思いつくまま

みどりごを殺す「正義」はありや?
パレスチナ占領に反対します--住民を犠牲にして強盗の安全を守る道理がどこにあろう

韓寒:北川県政府は嘘をつき続けている

2009-01-28 19:18:31 | Weblog

(四川大地震の被災地北川県政府の復興汚職)

北川政府继续说谎 (2009-01-23 18:17:48)
标签:杂谈   

    昨日,北川公安局向大家展示了他们的兰酷路泽即将要变成的“应急通信指挥车”的设计图纸。但问题是,这张图纸明显不是为兰酷路泽设计的,图纸中,内装直放站和储物柜的地方,应该是越野车的后轮内轮拱的部位,根本放不了这两个东西,而那两排设备的高度也塞不进一辆越野车里面,通过设计图纸中汽车的后部轮廓的高宽比例和样式,明显,图纸向我们展示的是依维柯之类的车型。图纸如下:

 (表示不能:出典参照)

我见过那么多车,还真没见过屁股长成这样的兰酷路泽。所以,请北川政府派人根据兰酷路泽的式样重新虚构一张设计图,以便将故事说圆。


另外也要请北川的采购部门解释一个问题,我们一台车一台车来说,比如现代途胜的2.7,这台车虽然不贵,但是是现代途胜的车型里最高配置的车型,其他都是2.0四缸的,唯独这款是2.7六缸的,最低配置的途胜是18万多,你们选择了最高配置的,这没有什么问题,因为你们需要高性能,只有性能好,才能为老百姓更快的办实事,这点我能理解。但是,为什么这车是24万78元呢?我们且不说这车的实际价格能优惠多少(应该是数万元),但是官方的报价是24万18元,为什么你们政府去买还更贵?

不要告诉我是把1听成7了,也别告诉我该价格是因为含有了购置税和牌照的,更不要告诉我比较贵是因为你们为了更快的为人民服务,花钱请4S店改装了一下。我作为一个职业车手,感觉到你们对车辆性能的需要比我更为迫切。

所以说,陆地巡洋舰只是问题之一,撒谎也只是问题之一,另外的问题是,几乎每采购一辆汽车,价格和实际价格都存在几万元甚至十万元左右的差价。我知道在某些菜馆里是有两份菜单的,老百姓去吃是一个价格的菜单,但政府官员去吃是另外一个更高的价格的菜单,以方便与收取回扣。

按照北川政府的采购清单中,仅这些价值四百余万的汽车,回扣至少在四十余万元。也就是说,作为一个普通老百姓,就算你像我一样不会砍价,也只需要花350万左右就可以顺利买下这些汽车。

 

其实北川政府是很可怜的,采购拿回扣,买豪华越野车,买高级笔记本电脑,在其他任何地方的政府里都不算屁事,而且北川县在地震之前也不是什么贫困县,舒坦日子过惯了,无奈一地震,想过回以前的日子就比较容易受到非议,官员们也一定很委屈,你看这什么什么县,什么什么县的,不都这样嘛。国情如此,我们也只能无奈。

问题就在于时机不合适。比如老公死了,老婆至少得守寡个三年,改革开放以后,那也得守寡一年吧,但你今天死老公,下礼拜就结婚了,而且还编出各种理由,自然不合适。

对于屁民而言,根据我国的国情,我们不能提出政府官员要廉洁自爱鞠躬尽瘁退还豪华车彻查吃回扣这样过分的要求,对于我们来说,他们买了几台豪华越野车,结果只能看着眼馋不能用,最后假戏真做,无奈还真改装成了应急通讯车,那就是我们最大的胜利。

出典:http://blog.sina.com.cn/s/blog_4701280b0100by9s.html


王力雄:チベット独立ロードマップ(6)

2009-01-26 13:34:04 | 中国異論派選訳
王力雄:チベット独立ロードマップ(西蔵独立路線図)

4、中国は内乱を避けることができない

では、今日日々強大となり、勃興し続ける中国は、内乱に陥ることがあるのだろうか? 今日の状況に対する評価には、これまでこんなに良かったことはないというものもあるし、これまでこんなにひどかったこともないというものもある。とはいえ、多くの人が見る中国は、こんなに良かったことはこれまでになかったし、これまでになくひどいことは見当たらない。しかし、目に見える良いことと、目に見えないひどいことの間には、ほんのわずかの隔たりがあるだけである。人々が全く意識していないときに、これまでになくひどいことが突然水面に現れて、手を打ついとまがないうちに大災害をもたらすかもしれない。今回のチベット事件の爆発の原因の一つは、まさにこれまで「良いこと」しか見てこなかったことなのだ。

実際、今日の中国で良いことは、言ってしまえば経済発展が速いということだけである。この急速な経済発展の代価を明日倍にして払わなければならないことはさておき、常識によっても世の中に永遠に発展し続ける経済がないことは明らかだ。中国経済にはすでに様々な危険が潜伏しており、多くの困難に直面しているのだから、危機は遅かれ早かれやってくる。それに伴って、経済の高度成長に隠されていた社会危機と政治危機もすぐさまやってくる。三重の危機が重なり、政権が倒れ、統治の真空や社会の動乱などの一連の結果が出現するだろう。

目下、中共政権に挑戦する勢力がないので、人々は中共がずっと統治し続けると思いがちである。しかし、大変化は大勢力や大事件が引き起こすとは限らない。小さな積み重ねも同じように崩壊という結果をもたらすことができる。砂を一粒ずつ落とし、砂山をだんだん高くしながら、一粒の砂の落下がいくつの砂の移動を伴うかを正確に計算した研究がある。初期段階では、落下した砂粒の砂山への影響は少ない。しかし、砂山がある程度以上高くなり、「臨界」に達した後は、砂山は「一体性」を持つようになる。その時一粒ずつ落下していく砂粒は一種の「力の波」を生じ、たとえ微細であっても、砂山の「一体性」を通じてそれが砂山全体を貫き、新しく落下する砂の衝撃がすべての砂粒に伝わるようになる。砂山の構造は砂粒の落下に伴ってもろくなってゆく。いつか一粒の砂(たった一粒の)の落下が砂山を崩す。つまり、いわゆる崩壊が起こる。

西側のことわざに、蹄鉄の釘が一本折れたら、馬がつまずいて倒れ、将軍が転んでけがをし、戦争に負けて、国が滅ぶという。その国はもちろん蹄鉄の釘が原因で滅んだわけではない。砂山理論の解釈によれば、国家の内部危機が臨界状態を超えていたのであって、蹄鉄の釘は崩壊の最後の砂粒にすぎない。中国もまた一つの砂山と同じであり、各種の変化と衝撃が絶え間なくその上から落ちてきて、積み重なった結果は遅かれ早かれ砂山の臨界を超えるだろう。蹄鉄の釘までが「不安定要素」になったとき、独裁政権の統制がどれほど厳しくても瓦解を免れない。なぜなら蹄鉄釘一本一本にまで監視兵をつけることはできないからだ。

中共の現在のような政治改革の拒絶は、各種の矛盾を絶え間なく蓄積してゆくので、中国は遅かれ早かれ全面的な危機に陥る。独裁政権の特徴の一つは、予測できないことであり、法則もなければ情報も欠乏しているので、その変化はいつも「突然変異」である。ばかでかいソビエト帝国が瓦解すると事前にだれが予想できただろう? しかし、それは一夜のうちに分裂瓦解した。鎮圧は瓦解を後ろに遅らすことはできる。あたかも砂山が少しでも高くなるよう砂山の周囲をたたき続けるように。しかし、そのようなかさ上げは無限に続けることはできず、いつかは崩れてしまう。しかも、高くなればなるほど、崩れ方も激しくなる。経験が我々に示しているように、大きなシステムは自己保存能力は強いが、いったん崩れたら総崩れになってしまうのだ。

本当に安定した社会には多くの統合メカニズムが必要である。それには政権だけでなく、道徳倫理、法の支配、健全な市場、国家化された軍隊、そして宗教団体、民間社会、多党制などなどがある。このような多元並存のメカニズムが社会の長期的安定には不可欠である。多党制のもとでは政権党が下野しても、反対党がすぐに引き継ぐので権力の真空による社会秩序の混乱を防止することができる。しかし、多事多難な今日の中国は行政システムと警察的手段による一党独裁政権への統合である。ほかの統合要素はすべて政権によって侵食されてしまったので、政権に従属しているか、異端勢力として「萌芽のうちに消滅」させられ圧政のもとでは成長できないため、どちらも統合を担う力はない。このような社会は、一方では挑戦を受けることがないので異常に安定し、もう一方では巨大な危険を内包している。いったん政権が崩壊したら、全中国が統合の真空状態となり、内乱に陥り、長期にわたって秩序を回復できない。

その時が来たら、現在武力で制圧している民族矛盾が一気に爆発し、民族独立運動も嵐のように盛り上がるだろう。独裁中国の鎮圧能力は内乱によって瓦解し、あるいは内部抗争で消耗する。大一統(訳注:大中国主義)にこだわる中国民主派の人が言うような、将来の中国の民主政府はこれまでどおりチベット独立を認めないなどというのは、空念仏に過ぎなくなる。内乱に陥った中国のどこに民主政府があるだろうか? 民主政府はどうやって中共に撲滅され、空白となったその他の統合メカニズムの中から生まれるのか? その時がくれば中共が中国を人質(死なばもろとも)とした結果を知るだろう。中共が中国を支配できなくなり、したがってチベットを支配する能力を失った時、中国にはチベットを支配できるいかなる他の勢力も存在しないのだ。

5、決戦はチベット

ダライラマが独立を放棄したのは、誰もが知る通り現実に対する一種の妥協である。将来もしチベットが独立を実現できるとしたら彼はそれを拒絶するだろうか? 中共統治者が彼に取り合わずに、チャンスを利用して彼の独立放棄を法的事実(訳注:協定化)にしないとは、何と愚かなことであろうか。中共の政客・策士にとっては、中共失脚の前途を考えることはタブーだから、目をつぶって知らぬふりをしており、ダライラマがチベット問題のカギであり、扉を開くこともできれば閉ざすこともできるということを考えようともしない。もし中国が内乱に陥ったとき、チベット問題に進展がなかったら、ダライラマにはチベット独立を再び呼びかけ、国際社会に支援を呼びかける十分な理由がある。彼が認めたチベット独立の放棄を中国が無視した以上、だれもその変化を約束違反と非難することはできない。その時、ダライラマのチベット人に対する訴求力と西側への影響力は、チベット独立について比類なき影響力を発揮するであろう。彼一人の威力は百万人の軍隊に匹敵する。

中国と西側の二種類の本質的に相容れない政治制度は、グローバル化の時代に交錯して、根本的には疎遠になるほかない。価値観と利益の二重の衝突は双方を不可避的に最後の決戦に向かわせる。そして力強い世界の民主化潮流の中で、負けるのは独裁中国しかない。チベットは世界最後の独裁大国の天敵になるであろう。「人権は主権よりも重い」という観念は、すでに西側で中国に切り込む剣として鍛えられている。そしてチベットは決戦の戦場を提供している。多くの歴史的要因の影響を受けるので、今はだれも具体的な進行過程を予測できない。しかし、いわゆる決戦といっても両軍の対峙にはならず、経済と外交の分野で結果が出るだろう。中国は開国して数十年がたち、現実主義の経済発展のための外国資本・技術・市場に対する節度のない追求は、中国の生存の命綱をかなりの程度西側の手に握らせた。それは中国が存亡の危機に直面した時、西側の手配を受け入れるほかにほとんど選択の余地をなくさせている。

ここで例をあげて考えてみよう。たとえば中国の内乱と経済危機が同時におこったら、中国経済はすでに世界と一体化している以上、難関を乗り切るには世界経済を握る西側諸国の援助が必要である。西側諸国がもしチベット独立承認を交換条件としたら、崩壊の淵から抜け出し、より大きな災難を避けることを急ぐ中国政府(その時まだ政府があれば)は、たとえ望まなくても独立を承諾せざるを得ないだろう。もう一つの可能性は、その時の中国が民国初年に似た分裂状態に陥ったとしたら、一方でまったく余裕がなくてチベットの独立運動を弾圧する力がなく、もう一方では中国の主人になろうと必死の各勢力が西側諸国の承認を争うだろう。西側の承認があってはじめて国際社会で合法的に中国を代表することができ、西側が送り込む資源を獲得できるのだから。西側は合縦連衡して交換を行うことができる。いずれかの勢力がチベット独立承認文書に署名することを承認したら、そちらを援助する。かつてモンゴル独立の時はソ連の支持だけしかなかったが、国民党政府も共産党政府も抵抗できず、受け入れるしかなかった。将来の中国が直面するのは西側列強同盟であるから、それに抵抗できようか? 平時に統一を叫んでいる各勢力は、中国の主人になるためにはいろいろな耳触りのいい理由をつけて(無数の庶民の命を救う、など)争ってチベット独立協定文書に署名するだろう。似たような状況は、民国初年に何度も演じられた。中共も、レーニンが「生まれたばかりの政府に一息つかせる」ために署名したブレストリトフスク条約を、一貫して高く称賛してきた。この条約はソビエトロシアがドイツに百万平方キロ以上の領土を割譲し、60億マルクの賠償金を支払うことを定めており、すこしも中国のチベット喪失に引けを取らない。この種の現実主義精神はまさに中共の本質である。

中国の庶民はさらに現実的だ。今回のチベット事件で西側と対抗したのは都市に居住し、インターネットを使いこなし、メディアと近く、中国の現状に既得利益を有する一部の人々にすぎない。彼らの声は増幅されたが、人口比は極めてわずかである。中国の一般民衆(下層庶民、つまり労働者・農民・出稼ぎ労働者・請願者など)にとっては、身近な公正・人権・自由・民主の方がはるかにチベットの帰属より重要である。ただ彼らには声を上げるパイプがなく、メディアにも注目されず、独裁の圧政に対しても最も抵抗能力が乏しい。しかし、中国で最初に「オリンピックは要らない人権が要る」と叫んだのは、まさに黒竜江省の土地を奪われた農民だった。すぐに鎮圧されたとはいえ、これこそが中国を観察する本当の視点だと気付かせた。いったん全中国が危機に陥り、人々の生存が脅威にさらされれば、煽られた民族主義はたちまち雲散霧消する。かつて河南省の餓えた人民が食糧を届けてくれた日本侵略軍を歓迎したように、はるか遠くのチベットの帰属は問題にはならず、重要なのは一刻も早く切実な苦境を脱することだ。ゆえに、将来の中国の危機が十分深刻であれば、チベット独立への同意は大した反対には遭わない。

国際社会に認められた中国政府がチベット独立協定に署名することに同意したら、国際法上の効力を生じ、その後政府が代わって改めてチベットを占領しようとしても、そのとき中国に国際社会全体と西側陣営に対抗する実力がない限り、実現の希望はない。現代の世界では各地で繰り返し試行されてきた国際監督の手法――国連の介入・平和維持部隊の派遣・分離ゾーンの設置・国際援助の実施など――によって確実に独立チベットの安全を保証するだろう。そして、チベットが独立国として数年間維持されれば、変更不可能な既成事実となり、永く存続することになる。

ロードマップはここで終るが、終点から振り返ると、もしいつか中国がチベットを失うとすれば、原因は民主ではなく独裁であるということがはっきりと見て取れる。中国の独裁政権を中国統一の保証とみなす「愛国者」たちは分裂よりも独裁を選ぶと公言するが、このロードマップが示すのは、全く逆の結論――独裁こそが分裂を招く――である。

2008年 北京にて
(全文完結)

原文:http://www.minzhuzhongguo.org/Article/sf/200811/20081117084502.shtml

参考:<チベットの真の自治のためのメモランダム>全文
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51146451.html

関連文章
チベット独立ロードマップ(1)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/2ef1cc767204f12eabb9cbd727d91548
チベット独立ロードマップ(2)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/0ff44f54f233cb296c1ab0eafb74f928
チベット独立ロードマップ(3)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/1e38df56380bb6a52b5c17871cd0c7f1
チベット独立ロードマップ(4)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/3a53e3e0803b96c4807a55f9c5665c01
チベット独立ロードマップ(5)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/ad0b149a99460cc9b1333fe1463878f7


王力雄:チベット独立ロードマップ(5)

2009-01-26 13:31:37 | 中国異論派選訳
王力雄:チベット独立ロードマップ(西蔵独立路線図)

三、チベットはどのように独立に向かうのか

1、流血と独立

「反分裂」官僚集団が中国内部でのチベット問題解決の出口をふさぐ以上、矛盾は蓄積して醗酵していくしかない。そして最終的にチベットを独立を求める方向に押しやる。しかし、多くの人々はチベットと中国の実力の差が大きすぎるので、たとえ全チベット民族が独立のために戦ったとしても、目標は達成できないと考えている。もし、チベットと中国だけを切り離し、しかも現在の力の対比を固定して見たら、確かにそうだろう。しかし、グローバル化の時代に、チベットと中国はどちらも国際的な影響を大きく受けるし、中国の強大さも永遠に変わらないわけではない。近年独立した東チモールとコソボは力の比較ではかなり弱いが、どちらも独立を実現した。彼らと比べて、チベット独立の可能性は小さいとはいえない。

東チモールとコソボが独立できたのは、国際社会――とりわけ西側諸国――の支持があったからだ。二つの地域の独立が支持された大きな原因はこれら地域の人民が人道災害を被ったからだ(少なくとも表向きの理由はそうだった)。人権が主権より重いというのが国際社会の共通認識になったとき、民族対立がもたらした虐殺は民族独立が認められる主な根拠となる。西側社会は早くからチベットで大規模な人道災害――チベット人の「非正常」死亡人数は百万人近くで、チベット寺院はかつてことごとく破壊された――が起こったと考えている。このような土台があるから、将来チベットで発生する人道災害がたとえ東チモールやコソボより凄惨でなかったとしても、西側がチベット独立を支持するには十分足りる。

チベットは将来再び人道災害が発生するだろうか? 可能性は大きい。今回のチベット事件が鎮圧されたことで終わりとはならない。むしろ次のより大きな爆発の起因となる。ちょうど今回の事件が1980年代のラサ事件より規模が大きいように、次の爆発は今回よりも大きくなる。これは根拠のない憶測ではない。私は次の爆発を予測することもできる。ほかの可能な爆発を置いておくとしても、少なくともダライラマが逝去した時にまだチベット問題に進展がなければ、ダライラマが最終的にチベットに戻ることもできなくなるのだから、大爆発は避けることができない。国内のチベット人は全部蜂起するだろう。中国の鎮圧装置では全く防ぐことはできない。なぜなら、情報化時代だからダライラマ逝去の情報を封鎖することはできず、また、チベット人の蜂起も何の扇動も必要なく、情報自体が十分各地のチベット人をして、期せずして同時に立ちあがらせるだろう。

領袖の逝去は大規模な抗議行動を引き起こす。中国には1976年周恩来逝去が引き起こした四五運動があり、1989年胡耀邦逝去が引き起こした六四事件があった。そしてその激震は中国の歴史を変えた。ダライラマ逝去が引き起こすチベット大激震は決して故意に大げさに言っているのではない。多少なりともチベットを知っていたらわかることだが、ダライラマの運命はすべてのチベット人の心の傷なのだ。チベットの宗教的な最高領袖として、現世に生きる菩薩として、ダライラマはチベット独立をあえて放棄して、高度な自治でチベットの文化と宗教を守ることだけを求めた。このような謙虚さの見返りが辱めであり、死んでも故郷に帰れず、彼を待ち続けた人民と信徒に一生会えず、永遠に別れなければならないとしたら、その痛みはほかに比べようもない。ダライラマ在世のときは、どのような挫折があろうと、チベット人にはそれでも希望があった。いったん彼が逝去したら希望は絶望に変わる。恨みが恐怖を抑え、爆発は必ず激烈なものになり「チベット独立」も現在のスローガンから、実際の運動になる。

もちろん、デモ行進だけではチベット独立は実現できない。なんといっても中国の軍と警察の総数はチベットの総人口に近いし、中国は大量破壊兵器で徒手空拳の群衆の相手をするのだから。しかし、悲憤に燃えるチベット人は決して簡単に鎮圧されることはない。俗に「決死の一人には、十人かかってもかなわない。万人が決死になれば、天下に横行することができる。」と言うが、チベット人は600万人もいるのだ。その時中国当局はやむをえず再びレイシズムにすがるだろう(信仰の崩壊した中国ではほかのイデオロギーはない)。中国政府は漢人を主とする中国軍と警察に大量殺戮を煽動し、同時に中国民衆に「反分裂」の虐殺を支持するよう煽動するだろう。

多くのチベット人はその過程で命を失うが、民族独立の道は往々にしてまさに鮮血で塗りあげられてきた。鎮圧は必ずしもチベット人を尻込みさせない。むしろ、彼らは自分から暴力を迎えるかもしれない。一方で、チベットの伝統宗教の苦行観念はそのような動機づけを提供できるし、もう一方で、非暴力闘争にもそのような含意がある。亡命チベット人の住むインドは非暴力闘争の発祥地である。聖賢の誉れ高いガンジーは彼の支持者に「死に方」を学ぶよう求めた。ある分析者の解読によれば、ガンジーが主張したのは自分に加えられた暴力に反抗しない「消極的非暴力」ではなく、自ら相手の自分に対する暴力を挑発することで「自分が苦しみを受けることにより改革の目的を達成する」(ガンジー)のだという。このよう思想を持つチベット独立派にとって、中国のチベット人に対する虐殺はまさに国際社会のチベット独立に対する支持を獲得する歴史的チャンスとなる。ゆえに、避けるよう努力するのではなく、意識的に利用すべきであり、中国の虐殺が民族浄化の規模にまで達してはじめて国際社会の大きな同情と支持を得られると期待するかもしれない。チベット独立派の視点からすれば、それは決してチベット人の生命を無視するのではなく、ガンジーの言う非暴力闘争の核心――「生命を自分が正当だと思うことに捧げる」ことなのだ。チベット人の血が流れれば流れるほど、国際社会のチベット独立に対する支持は強固になる。こうして中国の武力鎮圧は効果を失うだけでなく、全く逆の――チベット独立を助ける作用を発揮することになる。

流血の民族衝突と民族浄化の発生は、民族同士が共存できないことの証明であり、国際社会が表に出て被迫害民族を保護するよう促し、ひいては被迫害民族が独立国家を作ることを支持する主な理由となる。そして、中国「反分裂」官僚集団の論理を推し進めていけば、将来のチベットはこのような災害を免れがたい。そのとき、チベット独立に欠けているのは最後の二つの条件だけになる。第一は、西側諸国が表だってチベット独立を支持し、チベットの国家としての地位を承認することであり、第二は、中国自体が動揺し、西側に対抗したり、チベットを鎮圧する能力を失うことである。

2、チベットは西側にとって政治的公正(訳注:political correctness)である

今日まで、西側諸国政府は中国が帝国の遺産を継承することに異議をはさまなかったし、公然とチベット独立を支持することもなかった。チベット問題で中国と対立するのは、おもに西側民衆とメディアである。西側社会は多元的であり、たいていどの問題についても論争がある。しかし、チベット問題に関しては前例なく一致している。中国人にとっては、これは奇妙な現象である――多くの西側メディアは全然チベットを知らないのに、いつも善悪を明確に結論を下す。多くの西側の人々は全然チベットを見たこともないのに、チベットの代理人や守護者になろうとする。中国人の疑問は、たとえ中国が帝国の遺産を継承したからと言って、かつて中国をいじめた西側列強が継承した帝国の遺産の方が多いし、今日の世界の多くの国が当時の西側植民者の末裔が作ったのに、西側の人はどんな資格があってチベット問題になると正義の仮面をまとって中国を非難するのか? ということである。

時間が一つの解釈である。植民地時代は過ぎ去った。西側のかつての誤りを中国の今日の正当化理由にはできない。たしかに、時間は一つの要素である。そうでなければ、いかなる根拠も無限に遡っていけば成り立たなくなってしまう。中国と西側はほとんどすべての歩みに時間差がある。中華帝国が朽ち果てた時代はまさに西側列強がもっとも凶暴だった時である。西側の植民行為が合法性を得たのは主に有効統治によってであり、中華帝国は時間は長いが四方の国からの朝貢という心理的満足のみを求め、「諸藩」が一体となる(訳注:自己統治)のを放任した。西側との遭遇により中国がその「朝貢システム」が虚構にすぎないことを知った時、有効統治を実現することで主権システムに適合し、領土を守るべきだった。だが、一連の国難と戦争もまたそのプロセスを阻害した。そして世界が非植民地化の時代に入り、民族独立が主流となり、西側諸国がつぎつぎに植民地から撤退していた時、中国はむしろこれまでになかった強大な勢力でチベットに進軍し、ダライラマに率いられた数万のチベット人の亡命を引き起こした。民主・信仰の自由・文化的多元性が西側において文明進歩の原則となったとき、中国はチベットで寺院を破壊し、宗教を禁圧する文化革命を行った。「人権が主権よりも重い」が西側世界の普遍的価値観となっている今日、中国はいまだに国家主権を最高価値とし、そのためにはほしいままに人権を侵害している。

この種の時間差によって、すべての歩みが潮流に逆らってきた中国はチベット問題で西側にさんざん批判されたことは理解しやすい。しかし、中国人はそれでも反問することができる。なんの根拠があって西側が時間基準を決めるのか? なんの根拠があって西側を原点として中国のずれを判断するのか? 中共の統治から数えても、今までに中国はチベットを半世紀余り有効統治してきたではないか。一方西側のフランス、イギリス、カナダ、スペインだって民族問題を抱えている。なぜ中国のチベット問題だけが批判されるのだ?

これは西側と中国のもう一つの違いにかかわる。西側諸国は民主的な方法で帝国遺産留保に合法性を付与してきた。たとえば、コルシカ島の80%の住民はフランスへの残留を支持し、支持率はフランス本土住民のコルシカ残留支持よりも20ポイントも高かった(多くのフランス人はコルシカは負担になるので、独立させた方がいいと考えた)。また、イギリスはかつて北アイルランドに自主的に残留か独立かを決めさせ、結果は多数の北アイルランド人がイギリス残留を支持した。スペインのバスク、カナダのケベックはいずれも住民投票により独立を否決した。だから、それら地方の民族問題は少数の人が独立運動をしているにすぎない。しかしチベットはそうではない。なぜなら中国は少なくともこれまでチベット人に選択の機会を与えたことはないからだ。

今日、植民地主義を放棄した西側社会では、自由・人権・反植民地が社会の共通認識となっており、民主制は西側民衆に中国に対して高いところから見下す優越感を与えている。普通の西側の人々は政客や商人のように中国の利益や政治の制約を受けていない。彼らのチベット問題についての判断は日常生活から離れて、おもに価値基準に基づいている。チベットは彼らにとっては中国に占領された独立国家であり続けており、チベット問題は西側と中国の価値観の対立をほとんど代表している。ゆえに自然に中国を攻撃する最適な標的となる。中国人がたとえ理解できずに怒ったとしても、それはすでに中国が将来必ず向き合わなければならない現実である。

これについては西側メディアの役割も非常に大きい。一方で、市場化されたメディアが大衆の感情に沿ってチベット問題について大衆に追随することは怪しむに足りない。もう一方、大衆とメディアが極めて一致して相互作用するとき、極端な性質が生まれる。私はそれを「広場効果」と呼ぶ。ちょうどギリシャの都市国家が広場において行った民主制のように、競争者は大衆を先導して熱狂させることを成功とみなし、大衆は拍手やヤジによって支持と反対を表明する。今日の大衆はメディアと最新の通信技術をつなげて、無限に広い広場を作ったに等しい。メディアと大衆の相互刺激によって、古代の広場よりはるかに大きい群衆を集め、しかも感情が社会全体に急速に感染する。

大規模な人の群れはお互いに十分な意思疎通ができず、深く思考することもできない。簡単な概念で共通認識を得ただけで、明確な結論で是非を断定することができるにすぎない。チベット独立は西側ではもともと強い世論の支持があり、加えてチベット事件で生まれた中西対立は、中国民衆の反西側姿勢と西側メディアの集中攻撃により、西側社会のチベット問題での「広場効果」をさらに強化した。市場競争は西側メディアが大衆の関心事に注目することを促すので、今後メディアはずっとチベットを対象とし、かすかな手がかりも怠りなく捕捉するだろう。とりわけチベット人の闘いと中国の鎮圧は。しかも、すべての迫害と流血を増幅して西側民衆に示すだろう。その結果ふたたび「広場効果」を高め、西側の民意をさらにチベット独立支持に向かわせるだろう。現在の世界のすべての民族問題の中で、最も西側社会の支持を得ているのはチベットである。チベットの自由はすでに西側社会にとって政治的公正のひとつであり、同時に各種勢力が奪い合い利用する管制高地となっている。

3、西側諸国政府の考慮

もし中国と対立しているのが西側民衆とメディアだけならば、権勢しか意に介さない中国当局にとって「雑音」として無視してかまわない。しかし、中国当局が意に介する西側の権力者は、民衆の投票によってはじめて地位に就くことができる。彼らが支持票を得るためにはまず民意に追随しなければならない。ゆえに最終的には必ず民間の「広場効果」に巻き込まれてしまう。これは西側民主制の基本状態であり、本質的に変更不可能である。中国政府は西側民衆に態度を変えるよう要求することはできないし、西側メディアに立場を変えるよう要求することもできない。それは反感と反発を買って、自分が損をするだけだ。中国政府にできるのは、せいぜい大口貿易取引で西側政府を誘惑したり強迫したりして西側の政客たちに中国の立場を受け入れるよう迫ることだけだ。しかし、たとえ西側の政客が一時的に中国に従ったとしても、中国政府のように自国民とメディアを取り締まることはできない。彼らは結局のところ自国民とメディアによって選ばれるので、時期が来れば争ってチベット独立支持に回るだろう。

今はどの政府もチベット独立を承認していないが、政府の態度はいつでも変わるものだ。民間の「広場効果」の推進は要因の一つに過ぎず、西側政府はチベット独立にもう一つの考慮がある。天安門事件のときに西側諸国は中国に対して共同で制裁を実施したが、その時の対象は中国政府だけであり、中国民衆の民主化要求には希望を抱いていた。その後のソ連東欧の変化は西側に自信と忍耐心を与えた。小平が中国経済を資本主義の方向に推進した時、西側は中国が経済の変化とともに政治の変化を引き起こすだろうという自信を深めた。しかし、今回のチベット事件はその希望がまぼろしだったことを証明した。中国は資本主義化の進展に伴って西側陣営と融和することはなく、むしろ経済の勃興に伴って脅威が増した。中国当局は今回小平の「韜晦」方針を放棄し、できるだけ強大・強硬・民衆操縦の一面を誇示した。中国民衆は(すくなくとも西側から見た限り)民主化勢力にはなっておらず、むしろ独裁政府と結託して、国内では弱小民族を抑圧し、対外的には民主社会を敵視した。このような中国は完全に一つの新しいファシズム帝国である。それは西側の政治家を驚き恐れさせた。中国を勃興するに任せていたら、いつか世界平和を脅かすのではないか?

民主・自由・平和などの表面的な文章の裏では、西側の中国に対する不満と身近な利益が関係している。たとえば、中国は低い人権と環境破壊を代価として海外資本を引き寄せ、大量の廉価製品を作って国際市場に衝撃を与え、西側諸国が100年以上かけて築き上げた労使関係・福祉制度・市場秩序を損なっている。中国経済の資源に対するすさまじい渇望は地球生態系の危機を一層深刻にしている。中国はどんどん活発に資源争奪戦に参入し、世界中で西側としのぎを削って、資源不足を深刻化させ、価格の騰貴を招いている。さらに、より深いところでは表には出さないが決して重要でなくはない懸念――もし中国が西側諸国と同程度の消費水準に達した時、生態系の危機に直面している世界が崩壊するのではないか? 西側の政治制度は自国の消費を削減して生態系の危機を解決することができないことを決定づけているので、ほかの国――とりわけ中国のような人口大国――の消費増加を抑えるしかない。そこにはもちろん見え透いた覇権主義と人権の不平等があるが、西側諸国政府が中国政策を制定するときの潜在的根拠となる可能性がないわけではない。

上述の表向きと裏の考慮の結果、中国の弱体化・中国の継続的発展の抑制があるいはいつか西側諸国の共同の願いになるかもしれない。この目標を達成するためにとりうる方法は、中国の分解を促し、中国を分解後の内部衝突と相互けん制から抜け出せないようにし、また中国の勃興を支える資源と空間を失わせしめる。つまり、釜の下の薪をとりのけるやり方である。筋の通った口実が見つかれば、この方法を西側諸国は喜んで受け入れるかもしれない。では、どんな口実が反帝反植民地主義よりもチベット独立をより正当化できるだろうか? チベット独立は連鎖的に新疆(訳注:東トルキスタン)やそれ以外の中国の少数民族地域の独立を引き起こすだろう。チベットと新疆だけでも、中国は40%の領土を失うということを知っておくべきである。それは中国をいっそうユーラシア大陸の隅に隔離する。このような中国の分解は非難されないばかりか、実行者は解放者の桂冠を被ることもできるだろう。ゆえに、今のところ小心翼々として中国に逆らわない西側諸国政府も、歴史の発展が最後の条件――中国の内乱――を提供すれば、短期間でチベット独立支持の立場に転換するだろう。

原文:http://www.minzhuzhongguo.org/Article/sf/200811/20081117084502.shtml

関連文章
チベット独立ロードマップ(1)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/2ef1cc767204f12eabb9cbd727d91548
チベット独立ロードマップ(2)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/0ff44f54f233cb296c1ab0eafb74f928
チベット独立ロードマップ(3)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/1e38df56380bb6a52b5c17871cd0c7f1
チベット独立ロードマップ(4)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/3a53e3e0803b96c4807a55f9c5665c01
チベット独立ロードマップ(6)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/22ce52f7c20ee1714fb388f36d78a0b1

第11次集計で08憲章署名者8100人突破!

2009-01-23 18:47:13 | Weblog

第11次集計で08憲章署名者8100人突破!

联署“零八宪章”的签名人数已超过8100人,第十一批签名人正式名单(共962人)
[日期:2009-01-23] 来源:参与   作者:“零八宪章”签名整理小组  [字体:大 中 小] 


《零八宪章》第十一批签名人正式名单(共962人)
   
    (“零八宪章”签名整理小组情况说明:首先需向大家报告,经过多次努力依然无效,“零八宪章”在最初发布时宣布的两个gmail签名信箱以及后来新设的一个gmail 信箱全部被人破坏,无法登入,在此,我们郑重声明:2008xianzhang@gmail.com; 2008xianzhang2008@gmail.com; xianzhang2008xianzhang@gmail.com; 三个gmail 签名信箱作废。非常抱歉,麻烦那些最近签名但在本次新的一批签名公布名单上没有看到自己名字的朋友再次发信到下列两个依然运作的信箱中签名。xianzhang2008xianzhang@inbox.comxianzhang2008@aol.com;对于我们这样一个有着“折腾人”传统的国家,出现这种情况应不让人意外,但依然让人感到愤慨,同时也令人鄙视。不过,正如人们对自由的向往不可阻挡,这类折腾也不能阻挡人们对“零八宪章”的支持。希望朋友们转告三个信箱作废的消息,并请想签名的朋友到这两个信箱签名。
   
     其次,需要说明的是,尽管我们努力避免纰漏,但鉴于工作量的庞大以及情况的复杂,人手的限制,在过去的名单统计中还是出现一些重复、错写等问题,希望朋友们谅解。至于有些朋友来信希望更改一些个人信息的误差,如在日本的田仲文先生来信希望我们改正其身份为“自由职业者” 而不是发表时的“学者”,我们有时也只能表示遗憾。因为我们只负责汇集名单,一旦名单发布,被多方转载,我们便无法控制去各个网站上全部更改。这点,还希望有类似情况的朋友们能理解。须知有些签名信息辗转传来,就象这位田先生的信息一样,可能在传送过程中就有失误,我们只是照传来的信息登入,无法一一核实,故请签名的朋友尽量把自己的信息写明确。迄今为止,有个别的朋友来信因各种原因希望撤出签名。我们也因上述原因无法去各网站一一说明,如这两、三位朋友依然想撤出签名,希望来信告知,我们或许可以考虑用公开声明的方式做处理。

    此外,个别朋友来信说只是希望在明确加入他所附加的条件和观点的情况下才签名,我们十分抱歉无法列出所有签名朋友的意见。我们尊重每个人的意见包括签名与否的权利,但显而易见不可能把个人看法在名单中逐一列出。
   
     还有,一些朋友来信询问一些问题,提出一些很好的建议,限于条件,我们无法逐一回复说明,也请大家原谅。黎树勇先生在海外网站上就签名发表一封信,提出很多宝贵的建议,我们表示感谢。但鉴于具体情况,有些建议如核对每个签名者的真实身份,我们恐怕一时难以做到。“零八宪章”签名联署,只是一个公民的意见表达,不是加入什么组织,我们还是相信绝大多数的签署人是秉持良心和勇气,以负责的态度签名的。我们只能原则性地提出一些签名信息要求,个人填写时对个人身份、地区和职业如何认定,我们没有办法绝对化地要求。至于以前出现的一些失误,让一些不规则的签名出现,当然是要由我们来负责,我们对此表示歉意,也在最近的一些签名整理中加以注意过。关于签名者的人数,我们只是按收到的来统计,尊重签名者的个人意愿。如能定期发布名单,我们会尽量争取,如因各种情况一时做不到,也希望大家理解。
    
     最后,到这一批止,联署“零八宪章”的签名人数已超过8100人。除极少数几位外国友人外,绝大多数是身居国内外的中国人,值此中国人传统的佳节春节将至之时,我们向所有联署宪章的朋友表示节日的问候,也祝愿我们的祖国能够自由、和平,国人幸福安康。

出典:http://www.canyu.org/n5117c6.aspx
注意:1月24日に外部からこの「参与」サイトにマルウエア(ウイルス)が組み込まれた模様。十分な安全対策を取った上でサイトにアクセスしてください。


王力雄:東洋的関係――チベットと中国の歴史的関係(8)

2009-01-21 14:18:59 | 中国異論派選訳
王力雄:東洋的関係――チベットと中国の歴史的関係(8)

今日、ダライラマの海外亡命政府は西洋の人を国際公法顧問に招いて、国際法の視点からチベットが中国に隷属したことがないという法的根拠を探している。西洋の学者も次のような結論を出している。たとえ清朝が最も勢力の大きかった時代でも、中国のチベットに対する宗主権は「これまで形式化されたことはなく、いかなる条約もしくはその他の交渉によって双方の権利義務を確定させたこともない」(注1)。北京側も大勢の法律、歴史分野の専門家を飼って、「二十九条章程」のような証拠をたくさん探し出し、国際法の視点からその中の主権表現を分析し、中国のチベットに対する主権の歴史的合法性を証明している。

上述の文章の中の国際法・法的根拠・形式化・条約・権利義務・合法性といったキーワードを抜き出すと、双方が使っているのは東洋の歴史概念ではないことが分かる。中国であれチベットであれ、歴史上近代的主権概念によって相互の関係を決めてきたことはない。西洋の概念が世界的な国際秩序となり、東洋に受け入れられ、中国チベット関係の中で強烈に意識され、奪い合われるようになったのは、わずかに19世紀末からのことである。両者の間の似て非なる結論と、もつれて定かでない是非、その根源は西洋の概念を無理に東洋の歴史にあてはめようとするところにある。

もし、必ず主権・宗主権の概念を用いて清代の中国チベット関係を判断しなければならないのなら、私は中国の当時のチベットに対する支配は宗主権により近く、主権の性質は欠けていたと思う。チベットは中国の朝廷に対して臣服していたとはいえ、多くの時間と多くの問題についてはこの臣服は名義的なものにとどまり、あるいは見せかけのゲームにすぎなかった。表面上、駐チベット大臣は重要な位置に置かれた。前に引用したベンガルの校長が描写したように、駐チベット大臣は威風堂々と行進することができたし、チベット官吏を正式な席では副次的な地位に置くことができた。さらには駐チベット大臣はチベット人の族長を拘禁したり、路上のチベット民衆を鞭打ちにしたりすることもできた。しかし、チベットの実際の統治の中では、駐チベット大臣は実質的な役割は余り発揮できなかった。チベットの統治者はその独特なずる賢さと辛抱強さで駐チベット大臣を骨抜きにすることによって、実質的な独立を維持した。

しかし、私はそれを支配と反支配の闘争に中での勝敗の結果だとは思わない。むしろ、それは当時の中国とチベットがともに追求したものであり、双方が満足していたのであり、最も自然で合理的な結果だったのかもしれない。

確かに、駐チベット大臣は骨抜きにされたことに恨みごとを言っているし、清朝皇帝もしばしば不満を漏らしているが、それらはチベットで大きな問題が持ち上がったり、正常な運営軌道をはずれたりした時にはじめて重視され解決された。たとえば、1788年と1791年の2回、グルカがチベットを侵略した。きっかけは、パンチェン6世の弟のシャマルパがチベットから離反し、グルカにチベットのタシルンポ寺の財宝を奪うようそそのかしたことだった。当時チベット側は駐チベット大臣にシャマルパの離反を報告しなかった。グルカが最初に侵入した後、ダライは自分だけでグルカに賠償と土地の割譲を承諾し、駐チベット大臣に相談しなかった。のちには、賠償を払いきれなかったのでグルカの二回目の侵入を招いた。清朝はやむなく大軍をチベットに出兵させてやっと平定した。この人力物力の濫用に乾隆は怒り、チベット事務の粛正を厳命し、「二十九条章程」が制定された。その他の大部分の期間、清朝が駐チベット大臣を設置した目的は、チベット統治の象徴を維持することだけであり、実質的な統治を行うことではなかった。

この点を理解するには、中国古代の政治観と西洋の政治観の違いを知る必要がある。

「米国カリフォルニア大学デービス校のゲイリー・ハミルトン教授は、中国古代国家に関する論説は、啓蒙時代の思想家から現代の政治史・政治学・社会学の学者まで、例外なく西洋国家構造の概念によって、たとえば官僚制、世襲官僚制、専制政治、独裁政治およびその中で活動する各種の役割概念によって、中国国家の属性を描写してきた。このやり方は彼からみると、しばしば確認のしようもなく、かつ誤解を招く結果になった。ハミルトン氏のまとめによると、西洋の政治構造は二つの基本的特徴がある。すなわち、集中的な権力観と行政的な政治組織観である。そこでは、政治権力は意志に基づき、かつ抽象的な中心から四方に広がる。いわゆる「行政官僚制」こそ、その種の命令構造の中で生まれた組織類型である。上に述べた各種の概念、たとえば官僚制・官僚・統治者そして「国家」は、いずれもこの種の政治組織と国家の合法性の中心主義の観念に導かれてきた。しかし、中国の政治組織の中では、こうした観念は成り立たない。そこでは、権力は意志から生まれるわけではなく、服従も命令に基づくものではない。ハミルトン氏は、中国人の権力観は秩序を形成するために調和の中で活動する役割および礼によって画定された役割関係の上に築かれていると考える。このように築かれた政治組織は階層化された役割組織によって構成され、役割組織は基本的に自己維持的であり、命令構造との明らかな関連はない」。(注2)

後ろの数行の語気は私が強めた。古代中国とチベットの関係理解の助けになると思う。古代中国の世界観の中では、「天下」は中国を中心としていた。そのころ中国周辺にはほかに進んだ文明はなく、中国は一貫して強烈な文化的優越感を保持して、ほかの民族を「化外の邦」の「夷」「狄」「蛮」「番」とみなすことができた。古代中国は政治共同体によって国家を画定するのではなく、一族一姓の王朝にだけ注目した。そして王朝の合法性は中国文化の「正統な後継者」(原文「正朔=暦法の基礎」)であることであった。梁漱溟が言ったように「それは文化の統一に基づき政治の統一があり、天下をもって国家を兼ねていた」(注3)。

「中央の国」の君主として、中国の歴代皇帝が周辺民族に対する統治において最も重視したのは領土・資源・辺境などの「物」ではなく、「礼」だった。「夷」「狄」「蛮」「番」が中国文化に対して臣服と尊崇を示し、「中央帝国」の尊厳が満足されれば、ほかは全て些細なことに過ぎず、あまり気にかける必要はない。

それゆえ、古代中国は法律で自国の領土を画定したことがなく、文化あるいは政治的に臣服すれば、中国に属するとみなした。加えて、「無為にして治まる」の伝統的政治哲学(道家の思想)により、むしろ「化外の邦」が自分で自分を管理するよう望んだ。ゆえに、古代中国の辺境はいつも非常にあいまいだった。

「内を重んじ外を軽んじ、近くは詳しく遠くは大まかに、四方を並び挙げて以て政権の帰一を示し、すなわち天下は地理上政治上いずれもすでに無欠であるとみなされ、『四方』の細部については、昔の人の主な関心事ではなかった。もし、西洋人のように明確さを求める方法で検証したら、昔の人の『天下』は地図に再現するのは難しい。歴代の中国の辺境の拡大縮小は常に千里単位であり、西洋人の辺境の確定を国家の要素とする概念でこれを考量したら、中国は近代の多くの売国条約によって土地を割譲して国境を確定したあとに初めて『国』になるだろう。しかし、昔の中国の朝廷と民間にとって、本土(main body of homeland)さえ安定していれば、辺境の変動は『中国』概念の無欠性を妨げるものではなかった」。(注4)

西洋の観念の中の「大」は「小」によって構成され、「大」は明確な事実であり、正確に画定された細部によって説明し決定される。東洋の観念の中の「大」はむしろムードに近く、「小」に拘泥するとむしろ損なわれるので、しばしば「小」を捨てて「大」を求める。中国の皇帝には「空の下、王土にあらざるはなし」という意識があった(注5)が、しばしば土地を封じて恩賞とした。いったん怒ると、万里離れていても出兵して討伐し、意にかなうときは何でも認め、あるいは気を配りきれないときは、宋の太宗のように文鎮で地図に線を引いて、大渡河以西を捨て去り――「度外に置き、有っても論じな」かった。

国力の上からみると、古代中国は周辺民族を征服支配できなかったわけではなく、必要がなかった。それが脅威とならず、「礼」の秩序に合えば――臣服を示せば――それでよかった。古代中国の周辺にはいつも朝廷に認められたさまざまな藩王がおり、またしばしば諸侯に封じた。清代の中国皇帝の眼中では、チベットはまさにそのようなものだったと思う。これは一種の統治方式とみなすことができるが、完全に現代の主権あるいは宗主権概念によって解釈することはできない。

中国皇帝は「礼」によってきめられた尊厳――「これだけが大きい」。この「大」を満足すれば、その他の細部はあいまいでよかった。あるいはその細部を尊厳を満足させる交換物とした。一方、中国周辺の弱小民族にとって、より重要な「大」はまず生存の安全と実質的な利益だった。そのためには尊厳はあいまいでよかった。これもまた東洋的思考である。尊厳が重要でないというのではなく、それを価値の大きな資源とし、実質的利益と交換した。当時のチベットが中国に名義上臣服していたのは、かなりの程度この種の需要のためであった。清代中国はチベットを元以降のモンゴルカーンの統治から抜け出させ、ゲルグ派を支配的地位に就かせ、世俗権力との闘争においてダライを主とする宗教権力が勝利するのを助けた。北京はさらにチベットに手厚い恩賞と必要な仲裁、対外防衛の保証を与えた。チベットはこれほど多くの利益を受けながら、払った代価は表面的な中国に対する臣服の姿勢だけだった。この種の臣服は名義上にとどまり、見せかけのゲームで、中国皇帝に「君臨天下」の心理的満足を与えるものにすぎず、チベットはそれによって実質的な独立を失うことはなかった。むしろ、強硬な態度を堅持して中国皇帝を怒らせたら、チベットは大軍に攻められ、統治者は地位を失い、人民も苦しむ。この種の得失の対比を前にして、賢明な選択は何かは非常にはっきりしている。

前述した駐チベット大臣の行進の場面に「ランバの死」の故事を加えると、清代中国とチベットの関係の縮図になると私は思う。

原文:http://www.minzhuzhongguo.org/Article/wl/sj/200804/20080428085224.shtml
(脚注は原文参照)

関連文章:
骨抜き――チベットと中国の歴史的関係(7)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/458be72eb12dfb3e581aa933e0f078e4
主権確立の相互作用――チベットと中国の歴史的関係(9)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/a477aa095a4b290168e4d29dfe07a155

周雲蓬:一個児童的共産主義夢想

2009-01-19 22:43:33 | 漢語の歌

一个儿童的共产主义梦想-周云蓬

大雨哗哗下
北京来电话
大雨哗哗下
北京来电话
去当兵,去当兵
叫我去当兵
我还没长大
我还没长大

楼上和楼下
电灯和电话
楼上和楼下
电灯和电话
一拉灯,一拉灯
屋子里亮通通
自来水拧一下
水流哗啦啦

二零零零年
四个现代化
二零零零年
四个现代化
假话、空话、大话和废话
不如去喝酒
喝多了说胡话
假话、空话、大话和废话
不如去喝酒
喝多了说胡话
不如去睡觉
睡着了说梦话


中国古典文学作品提供サイト「開放文学」

2009-01-18 11:04:17 | Weblog

http://open-lit.com/list.php

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 萬花樓 續兒女英雄傳 高士傳 說岳全傳
 說呼全傳
 
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 明月台 瞎騙奇聞 鏡花緣 杜騙新書
 檮杌萃編 東陽夜怪錄 海遊記 常言道
 糊塗世界 鄰女語 後官場現形記 瓜分慘禍預言記
 唐鍾馗平鬼傳 冷眼觀 斬鬼傳 老殘遊記
 老殘遊記二編 胡雪巖外傳 官場現形記 宦海升沉錄
 大馬扁 獅子吼 癡人說夢記 中山狼傳
 雨花香 二刻醒世恒言 二十年目睹之怪現狀 豆棚閑話
 醒世恆言 醒世姻緣傳 醒世新編 醉醒石
 負曝談 飛跎全傳 發財秘訣 今古奇觀
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パレスチナ子供のキャンペーン:ガザ 15 日 16:30  (日本時間 23:30 )

2009-01-16 10:31:20 | Weblog
〔転載〕

パレスチナ子どものキャンペーンです。

市街戦が始まっています。

ガザからの緊急の声を一人でも多くの人に伝えてください。

転送転載大歓迎 


ガザ 1月15日16:30(日本時間23:30)
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500メートル先に戦車が・・・
--------------

国連の本部が攻撃されました。今、私の家族と一緒に家にいますが、家から500m
のところにイスラエル軍の戦車がいて外にでることができません。これまでで最
悪の日です。

彼らはテル・アル・ハワ地区に侵入し、次に小麦が保管されていたUNRWA(国連)
本部を攻撃して火事が起きました。テル・アル・ハワ地区の人々は、女性も子ど
もも通りに出て逃げ出しました。この地域は人口密集した住宅地です。男たちが
集められ、建物が取り上げられて火がつけられました。あらゆる方向から爆撃と
砲火を浴びせ、アブダビのジャーナリスト2人が負傷し、1人は重傷です。

今、新たな空爆が始まりました。(爆発音)

イスラエルは状況をどんどんエスカレートさせています。今、人々は家を離れて
あちこちに動き回っています。あらゆる方向から攻撃を受けているので、どこに
も行けず、人々はただ動き回るだけです。いろいろな地域が攻撃を受けています。
そのような地域から人々は逃げ出しています。

-----------
人々が逃げまどっている
-----------

昨夜は朝まで恐ろしい時を過ごしました。銃撃が連続しています。

(また爆発音を飛翔体の飛行音)

多くの人々が残骸の下敷きになっています。パレスチナ赤新月社が運営している
アル・クッズ病院も攻撃を受けました。ここには500人のパレスチナ人が避難し
ています。この病院もテル・アル・ハワ地区にあります。病院も救急車も民間防
衛局も消防署も、全てが攻撃されています。多くが負傷したり死んだりしていま
す。
--------------
石油の備蓄も小麦もなくなった
--------------

多くの人がただ逃げ回っています。今日の午後は多くの人がただ毛布やかばんだ
けを持って攻撃された地域からこちらに逃げてきています。テル・アル・ハワ地
区の人々は国連本部に逃げ込んでいましたが、そこも攻撃されました。イスラエ
ルは攻撃してUNRWA職員と避難民の3人が負傷しました。ここにはUNRWA本部のオ
フィスと倉庫がありました。

大きな問題は、この施設には石油が備蓄されていたことです。石油やガスの備蓄
が破壊されたのは破局的です。これらの燃料は病院や井戸から水をくみ上げる施
設に供給されていました。ガソリンや燃料はUNRWAだけにしかなかったのです。
石油は攻撃目標になった二つのものの一つです。もう一つは小麦粉でした。もう
ガザには小麦も石油もありません。

空爆は無差別で、攻撃はあらゆる方角に向けられています。ただ殺すだけです。

皆さんによろしく。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

アムジャッドさんと電話がつながり、話を聞くことができました。
彼には、小さな娘が二人います。子どもたちはどんな思いでいるのでしょうか。
電話で話をすることしかできない自分がとても辛いです。

**************************************************
特定非営利活動法人 パレスチナ子どものキャンペーン
Campaign for the Children of Palestine(CCP)
〒171-0031 東京都豊島区目白3-4-5 アビタメジロ603
Tel:03-3953-1393 Fax:03-3953-1394
Email: ccp@bd.mbn.or.jp
HP: http://ccp-ngo.jp/

 

沈敏特:真理の追求には言論の自由が不可欠

2009-01-13 22:43:04 | Weblog

これは当たり前のまっとうな主張であるが、掲載されたのが言論の自由に否定的立場の北京日報であるためスクラップした。

沈敏特:追求真理离不开言论自由
2009-01-13 11:59:20 来源: 北京日报 

“荒谬言论”能否享有言论自由呢?您如何判定一个还没有说出来的话,是‘荒谬’言论,使您能事先就剥夺他的言论自由?只有一种声音,真理是不能认识和发展的。一切言论在言论的层面上(而不是付诸行动和实施),都享有自由表述和发表的权利。
作者:沈敏特  中国传媒大学教授


“言论自由”,是被写进我国宪法的。但很多同志对此理解并不深入。比如,“荒谬言论”能否享有言论自由呢?这个问题,是人们常问的一个问题。如果您不假思索地回答:“荒谬言论哪能给言论自由呢!”恕我直言,您立刻掉入了“陷阱”——这“陷阱”是一个难以回答的问题:“请问,您如何判定一个还没有说出来的话,是‘荒谬’言论,使您能事先就剥夺他的言论自由?”我想,除非您能大言不惭地宣布自己是“洞察一切”的神仙,尚未说出就能判定言论荒谬。否则,您只能掉入无法自圆其说的“陷阱”。

我在此仅仅是为了提醒人们一个常识:某一言论(这里指的是言之成理,持之有故的言论,而非狂喊乱轰的攻击漫骂)在没有公之于世以前,无法判定其荒谬与否,无法判断其是进步还是反动。为了追求真理,唯一的办法是让它公之于世,在阳光下,让大家来思索、来辨别,才有可能认识它的本质。我想,这就是大家所说的言论自由,也就是毛泽东提倡的至理名言:百家争鸣。

循此要引出的一个相关的常识:某一言论出来了,大家也着意思索了、努力辨别了,却常常仍然看不清本质;尤其是那些当时看来有点另类,或为当时的多数人所不能认可的言论,常常需要一个或长或短的历史过程,才能成为大家心悦诚服的真理,或成为大家痛心疾首的谬说。在这个过程中,大忌是有“权威”出来当“真理裁判”,用一锤定音的方式作出所谓是与非的结论,然后大家响应号召,一哄而起地“热烈颂扬”或“口诛笔伐”。之所以称之为“大忌”,是因为对此常要付出巨大的,包括鲜血和生命的代价。

永该铭记的突出例证之一是马寅初先生的人口论。若不是迅速判定其为“反动的马尔萨斯人口论”,若不是一拥而上的大批判,人口值至少可以减去三亿;而由此带来的人口压力也许要延后承受一个世纪以上。如今每日每时要面对的就业安排、教育普及、医疗保障等等,无不和人口压力相关。

永该铭记的又一个突出例证是张志新对于“文革”置疑的言论。若不是有关领导判定为“恶毒攻击文革的现行反革命言论”,若不是当时盛行的以言治罪的“条例”,造成割喉枪决张志新的旷世悲剧,而是每个中国人享有言论自由,同时上与下的关系不是“最高指示”和“紧跟照办”的关系,而是被监督和监督的关系,那么,这样的悲剧是可以避免的。十年浩劫造成的影响,如文化断裂,道缺失,以及专制主义的种种惯性,至今在一些领域还处于艰难消除的过程之中。

可见,一种言论荒谬与否,是进步还是反动,不是靠权威来定性的,它需要历史实践的检验。应该说,这三十年来,中国人的最伟大的精神成果是恢复了马克思主义的真理观——实践是检验真理的唯一标准。没有这个精神成果,一切其他成果都无从谈起。其中的关键词是两个:一是实践,排除任何权威;二是唯一,排除其他标准。于是,我们懂了马寅初的言论,懂了张志新的言论,懂了和他们的言论相反的言论是什么言论;更懂了如何依靠言论自由,去实现中国人民对真理的追求,去保护中华民族安全、健康的进步与发展;绕过我们曾经走过的路——点滴的进步也要付出巨大沉重的代价。

最后还要点明一事:恰是反对马寅初、张志新言论的言论,曾经享有了最大的言论自由;而按言论自由的原则,我们今天仍应给予这样的言论以言论自由。只有一种声音,真理是不能认识和发展的。一切言论在言论的层面上(而不是付诸行动和实施),都享有自由表述和发表的权利。我们应该认真贯彻我国宪法中关于言论自由的重要规定。 (本文来源:北京日报 )

出典:http://news.163.com/09/0113/11/4VHMLQTT00012Q9L.html


CCTVをボイコットし、洗脳を拒絶しよう(学者弁護士22名の声明)

2009-01-13 10:30:08 | Weblog

22位学者律师抵制央视拒洗脑

22位中国学者律师联名抵制央视拒洗脑

《抵制央视,拒绝洗脑》

1,鉴于:中央电视台( CCTV)在其节目中为三鹿鼓噪宣传,称其有1100道检测关;

2,鉴于:CCTV新闻节目对中国转型时期社会矛盾的事件报道采取的选择性失语策略,对许多突发性事件、群体事件不予以报道或者淡化处理;
3,鉴于:CCTV的新闻联播节目几十年来风格、理念陈旧老套,在国内报道上经常报喜不报忧;在国际报道上经常报忧不报喜,与其称之为”新闻联播”不如正名为”宣传联播”更恰当;
4,鉴于:CCTV在伊拉克战争期间,其新闻节目中让所谓的军事专家为萨达姆吹嘘鼓噪,号称要打” 人民战争 “,结果 “大漠穷秋公子毙,地洞衰颜独夫擒”——乌代、库赛双双被击毙,萨达姆逃亡躲藏被捉拿;
5,鉴于:CCTV在黄金时段播出过大量的辫子戏,这些辫子戏不仅以其宫廷权谋、皇权专制、太监奴才的表演毒化了中国走向自由民主的氛围,而且灌输、打造许多人的奴才人格;更是为专制木乃伊文化美容,撕开历史的伤口,再一次伤害了被征服民族的感情;
6,鉴于:CCTV的所谓讲坛节目上的专家信口雌黄,为文字狱屠夫康雍乾脸上贴金,扭曲历史真相,激起正直之士普遍的反感;

7,鉴于:CCTV对以上许多新闻失实或者有伤观众感情的”宣传节目”没有半分道歉的言论——

我们这群年轻的中国学人表示:我们将集体抵制 CCTV 的所谓”新闻节目”及其网络;我们将对CCTV的”新闻节目”和”宣传节目”及网络采取”不看、不上、不听、不说”的四不策略;我们,至少还要使用我们的抵制权。
去年,我们几位年轻的中国学人曾经发表过《新春节文化宣言》, 提出抵制电视上庸俗而充满宣传说教的春节晚会,那些晚会越来越有把中国人传统温情的大年除夕夜或春节打造成愚民节的味道;
今年,我们用宣言再次表示:对垄断公共电视资源而污染我们视听的 “新闻节目 “和”宣传节目”,我们有权保持我们的抵制。

俄国作家索尔仁尼琴追求自由与真相的勇气为后世树立了典范。
他在《莫要靠谎言过日子》中写道:”我们的办法是,决不自觉地支持谎言!一旦认识到谎言的界限在哪里(这界限在每个人眼里还是不同的),就象避开瘟疫一样避而远之!不为那”意识形态” 僵尸涂脂抹粉,不为那腐朽的破衣烂衫缝补漏洞,──那时我们将惊奇地发现,谎言必将一败涂地,徒唤奈何,而真相终将大白于天下。····听到发言者的谎言、荒诞无稽的空论或恬不知耻的宣传,立刻离开会场、讲堂、剧院和电影院; ····不订阅和不零买报道失实或隐瞒重大事实的报刊杂志。····假如我们连不参加撒谎的这点勇气都没有,我们真的一钱不值,无可救药了,那么,是我们,应该受到普希金的蔑视: 干吗赐给牲口以自由? 它们世世代代继承的遗产 , 就是带响铃的轭和鞭子 。”
长久以来,我们知道我们终将选择远离谎言的道路。
我们宣布抵制CCTV制作的低劣”新闻节目” 和”宣传节目”,抵制我们以上罗列但不局限于以上罗列的”新闻节目”和”宣传节目 “,就是拒绝那些给我们国度的苦难的人民强加的 “带响铃的轭和鞭子”。

2009年1月12日

发起人、执笔人:凌沧洲

联署人:凌沧洲(北京,作家,学者,资深媒体人)冉云飞(四川,作家,学者,编辑)赵国君(北京,法律学者)滕彪(北京,法学博士)昝爱宗(浙江,作家,记者)杨支柱(北京,学者,副教授)唐吉田(北京,律师)兰志学(北京,律师)刘巍(北京,律师)温克坚(浙江,学者)庄道鹤(浙江,学者,律师)张辉(北京,学者)田奇庄(河北,作家)吴冬(上海,律师)张凯(北京,律师)韩一村(北京,律师)江天勇(北京,律师)田路(北京,媒体人)黄梓峰(北京,报纸编辑)孔慧(北京,媒体人)郭旭举(北京,学者)金光鸿(北京,律师)

出典:http://aizong.org/?p=305


冉雲飛:危機の下での共同の贖い

2009-01-12 15:45:59 | Weblog

転載者注:冉雲飛は牛博が封鎖される前に、当局の圧力で牛博上のブログを抹消されていた。いよいよ中国国内での発表の場がなくなったので、やむなく香港の『開放』誌への発表となったと思われる。

危機下的共同救贖

◎ 冉雲飛 

● 中國目前危機四伏,社會各種衝突大有一觸即發之勢,零八憲章的推出使化解官民對立,實現社會和解,促進中國民主轉型,現在仍來得及,若當局錯過此最後的時機,中國有可能走上清未的動盪老路。


● 《零八憲章》參與人憲政學者張祖樺兩度被國安傳訊問話及抄家。

今天中國社會正面臨著許多深刻的危機,這些危機與各種矛盾,已是眾所周知的事。而這些危機和矛盾的表現形態雖然不同,但大多有一個共同的核心問題,就是公平的普遍喪失、正義沉淪不彰。正因為如此,使得普通民眾在獨裁政府、權貴資本面前,深感憋屈壓抑、失望而乃至絕望。而經濟危機的到來只不過是放大了這種早已存在,而被表面遮掩起來的驚恐不安而已,危機四伏的苦況並沒有自行消除。


群體事件越來越頻密
危機四伏的苦況,最為顯著的表現方式,就是群體事件的爆發越來越頻密。每次都有人被打被殺被抓,雖然可以暫時敉平下去,但留下的後遺症卻禍患無窮。更為要命的是,中國社會諸種苦況絕不是區域性,群體事件常是「按下葫蘆浮起了瓢」。對這樣一種近乎風雨飄搖的社會苦況,社會各界的有識之士,早已呼籲最高當軸實行民主自由的政治體制改革,各種方案在民間已有不少討論,但當局由於自身利益的慣性,不願意做出哪怕些微的善意努力。官方對付諸種社會矛盾,一直採取的「頭痛醫頭,腳痛醫腳」的治標不治本之方法,這辦法的核心是「一壓二拖三粉飾」,從來不曾想在根本上解決社會問題,以至許多看似已經解決的問題,死灰復燃,終至沉屙不起。


拿今年十一月份從重慶開始,後在海南、湖南、甘肅等地乃至即將在全國蔓延的出租汽車停運、罷工、上訪事件來說,就是一個頭痛醫痛的典型案例。早在二○○二年,《中國經濟時報》記者王克勤就通過《北京計程車業壟斷幕》一文,銳利而準確地指出了我國現行計程車行業管理體制存在的極其嚴重弊端,其情形是富了老闆,肥了官員,虧了國家,苦了司機,坑了百姓。但從交通部到各級政府,根本不把這樣的文章與計程車司機的零星維權當回事,非得等著積重難返,鬧出比較大的群體事件後,再來處置。而且處置的時候大多非常強硬,且口惠而實不至,使得官民衝突進一步加劇,無助於社會減壓。這只是中國一個行業的縮影,而類似的群體事件,遍佈利益交結城鄉各地,使得整個社會處於紛亂擾攘的狀態,諸種衝突大有一觸即發之勢。


零八憲章來得及時
正是在這種擾攘不安、經濟危機襲來的現實背景下,在紀念中國未完成之行憲歷史一百周年、世界人權宣言六十周年、西單民主牆三十周年、簽署人權公約十周年的日子裡,一群期望中國能和平穩健地走向民主自由之路的知識份子連署發佈了「零八憲章」。「零八憲章」沒有什麼特殊的理論貢獻,它建立在對世界各個民主國家憲法憲章的借鑒基礎上,但對於深陷極權災難的中國來說,卻有著相當不平凡的現實和歷史意義。因為中國幾千年來崇尚「槍桿子裡面出政權」的叢林法則,用血的代價達成改朝換代的思想特別嚴重,從而陷入了冤冤相報、以血換血的專制叢林而不能自拔。隨著資訊的發達、民主意識的高漲,人們普遍認為槍桿子奪政權的叢林法則不符合現代文明社會的法則,因此使得本身就是通過槍桿子獲得政權的中國官方,一方面不願意放棄固有的龐大利益,另一方面也因統治合法性的焦慮,而對民眾民主意識的高漲深感不安。官方幾十年來掠奪民眾利益成性,而如今亦沒有減緩之跡象,但民眾的維權意識一浪高過一浪,使官方的不義之財彰顯天下。在掠奪利益的強硬、在不義的焦慮與民眾力量的夾攻下,使得官方色內荏、首鼠兩端,自然對還利於民的改革措施之出籠,欲迎還拒,從而讓達成多贏的政治體制改革遲遲不能提上議事日程。清政府一九零八年的憲政改革並非沒有誠意,令人扼腕的是此時革命黨鬥爭紛起,民意已呈囂囂之態,沒有憲政改革者的時間與空間了。如此歷史殷鑒,還望中國執政者三思。再好的政策和改革,亦當在正確的時空裡進行,才能帶來可以預期的較好效果,否則,將會再次錯過改革時機而沉淪深淵。


非常低的經濟起點和粗放模式、後發優勢、廉價勞動力、農村土地使用上的變革等方面的競爭力,給中國不進行政治體制改革的同時,也帶來了三十年的經濟發展。儘管這發展犧牲很大,造成了許多貪官汙吏及貧富不均,的確也給底層民眾帶來了此前毛時代不曾有過的油水。但單靠經濟畸形發展,而不進行有效民主自由的政治體制改革來矯正經濟的發展,必然最終帶來非常不堪的後果,尤其在當今全球經濟危機的深層背景下,令人深感不安。經濟發展到無法維持一定的速度時,民眾的生活水準必然下降,不進行民主自由政治改革、不全方位保障民眾權利的威權政治之弊端,就顯得特別突出,必然會讓各方利益衝突更為激烈而頻密。我們的制度專制獨裁,官員非民選,加上幾十年統治中所犯下的諸種錯誤,疊加起來的民怨,而且官方一直用強硬態度對待民間的善意和解,許多民意管道,正在喪失它應有的溝通功能而成為擺設,因此給官民和解造成了空前的壓力。官方雙方包括各個利益團體,都應該要找到一個可以座下來談判的方式,進行和平的利益博弈。要讓大家儘量儘早消除恐懼感,比較靠譜的方式,就是雙方來共同制定改革方案與政策,「零八憲章」在這方面做出了十分了不起的框架性努力與嘗試。


一群老人的緊張無助迷茫
前不久旅英作家張樸先生回川,我帶他認識了一批八十多歲的地下黨員和老右派。這些老人定期聚會喝茶,談的都是國家的命運及未來的走向。他們內心的期盼、緊張、無助、迷茫,恐怕並不比我們這些比他們年輕很多的人少,儘管他們富有許多社會經驗。但中國社會的未來具有很大的不確定性,擁有人生閱歷並不一定具備化解內心不安的優勢。一個社會,已經讓生活在其間的人基本上喪失理性預期,這種可怕的懸空感,會給官方和民間帶來像空氣一樣蔓延的不安、緊張,甚至恐懼之感,尤其是在目前經濟危危機的大背景下愈顯突出。恐懼不安之下,人的理性容易喪失,一旦理性喪失人就更加恐懼不安,從而導致惡性循環,屆時社會要想平穩健康地發展,豈可得哉!我認為中國必然民主自由,共產黨也必然有退出舞臺的一天,因此我並不擔心他們不退出歷史舞臺。但怎樣以最小的代價使社會實現平穩著陸,化解更多的衝突,避免大規模流血傷害,才是我們有危機意識的知識份子深感憂慮的。准此,我希望官方本著和解、妥協、談判的善意,貫徹自己所簽署的人權公約,儘快釋放劉曉波先生,停止騷擾其他簽署者,與社會各界一起有效地推動政治體制改革,儘快擺脫經濟危機的影響,以促成全國人民共度時艱。


二○○八年十二月二十一日晚於成都

出典:http://www.open.com.hk/0901p21.html


格丘山:零九憲章--共産党に拒絶理由のない憲章(草案)

2009-01-10 10:47:39 | Weblog

格丘山:零九宪章----一部共产党没有理由拒绝的宪章(草案)

(博讯北京时间2008年12月30日 首发 )

举世瞩目的零八宪章被中国共产党否定了,宪章起草人刘晓波被捕。其实零八宪章是基于现代社会普遍接受的政治观念所写的一个温和的宪章修改提议,这个宪章受到中国共产党的否定,说明中国共产党仍旧停留在枪杆子出政权,打天下,坐天下的政治观念上。也同时说明中国共产党在暴力条件以外,决不会接受让中国共产党退出中国政治领导的任何提议。认识到在和平的条件下要中国共产党接受这个提议是不可能的,因此本人以当年周恩来解决与美国关于台湾问题僵局的政治智慧(:),提出一个在和平条件下,面对共产党已经形成一个庞大的政治经济既得利益集团的事实,可能为共产党接受的宪章修改提议。这个提议是一个幼儿园的现代宪章水平,是为了将就中国目前的现状和共产党的强大势力所作的宪章,在中国共产党已经没有困难执行本宪章时,我们可以再考虑将宪章修改提议提高到小学水平。估计等到中国共产党进入初中水平时,就基本达到刘晓波今天的零八宪章水平了。而美国今天的宪章对于中国是大学水平。当然我们中国官僚的子女很多到美国已经拿到了学术博士的学位,这些都是对于他们父母很光荣的事。但是要中国将来在宪章的民主上达到大学和博士水平,这不是一个学术问题,而是一个眼光,心胸,道和思想深度的问题,是需要一个时间的。

本宪章的主要精神是去掉宪章中那些不符合中国实际情况的也没有用的空话,面对中国实际情况以及共产党目前能够达到的最高水平所写的,它应该代表着中国目前的最高政治水平(:)。

1、共产党领导不能从宪法去掉:根据前述价值理念修改宪法,删除现行宪法中不符合主权在民权之上原则的条文,但是宪法仍必须成为共产党领导的保证书和官员权力的许可状,成为任何个人、团体和党派接受共产党领导的可以实施的最高法律,为中国民主化奠定法权基础。

2、共产党也要参加分权制衡:分权制衡的现代政府,立法、司法、行政, 共产党四权分立。其关系如下, 共产党监督政府;司法监督共产党, 立法监督司法。 

3、共产党同意立法民主:各级立法机构由直选产生,立法秉持公平正义原则,实行立法民主。这一点比较好做, 共产党的人民代表大会从解放后一直是直选的,现在的问题是将假选改成真选, 估计困难不大。

4、共产党同意司法独立:司法应超越党派、不受任何干预,实行司法独立,保障司法公正;设立宪法法院,建立违宪审查制度,维护宪法权威。这一条估计困难也不大, 因为共产党的司法机构都是现成的, 只是让共产党不要去管他们的事就成了。

5、共产党不能一下子放枪杆子:实现军队国家化,军人应效忠于宪法,效忠于国家,共产党目前尚不能从军队中退出,因为枪杆子是共产党权利的保证。但是维持社会治安的警察系统将归司法领导, 共产党可以不去管它。

6、人权不能完全保障:人权的平等不能一下达到,基于中国的现状, 共产党和官员高于人民权利是客观存在的,一下子全去掉是不可能的,但是宪法将对这些权利应做出具体详细规定, 权利比人民高多少,例如各级官员的二奶数字最多不能超过几位等等。设立对最高民意机关负责的人权委员会,对于超出宪法规定的违宪特权,应该受到法律制裁。另外政府以公权侵犯人权,侵犯公民的人身自由已经由来以久,所以不能要求一下子杜绝,所以政府在理由充分和符合宪法的情形下可以侵犯人权,公民如果不服, 司法机构应该接受上诉。

7、公职有限选举:全部选举不能一下达到, 民主选举制度只能在乡镇范围进行,落实一人一票的平等选举权也只能到乡镇范围。对于选举结果不满意的, 共产党有否决权, 但是这个否决权不能直接使用, 要提议到立法机构讨论, 由立法机构颁布。

8、城乡不平等宪法化:城乡不平等从一解放就开始了,无法一起去掉, 对于目前城乡尚有多少不平等的权利, 应在宪法中一一列出来, 每年去两条,争取在十年中全部消除。

9、结社不能完全自由:公民有有限的结社自由权,将现行的社团登记审批制改为备案制。但是要允许共产党派代表旁听。 有限开放党禁,民主政党可以在县团级以下担任职务, 当然共产党认可和豢养的民主党可以担任副部级和副市级的职务。

10、集会不能完全自由:和平集会、游行、示威和表达不可完全自由,中国共产党有否定和平集会、游行、示威申请的权利, 但是否决数目不应超过申请总数的50%。


11、言论不完全自由:开放部分空间言论自由、出版自由和学术自由,譬如在家庭范围,人数不超过十人的范围具有言论自由, 不能以言治罪,然后再慢慢将范围扩大。对于报纸, 电视等媒体实行有限言论自由, 可以有限批评国家, 政党和制度。公民只有有限的知情权和监督权。宪法应该详细列出公民可以知情和监督的范围, 共产党和政府可以封锁和假报信息的权利有多大。

12、宗教不完全自由:宗教信仰活动慢慢脱出政府干预。具体列出宗教信仰在多少方面目前受到政府干预,规定目前共产党还要干预多少事务。 并规定多少年后这些干预应该全部取消。

12、财产不平等保护:共产党和官员的贪污特权应该受到有限保护。 根据官员级别大小,规定各级官员每年财富收入的最大数字和非法所得最大数字, 超过这个数字的不受保护, 不享受免追究罪, 要受到司法机构审查。

13、社会不平等保障:共产党和官员的社会特权应该受到有限保护。根据级别大小, 建立国民不平等的社会保障体制,使国民在教育、医疗、养老和就业等方面得到最基本的保障。宪法规定社会最高福利与最低福利的临界比值。

14、先转型毛泽东正义:为毛泽东历次政治运动中遭受政治迫害的人士及其家属,恢复名誉,给予国家赔偿;释放所有毛泽东的政治犯和良心犯,释放毛泽东信仰而获罪的人员;成立真相调查委员会,查清历史事件的真相,厘清责任,伸张正义;在此基础上慢慢扩大到邓小平正义, 江泽民正义, 胡锦涛正义。

四、结语

中国作为一个共产党大国,现在勇敢地实事求是地踩出了政治改革的第一步。旧宪法的问题并不是错误, 而是空话太多, 不解决实际问题,很多地方是挂羊头卖狗肉, 08宪章的问题不但是共产党不会同意, 就是共产党同意了,也是与中国现在情况脱离太远,无法实现。新09宪章勇敢地面对中国实际情况, 发扬说真话的精神, 充分照顾共产党的既得利益, 是一部具有现实意义的宪章。

共产党能不能接受这个宪章还有一个阻碍, 就是脸面问题。 共产党自取得政权后, 习惯于说一套, 做一套, 明明享受特权, 偏要写自己大公无私。现在将这些不平等堂而皇之写入宪章, 心里是高兴的, 但是脸上有些挂不住。 所以大家不应该嘲笑他, 要为他的实事求是精神唱颂歌, 例如,历史上有哪个民主政府敢于将事实上存在的不平等和特权写到宪章中去了, 只有我们中国共产党领导下的中国才能实现。


现在就看共产党的了,如果共产党连这个宪章也不同意, 除非有人比我还智慧, 创造出一个比幼儿园还低的民主班, 否则只能退回娘肚子里去重生了。(:)

出典:http://www.peacehall.com/news/gb/pubvp/2008/12/200812301822.shtml


王力雄:骨抜き――チベットと中国の歴史的関係(7)

2009-01-09 21:48:43 | 中国異論派選訳
王力雄:骨抜き――チベットと中国の歴史的関係(7)

北京側の歴史家は「二十九条章程」をチベットの行政人事権、宗教監督権、軍権、司法権、外交権、財税権がすべて駐チベット大臣の手に握られていたとみなし、また「駐チベット大臣の権限は、各省の総督や巡撫を上回っていた」という説まである(注1)。しかし、当時乾隆は「チベットの諸事務について、ダライラマやガロンらの勝手な行動を許し、大臣たちは管理できないばかりか、関与することもなく、駐チベット大臣は名ばかりだ」(注2)と気づいたので、この状況を改めるために、「二十九条章程」を作り、これにより駐チベット大臣に実権を掌握させようとした。しかし彼は、100年余り後の張蔭棠がなお駐チベット大臣がダライラマに「熬茶大臣」と風刺されることに心を痛めるとは思いもしなかっただろう(原注:熬茶とはチベット仏教の一種の布施の呼称。駐チベット大臣の職責の一つは宗教祭典の時に清国皇帝を代表してチベットの僧俗に布施を施すことである。ダライラマの発言の意味は駐チベット大臣はほかにすることがないということ。)(注3)。そして、最後の駐チベット大臣聯豫もやはり「ダライラマは夜郎自大で、すべての事務の決定権を自分で握ろうとする」と嘆いている(注4)。

こうして見ると、この「二十九条章程」によって中国のチベットに対する支配の程度に実質的な変化が起きたとは思えない。

中国側はこれについて一般に責任を駐チベット大臣に帰している。張蔭棠は駐チベット大臣を攻撃して「すべての政治権力をわいろを得るために自分から放棄している」(注5)と言っているし、中共のチベット学者は「凡庸無能、自ら指揮を執ることを知らず、すべてをダライラマとガロンに任せ、実際に実権を掌握しなかった」(注6)と言っている。彼らは、「二十九条章程」によって中国はチベットに対する主権行使の制度を得たが、問題は駐チベット大臣がそれをうまく執行しなかったことだけだと考えている。あたかも駐チベット大臣が職責を忠実に実行すれば、中国のチベットに対する主権は十分に行われたはずであり、チベットに対する権力の緩みや形式化は、駐チベット大臣が職務に不熱心だったり、凡庸無能だったり、あるいは成行きに任せていたからのようだ。

はたして、駐チベット大臣が全て「卓越した者」だったら、状況は変えられただろうか?

駐チベット大臣の能力の大きさや職務への忠実度は、中国のチベット支配力に一定の影響を与えたことは確かだ。しかし、すべての問題をそれに帰すとすれば、事実を隠ぺいすることになる。

分かり切ったことだが、世の権力者は誰も傀儡になりたがりはしないし、どこの民族のリーダーも異民族の統治を受け入れたいと願いはしない。もし大軍が国境に迫っているのであれば、やむを得ずそうするだろう。もし異民族の軍隊がすでに退去したのであれば、必ずや地元の統治者はいろいろ手を尽くして服従を名ばかりの見せかけに変え、できるだけ多くの独立と主権を得ようとするだろう。

理論的には、チベット人がもし反乱すれば、清国朝廷はいつでも大軍をチベットに派遣できる。しかし公然たる造反でなければ、清国朝廷は大軍を千山万水を越えてチベットに派遣しようとは決意しない。チベット人はこのことをわかっていたから、北京と公然と対立することを避けた。であれば、彼らが対処しなければならないのは駐チベット大臣とその一握りの手下にすぎない。

185年の長きにわたって派遣された135人の駐チベット大臣には、色々な人がいたに違いない。彼らを「卓越」、「凡庸」、「愚昧」に分類したことも根拠がなかったわけではない。しかし、歴史を総合的にみると、駐チベット大臣のチベットにおける基本的な状態を決定したのは、彼らの個性の違いではなく、むしろ彼らの共通の特徴の方である。

彼らの共通の特徴とは何か。

第一に、彼らの随員の人数は非常に少なかった。ふつうは、駐チベット大臣役所で仕事をしていた文官は多い時で数十人、少ない時は十数人だった。その中には、官吏のほかに、書記、通訳、会計係など補助的職員も含まれる。さらには普段数百人の清軍がいたとはいえ、駐留軍の職責は純軍事的なもので、駐チベット大臣役所の日常業務は、2名の駐チベット大臣と数少ない文官によって処理された。

第二に、駐チベット大臣とその部下がチベットにいる時間は短く、一般に3年である。このことから全体的に気持ちは外に向き、心チベットになく、根もチベットに張っていなかった。

第三に、駐チベット大臣とその部下はラサに集中して居住しており、チベットの上層社会とのみ交際し、チベットの末端政治権力と社会の状況は知る由もなかったし、末端までの支配など問題にもならない。

この3つの共通点が、駐チベット大臣がチベットで実質的な権力を掌握できないことを決定づけた。彼らが「卓越」か「凡庸」か「愚昧」かも影響したとはいえ、それは決定的なものではない。チベット人が駐チベット大臣に服従を望んだかどうかを言う前に、3つの共通点の存在が駐チベット大臣の実質的権力掌握能力を失わせている。

史料には駐チベット大臣の日常業務と具体的な活動がほとんど記載されていない。しかし、チベットは百万平方キロ以上の土地と百万人以上の人口がいるのだから、千名以上の官吏によって構成される権力体系(すなわち政権)がなければ、管理できないことは容易に想像できる。駐チベット大臣の部下が少ないことだけでも、それがチベットに対して直接権力を行使できないことを決定づけている。

事実はまさにそのとおりだった。1959年に中共が完全に掌握するまでは、チベットは地元の権力システムによって統治されていた。清代の駐チベット大臣のマンパワーはチベット上層統治者と一対一の交渉をするのには十分だった。しかし、チベットの統治者を駐チベット大臣に服従させ、完全に彼の指示で権力システムを指揮させてはじめて駐チベット大臣がチベットの権力を掌握したといえる。そのような時期がなかったとは言わない。たとえば清朝の大軍がチベットに駐留した時期は、チベットの統治者はたぶんやむをえず駐チベット大臣を敬い、その言うがままに動いただろう。しかし、ほとんどの期間、チベットの統治者は大清帝国からの武力による退位の脅威には直面しておらず、現地の一切の権力と物的資源を掌握する統治者になることを望んでいたのだから、手勢の少ない異民族の言いなりになるわけがなかった。

「二十九条章程」には「ガロン以下の首脳と事務員および活仏は、いずれも隷属関係にあり、事の大小を問わず駐チベット大臣に服従しなければならない」(第十条)と定められていたが、官界の行動を少し知っていれば、これが空念仏であることはすぐにわかる。チベット政権の各級官吏にとって、駐チベット大臣は異民族であり、文化の壁、言葉の壁があり、また顔なじみでもないのに、彼らは忠誠と服従をささげるわけがない。また現地の統治者を怒らせないというのが、基本的な官界の常識である。民族感情や宗教、文化などほかの要素は言うに及ばない。ゆえに、駐チベット大臣は地元の統治者を迂回して直接チベットの政治を指揮することはできなかった。

しかし、「二十九条章程」は駐チベット大臣にチベットの文官武官の任命権を与えた。彼らはそれによってチベットの政権システムを支配することもできるではないか?

チベット軍の武官の任命を例に取ろう。当時のチベット軍には連隊にあたる編成が6つあった。司令官をダイボン(連隊長)といい、その下に12のルーボン(大隊長)、24のジャボン(中隊長)、124のデンボン(小隊長)、その下にはさらにジュボン(分隊長)がいた。「二十九条章程」によると、これらの軍人はすべて駐チベット大臣とダライラマが共同で選抜し任命することになっていた。問題は、駐チベット大臣がどこからこの数百名もの武官を探してくるかということだ。彼らは現地の事情に疎く、普段はラサに住んでいて、各地に分散するチベット軍とはほとんど交流がないので、ダイボンの下の武官にはさらに疎い。駐チベット大臣に人事部門でもあって、彼の代わりに人選に回るのでなければ不可能だが、わずかの部下しかいないのでそれは全くできない。その結果、ダライラマ側だけが名簿を提出できることになる。駐チベット大臣は名簿を見て読むこともままならないチベット文字の名前を見せられたとしたら、同意する以外何ができるだろうか?

この道理はほかの官吏の任命にも類推することができる。当時チベット政府はラサだけで50余りの機関があった(注7)。ラサの他にもたくさんのツォン(県)、シー(区)という末端組織があった。駐チベット大臣はやはり任命名簿を作れないので、彼の任命権は同様に虚名となる。「ガロン、ダイボンなどが欠けると、駐チベット弁事大臣が補充の上奏をしたが、実際はダライラマが補充を決定し、駐チベット大臣がそれを受けて上奏文を書いた。その他ラハルコン(財政部門)の財務長官〔原文商上孜本、チベット語rtsis dpon、ツィープン〕、財務官〔原文商卓特巴、チベット語rtsis pa、ツィーバ〕および大小の営官(地方官)はガロンらが人を選び、それをダライラマが決定し、駐チベット大臣は口をはさまなかった。」(注8)。

理論的には、駐チベット大臣は少なくとも普段交流のあるチベットの高級官吏、ガロンやダイボンについては知っているはずだ。彼はこの階層の任命については自分で名簿を提出することができるはずだ。しかし、以前述べたランバの「死」が、駐チベット大臣にはなすすべがなかったことをすでに示している。

たしかに、ランバがもしガロンになりたかったら、「死人」として余生を送るのではなく、駐チベット大臣に頼ることもできたはずだ。しかし、3年に1回換わる駐チベット大臣は根なし草のように行ったり来たりだが、ダライラマの威厳は一生チベット人を包み続ける。この比較にならない二つの後ろ盾の間で、「チベット民族の裏切り者」になる選択は明らかにばかげている。駐チベット大臣は「番官(チベット人官吏)はダライの言うことしか聞かない」(注9)と嘆くほかなく、チベット人の中に自分の陣地を築くことは全く不可能だった。

上述の、部下が少なく、チベット在任期間が短く、末端と絶縁されているという特徴は、駐チベット大臣の情報の貧困を招いた。人が少なければ見聞も少なく、加えて言葉が通じないので、それにもベールがかかる(聯豫は上奏文の中で「漢人でチベット語が分かる者は、私の役所に一、二人しかいませんし、チベット人の中で漢字を解する者は見たことがありません」と言っている)。もし長期間チベットに根を張り、言葉を身につけ、地元との関係を深めれば、ある程度は補うことができるだろう。しかし、3年に1回交替していたら、状況が分かり始めたところで新人に換わってしまう。このような状態では、人の言いなりになるほかに、なすすべがない。また、駐チベット大臣が自分が騙されたことに気がついたとしても、水かけ論とあの手この手でせがまれたら、手も足も出ない。聯豫は嘆いていう「……往々にして命令に対しては、数カ月遅れたり、復命しなかったり、あるいはダライが帰っていないという口実をつけたり、会議が終わっていないと言い訳をしたりで、懸命に督促しているが、取り合わず……」(注10)。表面的には、チベット官吏は駐チベット大臣に対し丁重で従順であるが、いわゆる「表向きの誠実さ」であり、実際の行動はむしろ「陰で反抗」して、中国人の意思ではなく、完全に自分たちの意思でチベットを統治していた。

これはちょうど乗客と運転手の意見が食い違った時に、運転手は公然と乗客と対抗する必要はなく、車が故障したとか、給油しなければならないとか、前方では左折できないなどいくらでも理由をあげれば、たとえ乗客が彼の直属の上司であっても、乗客を彼に服従させることができることと同じだ。運転手がそうできるのは、彼が乗客よりも情報で優位に立っているからだ。駐チベット大臣はまさに乗客の地位にあった。乗客は運転手が嘘をついていると疑うことはできるが、乗客が自動車の専門家でない限り、運転手を言い負かすことはできない。駐チベット大臣の境遇で、どうしてチベット政治権力という車の専門家になりえようか?

1904年イギリス軍がチベットに侵入した。きっかけは交渉の要求だった。当時のイギリス政府はヤングハズバンド大佐(Francis Younghusband)のチベットへの軍事行動を支持しなかった。だから、ヤングハズバンドはチベット領内に軍を一歩進めるたびに、駐チベット大臣に交渉に来るよう求めた。もし、早めに積極的な外交を行っていたら、その後の悪い結果は免れたかもしれない。しかし当時の駐チベット大臣裕鋼とその後任の有泰は、いずれもチベット当局が「ウラ(労役)」を提供しないという理由で交渉に行かなかったので、対立がエスカレートし、イギリス軍はついにラサに侵攻した。有泰がラサでヤングハズバンドに会った時でさえ、チベット人が「ウラ」を提供しなかったから早く会えなかったと言って弁解していた。ヤングハズバンドはこれを聞いてほくそ笑み、この弁解を中国がチベットに主権のないことの証拠とみなした(注11)。

いわゆる「ウラ」とは、チベットの労役システムである。主に交通運輸面での労役を指し、労役の義務を負う民衆は政府の命令で役人がチベット国内を移動するのに人力と畜力、食事と宿泊を提供しなければならない。堂々たる清国政府の駐チベット大臣が、国境で戦争が起こっている大事な時に、移動のための些細な馬さえ用意できなくて、チベットに主権を有するなどといえようか?

のちの中国の歴史家は例外なく有泰のこの理由を口実とみなし、それを「凡庸で無能、国を辱めること甚だしい」と非難している。全体的に見れば、この非難は当たっているかもしれない。しかし、別の視点からみると、有泰がなぜよりによってこのような口実を持ち出したのか、あながち根拠がないわけではない。少なくとも平時においては、駐チベット大臣はウラを使用するときにしばしば難癖をつけられていたから、言い逃れの理由にすることができたのだ。

私はチベット人が当時そのような手段で駐チベット大臣に対応していたであろうと信じる。たしかに「二十九条章程」はウラ徴用の権力を駐チベット大臣に与えて「駐チベット大臣とダライラマは印鑑を押した手形を発給し、道中手形によりウラを徴用できる」と定めている(第二十四条)。しかし、いくらたくさん手形を発行しても、馬が痩せすぎていて荷物を運べないとか、大雪で峠がふさがれて進めないとか、ウラのある区間担当をそそのかして、道の途中で飢え凍えさせたりしたら、馬も操れないし、道も知らない駐チベット大臣はなすすべがないではないか? このような手段で、チベット人は公然と対抗しなくても、駐チベット大臣の行動を完全に制限することができた。もしチベットでの移動でさえ統制されたとしたら、かわいそうな駐チベット大臣にチベット統治などできようか?

私は「インターフェース」という言葉で清代の駐チベット大臣制度を形容する。当時のチベットは一体として完全な自治を保持していた。駐チベット大臣はただ北京からチベットに延びた「インターフェース」でしかなかった。それはチベットの現地統治者(ダライラマとガシャ政府)と一対一の連絡を取った。清朝のチベットに対するすべてのコントロールは、必ずこの「インターフェース」を通じたコンバートによってはじめて実現した。チベット側の「インターフェース」が清国政府の指令を受け入れて従うことで、中国のチベットに対するコントロールが初めて実現した。

清代中国がチベットに主権を有していたかどうかの問題は、ここでより具体的な判断ができる。もしチベットの「インターフェース」が北京の「インターフェース」の指令に完全に従うならば、中国はチベットに主権を有する。もしチベットが北京の「インターフェース」を骨抜きにし、外交、国防という大問題についてのみ服従するかもしくは反抗しないのであれば、それは宗主権であろう。もしチベットの「インターフェース」が全く従わず、はては「インターフェース」を切断したとしたら、中国にはどんな権限もなくなってしまう。

原文:http://www.observechina.net/info/artshow.asp?ID=49003
(脚注は原文を参照されたい)

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羅永浩:老羅自述--「牛博」封鎖に臨んで

2009-01-09 18:15:08 | Weblog

連岳や冉雲飛、梁文道らがブログを開設していた牛博(bullog)が当局に封鎖された(本日午後)。中国国内では昨年末から共産党の言論統制が急速に強まっている。

オリンピック前に統制が強まって、大勢の人が逮捕されたり、殺されたり(于宙たち)していたとき、「オリンピックが終わるまでの我慢」と言っていた「愛国」青年たちは、こんどは何と言って当局を弁護するのだろうか?

下記は牛博管理人羅永浩のクジケナイ宣言。

老罗自述 (2009-01-09 13:53:39)   

 
   我出生的时候,文革还没有结束。毛泽东病死的时候,我四岁,看到大人们都在哭,我吓坏了。我现在才36岁,觉得自己还很年轻,但是我发现身边的很多年轻人都已经不知道什么是文革了,毛泽东干过什么他们也不知道,不过我相信他们终究会知道,除非我们什么都不做。

  我是一个朝鲜族,我长大的时候,没有感觉到民族仇恨,但还是感觉到了某种程度的民族隔阂,现在我已经36岁了,回到家乡的时候感觉这种情况依然存在,在中国的某些少数民族聚集区,这种情况好像更严重,不过我相信我们终究会和谐共处,除非我们什么都不做,或是冲到家乐福对着另一群在那里打工的中国人大声怒吼说我们很爱中国。

  我高中决定退学的时候,父母没有给我太大的压力,你可以认为这是我的运气,但我认为这和我长期努力改造他们的思想不无关系,改造父辈的顽固僵化思想确实很难,但是我相信总会找到一些办法来解决问题,除非我们什么都不做。

  我后来做了教师,经常有已经上了大学并且对大学教育非常不满的学生来问我是否建议他退学,我说,我不建议你退学,也不建议你不退学,我建议你想清楚这样做的后果然后自己做决定,如果你对这样做的可能后果不是很清楚,我可以根据我自己的经历给你讲讲,通常这些学生都会对我没有给他们一个明确的“指示”感到失望。后来我发现很多“教育家”、“教育工作者”、“知识分子”专门靠为年轻人“设计人生”来赚钱,生意好得不得了!可我还是相信教会学生自己做判断和思考比帮他设计出一个“成功的人生”更重要,即便他们真的被“设计”得很快乐。

  我开始给人打工的时候发现,大部分的中国企业里,劳方的权益是得不到保障的。我对此表示批评和愤慨的时候,我的同事们,跟我一样是受害者的同事们,常常劝我说,“别再生气了,哪里都一样,哪里都是一样的啊,做老板多不容易啊,做老板就像爱一个人一样———好难,什么意思?你没听过那首歌?‘爱一个人好难’?不管了,反正咱们要拼了老命理解老板的苦衷啊……”呵呵,我相信总会有些地方不一样,如果真的全都一样,我们也应该做点什么,让它变得不一样,即便这么做会有些风险,比如丢掉饭碗。

  我和小黄斌(牛博网CTO)开始做牛博网的时候,很多做过网站的朋友指点说,为了吸引读者,你要放这样这样的内容,为了宣传推广,你要采用这样这样的手段,为了拉广告客户,你要耍这样这样的花招,我想了想,好像我们的选择只能是,要么不听从这些劝告,继续叫它牛博网,要么听从这些劝告,然后给它改名叫不牛博网,后来我们决定还是叫它牛博网,因为牛博网显然更好听。开张十九个月之后,我们的日PV(页面点击)做到了100万,你可以认为我们发展得还是很慢,但是在同样做到了这个数字的网站老板里,我们笑得最开心。

  我和大黄斌(老罗教育科技有限公司CEO)决定开英语培训学校自己做老板的时候,有人说,你要是不改变你的那套天真的想法,是无论如何都赚不到钱的,也许他们是对的。但我还是不相信提供同行业最高的薪酬和福利,聘请最优秀的教师,埋头打市场做宣传,老老实实地为学生做好课程培训和配套服务并且只收取一个合理的费用会赚不到钱。如果将来真的赚不到钱,那也一定是因为我们自己做得不够好,而不是因为做得不够邪恶,我相信这个世界上有“不作恶”还能赚到钱的企业,虽然可能会难一些。

  由于我擅长摆生活态度健康积极的造型,所以我的很多学生都以为我没有情绪消沉的时候。实际的情况是,当我面对普遍存在着的丑恶现实的时候,常常会短暂地感到厌倦,感到人生虚无,但和那些因此“看透了人生”后变得犬儒的笨蛋的区别是,我会因此加倍努力地去尝试改变现实。因为我知道,正是每一个放弃了理想的人,使得别人的人生变得更加丑恶、艰难、令人厌倦甚至是虚无的了。

出典:http://blog.sina.com.cn/s/blog_4089bfe80100bxmg.html

老罗加油!

参照(牛博の歴史)
http://zh.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%89%9B%E5%8D%9A%E7%BD%91&variant=zh-cn