韓嘉玲
(本文は2004年、北京大学教育学院での講演記録である)
大変うれしいです。私はこのような人気のないテーマでは聞きに来る学生はいないかと思っていましたが、こんなにも多くの皆さんが農村教育に関心をもっていることを知り、大変うれしく感じています。これから私が長期間従事した農村教育での経験を皆さんと共有したいと思います。私は貧困地区について重点的に話します。まず先に紹介しますと、私は90年から91年の間、貴州省東南部のある少数民族地区で貧困対策の仕事をしました。あとで皆さんにお見せする写真の一部はその時の仕事の様子です。少し昔の写真ですが、農村教育の状況を知ることができます。他にも2000年に甘粛と寧夏回族自治区で行った教育に関する調査の時の写真があります。
ところで、農村教育とはなにを意味するのでしょうか? わたしは、農村教育とは農村地区で行われる各種の教育を意味すると思います。農村教育には3つの類型が含まれます。一つ目は、農村の正規教育です。正規教育とは、基本的に学校での正規教育、あるいは学校での義務教育を意味します。もちろん教育には義務教育以前と以後の教育もありますが、今日は貧困地区の農村義務教育に重点を置きたいと思います。しかし、農村教育は農村の基礎教育あるいは義務教育だけでないことを指摘しておきたいと思います。
もう一つは、非正規教育です。非正規教育は学校教育とは異なり、例えば学期の開始と終了のような固定した形式はありません。基本的に固定した形式と場所のないものです。非正規教育は非常に重要です。それは学歴教育ではなく、農村の発展と関連した教育です。例えば、中国では現在貧困地区で多くの小規模貸付事業が行われています。農民にお金を貸して、彼らが鶏やアヒルを飼う。その過程で彼らに農村の実用技術を教えますが、それらの実用技術の教育は非正規教育です。わが国では、農村成人教育、職業教育、そして識字教育も農村非正規教育に分類することができます。実際、わが国はかつて農村非正規教育は非常によく行われていました。特に建国初期のころの文盲一掃運動においては、地域の実情に合わせたさまざまな農村教育が行われ、多くの豊富な農村教育の形式を創造しました。そのなかには、今でも多くの第三世界の国で広められてるものもあります。私たちが外国に行って、このやり方はどこから学んだのかと聞くと、あなた方の中国から伝えられたものだという答えが帰ってきます。しかし、私たちがかつて創造した豊富な形式の農村教育について、私たちは今ではあまり知りません。例えば、過去の文盲一掃運動のころには、小学4年生の生徒が家に帰って祖父母を教えるという教育グループがありましたし、あるいは木陰で、工場で、その他農村のいろいろな場所で各種の教育が行なわれました。たとえば、冬で農作業ができない時に開かれた冬期学習班。たとえば、通りに識字カードを並べ、それを読ませ、読めなければ通らせないといったやり方。強制的な性質ですが、これもまた普及方式の一つです。そのころ、放牧地区では、人がまばらなので、多くの子供が学校にいけません。そこで、いわゆる馬上学校ができました。教師が馬に乗って放牧地区の集落を回って子供に教えるのです。あるいは湖沼地区の船上学校。当時は、さまざまな形式の農村教育がありました。しかし、今日文盲一掃の仕事が完了してからは、それらの形式の教育は非常に少なくなりました。
最後の一つは、いわゆるインフォーマル教育です。どう訳していいかわかりませんが、それは組織もなく、計画もない一種の教育モデルです。例えば、新聞を読んだり、ラジオを聞いたり、テレビを見たり、民間伝統芸能を見たりといった形式です。これも、以前の農村では非常に豊富でした。映画上映隊が農村を回って知識を広めたりするのも、インフォーマル教育です。これについては今日は話すことができません。今日は農村学校での義務教育の状況に絞ってお話をしたいと思います。
基本的に、わが国は2000年に基本的に(9年制)義務教育が普及し終わっています。「基本的に普及」とはどういうことでしょうか? 実際は、大体85%の人口が住む地区に対して義務教育が普及したということです。言い換えれば、まだ15%の地区は義務教育が普及していないのです。6年間の初等義務教育も普及していないところもあります。ですから、私たちがほとんど普及したと思っていても、実際は義務教育が行われていないところがたくさんあります。しかも、義務教育実施状況の確認検査が終わったといわれているところも問題で、統計上の数字と現実には非常に大きな開きがあります。一つ例をあげますと、私たちが行った甘粛の4つの貧困線以下と認定されている県のうち、2つの県では初等義務教育普及の確認検査が終わっていました。じっさいは、この2つの県は2000年か2001年に初等義務教育普及確認検査に合格するように要求されていたのです。この2つの県はその要求に応える能力はありませんでした。しかし、この任務を完成させなければならないので、2000年に目標達成するために、数字を捏造しなければならなかったのです。なぜ私たちはこの現象を発見できたのでしょうか? それは私たちの甘粛での調査項目の中に経費の分配があったからです。イギリスの援助プロジェクト資金1500万元を私たちが分配しました、どのように分配を決めたかというと、伝統的な上級機関による指令による分配によるわけには行きません。基準となる指標を作って分配を決めました。つまり、教育条件が悪く、初等普通教育を受けられない生徒が多いほど、より多くの資金を分配したのです。そのため、目標を達成した2つの県は非常に馬鹿を見たと感じたのでした。就学率90%以上でないと確認検査に合格しませんが、かれらの県はすでに95%の子供が入学しており、彼らが受け取った資金はほかより少なかったのです。私たちは、最初から事実を報告するようにと言っていたのですが。結果として確認検査はしばしば上級機関が合格するようにと命令すれば、必ず合格しなければならないということがわかったのです。このような虚報の事実は義務教育を普及させるのを困難にしています。ここに、2つの数字があります。これは甘粛調査での4県の数字です。すみません、2つの県への配慮から県名を出すことはできません。なぜなら、彼らが国に報告した数字と違うからです。全国的に見ると、初等義務教育の普及率は非常に高いです。しかし、統計数字の裏側に、省や県まで降りたときには、統計数字との違いが非常に大きくなります。例えばこの県、この県は地区で一番貧しい県です。そのため、女子の比率が非常に低くなっています。この数字にも多少手が加えられていると思います。県の統計数字ですから。もし、郷とか学校のレベルまで降りていくと、その違いはもっと大きくなります。平均された統計数字は多くの細かな真実を覆い隠しているのです。
これは、1990年に貴州省の少数民族の村で行った調査です。見てわかる通り、全国、貴州省、その県、その郷と下っていくと比例の違いが非常に大きくなっていきます。表面的な統計数字を見てもだめです。なぜなら、中国の数字は平均すると誤差が大きくなるからです。一つの県の統計数字が一つの郷の実情を隠し、一つの郷の統計数字が一つの学校の実情を隠すのです。ですから、私たちは個別事例について定性的な研究をする方が実情をつかめると思います。私は、農村義務教育の中に存在する一つの大きな問題は国の予算投入が少ないことだと思います。皆さんご存知のように、わが国の農村教育の予算システムは分級管理・分級実施のシステムです。このシステムのもとでは農村の義務教育は郷あるいは村によって担われることになります。東部の農村にとっては、問題ないでしょう。郷に義務教育を担当させるのはもともとは地方で教育を起こすことを奨励し、より多くの資金を教育に投入するための方式だったかもしれません。しかし、このような教育システムは西部地区では義務教育への資金投入を困難にしています。統計数字を見ると、第9次五ヵ年計画の期間(1996年から2000年)の予算の伸び率は、一般大学が155.8%、一般高校が123.9%、(小中学校をあわせた)義務教育が98%で、農村義務教育の伸び率はもっと低くなっています。しかし、農村学校が占める比率は70%以上です。こんなに多くの人が使う経費がこんなにも少ない。ですから、わが国の教育財政予算は高等教育、後期中等教育に重点的に配分される傾向があります。言い換えれば、教育はエリート教育の路線なのか大衆教育の路線なのかというと、私が見るに、現在の経済発展を目標とする教育は基本的に有限な資源をエリート教育に振り向ける路線をとっていると思います。さらに次のデータを見てください。国の予算中の義務教育への配分は比較的少ないです。基本的に郷段階(郷・鎮)の政府がほとんどの教育経費を支出しています。郷レベルが78%、県レベルが11%ですから、県と郷が義務教育経費の主な支出もとです。省が9%、中央政府はわずか2%です。中国の比較的貧困な地区では、県と郷は基本的に義務教育を担う能力はありません。実のところ郷鎮レベルの負担というのは農民の負担です。つまり、義務教育予算は農民がまかなっているのです。郷鎮レベルの予算は「食事予算」で人件費のみで消えてしまいますから、貧困な地区であればあるほど農民の負担は重くなります。教師の給料は県政府が支出するか、農村の教育賦課金(農村部だけにある税金の一種)で負担するかです。ですから、貧困地区であればあるほど(県政府が給与を支出できないので)民間教師(村で直接雇用した教師、公務員ではない)が多くなります。民間教師の経費も農民の負担です。学校施設整備は農民から資金を集めて行われます。もし、農民に資金を集める力がなければ、学校は危険家屋になってしまいます。もちろん、世界銀行は「貧一、貧二」(プロジェクト名称)などの借款資金を提供していますが、これらの援助は基本的に道路が通っていること、電気が通っていることなどの条件があり、郷の中心学校でなければなかなか資金を獲得できません。辺鄙な貧困地区はこれらの貧困対策の借款を獲得することはできません。もちろん、ところによっては希望工程、手と手をつなぐなどのプロジェクト資金を獲得していますが、それもやはり道路が通っていて、外からの人が視察できるところしか獲得できません。例えば私たちが行った貴州省では、県政府所在地にはすでに2つ(中)学校がありましたが、ある都市の水利電気局が学校建設資金を献金し、2つの(中)学校の中間に建設しました。その結果、全県で4つしかない中心(中)学校のうち、3校が県政府所在地に集中し、1校だけが郷にあるという配置になっています。一番遠い郷は県政府所在地から7~80キロも離れていますが、その郷には(中)学校がなく、そこの子供たちが学校に行くには県政府所在地まで出なくてはなりません。ですから、学校の施設整備も農民の負担になるのです。そして、もっと重要なことは、学校の運営経費は生徒から徴収するということです。私が深く印象に残っているのは、1995年に貴州省教育局で調査していた時、局長事務室で局長にインタビューをしていた時、一人の農村教師が50キロあまりの道のりを歩いて局長を訪ねてきて、5元の事務経費を請求したことです。学校には基本的に事務経費がありません。甘粛での調査の時は、学校の事務経費は多くがゼロか0.16元でした。私は最近北京の出稼ぎ農民子女学校の研究をしていますが、そこの事務経費は一学期600元あまりでした。ですから、その格差は比較のしようもありません。北京は財政がとても豊かなので、その学校は北京の地方財政から支援が受けられます。しかし、農村の郷政府は、時には教師の給料も支給できないのに、事務経費まではとても手が回りません。生徒から集めるしかないのです。
わが国で現在見られる非常に興味深い現象は、発展の遅れたところほど、住民の教育負担が重いということです。県レベルの教育予算は主に県政府所在鎮で使われます。それ以外の教育経費は農民から取り立てるしかありません。ですから、貧困地区であればあるほど、民間教師や代用教師の比率が高くなります。危険校舎の比率も高くなります。私たちは教育経費が少ないといいますが、都市のモデル学校と重点学校はどんどん豪華に、都会的に、貴族的になっています。これらの学校にはプールがあり、豪華な合成ゴム舗装のトラックがあります。たとえば、北京のモデル学校80校には、聞くところによると2~3億元が投資されているそうです。もちろん、一部は銀行からの借款ですが、その金はどこから回収するのでしょうか? やはり生徒から学費として徴収します。なぜなら、保護者は子供がいい学校に進むのを望んでいますから、喜んでお金を払います。そこで、両極化の状況が進んでいます。一方で、わが国の教育資源は非常に少ない、また一方でそのように稀少な教育資源が少数の学校に集中され、いわゆるエリート養成に使われる。私はこれらのエリートが北京大学に進学できるのか、あるいはみんなアメリカに行くのかはわかりません。私はこのような教育資源の分配が公平なのかどうか、国の全体的な発展に有利なのかどうかわかりません。
私は、教育の体制と政策はこのような教育資源分配制度のもとで、このような格差を拡大する方向ではなく緩和する方向に進むべきだと思います。とりわけ義務教育段階においては、国は教育資源の欠乏している地方に傾斜配分し支援すべきであって、格差を拡大し、人為的にスタートラインの不平等を広げるべきではないと思います。
(続く)
(本文は2004年、北京大学教育学院での講演記録である)
大変うれしいです。私はこのような人気のないテーマでは聞きに来る学生はいないかと思っていましたが、こんなにも多くの皆さんが農村教育に関心をもっていることを知り、大変うれしく感じています。これから私が長期間従事した農村教育での経験を皆さんと共有したいと思います。私は貧困地区について重点的に話します。まず先に紹介しますと、私は90年から91年の間、貴州省東南部のある少数民族地区で貧困対策の仕事をしました。あとで皆さんにお見せする写真の一部はその時の仕事の様子です。少し昔の写真ですが、農村教育の状況を知ることができます。他にも2000年に甘粛と寧夏回族自治区で行った教育に関する調査の時の写真があります。
ところで、農村教育とはなにを意味するのでしょうか? わたしは、農村教育とは農村地区で行われる各種の教育を意味すると思います。農村教育には3つの類型が含まれます。一つ目は、農村の正規教育です。正規教育とは、基本的に学校での正規教育、あるいは学校での義務教育を意味します。もちろん教育には義務教育以前と以後の教育もありますが、今日は貧困地区の農村義務教育に重点を置きたいと思います。しかし、農村教育は農村の基礎教育あるいは義務教育だけでないことを指摘しておきたいと思います。
もう一つは、非正規教育です。非正規教育は学校教育とは異なり、例えば学期の開始と終了のような固定した形式はありません。基本的に固定した形式と場所のないものです。非正規教育は非常に重要です。それは学歴教育ではなく、農村の発展と関連した教育です。例えば、中国では現在貧困地区で多くの小規模貸付事業が行われています。農民にお金を貸して、彼らが鶏やアヒルを飼う。その過程で彼らに農村の実用技術を教えますが、それらの実用技術の教育は非正規教育です。わが国では、農村成人教育、職業教育、そして識字教育も農村非正規教育に分類することができます。実際、わが国はかつて農村非正規教育は非常によく行われていました。特に建国初期のころの文盲一掃運動においては、地域の実情に合わせたさまざまな農村教育が行われ、多くの豊富な農村教育の形式を創造しました。そのなかには、今でも多くの第三世界の国で広められてるものもあります。私たちが外国に行って、このやり方はどこから学んだのかと聞くと、あなた方の中国から伝えられたものだという答えが帰ってきます。しかし、私たちがかつて創造した豊富な形式の農村教育について、私たちは今ではあまり知りません。例えば、過去の文盲一掃運動のころには、小学4年生の生徒が家に帰って祖父母を教えるという教育グループがありましたし、あるいは木陰で、工場で、その他農村のいろいろな場所で各種の教育が行なわれました。たとえば、冬で農作業ができない時に開かれた冬期学習班。たとえば、通りに識字カードを並べ、それを読ませ、読めなければ通らせないといったやり方。強制的な性質ですが、これもまた普及方式の一つです。そのころ、放牧地区では、人がまばらなので、多くの子供が学校にいけません。そこで、いわゆる馬上学校ができました。教師が馬に乗って放牧地区の集落を回って子供に教えるのです。あるいは湖沼地区の船上学校。当時は、さまざまな形式の農村教育がありました。しかし、今日文盲一掃の仕事が完了してからは、それらの形式の教育は非常に少なくなりました。
最後の一つは、いわゆるインフォーマル教育です。どう訳していいかわかりませんが、それは組織もなく、計画もない一種の教育モデルです。例えば、新聞を読んだり、ラジオを聞いたり、テレビを見たり、民間伝統芸能を見たりといった形式です。これも、以前の農村では非常に豊富でした。映画上映隊が農村を回って知識を広めたりするのも、インフォーマル教育です。これについては今日は話すことができません。今日は農村学校での義務教育の状況に絞ってお話をしたいと思います。
基本的に、わが国は2000年に基本的に(9年制)義務教育が普及し終わっています。「基本的に普及」とはどういうことでしょうか? 実際は、大体85%の人口が住む地区に対して義務教育が普及したということです。言い換えれば、まだ15%の地区は義務教育が普及していないのです。6年間の初等義務教育も普及していないところもあります。ですから、私たちがほとんど普及したと思っていても、実際は義務教育が行われていないところがたくさんあります。しかも、義務教育実施状況の確認検査が終わったといわれているところも問題で、統計上の数字と現実には非常に大きな開きがあります。一つ例をあげますと、私たちが行った甘粛の4つの貧困線以下と認定されている県のうち、2つの県では初等義務教育普及の確認検査が終わっていました。じっさいは、この2つの県は2000年か2001年に初等義務教育普及確認検査に合格するように要求されていたのです。この2つの県はその要求に応える能力はありませんでした。しかし、この任務を完成させなければならないので、2000年に目標達成するために、数字を捏造しなければならなかったのです。なぜ私たちはこの現象を発見できたのでしょうか? それは私たちの甘粛での調査項目の中に経費の分配があったからです。イギリスの援助プロジェクト資金1500万元を私たちが分配しました、どのように分配を決めたかというと、伝統的な上級機関による指令による分配によるわけには行きません。基準となる指標を作って分配を決めました。つまり、教育条件が悪く、初等普通教育を受けられない生徒が多いほど、より多くの資金を分配したのです。そのため、目標を達成した2つの県は非常に馬鹿を見たと感じたのでした。就学率90%以上でないと確認検査に合格しませんが、かれらの県はすでに95%の子供が入学しており、彼らが受け取った資金はほかより少なかったのです。私たちは、最初から事実を報告するようにと言っていたのですが。結果として確認検査はしばしば上級機関が合格するようにと命令すれば、必ず合格しなければならないということがわかったのです。このような虚報の事実は義務教育を普及させるのを困難にしています。ここに、2つの数字があります。これは甘粛調査での4県の数字です。すみません、2つの県への配慮から県名を出すことはできません。なぜなら、彼らが国に報告した数字と違うからです。全国的に見ると、初等義務教育の普及率は非常に高いです。しかし、統計数字の裏側に、省や県まで降りたときには、統計数字との違いが非常に大きくなります。例えばこの県、この県は地区で一番貧しい県です。そのため、女子の比率が非常に低くなっています。この数字にも多少手が加えられていると思います。県の統計数字ですから。もし、郷とか学校のレベルまで降りていくと、その違いはもっと大きくなります。平均された統計数字は多くの細かな真実を覆い隠しているのです。
これは、1990年に貴州省の少数民族の村で行った調査です。見てわかる通り、全国、貴州省、その県、その郷と下っていくと比例の違いが非常に大きくなっていきます。表面的な統計数字を見てもだめです。なぜなら、中国の数字は平均すると誤差が大きくなるからです。一つの県の統計数字が一つの郷の実情を隠し、一つの郷の統計数字が一つの学校の実情を隠すのです。ですから、私たちは個別事例について定性的な研究をする方が実情をつかめると思います。私は、農村義務教育の中に存在する一つの大きな問題は国の予算投入が少ないことだと思います。皆さんご存知のように、わが国の農村教育の予算システムは分級管理・分級実施のシステムです。このシステムのもとでは農村の義務教育は郷あるいは村によって担われることになります。東部の農村にとっては、問題ないでしょう。郷に義務教育を担当させるのはもともとは地方で教育を起こすことを奨励し、より多くの資金を教育に投入するための方式だったかもしれません。しかし、このような教育システムは西部地区では義務教育への資金投入を困難にしています。統計数字を見ると、第9次五ヵ年計画の期間(1996年から2000年)の予算の伸び率は、一般大学が155.8%、一般高校が123.9%、(小中学校をあわせた)義務教育が98%で、農村義務教育の伸び率はもっと低くなっています。しかし、農村学校が占める比率は70%以上です。こんなに多くの人が使う経費がこんなにも少ない。ですから、わが国の教育財政予算は高等教育、後期中等教育に重点的に配分される傾向があります。言い換えれば、教育はエリート教育の路線なのか大衆教育の路線なのかというと、私が見るに、現在の経済発展を目標とする教育は基本的に有限な資源をエリート教育に振り向ける路線をとっていると思います。さらに次のデータを見てください。国の予算中の義務教育への配分は比較的少ないです。基本的に郷段階(郷・鎮)の政府がほとんどの教育経費を支出しています。郷レベルが78%、県レベルが11%ですから、県と郷が義務教育経費の主な支出もとです。省が9%、中央政府はわずか2%です。中国の比較的貧困な地区では、県と郷は基本的に義務教育を担う能力はありません。実のところ郷鎮レベルの負担というのは農民の負担です。つまり、義務教育予算は農民がまかなっているのです。郷鎮レベルの予算は「食事予算」で人件費のみで消えてしまいますから、貧困な地区であればあるほど農民の負担は重くなります。教師の給料は県政府が支出するか、農村の教育賦課金(農村部だけにある税金の一種)で負担するかです。ですから、貧困地区であればあるほど(県政府が給与を支出できないので)民間教師(村で直接雇用した教師、公務員ではない)が多くなります。民間教師の経費も農民の負担です。学校施設整備は農民から資金を集めて行われます。もし、農民に資金を集める力がなければ、学校は危険家屋になってしまいます。もちろん、世界銀行は「貧一、貧二」(プロジェクト名称)などの借款資金を提供していますが、これらの援助は基本的に道路が通っていること、電気が通っていることなどの条件があり、郷の中心学校でなければなかなか資金を獲得できません。辺鄙な貧困地区はこれらの貧困対策の借款を獲得することはできません。もちろん、ところによっては希望工程、手と手をつなぐなどのプロジェクト資金を獲得していますが、それもやはり道路が通っていて、外からの人が視察できるところしか獲得できません。例えば私たちが行った貴州省では、県政府所在地にはすでに2つ(中)学校がありましたが、ある都市の水利電気局が学校建設資金を献金し、2つの(中)学校の中間に建設しました。その結果、全県で4つしかない中心(中)学校のうち、3校が県政府所在地に集中し、1校だけが郷にあるという配置になっています。一番遠い郷は県政府所在地から7~80キロも離れていますが、その郷には(中)学校がなく、そこの子供たちが学校に行くには県政府所在地まで出なくてはなりません。ですから、学校の施設整備も農民の負担になるのです。そして、もっと重要なことは、学校の運営経費は生徒から徴収するということです。私が深く印象に残っているのは、1995年に貴州省教育局で調査していた時、局長事務室で局長にインタビューをしていた時、一人の農村教師が50キロあまりの道のりを歩いて局長を訪ねてきて、5元の事務経費を請求したことです。学校には基本的に事務経費がありません。甘粛での調査の時は、学校の事務経費は多くがゼロか0.16元でした。私は最近北京の出稼ぎ農民子女学校の研究をしていますが、そこの事務経費は一学期600元あまりでした。ですから、その格差は比較のしようもありません。北京は財政がとても豊かなので、その学校は北京の地方財政から支援が受けられます。しかし、農村の郷政府は、時には教師の給料も支給できないのに、事務経費まではとても手が回りません。生徒から集めるしかないのです。
わが国で現在見られる非常に興味深い現象は、発展の遅れたところほど、住民の教育負担が重いということです。県レベルの教育予算は主に県政府所在鎮で使われます。それ以外の教育経費は農民から取り立てるしかありません。ですから、貧困地区であればあるほど、民間教師や代用教師の比率が高くなります。危険校舎の比率も高くなります。私たちは教育経費が少ないといいますが、都市のモデル学校と重点学校はどんどん豪華に、都会的に、貴族的になっています。これらの学校にはプールがあり、豪華な合成ゴム舗装のトラックがあります。たとえば、北京のモデル学校80校には、聞くところによると2~3億元が投資されているそうです。もちろん、一部は銀行からの借款ですが、その金はどこから回収するのでしょうか? やはり生徒から学費として徴収します。なぜなら、保護者は子供がいい学校に進むのを望んでいますから、喜んでお金を払います。そこで、両極化の状況が進んでいます。一方で、わが国の教育資源は非常に少ない、また一方でそのように稀少な教育資源が少数の学校に集中され、いわゆるエリート養成に使われる。私はこれらのエリートが北京大学に進学できるのか、あるいはみんなアメリカに行くのかはわかりません。私はこのような教育資源の分配が公平なのかどうか、国の全体的な発展に有利なのかどうかわかりません。
私は、教育の体制と政策はこのような教育資源分配制度のもとで、このような格差を拡大する方向ではなく緩和する方向に進むべきだと思います。とりわけ義務教育段階においては、国は教育資源の欠乏している地方に傾斜配分し支援すべきであって、格差を拡大し、人為的にスタートラインの不平等を広げるべきではないと思います。
(続く)