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何清漣:中国における統治の暴力化(4)

2007-01-18 11:50:25 | 中国異論派選訳
四、地方政府はなぜヤクザを使いたがるのか?

 近年中国大陸の各地で頻繁に地方政府がヤクザを使って権利擁護運動の活動家に暴行を加える事件が頻発している。活動家が「身分不詳の暴徒」の襲撃を受けても、警察は故意に傍観し、被害者が救いを求めても取り合わない。政府がヤクザ組織を雇って権利擁護活動家を弾圧するのは、すでに一般的な手段になっているということができる。各地の地方政府は全力でこうした事件の情報を遮断しているが、それでも多くの事件が漏れ聞こえている。

 最近の典型事例は、湖北省秭帰県で発生した。そこは三峡ダム湖区域で、多くの水没地からの移民がいる。その一人付先財は、90年代から陳情を重ね、中央政府に三峡ダムのために転居させられた100数十万人の移民が政府の約束した補償金を受け取っていないことを訴えてきた。2006年春に彼は「第一ドイツテレビ」北京特派員の取材を受けた。5月19日、ドイツのこのテレビ局が付先財のインタビュー場面を放送すると、秭帰県公安局は付先財をドイツメディアの取材を受けたことを理由として、公安局に召喚した。召喚が終わってから、彼が公安局から帰る路上で、一群の「身分不詳の暴徒」が付先財を襲撃し、彼は頚椎骨折した。付は病院に送られたあとも、治療を受けられず、現地政府は情報を遮断しようとし続け、警官を派遣して24時間体制で病院と病室を監視し続けた[57]。

 似たような事件は、福建省福州市倉山鎮でも発生した。2005年8月1日、この鎮の万里村の村民は倉山区政府が権力を利用して無償で村民が興した工場を接収しようとしたのに反対したために弾圧された。現地政府の役人が警官のほかにヤクザを10人あまり引連れて襲撃した。この弾圧事件で、万里村の村民15名が負傷した[58]。

 ここまで読んで、読者はあるいは次のような疑問を持つかもしれない。中国政府の弾圧の力は強大ではないのか? 弾圧手段もいろいろあるではないか? なぜ中国の地方政府は不法なヤクザ組織を使わなければならないのだ?

 実は、こうした弾圧手段のヤクザ化は、中国政府が「国際的イメージ」を守るために採用した新しい対策なのだ。「身分不詳の暴徒」を使って人権活動家を弾圧することは中国政府にとって少なくとも2つの「利点」がある。

 第一、中国当局はこれら「身分不詳の暴徒」を捜査することを約束するほかにいかなる責任を負う必要もない。世論が暴徒が政府の指示を受けているのではないかと疑ったとしても、証拠はどこにあるのか? 国際社会は世論が騒ぎ立てたとしても、中国政府に「身分不詳の暴徒」の責任までは負わせられないだろう? しかも、捜査の約束も国際社会が注目する事件、例えば付先財の事件に限られる。もしも、国内の注目しか集めていない事件だとすれば、政府はそのような約束さえ免れる。例えば郭飛雄が太石村で何度殴られても、政府は「犯人捜査」の約束をしたことがあろうか?

 第二、ヤクザ組織の力を借りることは、人権活動家に強力な心理的圧力をかけることができる。人権活動家にとっては、彼らの戦いを支える主な動機は政治的使命感である。政府からの直接的な圧力は、彼らは弾圧者が誰かがわかる。また、政府はその自尊心から、必ず最低限度があるし、そうでなければ完全にサダムの仲間に堕落する。しかしヤクザの行動はなんら最低限度を考慮しない。被害者の恐怖感を増す手段であれば、どんな手段であれなんの憚りもなくそれを選ぶ。人権活動家の中でも勇敢な人は自らの危険を省みることはないだろう。しかし、家族が危険にさらされるとしたら、勇者であっても躊躇するであろう。

 自らを「大国の風格」があり、益々文明化していると標榜する中国政府にとって、いまはまだ国際社会から「圧制国家」に列せられたくはない。政府の棒旅を「身分不詳の暴徒」の指摘暴力に代えるだけで、中国政府は今回付先財事件を処理したのと同様に、外交部報道官に聞こえのよい役所言葉で、国際世論の多くの批判を遮ることができる。そして付先財本人の治療、犯人の処罰などは、全く実行する必要はない。国際社会の人権組織にいくら能力があっても、道義の基準によって別の国の「身分不詳の暴徒」を大挙して征伐するほど愚かではない。経済制裁によってヤクザ組織に対抗するなどということは、なおのこと聞いたことがない。

 筆者が2004年に発表した「権威主義的統治の下での中国の現状と展望」という文章の中で、中国にはすでに「公共権力の私物化、政治的暴力の合法化、政府行為のヤクザ化」という傾向が現れていると指摘した[59]。このような情況の下で、国際的に通用する人権、民主、自由という価値理念によって、益々喜んでヤクザ的手段で社会を管理する中国当局を規律することは、木に登って魚を探す(孟子)ことと同じである。

[番号]に示された出典については原文参照。
原載:
http://www.chinayj.net/
StubArticle.asp?issue=060302&total=94