思いつくまま

みどりごを殺す「正義」はありや?
パレスチナ占領に反対します--住民を犠牲にして強盗の安全を守る道理がどこにあろう

冉雲飛の削除された二つの文章(2)

2008-09-29 22:27:07 | Weblog

毒奶事件中的官员表演

文/冉云飞(9月27日)

在毒奶事件中,各级政府的官员,都是中戏、北影毕业的,他们的表演虽然拙劣、无耻但却装得像真的。他们除了装得像真的,继续他们擅长的忽悠本领外,根本不能也不想解决任何实质性的问题。这个社会的问题已到了病入膏肓的地步,非动手术不可,这是众所周知的常识。可是他们依旧在那里莺歌燕舞,形势一派大好,把任何他们所造成的灾难,化为令人感动的表演,是他们六十年宣传工作的强项。从而让喝了他们熬制几十年孟婆汤的民众,再一次感谢他们的忽悠,如此恶性循环几十年,几乎没有多少实质性的进步。下面是我看到的官员们的七种表演,欢迎大家补充。

一:高屋建瓴:胡锦涛发表“重要讲话”。各级干部对于民众生命麻木不仁,但就这两句“重要讲话”就能解决问题?你有仁了吗?你不麻木吗?如果你既不麻木又有仁,为什么看到许多生命的消失,每年频发如此多的灾难,死伤无数,都是因为千疮百孔的政治制度所导致,为什么不进行有效的政改?为什么让民众的耐心在逐日减少而没有实质性的举动?

二:大义凛然:温家宝一定要惩处不良企业,不良企业是从天而降的吗?不良的官员,不良的企度呢?难不成不良官员和不良制度,正是你们所依重且不必改变的?到国外接受媒体采访时,说新闻的公开是处理毒奶事件的重要环节,但在国内却早已让中宣部给媒体下达了封口令。虽然不是你温家宝一个人说了算,但这里面难不成没有你的意志吗?

三:嫁祸于人:去年美国的宠物食品中发了三聚氰氨,李长江不是真去思考三聚氰氨中到底为何进了宠物食品中,不去思考别人为何批评,而是用他一惯“人民日报似的”脑子,说这是反华势力的中伤。今天大规模的三聚氰氨事件,是哪股势力造成的呢?

四:金蝉脱壳:河北省委副书记杨崇勇说石家庄有瞒报,于是甩两个小虾米出来保河北省委和中央更高层的领导,这种把民众的怒火向下转移,只反贪官不反皇帝的想法,也把现在的民众想得太天真了点。以此金蝉脱壳,让高官逃脱责任,下官替他背了锅后,将来他们会以别的方式进行补尝。这就像李长江、孟学农的所谓辞职一样,只不过是度一个所有待遇不变的长假而已。

五:鹦鹉学舌:鹦鹉学几句“你大爷”,“向领导同导致敬”、“三鹿奶粉,你喝了没有”,你就以为他能说人话吗?看来它还应该向石家庄市副市长张殿奎学习表演一下“让领导同志先喝”。你张殿奎喝的可能是事先搞好的“特供”,你能保证所有的民众都吃上“特供”吗?玩这种花活儿,政府和官员们真是太高看自己的公信力了。

六:瞒天过海。集权政府的等级制度由来已久,皇权意识根深蒂固,并非始此今日才有特供,几十年来他们用纳税人的钱吃进的许多“特贡”不知凡几。他们吃得心甘理得,吃得脑满肠肥。现在食物安全问题因监管不力的问题,使他们寝室难安,因此大力抓特供基地,只要能保证领导的安全就行,至于民众的安全,哪是他们所计较的呢?中央国家机关特供中心某领导(是他不让知道还是记者不报,为什么不公布名字)出来说不存在特供,没有祝咏兰这个人,真是此地无银三百俩,隔壁王二不曾偷。

七:如丧考妣。内蒙古自治区政府在没有惩处蒙牛、伊利等企业为何出现大规模的质量的时候,在结石婴儿没有得到真正救治的时候,在不准新闻媒体报道的时候,在不准法律介入的时候,他们却开始用纳税人的钱一亿元来救蒙牛、伊利这样的企业。这种如丧考妣式的不分责任的救助,正好表明中国官商勾结的深度。奶产品市场是个经济问题,如果救失败了,这一亿元的损失由谁负责?企业所负的责任都还没有分清就开始救,那将来所有企业出现问题都来找政府,你该不该管,你不管,那公平何在?政府如此“救企”只是官员政绩官帽,以及其间的寻租(当然也有部分就业问题)的思想在起作用。有如此糟糕的政府就会如此不良的企业,这是彼此催生的。

2008年9月27日8:35分于成都

 


冉雲飛の削除された二つの文章(1)

2008-09-29 22:26:04 | Weblog

メラミン混入毒ミルク事件の隠ぺいと責任転嫁を図る政府を批判した9月26日と27日の文章は冉雲飛のブログからは抹消され、支持者の転載が残るのみである。 

祸起政府自身免检

文/冉去飞(9月26日)

我们对民主自由的制度可以有多种解释,但我认为民主自由的制度是人类制度逐渐“自然”演化的结果,人类看到这样的“演化”更有利于人类自身的发展,于是向大自然学习,搞仿生学意义上的制度设计,使得人群当中任何人都应该相当之制约,而不应享受豁免权。民主自由的制度是人类向大自然学习的重要成果,以我浅陋的科学知识而言,生物物种多样化,是大自然的天理,而且没有任何物种有免受制约的权力。即没有任何一种动物可以独霸天下,而不受任何之制约,即任何一种物种都会成为大自然的免检产品,它们各自制约,互相利用,互为依靠,互相制约。人类正是在这样向自然的学习与模仿过程中,知道我们要保证人的利益需求与价值的多元化,要保证言论自由的存在,必须建立任何人——不管其多么有权还是多么有钱——都不应享有理应受到相应制约的豁免权,不应该自外于制度制约束。如果出现这样的事实,那么这个社会一定是个灾难的社会。

很不幸的是,中国几千年来就是这样一个灾难的社会。我们虽然在文化上虽然有幸留下一些东西,但我们在人性的制度设计方面给人类所做的贡献,可谓微乎其微。布什总统在捷克一个注定要留芳千古的演讲中说到:“人类千万年的历史,最为珍贵的不是令人目的科技,不是浩瀚的大师们的经典著作,不是政客们天花乱坠的演讲,而是实现了对统治者的驯服,实现了把他们关在笼子里的梦想。因为只有驯服了他们,把他们关起来,才不会害人。”庞大的政府权力一旦没有制约,就会像猛虎一样伤人,这应该是我们自今而后的长时间必须普及的一个常识。既然政府是一头必须驯服的猛兽,那么把他们关进笼子,让他们的权力受到制约,他们才可能替我们服务。否则一个权力几乎不受制约的庞大政府,就像数千头上万头猛虎冲出栅栏后,它在没吃掉你之前,抓紧机会做心理攻势,大灌其迷魂汤,说它在“为人民服务”,并且你被这“为人民服务”的口号所愚弄,因为这口与听上去多么高尚,多么无私,多么顺耳!但猛虎就是猛虎,猛虎要吃人,这是它的天性;权力就是权力,权力要扩扩张要腐败,要侵夺他人利益,这是权力不受约束时的“自然”表现。不要相信老虎的自我标榜,更不要相信政府的自我宣传。老虎它不可能成立一个机构,说他在“为人民服务”,而拥有不约束之权力的政府,它往往会成立一个宣传部,给你灌迷魂汤,以便不费吹灰之力的抢夺你的利益,到头来你还要欢呼他对你利益的剥夺。不受约束的政府权力,其残酷苛政甚至于万千猛虎也。

也就是说,包括毒奶粉在内的食品安全问题,以及其他社会公共安问题和公共利益危机,其主要的祸患就在于我们的政府,是一个自身无须受检验的一个王牌“免检产品”。我们前面已经说过,无论从哪方面来看,任何人生活在人类之中,就像任何动物生活在大自然中一样,没有免受约束的权力。如果出现有某人是免检产品,那么他就会为所欲为。同理,中国质检总局为什么利用部门权力大搞国家免检产品呢?他们颁给这些企业以免检产品,就是最大限度地抢劫他们的行业私利。他们通过给这些“免检”的称号,来愚弄民众,从而实现他们长期以来的官商勾结。这种官商勾结,就制造出一种荒乎其唐的“免检”。这样的免检,就给我们食品包括奶粉安全造成了极大的隐患。质检总局颁发免检产品危害当然甚巨,但与质检总局的总后台——中央政府而言,质检总局又不过是个小巫而已。中国的政府六十年来,利用一切手段,利用二杆子(笔杆子和枪杆子),把自身打造成一个中国最大的免检产品。他们的免检口号就是“伟光正”,谁敢质疑它的免检口号,谁就是反革命谁就是它的敌人,历次运动的灾难皆因其中有人质疑它的免检口号。而今天它已很少用那种一看就很傻的“伟光正”免检口号,而是你批评他,他就给你来“颠覆国家安全罪”,这个免检口号,因为披着“国家”(这国家其实就是政府就是党的偷换概念)的外衣,显得特别高大伟岸,可以唬住被他洗得发白的头脑,从而有效地打击在它作恶后理智而深邃的批评者,维护自身的免检功能,从而进一步完成它社会利益和民众利益的成功抢夺。

民主自由的制度已成为稍有常识的人所认可一种制度选择,这并不是说民主自由的制度是完美到无须修正的制度。相反,民主自由的制度,它随时准备修补漏洞,制度中自身的修复、监督、纠错机制,使得它哪怕出现错误,因为总是有一套应对的程序,随时准备就错误进行相应的检讨,而不是将错误背着命赴黄泉,死不认错,拒不道歉。我们的政府由于是个不受任何真正制约的“免检产品”,所以它冷漠它傲慢它无礼它无情,它不会且毋须道歉(因为在它看来道歉是施恩,是便宜了你这些贱民),它也不会让法律来解决其间的社会冲突,因为这会削弱政府作为“免检产品”的功能,也会使它这个“免检产品”里的“生产者“亦即各级官员的利益受损,所以他们要尽最大努力维护他们的利益,而他们的利益是与三鹿奶粉这样的“免检产品”无限产品,即政府这个免检产品的贪腐,必须依靠众多的次级免检产品不被拔掉和消除为前提。所以在目前政府作为“免检产品”的情形下,要消除社会的“免检产品”以及一系列食品安全、社会灾难与危机的隐患,其概率无限趋近于零。要改变中国社会的诸多灾难,必须改变政府作为中国最大“免检产品”的现实。

2008年9月26日8:38分于成都

出典:http://www.bullog.cn/blogs/arthurshen/archives/183386.aspx


王力雄:清朝の対チベット経営--チベットと中国の歴史的関係(4)

2008-09-28 23:11:45 | 中国異論派選訳
王力雄:清朝の対チベット経営--チベットと中国の歴史的関係(4)

 中国最後の王朝である清王朝になると、状況が変化した。清は中国人の王朝ではなく、東北の少数民族が明王朝を滅ぼして、中原に建てた王国である。満洲人という少数民族が中国人という多数民族を異民族統治したため、広くて人口の多い中国人地区を支配するために、モンゴル人と連合することで少数による多数支配のための力不足を補わなければならなかった。しかし、同じ北方民族として、満洲人の政治家はモンゴルが歴史的に多くの強大な王朝を滅ぼし、非常に大きな脅威であることをよく知っていた。自らの安全のために、満洲人はモンゴルも支配しなければならない。その目的を実現するために、清朝の統治者は、チベットに注目した。

 満洲人は連動した統治手腕を編み出した。モンゴル人の力を借りて軍事的に中国人を支配し、チベット仏教の精神的なモンゴル人支配を利用することである。そのためには、チベットの高山と遠路を恐れずチベットに行ってチベット人を支配しなければならない。

 モンゴル人の元朝皇帝が大いにラマ教を興して以降、チベット仏教はモンゴル全民族の信仰となり、ダライとパンチェンがすべてのモンゴル人の精神的指導者になった。清朝の統治者は、もしチベットとその宗教リーダーを支配できれば、容易にモンゴル人を支配できる。逆に、このような支配を行わなければ、チベットとモンゴルが連合し、災いを引き起こすことになる。災いは軽くて、西部の百万里の土地を失うことになり、重ければ大清帝国の社稷と国土を脅かす(滅ぼす)であろう。国家統一の維持とか、主権の完全性の堅持などの目的はすべて後世の作り話であり、当時の清朝皇帝のチベットに対する見方ではなかった。

 チベット仏教を利用するためにチベットを籠絡しようとして、清朝皇帝は率先してラマ教を広め、自らも受戒した。順治年間(1643-1661)、5世ダライラマが招待に応じて北京に赴いた時、順治皇帝は自ら城を出て迎えた。その時とられた儀礼は二人対等であった。チベット人は後にこのことから、ダライラマと清朝皇帝との関係は「皇帝と導師」の関係であって、「君主と家臣」の関係ではなかったと強調する。しかし、客観的に見たら、表面的な尊崇の下に強烈な利用の意図があったことが見て取れる。清朝のもっとも有名な皇帝の一人乾隆の言葉を借りれば、「世界中で黄教(ゲルク派)のトップはこの二人(ダライとパンチェン――作者)であり、彼らにモンゴルは一心に帰依している。黄教を興すことは、モンゴルを安定させるのに関係大である」(注1)。こう言ってチベット仏教利用の意図を表明しているだけでなく、乾隆はさらに「元朝のようにチベット人の僧侶にこびへつらっているのではない」(注2)と自分が本当にチベット仏教を信じているのではないと言っている。清代の歴史家魏源はこれについて、「衛蔵(ウ・ツァン)が安定したので西北辺境は安定し、黄教が服属したのでモンゴルとチベットの民はみな服属した」(注3)と総括した。

 宗教と感情の上でチベットを籠絡しただけでなく、清朝はチベットに対して、政治・行政・軍事上の措置をとり、チベットに対する実質的な支配を実現した。清初の中国は康煕、雍正、乾隆三代の繁栄により、国力が強大になり、当時のアジアで屈指の大国として、周辺にそれと匹敵する勢力はなかった。一方当時のチベットは内紛が絶えず、戦乱が続いていた。また、ダライを代表とするチベット仏教のゲルク派が急速に勢力を拡張し、元朝以来チベットを統治し続けてきたモンゴル人のハンと激烈な権力闘争を展開していた。そして、各勢力がみな自分たちの後ろ盾と保護者を求めており、高所に立った権威ある仲裁者が必要とされていた。清朝はちょうどよくそのような役柄だった。当時チベットの支配者間で紛争が発生するたびに、双方が争って清朝朝廷に釈明し、自らの行動を説明して、清朝の援助を得ようとした。清朝はこうしたチャンスを利用して、軍隊を派遣して紛争を鎮圧したり、裁定したりして、チベットに対する支配を一層強め、権力と影響力を拡大した。清朝がチベットに対して行った大きな制度変更や人事変動は、ほとんどがチベットに出兵したときにその勢いで実現している。これは同時のチベットと清朝の間の典型的な関係である。

 別の視点から言えば、当時のチベットはもうひとつ外敵の侵略の問題を抱えていた。チベットは北に勇猛なモンゴル人のジュンガル部と接し、南は戦いのうまいグルカ人と接しており、チベットだけの力では、侵略者を威嚇するに足りず、戦争が起こっても勝つことができなかった。このこともチベットを清朝に頼らせることになった。清朝政府はチベットのこうした需要を利用して、18世紀20年代からチベットに軍隊を駐留させ、チベットの要所や幹線道路などの要害を計画的に支配し、チベットへの支配を強めた。清軍のチベット駐留は清朝滅亡まで200年近くに及んだ。

 チベット支配の目的を達するために、清朝は意識的に自らの仲裁者としての立場を強化した。例えば清朝初年は「蒙強番弱(モンゴルが強くチベットが弱い)」だったので、「抑蒙扶番(モンゴルを抑えチベットを助ける)」政策をとった。のちにモンゴルが衰退すると、「扶蒙抑番」に改めた(注4)。チベット内部では「多くの首領を立て、チベットの勢力を分割する」戦略をとり、相互にけん制して、統一できないように仕向けた。ダライ勢力が強大化してからは、パンチェンを支援してバランスを取った。このような分断統治により、発展するにせよ維持するにせよ各勢力は清朝に頼らざるを得なくなった。

 1727年(雍正5年)から、清朝はチベットに「駐チベット大臣」を派遣し、辛亥革命まで185年間絶えることなくそれが続いた。駐チベット大臣の役割について、今日の北京とダランサラの宣伝機関の主張は真っ向から対立している。北京側は駐チベット大臣は中国のチベットに対する主権のシンボルであり、中央政府を代表してチベット地方に主権管理を実施する官吏だったと主張し続けている。ダライ側は駐チベット大臣は清朝皇帝の大使として、情報伝達を担っていたに過ぎず、せいぜいチベット政治に顧問としての役割を果たしただけであり、実質的な権力はなかったと主張している。

 この問題を説明するために、まず19世紀末のダス(Sarat Chandra Das)というベンガル校長の記述を引用する。彼はチベットのギャンツェで駐チベット大臣の行進を目撃した。その行進は清朝皇帝の即位1周年祝賀のためのものであった。

 「何人かが2フィート四方の木板を掲げている。それには駐チベット大臣の官職とその全チベットに対して行使する最高権力の委任状が書かれてあった。駐チベット大臣の随員と侍従のほかにも、ウ・ツァン地区から来た約300名の高僧と高官がいた。8名の中国兵が1挺の駐チベット大臣の輿を担いでいた。約50名のチベット兵が輿の担ぎ棒につないだ長い縄を引いていた。隊列は聖殿と亡くなった聖人の墓碑にあいさつをした後、チベットのフラ大臣(原文:傅拉協擺)に率いられて東門から寺院を出た。政府官吏が前を歩き、軍隊がそのあとに続いた。そのあとが中国官吏で、最後が華やかな輿に乗った主席駐チベット大臣だった。行進の過程すべてで、チベット人は二次的な地位に置かれていた。中国人はすべての可能なやり方で至高の権力をひけらかしていた。地位の比較的低い駐チベット大臣が騎馬でそのあとに続いたが、彼は重い手かせ足かせをされた囚人を見るのを楽しんでいるようだった。最近刑罰を受けたチベットの首領たちは重い木のかせの下で呻いていた。この駐チベット大臣の輿も同様に8名の兵士が担いでいた。彼の随員と侍従も主席駐チベット大臣のそれと同じだった。彼らの衛兵は中国の火縄銃と槍で武装しており……」(注5)。

 当時の印象に基づき、ダスが出した結論は、駐チベット大臣を「チベット人がひどく憎み、チベット人は心の底から彼らを恨んでいた。」ということだ(注6)。

 ダスが目撃した上述の場面は1881年であり、当時清帝国はすでに没落しつつあり、不正がはびこって官僚は腐敗していたので、この例をもって駐チベット大臣が設けられてからチベット人が一貫してそれを憎んでいたと結論付けることはできない。しかし、ダスの記述から少なくとも、チベット人は駐チベット大臣を憎んでいたときでも、駐チベット大臣が「すべての可能なやり方で至高の権力をひけらかして」えばり散らすのを止めることができず、「チベット人は二次的な地位に置かれ」るのを防ぐことができなかったということがわかる。

 1950年11月、チベットのガシャ政府は中共の大軍に侵略された時に発した「国連事務総長に対する呼びかけ」において、次のように清朝中国とチベットとの関係を位置づけていた。「1912年以前には、中国皇帝と至尊のダライラマ個人の間には確かに親密で友好的な関係があった。この関係と交流は一種の共同の信仰の基礎の上に生じたもので、正確に表現するならば宗教導師とその世俗の信奉者あるいは信徒との間の関係であり、政治的な含意は存在しなかった」(注7)。

 しかし、「信奉者」や「信徒」が「導師」の領地でこのように威張り散らすとはだれも信じないだろう。実際、清朝皇帝は少なくとも2回チベットの政治・宗教の最高リーダーであるダライラマの称号をはく奪し(6世と13世)、すべてのダライの転生霊童が皇帝の許可を経なければならないと定めていた。清朝はさらにもともとチベットだった地区を併呑し、西寧大臣を設けて青海を治めさせ、チベット東部を四川や雲南など内地の省に編入した。それらの地区では少数民族の土司を廃止し一般の州県道府を設置して、チベット人の勢力を縮小させた。今日の中共統治下の「チベット自治区」は、当時定められた境界である。

 よって、中国皇帝とダライラマの間には確かに「政治的含意」の関係があった。少なくとも中国皇帝の側では、チベットを臣下とみなし、チベットの側でも、少なくとも公然と反抗はできなかった。それ以外の解釈はいずれもつじつまが合わない。

 しかし、視点を変えると、チベットは歴史的に一貫して独立を保っていたという見方も理由がないわけではない。「皇帝の権力も遠方には及ばない」という形容にチベットほどふさわしいところはない。はるか遠く離れた紫禁城の中国皇帝にとって、どれだけの時間チベットを気にかけていられようか? またラサに駐在する中国皇帝の代表である駐チベット大臣が、チベットに対して一体どれだけの権力をもっていたかにも、確かに疑問がある。

 あるエピソードがこれについてすぐれた解説をしてくれている。ダライラマ13世のとき、清朝の駐チベット大臣がランバという名の貴族をガシャ政府の大臣に任命した。章程(「二十九条章程」のこと)には駐チベット大使に任命する権利があると定められていた。しかし、ダライラマ13世はランバを謁見して彼に言った。「駐チベット大臣がお前をガシャのメンバーに任命したが、お前は私のガシャのメンバーではない」。この言葉で十分だった。ランバは直ちにラサを離れ、自分の荘園に戻って二度と現れなかった。そこで、ガシャは駐チベット大臣にランバは死んだと報告した。駐チベット大臣はもちろん数日前まで元気だったランバが死んだなどということは信じなかったが、たとえそれを嘘と疑っても、彼は自分では捜し出してランバが死んでいないことを証明のしようがない。最終的に彼はダライラマ13世が任命した人を大臣とするのに同意するしかなかった。章程が彼に与えた権力は実際には存在しないに等しかったのだ(注8)。

 このエピソードは当時のチベット中国関係の典型的な描写であり、十分に駐チベット大臣の非力さを示している。しかし、いずれにせよダライラマ13世は胸を張って駐チベット大使にむかって「これは私の国であり、私がだれを任命するかはお前には関係ない」と言うことはできなかった。ゆえに、中国がチベットに対してある程度の支配をしていたことは認めねばならないが、その支配の開始時期は18世紀の清朝であり、北京が言うような13世紀の元朝ではない。

出典:http://www.observechina.net/info/artshow.asp?ID=49000

以前の文章:

皇女神話――チベットと中国の歴史的関係(1)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/3496cd11ef6e1cd0d47a87eb86f5731d

モンゴルは中国ではない――チベットと中国の歴史的関係(2)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/2ac8dfc98e938c0e7c329d1edd01aca5

収縮内向した明朝――チベットと中国の歴史的関係(3)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/77f46d8d85cf7f21c50238361f95f63c

以後の文章:

主権かそれとも宗主権か――チベットと中国の歴史的関係(5)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/62ece96b90b264d17ffce53ec61af385


飽酔豚:教育が生み出した憎しみ(中国人の対日感情)

2008-09-18 20:43:31 | Weblog

飽酔豚:教育が生み出した憎しみ(中国人の対日感情)

教育出来的仇恨
饱醉豚 @ 2008-9-17

恨日本人的中国人很多。为什么恨日本人?因为日本入侵给中国人民带来巨大灾难。

 

但是,面对每一个具体的日本人,你恨他什么呢?一个20多岁的日本青年没有参加战争,没有杀过人,没有强奸中国女人,他和你一样爱国,跟你一样热血沸腾,甚至比你更爱国更热血更正直更勇敢。如果他的祖父曾经在中国杀过人,能把这种仇恨加到无辜的新一代日本青年头上?

 

要说杀中国人,可以非常肯定地说:绝大多数被杀的中国人都是被中国人杀掉的,中国历史上的多次人口大灭绝,导致全国人口减少一半以上甚至90%以上,都是中国人干的,不是外国人干的。那么,作为一个中国人,您是否应该仇恨中国人超过日本人?

 

如果您发现自己的祖上是杀人不眨眼的大魔头,您会如何看待自己呢?我不知道朱镕基老师是否会为自己是朱元璋的后代感到自豪,朱元璋杀掉的人绝对不是少数。那些皇室后裔基本上是大规模杀人者的嫡系。

 

由于无数次的通婚交连,你的身上可能既有无辜被杀的中国人的血统,也有杀人屠夫的血统,你自己跟自己仇深似海吗?自己跟自己不共戴天吗?自己杀了自己报仇雪恨啊?

 

自古以来杀人强奸之凶悍,莫过于成吉思汗。这位先生的爱好除了杀人,就是强奸,被称史学界戏称为“带着一副生殖器到处留情”的“播种机”,据说现时全球最少有1600万名男性与成吉思汗有血缘关系,甚至在英国皇室家族中也可能有他的子孙。成吉思汗本人,也是他爹强奸女人的产物。像那个时代的蒙古人这样以强奸女人生下诸多子孙为荣的民族并不多。

 

在成吉思汗的鼓励下,蒙古人大肆用强奸的办法传播基因。一个典型的做法是元朝蒙古人对汉人和其他一些民族的少女拥有初夜权,结婚前得先陪蒙古男人睡几天。试想在这样的制度下,汉人实际上有多少是蒙古强奸者的后代呢?蒙古刚占领金国的时候,杀死了90%的中国北方人口,但是有些适龄少女是留着当性奴隶的。

 

数代下来,现在的中原以及北方的中国人总体上的基因更接近于蒙古人而不是南方人,也就不足奇怪了。

 

所以我相信现在的中国人很多都是杀人屠夫和强奸者的后代。那些自认血统纯正的汉人多半会对此勃然大怒,因为我如此不给脸地扫除他的血统尊严,亵渎他那个种族的神圣。

 

我当然知道,宣传这样的事实,远远不如恭维他们的血统纯正合算。一些狡猾的成功文人很懂得如何迎合世人的虚荣心,但是我不是这种人。

 

世界上根本没有纯正的汉人。汉人本身就是世界上混杂最厉害的杂交最完全的种族之一。由于中国得天独厚的地理环境,中原是最适合种族杂交融合的地方。

 

我就是要打消某些中国人莫名其妙的纯种自豪感。日本人的祖先曾经杀人如麻,很多中国人的祖先更是杀人如麻。有人说蒙古不是中国,蒙古人不是中国人,但是你不能否认清朝和民国初年,蒙古人也是中国人。你不能否认元朝曾经入侵日本,杀了不少人。即使你否认蒙古人是中国人,你不能否认侵日元朝军队的大部分是今日汉人的祖先。蒙古人不善航海,打日本当然得靠汉奸。

 

元朝入侵日本的时候,日本人对“正宗汉人”俘虏是优待免死的。八角岛大战,近十万元军被日本人歼灭,两万多人作了俘虏。日本人按照蒙古人的标准把俘虏分四等,前三等,即蒙古人,色 目人,女真人,高丽人和北方汉人(金国、辽国人)全部被处死,四等的唐人(在元朝地位最低的南方汉人)免死后成为部民(贱民)。

 

祖先的仇恨绝对不应该延续。仇恨是教育出来的,不是天生的。把一些日本孩子和一些中国孩子隐匿身世,混在一起养大,他们会无缘无故产生仇恨吗?

 

我重提蒙古民族的屠杀和强奸历史,并不是挑拨民族仇恨,仅仅为了消解民族仇恨。只有意识到对“历史上的民族仇恨”耿耿于怀并被仇恨折磨是多么愚蠢荒唐的事,人类才能少一点无缘无故的恨。

 

即使汉朝的“正宗汉人”,对其他民族也不见得有多好,所谓“犯我强汉者,虽远必诛”的大汉军队,在杀人和强奸方面不见得是清白的。

 

真理部修正了历史教科书,把一些所谓“挑动民族仇恨”的内容都删去,代之以“民族融合”,称之为“民族内部矛盾”,这又何必呢?只有了解史上的残暴,意识到人类的愚昧和野蛮,才能有真正的宽容与和解。那些培养民族自豪感,尤其是培养种族自豪感的做法,根本就是纳粹传统。

 

平心静气想一下,我们就会明白如果日本吞并了中国(如果日本有吞并的野心),那么现在汉和之间的矛盾就是民族内部矛盾,真理部就会禁止谈论南京大屠杀,八年抗战就是一次民族大融合——大多数时候,民族大融合都是很血腥的。但是日本真有吞并中国的野心吗?很多爱国青年是这么认为的。

 

逻辑之外,并无真理。你要想把自己的某种观点当作真理,至少得保持逻辑的一致。不能说日本侵略中国是罪恶,而秦始皇侵略六国就是正义的事业。不能说台湾独立是不能容忍的,格鲁吉亚某地的独立却是合法的。真理是骗人的,逻辑是真实的。

 

仇恨是教育出来的。当真理部禁止网上宣传“煽动民族仇恨”的时候,希望也不要煽动中日民族之间的仇恨,因为大众是愚蠢的,很容易被煽动。
 
出典:http://www.bullog.cn/blogs/baozuitun/archives/178744.aspx


胡傑:重要なのは立場だ

2008-09-14 15:20:33 | Weblog

2007年3月29日 星期四

胡杰:重要的是立场

作者:周书

胡杰,纪录片工作者,1958年生人,当过兵,学过画,做过记者。1995年第一次拿起超8毫米摄影机。那一年,是电影诞生后的第100个年头;那一年,第五代已是明日黄花,第六代仍备受争议,贾樟柯拍了处女作《小山回家》。

那一年,没几个人知道胡杰是谁。十多年后,他名声鹊起,是因为一部叫做《寻找林昭的灵魂》的纪录片。没有宣传,没有炒作,也没得过奖,这部片子却在网上广为流传。

其实,即便是在中国最另类最先锋的艺术家和独立电影人之中,胡杰也算得上是异类中的异类。

这首先是因为,他一点也不先锋。

他的纪录片,从早期的农村现实题材,到后来的历史题材,用的都是最老实的手法,看上去就像中规中矩的电视片。旁白,配乐,这些常为笃信“真实电影”美学的中国独立电影人所不屑的叙事工具依然在胡杰的纪录片里发挥着作用。从王兵到贾樟柯,从陈为军到胡新宇,他们用镜头客观、冷峻、克制地记录所谓的原生态,胡杰却从不避讳将导演的个人情感放进影片里,他说:不必强调瞬间的真实,重要的是立场。

他的立场是一种比追求表面的真实更高的追求,他要记录的与其说是一种生活的状态,不如说是一种情感,一种精神。他要带领我们进入拍摄对象的内心,不管他/她是祁连山上的煤矿工人(《远山》,1995),被拐卖到山东农村的云南妇女(《平原上的山歌》,1999),居住在海边的平凡人家(《在海边》,1999),还是为真理坚贞不屈在狱中写下万言血书的“圣女”林昭(《寻找林昭的灵魂》,2004),文革时第一个被红卫兵打死的女校长卞仲耘抑或她从未停止控诉的丈夫王晶尧(《我虽死去》,2006)。通过胡杰充满关切地讲述,观者总会在不经意间被他记录的影像所打动,那里面有着苦涩和悲凉,也有生命的尊严和坚韧。

而胡杰这个人,可能比他的片子更加使人惊讶。在他身上,有种这个时代里罕见的纯粹和谦卑。1999年,为了拍摄《寻找林昭的灵魂》,胡杰毅然辞去了在新华社的工作。人们对他此举充满好奇和不解,然而在胡杰眼中,纪录片是一定要拍的,自己能活下来就好,钱,没有就没有吧。他不是理论家,他不会用深刻的词汇来解释纪录历史与现实的意义,他也没有特别远大的志向。在不同场合,他只是反复强调:他是渺小的,他只能做到这些,但是纪录的工作很重要,他愿意用有限的时间尽量多做他认为重要的事。

他靠自己的钱和朋友的资助拍电影,每一部影片,从收集资料,联系采访对象,到实地拍摄,最后剪辑成片,全都由胡杰一个人完成。他一个接一个地拍片,剪片,在其中倾注大量心血,对影片的发行状况,他则毫不关心。用他的话说,除了少数一两部影片曾获得少量发行以外,他的片子其实就是没有发行!他不参加国际电影节,也没卖过海外版权。他相信好片子会口口相传,从他的朋友,到朋友的朋友,再到数以万计的网民。最近,胡杰导演携新片《我虽死去》来到香港,还同时在香港大学放映了《寻找林昭的灵魂》与《平原上的山歌》。研讨会上,当被问及如何看待版权问题时,他的回答令人印象深刻,他说:

“其实这是一个纪录片工作者经常面对的伦理问题。因为我们是用我们的摄像机记录了一个民族的苦难,所以我们如果收费,我们的心灵就会受到审判;如果你不收费你就生存不下来。有时候你就会…就是不收费。”

我们为这样的一个胡杰鼓掌。

有人说,胡杰是悲悯而平等的纪录者;有人说,他用镜头记史,以影像思想。我觉得他的影片,是孕育着希望的,这不仅仅因为他甘愿用自己的双眼去做整个民族的眼睛,代替我们去关注,去记录,去审视当下和过往的岁月中,那些不为人注意的或是被人刻意遗忘的角落,去承受那些尴尬和伤痛,去张扬美好和光辉的人性,也因为通过他的影片,每个人其实都可以获得,某种成长。


胡杰主要作品(长片):

1995 圆明园的画家生活 
1995 远山
1995 媒婆
1999 在海边
1999 平原上的山歌
2004 寻找林昭的灵魂 (全片播放)
2006 我虽死去 (全片播放)

出典:http://theoldwave.blogspot.com/2007/03/blog-post_29.html


胡傑:尋找林昭的霊魂(林昭の魂を探して)

2008-09-14 13:46:48 | Weblog

纪录片寻找林昭的灵魂 In Search Of The Soul Of Lin Zhao Part.1/11
http://jp.youtube.com/watch?v=rWqJUFEp4-g

纪录片寻找林昭的灵魂 In Search Of The Soul Of Lin Zhao Part.2/11
http://jp.youtube.com/watch?v=SViEgzjZPlU

纪录片寻找林昭的灵魂 In Search Of The Soul Of Lin Zhao Part.3/11
http://jp.youtube.com/watch?v=fyA_s1ZdaX8

纪录片:寻找林昭的灵魂:In Search Of The Soul Of Lin Zhao Part.4/11
http://jp.youtube.com/watch?v=yJpxMxmk2xw
 
纪录片寻找林昭的灵魂 In Search Of The Soul Of Lin Zhao Part.5/11
http://jp.youtube.com/watch?v=Bt2GQPX4m2M 

纪录片寻找林昭的灵魂 In Search Of The Soul Of Lin Zhao Part.6/11
http://jp.youtube.com/watch?v=IJJBxvx1VDY

纪录片寻找林昭的灵魂 In Search Of The Soul Of Lin Zhao Part.7/11
http://jp.youtube.com/watch?v=cqf1cLcUPPg 

纪录片寻找林昭的灵魂 In Search Of The Soul Of Lin Zhao Part.8/11
http://jp.youtube.com/watch?v=Z7LxGKbo6e4 

纪录片寻找林昭的灵魂 In Search Of The Soul Of Lin Zhao Part.9/11
http://jp.youtube.com/watch?v=imdzvKIMN4U 

纪录片寻找林昭的灵魂 In Search Of The Soul Of Lin Zhao Part.10/11
http://jp.youtube.com/watch?v=XtNus5ME77U&feature=related

纪录片寻找林昭的灵魂 In Search Of The Soul Of Lin Zhao Part.11/11
http://jp.youtube.com/watch?v=uFA7CpeAa6Q

 

より鮮明な画像と全編の文字テキスト
http://www.huanghuagang.org/hhgMagazine/issue12/big5/02.htm

胡傑監督記録映画制作と作品を語る
http://you.video.sina.com.cn/b/14883212-1242329103.html


冉雲飛:三鹿粉ミルク事件の根源

2008-09-13 13:09:22 | Weblog

冉雲飛:三鹿粉ミルク事件の根源

三鹿奶粉事件的命门

冉云飞 @ 2008-9-13

    中国真是个人祸遍地的国家,以至于天灾背后从来不缺少人祸之推手。在每天发生的众多人祸里,又有许多是明知故犯;不只是明知故犯,而是纵容着犯;不只是纵容着,出现了问题,还竭力包庇、掩盖、推委,对这些事故重大的人祸,从来都没有一个像样子的处理方案。面对人祸危机,从政府到事故方,他们所做的不是清查事故,公开相关的信息,彻查当事人,向受害者赔偿道歉。而是政府和事故方合起来,掩盖事实真相,坑害民众利益。这次三鹿奶粉事件,只不过是中国众多人祸事件的又一次东窗事发罢了。

 

    为什么政府和厂方一而再,再而三的出现大规模坑害民众的事,但民众就没有办法制止自己的权益不受侵害呢?其根源当然是源于政府的执政不是民众选举的结果,而且政府之所以不承认自己所犯的错,那就是因为民众无法用选票将不称职的政府选下台,因为目前中国民众的选票依旧是一张象征意义大过实际用途的废纸。中央政府到各级地方政府的权力不受约束,民众不能真正制约他们不作为或者乱作为乃至作恶,才是一切人祸频发的总根源。请记住,每天频发的大大小小的灾难里所包含的人祸因素,无一例外指向这个政府的权力来源和合法性,可谓万箭猬集。这个政府中的有识之士也深知这一点,但没有竞争对手的六十年“单干”已经使执政党和政府百孔千疮,他们被巨大而恶劣的执政习惯,被权力集团的利益所裹狭,已经上了一趟混装各种危险品的快速列车,既缺乏紧急处置的能力,也不想改变方向,清除掉车上的危险品。只是在那里像征性地高喊三十年改革开放,却不做一星半点的政治改革的实质举措。这样的政府管制下出现许多匪夷所思的对民众生命的漠视,实在是他们执政特质之体现。

 

    我这样说,不仅有历史纪录,有理论根据,而且更有现实的靶子。三鹿奶粉总部所在地石家庄政府在卫生部的调查报告尚未出笼的时候,他们已开足马力,为袒护三鹿奶粉殚精竭虑。三鹿奶粉方面与当地政府穿了连裆裤是傻子都看出来的道理。三鹿厂方和石家庄政府,甚至是卫生部、国家质检局等相关部门都是极有瓜葛的利益相关单位。这些利益相关单位早都从内部获知消费者投诉或者医院病况,但是为了所谓稳定,为了奥运,为了更多的相关利益链,他们当然可以置人命于不顾。中央政府有稳定的压力,各部门有自己官员的官帽和实际受贿利益,当地政府的税收以及GDP,大批与此相关官员的贪腐,组合在一起成了类似三鹿奶粉这种企业危害民众利益而不受真正惩处的保护伞。商业利益使得这个保护伞的组合不只是政府各部门的贪腐与违法,而且连结到新闻媒体在其间的猫腻。新闻媒体受官方之打压,不能随意报道,我们暂且不说了,因为没有新闻自由。但新闻媒体和产家的利益瓜葛,因广告的投放的竞争,难以避免利益交换。这种利益交换的得益者,当然是厂方和新闻媒体,损害的是民众的知情权,从而损害民众利益,危及民众生命安全。同样的利益交换,当然更大规模地发生在与企业相关的政府行业主管部门,这里面的贪污腐败形成了有效的利益链锁,彻底出卖了民众的利益,所以你看到许多利益相关的政府部门、官员、媒体及其从业人员,联合起来愿意为不法产商背书,你一点都不要吃惊。到要追究责任的时候,要么拿钱来不了了之,要么允许你走起诉的过场,但公检法也在后面等着不法产商送好处去,连怎么背书的调子都已经定好了。

 

    也就是说,当一个产家通过许多关系使自己变成一地乃至国家的龙头企业后,这样的企业危害起民众的利益来,民众要讨回自己的利益可谓难上加难。这里面有一个充满痛苦的悖论:消费者在不知情与信息不充分,在媒体的误导并且压制了所有该企业的负面新闻,在虚假广告的诱惑下,使得消费者成就了某一个商品成为所谓的名牌,而一旦成了名牌,你要是受到了它的伤害,那它的力量就千百倍地能够弹压消费者。因为中国产品的名牌都是各种相关利益链(唯一不受重视的是消费者的利益)所组成的,而这相关利益链最可怕当然是政府在其间的贪腐和媒体在其间的误导。但不幸的是,中国没有哪一次伤害民众的事件,不是由政府相关部门乱作为乃至作恶,媒体受压误导或者受利益关联袒护而造成的。在中国社会,这就形成了一个通过不合法手段形成的强者通吃的社会局面,遍布各个阶层。而民众作为利益个体,利益分散,不容易组织起来,不容易形成合力来与这些不法的政府部门和虚假新闻媒体作斗争。因为你不仅没有言论自由,而且你没有游行、结社等宪法赋予的自由。如果不在制度设计上加以改革,那么民众作为利益受害者而得不到实质性赔偿的命运不仅无法改变,而且你只要生在中国,你是普通民众,那么就注定你受害的必然性。只是你受害的程度多少、受害时间的长短、受害秩序的先后而已。换言之,在中国做一个不受伤害的民众,或者说受到伤害而能得到真正公正补偿的民众,你的概率是无限趋近于零。也就是说,在中国,如果你是普通民众,你一生都未受到过不公正对待,没有受到过伤害,其概率比中六合彩还难。

 

    三鹿奶粉事件不单纯是个食品安全事件——海外国家只需要拒绝进口中国这样的食品就行——但对中国来说,只是拒买或者惩罚三鹿奶粉是远远不够的。因为一个三鹿倒下了,千百万个三鹿站起来了。查出了三鹿奶粉的问题乃至我们幻想着能够合法处理它,在没有真正的制度保障食品安全问题的情形下,只不过是那些目前尚在扮演安全角色而实则一样有安全问题的企业在偷偷发笑,从中获益。普通民众的利益依旧不能得到真正的保障,普通民众成了永远的受害者。任何民众利益的大规模受损,最终矛盾的焦点,无一例外指向最高当轴的民主政治改革,三鹿奶粉事件中诸方利益的博弈,受害方要得到真正完全公平公开公正的处理与赔偿,并且有效杜绝此类事件再次发生,必须仰赖中国的民主政治体制改革。我个人认为,中国社会已经到了充满很大危机的十字路口。

      2008年9月13日林彪事件37周年8:01分于成都

出典:http://www.bullog.cn/blogs/ranyunfei/archives/177139.aspx


王力雄:収縮内向した明朝――チベットと中国の歴史的関係(3)

2008-09-08 22:47:27 | 中国異論派選訳
王力雄:収縮内向した明朝――チベットと中国の歴史的関係(3)

 歴史資料を見ると、明朝中国はチベットと連絡はあったが、多くは「社交」と形容できる形式的な往来であった、ほとんど実質的な主権関係はなかった。歴史学では明朝は内向的で非競争的な国家だと広くみなされている。農民出身の朱元璋は中国「内地」の固守だけを考え、外に向けて発展して余計な面倒を引きを超すことを避けた。さらに、子孫に明軍が「永遠に討伐をしない」国15カ国を決めて子孫に示した。倭寇が中国の海岸を侵したとき、朱元璋がとった対策は譲って事を穏便に解決することだった。沿海一帯の中国住民を撤退させ、一律に海に出ることを禁じた(訳注:これに関しては明朝の厳格な海禁政策が東南沿海人民の生活を脅かしたので、商人・民衆が倭寇、盗賊になったのが「嘉靖倭寇」であるという有力な反対説が中国にあり、また日本など海外では同様の見解が主流である。参照:沈登苗http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/830eb65fd650e84058cdb6f53052ff57および、宇田川武久http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2000/00220/contents/049.htm)。歴代の王朝と比べて、明朝が長城修築にかけた力は最も大きく、それは明朝皇帝の心情を反映している(注1)。よって、明に万里も離れた辺鄙なチベットを経営する興味があったと信じることは難しい。

 大陸の歴史学界が明のチベットに対する主権の根拠を証明するために示している証拠の一つは、明が元を滅ぼしてから、チベットの僧俗の首領が続々と元朝の古い詔勅や公印を明朝に上納し、明朝の新しい詔勅や公印と交換し、基準を示したことである。明朝は彼らを改めて承認した。しかし、公印はただの記号に過ぎず、首領は変わらず、権力も変わらなかった。以前同様自分の地盤を支配しているのに、外の強大な勢力に帰順の意を示すのは一種の投機にすぎない。明朝の本当の権力範囲はチベット人地区に隣接する中国人居住地に一連の「衛」と称する地方機関を設立したところまでである(注2)。この名称(防衛の意)からも見られるように、明朝のチベット政策は、外敵に対する防衛であった。

 大陸歴史学界の明代中国のチベットに対する主権の根拠の二つ目は、明朝がチベットの政教リーダーに大量の称号を贈ったことである。1985年大陸で出版された「国家重点プロジェクト」と位置付けられた資料集『チベット地方は中国の不可分の一部である』(題名からも中国にとって有利な資料だけを集めていることがわかる)の中の明とチベットの関係の部分は81ページあり、一方政教リーダーを各種役職に封じた内容が38ページで、ほとんど半分である(注3)。この封じるというのは、たとえば大宝法王、闡化王、西天仏子、大国師など、虚名を与えたにすぎず、全く実質的な意義はない。これはむしろ、朱元璋や朱棣は唐がチベットの脅威を受けた時の教訓をくみ取り、チベット文化に迎合して取った一種の懐柔政策であり、そこからいかなる主権関係も発生しない。

 またもう一つ根拠とされているのは、チベットの明に対する「朝貢」と明のチベットに対する「賞賜」である。朝貢に来たのは、服属の意思表示であろう、というのが中国側の論理である。文書記録を見ると、明とチベットの「朝貢-賞賜」の往来は確かに多いが、表面的な朝貢関係の中に、どれだけ本当に服属の意思があったかは疑問である。私は一貫して細部から歴史を読み解くことを主張してきた。表向きの体裁のよい大見解はしばしばミスリーディングだけしかもたらさない。明とチベットの朝貢関係は非常に興味深いし、また歴史的なチベット中国関係の本質を反映しているので、その点についてここでさらに検討しよう。

 昔から、中国の皇帝は周辺の「蛮人夷賊」の朝貢を世界を統率していることの象徴とみなして、「天子」意識を満足させてきた。明朝は内向的ではあったが、皇帝のこの種の趣味はやはり続いていた。しかし、明は拡張する勢がなかったし、「蛮人夷賊」に対する脅威にもなりえず、「中央帝国」に頼らせることもできなかった。では、なにによって自発的に「朝貢」するよう仕向けたのか? 明がとった方法はいわゆる「手厚い褒美と籠絡」であった。

 チベットの朝貢物品について、明はチベットの特産品でありさえすればよいとした。明の太祖は言う「朝貢品は、誠意を示すものに過ぎない」。物自体は重要ではなく、ほしいのは政治上の、「家臣としての貢納」という象徴なのだ。チベットからの朝貢品リストにはほとんどの場合馬が入っていて、そのほかはプル(ヤクの毛の織物)、硼砂、毛の紐、バター、刀剣、甲冑と仏画、銅塔、舎利などの宗教用具であり、ほとんど安いものだった。

 一方、チベットの進貢者に対しては、明朝廷は手厚い接待をした。進貢者が中国内地に入ると、軍衛から軍人を出して護送し、道中では馬、車両、船舶を提供し、無料で食事と宿を提供し、都に入ると会館に住まわせた。朝貢品は礼部が検査した後、進貢者の身分に対応して賞賜品を与えた。

 一般的に、すべての賞賜品は朝貢品よりはるかに価値が高かった。法王らが自ら入貢すると、賞賜は殊に手厚かった(注4)。賞賜には2種類あり、一つは「正賞」、すなわち朝貢行為自体に対する報償。もう一つは「価賞」、進貢者の朝貢品の価値に対する見返りである(注5)。明朝は「薄い朝貢に厚く賞賜する」を原則とし、賞賜品の価値は進貢品の3倍の価値が目安であった。賞賜の物品は普通、茶葉、絹織物、生絹、麻布、綿布であった。これらの物はチベットでは貴重品であり、しかも生活必需品であった。ほかに、金、銀、紙幣があった。僧侶にはさらに袈裟や絹靴などを与えた。賞賜の中でチベット人は茶葉を最も喜んだ。進貢者は賞賜の金銀で中国でさらに多くの茶葉、薬剤、銅器、鉄器、磁器を購入し、チベットに持ち帰って使ったり売ったりした。僧侶は寺院を建てるために、金箔、顔料、供物用器具、楽器などを大量に購入した。

 あきらかに、この種の「朝貢-賞賜」の間に存在する価格差によって、進貢者は大きな利益を得ることができた。「朝貢」は一種の割にあう商売だった。「痩せた馬を進貢すれば必ず大儲けする」(注6)。巨利の誘引の下で、チベットから明朝に「朝貢」する人の数は増え続けた。進貢者が受ける良い待遇もまた、進貢団をどんどん大規模化させた。一つの進貢団がともすると数百人から果ては千人を超え、盛大に中国を無料で「旅行」し、はては「偽朝貢」現象まで出現した。甘粛、青海、四川のチベット人地区の「熟番(中国人に同化した蛮族の意)」も、どんどん公印を偽造し、ウツァンの「生番」になりすまして都に朝貢に行き、この種の「朝貢貿易」に参加していた。こうした当時の進貢者の「とぎれることなく、賞賜は計り知れない」(注7)という状況は、明朝政府に大きな財政負担となった。明はやむなく格が低ければ朝貢してはならないという制限を設けた。一定以上の格であっても、3年に1回しか朝貢を認めず、1回の朝貢団は150人を超えてはならないと決めた。しかし、当時の情勢は朝貢を防ぎきれなかった。たとえば、国師より格下は朝貢してはならないという規則は執行し続けることができなかった(注8)。進貢団の人数も一つで1470人に達するものもあった(注9)。このように、他人にうまい汁を吸わせることを主権に対する忠誠とみなすことは、身の程知らずの表明でしかない。

 最後の中国のチベットに対する主権の根拠は、明朝とチベットの間に密接な茶馬互市貿易があったというものだが、これはいっそう薄弱な根拠である。チベットには馬があり、中国には茶があり、お互いにそれを必要としているのだから、この種の貿易は唐宋の時代から広く行われていた。明初に当局の独占貿易となり、のちに民間中心の貿易となった。しかし、当局であろうと民間であろうと、貿易があれば主権があるというのは説得力を持たない。中国は現在世界の大多数の国と貿易しているが、それが世界に対する中国の主権を意味しているだろうか?

出典:http://www.observechina.net/info/artshow.asp?ID=48999

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モンゴルは中国ではない――チベットと中国の歴史的関係(2)
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清朝の対チベット経営--チベットと中国の歴史的関係(4)
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王力雄:モンゴルは中国ではない――チベットと中国の歴史的関係(2)

2008-09-07 23:09:46 | 中国異論派選訳
王力雄:モンゴルは中国ではない――チベットと中国の歴史的関係(2)

 中国当局が編纂した歴史記述は、中国のチベットに対する主権は13世紀に始まると認定している。当時はチンギス・ハンのモンゴル騎兵が世界を席巻し、一方チベットは吐蕃王朝が解体して400年の分裂割拠が続き、モンゴルに対抗する能力はなかった。チベットの大小の地方割拠勢力は大勢の前に次々とモンゴルに帰順した。チンギス・ハンの孫のゴダン・ハンはチベットで当時のチベット仏教の中心サキャを選び、チベット全土の各勢力に対しサキャの統制に従うよう命令した。その後1世紀間続いた元王朝は、サキャを通じてチベットを統治し続けた。歴史学者が示す資料によると、そこにはある種の主権の要素があったかもしれない。しかし、問題はそれがモンゴルのチベットに対する主権なのか、それとも中国のチベットに対する主権なのかということである。

 実際、中国は当時チベットと同様、モンゴルの征服の対象だった。それどころかチベットにも及ばなかった。チベットはなおかなりの程度の自治を維持していたが、中国は徹底的に国を滅ぼされていた。主権を完全に失った国が、どうやって別の民族に対して主権を行使できるのか、全く説明がつかない。元はのちの清とは異なる。どちらも異民族の侵略による統治ではあるが、清朝の満洲人は居住地もその民族も最終的には全体として同化して中国人に溶け込んでしまった。だが、モンゴル人は現在でも自分たちの国があり、モンゴル民族はアジアの広大な地域に住んでいて、中国人とは全く別の概念である。したがって、むりにモンゴルのチベットに対する征服を中国のチベットに対する主権の根拠にしようとするこの種の「阿Q」式の論理は奇怪かつ不誠実である。

 いわんや、モンゴルとチベットは果たしてどちらがどちらを征服したのかも、検討の必要がある。軍事面では、チベットはモンゴルの敵ではなかった。しかし、チベットにはチベット高原という天然の要害があり、モンゴル軍のチベット侵攻は簡単ではない。実際、モンゴルはチベットに対して征伐を行っていない。チベットの帰順はチベットのサキャが先に帰順したことから実現した。モンゴル人の軍事的威嚇を後ろ盾とし、当時のサキャ・パンディタはチベット各地の僧俗の首領に告諭を発し、彼らに情勢をわからせ、サキャの、すなわちモンゴルの、統治を受け入れさせた。こうして400年近くの戦乱と分裂の状態を終わらせた(注1)。当時の元朝は、チベットに軍隊を駐留させたが、目的はチベットの直接統治ではなく、おもにチベットの地方政教勢力がサキャ政権を脅かさないよう威嚇するためだった。元朝中央政府はチベット事務を主管する機関、総制院(のちに宣政院と改称)を設立し、サキャ・パンディタの甥のパスパが初代統領になり、その後の統領も多くがパスパの一族から出た(注2)。つまり、元朝のチベット統治は、大部分がチベット人自身によって行われたのである。

 当時のサキャ政権をモンゴルの完全な傀儡とみなすことはできない。チベットは軍事的にはモンゴルに服属していたとはいえ、モンゴルもチベット仏教を受け入れた。さらに当時のモンゴル文字さえもパスパが作ったものである。ゆえにチベットは精神的にはむしろモンゴルを征服したといえる。当時の元朝皇帝はチベットのラマ教の熱狂的な信者であり、そのために元朝は専門の官職、帝師(皇帝の先生)を設け、その職はすべてチベット人に担当させた。帝師はすべての官職の中で最も地位が高く、皇帝が朝廷に出てくると文武の高官はみな起立整列したが、ただ帝師だけには座席があった。そればかりか、伝説によると初代の帝師パスパラマは自分の座席はフビライ大帝よりも高くなければならないと言い張ったという(注3)。このことからもチベット人の地位がみてとれる。歴代の元朝皇帝は即位前にみな帝師から仏戒を受けた。皇后・側室、皇帝の親族、大臣たちの間にもチベットの僧侶から仏戒を受けることが大いに流行した。当時の帝師は気炎を高く上げていて、その弟子が王妃を殴打しても、皇帝は問題にしなかった(注4)。

 元朝が長江以南の南宋を攻め滅ぼす過程で、チベット人は積極的にモンゴル人に協力した。パスパはそのために涿州に神殿を建立し、みずから開眼供養を行い、部下の法師にその中で秘密の呪文を唱えて元軍の加護を祈らせた(注5)。そして元軍が南宋の首都臨安(今日の杭州)を攻め落とした後、元朝に投降した南宋の皇帝趙顕をチベットのサキャ寺に送って、名目は仏教修行だが、実際は流罪にし、信頼できる者の支配下に置いた。のちに南宋の最後の皇帝はチベットで殺され、元朝を脅かす禍根は徹底的に除去された(注6)。これを中国のチベットに対する主権行使というなら、はなはだ荒唐無稽というべきではないだろうか。

 元朝の民族等級序列の中で、チベット人は色目人の等級であり、中国人より高かった。チベット人が担った帝師は同時に宣政院最高責任者を兼任した。宣政院とは中書省、枢密院、御史台と同格の最高レベルの元朝権力機関であり、皇帝と直接通じていた。その役割はチベット人地区のすべての軍政・民政・財政事務を管轄するほか、中国人地区の仏教事務も管理した。元朝の熱狂的な宗教的雰囲気のもとで、この種の権力が非常に強力なものであることは想像できるだろう。パスパの弟子楊真加(チベット人)は江南に行って仏教総統になったが、財宝を略奪するために南宋皇帝と大臣の墓を110余りも掘り返し、良田2万3千ムーを占拠し、美女宝物を無数に献上させ、多くの平民を殺害した。当時のチベットからは色々な人が続々と高等民族の身分で中国内地に行って、うまい汁を吸った。ときには百人千人になり、道中の旅館に泊まりきれなくなると、彼らは強引に住民の家に泊まり、機会に乗じて婦女を強姦した(注7)。当時の中国人はほとんどが不満であっても口に出せなかった。

 ゆえに、当時の歴史現象に即して見れば、元朝中国がチベットに対して主権支配を確立したというよりは、モンゴルとチベットが手を組んで中国を統治したと言うべきであろう。

原文:http://www.observechina.net/info/artshow.asp?ID=48998
(脚注は原文参照)

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皇女神話――チベットと中国の歴史的関係(1)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/3496cd11ef6e1cd0d47a87eb86f5731d

収縮内向した明朝――チベットと中国の歴史的関係(3)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/77f46d8d85cf7f21c50238361f95f63c

王力雄:皇女神話――チベットと中国の歴史的関係(1)

2008-09-06 20:14:40 | 中国異論派選訳
王力雄:皇女神話――チベットと中国の歴史的関係(1)

 ZDF(第二ドイツテレビ)北京駐在記者の劉登立は米国で成長した。彼の父親はかつて国民党軍の将校で、のちに米国に定住した。米国で教育を受けて育った劉登立は父親と歴史をめぐる多くの点で見解が異なる。そのうちの一つが中国とチベットとの関係である。父親は彼に、「チベットは昔から中国だった、1300年余り前に中国の唐王朝が文成公主をチベット王ソンツェン・ガンポに嫁がせたからだ」と言った。その時まだ中学生だった劉登立が父親に「その時ネパールも王女をソンツェン・ガンポに嫁がせたけど、なぜチベットはネパールの一部じゃないの?」と問い返したので、父親は言葉に詰まって目を白黒させたという。

 ほとんどの中国人が文成公主の神話を通じて中国とチベットの歴史的関係を理解している。あたかも、中国が皇女を嫁がせたところは、すべて中国の領土になるかのように。これはいささか可笑しな論法である。実際は当時のチベットは非常に強大で、勢力範囲は西はパミール高原を超えてアラブやトルコにまでおよび、北は今日の中国の新疆と甘粛の河西回廊におよび、東はかつて中国の四川、雲南のほとんどを占領した。その時代のチベット民族は征服者として中央アジア全域に軍を進駐させていた。唐王朝を建国した李氏はチュルクの血統と文化的背景を帯びていたので、通婚を一種の辺境安定の政治手段として用いた。皇女を一人嫁にやるのは大軍を派遣するのに比べてはるかに安上がりだ。帝室の娘は大勢いるし、帝王は自分の実の娘を嫁がせるわけでもない(文成公主は一族の娘にすぎない)。唐王朝が「諸蕃」に嫁がせた皇女は15人にもなる(注1)。文成公主を嫁がせる以前、唐の太宗李世民はすでに弘化公主を吐谷渾(トヨクコン)王に嫁がせ、衡陽公主を突厥の処羅可汗の子に嫁がせている。当時の遊牧民族の首領にとっては、彼らのあこがれる文明社会(唐は古代中国文明の最盛期の王朝だった)の皇女を手に入れることは、下層の武骨者が貴族のお嬢さんを娶るようなもので、心理的意義がはるかに婚姻自体を上回っていた。当時のチベット王ソンツェン・ガンポは吐谷渾王が唐の皇女を娶ったことを知って、唐に対して同様の要求を突きつけた。

 ソンツェン・ガンポの態度が傲慢だったからか、当時の唐の太宗がチベットを十分重視していなかったからか、いずれにせよ最初太宗は断った。ソンツェン・ガンポは激怒して、大軍を率いて初めに吐谷渾を討伐し、続いて唐に攻め入って、太宗に書状を送った。「もし皇女を嫁がせなければ、5万の兵を動員して、お前の唐国を奪い、お前を殺し、皇女を奪う」(注2)。なんとも豪胆なことである。

 無論、唐の強大さをもってすれば、ソンツェン・ガンポの武力に屈服するわけではない。しかし、双方がともに痛手を被った戦争は、太宗にチベットの軽視すべからざるを知らしめた。ソンツェン・ガンポが態度を軟化させ、兵を引いて使者に贈り物を持たせて長安に求婚に赴かせると、太宗はすぐに文成公主をソンツェン・ガンポに嫁がせることを承知した。求婚の使者にまで琅琊公主の孫娘を妻として賜ったことからみると、太宗のチベット慰撫の切迫した気持ちがうかがえる。だから、文成公主のチベット入りはやむなく同意したことだと言えるだろう。

 なぜ文成公主がほかの異国に嫁いだ皇女より有名なのかといえば、たぶん主な原因は彼女の嫁ぎ先が最も遠く、最も辺鄙な地方だったからだろう。嫁いで39年、死ぬまで中原に戻らなかったので、美女を惜しむ気持も加わって同情された。彼女がチベットに行く途上で流した涙で川の流れまで向きを変えた(青海省にある倒淌河の名前の由来となった)という伝説は十分に後世の人々の彼女に対する憐れみを物語っている。文成公主の死後30年、唐はさらにもう一人金城公主をチベットに嫁がせている。彼女の伝説はいっそう悲惨である。金城公主は雍王守礼の娘であったが、中宗の娘と偽ってチベットに嫁がせられた。中宗は自ら金城公主を長安から100里のところまで送り、当時の始平県で公主と別れる時、中宗は涙を流して悲しんだ。そして、悲しみを表すために始平県の死刑囚の処刑を免除し、庶民の1年間の労役を免除し、始平の県名を金城(今日の陝西省興平県)に改め、彼と金城公主の別れた地を愴別里と命名した。この伝説からはチベットとの平和のために、唐王朝の皇帝がやむを得ず割愛しなければならなかったものの大きさを知ることができる。もともとチベットの使者はチベットの皇子のために求婚に来たと説明していたが、公主がチベットにつくと彼女を娶るのはチベット王に変わっていた。公主は当時わずか13,4歳、彼女を娶ったチベット王ティデ・ツクツェンは、伝説によると白髪と白髭の年寄りで、顔がどちら側だか分らなかったという(注3)。

 中国の皇女がチベットに行ったことで中国とチベットの関係発展に役立たなかったとはいえない。たとえば、ソンツェン・ガンポが文成公主を娶ってから、10年間チベットは唐を攻めなかった。しかし、10年は歴史の大河の中では一瞬にすぎない。ソンツェン・ガンポの死後、文成公主は29年間やもめを通したが、その在世中チベットと唐は絶えず衝突を繰り返した。それ以後の100年間中国はほとんど安らかな日はなかった。その時代のチベットと中国の大きな戦争を人がまとめている。

 「唐高宗咸亨4年(西暦673年)、薛仁貴に命じて軍勢十余万を率いてチベットを討ち、チベットの大将欽陵に敗れる。武后如意元年(692年)、チベット入寇し、武后は武威将軍王孝傑を遣わして大いに之を破る。万歳通天元年(696)チベットが凉州を寇(あだ)し、官軍大敗する。長安2年(702)、チベット入寇し、四役皆之を破る。玄宗開元12年(727)チベット入寇し、王君奐大いに之を破る。16年、肖嵩チベットを祁連で破る。代宗広徳元年(763)チベット長安を寇し、郭子儀が撃破し遁走させる。徳宗貞元2年(786)チベットが入寇し監州などの地を陥れる。貞元5年(789)、韋皋がチベットを大いに破り、隔年また続けてチベットを破り、大将論賛熱を生け捕りにする。貞元16年(801)、チベットがまた大挙して入寇す。」(注4)

 このうち、763年には、チベットは何と大唐の首都長安を攻略している。当時のチベットの首領チソン・デツェンこそ金城公主が生んだ息子である。徳宗年間、チベットは河隴の地だけで50万の大唐の壮丁を奴隷として奪い去った(注5)。唐の穆宗長慶年にチベットに使節として入った劉元鼎がチベットの龍支城に入ったとき、かつて戦争で捕虜になった唐軍の将兵「千人の老人が拝みながら泣き、天使の安否を問うて曰く『軍隊が負けてからも、今の子孫にいたるまでいまだ唐服を忘れ難く、朝廷はまだ我々を心にかけていてくれるだろうか?』」。唐代の大詩人白居易に「縛戎人」という題の詩がある。描いているのはかつてチベットの捕虜になった唐人の悲惨な経歴であり、それはいっそう生き生きと真に迫る(注6)。

 これほど多く皇女について述べたのは、一方的な願望の立場が、事実の真相とどれだけ遠くかけ離れているかを説明するためである。もとより、まともに歴史を研究している人は皇女の嫁入りを国家主権の証明としたりはしないだろうが、過剰に文成公主のチベットに対する重要性を誇張することが、非常に普遍的な現象になっている。あたかも、文成公主がチベットに行って初めてチベットに文明がもたらされたかのように言う。医療知識、技術工芸、調理知識、野菜の種子、はてはチベットの仏教までもが文成公主によってもたらされたと言う。その中に若干の真実があるとしても、強調しすぎることは、民族的思い上がりの傾向をもたらす。その主張は、あたかも漢民族が一人の娘を嫁にやれば、ほかの民族の文明と歴史を変えられるかのようだ。しかも、それが二つの民族が代々分割できないことの根拠にされてしまう。だが、事実はそれが一方的な思い込みの神話であることを証明している。

出典:http://www.observechina.net/info/artshow.asp?ID=48995
内容は『天葬』の重出である。脚注は出典の原文を参照。

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王力雄:チベット問題解決の鍵(4)

2008-09-05 21:58:04 | 中国異論派選訳
王力雄:チベット問題解決の鍵(4)

「妥協の余地がない」わけではない

 チベットを守備する陳奎元書記は現在の中国の反ダライ運動の第一線の指揮官であるが、彼は次のように断言している。「ダライグループとの闘争は……国家民族の根本利益にかかわり、いかなる妥協の余地もない」(注31)。まさにこのような「非妥協」の闘争哲学の指導のもとで、チベットの反ダライ運動はヒートアップし続けており、このような「非妥協」の闘争の過程で、チベット人の感情は傷つけられ続けて、チベット人の気持ちはどんどん離れている。陳書記とダライラマの闘争は、彼の言い方によれば「ダライの宗教の衣をはぎ取る」ことだ(注32)。だが、ダライラマは依然としてチベット宗教の核心であるのに、核心の衣をどうやって剥ぐのだろう? 実際のところ、ダライラマがチベットに帰還しない限り、チベットの民衆とその上師との離別が続く限り、チベット問題の解決はない。もし北京がダライラマ14世の逝去後に次のダライラマを擁立しようとしても、その目的を達することはできない。ダライラマはすでに、もし彼が亡命中に死んだら、彼の転生霊童は中国が支配する地区には現れないと宣言している。転生霊童の任務は前任者の事業を継承することであり、前任者の業績をぶち壊すことではないからだ(注33)。北京は勿論この主張を無視して、自分たちのダライラマを擁立することができる。しかし、チベット活仏の転生ルールによれば、前世活仏の転生に対する願いと指示が転生霊童確定の重要な根拠となる。当世のダライラマがすでにこれだけ明確に述べている以上、北京が立てるダライラマは大多数のチベット人に拒絶されることは間違いない。そうすれば北京の期待が実現しないだけでなく、いっそう深刻な対立を引き起こすだろう。

 「人心を得た者が天下を得る」というが、チベット問題解決のカギは経済をどれだけ発展させるかではなく、チベット人の心を帰順させられるか否かである。たとえ国家統治戦略の視点からだけでも、北京は現在の路線を見直すべきである。一人のダライラマを敵に回し、数百万チベット人の心を離反させることが、はたして賢明な策と言えるだろうか? 無神論に固執する共産党員は、ダライラマを生身の政客とみなしてもよいが、国家の管理者としては、相手の身になってチベット宗教を理解すべきであり、チベット人民の感情を尊重すべきである。古代の帝王でさえみな「人心をつかむのが上策」であることを知っているのに、「人民に奉仕する」と公言する政党はなおさらのこと権力を振りかざすだけであってはならない。五百万チベット人の人心を最大限つかむには、ダライラマとの闘争を協力に変え、対話を通じて両立の道を探る以上の策はない。いわんや陳書記が言うように「いかなる時代も、いかなる国家においても、宗教は人民に実質的な自由や幸福をもたらすことはできない」(注34)わけではなく、宗教は人類文明の重要な要素であり、人類に幸福をもたらしてきたことは枚挙にいとまがないのだ。もしダライラマとの和解が実現し、チベットの宗教に自由な発展の空間を提供すれば、受益するのはチベットだけではない。早くに信仰の真空地帯となってしまった中国内地の方が受益が大きいだろう。

 北京は自分たちはダライに門戸を開いたのに、ダライ自身が頑なで機会を失ったというだろう。だが、私が思うに、80年代に双方の接触が失敗した責任はダライラマに帰すべきではない。胡耀邦があの時出した条件はダライラマの個人的「待遇」解決だけで、チベット問題の解決ではなかった。もしダライラマが北京に行って権限のない閑職である副委員長になっていたら、それは投降であって協力ではない。彼はチベットの要求を堅持するために亡命して数十年がたつのであり、チベットの魂かつ全チベット人のリーダーとして、彼は判断力を完全に失わない限り、そのような侮辱的な施しを「チャンス」とみなすことはあり得ない。

 ゆえに、ダライラマとの協力は彼個人についてではなく、彼のチベットについての主張に応え、彼がチベットのために勝ち取るよう努力している利益を満足させなければならない。ただこの点について、人々はすでに自信を失っているようで、北京とダライラマの間には共通点を見つけられず、全く背反する立場と埋めることのできない溝しかなく、袋小路に入ることが避けられない必然のように見える。

 だが、双方の根本的な要求を詳細に検討すると、お互い矛盾するものではないし、同じ領域に属してさえいないので、衝突する必然性が全くない。北京が保証したいのは中国のチベットに対する主権であり、小平の言葉によれば「独立以外は何でも議論できる」。ダライラマの要求はチベットの宗教と文化の保存である。

 彼は言う「私はチベットの独立を求めてはいない。これまで何度も言ってきたように、私が求めているのはチベット人が名実ともに自治を享受し、自らの文明・独特の文化・宗教・言語・生活方式を保存できることであり、そしてそれを発揚させられることである。私が最も関心を寄せているのは、チベット人の非常に独特な仏教文化遺産を確実に保存することである」(注35)。

 片方は主権を求め、もう片方は宗教と文化を求める。この二つの要求は相互に受け入れられない理由はない。しかも、ダライラマは繰り返し独立は求めないと明言している。北京も繰り返しチベットの文化と宗教を保護すると約束してきたのに、なぜ受け入れられず、むしろ対立を強めているのだろうか?

 問題はどうやってお互いに安心するかだ。ダライラマが提起している基準は「中国はチベット独立を心配する必要はなく、チベット人もチベットの寺院が消失してしまうことを心配する必要がない」、「中国人が安心し、チベット人が安心する」ことである(注36)。しかし、安心には口約束ではなく、確かな保証が必要だ。ダライラマの視点からは、本当にチベットの宗教文化を保護するには「チベット人がチベットの内政を掌握し、自由に社会・経済・文化の発展政策を決められなければならない」(注37)。具体的には、「大チベットの範囲で民主制の高度な自治を実現する」必要がある。それが実現しなければ、チベット人は安心できない。

 一方、北京にとっては、四分の一の国土をチベット人の「高度な自治」に託するのでは、同様に安心できない。それは独裁政権が権力を分掌することを嫌うという一面の他にも、独裁であれ民主であれ、確かにすべての統治者が心配しないわけにはいかない一面がある。私が見るところ、「大チベット」は本当は心配することはない。それは一つの地域にすぎない。「高度な自治」も本当は心配する必要はない。独立の脅威がなければ、チベットが自己管理をすることは中国の負担を軽減するだけのことである。心配すべきは「民主」である。私がこういうのは、独裁権力が民主主義の立場に反対するということではなく、民主主義が中国のチベットに対する主権に及ぼすかもしれない脅威である。その種の脅威はたとえ中国に民主化が実現しても同様に存在する。民主主義の伝統が欠如し、同時に多くの怨恨を蓄積した民族関係のもとでは、民主主義は非常に簡単に民族主義を暴発させるボイラーになりうる。突然解き放たれた民主的環境の下で、大衆・エリート・メディアの3者の相互作用で形成される「広場効果」は、ほとんど必ず極端に向かう競争を展開し、極端が理性を淘汰し、さらなる極端が極端を淘汰する。その種の展開を我々は1989年の天安門広場で見ている。チベットのすべての民主制度と手続――住民投票(=レファレンダム)・選挙・立法・民意表明と言論の自由、いずれもが「広場効果」のもとで独立を支持するようになるかもしれない。もし国土の四分の一の「大チベット」が中国の版図から外れるとして、それを受け入れられる統治者がいるだろうか? この問題については、現在の北京政府が考慮しなければならないだけでなく、将来の北京民主政府も考慮しないわけにはいかない。しかも、より詳細かつ慎重に考慮しなければならない。なぜなら、現在の北京は暴力を使って問題を解決できるが、将来の北京は民主化の結果に対して暴力をふるうことはできないからだ。

 とはいえ、我々は少なくとも現在の北京とダライラマの間の分岐は目標にあるのではなく、目標に到達するための手段にあるに過ぎないことを知った。目標の対立は妥協できないとしても、手段の分岐は両立できないわけではない。なぜなら手段はつまるところ本質ではなく、話し合いが可能だからだ。双方がともに自らの目標を達成できるのであれば、手段の変更は問題ではない。ならばいま問題を一つに集中できないだろうか。すなわち、「広場効果」を避けることができるとともに民主主義の理念を実現する新しい民主的手段とは? それによって「中国人が安心する」ように中国のチベットに対する主権を保有し、同時に中国も反対する理由のない「大チベットの高度の自治」によって、「チベット人が安心する」チベット独自文化の継続と発揚を保証できる民主的手段とは?

 他の要因もいろいろあるが、私に見るところ、そのような民主的手段を見つけられるかどうかが、最後の鍵である。

2000年5月 ラサにて初稿
2000年7月 北京にて最終稿

原文:http://www.weekmag.com/html/3706.htm
注(引用文献名)は直接原文を参照されたい

王力雄:チベット問題解決の鍵(3)

2008-09-04 19:42:09 | 中国異論派選訳
王力雄:チベット問題解決の鍵(3)

チベット問題はもう引き延ばせない

 北京は今のところ時間に問題を解決させようとしているようだ。チベットは手の内にあるのだし、武器も手の内にあるのだから、ダライも大した騒ぎは起こせない。世界は中国の大市場を欲しているのだから、だれも本気で中国と対立しようとはしない。だから、ダライを無視し続けて、彼が死ぬまで待てば、亡命チベット人勢力は瓦解し、西側社会も担げるスターを失う。その時チベット自治区内で新しいダライを転生させて、チベット人の人心をまるめこめばいい。同時に、チベットの世俗化を進め、チベット人を中国人のように経済にだけ関心を持つようにさせれば、問題は小さくなる。

 とりあえずこの考え方のほかの面での問題は置いておくとして、一つの前提だけを検討すれば、希望を時間に託すことが可能だとしても、そのためには少なくとも現在の中国の政治体制と統制力を数十年間変えないことが必要である。すなわち、現在からダライラマ14世の逝去、そして北京が次代のダライラマを選んで成人させて初めて成果が得られる。政治体制と統制力が変化すれば、この引き延ばし作戦は中断し、それまでの引き延ばしも無駄になる。そして、この前提はまさに最も弱い前提である。現在の中国の政治体制がこれから先数十年も続くとはだれも信じていない。中共の改革拒絶は不変を維持できるのではなく、変化を遅れさせるに過ぎず、またそれは将来の変化を一層突然かつ激烈にさせるであろう。現代社会の政治制度転換はほとんどの場合民族間の衝突をともなう。その種の衝突も中国の政治転換の主要なチャレンジになるだろう。もし将来の中国の転換が爆発的あるいは崩壊的な性質であれば、結果はたぶんより深刻であり、チベット問題は真っ先にその矢面に立つだろう。

 現在の行政区画では、中国のチベット人地区(1つの自治区、10の自治州、2の自治県)の面積は225万平方キロメートルで、中国の領土の4分の1近くを占める。チベット亡命政府の言う「大チベット」は250万平方キロメートルであり(注26)、中国領土の4分の1を上回る。歴史的にチベットが中国に属していたかどうかは現在定説はないが、法理上どちらの解釈も可能である。チベット問題は現在世界で最も国際化した民族問題といわれ、西側社会はほとんどがダライラマの側に立っている。チベット人が北京政府から迫害されているというのがほとんどの西側の人の見方である。国連総会は1959年から1965年の間に3回チベット問題に関する決議を可決した。いずれもチベットを自決権の対象としている。これらのことからすれば、現在あたかも確実な中国のチベットに対する主権も決して危険がないわけではないことが分かる。時局が動いて、力のバランスが変化すれば、人権は主権よりも重いという西側の価値観のもとでは、ユーゴスラビア解体の前例もあり、西側世界が民族自決方式によりチベットの中国からの分離を認めるよう変化するという可能性もないわけではない。国際社会にとっては、ダライラマは誰よりもチベットを代表する資格があるので、彼の要求は条件さえ許せば合法性を有する可能性がある。ダライラマはかつて様々な場所でチベットが中国にとどまってもよいという意向を表明しているが、いまだに法的な承諾にはなっていないから、彼はいつでもチベット独立の立場に立ち戻ることができる。しかも、彼が責任を北京が返答しなかったことに帰せば、その立場の変化は必ずや西側の民意の幅広い理解と支持を得るであろう。

 中国が強大で安定していれば、そのような状況は発生しない。しかし、政治が急激に変化するときは、国家は非常に弱くなる。たとえ社会が大きく激動しなかったロシアでさえ、いまだに苦境から抜け出していない。現在の中国の政治変革回避からすれば、将来の動揺はたぶん非常に激烈であり、苦境も長く続くだろう。もし、その時経済が大幅に衰退すれば、中国内地はチベットにかまってはいられず、チベット駐留軍と政権は内地からの補給が断たれ、官僚と軍人は闘争心を失い、中国人はクモの子を散らすようにチベットを離れるだろう。その時どんな状況になるか? 辛亥革命期のチベットを前車のいましめとすることができる。なぜなら上述の状況はその時もみな発生したからだ。結果は、チベットは「中国人追い出し」を実行し、40年にわたる独立を維持した。

 中国内地の激動が何年も続かなくても、たとえ数ヶ月でも、すでにその時のために40年間準備し、公認のリーダーと成熟した政府をもつチベット人は独立へのハードルを越えて、中国が秩序を回復する前に既成事実を作るかもしれない。中国が再びチベットに対処できる力を蓄えた時には、対処しなければならないのはチベットだけでなく、西側全体だということを発見するだろう。その時、安定したばかりの中国は非常の弱いので、「多国籍軍」の軍事力に対処できないばかりか、それ自身の安定と生存さえ西側いかんにかかってくるだろう。今日の中国のグローバル化の進展は、そのときのための伏線となっている。経済の命脈を西側に握られていたら、まったく武力衝突の必要はなく、西側は経済的手段で中国を従わせることができる。1997年6月3日、米国バークレー市議会が全会一致で「中国占領下のチベットと商取引をする都市に制裁を科する」という議案を可決したことは、そのような未来図を示している。西側世界のチベット熱とダライラマ支持からすれば、ある日チベット問題をめぐって中国を共同で制裁するというのは決して幻想ではない。

 中国にとってチベット問題は新疆(=東トルキスタン)問題よりも深刻だという原因がここにある。チベット問題が抱える独立要因――歴史的に主権の帰属が未確定、国際化の程度、西側社会の支持、成熟した亡命政府、全チベット人がひれ伏し、世界的な影響力のあるリーダー、中国人人口の少なさ、そして政権安定の力をすべて中国内地資源に依存していること――を新疆問題はすべて備えてはいないし、備えていても程度が低い。これらすべての要因が組み合わさって、チベットと独立実現の間には一つのチャンスを残すのみである――すなわち、中国自体に内乱がおこることである。そして、北京の現在の政治改革拒絶は、チベットのためにその機会を準備しているに等しい。

 新疆問題が注目を引くのはその激しさである。中国で内乱が発生したら、新疆ではたぶん非常に血なまぐさい民族間の殺し合いが起こるだろう。しかし、新疆を中国から分離させるには、チベットの先導があって初めて可能である。チベット問題は中国の民族問題の群れを先導する羊であり、チベット問題が解決すれば、ほかの民族問題もそれに伴って解決し、チベット問題が解決しなければ、ほかの民族問題も必ずやそれに伴って爆発するだろう。

 ダライラマは今年65歳である。現在の人類の標準寿命と保健条件のもとでは、さらに20年生きるのも難しくない。そして20年のうちには中国の政治転換はほぼ必ず起こる。この時間関係を考慮すれば、ダライラマの役割は非常に重要である。チベット問題がどの方向にむかうかは、彼の態度にかかっている。チベットの人心は彼とともにあり、人民は彼の意志に従い、僧侶は彼のためなら水火をも辞さず、亡命政府は彼の意見を全面的に受け入れ、国際社会も彼の意見を尊重し、最大限支持している。もし彼を敵側に追いやり、対話の道・協力の道をふさぎ、やりきれない思いをさせれば、いったん社会転換の衝撃波が押し寄せた時、彼がチャンスの誘惑と潮流に巻き込まれてチベット独立の立場に転換しないとは保証できない。その時各種のチベット独立の要因が彼の旗のもとで統合され、合力となるので、チベットが中国から離脱する可能性は大幅に増加する。この面では、彼一人の役割は千万の軍隊を上回り、彼の老ラマの身体が西側世界の無尽の富を動員するかもしれない(注27)。彼に対するいかなる見下しも非常に大きな誤りであり、重大な代価を払うことになる。

 翻って、もし現在時機を失せずにダライラマに返答をし、彼と前向きな対話を行い、平等に交渉し、できるだけ早く彼が受け入れると表明している「チベットは中国にとどまる」という主張を法的文書にまとめれば、中国のチベットに対する主権は完全に合法化され、一挙に長期間混乱したチベット問題が解決する。チベットの主権に争いがあった原因の一つは、このような国際ルールに則った法的文書がなかったことである(注28)。ダライラマは国際的に認められたチベット民族の代表であり、彼が署名したこの種の文書は、チベット民族自身の選択とみなされ、チベット独立防止の最良の保証となる。チベット人であれ西側社会であれ、そのあとはチベット独立を提起する理由がなくなる。歴史的にもつれた争いも学術的なものに限定され、政治的には帳消しになる。そしてこのような法的文書は、ダライラマ14世が署名してはじめて世界から認められ、ダライラマ14世だけが大多数のチベット人に受け入れられる。

 なぜそう言えるのか? 他の要因は置くとして、ダライラマ14世は在任中に亡命し、名実ともにチベット政教一致の最高指導者だったことがある。だから、合意書署名に十分な合法的資格があるということが一つ。ダライラマ14世の身分には争いがない。だから、チベット民族全体が根本上師とみなし、彼の意見もチベット人に無条件で受け入れられるということが一つ。ダライラマ14世以外に、誰も上述の二つの要素を満足できない。たとえ後任のダライラマでも、チベットの世俗のリーダーになったことがない故に必要な権威に欠ける。当代のダライラマが亡くなっても、まだチベット問題が対立していたら、必ずや二人のダライラマが出現するだろう。その時、北京が立てたダライラマはチベット人からは傀儡とみなされ、上師としての資格を失い、国際社会からも認められない。自治区の外のダライラマも紛争の中なので、身分は同じように公認され難い。そして、いったん根本上師の身分が不明になれば、どのダライラマが法的文書に署名しても、いずれも大きな反対にあうだろう。他の人にはさらに可能性がない。

 現在のチベット人にはチベットの前途に様々な主張がある。とりわけ亡命チベット人の中には、中国にとどまることに反対し、チベット独立を主張する人の比率は大きい。ある見解によれば、13万亡命チベット人の中でただ一人チベット独立を主張しない人がいるが、それがダライラマだ、という。しかし、調査によれば、64.4%の亡命チベット人がチベット問題の前途についてダライラマが言う通りにすると答えている(注29)。チベット亡命議会は1997年に、ダライラマに住民投票を経ずにチベットの前途を決定することを授権する法案を可決した(注30)。私が国内のチベット人地区で各階層のチベット人に質問した時も、一番多い答えはダライラマの決定通りにする、というものだった。ゆえに、私はたとえダライラマが最終的に住民投票によってチベット人の意見を聞いたとしても、彼の提案であれば、必ずや多数の賛成を得られると信ずる。

 この点を考慮すると、中国とダライラマ14世の合意はいっそう意義が大きい。なぜなら、チベットのリーダーが署名した合意文書だけでなく、チベット人住民投票による承認も受けられるからだ。住民投票が付与する合法性は最高のものであり、いかなる反対の声も立脚する基盤を失ってしまう。しかし同じ案が、ダライラマ14世から出されたのでなければ、結果は全く異なる。すべてのチベット人が自分の考え方を持ち、批判する権利があるから、上師の権威がなければ、諸説紛々としてまとまらないだろう。議論が平行線をたどれば、従うことのできる世俗的裁定は住民投票だ。とりわけ将来の中国が民主化を実現したらそうなる。だが、その時の中国はチベット人の住民投票を認めるだろうか? ダライラマが上にいなくて、住民投票が急進的な民族感情に染まったり、民衆の名義で政客に扇動されたりしたら、投票結果はたぶんチベット独立が多数を占めるだろう。その時中国はどうするのか?

 よって、中国の長期的な利益から考えて、北京の賢いやりかたは現在のような引き延ばし策ではなく、ましてダライラマ14世の死亡に希望を託することではない。それは失策そのものである。なすべきは、ダライラマ14世が在世し、かつ健康なうちに、チベット問題の解決に着手し、できるだけ早く一度の苦労で末長い安定を勝ち取ることだ。時間の引き延ばしはダライラマにとって不利なだけでなく、中国にとっても同じように、あるいはより一層不利である。ダライラマをチベット問題解決の障害もしくは敵とみなすべきではない。彼はチベット問題の根本的解決の鍵である。もちろん、やり方を間違えれば、この問題解決の扉を開く鍵は、扉を閉じる鍵にもなる。

原文:http://www.weekmag.com/html/3706.htm

冉雲飛:洗脳の指導者郭沫若

2008-09-04 11:24:03 | Weblog

冉雲飛:洗脳の指導者郭沫若

洗脑导师郭沫若
冉云飞 @ 2008-9-4 7:53:53
冉按:四九年后知识分子的很多举动,如当吹鼓手如洗脑专家,都是大可悲悯的。我再三再四重申我的观点,将他们以前的那些言论发掘出来,不是为了证明我们比他们有后见之明,不是为了证明我们在道上比他们优越,不存在个人的你胜我败。而是藉此反省为何出现这样的问题,同时也借此观察现在我们周围这些使人变得愚蠢的洗脑言论是否已经绝迹。以我多年对教材特别是语文教材的的关注,变化是有的。洗脑方式稍有改变,以前我的语文课的第一课是“毛主席万岁”,小女2002年上小学的第一课是说上学了,到最后一句是“长大为人民立功劳”。“毛主席万岁”的不稽和洗脑功用,现在一般均可以看出来,但“长大为人民立功劳”的忽悠,恐怕能够立马感觉到问题的不如我们想像的那么多。这就像不少人看不出“科教兴国”、“国富民强”、“逼民致富无罪”这些口号里面的问题一样,因为洗脑成为我们的日常行为,使得许多人已经没有常识,当看到一句话的时候,分辨不出那些是背离常识来忽悠我们的利益的。

 

郭沫若先生是有才华的,他的才华不在他的诗歌写作(从诗歌史上看,自有其价值,但就诗歌本身来说实乃不能垂诸久远的过渡产品),不在他的剧本写作,在他尚有问题的史学研究(甲骨、十批判书等,至于后来“李白与杜甫”那是仰体圣意的结晶)中。相对共产党来说,国民党“反动派”还是有雅量的,至少保持一定意义上的学术中立,所以1948年第一届中科院院士,已经左相毕露的郭沫若还能当选。四九年后的郭先生经历了辉煌与屈辱,除了一种无所不在的压迫外,他的“与时俱进”使他成了共产党意义上的知识分子的“楷模”。任何需要表态的时候,他必然出来率先垂范,明知是火坑也要表演着让学生往其中跳,帮着坑害青年人而让其成为官方“接班人”,成了郭先生四九年后的主要工作,这方面的例子不胜枚举。只有一项一项地罗列出来让大家观看。郭先生的遭遇尤其晚年对自己儿子被害而不能搭救,其情其苦实在难以言状,我们理当寄予深深的同情。但郭先生是否意识到,自己在某种意义上成了害死自己孩子的帮凶呢?

 

下面是郭沫若关于“又红又专”之讨论时,写给青年同学的一封信。以导师面目来洗脑,可达事半功倍之效。所以此集中除了不少政客的说教外,单列了一集对青年人有至深影响的专家们的“思想示范”,其文分别为:郭沫若《讨论红与专》、刘仙洲《同青年们谈谈“政治和业务”的问题》、钱学森《“先专后红”是不是捷径》、裴文中《跟青年人谈红与专的问题》、梁思诚《“红”“专”还有先后问题吗?》、朱光潜《不能先打毒针而后医治》、高士其《又“红”又“专”是唯一正确的道路》。郭先生说学生不爱做实验,说实在的问题不在学生身上,多出在我们教育的问题上,稍微真懂点教育的人恐怕不难清楚。姑节录郭沫若《讨论红与专》如下:

……

我倒替同学们耽心。那就是时代太好了,可能反而发生些不好的作用。你们没有受过艰苦环境的锻炼。一不注意,你们可能成为温室的花草,经不起风霜。这是值得警的。养成重视劳动并从事劳动的习惯十分必要。近年来有些青年朋友,急于想成为专家,只抱着书本子啃,连科学实验也不肯做,那是大错而特错!那种大少爷作风当然红不起来,也绝对专不起来。自己不动手做实验的科学家,以往不曾有过,以后也永远不会有。

 

有的同学问我:红到底以什么为标志,是不是以党员为标志?我的看法是应该以忠于社会主义事业、忠于祖国、忠于党为标志。我们每一个人都应该做一个好公民,做一个毛主席的好学生,树立无产阶级的人生观,全心全意地在党的领导下献出自己的一切,为社会主义建设服务,为人民服务。这可以算作红的标志。

 

成为党员是最光荣的事,我希望每一个青年同学都鼓足干劲,使自己有资格成为光荣的共产党员。但如果不能成为党员也不要灰心,我们总要永远以普通劳动者自处,有一份能量,放一分光热。

……

 

(选自《论又红又专》,中国青年出版社1958年4月第一版,6月重庆第3次印刷,印数200000册)

 

2008年9月4日7:52分于成都

出典:http://www.bullog.cn/blogs/ranyunfei/archives/173486.aspx


凌滄洲など:中秋節文化宣言(言論の自由を求める宣言)

2008-09-03 19:22:33 | Weblog

   《中秋节文化宣言》

 

一年一度秋风劲。在中国大陆第一个中秋节(9月14日)法定公休日来临之际,我们放眼世界,回看历史,追溯我们祖先追求自由的传统,召回他们追求自由的勇气。

中秋节的传说中,最震撼人心的,莫过于传说月饼曾传递人们追求自由、反抗暴政的信息。

历史记载:公元13世纪到14世纪中叶,在蒙元汗国暴政的统治下,奴隶大杂院中人分四等,第一等是征服者阶层蒙古人,第二等是色目人,第三等是汉人(指中原先征服的各族),第四等为南人(江南人),蒙元汗国实施种族歧视和剥夺自由政策,不仅每隔几年就重申禁止汉人拥有兵器、养马、炼铁等禁令,也禁止汉人学习蒙古文。蒙古人殴杀汉人不必偿命,赔一头驴子的价钱即可。在这种暴政之下,人民奋起反抗暴政。

中国传说:朱元璋联合各路反抗力量准备起义。但蒙元官兵搜查十分严密,传递消息十分困难。军师刘伯温便想出一计策,命令属下把藏有"八月十五夜起义"的纸条藏入月饼里面,再派人分头传送到各地起义军中,通知他们在八月十五日晚上起义响应。到了起义的那天,各路义军一齐响应,人民抗暴势不可挡。

这个追求自由平等,反抗强权,用月饼作为媒体传递信息的故事,寄托了中国人民美好的期望。

今天,当人们在购买、食用中国传统美食——月饼时,有多少人能知道蒙元汗国种族歧视的野蛮史和中华祖先反抗暴政、追求自由的智慧?有多少人能思考:当文字狱疯狂的年代,别说月饼传递反抗的信息,吟一首诗歌、写篇文章也会锒铛入狱、身死名裂、凌迟处斩、株连九族?有多少人能思考:在人类文明的先进成果互联网上,每天蒸发、屏蔽的帖子有多少?有多少防火墙和网管、五毛在偷偷摸摸地行动,阻断思想和言论的自由传播,把我们民族弱智、恐吓、退化为野蛮人?!

为此,我们在中秋节前夕发出三点呼吁

1,我们一方面要把中秋节过成中国人尊重传统、尊重家庭亲情的节日,一方面也要把中秋节过成中国言论自由节。我们要冲破一切心灵内外的枷锁,自由地表达我们对世界的看法。 一切钳制言论自由的屠夫与掠夺者,必将遭到我们的唾弃。

2, 我们认为,体育上的金牌固然是中国人竞技体育进步的标志, 但言论自由的金牌,民选票选的金牌,才是每个中华民族的儿女应该努力追求、无比渴望的。传说我们的祖先曾经用月饼来偷渡他们追求自由的信息,他们的月饼是他们勇气和自由当之无愧的金牌。当我们回忆祖先追求自由的光荣传统,在未来若干年,如果言论自由节的设想能付诸实现,言论自由金牌的模样一定要参照月饼设计。

3, 鉴于几年前韩国端午祭成功申请为世界非物质文化遗产,中国朝野不仅有了对传统节日申遗的紧迫感,也在张罗把中秋节申报为世界非物质文化遗产,我们特别提醒中国朝野诸公:中国中秋节的文化传统的精髓就在于这个作为自由媒介的月饼。塞了起义字条的月饼,就是中国式的"莱克星顿的枪声"!

对于我们来说,言论自由甚至比衣食更加重要,言论自由是区分一个人是奴隶还是自由人的显著标志。

"幸福是自由的果实,自由是勇气的果实。"我们在年年中秋节的夜晚,想起我们祖先追求自由、反抗暴政的勇气与智慧,我们确信我们的呼吁尽管是争议性话题,但终将被人们讨论。

发起人、执笔人:凌沧洲(北京学者,资深媒体人)

联署人:

凌沧洲(北京学者,资深媒体人)

田路(北京期刊主编)

滕彪(北京学者)

昝爱宗(浙江作家)

冉云飞(四川学者)

赵国君(北京学者)

许志永(北京学者)

张星水(北京学者)

杜兆勇(北京学者)

李愚(北京期刊编辑)

张亦刚(广州期刊编辑)

黄梓峰(北京报纸编辑)

庄道鹤(浙江学者)

温克坚(浙江学者)

出典:http://www.rfa.org/mandarin/yataibaodao/zhong-09022008082834.html


王力雄:チベット問題解決の鍵(2)

2008-09-03 16:06:01 | 中国異論派選訳
王力雄:チベット問題解決の鍵(2)

ダライラマとチベットの人心

 北京の無神論の視野からは、ダライラマには軍隊もないし、地盤もない。ただの「グッチの革靴を履いて、世界を東奔西走し、政治活動をする年老いたラマ」(注22)にすぎない。しかし、この世界には権力だけがあるのではない。権力は形ある事物は統制できるが、ダライラマの基礎は宗教であり、宗教を権力は思うようには動かせない。歴史の舞台上で権力は瞬く間に入れ替わるが、宗教は千年も風雨に曝されても倒れない。北京は、14世ダライラマが40年も亡命し続けているのに、彼を見たこともないチベット自治区内のチベット人がなぜ今でも彼を熱狂的に崇拝しているのかをまじめに考えるべきである。それは個人の作用ではなく、ダライラマのチベット宗教における制度的地位による。ダライラマはチベット人にとって観世音菩薩の生まれ変わりであり、チベット宗教結束の核であり、チベットの政治・宗教・歴史の支点である。ダライ体制の存在なくして、これまでの500年余りのチベット宗教は枠組みを失い、仏教思想に育まれたチベット文化も失われてしまう。だからチベット人にとっては、ダライ体制は絶対神聖であり、冒涜は許されない。

 北京が反対しているのは、インドに亡命している当代のダライラマであるが、チベット宗教の転生観によれば、ダライラマは今までに14回継承されたのであり、14人ではなく、一人の観世音菩薩の魂が別々の身体に乗り移ってきたのだ。だから、当代のダライラマと以前のダライラマを分けることはできない。北京がもし自分たちが反対しているのは当代の「祖国を分裂させる」テンジン・ギャツォであり、先代のダライラマたちとは関係ないと言い張ったら、魂の輪廻転生と仏教精神の永続不滅の学説を否定するに等しい。それはチベット仏教の根本を否定することになる。よって北京はどうしてもチベット仏教を尊重すると宣言することができないだけでなく、14世ダライラマ反対の問題でつじつまを合わせることもできない。

 仏教は、生命は六道輪廻の中で循環し、絶え間なく苦しみを受ける過程であると考える。地獄に落ちることは言うまでもなく、たとえ物質生活が満ち足りていても、精神の煩悩と病気や死の苦しみから逃れることはできない。唯一の解脱の道は修練して成仏することであり、そうしてはじめて六道輪廻の苦しみから離脱して、極楽浄土の永遠の安楽を得られる。これこそがチベット人の追求する人生の終極的な意義と目標である。そして成仏の道で最も重要なのは上師に帰依することである。いわゆる上師とは修練して成仏した人である。しかし彼らは衆生を済度するために、自らは仏の世界の安楽を放棄し、転生の繰り返しの苦しみに耐え、何度も人の世に引き返して衆生の解脱を助ける。上師とは信徒と仏の世界との間の架け橋である。チベット人によると「上師がいなければ、すべての仏が私にほほ笑んでも気づかない」。だから、チベット人の毎日の祈りはまず上師への帰依の表明であり、次に、仏法僧への帰依である。チベット仏教では、上師の地位はこの上もなく高い。ブッダ=シャカムニをのぞけば、チベット人が次に崇拝するのが上師である。

 上師は修行の段階、成果、伝統的地位によっていくつかの等級に分かれる。ダライラマは観世音菩薩の化身であり、また全チベットの精神と世俗のリーダーであり、最高等級である。継承の上では上師の上師であり、すべての教派の一致した帰依を得ている。よって、さかのぼってみれば、ダライラマはすべてのチベット仏教信者(ほとんどすべてのチベット人)にとって、根本上師である。

 チベット仏教では、上師の教えを離れては成仏できず、永久に解脱しないで輪廻に苦しまなければならないので、上師がいかにチベット人にとって尊いかわかるだろう。日常の思想や行為の中で、上師に対する身体、口頭、意識のいかなる不敬も、最大の罪となり、学んだ仏法と修練が水泡に帰すだけでなく、地獄に落ちてしまうのだから、チベット人がいかに受け入れ難いかがわかるだろう。彼らには次のような戒律がある。「自分の上師を批判するぐらいなら舌を切る。なぜなら上師はブッダ自身を代表し、上師の悪口を言うことはブッダの悪口を言うことだから」。このことが分かれば、チベット人の中のダライラマを打倒できないこと、そしてチベット人にダライラマを攻撃するよう強要することでどんな反応を引き起こすかは難なくわかるだろう。

 シガツェのタシルンポ寺のチャドゥレ活仏住職は、かつて全国政治協商会議常務委員、チベット自治区政治協商会議副主席だった頃、ふだんは北京に絶対服従していて、一部のチベット人からは「チベットの裏切り者」とののしられていた。パンチェンラマ10世が亡くなった後、北京は安心してパンチェンラマの転生霊童探しを任せた。このチベット宗教の根本原則にかかわる事柄に直面して、彼が内心でだれにもっとも忠誠をつくしているのかが明らかになった。彼はこっそり霊童探しの状況を逐一ダライラマに報告し、ついにはダライラマが中共よりも先にパンチェンラマの転生霊童を確認した。逆上した北京は彼に8年の懲役を科したが、彼は少しも後悔していない。「私は比丘戒を受け、ダライラマに灌頂してもらったのだ。私は潅頂上師の意思に従わなければならない、そうしなければ天国に行けない。」(注23)。宗教信者が信者であるのは、宗教に献身するためである。彼らに世俗政党と政府への愛情を宗教の上に置かせようとしたら、全く宗教の本質に反してしまう。むしろ宗教目標実現のために自己を犠牲にすることこそが、彼らが求める光栄である。

 だから、北京がダライラマを打倒してチベットの悪循環を断ち切ろうとしても、目標は実現しようもない。むしろ、チベット人の恨みを強めるばかりである。「寺院整頓」の過程で、多くの僧侶が寺から追い出されても中共工作組の要求に従ってダライラマを公然と批判しようとはしなかった。彼らは彼らを強制して自分の上師を侮辱させようとした勢力を悪魔とみなすだろう。公職にあるチベット人は一般に僧侶より簡単に屈服する。なぜなら彼らの生活の糧が当局に握られているからだ。流行りの言い方だと「現世では共産党に頼り、来世ではダライラマに頼る」という考えだ。しかし、彼らもこのような衝突ではバランスが取れない。なぜなら、現世でうそをついたら、来世(ときに累世)の応報を受けるからだ。この意味から言えば、共産党が払う給料は彼らが地獄に落ちるための旅費である。彼らはみな、そのために内心苦しんでおり、日ごとにそれが恨みに転化している。むしろ、ダライラマは国内のチベット人が強制されて彼を攻撃することを許すと何度も表明して、彼らの内心の圧力を軽減している。そして、彼らの心はいっそうダライラマに向いている。

 今日のチベット寺院では公然とダライラマの写真を飾っているところは見られないが、僧侶たちはダライラマの写真を仏像の服の中に隠したり、ハタ(絹布)に包んで仏壇に入れたりしている。公の場はどこでも観世音像である。それはダライラマの代替品である。観世音はダライラマだということは誰でも知っている。一般民家では、ダライラマの写真はやはりほとんどの家にある。またダライラマの法話の録音テープとビデオテープも秘密裏に流通し、辺鄙なチベット農村でも、多くの人がダランサラのラジオを聴いている。

 人民に「忘れさせ」ようと企てたり、「宗教を薄めよう」と企てたりすることはいずれも古典的な発想である。むかし「忘れ」たり「薄め」たりできたのは、情報を独占し封鎖することができたからだ。今日ではどんな強権政府にもそれはできない。憎しみをもし早めに取り除くことができなければ、今日のメディアによって強化され、広められ、さらにはゆがめられ、永遠に忘れられることはない。たとえ、一時的に片隅に追いやられても、機会さえあればいつでも勢いを盛り返して吹き荒れる。

 今日、最大の気勢でダライラマに反対し、猛烈・決然とやったとしても、文化大革命を上回ることができるだろうか? 文革の時チベットの宗教は徹底的に破壊されたが、今日の復興して勢い盛んなさまを見よ。あのように凶暴な革命でさえチベット人のダライラマに対する崇拝を根こそぎにすることはできなかったのに、いまの「清算整頓」や「公職追放」でどんな効果が期待できよう?

 中共の人間はその点理解していない。陳奎元書記は不平をこぼす「ここ数年、我々が寺院の修復に使った金は各種の共産党や政府の建物の建築に使った金より多い。自治区の一部の地方では、寺院の数は平和解放(=共産党の軍事占領)の時よりも多い。宗教組織と宗教者は恩に報いるべきだ。分裂主義分子が宗教の名で悪事を働くのを放任すべきではない。」(注24)。しかし、人の本質は精神にあり、物を与えただけで満足するものではない。北京は人権を「生存権」と同じとしているが、その誤りがここにある。「経済発展」を少数民族政策とするのは誤った政策であることの理由もそこにある。民族政策の鍵は心である。物は心にあらず、物で心が買えるとは限らない。「茶碗をもって肉を食べ、箸をおいて母を罵る」のは少しも奇妙なことではない。チベット人は次のようにいう「彼ら(中国人)は我々に99件の良いことをしたかもしれないが、最後にやったことは我々を殺そうとしたことだ。我々は彼らに感謝すべきだろうか?」(注25)。「殺そうとした」とは、チベット宗教の圧殺のことである。チベット人に宗教がなかったら、生命がないのと同じなのだ。

原文:http://www.weekmag.com/html/3706.htm

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チベット問題解決の鍵(1)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/
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