漢人統治に不満だったチベット人が各地で機に乗じて挙兵した。中原〔中国内地〕は混乱し、将来も不確かで、兵士がみな帰りたがる中で、駐チベット軍は闘志を失っていった。ツァン〔現在のチベット自治区西部、ギャンツェ以西〕が最も早く開戦し、ギャンツェから派遣された援軍が着いた時、包囲された漢軍はすでに銃をチベット軍に売り渡し、その代わり包囲を一部といてもらってインドに逃れていた。ギャンツェの援軍もそれに倣い、銃を売って旅費とし勝手にチベットを離れた。清国政府が派遣したギャンツェの役人も次々に職をなげうち、チベットから出て行った。
ラサの開戦は漢軍がラサの3大寺院の一つセラ寺を攻撃したことで始まった。当事者はある人はセラ寺が漢軍のウラ〔労役〕供出命令に応じなかったからだと言い(17)、またある人はセラ寺の僧兵が発砲して漢軍の兵士を負傷させたからだと言っている(18)。だが、いずれも本来開戦する必要はなかったので、セラ寺を攻撃したのは、セラ寺の中に金製品が多数所蔵されていたので、漢軍の中に略奪を狙っていた者がいたからだと言う。彼らは当初大砲を引っ張り出して並べたらチベット人は屈服すると思っていた。1日攻撃しても陥落しないとは考えも及ばず、参加した兵士は苦戦に耐えられず次々に逃げだし、大砲も放置して打ち捨てられた。その結果、チベット軍が逆に漢軍の陣地を包囲して攻撃を始めた。革命に呼応したと称する「議局」〔議会〕はこうなると誰も構う者はなく、物品も全て群衆に盗まれてしまった。聯豫と司令官の鐘穎が再び権力を握ると、反乱の煽動者を処刑した。その後聯豫はチベットを離れ、インド経由で中国に戻った。鐘穎が主に指揮をとり、漢人を指揮してチベット人の攻撃のもとで8か月間持ちこたえた。
インドに亡命したダライラマ13世はこの時にチベットに戻り、チベット人を統率して中国人を完全に駆逐する独立戦争を展開した。当時のチベットのガシャ政府はダライラマの名義で下記の通告を発表した。これは、今日の目で見るとれっきとした独立宣言だ。
「内地各省人民は、いますでに君主を打倒し、新しい国を建てた。これ以降は、これまで漢がチベットに出した公文・政令は、全て従ってはならない。藍色の服を着た者、すなわち新しい国が派遣してきた官吏を、汝等は供応してはならない。ただ、ウラ〔労役〕は以前どおり供給すべし。漢兵は我がチベット人を保護することもできないのに、その将兵はいかなる方法で自らの地位を強化できようか、チベット人が熟慮することを願う。チベットの各村の役人をすでに招集し、血を啜って同盟を結び、ともにことを進めている。漢人の官吏や軍隊がチベットに入ってくるのは、わが政権を全て掌握するためである。漢人は昔の約束に従いわがチベット人を守ることができないことで、その信用は大いに失われた。その上また放縦にも主権を強奪・蹂躙し、その結果我が臣民は上から下まで、流転し、四方に離散し、苛酷残虐の極みの苦しみを味わった! 彼らの意図を推し量るに、我がチベット人に永遠に日の目を見せないためであろう。なぜそうなったかといえば、全て漢人のチベット侵入の結果そうなったのだ。この指示の後は、我が村役人と親方は、必ず発奮して、その地に漢人が住んでいたら、当然それを全て追い出すべきである。たとえその地に漢人が住んでいなくても、厳しくそれを予防し、チベット全域から漢人を絶やすことが枢要である。」(19)
チベット人の武器はラサの漢軍より劣り、すぐには彼らを徹底的に排除できなかった。ラサの全ての漢人は――商人や一般庶民を含め――みな軍事基地に閉じこもった。チベット人は彼らを厳重に包囲し、補給を絶った。漢軍は戦わなければ生還の希望がないと悟って、初めて「死力を尽くして抵抗」を開始し、漢人の庶民も戦闘に加わった(20)。
生還者の記録には、全編にわたって包囲当時の惨状と救援を待ち望む心情があふれている。「日が経って食料が尽きてついに、子供を料理して喰うものが出てきた」、「犬や馬は喰い尽し、飛んでくる鳥もなく、終日遠くの山を仰ぎみて、援軍を待ち続けたが、結局来なかった」、「打って出る前は、ただ援軍を待ち望み、はるか遠くを望んでため息をつき、山のくぼみの雪が解けた黒い影を援軍と勘違いしたり、夜は流れ星を川軍の信号と思いこんだりして、お互い伝えあっていた。生存の機会はまさに絶えんとしていた」(21)。以前チベットで事が起きると、すべて内地からの援軍に頼っていた。それが北京のラサに対する根本的な抑止力だった。だが国内が分裂し、群雄が割拠し、それぞれの関心が権力争いに集中している時、はるか遠くのチベットに構う余力がどこにあろう。当時インドにいた駐チベット参事官の陸興祺は「繰り返し中央と雲南、四川に救援を求めたその文面は聞くに忍びないほど哀切だった」が、各方面は「いずれも大局が定まらないので、気を配ることはできなかった」(22)。
その後四川の反乱はカム〔主に四川省西部、他にチベット自治区東部の一部と雲南省北部を含む〕に拡大した。趙爾豊が殺されたので、辺境防衛はおろそかになり、カムに駐屯していた軍隊は、どこからも給料が出ないので互いに助け合わず、大部分の地域を失った。四川と雲南の軍閥は勢力範囲防衛の目的から、最終的に出兵した。雲南軍は雲南西部からチベットに進軍し、四川都督の尹昌衡は自ら軍隊を率いて西征した。両軍とも順調に勝ち続け、カムは間もなく危機を脱した。四川、雲南両省の軍閥はそれとともにチベット支配の野心を抱き、主権防衛、ラサ防衛軍救援の名目で、北京に資金を要求し、チベット進軍の準備を始めた。
後の人がまとめた『民元蔵事電稿』という本には、民国元年(1912年)4月から12月にかけての北京政府と地方の間のチベット問題に関する電報のやり取りが239通収録されているが、その内65通は四川と雲南のチベット経営権の争い、および北京政府が行った朝廷の内容で、全体の4分の1以上を占める(23)。この比率の中に、それら当事者がどういうことに関心があったかが十分見て取れる(24)。だが軍閥の本当の動機が何だったかはともかく、中国にとっては、内地の軍閥がチベットを支配することはいずれにせよチベットの自立より中国の対チベット主権にとって有利であった。当時の戦況は、国内が混乱していても、内地一省の兵力にさえ、チベットはあらがい難く、中国の国を挙げての力は要しないことを示している。だが、27歳の四川都督尹昌衡が率いる軍隊がカムを平定し、チャムドの包囲を解き、まさにラサに長距離遠征をしようとしていたとき、袁世凱の北洋政府の緊急電報によって制止された。
後の人はこの行動は袁世凱の売国行為であると決めつけている。当時民国はできたばかりで、中国は大小の軍閥の領地に分裂し、中央政府はどこをとっても非常に脆弱であり、甚だしくは有名無実であった。地方を統率する合法性の獲得による列強の承認の獲得が当面の急務だった。当時はイギリスが西側のリーダーであり、世界の最強国家だった。そしてイギリスは袁世凱政府を承認しないという脅しをかけて、中国のチベット進軍を阻もうとした。これは袁世凱政府にとっては確かに致命的な脅威であった。このような選択を前にして、いつも話している「民族の大義」を本当に第一に考える政客がいるだろうか?
四川、雲南軍閥がチベット進軍問題で北京の制約を受け、自分の思い通りにできないのは、名分が必要なことと、もっと重要なのは軍資金が必要だからである。チベット進軍は膨大な出費であり、地方財政では負担しきれない。北京の許可があれば、国のための仕事となるから、国は当然全ての費用を負担しなければならない。国の金を使って、自分達の軍隊を拡大し、新しい領土を広げると言うことは、軍閥にとっては名分と実利の両方を得られる取引である。北京が最初四川の西征に同意し、その後厳しく禁止したのは、すでに大量動員を始めた四川にとっては疑いもなく打撃だった。だが四川と北京の書面交渉においては、利益は見てとれず国家だけである。当時の四川護都の胡景伊が袁世凱にあてた電報には次のように書かれている。
「……四川辺境はすでに平定し、これから精鋭部隊が要衝を攻め落とし、国外に威力を示そうとしているのに、道半ばで阻まれたなら、戦士は嘆息するでありましょう。辺境の町は速く寒くなり、霜が降り雪が積もって、作戦には向かず、とりわけ士気をそぎます。尹都督の戦勝報告が次々と届いて、破竹の勢いであり、前方の敵のたくましい兵士を恐れず、勇気百倍にして、人皆山をゆする気概を備えております。内地の将兵は興奮鼓舞せざる者なく、馬に餌をやり武器を磨き、最後のひと踏ん張りをしたいと願っています。景伊は愚鈍ではありますが、自ら精鋭を率いて、その一助となり、ラサの川岸に馬を洗い、雪嶺に名を刻み、必ずやチベットを以前のように服属させます。領土を無欠にし、チベット人を平定し、五族を一家とすることは、四川の福であるだけでなく、民国の慶でもあります。いたずらに条約にけん制され、客をもって主人となすは……賈誼に痛哭させ、韓非の心を痛めるに足りましょう。よって大総統が辺境を重視しておられ、必ずや深慮遠望があることは知っておりますが、雌伏が長くなると災いがやまず、主権を皆失い、大きな辱めを受けることになりかねず……」(25)。
国務院の回答は改めてチベット進軍を禁止した。
「……ただ現在の時局は非常に緊迫しており、財政は困難で、あたかも病人のごとくであり、元気はすでに傷つき、満身創痍で、なお回復に努めならないのに、遠慮を忘れて軽率に紛争を起こすことができようか。以前何度も送った電報を遵守し、チベットに侵入して、漁夫の利をあさることなきよう望む……」(26)
ラサで孤立していた中国駐留軍はついに援軍を待つことができず、弾も食料もつきた。最後に決死隊を組織して、奇襲によってダライの家族を人質にして、初めて双方はネパールの調停のもとで講和した。漢人は一切の武器弾薬を没収され、チベットから駆逐され、インド経由で内地に戻った。武器を没収するときはナイフや爪楊枝〔金属製〕まで没収された。チベットを出る道中チベット当局は住民に漢人に対して食糧を売らないようにという尊者の指示を伝えた。英国の官吏が軍隊を率いてチベットを出る漢人を護送したのは「意外にも主人が客人を送るのに似ていた」(27)。帰国後、司令官鐘穎は北京で処刑されたが、その事情は複雑なので、ここでは書かない。
ダライラマ13世は長年の挫折と絶望の後で、ついに完全に中国人と決別するという目標を実現した。彼は「チベットが救われた功績は、中国革命の爆発に帰すべきであり、別の原因ではない」と賢くも認識していた(28)。だが多くのチベット人は中国革命を応報と解釈していた――「中国軍がラサを1年半占領した後、中国に革命がおこり、清朝皇帝は打倒されたのはなぜか? それは宗教指導者のダライラマを虐待したからだ」(29)。
出典:http://www.observechina.net/info/artshow.asp?ID=49030
(注)は出典参照
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