性」には確かに「悪貨は良貨を駆逐する」という論理が存在する。この点を説明するために、私は以前ノーベル経済学賞受賞者ロバート・フォーゲルの米国南北戦争前の南側奴隷制経済の「効率」問題に関する研究を引用したことがある。同時に相反する流れもある。つまりグローバル化条件の下では「高人権」地域の「低人権」地域に対する改革影響作用もある。私はこの二つの流れを「フォーゲル影響」と「サリバン影響」〔レオン・サリバン、アフリカ系アメリカ人牧師。アパルトヘイト政策を取る南アフリカに進出する企業に対し社会的責任を果たすよう求めるサリバン原則を提起した〕と名付ける。要するに、グローバル化は世界各国の相互影響を著しく強めたが、どちらの影響が最終的に勝つかについては、決定論的答案があるわけではない。

そして、「自由のために権力を制限し、福祉のために責任を問う」ことを求める努力により我が国の自由と福祉を持続的に進歩させていくことができれば、それは実質的に前述の西側と逆のいわゆる「中国モデル」のフェードアウトと中国が世界文明の主流に溶け込んでいくプロセスとなるであろう。

〔 〕内は訳注

出典:http://finance.ifeng.com/opinion/xzsuibi/20100406/2014124.shtml

(転載自由、要出典明記)

丁子霖・蒋培坤:共産党による劉暁波ノーベル賞授賞式前後の拉致幽閉(下)

2010-12-29 18:37:42 | Weblog
“万一颁奖以后有外国记者来叩门怎么办?”

12月1日下午,我们邻村的亲戚给我们送来了蒋需要的药。原来是无锡国安在当地“未能”买到蒋需要的药,便由其转告北京国安在京购齐并于11月30日汇寄到我们亲戚处,再由他转交的。

这天下午,亲戚刚向我们交代清楚葯的事情,无锡国安恰巧也进了我家的门。此次他们前来又有了“新的任务”,吞吞吐吐地问我们:“万一颁奖(指诺贝尔和平奖)以后,有外国记者来你们家叩门,怎么办?”丁答:“他们怎么会找到这乡下来呢?这里既无路标,门牌号码也是编乱的。”对方仍执拗地问:“万一来呢?”蒋不耐烦地说:“万一叩门,我们就开门,清茶一杯,接待他们。我们不会将来客拒之门外。这是做人的起码礼貌。我们在北京就是如此。你们怎样对待境外记者那是你们的事,你们有的是办法。”

那天下午,无锡国安就这样一无所获地走了。

在以后的几天里,我们也学会了掰着手指头倒计时地掐算着还有几天可回北京,十天、八天、一周……。与此同时,我们密切关注着中央、江苏省、无锡市几家电视台的天气预报。好几次无锡市电视台都预报未来几天将有寒流来袭锡城。我们找出了所有的厚棉衣、厚棉被,严阵以待。然而,却又一次又一次“狼来了”——寒流与锡城擦肩而过。这里的气温依然在20度左右徘徊。无锡的冬天千呼万唤仍未至,只是依旧处于深秋之中。我们暗自庆幸,这也许是老天相助吧!

就这样,一天天的苦熬,还没有等到12月6日,狂风、寒流真的降临锡城,蒋就病倒了。感冒、寒颤、嗓子疼痛,连服一周北京带来的“阿奇霉素”,谢天谢地总算度过了难关。

返京的日子决定了

回京的车票在镇上的铁路售票处可以预售。我们此前与北京的国安再三商定,12月14日晚10点回北京,无锡国安也默认。买到车票的这天,我们的心情是近两个多月来难得的轻松。我们小心翼翼地过着每一天,唯恐因自己罹病而滞留在此不得回京,这是我们这二十多年来第一次感受到归心似箭啊!

面对《连园》内寒风凛冽下的那两丛刚开放的腊梅,尤其是闻到那几朵才绽放的花瓣上散发出的沁人心扉的幽香,似乎给了我们凄苦心灵些许抚慰。

屈指数来,《连园》自1994年就开始筹建,至今已有十六个年头了。当初因不胜北京国安的骚扰,又应亲情、乡情之邀,才用我们当时所能承受的财力、物力,亲手设计、建造了这所有着210多平米庭院的居所,本想作为我们春秋两季的避居地,作为休闲、写作以及会友的场所。事实上它也真起到了上述这些作用。我们在上个世纪90年代以来所出版的有关“六四”和人权方面的三本书藉、许多文章和信件,乃至像《天安门母亲之路》纪录片文字脚本,都写就于此。《连园》里留下了不少难友、新朋友、老朋友、老同学和学生们的足迹。闻名于世的《零八宪章》最初的创意也是在此萌发的。

那些回忆令人神往,然而却又使我们备感哀伤。这个精致、典雅的园林竟变成了我们晚年的多次蒙难地。从1995年8月我们两人冒着炎夏住在这没有门窗的土建屋内时就被无锡检察院(实际是国安局)带走,秘密关押了43天;2004年4月“六四”十五周年前夕,丁只身回锡、苏两地扫墓时又被无锡国安带走,秘密关押了7天,并被抄了家;2008年10月底,蒋又因受无锡当地警方突袭,冠心病引发大面积脑梗,抢救三天三夜家人才从死神手中把他夺了回来,2010年10月8日又因与无锡国安发生了激烈冲突导致丁昏厥、脑震荡。……我们已届暮年,在未来的余生,还会有多少次劫难在等着我们呢?

二十多年来,从我们的切身感受来说,无论就个人,还是对国家而言,自由,只有自由才是最可宝贵的。失却了自由,就会像我们现在这样,在互联网如此发达的今天,变得象瞎子和聋子一样,什么都看不到,什么都听不到,就像一个人在漫长的暗中摸索。

刘晓波是我们的一位真诚朋友。此次他作为一个中国人荣获诺贝尔和平奖,应该是本世纪最让我们民族高兴的事,也是对于中国人来说最好的消息。但是我们不明白,一个自称已经崛起的大国的执政当局,怎么就不能以一种平常心来坦然面对呢?更令人不可思议的是,这件事竟然在公众的视野里变得无影无踪;而我们,作为他的朋友,也同样在公众的视野里变得销声匿迹。

以上断断续续写于2010.10.14——12.14.无锡张泾“连园”

可以回北京,但不能回家

终于等到了12月14日。这天清晨蒋到镇上菜市场去买了两斤鲜活的河虾,准备做熟了带回北京。这已经是前几年形成的惯例,每年从无锡回到北京,都要带一些河虾给晓波和刘霞品尝。晓波入狱后,剩下了刘霞,依旧如此。估计颁奖仪式已过,我们回北京可以见到她了。

这一天天气很冷,丁一个人正缩着脖子、戴着老花镜一个一个把河虾的鬚、脚剪下来……。忽然听到后门有人叩门,我们还以为是当地的亲戚前来告别。开门一看,原来是北京国家安全局的两位工作人员。他们这是乘飞机刚来的。

丁不禁心生疑惑,发问道:“怎么啦?是不是又变卦了,不让我们回北京了?”
“不!不!”来人忙做解释:“今晚就回北京。但是情况有些变化,我们临时接到‘上级’(不知是哪一个无道的‘上级’——引者注)指令:你们要月底才能回家。我们考虑到二老的健康状况,才争取到目前的方案——咱们回北京,先上别的地方呆上一阵子再回家;呆的时间不会太长,最迟到12月底,也许到圣诞节吧!正是怕你们没有思想准备,所以领导才派我们来接你们一起回去,希望你们谅解……。”

原来如此。当时除了接受这样的“安排”已别无选择。不管怎么说,还是先离开这个无论是天气还是人情都冰冷的地方吧!

来人建议晚上由他们来接我们去车站。我们谢绝了。我们有亲戚来车送站。

晚上9点,我们乘上亲戚的车出发,未曾想到刚驶出小巷口只见一辆出租车已经守候在巷口,两位北京国安走出车来要我们换车,由他们“接”我们去车站。……
就这样,我俩与两位国安同坐一个包厢9个多小时后回到了北京。12月15日清晨,一抵北京南站北京国安的车已经在车站等候着了。

在我们要求下,先回家匆匆拿了一些禦寒的棉衣、棉裤和准备去医院看病取药的钱,就又乘上他们的车往远郊区开去。他们始终不肯说明到哪里去,我们也不再多问。就这样,终于到达了目的地。12月15日这一天,我们上了北京入冬以来最冷的一天。

在以后的日子里,我们还是一天一天地等着。12月18日那一天,丁终于按捺不住,发作起来:

“你们应该知道12月20日、21日是什么日子!20日是我的生日,21日是蒋老师的生日。自从小连遇难后,大孩子们只要在北京,总会约好在这两天中的一天来为我们过生日。我们俩已经失去了小连,现在就剩下这一点亲情了,还要被剥夺,你们的上级还有没有一点人性?什么“以人为本”、什么“和谐社会”,难道这不虚伪吗?我们都已经七老八十的人了,干脆吧我们抓起来,判个十年、八年,又何必这么费事呢?”

丁说毕,身边“陪同”的人皆默不作声,无一人相劝,也无人敢劝。
次日清晨,其中一位一见面便笑脸相告:
“丁老师,有好消息!”
“什么好信息呢!回家。”
“对啦!20日送你们回家,让孩子们回家给你们过生日。”

12月19日这一夜,丁几乎未眠。她想到了当年孩子们为她过50岁日子时的情景,两个儿子围着她,把她平时坐的大椅子搬到房间中央,摁着她在椅子里座北朝南坐下,一本正经地朝她连叩三个响头。可惜,好景不长,那份幸福感太短暂了。现在剩下了一个……。回想起以往的二十多年,梦魇般的日子真难以想象是怎么熬过来的,想起这些,就如同堕入了一片空无一物的暗之中。

12月20日清晨起身整理行装,终于可以回家了。但到得家中一看,座机、手机、电脑仍处于被切断状态。经再交涉,终于在21日恢复了通讯。

从21日起,丁从两个半月的紧张状态突然过度到松弛状态,第二天,她就病倒了,咳嗽不止、寒颤、呕吐、不能进食。没有想到,一觉竟睡了三天没有起床,走不动路,更遑论去医院了。

当读到网上海外友人为丁过生日祝福的报道,病中的丁心中充满了感动,这份温馨激励着她,她要以此文衷心感谢这74天里所有海内外关心着她的朋友们。


2010.12.26于北京家中

出典:http://www.minzhuzhongguo.org/Article/ShowArticle.asp?ArticleID=18439

丁子霖・蒋培坤:共産党による劉暁波ノーベル賞受賞式前後の拉致幽閉(中)

2010-12-29 18:35:32 | Weblog
失忆是因“脑震荡”

丁向大夫提出了一个她最为担心的问题:为什么此次昏倒近一个小时,醒来后对于前后那12小时内发生的一切都想不起了呢?
大夫明确地回答:那是“脑震荡。”
丁又问:“随着日后康复,我还能慢慢回忆得起来吗?”
大夫答:“不会了。”
丁听了心里不免一惊。但愿不会再发生!

那天离开医院时,丁交给无锡国安一个信封,里面一张纸上写着10月11日晚与无锡国安发生冲突发病倒地的经过,因不得回京,需在锡看病,诊治费用需由无锡国安负担,尽管非本人所愿……。这是无锡国安上次叮嘱要丁写的。

当时对方临走时未及打开信封,便与丁分手。

11月5日中午时分,丁按照预约时间来到人民医院做脑部及腰部核磁共振。一进医院便见无锡国安李、于两位已先行守候着了。丁不禁有些纳闷,原来说定今天只由小于陪同做检查的,怎么这位李处长也来了呢?做核磁共振等候与检查的时间都很长,丁从检查室出来已十二点多了。在医院门口,丁与他们俩分手时,李呐呐地对丁说:“丁老师,你写的那份东西能否重写一下?”

“为什么?我写的难道不符合事实?”

“那倒不是,只是没有必要写得那么详细。前面那一段(指与国安冲突)就别写了。这份东西是给财务报账用的,他们不用知道那么多。”

“你们的财务也是国安的工作人员呀,有什么不能让他们知道的呢?”

“丁老师,你就重写一份吧!别为难我和小于了。”

李已把话说到这个份儿上,看在这些天小于在医院跑上跑下的面儿上,丁勉强答应了。但同时向他们提出:“不管检查结果如何?天气将冷,蒋是心脑血管病人,离京时北医三院的大夫反复叮嘱过他,不能在南方过冬,我们最晚本月底要回北京。”

数日后,丁的各项检查指标已出齐,11月9日下午三时,无锡国安再次陪同丁去人民医院王副院长诊室就诊。此时经过一周休息,丁的血压已基本稳定,查出脑部有腔隙性脑梗死。

丁表示要回北京治疗,所以大夫只是开了一些治脑梗的非处方药。临别时再三叮嘱,日后要控制情绪,不要大喜大悲,以免再次发病。这话丁听懂了。当着国安的面,他又补充了一句:“过去的事已经这么久了,就让它过去吧!”丁听在心里未作声,一切均在不言之中。
(待续)


出典:http://www.minzhuzhongguo.org/Article/ShowArticle.asp?ArticleID=18438


丁子霖 蒋培坤:一份迟到的“大国崛起”阴影下的幽禁纪略(下)

文章来源:民主中国 更新时间:12/27/2010 8:44:18 AM

无锡国安的责任“解脱”了吗?

出了诊室,那位李处长有些掩饰不住内心的喜悦,高兴地对丁说:“丁老师,你身体没有大问题,可放心了,我们也感到挺欣慰!”丁听了觉得十分无聊:“欣慰什么呢!要是落下一些难治的病患呢?”可见,检查的结果对他们来说相当满意,这等于他们本应承担的责任现在可以“解脱”了。但这次引发的病症今后会不会留下隐患就无从得知了。

丁又从包里拿出他们要的那张纸,交给了李,这回他当着丁的面急速地看完。丁把上次“因与国安发生冲突”等字样改成了“因故”昏厥倒地。但当他看到最后一句“尽管此非本人所愿”,他还是忍不住用手指弹了一下这几个字说:“这句话是多余的。”丁应对道:“这就是我的本意。”他再也不好说什么,勉强收了下来。

出得医院大门,李又对丁说:“你上次提出月底返京事,我请示了领导,现在可以明确告诉你:‘领导不同意。’”他又接着说:“现在你们在无锡,由我负责,有事可直接找我,没有必要找北京,我们听省里领导。”这位李处长总是在与丁分别的时候说一些最为要紧的话。对此,丁已经有所准备。

当丁再次提出,南方冬天没有取暖设备,蒋的病体很难坚持。对方答:可以去太湖疗养院住一阵子。那里既暖和又可以不用自己做饭……,丁依然坚持不去。

冒名邮件

11月14日下午,这天是周日,蒋的高中老同学一家大小连带他们的小宠犬——“美美”,突然造访。我们在惊喜之余不免有些诧异。以往我们这里客人总是不断的,如今一个多月过去了,不要说客人,就是亲戚也很少来了。今天来访,莫不是出什么事啦!果不其然。落座后那位根本不会用电脑的老同学从怀里摸出一张纸来,原来他从别人电脑上下载了一份远在加拿大的高中老同学发来的一份Email。内容为:

“2010.11.12 4:37
××:好久未联系了,近况如何?

因为晓波获奖的原因,我们现在还是一步都不能出门,不过刚好这个时间可以用来专心的处理先前没有空闲处理的事情。电话至今没有接通。幸好家里还备有一个无线上网的Sim卡。我们这里还好。就是天气有点冷,原来买的电取暖的油汀又用上了。我把刘毅的1989、天安门、大地、圣地拉萨(组画)发给你共赏。
冬安!丁子霖 蒋培坤。”

这是11月12日“我们”给那位老同学的信,后面是这位老同学给我们的复信,上面说:你们在无锡的情况已悉,这实在是无奈的事,你们一定要心情愉快起来,共同携手度过难关……

我们阅毕,大吃一惊!自从10月11日晚借用亲戚的电脑发出“天安门母亲声明”之后,我们再也未曾向任何人发出过任何Email。此邮件显然纯属伪造。经了解,有很多以前用Jielian.jiang@gmail.com联系的朋友和家属都收到了类似的邮件,而这个邮箱早就由于密码被而无法登录遭废弃。

这究竟是何人所为呢?又想达到什么目的呢?我们自己的电脑早被无锡国安切断了,目前我们的处境外人都不清楚,既知道我们情况,又掌握我们Email邮箱地址的,而且还注意到我家卫生间门口放着一个电取暖的油汀的,似乎除了无锡国安,不会有其他人了;特别是知道加拿大×××邮箱的,恐怕更不会有别人了。以前无锡国安曾声称,在10月11日那天,他们“截获”了我们发给北京的那个“声明”,而且说在“声明”后面还附有一个旅美人士的Email地址。这说明他们可以随意掌控别人的Email。鉴于此,我们不能不对他们产生疑问。

什么叫“违反承诺”

11月22日下午,无锡国安李、于来家。落座后,丁先没有向他们提起伪造邮件的问题,而是对他们自10月8日以来对待我们采取的一系列做法再次提出了抗议,指出他们违反了宪法35条,侵犯了作为公民的权利。”接着问:“你们是执法人员,你们目前对我们采取的监控措施,符合宪法和法律的哪一个条款?是像以前那样的监视居住还是别的?”

国安李对丁突如其来的提问有些不知所措,顿了一下,答道:“我个人理解,是中断了你们的通讯联系,行动自由还是有的,不是你们可以去看老同学吗?”

丁紧问:“为什么我去镇上超市、小店购物,后面有三个不明身份的男子寸步不离地盯着?这还不是我自己发现的,是不相识的店员发现后提醒我的。”

对方说不是他们干的。
丁又说:“那我们去上海、苏州探望亲友有自由吗?”
对方答:“你们去上海、苏州的话,给我们打个招呼。”
丁答:“要打招呼,还算什么行动自由?”

对方大概被这些问题激怒了,忽然间板起面孔,一脸正色地说:是你们一再违反诺言。先是你们答应不发声明,结果还是发了;后来你们答应不打电话,结果还是打了,而且据我们所得到的确切信息,你们不仅打了电话,而且还是给北京方面打的……。他得意洋洋地说“据我们所得到的确切信息”,这充分表明,他们是动用了一切非法手段来堵死我们的言论通道。

这一番话惹怒了丁,她立即打断了对方的话语,急速地说:“我们做事向来光明正大,今天有些事情必须说说清楚:你们从一开始对我们所做的规定、所采取的措施,按宪法和法律都是错的。你们10月8日切断了我们的宽带、电话,谁都认为这不合法。我们找来北京国安从中斡旋,是为了尽快恢复通信联系,避免扩大事态。这并不是说你们这样做就是对的。我们在北京国安再三要求下,曾同意暂时不发声明,这是我们在当时情况下所做的一项妥协。我们一开始就明白,发声明也好,打电话也好,都是作为公民应享有的合法权利,而不发声明、不打电话,是放弃了这份权利……。理就是这个理,不存在什么“违反诺言”!你不能用某项自撰的‘承诺’来代替宪法和法律的条文,作出某种‘承诺’,只不过是在宪法和法律范围内双方各让一步,能退则退,不能退则不退。所谓‘承诺’,不过如此而已。”

接着,丁就这个机会谈到了11月12日的那个冒名邮件。丁说:你们指责我们给北京打电话,这件事情今天也得说说清楚。电话是打了,但要问一问为什么打电话?给谁打电话?11月14日,我们接到无锡老同学送来的冒名邮件,随即借用他的手机给北京的难属打了电话,我们担心北京的难属收到类似的邮件而受蒙骗。结果不出所料,我们得到的回答是:有两位难属同时收到了这类邮件(其他人还没有了解到),他们并没有怀疑是假的,收到后还觉得很高兴。这就是我们给北京去电话的缘由。况且,我们根本没有借用与你们签订了《承诺书》的亲戚的电话打,而是用别人的手机打的。这难道也是违反“承诺”的一条罪状?

李的态度随之缓和下来,问:“谁给你们发来的?能不能给我们看一看?”蒋立即上楼取来一份交给了李。李看后,说:“这口气倒挺象你们的……。”蒋斩钉截铁地对他们说:“这分明是你们国安部门干的,因为只有你们才掌握了我们和加拿大老同学通讯的邮箱,也只有你们用我家洗手间时见到放在门边的油汀。”这时,丁补充说:“这件事必须查清楚,给我们一个明确的交代。否则你们又要制造什么构陷我们的借口了。”

李接过冒名邮件装在包里,答应去查,忙着起身告辞。临别时,丁追着说:“本月底不能回北京,那什么时候可以买票回京呢?给个准话!蒋每天所必需用的药有些到月底可用完了。”

李忙着说:“我们沟通一下,到时候天气冷了,找个暖和的地方去,好吗?”他们就是不肯透露让我们回京的日期。他们离开时带走了蒋平时每日服药留下的几个空药盒,并答应尽快解决。

此次谈话持续了两个来小时,由于谈话内容激烈,气氛紧张。来人走后,我们俩深感身心疲惫,体力不支。毕竟已是年纪往老里走的病弱之躯了。

丁子霖・蒋培坤:共産党による劉暁波ノーベル賞授賞式前後の拉致幽閉(上)

2010-12-29 18:27:25 | Weblog
丁子霖 蒋培坤:一份迟到的“大国崛起”阴影下的幽禁纪略(上)

文章来源:民主中国 更新时间:12/27/2010 8:37:46 AM

引言:

自从2010年10月8日刘晓波荣获诺贝尔和平奖揭晓以来,至12月20日这74天时间里,我们俩就像从人间蒸发一样,销声匿迹,与自己的亲人、难友、海内外友人中断了一切联系。我们在江苏无锡农村居所以及北京寓所的座机电话、电脑宽带,京锡两地所用的手机统统被切断。

从我们的切身体验而言,这个“崛起的大国”所构建的“和谐社会”真的是“与时俱进”。尽管我们俩身上深烙着“天安门母亲”、“六四”难属、“不同政见者”、“异议人士”等诸多印记,在以往的二十多年时间里曾先后遭到两次异地幽禁;连续50天中断通讯联系和限制行动自由……,但还从来没有这样长时期的幽禁;而且承蒙其“以人为本”的“优待”。大概顾忌到我们已年老病弱,这次没有把我们置身于异地,而是囿居于我们亲手建立起来的《连园》里。虽然是在自己“家里”,但没有“家”的感觉。通讯中止了,行动受限制,不用说回到北京家里,就是去上海、苏州等附近地区探望至亲,都得向无锡国安“打招呼”。为了维护做人的尊严,我们宁可呆在自己“家”里。在这么长时间里,只有无锡国安局的监控人员和有限的几个亲戚不定期地前来探望。我们多么渴望想了解外部世界所发生的一切,然而却了无所知。这是我们一生中所经历的最寂寞、最难耐的时日。

我们可以想见,在京的亲人、难友和友人们在如此长久得不到我们的音讯之忧急心情。我们首先想到的是刘霞女士,这段时间她的日子是怎么过的呢?能不能去参加颁奖仪式?10月11日,她从北京发来过一条短信,告诉我们她的新手机号,但是,我们的手机很快就被无锡国安切断了,至今过去两个半月了,始终没有同她联系上。我们还特别想念难友徐珏女士。她自2009年罹患重症以来,不管她在医院里手术或化疗,还是在家休养;也不管我们在北京城里,还是在无锡乡下,丁与她每周都会通上一次电话,彼此听到对方的声音,那都是一种慰藉、一份力量。然而,她现在到底怎样了?每每念及,又找不到答案,此时内心充满了忧伤,还有那悲愤。

因此,我俩在无锡《连园》被幽禁期间就商定,一旦返京,第一件要做的事不是去医院看病取药,而是把我们这两个多月的经历告诉所有念及我们的亲友们,以释挂念。

10月8日下午5点多,我们的宽带和座机被切断

2010年10月8日下午四点多钟,离诺奖揭晓的时间快到了。蒋打开了电脑,时间1分1秒过去;将近5点,我们的眼睛紧紧盯着电脑屏幕。5点刚出头,终于揭晓了,是刘晓波……。《法广》马上来电话采访,丁只说了两句感言,座机就出了问题,断断续续,随即没有了声音。接着座机铃声又响起,拿起电话,是《中国人权》的,丁紧说:“这是21年来最让我们高兴的事情,也是21年来最好的消息……。”随后座机又没有了声音。之后,座机铃声再次响起,但拿起话筒随即没有声音。如此者三。5点13分,我们用手机给北京的刘霞去电话,话务员说正在通话中。以后又多次拨号,话务员说已经停机。这说明刘霞的电话也被切断了。至5点半,我们在无锡寓所的座机彻底被切断,蒋一看电脑,发现此时电脑的宽带也切断了。

当晚7点39分,以及第二天上午,我们用手机给北京的多位难属去电话,告诉他们刘晓波获诺奖的事。大家喜出望外,奔走相告,并建议我们起草一个声明,表明在京难属的心情和态度。

10月9日中午时分,我们考虑到蒋的病体,在情急之中,用手机给北京国安打电话,告诉他们无锡国安切断了我们的宽带和电话。北京国安答应立即派人来无锡,进行“协调”。

当天夜里12点,北京国安到达无锡,第二天上午10点多来到锡北镇张泾我们家中。他们要求我们不要发声明,不要接受采访。他们说无锡国安担心我们接受外国记者采访,担心海外记者摸到张泾来找我们,更担心我们对外发表声明,甚至还担心我们去上海世博会见外国记者,等等。经与北京国安再三商谈,我们勉强答应了他们的要求,条件是必须立即恢复家中的座机和宽带。

10月11日上午,处于闭塞状态、对外面情况一无所知的我们,带着“自由门”去邻村一位亲戚的厂里浏览海外网页。当看到刘晓波在刘霞探监时得知获奖消息后表示“心中很不安”,并说“这个奖是给天安门亡灵的”,言罢落泪……。我们再也无法控制自己的感情了,丁止不住流下了眼泪。在这种情况下,我们已顾不得个人安危,唯有听从良心的抉择,决定发一个声明,用一切可能的办法传出去。我们这样做,也是为了满足北京一些难友的愿望。

当天傍晚,我们拿着起草好的《天安门母亲:我们的声明》,去离家不远的另一位亲戚家。起先是想借用亲戚的手机传送,传送一段接着一段。这是当时电脑被切断后唯一想到的办法。但这家主人的女儿碰巧可以上网发Email。这对我们来说不啻是一件送上门来的大好事。

我们立即把这份“声明”发到北京的一位难友那里,由他向北京的难属征求意见后传送给海外网站。不一会儿,对方来短信,说声明已发出。我们悬着的心算是放了下来。

与无锡国安发生激烈冲突,丁昏厥倒地

但是,当我们在亲戚家全神贯注地发Email时,根本没有注意到,早已有人盯着我们了。突然间,四个陌生人从外面大门冲进二门(此时大门、二门都开着),来到亲戚家中,一句话都不说就用手摁住放在茶几上的电脑,另外一个人火速把电脑和一个U盘抢到手里。当时亲戚家里在场的有6、7个人,大家都不知出了什么事。等回过味来,亲戚们本能地去保护电脑。这时丁站起来问:你们是什么人?拿证件出来!……其中一位拿出一本工作证:无锡市国家安全局。丁叫打开,什么名字,那人打开后一晃还未等丁看清楚便随即收起。他们四人仍然一句话不说,再次来抢电脑和U盘,我们的几位亲戚又把电脑夺回,他们把我们的两位亲戚差点压倒在地上,一来一去经过几个回合,电脑最终没有被他们抢去,被女主人抱到楼上。丁骂这般人:“你们是强盗!滚出去!滚出去!”……“你们不讲理由,私闯民宅,我们犯了什么天大的罪!你们要抄家就拿搜查证出来!”丁把那四个人推出门外。

由于事发突然,国安动粗。当丁走出大门与他们理论的时候,突然昏厥倒地,在场的很多人围上来救援,这家的女儿急得只顾哭喊,蒋拿出自备的硝酸甘油塞进丁的嘴里。当时正好身旁有一辆小车停着,车主就把丁塞进小车急速地送往当地的张泾医院,一名无锡国安也随即去了医院。经医院采取抢救措施,约一个小时后,丁慢慢苏醒过来,见手上插了输液管,她猛地把输液管拨掉。然后借用亲戚的手机给来无锡的两位北京国安打电话,叫他们立即来张泾。随后,在多人搀扶下,才慢慢走回亲戚家。接着又在旁人搀扶下慢慢走回自己的家。当走到半途,她担心电脑放在亲戚家会连累他们,又返回把电脑抱回了自己家里 。

这时,北京国家安全局的两名官员到了丁蒋家里。他们希望我们交出电脑,让无锡国安快撤走,尽早平息事态。

丁目光呆滞,丧失记忆

丁回到自己家里后,嘴里不断地自言自语:“我要回北京!我要回北京!”目光呆滞。我们说到电脑。她就问:“什么电脑?”好像什么都不知道似的。我们又说到无锡国安闯进亲戚家,她也都不知道。我们觉得她的脑子出了问题。在以后的一段时间里,她把到亲戚家发Email、与无锡国安发生冲突,一直到去医院输液、在医院给北京国安打电话、拨掉输液管回亲戚家把电脑抱回家……,一切的一切,都想不起来了。在以往,她也曾有过几次昏厥倒地,但头脑是清楚的,更不曾有过失却记忆。这次她却失忆了。我们觉得事情严重。于是由北京国安一位女士和我们的一位亲戚扶她上床休息。她还是嘴里不断说着:“我要回北京!我要回北京!”直到今日,她依然想不起10月11日晚间发生的那场激烈冲突。

在丁去医院的同时,亲戚家里又来了张泾派出所的几名警察,还有锡北镇的政法书记,居委会主任,甚至亲戚所租住房的房东都被通知来了。警察借口查户口,问这问那。这时蒋冒火了,说:“你们这是干什么?这里有你们什么事?快出去!出去!”蒋质问无锡国安:“警察怎么来了?”国安回答,“是我们要求他们来协助的。”这天,当地的警察又像2008年10月26日那样粉墨登场场了。也正是在这一天,我们的手机也没有了信息——在手机的首页上留下了这样六个字:“仅限紧急呼叫!”

蒋立即向北京国安提出:现在家里两人都有病。丁又是这个样子。与外界的通讯联络统统断绝,一旦身体出事,怎么办?北京国安表示会与无锡国安交涉,一定妥善处理。

已经深夜11点钟了。无锡国安丝毫不理会丁的病情安危,只是不敢来到我们家里。他们一次又一次地紧逼着亲戚家的女儿到丁蒋家去拿回电脑,交给他们。他们非要拿走这台电脑,不拿走就不走人。为此双方僵持了很长一段时间。蒋考虑到电脑里保存着物主的个人隐私,只同意复印一份《声明》给他们。但是他们说,那份《声明》他们已经从网络上“截获”了,他们还要检查电脑里有没有别的东西?

最后,由北京国安从蒋手里拿走了电脑,由他们保证等无锡国安检查完后就归还物主。此时已是次日凌晨一点多钟了,无锡国安才从亲戚家撤走。

10月13日上午,应我们的要求,无锡与北京两地国安来到我们家里商议归还电脑的事。无锡国安先是说:“电脑会尽快还的!”但是却绝口不提具体归还日期。丁当即说:“不行!今天必须谈定归还电脑的事,必须立即归还!”这样,北京和无锡两地国安先后去室外打电话。无锡国安从外面回来后立即表示:“还!不是98%还,而是100%还!”丁紧问:“什么时候还?” “明天。”无锡国安终于作出了明确的回答。

逼迫亲戚签署《承诺书》

10月14日,北京国安返回北京。然而,无锡国安在归还电脑的同时,竟背着我们复印了几份《承诺书》,并在锡山区、锡北镇的两级政法书记协同下,逼迫与我们有联系的五位亲戚在《承诺书》上签字,要他们保证:不向丁蒋提供电话、手机、电脑等通讯工具,不给丁蒋购买手机卡,不向外透露丁蒋的任何信息;此项承诺直到丁蒋离开无锡为止;如有违反,将负法律责任。亲戚们迫于无奈只好签了字,但要求他们给签字方一份复印件却遭到拒绝。

10月16日,无锡国安来到张泾丁蒋家。丁向他们正式提出了抗议:这次切断我们的宽带和电话,因发Email挑起冲突,以及逼迫蒋的亲戚签署《承诺书》等做法,完全不把宪法和法律放在眼里,公然侵犯公民的合法权利,搞的还是“文革”那一套。无锡国安对丁的抗议一言不发。

从此,我们在无锡市锡北镇张泾的居所,彻底断绝了与外界的通信联络,一些亲戚也惧怕到我们家来了。在此期间,丁蒋提出我们的身体如发生意外,必须确保应急呼叫措施。他们答应除110、120、119呼叫电话以及无锡、北京国安手机外再向我们提供三个专用电话。此电话只能在他们监听下打给三位亲戚,其他电话一律无效。

到无锡医院检查病情

丁自10月11日那天晚上昏厥失忆以后半个月间,虽然未再复发,但整日里头脑晕晕乎乎,走路晃晃悠悠,有时连站立都不稳当,腰痛更是难耐。因此,10月26日上午无锡国安李、于两位来我们家时,我们提出要回北京为丁检查身体和治疗。两位一听我们要回北京,忙笑脸相劝。说什么:“丁老师现在身体虚弱不宜远行,还是就地检查治疗吧!反正你在这里看病与回到北京看病一样都是公费医疗。”又说:“我们会去找关系,找无锡最好的医院、最好的大夫,……要不,你们就去住太湖疗养院,那里既可检查、治疗,也可静养……。”他们似乎胸有成竹,一口气就提出了两个方案供我们选择,潜台词是我们不能回北京。

当时我们也心存疑虑,不知道丁的脑部究竟出了什么问题?有多严重?万一贻误了治疗时机,后果就不堪设想。蒋已是一个患有冠心病和脑梗的病人,两年前他也是因受当地警察突袭而引发大面积脑梗的。想到这些,我们有些后怕,既然不能立即回北京,又拒绝去太湖疗养院,就只有接受他们的意见,由他们找医院检查、治疗。

10月28日下午,无锡国安李、于两人前来告知:他们已与人民医院的王副院长、脑科专家约定,下周二上午他出专家门诊(VIP)时为丁检查、治疗,并嘱咐丁:清晨空腹;交一份以往病历资料;就诊治费用问题写一份文字材料,以供其财务报销。

11月2日清晨丁如约来到锡城南郊人民医院,于为丁挂了特需门诊号。在候诊、问诊、作各项检查的全过程中,李、于两人始终寸步不离陪在丁的身边。

当王副院长开始问诊时,丁先拿出了10月11日在张泾医院的急诊抢救病历并做了说明:这份病历有虚假成分,事实并非病历上所写的“患者因与家人发生争执而昏厥倒地”,而是因与“国安”发生冲突引发事态的。这份病历是在患者昏迷不知情和家属不在场而国安却始终在大夫身边的情况下写成的。丁说毕,又交给王副院长一页纸,那是以往的病历情况,上面记录着:第一次,1989年6月4日得知儿子中弹,生死不明,昏厥倒地……最后一次2010年10月11日,也就数这次昏厥时间最长,情况也最为严重。这以往漫长的岁月里共发生五次,昏厥状态、时间、地点、引发原因、经过情况,都清清楚楚写在纸上了;最近这两年昏厥的间隙已越来越短了。

大夫阅毕心里明白,便不再多问什么,开始听心脏、量血压、检查腰腿关节等一系列该检查的项目。陪同的两位也在旁边看着。他们未经大夫与患者同意,径自从案上拿过丁交给大夫的那页纸传看。

当天血压指标为158 / 94,这对于平时血压一向偏低的丁来说,显然是偏高了。大夫开出了验血、心电图、心超,脑部、腰部核磁共振等各种检查单。


于建:誰が下層中国青年のチャイナドリームを圧殺しているのか(3)

2010-12-19 19:31:09 | Weblog
  “中国梦”的含义

  中国梦就是每个人能在民主和宪政的政治体制下,通过自己的努力可以改变自己的命运,能公平地享有国家经济发展的成果。

  东方早报:在美国崛起的过程中,形成了所谓的美国梦。这是一种相信只要在美国经过努力不懈的奋斗便能获致更好生活的理想,亦即人们必须透过自己的工作勤奋、勇气、创意、和决心迈向繁荣,而非依赖于特定的社会阶级和他人的援助。您认为,对于蚁族大学生和第二代农民工而言,中国梦是什么?

  于建嵘;我认为,这个中国梦就是经济上发展起来的中国能更加民主、自由、平等和公平。他们能在民主和宪政的政治体制下,通过自己的努力可以改变自己的命运,能公平地享有国家经济发展的成果。这个梦想的前提就是,中国现在已形成的排斥性体制能逐渐消解,让每一个人的付出获得应有的回报。

  拆迁条例难消暴力拆迁

  一个拆迁条例解决不了非法暴力拆迁。这是个体制性问题。我们不能完全把鞭子打到基层官员身上。中央政府要在很多方面给地方政府减压。给地方政府减压,才能给中央减压;给地方减压,才能给老百姓减压。

  东方早报:今年年初国务院法制办公布了《国有土地上房屋征收与补偿条例(征求意见稿)》,您觉得这个条例正式实施后,非法暴力拆迁会减少么?

  于建嵘:不会减少。土地拆迁最大的问题是与地方巨大利益挂在一起。现在经济发展中很重要的方式就是投资,最大的加投资是房子和地。没有地就拆房子。这种巨大的利益和经济发展方式联系在一起,这个问题不解决,一个拆迁条例解决不了非法暴力拆迁。这是个体制性问题,不是某一个官员的问题。所以暴力拆迁不会减少。

  东方早报:您对基层官员的判断是什么?现在出现了很多基层官员腐败的案件。

  于建嵘:我们不能完全把鞭子打到基层官员身上。在我看来,中央政府对基层政府的判断是有问题,都认为基层是贪官污吏,只有中央在做事情,只有中央的干部才是好干部。如果基层干部不为老百姓干事,我可以一票否决。这种思维下存在很大的问题。

  中国很多基层官员之恶是制度逼出来的,比如税赋重是制度规定的,不这么收能是全球第二富的政府吗?但是我们把鞭子打在基层上,说你乱收税。你说国税不足,地税补;地税不足,财政补;财政不足,工资补。当一个基层乡镇干部,不把钱从农民那里搞来,连工资都没有。所以我们要理解地方政府的难处。

  比如信访中很多问题是中央政策带来的,有些是很多年前的遗留问题,现在没法解决。而中央政府只要求地方将矛盾化解在源头,不论其是否有能力。另一方对地方政府加压,实行一票否决制。所以为保官位,基层官员不抓上访民众,不花钱买稳定,又能怎么办?所以我们不能把地方官员之恶认为完全是其人性之恶。职务之恶和人之恶虽有关联,但仍是两个概念。

  很多时候,中央政府要在很多方面给地方政府减压。给地方政府减压,才能给中央减压;给地方减压,才能给老百姓减压。你对基层官员要有正确判断。基层官员当然会有腐败,吃吃喝喝是很大的问题。但是真正的大腐败并不在基层。我们要对基层官员有一个新的判断。不要把所有之恶都放在基层那里。

  让人大代表专职化

  从基层开始,让人大代表职业化可以改变很多东西,让民众可以控制人大代表的晋升。以空间换时间,一步步推动社会进步。

  东方早报:进一步分析一下基层官员的问题,现在暴露出一些基层官员涉的现象,比如广东雷州一镇武装部长是帮骨干,重庆市公安局原副局长文强等人涉案。

  于建嵘:基层官员涉有几个原因。第一,多年的利益分化,产生了一些为了利益不得不拉帮结派的人。第二,一些干部为什么要利用社会?两个原因。首先是利用社区去获利。其次是利用社会做事。比如拆迁,拆迁并不是利用社会的官员想获利,而是利用你去把房子拆了。

  社会作为一种非政府的暴力化组织为什么能够与基层官员结合,有这样一种利用关系。当农民抗税的时候,有一种官员找一批烂仔,把税报给烂仔,然后收税,收一万税分2千给烂仔。因为官员收不回,且不能暴力。所以这些烂仔变成又又红的人。

  东方早报:您如何看待目前基层人大的情况?媒体上经常出现地方的人大代表醉酒驾车撞死人,还有一些违法活动。

  于建嵘:这是很大的问题,谁在拆老百姓的房子?就是你们这些人大代表。很多人大代表由一府两院的官员充任。所以没有办法利用人大代表去解决基层问题。

  我们建议通过人大代表专职化,这可以加强对一府两院的监督。一定要建立民众对政府有信心的社会,让民众可以控制人大代表的晋升。通过这个办法推动社会的进步。

  通过这种职业化的办法,把那些想当兼职人大代表给自己贴金的人驱逐出去。这四年你就全职当人大代表,给你办公室发你工资,每天到办公室去接待老百姓,了解民心民意。这在四川罗江县已经开始。从基层开始,让人大代表变成职业,有社会保险、有份科级干部的工资,为老百姓做事情。人大代表职业化,能够改变很多东西。能够使社会一步一步推进,以空间换时间,从小地方来改起。

  现在维稳的成本多大?信访办的成本多大?这个国家需要一些和解,需要一些政治上的互相信任。社会需要重建新的结构,解决新的问题。

  我们一定要想办法为社会提供一个方向,而人大代表职业化将加强民众与政府的关系,能够约束一府两院,为老百姓做实事。

出典:http://www.rmlt.com.cn/News/201007/201007151239332210.html

于建:誰が下層中国青年のチャイナドリームを圧殺しているのか(2)

2010-12-19 19:28:34 | Weblog
  不要光琢磨农民的土地

  不要天天琢磨农民的土地,而是要使农民自己能够转移出去,那地不就自然能出来了么?现在很多地方政府的改革,在“老百姓”看来,都是在“通过你的改革,剥夺我的利益”。

  东方早报:目前城市在为城市居民提供保障性住房、教育医疗等公共产品和公共服务的供给方面还存在较多不足,在短期内迅速提高这些公共产品的供给也面临很多困难。

  于建嵘:虽然不能一蹴而就,但是方向一定要明确。你不要天天琢磨农民的土地,而是要使农民自己能够转移出去,那地不就自然能出来了么?现在很多地方政府就是在琢磨农民的土地。比如重庆进行的宅基地交易是有问题的。

  东方早报:重庆的农村土地交易所成立一年多来,舆论认为重庆通过“地票交易”,开辟了城市反哺农村的新途径。

  于建嵘:重庆的宅基地交易改革,实质就是在国家对农地刚性保护的政策背景下,把一些宅基地进行交易,把宅基地指标集中起来,以突破国家对耕地保护的用地指标。

  重庆的做法是农地流转的一种形式。很明显,农民的宅基地都可以拿来挂牌,因为不涉及基本农田,并且可以解决一部分用地指标的问题。这具有一定的意义,但是中间也有猫腻。比如你在偏僻的农村,有占地一亩的宅基地,你可以拿来挂牌,但是人家买的不是你这亩地,而是这亩地的指标。把宅基地复垦成农田后,就可以在城市郊区借用一亩农田,这是一种农地的置换。结果,是把郊区的农地变成了宅基地。而一亩熟地变成的农田,亩产可能有1000斤,一亩宅基地变成的农田,产量可能只有100斤,相差是比较大的。

  对待此类改革,我的意见还是要慎重些。要特别注意这其中的利益分配问题,不要变成掠夺农民土地权益的一种手段。

  重庆曾在2007年搞股田制改革,后来被废除。股田制让农民的农田入股,但在实际操作中,很大的问题是公司不分红,农民又能怎么来保护自己的利益。云南孟连胶农事件也是一个教训。现在很多地方政府的改革,在“老百姓”看来,都是在“通过你的改革,剥夺我的利益”。我很担心这个问题。

  户籍与农地改革四点建议

  把目前以户口管理为重点转到以人口管理为重点上来。探索“以房管人”、“以证管人”、“以业管人”的新模式。改革地方政府官员绩效的考核体制,对不同地区的官员考核分别赋予GDP(国内生产总值)总量长和人均长的不同权重。

  东方早报:现在地方层面在土地改革方面的经济动力还是很强的。

  于建嵘:目前的情况是,如果没有利益冲动,则很难触动改革。所有的地方政府都是经济人,都是为了寻找利益而改革的。

  东方早报:根据你们的研究,你认为户籍制度与农地制度改革的突破口是什么?

  于建嵘:我认为,主要有四个方面:

  第一,户籍制度的改革首先从改革社会保障制度上入手。中国的城乡户籍二元,其实际就是公共服务、社会保障的二元化,结束了后者,前者便只具有象征意义。真正的户籍制度改革,无论国家层面或地方层面上的户籍制度改革,必然是在一体化公共服务、社会保障体系方面的改革。公共服务、社会保障体系一体化的两大内涵,一为全覆盖,全体社会成员依照相对公平的标准承担各自义务,亦依照相对公平的标准享受服务与保障;二为通过财富的二次分配实现共同发展,通过向弱势群体的适当倾斜实现共同受益、起点公平,以强化保障功能、保持社会和谐。因此,在旧制度向新模式的转变过程中,应首先淡化城市偏向,使户籍与社会福利逐步脱钩,通过先改内容后改形式的方式来缓和改革过程中的利益冲突和摩擦,再经过一系列过渡环节过渡到城乡一元的户籍管理制度,而不宜直接废除户籍制度。

  第二,科学地制定门槛标准,促进人口合理流动。通过户籍制度的改革,以“准入条件”代替“指标控制”,为实现公民居住和迁徙自由提供了依靠市场调节为主的制度前提。靠市场调节的居住和迁徙自由,以具有合法固定住所、稳定职业或生活来源为基本落户条件。

  由于各地经济水平、社会发展、自然禀赋等条件差异很大,中国必须走多样化的城镇化道路,发挥比较优势。例如,在东部经济发达地区,要把县( 市) 所在的城关镇和中心镇作为发展重点,建立城乡一体化的劳动力市场。在西部不发达地区,地广人稀,要保护好生态环境,则可以把有限的资金集中起来,从集约化的规模效益出发,优先发展中心城市。

  第三,在有条件的地区,可以取消农业、非农业户口界限,尽快探索建立城乡统一户口登记管理制度。现行户籍制度的缺陷主要在于其城乡分离的二元结构特征。当前,许多地方在推进户籍制度改革上已初见成效:取消了人为的、行政的户口“审报”制度,以准入条件取代计划管理,实行属地化管理和职业登记,城乡统一的户籍管理制度开始建立起来。在此基础上,要以省、自治区、直辖市为单位渐次推开,按省、市、自治区行政区划建立城乡统一的居民户口。加强和完善户口登记制度。把以户口管理为重点转到以人口管理为重点上来。运用现代技术,实现静态管理向动态管理的转变。探索“以房管人”、“以证管人”、“以业管人”的新模式。

  第四,实施户籍与土地制度配套改革,加改革的整体性。为了让在城市生活和工作的农村劳动力能够共享经济发展成果,同时也为了进一步强城市经济长的潜能,就需要把土地和户籍制度进行联动改革。应允许建设用地指标的跨地区再配置,同时,获得更多建设用地指标的沿海城市应更多吸纳非户籍常住人口为本地城镇户籍人口。具体来说:全国统一规划中新的城市建设用地指标,以及农村由于宅基地整理和复耕而加的建设用地指标,都可以在地区间重新配置。但在此过程中,土地的再配置要与户籍改革联动,哪里要更多的建设用地指标,就必须相应加本地新户籍人口的数量,特别是要接纳那些已经在城市工作和生活的非户籍人口。建立地区间土地利用指标的交易机制是效率和平等兼顾的举措。劳动力要和土地指标一起流动,推动土地和户籍制度的联动改革,让更多的劳动力分享经济集聚的好处。改革地方政府官员绩效的考核体制,对不同地区的官员考核分别赋予GDP总量长和人均长的不同权重。

  公务员考试不公是个很大的问题

  当前的中国社会,已形成一种排斥性体制,最大的特点就是社会成员层级流动存在巨大障碍。处在下层的社会成员垂直流动的障碍越来越多,能够真正实现向上层流动的人越来越少

  东方早报:我们刚刚分析了中国经济转型中“第二代”农民工遇到困境,您如何看待一线城市城市里的“蚁族”现象?这些毕业后无法找到工作或工作收入很低而聚居在一线城市城乡结合部的大学生被称为“蚁族”。一方面,这些大学毕业生需要大城市所提供的市场化环境来工作,另一方面,当大城市的生活成本高涨时,他们却退不到二三线城市,因为二三线城市存在有更复杂的裙带关系,缺乏市场化的机会。他们也面临对前景不乐观的困境。

  于建嵘:“蚁族”面临的问题,首先是生存。大城市机会相对多,但生活成本也高,刚毕业的年轻人,家庭无能力再支持的话,不得不过上一种艰苦的生活。但创业阶段这样也很正常,根本问题在能否靠自身努力发展事业、有没有机会向上流动。而恰恰这些地方出了问题。

  当前的中国社会,已形成一种排斥性体制,最大的特点就是社会成员层级流动存在巨大障碍。处在下层的社会成员垂直流动的障碍越来越多,能够真正实现向上层流动的人越来越少。因此,虽然“蚁族”们目前大多还处在希望与忍受交杂并存的阶段,更多地还是对自己提出“努力”、“坚强”等等要求,但如果不论个人如何奋斗也摆脱不了现状,被去利益结构化,很难说他们不会转向对社会现实的拷问和思考,进而对社会不满,成为充满“愤青”意识的底层知识青年。面对“官二代”和“富二代”肆无忌惮地抢占机会,破坏社会基本的公平和公正规则,底层知识青年心中的公平正义理念会被破坏,引起对社会的对立情绪。因此,“蚁族”真正的问题,和“第二代”农民工有相同之处,还是一个“希望”或“绝望”的问题。

  东方早报:公务员考试的面试环节目前出现了一些不公平的问题。比如公务员招录为何屡见“打招呼者”?

  于建嵘:现在看来,公务员考试不公是个很大问题。国家公务员考试是目前唯一给老百姓带来向上流动进入体制希望的制度。假如不能坚持公平公正,这个社会很危险。这是很重要的底线。假如我是个农民的孩子考上的话,这会给社会带来示范效应,即只要通过努力,就能带来社会地位。

  公务员考试能否保持公平,在中国不只是个用人制度的问题,而是一个严重的政治问题。它关系到我们社会的底层社会知识青年,是不是能够感到有希望的底线。假如这个平台还不行的话,就只有反抗了。

  假如是“我比你考得好,而我没被录用”。这会带来什么?这不是安排一两个人的问题。这关系到对社会的基本信任问题,甚至关系到诚信的问题。

  一个社会有两个基本信心,一个是司法的公平,是保证我们权力受到侵害时有救济。另一个是社会的升迁给每一个人平等的机会。很多底层意识可以通过刚性公平的公务员考试来化解。我们希望,不要打断底层人群向上层流动的最后纽带。

  社会底层已经形成

  “官二代”和“富二代”这种以身份而形成的社会现象,表明中国社会的阶层分化已基本完成。

  东方早报:你最近还在研究底层知识青年和社会稳定问题,请介绍一些这方面的情况。

  于建嵘:这个课题是中国社会科学院的委办课题。今年初,我在接受新华社的访问时,提到了底层知识青年问题。他们把我的观点写成了内参。中央领导看后作出了重要批示,我们社科院就委托我进行深入研究。我们主要是从社会稳定的角度,研究一些现在社会的基本情绪,如有关底层知识青年、艺术青年、社会愤青的意识,以及这些情绪对社会判断带来的问题。

  比如个体的袭击事件,“3·23南平校园凶杀案”很明显是个严重的犯罪,但是网络的评价不一样,很多人认为该杀。新闻评价也有问题,一些报纸写到,记者坐在出租车上,司机说那个学校是贵族学校,非富即贵。这是一个非常简单的对立的逻辑思维。

  “南平案”发生之后,我24号到了福建,我感到那是一个反社会人格的问题,大家不要认为这是一个反官民问题。反社会心态和反官民心态是不一样的。比如上海“杨佳案”里,其明确目标只是一种人,即穿警服的男人,穿警服的女人不是他的目标。湖南永州“朱军案”,其明确目标就是法官。但是南平案不同,他把目标定为学生是因为学生好对付。所以这两类案件是不一样的。

  研究上述社会意识会发现,愤青最大的特点是认为“官民对立”。不管发生什么问题,愤青一定站在“民”的一边。这还包含了“游侠”的概念,“我主持正义。不管怎么样,只跟“官”唱反调。”

  关于南平案“该杀的”看法反映了很严重的社会心态失衡。我从南平回来之后,有个国家级的媒体请我去给编辑记者去讲座。我很意外的是一个30多岁的编辑,讲了一句让我惊讶的话,“我认为该杀,因为这些当官有钱的人,他们一出生就掌握了更多的资源,就应该为此承担风险”。

  这是一种新的“出身论”。如果一个国家级媒体的工作人员有这种想法,就说明愤青不只是底层的愤青,而是整个社会一轮新的对立情绪的产生。这样社会将越来越隔阂,也说明社会底层开始产生,上下分层开始。

  为什么老百姓这么恨“富二代”和“官二代”。只要有年轻人当官,群众就马上说“他老子肯定是当官的”。为什么?因为这么年轻,很少有“没当官的老爸能当官的”。这是一个我们社会应该密切关心的问题。

于建:誰が下層中国青年のチャイナドリームを圧殺しているのか(1)

2010-12-19 19:24:27 | Weblog
于建嵘:谁在扼杀中国底层知识青年的中国梦

2010年07月15日12:39

来源:东方早报 作者:于建嵘

  第二代”农民工和“蚁族”大学生能否实现“中国梦”,能否靠自身努力发展事业,有没有机会实现向上流动的“希望”,是中国经济转型的关键所在。

  中国社会科学院农村发展研究所社会问题研究中心主任于建嵘教授近日在接受早报记者专访时作出上述表示。

  现年48岁的于建嵘7月6日专程来到中国浦东干部学院讲解社会稳定问题。在讲课间隙接受早报记者专访时,于建嵘强调,“中国梦”是指个人通过自己的努力可以改变自己的命运,能公平地享有国家经济发展的成果。而实现这个梦想的前提就是,中国现在已形成的排斥性体制能逐渐消解,让每一个人的付出获得应有的回报。

  于建嵘认为,当前的中国社会已形成一种排斥性体制,最大的特点就是社会成员层级流动存在巨大障碍。处在下层的社会成员垂直流动的障碍越来越多,能够真正实现向上层流动的人越来越少。面对“官二代”和“富二代”肆无忌惮地抢占机会,破坏社会基本的公平和公正规则,底层知识青年心中的公平正义理念会被破坏,引起对社会的对立情绪。

  近年来,于建嵘多次去沿海省市工厂调研,发现“第二代”农民工对于“将来会在什么地方”、“将来干什么”等问题的回答非常悲观,“他们每天都工作,却感到对未来没有希望,没前途。”

  于建嵘说,“蚁族”大学生面临的问题,和“第二代”农民工有相同之处,还是一个“希望”或“绝望”的问题。

  于建嵘是国家社会科学基金重大课题“城乡经济社会一体化新格局战略中的户籍制度与农地制度配套改革研究”的首席专家。他在学界,是有名的用脚做实证研究的学者,常年在底层行走。2001年,伴随着博士论文《岳村政治——转型期中国乡村政治结构的变迁》的出版,于建嵘开始成为冉冉升起的学术新星。

  2004年下半年,他主持的课题组发表了一份题为《信访的制度性缺失及其政治危害》的调查报告,引发了一场有关信访制度何去何从的争论,并引起高层关注。

  近几年,于建嵘以观察性访谈为基础,结合制度文本和历史文献研究的方法,相继出版了大量关于中国工人和农民工的著作,包括《中国工人阶级状况:安源实录》、《当代中国农民的维权抗争:湖南衡阳考察》和《漂移的社会:农民工张全收和他的事业》等书。

  户籍改革只做了表面文章

  户籍制度背后的东西仍没有破题,附加在户口上的择业、薪酬、医疗、教育、住房待遇、社会保障、福利等没有剥离。现在很多地方的户籍改革不是着眼于解决问题,而是谋取农民手中土地的利益。

  东方早报:作为国家社会科学基金重大课题“城乡经济社会一体化新格局战略中的户籍制度与农地制度配套改革研究”的首席专家,请你谈谈课题目前的进展。

  于建嵘:这是一个为期三年的课题,目前是第二年。这一年多来,我们对全国许多地方的相关政策和实践进行了调查,对一些经验进行了总结。从已有的研究来看,全国各地在在户籍制度改革上仍没有破题。

  东方早报:你指的户籍制度的破题是什么?

  于建嵘:目前很多地方的户籍制度改革主要是做很多表面事情,比如户口本上,不是农村户口而是城镇户口了;外地人通过买房或者工作等,可以在本地落户或者变相落户了,但是户籍制度背后的东西没有破题,附加在户口上的择业、薪酬、医疗、教育、住房待遇、社会保障、福利等没有剥离。如果城乡一体化中间不能把很多问题解决,而只是给农民一纸户口,可能什么用都没有。比如说,获得城镇户口的农民的社会保障以及原来农民的土地问题尚未很好解决。

  东方早报:请举一些相关的例子。

  于建嵘:我曾经写过一篇文章,主张户籍制度改革要让农民得到实惠。但是,现在很多地方的改革不是着眼于解决问题,而是谋取农民手中土地的利益。

  比如近年来深圳推行的“居住证”制度,即“模糊”城乡户口差别,凭居住证享受一些政策和福利。有些官员就对农民说,你们全是城镇户口了,是城里人,怎么还能像农民一样要地?它改革的目的是拿农民的土地,改革的动机不是促进社会人员的自由流动、改变城乡二元结构。很多地方在户籍制度改革上的动机不纯,很大问题是想拿农民的土地。

  还有一个例子,甘肃有个县为了完成城市化指标,县领导头脑一发热,把14万多农民的“农村户口”变更为“非农业户口”,说“我们这里没有农村人了。你种不种地没关系,大家都是城里人”。这一改也出现了新麻烦。当地农民发现,农村户口的时候,可能还能得到一个农村的补贴,但发现这次家电下乡,“怎么没有我们的份了?”于是有关方面解释说“你不是农民了,是城里人了”。但是农民说“我每天还是种地啊”。这种改革是有问题的。

  盆景式改革在“造隔膜”

  城镇化道路必须进行配套的战略性改革,而非盆景式改革。如果没有一个很大背景的社会改革,改革户籍制度是有问题的。

  东方早报:户籍制度改革与城市化进程是什么关系?

  于建嵘:在国内一些地方户籍制度的改革,不能解决农村发展问题,也不能解决农民生活变化问题,还不能解决农民的土地问题。农民离开农村、进城了,地要不要交出来?怎么交?

  中国城镇化道路,必须进行配套的战略性改革,而非盆景式改革。如果没有一个很大背景的社会改革,改革户籍制度是有问题的。

  户籍制度要改革的方向是对的,但是目前缺乏一个城乡统筹,缺乏能让所有人自由流动的社会保障,目前农民不能享受城乡均等的社会福利。所以需要推进社会的一体化,给农村居民起码的公平公正。

  东方早报:改革户籍制度需要配套战略性改革是指什么?

  于建嵘:战略性改革要下决心解决三个问题:

  第一,建立城乡统筹的、每一位居民或公民都能享有同等公共服务的体制。

  第二,中国不可能把所有农村都变成城市。中国的农村还是会存在的。怎么在城镇化过程中建设好农村,是当务之急。

  第三,所有的改革都应尊重人,让人享受到幸福和平等,但很多改革还在“造隔膜”。比如建房子,要建成都是给农民工住的地方。这是不行的。比如上海宝山区一公立学校,把本地户籍学生和并入的农民工子弟,用各种规定分为东部、西部,互不往来。再比如北京大兴区将一些村庄封闭管理,来隔开外地人口。这都是在人为制造等级差别。

  不知未来的第二代农民工

  第二代农民工对农村没有认知感,也不想回去。推进城乡一体化,不考虑他们的特点是不行的。但第二代农民工的工资不足以支持他们落脚城市的梦想。

  东方早报:专门给农民工的建房是很强的身份属性?

  于建嵘:对。这是不行的,牵涉第二代移民的问题。第一代出来打工的农民工,有对农村的认知,打工赚钱最后想到的问题是回农村家乡盖个房子。第二代农民工完全对农村没有认知,没有要回去的想法。现在推进城乡一体化、改革户籍制度,不考虑第二代农民工的特点是不行的。

  我前些年访问过大量第二代农民工,主要问一个问题,“你将来会在什么地方?”他们的回答是“我不知道”。我继续问,“会不会回老家农村?”他们的回答是“不回去”。他们认为将来最好的打算是在小城镇买一个房子、开一个小铺子。这种回答是对未来非常悲观的。

  东方早报:能不能谈一些在调研第二代农民工时的具体例子?

  于建嵘:2008年我们在深圳调查的时候,在一个做纸箱的工厂遇见一家三口人,父亲带着女儿、儿子,三个人都在那里打工。我问父亲将来会做什么?父亲说再做几年工就回老家去。我接着问他女儿,“将来干什么?”女儿回答说最大的希望是遇到一个合适的老公,“老公最好是县城的,将来不出来打工了。”我最后问他儿子“将来干什么?”儿子说“没想法”。

  这家人给我的印象特别深刻。他儿子说“我怎么知道将来做什么呢?反正我不回去(农村)”。这家人已经在老家建了房子,我继续问他儿子,“未来在不在老家讨老婆?”他回答,“那怎么能在家里讨老婆?不能。结婚可能在农村办个喜事,但是肯定不会待在农村。我又不种田,而且家里也没地。”我继续问,“你想不想在深圳待下来?”他说“想”。

  比较而言,一个在城市里有工作的大学毕业生,对生活是有预期的。通过这个工作,你能预期通过工资买个房,在这个地方生活下来,结婚生子。比如在上海已经工作的大学毕业生,房价再贵,还是想办法买一个房,工作下来再说。但第二代农民工是不行的,因为他们的工资不足以支持他们的梦想。

  漂移的社会

  现在整个社会在漂移,人在漂移,心也在漂移。在城镇化过程中,一些对待农民工的方式,是缺乏人性的……把人当机器来管理。

  东方早报:从你的调研来看,第二代农民工面对生活没有远景、缺乏事业感的问题,对社会发展会有什么影响?

  于建嵘:针对第二代农民工的问题,我几年前提出了一个概念“漂移的社会”。这最早是我写的《漂移的社会:农民工张全收和他的事业》一书的标题。

  现在整个社会在漂移,人在漂移,当然心也在漂移。在城镇化的过程中,对待农民工的方式,有一些是缺乏人性的。

  我在深圳采访的第二代农民工,他们每天都工作,却感到对未来没希望、没前途。这很重要的原因是工厂管理缺乏人性化。

  富士康事件暴露了很多问题,其中就包括这一点。比如说住房,不管有意或无意,工厂偏偏把河南人、广州人、江西人安排在同一个房间,彼此生活习惯不同,甲爱吃辣椒,乙爱吃大蒜,方言不通,互相之间话都不讲一句。

  这种把人当机器来管理的方式,是缺乏人性的。在这种居住条件下,第二代农民工和原来的生活是断裂的。假如让几个老乡在一起住,他们互相之间能有一个交流,把习惯吃馒头的都安排在一起住,有什么不可以呢?有“组织”有“群体”是否一定不利于管理?目前却是一定要把吃馒头的、吃面条的、吃面粉的、吃大米的人都安排在一个房间里住。这个过程中间,不仅仅是一个户籍的问题,而是第二代农民工怎么从农村融入城市社会的问题。

  东方早报:请你总结一下,在中国经济转型背景下,第二代农民工遇到的困境是什么?

  于建嵘:目前第二代农民工遇到的困境主要有三方面:

  第一,没有钱,工资不足以支持融入城市。

  第二,不能融入社区的生活。所以每天工作就像机器,每天最大的盼望是放假能够回去,每年最大的盼望是过年回家。哪怕放假三天,哪怕春运一票难求,还是要回去,过几天再回来又变成机器。一年重复一年。这样还有前途吗?

  第三,也就是最重要的,由于户口等制度性原因,他们没有可能成为城里人。第二代农民工在城镇化的进程中,不仅会遇到土地和户籍的问题,还有人性的问题,这是需要考虑的问题。

  城市的碎片

  农民工融入城市社会,不能只是会操作某种机器而已。政府应该有一个很好的计划,而不是将他们隔绝在城市的“孤岛”中,或者像碎片一样游离在城市主流生活之外。长期看,住房也是必需的。

  东方早报:你觉得通过技能培训和职业学校,能否有效将第二代农民工融入城市?

  于建嵘:这种培训只有培训工作技能的职能,没有帮助融入城市社会的职能。农民工融入城市社会,不能只是会操作某种机器而已。政府应该有一个很好的计划,帮助他们了解城市、融入城市社会,帮助他们过上城市化的社区生活,而不是隔绝在城市中的“孤岛”中,或者像碎片一样游离在城市主流生活之外。另外,农民工融入城市社会,长期看还需要住房。现在社会对第二代农民工的转移,没有一个住房的支持。比如我采访过一个工厂的两口子,他们都是工人,但是工厂的规定是不允许他们住在一起,又租不起房子,所以两口子一见面更愁,没有地方在一起。我在深圳调查到很多这样的情况,夫妻在同一工厂打工,厂里人为地把夫妻割裂开来,要不有些厂子提供“夫妻房”也上不了新闻了。

  我也访问过这些工厂负责人,他们觉得自己有道理,工厂宿舍不是解决家庭分离的地方,“我们这里只是打工的地方。”而工人的工资却承担不了租金,政府也没有住房方面的帮助。这个问题是比较大的。

  东方早报:你的建议是在工业化发达的地区,政府建立保障性住房时要多考虑农民工的需求?

  于建嵘:这首先能避免农民工家庭的隔离,使他们能够有办法融入城市社会。要让他们能够感觉到通过自身的努力,可以在这个城市站稳脚跟。比如两口子在这里打工可以拿到3000元,能租到政府的房子,给政府500元一个月的房租,这样他们可以把小孩带过来,让小孩可以在这里读书。在对城市生活有预期的情况下,这两口子自己就会考虑,可以通过什么方法,把家里的土地转出去。

  现在非常明显,农民工从总体来说是没有可能在城市里站稳脚跟的。对于一个没有可能性的人,他会怎么想?如果现在跟农民讲,你到了城市里,给你户口,但这有什么用呢?没地方住,孩子没有地方读书。这需要一系列政策性安排。

秦暉:低自由かつ低福祉の中国モデルにはいかなる優越性もない(2)

2010-12-18 17:41:01 | Weblog
自由与福利

总之,现在有两种对中国未来的预言,我都不希望其变成现实:一种是中国崩溃论,说中国这样干下去总有一天会天下大乱。其实按照中国目前的经济能量和对世界经济影响的势头,如果中国崩溃,恐怕世界也要跟着崩溃。即使现在达不到这样的影响,将来也不能排除这种趋势。中国崩溃肯定不是中国的好事,但也不是世界上任何一个国家的好事。可是中国如果按照目前的模式一直我们的人权优势下的发展,实际上也就是一直以自我剥削的方式成为别人透支的对象。这个优势有什么好?对世界不好,对中国人就真的好吗?我想只是对一些寡头好。

所以我还是认为中国应该改变,改变其实也很简单,无论是自由还是福利都得向人家学习。政治自由的意义自不待言,经济自由也还要加,要反垄断,改变“国进民退”的做法。其实不要以为这是什么了不得的思想解放。大家忘了这其实是中国共产党的老主张。1949年以前中国共产党把那时的国有资产叫“官僚资本”,而把私营企业叫做“民族资本”。“官僚资本”被列为罪恶的“三座大山”之一,而那时的“国进民退”被共产党叫做“官僚资本摧残民族资本”。所以让“民族资本摆脱官僚资本的摧残”其实也不是什么“新自由主义”的专利。

至于说到福利国家,的确有很多毛病,但是中国还远远没有到所谓的“福利病”的那种程度。我觉得中国在福利问题上最应该避免的就是负福利现象。大家知道发达国家福利有高有低,所谓低福利就是只管最穷的人,其他人都不管,美国就是这样。所谓高福利就是福利覆盖率大,不那么穷的人也管。例如美国通常被认为是福利过低,政府提供的福利性医疗保障的覆盖率比欧洲国家都小。它只覆盖两种人:一个是65岁以上老人,一个是贫困线以下的穷人,两种人占美国总人口的18%。这个制度确实有问题,但为什么奥巴马的医改方案在民主框架下又那么难通过呢?很简单,就是因为美国原来那套制度已经解决了最弱势的18%的人的医疗,因此这18%的人并不支持奥巴马的医改,他们认为新加一大笔开支会减弱国家将来为他们进一步提供的能力。而富人当然也不支持。很多反对美国医改的人最振振有辞的理由就是,没有医保的这一部分人是美国的“次弱阶层”,不是最弱的。明明买得起而你不愿买,让国家买单,让国家买单又会引起各种各样的副作用,这是反对医改者的一个主要理由。

美国的医疗制度的确有毛病,实际上高福利有高福利的毛病,低福利有低福利的毛病。但是在他们这些国家,所谓低福利就只保最穷的,所谓高福利是指不那么穷的也可以保。而我们呢?我们国家提供的福利性医疗覆盖率有多高?改革前不会比美国高,美国是18%,我们那时享有公费医疗的人有多少?至少在改革前应该说很少,农民没有,二轻企业没有。工厂只是工人本身有,但家属没有,而且大家知道,报销标准有非常大的差距。卫生部的一位副部长退休后说,中国的公费医疗资金有80%是用在领导干部身上的。你说这是低福利还是高福利呢?覆盖率并不高,但覆盖的方向和美国正好相反,不是覆盖最低的,而是覆盖最高层的,而且是从高往下覆盖。

中国最近几年在医保方面的确有了很大的进步,大家都知道现在农民也开始有医保了,这种“新农合”和以前人们津津乐道的文革合作医疗不一样,以前的合作医疗国家不买单,现在的 “新农合”是国家买单的。2007年时,江苏省的“新农合”是走在前头的。当时国家规定“新农合”的医疗基金要达到每人50元,江苏省就超额达到每人76元,有4300万农民参加了新农合,而享有全额公费医疗,也就是不管花多少钱国家都给你报的那部分人,主要是官员,当年只有14万人,享有的福利性医疗资源每人6000元,加上其他几个阶层,用基尼系数算一下,福利性医疗资源在江苏省分配的基尼系数是是0.7,而江苏省初始分配的基尼系数不过0.4左右,这是什么概念呢?这就是说二次分配以后江苏省的不公平不是减少了,而是扩大了。

即使这样,我仍然认为江苏省的医疗改革是很有意义的。因为原来农民医疗保障一点都没有,现在无论如何还给了他70块。从这个角度讲,现在0.7的福利资源分配,负福利的程度比过去低了,过去可能是0.8。现在中国的进步就在于负福利的程度在下降,但是即便如此,离“零福利”也很有一段路。此后进入“正福利”了,才谈得上低福利还是高福利的问题。

总之我们的福利和自由都应该更多,现在就不要讲什么“福利国家病”,首先把我们的负福利问题解决了再说。如果你是自由主义者,你首先应该否定特权福利,但是老百姓的福利现在中国刚刚才起步,反什么?而如果你是社会主义者,你应该首先应该推动国家对弱势群体承担责任。这里我要讲,这是责任,不是皇恩浩荡。福利国家和“皇恩国家”一个最大的区别在于:后者那个福利不是百姓可以要求的,是皇上恩赐的,给了你要谢恩,不给你也不能跟他要的,这种状态一定要改变。像瑞典人从摇篮到坟墓都是国家包的,哪个瑞典人会因此高呼“万岁”,称颂“大救星”?而瑞典也曾经有右派政府不喜欢福利制度,但也不能不搞,因为这是国民要你搞。政府提供福利是应该的,不做就要受到指责,所谓福利国家就是这个意思。自由就更不用讲了。如果我们在这两个方面都有进步,中国与世界就有希望了。

出典:http://finance.ifeng.com/opinion/xzsuibi/20100406/2014127.shtml

秦暉:低自由かつ低福祉の中国モデルにはいかなる優越性もない(1)

2010-12-18 17:37:22 | Weblog
秦晖:中国模式既低自由又低福利 不认为有什么优越性

2010年04月06日 22:20经济观察报

秦晖 清华大学历史系教授

我觉得中国模式其实是个比较出来的概念,如果我们把某一类国家归纳出什么特点,而这些特点中国没有,同时中国又有一些东西是那些国家都没有的,那大概就是中国模式了。

中国的左右与西方的左右

这次危机就给我们提供了一个观察这些“特点”的难得机会。我们知道所谓的“西方”其实是个万花筒,其中既有像瑞典那样比中国还要“社会主义”(社会平等、共同富裕)得多的“左派”国家,也有像美国那样讲究自由竞争、市场开放的“右派”国家,而且他们每个国家内部也是万花筒,都有各自的左右派在那里争论。但一个共同点是,他们现在遇到了难题,而且说实在的,两派都没有万全之策。金融危机以来,国外左右两派吵翻了天,左派说这是右派自由放任造成金融监管不严之过,右派说左派搞凯恩斯主义赤字膨胀弄得国家财政破产了。

其实摒除派别的偏见,左派和右派所主张的那些理论各有优缺点,但现在我们看到的这种情况不是这两种毛病的任何一种。现在西方,不管是美国还是欧洲,这次爆发危机的核心问题就是民间和国家借债太多,窟窿太大,弄得资金链断裂了。民间借债这个问题比较复杂,我另外写了文章,这里从略。而国家为什么有这么大的负债呢?不管是左派主张的高税收高福利,还是右派主张的低税收低福利,尽管各有缺点,但理论上都是要账面平衡的嘛,凯恩斯主义承认赤字财政,也是要可控的嘛。为什么会搞成现在这样?

其实道理很简单,就是因为他们的左、右派都处在一个民主的平台上,双方都要为老百姓说话。左派说高福利理直气壮,说高税收就吞吞吐吐的;右派说低税收理直气壮,说降福利他们就吞吞吐吐的。如果是高福利、高税收,或者低福利、低税收,都不会造成财政破产。但是如果你搞成低税收、高福利当然就成了财政大窟窿了。他们的左派一上台就说国家要为老百姓花更多的钱,右派一上台就说国家不能向老百姓收那么多钱。这么折腾几次,国家财政不破产才怪,而且左右派互相埋怨管什么用呢?这本来就是你们两家共同造成的嘛。如果民主制度都这样运作,早就破产了。

那么为什么民主制度以前一直可以成功运作呢?其实老百姓也不是不懂道理,如果财政真出了一些问题,本来很快就会反映到社会上,造成一些小危机,老百姓感受到了,觉得这是个问题了,那么无论是税收加,还是福利减少,老百姓也不是不能接受。其实在近一两百年的民主制度发展史上,税收就是明显加的,如果民主制度一建立就不能税,岂能维持到现在?福利也是一样,民主制下老百姓接受福利降低也是不乏前例的。

那么这几十年为什么不这样呢,尤其是最近二十年为什么不是这样呢?这与全球化在深度与广度上的大幅进展有关,同时更与这种全球化在性质上的扭曲有关。所谓深度,就是经济全球化深化了,尤其是深化为金融的全球化,原来在全球做买卖,问题不大,现在可以全球借钱、全球透支,这就有问题了。因为债务窟窿通过透支来填补,就反映不到社会上,老百姓感觉不到危机,自然会把“既要马儿跑,又要马儿不吃草”的游戏玩下去。尤其是美国,凭借美元地位就透支得更厉害。

所谓广度,就是原先玩全球化的只是西方人和他们的殖民地,现在发展中国家加入进来,冷战结束后“前计划经济国家”也加入进来,全球透支的对象就多多了,尤其像中国这样的国家更是他们的最佳透支对象。

因为中国正好跟他们相反,这就是“中国模式”了:中国也有左、右派,而且中国的左右两派理论,比如社会主义和自由主义,也都是从西方传来的,老实说谈不上什么“特色”。中国的特色不在于“主义”,而在于那个平台,中国的左右派是在一个和西方相反的平台上。于是中国的左右派首先都不是为老百姓考虑。我这并不是进行“道谴责”,中国的左右派也许良心不比西方的左右派差,问题在于他们生存的平台不一样。于是他们无论左右,所扮演的角色就都与西方截然相反:咱们的左派鼓动国家向老百姓拼命收钱,不收就是该死的“新自由主义”;而咱们的右派就说国家不必为老百姓花钱,否则就是可恶的“福利国家”。过去说我们的做法是“打左灯,向右拐”。其实西方也有类似的问题。只不过方向相反:咱们的政府拥有“社会主义式的权力”却只承担“资本主义式的责任”,而他们的政府只有“资本主义式的权力”,却要承担“社会主义式的责任”。

用我们以前的一句话来讲,市场经济改革就是要让老百姓 “不找市长找市场”。这句话很有意思。其实理论上讲,市场经济应该要限制政府权力,是“市长不找市场找”,也就是说市场经济下“市长”不能随便找老百姓的麻烦。“市长”喜欢官办企业,计划经济下他可以找民营企业的麻烦,把它灭了。但市场经济下不行,官办企业只能在市场上与民企竞争。计划经济下哪张报纸惹了“市长”,他就可以“找”上去把它灭了,但市场经济下不行,你不喜欢它,你就得自己办一张老百姓更爱看的报纸,在市场上把它竞争垮。这就叫“市长不找市场找”,就是西方的市场经济。

但是在我们这里这样说,“市长”不爱听。于是只好捡他爱听的说:计划经济下老百姓什么柴米油盐生老病死都要你管,烦不烦?现在搞市场经济,就可以让他们自生自灭,不会“找市长”您的麻烦了。于是“限权”就这样变成了“卸责”。责卸了,权还不受限;“市长”可以“找”百姓,而百姓不能“找市长”,多好。

可是,问题在于市场经济下要你这个市长干什么?就是给老百姓提供服务的,怎么老百姓就不能找你呢?老百姓找你,你就把他推出去叫他“找市场”?“市长”可以随便找老百姓收税,而老百姓不能“找市长”要福利,如果是这样的话,哪个国家不富得流油呢——我讲的“富得流油”是指国家财政,不是指老百姓的钱包。我们现在看到中国模式的特点是什么?就是政府特有钱。他们的政府捉襟见肘到处化缘,我们的政府花钱如水挥金如土。我们一个镇政府的豪华大楼比人家大城市市政厅还阔得多,我们的城市充满“形象工程”,奢侈得让那些“富国”来的游客目瞪口呆。“大裤衩,水煮蛋,别人不敢,咱们干!”就这样钱还花不出去,正好美国要透支,不借给他,藏着掖着咱们也不放心呀。

这就有了咱们的“模式”。其实中国并不比别的国家更左或者更右。只不过,中国“左”起来给政府扩大权力很容易,但追问它的责任却很困难;中国“右”起来呢?那推卸政府的责任很容易,但限制它的权力却很困难。这样搞,当然也有优越性,那就是原始积累的速度快,此外应付事态的能力也特别强,手中集中了巨量的钱,要搞经济刺激计划当然容易,要摆平什么人什么事,出手也特别阔绰。可是这样搞的后果是什么?通常人们都会说,像这样加速投资会不会加剧产能过剩,垄断部门谋取利益会不会导致两极分化的加剧,人为压低居民消费导致内需不足,以及权力集中的种种风险等等。这些我们姑且不论。现在我要讲的是:假如这样的模式以及以这一模式和前面说过的西方那种模式的互动为特征的、现在我们看到的这种全球化可以一直延续下去的话,中国和世界的未来将会怎样。

劣币驱逐良币

现在国际上社会学界、政治学界对中国的批评还是有的,但是在经济学界我看到是一片赞扬声,一开始是“左派”、凯恩斯主义者赞扬,说中国不搞自由放任,真好!后来“右派”也跟上来,说中国不搞福利国家,真行!奈斯比特1997年在中国出了一本书叫 《亚洲大趋势》,后来有人写了书评题曰:《亚洲是自由主义的典范吗?》。这本书说全世界现在都给福利国家搞坏了,只有中国政府完全不管福利,百姓只能靠自己和家庭的奋斗,因此特别吃苦耐劳,创造了经济奇迹。其实他当年写这本书是专门跑到中国让人给他翻译成中文本出版的,在中国炒成畅销书大赚一笔,却没有先出英文本。那时他发表这些言论还不太有底气。但是最近他又写了本《中国大趋势》以英文在法兰克福书展上高调推出,又把这观点进一步膨胀,这时是信心满满了:中国的确行,在世界上开创了一条冲破福利国家的道路。张五常先生最近也一再讲中国创造了人类最好的体制,就是既不搞福利也没有工会,还说世界的趋势是欧洲学美国,美国学中国——高福利国家要学低福利国家,低福利国家要学负福利国家。总而言之,现在西方经济学的左右派都觉得中国模式的确有吸引力,左派表扬中国低自由,右派表扬中国低福利,出现了一场大合唱。

可是老实说,他们表扬归表扬,要学中国都学不了,除非他们废了他们的民主制度。道理很简单,在他们那个平台上要既降福利又降自由,几乎根本做不到。而且他们就真想这样吗?未必,其实他们左右两边不过是拿 “中国奇迹”当自己的论据,敲打对方:左派夸奖中国低自由是要证明福利国家有理,右派夸奖中国低福利是要证明自由放任有理。可是既低自由又低福利的可能性,他们是不去想的。

当然,既低自由又低福利却体现出“竞争优势”,这是在加入了全球化以后才出现的。如果两个模式关起门来竞争,我不认为这种模式有什么优越性。朝鲜就是一个例子,中国改革前也是一个例子。但是如果打开国门,在一个市场、投资行为都高度全球化,金融也高度全球化、但是人权标准没有全球化的背景下进行竞争,那这种模式的优越性就体现出来了。因为自由经济真正的优势是它的创新激励,要让人玩命地干活,它就未必敌得过铁腕体制。而在融入全球化的条件下,前者创新出来的东西后者可以学,后者的铁腕却是前者没法学的。于是后者不仅在一定意义上有“优势”,而且我认为的确有一种可能——这里我只讲可能,我从来不认为历史有什么 “必然性”——在目前全球化的运作中会形成一种“劣币驱逐良币”的现象。

当然相反的趋势也是存在的。中国如今这种“模式”的积弊,识者也已讲得够多了。尤其在这一波危机发生后,外需萎缩了,转而靠投资拉动,投资形成产能后又会造成更严重的产能过剩。去年提升内需据说是颇有进展,但是很多人都指出,这主要是政府消费而非居民消费,“官内需”而非“民内需”的提升占了很大比重,也潜藏着隐忧。总之,如今“转变长方式”(其实就是对转变体制的委婉说法)已经势在必行。

同时这种转变也不是没有条件。华生认为改革以来,中国的自由与福利都是进步的。当然,我在自己的文章中也指出,中国的人权是“纵向有进步,横向有落差”。“低人权优势”主要是横向比较而言,这种“优势”与纵向比较人权仍有进步并不矛盾。中国改革30年来,无论自由还是福利两个方面,人权无疑都是有进步的。改革前中国的人权状况肯定比现在差,因此我对改革的进步性是肯定的,而对于那种认为改革后不如改革前的“左派”理论是不赞成的。但这并不排斥我对如今我们的人权水平持批判态度。

其实就是我最近提到的南非也何尝不是如此?种族隔离时代比更早的奴制时代,乃至种族隔离时代的晚期比之前期,人权状况都是有改进的。尤其是1978后的几年间,这种改进还很大。再往前追溯也是如此:人们批判“流动工人”制度,但也知道此前的征发劳工制更糟糕。人们批判“宿舍劳工”制度,但也知道到种族隔离晚期人劳工家居化程度已经很高,至少比今天的中国高。就经济高长而言,在指出白悬殊的严重不平等的同时,也不能说人从长中丝毫没有受益。纵向比,南非人的收入比以前加,横向比,南部非洲周边各国人更高,与白人的差距也在缩小。其实南非1994年民主化,也不是突如其来的,也是一个积“量变”为“质变”的过程。而且这也是此前人民权运动渐进推动的结果。但是所有这一切,并不排斥人们对整个这一时期的南权状况持批判态度。

而所谓横向比较意义上的 “低人权优势”,也并不是要否认纵向人权进步对经济长率的正面作用 (对经济长质量或长分享性的正面作用几乎无争议,这里就不谈了)。中国改革时代相对于改革前的人权进步对经济长当然有正面作用,正如我们说“流动工人”这种低人权劳动方式对南非经济长有作用,但从“流动工人”比起奴制和征发劳工制而言仍算进步这个角度讲,也可以说是人权进步对经济长起了作用。问题在于:仅仅这样说就不能解释,为什么在横向比较中人权进步明显更大的那些国家,长率反而(至少在相当一个时期)相对较低?例如,为什么民主化了的中东欧国家经济长率没有中国高 (尽管其老百姓的生活未必没有中国好)?为什么非洲一些民主国家经济长率也没有南非高?为什么国际资本不是争相投入中东欧,而是争相投入中国?为什么巨量廉价商品不是从中东欧、而是从中国涌向世界?其实在全球化的背景下这并不是个太深奥的问题:如果说“招商引资”方面的“竞争力”在全球化市场经济背景下对长率至关重要的话,那么一个没有工会、可以任意圈地的国家比工会发达、圈地困难的国家(如中东欧国家)哪个更能“招商引资”,这不是明摆着的吗?所以,只有把纵向比较的人权进步和横向比较的“低人权优势”都考虑到,才能对“奇迹”有可信的解释。

这样的 “低人权优势”的确存在着“劣币驱逐良币”的逻辑。为了说明这一点,我曾征引过诺贝尔经济学奖获得者福格尔对美国南北战争前南方奴隶制经济“效率”问题的研究。同时也存在着相反的趋势,即全球化条件下也存在着“高人权”地区对“低人权”地区的改变作用。我把这两者分别称为 “福格尔影响”与“苏利文影响”。总之,全球化使世界各国的互相影响明显强,但哪一种影响最终胜出,并没有一种决定论的答案。

而如果通过“为自由而限权、为福利而问责”的努力使我国的自由与福利都得到持续的进步,这实际上也就是上面讲的那种所谓与西方相反的“中国模式”的淡出和中国融入世界文明主流的过程。

出典:http://finance.ifeng.com/opinion/xzsuibi/20100406/2014124.shtml