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王力雄:辛亥革命後のチベット独立ーーチベットと中国の歴史的関係(13)(2/2)

2009-12-31 13:59:00 | 中国異論派選訳
クーデターの後、哥老会が指揮の中心かつ人材の供給源となった。彼らは乗りかかった船とばかりに、聯豫を連れ去り、袍哥が軍隊を管理した。だが、彼らには政治路線はないので、最初は革命をまねて議会を作ったが、後に勤皇派を宣言し、内地に帰る旅費としてチベット政府に対し10万テールの銀と5千匹の牛馬の供出を迫った。チベット人は従わないわけにもいかないし、また漢軍が早くいなくなることを望んでいたので、金で疫病神を追い払おうと考えた。だが、漢軍は金を手にしても去らず、騒乱で金を儲けようと、略奪を始めた。「皆財物を略奪しつくそうとし、故郷に帰るためと言いながら、その意図は此方にあり彼方にはない」(15)、「白昼兵を率いてあちこち出没し、金持の家を探して、チベット兵が隠れているといいがかりを付け、家に侵入して財物を奪うこと、盗賊と同じであり、庶民を兵と強弁し、拉致してさらし首にしたり指を切り落としたりしている」(16)。当時ラサは混乱に陥り、銃声が絶えず、「日が落ちる前に道には人影無くなり、住民は一晩に何度も震え上がった」。漢人の内部抗争は、革命と勤皇の二つの顔が何度も入れ替わり、内紛が絶えなかった。ギャンツェ、シガツェ、ドモの中国の守備隊も、ラサ情勢の影響を受け、相次いでクーデターを起こし、派閥抗争を繰り広げた。

漢人統治に不満だったチベット人が各地で機に乗じて挙兵した。中原〔中国内地〕は混乱し、将来も不確かで、兵士がみな帰りたがる中で、駐チベット軍は闘志を失っていった。ツァン〔現在のチベット自治区西部、ギャンツェ以西〕が最も早く開戦し、ギャンツェから派遣された援軍が着いた時、包囲された漢軍はすでに銃をチベット軍に売り渡し、その代わり包囲を一部といてもらってインドに逃れていた。ギャンツェの援軍もそれに倣い、銃を売って旅費とし勝手にチベットを離れた。清国政府が派遣したギャンツェの役人も次々に職をなげうち、チベットから出て行った。

ラサの開戦は漢軍がラサの3大寺院の一つセラ寺を攻撃したことで始まった。当事者はある人はセラ寺が漢軍のウラ〔労役〕供出命令に応じなかったからだと言い(17)、またある人はセラ寺の僧兵が発砲して漢軍の兵士を負傷させたからだと言っている(18)。だが、いずれも本来開戦する必要はなかったので、セラ寺を攻撃したのは、セラ寺の中に金製品が多数所蔵されていたので、漢軍の中に略奪を狙っていた者がいたからだと言う。彼らは当初大砲を引っ張り出して並べたらチベット人は屈服すると思っていた。1日攻撃しても陥落しないとは考えも及ばず、参加した兵士は苦戦に耐えられず次々に逃げだし、大砲も放置して打ち捨てられた。その結果、チベット軍が逆に漢軍の陣地を包囲して攻撃を始めた。革命に呼応したと称する「議局」〔議会〕はこうなると誰も構う者はなく、物品も全て群衆に盗まれてしまった。聯豫と司令官の鐘穎が再び権力を握ると、反乱の煽動者を処刑した。その後聯豫はチベットを離れ、インド経由で中国に戻った。鐘穎が主に指揮をとり、漢人を指揮してチベット人の攻撃のもとで8か月間持ちこたえた。

インドに亡命したダライラマ13世はこの時にチベットに戻り、チベット人を統率して中国人を完全に駆逐する独立戦争を展開した。当時のチベットのガシャ政府はダライラマの名義で下記の通告を発表した。これは、今日の目で見るとれっきとした独立宣言だ。

「内地各省人民は、いますでに君主を打倒し、新しい国を建てた。これ以降は、これまで漢がチベットに出した公文・政令は、全て従ってはならない。藍色の服を着た者、すなわち新しい国が派遣してきた官吏を、汝等は供応してはならない。ただ、ウラ〔労役〕は以前どおり供給すべし。漢兵は我がチベット人を保護することもできないのに、その将兵はいかなる方法で自らの地位を強化できようか、チベット人が熟慮することを願う。チベットの各村の役人をすでに招集し、血を啜って同盟を結び、ともにことを進めている。漢人の官吏や軍隊がチベットに入ってくるのは、わが政権を全て掌握するためである。漢人は昔の約束に従いわがチベット人を守ることができないことで、その信用は大いに失われた。その上また放縦にも主権を強奪・蹂躙し、その結果我が臣民は上から下まで、流転し、四方に離散し、苛酷残虐の極みの苦しみを味わった! 彼らの意図を推し量るに、我がチベット人に永遠に日の目を見せないためであろう。なぜそうなったかといえば、全て漢人のチベット侵入の結果そうなったのだ。この指示の後は、我が村役人と親方は、必ず発奮して、その地に漢人が住んでいたら、当然それを全て追い出すべきである。たとえその地に漢人が住んでいなくても、厳しくそれを予防し、チベット全域から漢人を絶やすことが枢要である。」(19)

チベット人の武器はラサの漢軍より劣り、すぐには彼らを徹底的に排除できなかった。ラサの全ての漢人は――商人や一般庶民を含め――みな軍事基地に閉じこもった。チベット人は彼らを厳重に包囲し、補給を絶った。漢軍は戦わなければ生還の希望がないと悟って、初めて「死力を尽くして抵抗」を開始し、漢人の庶民も戦闘に加わった(20)。

生還者の記録には、全編にわたって包囲当時の惨状と救援を待ち望む心情があふれている。「日が経って食料が尽きてついに、子供を料理して喰うものが出てきた」、「犬や馬は喰い尽し、飛んでくる鳥もなく、終日遠くの山を仰ぎみて、援軍を待ち続けたが、結局来なかった」、「打って出る前は、ただ援軍を待ち望み、はるか遠くを望んでため息をつき、山のくぼみの雪が解けた黒い影を援軍と勘違いしたり、夜は流れ星を川軍の信号と思いこんだりして、お互い伝えあっていた。生存の機会はまさに絶えんとしていた」(21)。以前チベットで事が起きると、すべて内地からの援軍に頼っていた。それが北京のラサに対する根本的な抑止力だった。だが国内が分裂し、群雄が割拠し、それぞれの関心が権力争いに集中している時、はるか遠くのチベットに構う余力がどこにあろう。当時インドにいた駐チベット参事官の陸興祺は「繰り返し中央と雲南、四川に救援を求めたその文面は聞くに忍びないほど哀切だった」が、各方面は「いずれも大局が定まらないので、気を配ることはできなかった」(22)。

その後四川の反乱はカム〔主に四川省西部、他にチベット自治区東部の一部と雲南省北部を含む〕に拡大した。趙爾豊が殺されたので、辺境防衛はおろそかになり、カムに駐屯していた軍隊は、どこからも給料が出ないので互いに助け合わず、大部分の地域を失った。四川と雲南の軍閥は勢力範囲防衛の目的から、最終的に出兵した。雲南軍は雲南西部からチベットに進軍し、四川都督の尹昌衡は自ら軍隊を率いて西征した。両軍とも順調に勝ち続け、カムは間もなく危機を脱した。四川、雲南両省の軍閥はそれとともにチベット支配の野心を抱き、主権防衛、ラサ防衛軍救援の名目で、北京に資金を要求し、チベット進軍の準備を始めた。

後の人がまとめた『民元蔵事電稿』という本には、民国元年(1912年)4月から12月にかけての北京政府と地方の間のチベット問題に関する電報のやり取りが239通収録されているが、その内65通は四川と雲南のチベット経営権の争い、および北京政府が行った朝廷の内容で、全体の4分の1以上を占める(23)。この比率の中に、それら当事者がどういうことに関心があったかが十分見て取れる(24)。だが軍閥の本当の動機が何だったかはともかく、中国にとっては、内地の軍閥がチベットを支配することはいずれにせよチベットの自立より中国の対チベット主権にとって有利であった。当時の戦況は、国内が混乱していても、内地一省の兵力にさえ、チベットはあらがい難く、中国の国を挙げての力は要しないことを示している。だが、27歳の四川都督尹昌衡が率いる軍隊がカムを平定し、チャムドの包囲を解き、まさにラサに長距離遠征をしようとしていたとき、袁世凱の北洋政府の緊急電報によって制止された。

後の人はこの行動は袁世凱の売国行為であると決めつけている。当時民国はできたばかりで、中国は大小の軍閥の領地に分裂し、中央政府はどこをとっても非常に脆弱であり、甚だしくは有名無実であった。地方を統率する合法性の獲得による列強の承認の獲得が当面の急務だった。当時はイギリスが西側のリーダーであり、世界の最強国家だった。そしてイギリスは袁世凱政府を承認しないという脅しをかけて、中国のチベット進軍を阻もうとした。これは袁世凱政府にとっては確かに致命的な脅威であった。このような選択を前にして、いつも話している「民族の大義」を本当に第一に考える政客がいるだろうか?

四川、雲南軍閥がチベット進軍問題で北京の制約を受け、自分の思い通りにできないのは、名分が必要なことと、もっと重要なのは軍資金が必要だからである。チベット進軍は膨大な出費であり、地方財政では負担しきれない。北京の許可があれば、国のための仕事となるから、国は当然全ての費用を負担しなければならない。国の金を使って、自分達の軍隊を拡大し、新しい領土を広げると言うことは、軍閥にとっては名分と実利の両方を得られる取引である。北京が最初四川の西征に同意し、その後厳しく禁止したのは、すでに大量動員を始めた四川にとっては疑いもなく打撃だった。だが四川と北京の書面交渉においては、利益は見てとれず国家だけである。当時の四川護都の胡景伊が袁世凱にあてた電報には次のように書かれている。

「……四川辺境はすでに平定し、これから精鋭部隊が要衝を攻め落とし、国外に威力を示そうとしているのに、道半ばで阻まれたなら、戦士は嘆息するでありましょう。辺境の町は速く寒くなり、霜が降り雪が積もって、作戦には向かず、とりわけ士気をそぎます。尹都督の戦勝報告が次々と届いて、破竹の勢いであり、前方の敵のたくましい兵士を恐れず、勇気百倍にして、人皆山をゆする気概を備えております。内地の将兵は興奮鼓舞せざる者なく、馬に餌をやり武器を磨き、最後のひと踏ん張りをしたいと願っています。景伊は愚鈍ではありますが、自ら精鋭を率いて、その一助となり、ラサの川岸に馬を洗い、雪嶺に名を刻み、必ずやチベットを以前のように服属させます。領土を無欠にし、チベット人を平定し、五族を一家とすることは、四川の福であるだけでなく、民国の慶でもあります。いたずらに条約にけん制され、客をもって主人となすは……賈誼に痛哭させ、韓非の心を痛めるに足りましょう。よって大総統が辺境を重視しておられ、必ずや深慮遠望があることは知っておりますが、雌伏が長くなると災いがやまず、主権を皆失い、大きな辱めを受けることになりかねず……」(25)。

国務院の回答は改めてチベット進軍を禁止した。

「……ただ現在の時局は非常に緊迫しており、財政は困難で、あたかも病人のごとくであり、元気はすでに傷つき、満身創痍で、なお回復に努めならないのに、遠慮を忘れて軽率に紛争を起こすことができようか。以前何度も送った電報を遵守し、チベットに侵入して、漁夫の利をあさることなきよう望む……」(26)

ラサで孤立していた中国駐留軍はついに援軍を待つことができず、弾も食料もつきた。最後に決死隊を組織して、奇襲によってダライの家族を人質にして、初めて双方はネパールの調停のもとで講和した。漢人は一切の武器弾薬を没収され、チベットから駆逐され、インド経由で内地に戻った。武器を没収するときはナイフや爪楊枝〔金属製〕まで没収された。チベットを出る道中チベット当局は住民に漢人に対して食糧を売らないようにという尊者の指示を伝えた。英国の官吏が軍隊を率いてチベットを出る漢人を護送したのは「意外にも主人が客人を送るのに似ていた」(27)。帰国後、司令官鐘穎は北京で処刑されたが、その事情は複雑なので、ここでは書かない。

ダライラマ13世は長年の挫折と絶望の後で、ついに完全に中国人と決別するという目標を実現した。彼は「チベットが救われた功績は、中国革命の爆発に帰すべきであり、別の原因ではない」と賢くも認識していた(28)。だが多くのチベット人は中国革命を応報と解釈していた――「中国軍がラサを1年半占領した後、中国に革命がおこり、清朝皇帝は打倒されたのはなぜか? それは宗教指導者のダライラマを虐待したからだ」(29)。

出典:http://www.observechina.net/info/artshow.asp?ID=49030

(注)は出典参照


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王力雄:辛亥革命後のチベット独立――チベットと中国の歴史的関係(13)(1/2)

2009-12-31 13:57:41 | Weblog
王力雄:辛亥革命後のチベット独立――チベットと中国の歴史的関係(13)


前に述べたように、張蔭棠は中国のチベット事務立て直しについて、最初に「チベットを立て直すには政治権力を没収しなければならず、政治権力を没収するには、兵力を用いなければならない」と強調している。この時中国がチベットに与えられる脅威は兵力しか残っていなかった。ダライラマの帰還が近付くにつれ、チベット人の中国統治に対する反抗は激烈になっていった。四方を敵に囲まれた駐チベット大臣聯豫は清国政府にチベットへの軍隊増派を要求し、自身の――同時に中国の――権力のチベットでの実効性を確保しようとした。1909年、清国政府は四川省に2,000人の川軍を派遣するよう命じ、鐘穎将軍の指揮でラサに向けて出発した。ダライラマは中国軍のチベット進攻を恐れ、チベット軍と民兵に武力で阻止するよう命じた。そのことがまた清朝廷に趙爾豊の軍隊を川軍支援に向かわせるよう促し、より多くの軍隊がチベットに向かうことになった。

これは相乗効果だ。それは軍事衝突に留まらず、双方の対抗心を強め、それがさらに政治情勢に影響を与えた。ダライラマ13世と聯豫の衝突をまとめると、この相互作用が一つの鎖になり、双方の最終的な決裂を導いたことが分かる。ダライラマ13世がラサに着いた時、川軍はまだ途上であり、双方まだ決定的に対立してはいなかった。聯豫が部下を率いて城外に迎えに出た時、ダライは川軍の進駐に憤慨していたので、聯豫を無視した。聯豫はそれで恥をかかされたと怒り、すぐに報復のために挑発した。まずダライがロシア製兵器を密輸したと強弁し、ポタラ宮に捜索に入った。さらに人を派遣してまだ途上にあったダライの荷物を停止させ、中身を捜索した。結果、武器は見つからなかったが、ダライの物品の多数が紛失した。ダライはこの怒りを抑えられると想像できるだろうか? 仕返しとしてチベット人に役務と食糧の提供を拒否するよう命じ、駐チベット大臣役所の一切の食糧・飼料と役夫・馬の供給が停止され、あわせて、チベット人と中国商人との交易が禁止された。聯豫はそれへの対応として北京にダライが「陰謀を企てている」と報告し、四川軍の他にさらにチベットに派兵するよう求めた。中国軍がチベット軍を撃破しながらラサに迫ってくると、ダライは聯豫との和議を試みたが、聯豫は怒りにまかせて妥協しなかった。それに加えて臨時に編制された四川軍はヤクザ者が多く、軍紀は非常に乱れており、途中でチベット人の妨害にあって憎しみを抱いてもいたので、ラサに侵攻すると住民を殺傷し、チベット役人を侮辱した。中国に対する信頼を完全に失い、また非常に危険な緊張状態の下で軍事的優位に立つ駐チベット大臣に対する恐怖から、ダライラマ13世は五年間放浪を続け、ラサに戻ってまだ数カ月しかたっていないにもかかわらず再び逃げ出した。

ダライラマ13世の今回の出奔は非常に奇妙なものだった。彼が急いで身を寄せたのは彼の前回の亡命の原因を作った敵、イギリスだった。1910年2月21日、ダライは、イギリス支配下のシッキムに逃げ込んだ(その後インドに向かった)。当時彼はイギリス人の家に住み、イギリス兵の保護下に入ることを要求し、そうして初めて安全だと感じた(1)。「世の中は本当にころころ変わって予測もつかないとはいえ、これほどのことがあるだろうか?」(2)とヤングハズバンドは嘆慨した。ダライがこのような選択をしたのは、北から戻ったばかりの彼が北に戻っても望みがないことを知っていたのと、イギリス人は以前大砲でラサを開城させたとはいえ、満洲官僚の腐敗や横暴と比べたら、彼らの礼儀正しさや誠実さ、気前の良さが深くチベット人の印象に残ったからだった。もちろん、この選択はダライラマ13世の政治家としての大胆さと柔軟さを示してもいる。

ダライラマ13世のこのたびの逃亡を起点として、チベットの上層社会は歴史的に一貫して北京に服属してきた政治路線を転換させ、西側の支持をたよりとする近代「チベット独立」運動が始まり、それが今日まで続いている。

その当時ダライラマ13世と密接に接触したイギリス人チャールズ・ベルの記述によると、ダライラマ13世の当時の構想はブータンとイギリスが結んだ条約をモデルにイギリス・チベット両国関係を構築し、チベットの対外事務はイギリスのコントロール下に置いてイギリスが保護を提供し、チベットは内政上の自治を維持するというものだった(3)。ダライにとって残念なことに、イギリスは彼の提案を拒絶した。ベルはこう解釈している、「我々にとって、アジア高原の百万平方マイルの防衛義務を負うというのは極めて馬鹿げた行為だ」(4)。これについてヤングハズバンドは非常に不満だった。「むかしヘイスティングス、ボーゲル、ティニー、カズンズ、そして1904年に私が参加した使節団は、みなチベット人に普通の国際交流の慣例を遵守するよう説得できなかった。いまダライラマと政府の役人がみんな我が方に逃げ込み、我々に対して直接交流の権利を維持し、イギリスの官吏を軍隊を引き連れてラサに向かうよう懇願し、インド当局と同盟を結びたいと求めてきている。このような情勢の激変は、ほとんど人類史上見ることができない。150年来、我々が彼らに求めて得られなったものを、今彼らの方から我々に求めてきたのに、我が当局はなんと干渉を避けるという趣旨の返答をした。以前チベットに対する要求を貫徹するために、私はラサに出兵して武力で恫喝までした、今はチベット人が進んで帰順してきたのに、我が方はそれを完全に拒絶してしまった。」(5)

後ろの方で特に項を建ててチベット高原での防衛体制のコストを検討するが、ベルの説明がヤングハズバンドの感情的な反応よりは事実に近いだろう。たとえイギリスが当時そのような願望を持っていたとしても、そんな能力はなかった。失望したダライラマ13世は努力を続けた。彼は1911年にロシア皇帝ニコライ2世に手紙を送って、端的に当時の彼の態度と選択を表明した。

広い大地を統ぶる大皇帝閣下

拝啓
我がチベット国と満清国の間は施主と福田〔仏教語で人々が功徳を植える場所、福を生ずるもと。僧侶または三宝をさす。〕の関係であり、帰属関係はありません。我がチベット国を滅亡させるために、〔中国は〕チベット人を誘惑し、全ての権力を奪おうと図り、仏教を弾圧し、僧侶を殺害し、財物を強奪し、その虐待は言語に絶してきたし、このような蹂躙行為は今でも続いています。ゆえに、満清国とは親しい関係を保てません。チベットのことは全て露英両国と条約を結んだことで、初めて今日まで維持できているのです。今チベット国の君臣全員が一致して二つの大国に頼って独立を達成することを要望します。それゆえ、私ダライラマは大皇帝に両国が直ちに協議を開始し、併せて各国に宣伝し、援助を賜るよう願います。とりわけ満清側は悪だくみをめぐらし、チベットをその領土だと主張し、出兵して衝突を起こすかもしれません。両大国が協議して、独立実現のために断固たる支援と提携をされるよう……(6)
敬具

ロシア皇帝は返書を送ってチベットに対する愛護の気持ちを表明したが、口先だけにとどまった。これほど荒涼として巨大なチベットに責任を負うことは荷が重すぎ、しかもそれほど見返りがあるとも思えないので、中国に宗主権を続けさせ旧来の枠組みを維持する方が良かったのだ。イギリス人に対して内密にチベット人と取引する意図がないことを示すために、ロシア皇帝はダライの手紙をイギリスに渡したので、ダライは彼の亡命を受け入れてくれたイギリス人の前で非常に気まずい思いをした。(7)

清国政府は逃亡したダライラマ13世を厳しく処罰した――彼のダライ称号をはく奪し、別に霊童を選んでダライとしたのだ。これは宗教信者から見れば想像もできないことだ。世俗政権が何で神を選ぶ資格があるんだ! だが中国の統治者はこの種の論理矛盾に気をとめることはない。皇帝権力は中国では最高権力とみなされる。皇帝が仏を拝まないことの理論的解釈は「現生の仏」は「未来の仏」を拝まない。皇帝自身が仏だというのだ。ダライラマは菩薩の化身に過ぎない。世俗の官僚制意識からすれば、仏は菩薩より地位が高いのだから、彼を廃位して何が悪い!ということになる。このような国家の宗教に対する統制は中国ではずっと引き継がれ、それが中共時代になって頂点に達したが、それは後の話である。

当時は、これを機会にダライ制度を廃止すべきだという意見まであった。例えば温宗堯はその上奏文の中で、「ダライを辞めさせるのに、ホトクト〔モンゴルにおける活仏の名跡〕にチベット事務を担当させ、転生の愚かな迷信を利用して、永久にダライ制度を廃止すれば、チベット役人はそれぞれ分立し、英露はとり入る余地がなくなる。」(8) この種の徹底的にダライ制度を廃止すべしという意見を、一部の中国人はずっと持っていた。中共内部では今でも、中共のチベット支配の最大の誤りは「反乱平定」ないし「文化大革命」の機に乗じてダライを廃除しなかったことであり、それが後の一連のチベットの難題の根源になっているとみなす人々がいる。

だが、一つだけ確かなことは、川軍がチベットに進軍し、ダライが逃げ出してから、駐チベット大臣のチベットにおける立場が大幅に強化されたということだ。聯豫が行った新政と改革もその大部分がそれ以降になって実行された。いわゆる「軍隊を出すと改まり、ダライを辞めさせれば息をひそめる」である(9)。中国は国が最も衰えた時に、チベットに対してはむしろ有史以来最も強力な支配を実現した。ヤングハズバンドは次のように評している。「中国政府が鋭意チベットを経営し、その結果、チベット政府は有名無実化した」(10)。だが、この変化は一時的な威嚇の結果に過ぎない。中国はやはりチベットにおいて自らの政権システムを構築できず、頼ったのはチベットの地元役人の行政能力だった。すなわち両者は相変わらず「インターフェース」関係であり、この時の「インターフェース」が以前よりも従順だったにすぎない。

「インターフェース」関係である限り、たとえ最も理想的な状態――チベット側が何もかも言いなりになったとしても、本質的にはやはり危機を内包している。なぜなら、この種の権力が頼るのは権力自身が変数――チベット「インターフェース」の忠誠――を掌握しているのではないからだ。チベットの「インターフェース」が言いなりになるのをやめたり北京との接続を切り離したりしたら、中国のチベットに対する主権はたちまち見かけ倒しになってしまう。

もちろん、チベットの「インターフェース」があえて中国から離脱できるかどうかは、彼らの願望だけでなく、より重要なのは北京の威嚇への考慮だ。末期清王朝は西側列強の前では軟弱無能でも、チベットに対しては「腐っても鯛」で、軍事力は圧倒的に優位だった。この威嚇はまるで「縄」のように、チベットを中国に硬直的に「縛りつけ」ている。これはずっとチベット独立の最大の障害であり、またチベット分離主義者が直面せざるを得ない主な問題であり続けている。双方の力の差がこれほど大きいので、チベットは「天恵」を待つ以外に、ほとんど自力で中国から抜け出せる希望はない。

ダライラマ13世にとって、この「天恵」は不意にやってきた。現地が最も絶望的な状態に置かれていたとき、中国内地の都市武昌の軍事蜂起が、歴史上辛亥革命と呼ばれる全中国の連鎖反応を引き起こした。14の省が相次いで独立を宣言し、数千年続いた中国の皇帝支配が数カ月の内に内部崩壊し、混乱状態に陥った。革命党と勤皇派の争いは止まず、軍閥は割拠した。この混乱は間もなく中国の駐チベット官僚と軍隊にも波及した。

後世の人のこの時代の歴史記述は往々にして他人の受け売りの決まり文句だ。たとえば、「駐留漢族兵士は立ち上がって共和派を支持した」(11)、とか「駐チベット川軍は辛亥革命に呼応して蜂起した」(12)といったたぐいである。この種の言葉が本には堂々と書かれているが、実際は決してこのように壮大でも純粋でもなく、非常に矮小なことだった。似たようなことが将来再び起こらないとも限らないので、この件について少し詳しく述べておきたい。

当時チベットに入った川軍の兵士はみな社会の下層からの募集で、ルンペンプロレタリアートがほとんどだった。その頃四川の巷間では非常に底辺の広い秘密結社があり、哥老会とか袍哥と呼ばれていた。川軍の中で哥老会の組織は非常に大きく、大部分の兵士がメンバーだった(13)。一方士官はその多くが学生で、軍隊の指揮に慣れておらず、時流を軽視していたので、状況を掌握することができず、局面が大きく変わると権力を失うのは必定だった。辛亥革命のニュースがチベットに伝わると、まず兵士が動揺した。当時チベットでこの全過程に立ちあった人の記述によると、クーデターを促した直接の原因は川軍の砲兵隊のある袍哥のかしらが聯豫の駕籠かきが経営する飯屋の中で口論になり、それが集団の殴り合いに発展した。聯豫はじぶんの駕籠かきの一方的な言葉を信じ、砲兵隊に反乱の意図があると考え、砲兵隊の銃を没収させた。砲兵隊の兵士が疑念と恐れに浸っていたとき、聯豫の駕籠が陣営に来るのが見えた。実際はからの駕籠で、聯豫は乗っていなかったが、砲兵隊の兵士は聯豫が彼らを殺しに来たと思って、クーデターを起こした(14)。



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主権かそれとも宗主権か――チベットと中国の歴史的関係(5)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/62ece96b90b264d17ffce53ec61af385

駐チベット大臣(アンバン)――チベットと中国の歴史的関係(6)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/2be5e0d9fb8549af0b0f9479389a059f

骨抜き――チベットと中国の歴史的関係(7)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/458be72eb12dfb3e581aa933e0f078e4

東洋的関係――チベットと中国の歴史的関係(8)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/76486b971b4ff0e7be4e57a292606332

主権確立の相互作用――チベットと中国の歴史的関係(9)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/a477aa095a4b290168e4d29dfe07a155

清末の対チベット新政――チベットと中国の歴史的関係(10)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/f1df05c99436cc7652faa33494dc9695

趙爾豊の直轄統治――チベットと中国の歴史的関係(11)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/a599d7ca72593668ab8604632adce601

チベットの選択――チベットと中国の歴史的関係(12)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/be216fd526c90f6b8e15494c3fa35779

馮正虎氏の全日空に対する要求についての私の見解(ついったー再掲)

2009-12-13 09:46:53 | Weblog
(1)@lianyueの友人@wanzeecnは「『権利』というパン、『利益』というケーキ」という文章を発表して、「恥辱」を雪いだ最初の日本人となった。めでたしめでたし!
10:06 AM Dec 11th webで

(2)だが、彼女は人身の自由(自由権規約9条)も基本的人権であり、しかも帰国権(自由権規約12条4項)を演繹するより基本的な権利であることを知らないらしい。
10:07 AM Dec 11th webで

(3)全日空が@fzhenghuの希望通り、上海当局の送還を断固拒否していたらどうなったか想像してみよう。
10:09 AM Dec 11th webで

(4)乗客が全員乗ってから警官が@fzhenghuを機内に押し込もうとしたということだから、それを拒否するためにドアを閉めたら(8人もの警官が押し込もうとしていたのだから止めるためにはそうするしかない)乗客乗員全員が監禁状態になる。
10:11 AM Dec 11th webで

(5)上海当局は@fzhenghuを乗せるまでは離陸を許可しない(彼の証言による)から、持久戦になる。燃料を上海当局が補充してくれることは期待できないから、節約のためにエアコンと照明は消さなくてはならない。夜は真っ暗だ。
10:14 AM Dec 11th webで

(6)当然食事も機内にすでに積み込んでいたもの1食分だけで底をつく。トイレは24時間もすれば排水タンクがいっぱいになるか、水がなくなるかで流せなくなるだろう。
10:15 AM Dec 11th webで

(7)機内に糞便のにおいがこもる。耐えがたくなって、時々換気をするがそのたびに冷たい外気が流れ込んで、機内が一気に冷える。
10:16 AM Dec 11th webで

(8)上海は中国で日本人が一番多く住んでいる町だから、観光客だけでなく老若男女さまざまな年齢層の日本人とさらに中国人やほかの国籍の人が乗っているだろう。
10:19 AM Dec 11th webで

(9)2日目に入るころには冷え切った機内で空腹にさらされた乗客の中から一人二人と熱を出す人が出てくる。
10:20 AM Dec 11th webで

(10)48時間が過ぎる前に、具合の悪くなった子供を見かねて全日空も音を上げ、上海当局に妥協すかもしれない。
10:22 AM Dec 11th webで

(11)だが、それから徹底抗戦の@fzhengfuを乗せて飛び立つまでにまた十数時間かかる。
10:23 AM Dec 11th webで

(12)ようやく成田に着いたころには、子供は引付を起こしているかもしれない。そして救急車で病院に直行するが悪くすれば命を失うだろう。
10:25 AM Dec 11th webで

(13)そうなったらtwitterはどうなるか?日本人は乗客の生命を犠牲にした全日空を一斉に非難し始め、中国人は中国人の帰国権を再び踏みにじった全日空をさらに強く非難する。
10:26 AM Dec 11th webで

(14)そして、4日目の朝刊に亡くなった子供が日中のハーフだったと報じられると、たちまち静まり返り、@lihliiだけが勇敢にも子供一人の犠牲ぐらい中国人の帰国権に比べれば安いものだと叫び続ける。---以上すべて想像
10:29 AM Dec 11th webで

(15)ちなみに、@fzhenghuが籠城をやめる条件として挙げているのは中国政府の帰国承認ではなく、全日空が再び彼を上海便に乗せることだ。(艾未未工作室インタビュー)
10:31 AM Dec 11th webで

(16)彼は、全日空が彼を上海に運びさえすれば、再び当局と交渉できると言っている。つまり、全日空が彼の要求を飲めば、先程の想像は決してあり得ないことではない。
10:32 AM Dec 11th webで

(17)私は@fzhenghuが帰国を求めて成田に籠城することに反対しているのではない。彼が無関係の第三者を巻き込んで自分の要求を通そうすることが不合理だと言っている。相手は中国政府のはずだ。
10:38 AM Dec 11th webで

(18)ちなみに権利侵害者は中国政府だからこのような「巻き込み」に正当防衛は成立しない。また、保護法益が帰国権よりも人身の自由のほうが重いから緊急避難も成立しない。
10:43 AM Dec 11th webで

関連記事:馮正虎:馮正虎入国拒否事件に関する報道資料
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/cae2f8378a6c116a6a3ac1e923bbfddc

Anonymous:南京大虐殺でどれだけの人が死んだのか(3)

2009-12-06 16:46:28 | Weblog

把确定是伪造的证据去掉,把常规战争行为的死难者去掉,再数一数,大概还有多少人?我估计想上六位数都非常困难,可能真如一些安全区内的人所说,平民遇害只有四万人。但这个事实是很难查证的,因为时间过得太久,像犹太人那样统计已经不可能了,新中国成立快60年,从来没想去调查过这个问题,等到80年代才旧事重提,兴风作浪,这时候还真是死无对证,查起来有相当难度。但国民政府伪造了30万这个数字,这是绝对跑不了的。一般说到这里,必然会出现一种傻B,他会非常愤慨的对你说,杀30万叫杀,杀10万不照样叫杀?我太欣赏这种人的精神了,简直就是活二五,既然杀10万也叫杀,你他妈的干吗要信口开河,说句实话就会死?

这就要说说美国上世纪末一个极为经典的案件——辛普森杀妻案,当年闹得满城风雨,我相信大家就算不了解至少也听说过。为什么在罪证确凿的情况下,辛普森却被无罪释放?LA警察采证时,违反了正规程序,比如什么私闯民宅搜集证据啊,这使得辛普森的律师团有理由认为,那些证据有可能是“办案警察联合起来陷害辛普森”。而关键证人LA警察福尔曼的证词,对辛普森一案的判决有决定性的作用,辛普森的律师问他是否有使用过侮辱人的词语,(由于辛普森是人,当时民众普遍认为律师是在打种族牌,寻找LA 警察陷害他的动机,因此也十分不满,就像今天中国人不满少数民族保护政策一样),福尔曼说没有,律师却出示了一份录音,证明福尔曼确实曾经大量使用侮辱人的词汇。这件事的意义不在于LA警察是否有陷害辛普森的动机,而是证明福尔曼这个人有品格缺陷,竟然在法庭上公然撒谎,凡是他提供的证据,法庭全部不予参考,而最后的结果更是让人大跌眼镜,辛普森无罪释放,福尔曼3年徒刑!

诚然,美国之所以严格遵循“程序正义”,是出于他们宪法中“有限政府”尤其是限制警察这种暴力机构行为能力的一贯精神,而个人行为也不能和国家行为相提并论,不会说中国在南京大屠杀这件事情上撒了谎,日本就被判处无罪了。但是影响是相同的,中国人老说日本人不如国人,认错态度不彻底,那都是放P,你整天造谣说别人干了这个干了那个,它能不跟你急?就凭你这点华南虎水平的造假能力,就想逼人认罪,真当人家脑袋烧坏了?中国人只知道右翼分子,却不知道日本其实也有洞富雄这样的“大屠杀派”,他们对于大屠杀的研究远远超过中国那些狗屁专家学者,写的书一车一车,但是张纯如那本书一面世,大屠杀派都受不了了,《南京暴行》最后在日本没有出版,不是如中国FQ造谣的那样是右翼分子阻挠,恰恰是张纯如和大屠杀派产生了纠葛。大屠杀派认为这本书硬伤太多,要出版的话可以不作修改,但必须和他们修订的一本小册子捆绑销售,但张纯如不依啊,她书里序章就写在日本研究大屠杀是要掉脑袋的(可见弱智到什么程度),大屠杀派在她眼里就是挂羊头卖狗肉,说来说去还是军国分子,什么硬伤太多,不就是想否定南京大屠杀?当下断然拒绝,于是日本又给国内的FQ们捞到把柄了。而日本右翼团体简直是捡到宝了,逮着这本书狂批,其实两边论战经常是这样的,大屠杀派说:据我们最新研究发现,某某证据可以证明大屠杀的存在,理由12345……然后右翼说:据我们最新研究发现,中国的某某证据是伪造的,理由12345……谁也批不了谁,自说自划,可听众的倾向性是很明显的,他们更喜欢那种揭穿谎言的内容,等日本的年轻人听多了之后就开始琢磨了,中国伪造了这么多证据,会不会这件事根本就没发生过……?再说了,你一国政府都能下三滥到如此地步,整天在国内甚至国际上散布谎言,想想什么印花税啊亩产万斤啊之类的就一点也奇怪了,还说要建立信用体制,你TM自己信用最差,撒的谎最多,还整天说中国人素质低没信用,不是贼喊捉贼吗?

中国人要是有犹太人那种精神,日本现在也没那么多屁可放了,出了这种事别怪人家,好好想想你自己干不干净。日本对中国真可以说是仁至义尽,先说这个战争赔款问题,当年毛蒋都觉得自己该分一杯羹,整天吵个不休,最后列强烦了,把搅局的中台都踢到一边和日本私下解决。蒋率先放弃了索赔权,以前说是为了换取外交地位,近几年研究说可能是老美逼压的,真相不明,不管它;而老毛随后也放弃了战争赔款,条件是日本认中国不认台湾。日本人马上开开心心的照办了,但人家外交辞令写得也是滑溜滑溜,给日台之间留下了足够的后路。老毛一贯慷人民之慨,这个咱就不说了,都审丑疲劳了。以后别说日本人没给赔偿,你自己贱,能怪谁?中国最搞笑的外交路线就是逼着这个承认一个中国逼着那个承认一个中国,谁不承认就在联合国搞谁。如果台湾真的是中国的一部分,干吗还要别人承认,不是脑有病吗?台湾人给自己政府纳税,拿自己国家的护照,事实上早独立几十年了,承认有个P用?中国逼人家承认,人家一般都照办,无所谓呗,中国人傻,钱多,速来,好地方,谁跟钱过不去啊,无非是口头应付一下。这方面李奇微的分析我一直觉得最为透彻,中国这套SB外交路线不是给老外看的,是给中国人民看的,GCD谈判一般不是求实利,而是求面子,只要回去能忽悠本国人民,能维护安定团结社会主义初级阶段一百年不变,那什么都好说,割几块地给几块钱,败败老祖宗留下的财产,那算个P哦。

虽然日本没给中国人赔偿,但是从72年到现在,一直以经济援助的方式间接补偿中国,中国是日本最大的对外援助国,日本则是中国最大的援助资金来源,30多年来无偿援助和低息贷款加起来有3兆日圆,低息贷款利率之低,考虑到通胀等因素,基本上就是无息的,这么一大笔钱,帮中国度过了最艰难的岁月,其中有不少都是直接援助农村的基础建设项目,像什么水电教育,都是国内农村最缺的东西。国人是怎么做的呢?安徽阜阳建起一座豪华办公大楼,可当地农民却找日本要援助建小学校,日本来考察时看到那座办公大楼,连称“不理解”,当然不理解,人家活在21世纪,哪能理解你这种史前文明?可不理解归不理解,最后钱还是给了;日本人松冈洋明捐献中国教育7000 万,被地方政府全部克扣,打官司追讨五年,仍然无果;中国人抵制日货抵制得那么HIGH,可在中国因隐瞒疫情差点成为文明世界公敌的SARS期间,日企还无偿支援了16亿;中国人说日本篡改历史教科书,可那版教科书全日本只有0.4%的学生在使用,而中国所有的历史教科书都在撒谎;中国人说日本人不道歉,说小泉纯一朗参拜神社,却不知道日本首相72年就已经书面道歉,历代有8位首相口头向中国领导表示了歉意。这些事情国人都不知道,他们就知道什么钓鱼岛,人家台湾渔民的地盘,GCD都不吭声,你大陆小FQ瞎叫个什么劲,是不是建国后割给印度菲律宾俄罗斯朝鲜缅甸越南蒙古塔吉克斯坦印度尼西亚马来西亚文莱的领土领海小岛什么的已经全部要回来了?

还要怎样,还能怎样?国内反日的这帮人,说真的,不是无知就是无耻,年纪小无知就算了,可还有这么一种混球,往往顶着个不知道在哪个村的网吧里拍的视频照当头像,我讲了这么一长串,他不仅毫无悔改之心,还感觉我既侮辱了他的人格又侮辱了他的智商,他会理直气壮的放声高叫:妈的,日本人援助我们,那都是天经地义的!这种人我就不想多说了,没素质没人格没智商,正所谓水至清则无鱼,人至贱则无敌,想侮辱都侮辱不起来。日本人对中国这种情况当然也很了解,援助了30年,得到的不是友好,而是忘恩负义,舆论自然也很不满。从明年开始,日本不会再向中国提供任何经济援助,我得知此事真是由衷的感到欣慰,日本人SB了30年终于开窍了,国内这帮FQ是伺候不好的,有那么多钱还不如养一条狗呢。但是我们国家都很会给自己找台阶下,说是中国强大了,没必要再拿援助了。都TM空投农民超远距离采矿了,还非要说,出了一点小意外,情况还在我掌握之中,简直没治了。

所以说,什么南京大屠杀,我看还是别纪念了,连死了多少人都搞不清,纪念个毛,这不是装B吗?死了这么多人,确实很屈辱,但真要说屈辱,南京大屠杀就算死300万个人,还是永远也排不上号!什么叫屈辱,一个国家被杀死这么多人,连个像样的统计都懒得做,这叫屈辱;一个国家能将政府的罪责和三千万人命推脱为自然灾害,这叫屈辱;一个国家有着荒唐到让人无法理解的十年动乱,如今却没有人为此负责,没有人敢公正的评价历史,这叫屈辱;一个国家用坦克碾碎民主的呼声,把枪口对准几千个大学生,这叫屈辱;一个国家的人民才短短二十年不到就把自己屈辱的历史都忘光了,只记得个日本,这才叫屈辱!相比之下,遗忘了南京大屠杀又怎么样?记住了南京大屠杀,你以为自己又真记住了什么?

出典:http://blog.sina.com.cn/s/blog_5e9f35ea0100fw5n.html


Anonymous:南京大虐殺でどれだけの人が死んだのか(2)

2009-12-06 16:43:50 | Weblog

中国人要证明南京大屠杀死了30万人,居然还得靠日本外相的电报,可怜这个电报还是假的,“30万”最后一个铁证,就这样灰飞湮灭。但这还没完,我们继续深究这个“20万”。

我们假设除了崇善堂外的19万全是真的,还有一个问题。这是尸体的总人数,那这些人中间有多少是死于战争行为,有多少人是死于屠杀?魏特琳12月14日的日记写道,“当我们返回时,在山谷附近看到了一具尸体,考虑到南京所经历的炮击,周围的尸体还不算多。”而这个地点恰好指的就是中国学者在水西门外发现的所谓“万人坑”(伊拉克人为了搜集萨达姆的罪证,挖出来不少万人坑,倒还算货真价实,水西门这个就埋了200人,名字喊那么响亮不晓得在充什么大头)。还有一个著名的“下关大屠杀”,说是尸体堆积如山,顺江漂流,死了几万人。但是国内的史料都把这件事说得很清楚了,唐生智秘密落跑之后,十万国军从下关渡江撤退,船只连运两万人都有困难,于是国军抢船逃跑,自相残杀,头上是日本人的炮弹,后面是日本人的机枪,还要提防自己人下暗手,最后十万人几乎全军覆没,只跑出去几千个。关于具体的死法,由于都是幸存者目测,各种说法都有,有的说岸上被日本人打死三万人,夸张点的说在水里自相残杀拼掉五万到八万人。如果说什么叫耻辱,我觉得这个比南京大屠杀耻辱多了,日本打到南京的时候精疲力尽,弹药粮草不足,士气极度低落,面对这种部队,十万人竟然不战而溃,司令官自己落跑,还搞出抢船自残这种闹剧,有多丢人咱就不说了。

这十万个人就算全部是日本人打死的吧,那也是战争行为,跟平民屠杀根本不挂边,战争本来就是杀人,日本鬼子打过来,本来就肾亏底气严重不足,看到你这里人数众多、装备还算不太烂、有一定作战能力的部队,居然在忙着逃跑,就好象逮上了一支星际/魔兽里右键移动的部队,不抓紧机会揍你揍谁,难道还等着你重整士气杀回来?战场杀人,天经地义,为什么这个也要算在南京大屠杀遇难人数里呢?很简单,因为这十万人是不战而败,如果国军打他个几天几夜,灭了千儿八百的小日本才全军覆没,那我们现在的教科书就要添加一段光荣的“南京保卫战”,南京大屠杀估计就不提了(说不定都不会发生)。偏偏国军几乎没给日本造成什么损失,这种一面倒的情况,就变成“屠杀” 了。可问题是,这十万人根本是自己选择被屠杀的!这给中国人造成一种强烈的屈辱感,而我们很擅长的就是把自己的过错转化为敌人的过错,把自己的无能转化为敌人的凶残,精神上就胜利了。别怪西方列强整天蹂躏你,那副SB样谁不来割一块肉?一战过后,西方国家努力的使世界摆脱这种丛林法则、弱肉强食的格局,总算保证了弱国的生存空间,不然就以现在中国的实力,死得比清朝还难看,清朝好歹打不过人家才割块地,我们连打都不打就到处乱割,钱到处乱送,还整天叫嚣着灭日本小菜一碟。日本只不过靠美国罩着,所以军事开支只占GDP的1%,全球排名倒数,如果日本把开支比例提升到中国这种高度,甚至仅仅翻个四倍提升到美国的高度,假设打仗就是拼钱多,那别说打中国了,对付整个亚洲都可一试。西方这样搞,不仅保障韩国这种小国家的利益,还保障了一小部分甩B政权的利益,比如老毛,整天喊什么主权至上,胡作非为,如果列强一直盯着中国,你看他还能那么潇洒的大跃进大革命?早就连慈禧都不如了。所以这次美国打伊拉克,我特别支持,第一联合国里放着中俄这种流氓国家,连一点公信力都没有,等联合国发挥作用还不如再等一次卢旺达大屠杀。第二萨达姆这种人,不灭天理不容,顺便给查小丑金小丑内小丑卡小丑做个借镜,西班牙国王喝令查小丑闭嘴和哥伦比亚大学校长针对内小丑的演讲,都是大快人心。中国现在还能混条底裤遮遮羞,只不过是人家强国突然反省了,觉得打仗不好,以后不欺负弱国了,不少人还真以为自己很好很强大,以为中国人民已经站起来了,今天要核平台湾明天要东京大屠杀,一个国家要全是这种瘪三,那还不如痛揍一顿,让脑子清醒清醒,日本被原子弹炸完就清醒了,中国到现在还是一副大国崛起的SB样,其实就是撅起了屁股,就看人家有没有心情踢了。

对于“大屠杀”的性质,还有必须了解的一个事实:无论是世界红十字会还是崇善堂,任何一份或真实或伪造的埋尸报告里,女性+儿童所占的比例都只有1%到3%,这根本不是那种蓄意的大规模屠杀可能造成的结果,所谓种族灭绝根本就是胡编乱造,光这点就差纳粹一个档次了。中国人看事情喜欢看个例,只定性不定量,拿几张大屠杀纪念馆的照片他们就潸然泪下,说几个小故事他们就以为日本人全部都是禽兽,见人就杀(其实《南京》的导演指出——大屠杀纪念馆里不少证据完全是张冠李戴)。对付这种人一拿出详实的统计数据出来他们就SB了。我也可以举一些个例,东史郎,中国人民的好朋友,他的日记里怎么写?上级要求他们征用中国的物资之前必须给钱。至于松井石根锤胸顿足痛哭“皇军颜面何存”的故事就更不用提了,那又怎么样?是不是就说明皇军整体是好的只不过有少部分害群之马呢?日军龌龊事当然没少做,我还是那句话,远远达不到中国人宣传的高度。从1%到3%这个数据可以看出日本的行为主要是针对男性的。这个很容易解释,中国侵略越南的时候(还自称防御反击,人怎么能无耻到这种地步?),一开始还发誓要做文明之师,最后还不是一个村子一个村子屠过去了,跟日本人比有过之而无不及,为什么?人家个个都是游击队,你看那小孩儿前一秒嘴里还叼着棒棒糖,后一秒掏出AK朝你脑袋上就是一下,这种小孩儿在中东非洲满地都是,妇女当游击队的更不在少数,正规军被搞过一两次之后就怕了,见人就杀,以保自身安全,当时南京是没什么妇女儿童游击队了(什么《小兵张嘎》我TM看了就想吐,你没事怂恿小孩子上战场干吗?),但化装成平民的国军士兵还是在南京城里满地跑,都是渡江没渡成想保条小命的。《伊拉克碎片》里第一部分那个小孩儿看美军拿着枪,心里非常害怕,他看不出来其实那个美国兵更怕他。这个很多影视作品都有体现,就不多说了,战争应该是远离平民的,有些邪恶组织就喜欢拉平民下水,躲在妇女跨下开枪的那是低水平,容易被人民仇视,高水平的都是煽动人民主动拿枪,搞个什么敌后武装队,XX根据地,像什么本拉登啊……人民是被卖了还帮着数钱,而且明明是一个县几千人被七八个日本鬼子撵着到处跑,跑起来还特有成就感,要么躲在人群里偷偷朝日本人开一枪转身就跑,结果挡在前面的平民被打死了他跑掉了,可他心里那个爽啊,回头还可以宣传外国侵略者打死了多少多少平民,让更多的人拿起武器……这种游击组织基本都出现在一些野蛮落后的国家里,在他们眼里什么人权,生命,都是放P,平民是随便死,根本不算作成本,背锅你去,领赏我来,还打着反侵略的大旗,精神上更是无限升华,像《色戒》里X裕民那拨爱国小青年,荒唐到可笑,色诱怎么不让你老妈去,连开苞都可以省了。可人家荒唐得很愉悦,很享受,这种人你就拿他没办法,他已经刀枪不入了。

我讲这么一堆,意思只有一个,日军是很凶残,但哪国军队不凶残?解放军不凶残?美军不凶残?我看论凶残,红卫兵才是排第一,张志新临刑前还想说点什么唤醒民众,毛远新就示意把她喉咙割了,小红兵看着一个弱女子的鲜血汩汩流出,欢呼阵阵,这个场面我想想都骨髓发颤。大家都一样,日军不会比其它军队更残忍一个等级,战争就是这么一回事,打到最后都是丧失人性,中国人为什么整天要渲染日军和其它军队比有多么多么残暴呢?如果不把日本说得太坏,那中国人反日就显得太没格调了,别人打你一下,你就整天反它,这不就是冤冤相报,气量狭隘吗?但是日本这个国家要是很变态,那就另当别论了,我们反你,因为你根本不是人,是畜生,把你从地球上消户是我们正常人的责任。但说到底就是复仇心作祟罢了,别人打我一拳,我一定要再踢他一脚,格调就是这么低,还造谣生非,把对方描述得多么多么恶劣以宣扬自己的正义性,典型的当婊子还要立牌坊,更是下作到极点。看看世界上以仇恨作卖点的国家,都是些什么货色?二战都是国际上审判过的事情,中国人口头上尊重法庭宣判的结果,心里面都想来个私设刑堂,一个国家就这种素质,还想搞法治,搞和谐,这不是扯淡吗?


Anonymous:南京大虐殺でどれだけの人が死んだのか(1)

2009-12-06 16:15:17 | Weblog

犠牲者30万人は国民党と共産党がねつ造した数字だという主張。昨年発表されたと思われる元サイトは削除されているが、あちこちに転載されている。

ラストの一文
「こんなに大勢殺されたのは確かに屈辱だ。だが本当の屈辱は、たとえ南京大虐殺で300万人が死んだのだとしても、永遠に死者が誰なのかわからないことだ! 何が屈辱かといえば、ある国でこんなに多くの人が殺されたのに、まともな統計すら取ろうとしないということ、それこそが屈辱だ。ある国で政府の責任による3000万人の犠牲〔大躍進後の飢饉〕を自然災害のせいにする、それこそが屈辱だ。ある国で荒唐無稽すぎて誰も理解できないような十年の動乱〔文革〕が起きたのに、いまだに誰もその責任を取らず、誰も公正に歴史を評価しようとしない、それこそが屈辱だ。ある国で戦車で民主の呼びかけを踏みにじり、銃口を数千人の大学生に向けた、それこそが屈辱だ。ある国の人民がわずか20年もたたないうちに自分たちの屈辱の歴史を忘れ去り、日本のことだけを覚えている、それこそが屈辱だ! それと比べて、南京大虐殺を忘れたからどうだというんだ? 南京大虐殺を覚えているという君は、本当に覚えているのかね?」

南京大屠杀究竟死了多少人(2009-12-02 18:20:53)
作者:Anonymous

来源:http://www.bullock.cn/blogs/naoko/archives/87462.aspx(ブロックされている)


中国人特喜欢装B,比如12月13日,肯定又要大张旗鼓的纪念南京大屠杀七十周年,就好象一个花容枯槁的老奶奶,一把眼泪一把鼻涕的哭诉:70年前我被邻居家12岁的小毛头强奸了一百遍啊一百遍……整天念叨个没完。问曰:真的有一百遍?你一遍遍数的?老大妈立刻怒道:你这个汉奸走狗,竟然想为强奸犯翻案……

同样,我现在要是问“三十万”这个数字是怎么来的,我保证,那些整天作一脸无奈状说“中国人越来越麻木了才过了几十年就连国耻都忘了”这种话的人,十个有九个都答不上来。但是这不妨碍他们装B啊,一到这天,又有人开始长吁短叹:还有多少人记得这个日子……

“南京大屠杀”这个概念,最早出现东京审判上,当时中国送交了30万的数字,但最终结果是认了20万。为什么今天我们都说是30万呢?话说1985年,那是一个春天,有一位老人……在大屠杀纪念馆题下了30万这个气势恢弘的数字,从此便成定论。从80年代起日本就不断提出要和中方合作调查南京大屠杀死难者的具体人数,都被中方以“没必要”“已经定了”为理由加以拒绝,对于南京大屠杀的死难人数,新中国从来没有进行过任何系统的调查,不是因为调查起来有难度,而是根本就没心思做,30万这个数字随口一胡扯就出来了。这个基本上就是中国人对待国耻的态度,纪念纪念就好了,不要深究,不能深究,一深究就要出问题。

像我这种业余网民稍微深究一下,30万这个立论就要被打垮。首先看几十年前的那份“30万”初稿。根据国民党政府提供的埋尸记录,其中大票的有世界红十字会43121具,南京红十字会收埋 22371人,最大的一笔是慈善机构崇善堂,收埋人数达112266人,占了30万的1/3。问题来了,目前研究大屠杀最重要的资料主要是当年一些人的回忆录,可这些人从来就没提到过崇善堂这个组织,而且这个组织在南京大屠杀之前几年就已经解散了,连中国红十字会会长都说不知道。红十字会还收容了二十万难民,而崇善堂简直就是埋尸专业户,除了埋尸之外什么都没干过,也不知道是谁资助的,一个在南京各地收埋了11万人的大型组织,当年身在南京的人竟然都没听说过?

最后,这份报告没有被远东国际法庭认可。于是六人委员会四舍五入一下,再考虑到焚尸灭迹,拿张草稿纸这么一估算,20万就拍板定了。事实上把这11万的记录去掉,剩下的19万还是经不起推敲。审判之前一个月,南京《新民报》记者金光群进入国防部采访,负责人向他介绍“六个月来经过调查,收到市民控诉信53件,市参议会也转来了很多材料”,当时金光群还挺高兴,紧做了个独家报导。谁知一个月后开庭,呈报的证据竟然多达屠杀2084件、奸淫308件、抢劫暴行116件、焚烧破坏罪行186 件。从6个月只收到53封控信,到接下来一个月转眼变成数千件暴行,国民政府工作效率之高,连崇善堂都难以比肩!(事实上我很怀疑崇善堂的埋尸记录就是这时候造出来的)其中第一证人鲁苏,更是在“夜间”看到“57418人惨遭杀害”,所有证人加起来,一共看到“353026人被害”,我看到这里都忍不住热泪盈眶,亩产万斤的根总算找到了啊!

南京有没有这么多人给日军杀呢?魏特琳日记里说“据说还有二十万人留在了城里”(11月30日),拉贝则在10月17日的一封信中提到:“如果他听说过大约100万~120万居民中至少已有 80万人离开了这个城市,那他对现在城里到处是死一般的寂静和几乎空荡荡的街道和广场就不再会感到惊讶了。”拉贝是当年国际安全区的负责人,这个安全区占了南京面积1/3,内有难民20万,当年提供了多少人道救助可想而知,再加上安全区外日本人统计出的5万人口,基本符合当年当事人记叙的情况。只有这么点人口还都在安全区里,哪儿来的30万给人屠?当年被杀的30万中国人难道都是SB,南京城1/3那么大的安全区,不会往那里跑?中国在80年代以前对这个安全区还知之甚少,我小时候还看过一部电影《南京屠城》,讲的就是日军如何秘密攻入安全区,安全区内的中国勇士如何把这个消息传到外界,拍得跟三级片差不多,基本上就是扯淡。当年安全区内各负责人都提到过“有时遭到三五人的小股日军骚扰”,但从来没有说是大规模攻入安全区杀人放火的,波内战波及安全区,马上惹怒了美国佬,轻松就把两边都给平了,攻打安全区,你借日本人一个胆儿?中国人很弱智的一个地方,就是老是喜欢搞些水准特低的YY,自己还停留在16 世纪,却总以为别人都跟他一样,你YY要是能强身,那还要手干什么?前几年那个东史朗案就特有意思,明明是个民事纠纷,非要给中国政府上升到政治高度,你当人家的法院都跟鼓楼区人民常理法院一样,想操纵就操纵啊?

民间学者读到这些外国人写的资料后就开始生疑了,连人都没有,怎么杀?根据远东国际法庭对南京大屠杀的定义,是“发生在南京城内(明城墙)及附近地区的一系列暴行”,似乎可以解释被杀的30万人是哪里来的,问题是附近到哪里?是城郊还是苏锡常镇?整个江苏?显然这里指的是城郊,而且南京城内的屠杀才是重点。如果要覆盖整个江苏甚至上海,那我就不得不联想到轮子了。99年轮子到中南海门口闹事,CCTV没日没夜的说练轮子的人有多少多少自杀,数字看起来挺吓人,但是你除以轮子的总人数再和那个水分足足的全国自杀率比一比,咦?好象人家轮子自杀的还少一点啊……

人口问题一直是南京大屠杀研究中的一个关键点。孙宅魏从86年一直研究到91年,终于论证出南京当时其实还有60万人。咱姑且不论这个论证是否合理(我也没看过),已经充分暴露出了中国这些大屠杀学者在人口问题上的虚弱本质。人家拉贝大屠杀那年就呆在南京城里,“20万人口”是早就写好的,你过了50年才开始研究,花了5年才得出结果,那之前 50年你连人口问题都解决不了,凭什么说死了30万人,你不是胡扯吗?你不去研究南京大屠杀死了多少人,而是研究南京当时有多少人,你TM不是闲得蛋疼吗?

还是我们学术超女张纯如厉害,出手直奔下三路,终于找出了30万切实可信的证据。张纯如来中国呆了25天,中文都不太利索,日本是去都没去过,就写出她那本惊世骇俗漏洞百出的大作。其中掀起学术界滔天巨浪的便是她率先披露了日本外相广田弘毅的电报,这封电报“被美国情报局截获”,内容说是“毫无疑问南京已经死了30万人”,还把本国士兵的行为讲得多么多么凶残,日本的外相亲口承认,还“毫无疑问”,这不是铁证如山吗?这么重要的证据,中国人好象没当回事,反正我们一直认定30万,要那么多证据干吗?西方学者可是炸翻天了,人家一查,发现广田弘毅那时候根本不在中国,再一查,原来这是英国《曼彻斯特卫报》记者田伯烈拍的电报。张纯如舌战西方群儒,动不动就抛出“这些人妄图为军国主义翻案”这一杀手锏,问题是这招对中国人有用,对日本人有用,西方学者可是根本不吃这一套。张纯如本以为南京大屠杀在西方被彻底遗忘了,想写本书帮人家回忆回忆,谁知突然冒出这么多名牌大学教授,个个都比她这个半吊子厉害,最后只好公开承认电报问题是她错了,之后没过多久便一枪把自己崩了,空给国人留下一段洗脚时的谈资:张纯如是受不了日本右翼威胁自杀的,张纯如是看了太多大屠杀罪证精神失常自杀的,张纯如是被谋杀的……

这个外相电报当然也不是张纯如研究出来的,你再给她25天,她也搞不出什么成果。成书所有的资料,都是国内顶着“专家”光环的一帮大义凛然骗吃骗喝的大屠杀学者提供的,可这帮骗子脸皮厚,一个也没自杀。这中间故事也不少,不过今天讨论的是大屠杀的死亡人数,姑且放到一边,先看这个田伯烈电报。田伯烈可是中国专家的重要研究对象,他当年写给西方的关于大屠杀的报导资料丰富,能极好的佐证国民政府的说法。但国内甚少有人知道的是,这个田伯烈竟然是国民党买通的枪手。在当年的国民政府宣传部负责人曾虚白的回忆录中便早已披露,蒋介石选定上海作为战场,就是为了把西方列强拖下水,宣传战这块阵地当然不能丢,于是重金聘请英国记者田伯烈撰写枪文,想要引起西方的关注。人家台湾早就知道的事,全世界早就知道的事,大陆人民就是不知道,你今天到百度google搜索田伯烈的名字,得出的还是一票FQ文章,引用的全是田伯烈的报导。


高耀潔:2009年12月1日世界エイズデーでの記者会見発言原稿

2009-12-02 19:48:29 | Weblog

中国国内での共産党の血液感染(医原性)エイズ事件隠滅の動きが強まる中、真相が闇に葬られるのを恐れた高耀潔女史は米国に出国して『血災:10000通の手紙』を出版した。この昨日の記者会見は出国の経緯と中国での医原性エイズ患者弾圧の状況を伝えている。

高耀洁教授在2009年12月1日世界艾滋日记者招待会发言稿
美国华盛顿全国新闻俱乐部BLOOMBERG 室
2009年12月1日
女士们,先生们,大家好!
今天我来介绍一下中国艾滋病疫情,我所见所闻的真实情况。

远在1982年有专家已发现艾滋病病毒进入中国。1984年北京中科院院士曾毅报道了医院血库的存血“被艾滋病病毒污染”;1988年河北省防疫站主任医师孙永先生发现库血中存有艾滋病病毒之后,他大力呼吁,自河北省卫生厅,河北省委,直至中央卫生部和国务院等有关部门。这些重要举措,负责人民生死的父母官们置若罔闻,更没有采取对艾滋病控制的措施,反而为了致富,大搞“血浆经济”。
90年代“采血浆站”像春笋一样,仅河南一个省,官办血站200多个,私办血站多不胜数。全国31个省市,没有一个空白点,更加了艾滋病病毒的传播与蔓延途径,加上各种离奇的宣传:“卖血致富、有利健康,不得高血压”,欺骗无知的农民蜂拥而上,前往血站卖血,把他们推向死亡之路。这个极为庞大的弱势群体,染上了病程漫长(会拖延十多年)的艾滋病,这些地方的医骗子很多,弄得他们贫病交集。他们又没有文化知识,没有写作能力,又不会说出道理,真可谓有苦难言。此时,官员们又使出几件绝招,对艾滋病属于“保密”范畴。压制媒体对真实情况曝光。河南省为此开除、驱走了十几名记者,阻止外来人进入艾滋村,调查了解情况,或救助艾滋病病人和孤儿,并打压敢说真话的人,等捂盖的措施。
因此,全国艾滋疫情的真相被封闭了。十年、二十年过去了,迄今中国大陆的艾滋疫情真相仍未能大白于天下,国内外很多人只知道河南上蔡县文楼村有艾滋病病人,其实不然,全国还有很多、很多不被人知的艾滋疫区。
1996年4月7日在一次会诊中我发现一个因子宫手术输血感染艾滋病的病人,她输的是血库的血,我敏感的意识到库血感染的艾滋病病毒,不会只有这一个人,她全家特别是她丈夫没有感染艾滋病,令人感到奇怪。此事又遭到省卫生厅官员的训斥,他说“就你们大惊小怪,哪有那么多艾滋病叫你能看见呢?”从此把以往我相信的艾滋病吸毒传染,性乱传播的说法产生了质疑。不久前听说,中国艾滋病的感染途经与国外不同,主要来源于“血浆经济”,而政府官员不敢承担责任,掩掩盖盖,花样百出,阴一套,阳一套,一切为了维护个人和集团的利益,保护自己的乌纱帽为目的,不管小民的死活。同时我开始了解艾滋病传播的情况。
自1996年秋,我开始编写印刷预防艾滋病的资料。十多年来共印出120万份,发往全国各地。同时,我又编写了七册有关预防艾滋病的书籍,发往各地50多万册,共出版100多万册。这些费用包刮邮费和外出的旅差费共花去一百多万元人民币。这些费用都是来自各项奖金,稿费和我的私人积蓄。我从未接受过任何捐款。我为何不愿意接收捐款?因为处境险恶。1999年已发现当局对我很不友好。
2000年对我进行监视,盯梢和跟踪,同时监控我的电话。他们禁止我在大学讲台上作科普讲座,包刮艾滋病知识。
2001年我开始救助艾滋病病人与孤儿,当局便禁止我接见记者,不叫我下乡调查艾滋病疫情,不准许我出国领奖。
2003年,当局利用骗子把我告上法庭,虽然他败诉了,但当局对我仍持反对的态度。
2007年,美国为我颁发“生命之音”奖,当局阻扰我前往美国领奖,把我软禁在家半个月。由于现任国务卿希拉莉女士的努力,中国放行了。他们马上找我,要我到美国后以高耀洁的名义成立基金会,被我拒绝了。来美国时仍有人监视我,封闭我的消息等,因此把曾金燕(胡佳的妻子)气哭了。

在美国住了一个多月,很多人挽留我常住美国,他们说:“为了人身安全,不要回去了。”我想本人工作在中国,那里还有很多艾滋病病人和孤儿,他们需要我,我不忍心离开他们。抱着这种态度和目的,我又回到家。当局表面上对我很好,不但送我食品,还送我电器。其实不然,他们在我的住房前后安装了四个监视探头,并且继续监控我的电话,电脑和信件。

2007年的一天,省政府来了一个大官,他说:“徐书记(河南省委书记)让你写一本《河南艾滋病的今昔》。你可以先去上蔡县文楼村看看……领导说了,
我们组织一个写作班子,
只用你的带头,指导,签名……”
我一听,其中大有文章,我当场拒绝了.三天后他又打个电话,
我还是没有答应写这样的书。
但我明白了,对我这么好,其原因就在于想利用替他们说假话来骗人。

2009年2月,美国国务卿希拉莉访华,要求2月22日见我,当局表面上同意了。2月19日我到达北京,20日派一个已经从中医学院退休多年的党委副书记赵芬莉飞往北京,通过警方去堵截我。她估计我会住在曾金燕家,国保堵住曾家房门,不准任何人出入。其实我未住曾家。折腾了两天她没有找到我。

2009年3月底,法国驻华大使馆一位女士来电话告诉我说:“法国给你发放妇女人权奖”。我说四月中旬我要去上海领奖,到时我们再说吧。她说好。谁知上海的颁奖会推迟了一个多月。

5月6日早上,我的电话又被当局切断。中午有朋友来接我,她说:“你走吧,又要出问题了。”于是中午饭也没吃,就乘汽车到了北京。三天后我去了廊坊市,半个多月后我又去了四川,六月初去了广州,6月12日我住进了广州郊区的明朗村,此处很偏僻。本来我只想住一段时间,和去年躲奥运会一样,两三个月后就可以回家了。同时可以把我手中的三本书稿发给出版社,否则我对不起艾滋病病人和家属,特别是病死的人。

我进入“防艾、救孤”工作已十三年多!在坎坷的道路上,走啊,走啊。现在走投无路了!官方悬赏500元给举报我的人,(举报其他人赏50元)。他们想尽办法拦阻我们进艾滋村。2003年3月14日,我和高燕宁教授,杜聪及艾滋病疫区双庙村,差一点被抓住。我往贫困疫区寄东西(书籍、衣物)遭到当局途中没收。生活和行动被限制,电话和电脑被监控,外出被跟踪盯梢,甚至被软禁等,限制我的人身自由,迫使我的工作无法进展。
6月份,我得知谭作人先生调查四川地震死亡学生的真实人数,他的目的在于帮助弱势群体呼吁,却遭到许多阻力与打击,中国当局以涉嫌“煽动颠覆国家政权罪”逮捕了他。我与谭作人先生的工作性质类似,但我所做的范围广,人数多,时间长,影响大。谭先生的前车之鉴,我不得不提高警。我不是贪生怕死,我要把艾滋受害者的真实情况整理成书出版,留给后人,做为历史的一页,否则我死不瞑目。于是我决定外出,这时我不知哭了多少回。我流的泪有时把枕头湿透。我已经80多岁了,在世时日有限,此行明知是埋骨异地。为了中国艾滋病疫情的真相,我实在是不得已而为之。
近3~4年来,艾滋疫区出现的一些情况,结合本人的遭遇,我明白了,艾滋疫情在农村严峻,血站已转入地下。如今湖北省十堰市郧县孙家湾设“单采血浆站”,组织山区上万名妇女前往卖血,每600毫升换168元人民币(见2009年11月4日《中国青年报》)。还有不少未揭露出来的血站。只要没人说,外面不知道,官员们才能发大财,也能保住乌纱帽,总结他们用的五种妙法:
1金钱收买,送红包、困难救济、受灾赔偿等。
2物质诱惑,
赠送食品、用物、家具、电器甚至楼房、汽车等。
3荣誉拉拢,奖励、晋升、提拔、党票等。
4给脸色看,压制、打击、恐赫、监控、软禁,甚至造谣毁谤等。

5最后一招,,对以上各种方法不能制服者,编造个莫须有的罪名,劳动教养,刑事拘留,甚至关进监狱等。
这五种方法很灵,不少敢说真话的人在诱惑,恐吓中倒下来了,有的人再不说
话了,有些
“能人”一反常态,唱起了赞歌,好一个“太平盛世
歌舞升平”来掩人耳目。艾滋病防冶得力,现在局限的“血祸”疫情已过去了。今后艾滋病以吸毒传播,性传播为主要的传播途径,卖血发财的官员们,政绩显赫!达到了维护个人和小集团的利益之目的,管他小民的死活。
几十年过去了,没有一个官员对“血祸“负责,假如有关人员不为钱权;假如有关部门不这么麻木不仁;假如有一点民生意识;假如不想尽方法捂盖子,艾滋病不会泛滥到这个地步吧?
对艾滋病传播途径上的看法不同是学术上的争论,竟被官方看成异己人士。救助艾滋病病人是一件好事,在物质上接济,精神上支持,为了他们更好地生存。
高耀洁2009年12月1日
開放出版社 对华援助协会首发
2009年12月1日

出典:http://www.canyu.org/n11075c13.aspx

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