【ML251 (Marketing Lab 251)】文化マーケティング・トレンド分析

トレンド分析ML251の文化マーケティング関連Blogです。ML251の主業務はトレンド分析をコアにしたデスクリサーチ。

橋本治 金言集 『絶滅女類図鑑』 読書メモ (コメントなし) <その4>

2012年05月11日 | マーケティング話
<その3>より続く。

■マーケティング

「若い女の感性が分からなければ、もうビジネスは出来ない」ということが言われ出して、マーケティングというものが流行語になった。「マーケティング」ということをやるやつは、「若い女の流行を知っている人間」だった。この時期から、日本の文化というものは、にわかに軽薄になった。どこにでも女がいて、「女がいる」ということは「商売として成り立つ」ということで、マーケティング社会における商売の成功を夢見る男は、女以上の女のディテールに詳しくなった。
(「男よりも色気がない?<裏>」238ページ)

■美女の達成基準

もうやめるけど、自己達成の基準だけで作られた「美人」の中には、「他者」がない。そういうものがない以上、「他者への譲歩」などというものは起りようがない。そういう美人達に向かって「色気の必要」を説いたって、「受験科目が増えた!」といってパニックを起こす受験生と同じになるだけだ。
 (中略)
「達成基準としての美人」という考え方を捨てなければ、「色気」も「成熟」も「大人の女」も「知的な雰囲気」も「さりげなさ」も「いい女」も、みんな空回りしてむなしくなるだけだ。
(「男よりも色気がない?<裏>」248~249ページ)

<その5>に続く。

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男の色気にも「譲歩」はいるのだろうか? と。
私の「ロールモデル」(↓)。
このヴァージョンのベース弾いてたは、私の楽器の先生に間違いない。
音色とラインですぐわかる。
鮎川さんのギターのそうだけど、音を聴いただけで、「この人」とわかるプレーヤーは今でも憧れだ。
仕事にしろ、文章の文体=クセや“匂い”にしろ、「あっ! この人だ」とわかる。
そういう自分を目指したい。
橋本治がこの本を書いた94年は、私が先生に弟子入りした年だったと思う。

アイ・ラヴ・ユー ビールス・カプセル 鮎川誠


絶滅女類図鑑 (文春文庫)
橋本 治
文藝春秋

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橋本治 金言集 『絶滅女類図鑑』 読書メモ (コメントなし) <その3>

2012年05月10日 | マーケティング話
<その2>より続く。

■男のセックス、女の結婚

男は“誰”とセックスするのか?
この答えは、「男は、自分自身の性欲とセックスする」のである。だから、男の性行動は、いつも「おおむねは正常だが、絶えずヘンタイの要素を含んでいる」ということである。これは同時に、「おおむねは安定しているが、絶えず波乱の要素を含んでいる」ということでもある。誤解しないように。「ヘンタイだって浮気する」のである。
 (中略)
女の場合は、「女は“誰”と結婚するのか?」である。

女は“誰”と結婚するのか?
男とするわけではない。結婚式を挙げる相手は“男”だが、だからといって、女が男と結婚するわけではない。
女は“家庭”と結婚するのである。
女は、結婚して家庭に入るのではない。女は、男の家庭と結婚するのでもない、女は、“自分の家庭”と結婚するのだ。結婚してしばらくして子供が出来てまたしばらくしてしまえば、このことは誰にでも自動的に分かる。
 (中略)
女は場所と結婚し、男は観念と共にセックスを作り上げる-きっと試験には出ないが、そういうものだ。

女は、“自分の家庭”と結婚する。だから、“家庭”というものがイメージ出来ない女は、男と恋愛だけをする。何度結婚しても必ず離婚して、何度結婚しても必ず夫以外の男と厄介な問題を起こしてしまう女とは、だから、“家庭”というものがイメージできない女なのだ。そういう女は、平気で子供を生み捨てにするのだろうと、私は思っている。
 (中略)
男はへんな夢を見るために、“自分”という孤独を守る。女は、“他人への幻想”の中で、平気で孤独を生きる。
男と女は違って、「違う」からこそ、「つきあう」ということが重要になる。重要なのは、「つきあい方」という「方法」なのに、どうしてああも「愛情」という無秩序な一体化ばかりを問題にするんだろうと、私は公然と不思議がっている。

(「男よりも色気がない?<裏>」234~236ページ。太字部分は引用者)
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3つ以上のビジネス案件を検討しなければならないし、今日は頑張ったし、明日は早いこともあり、もう寝たいので、クライマックスの<その3>はここまで。
<その4>に続く。

「男はへんな夢を見るために、“自分”という孤独を守る」、か・・・。

♪ Oh, Lord, Loosen My Lips.

U2 - Gloria (1981)


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橋本治 金言集 『絶滅女類図鑑』 読書メモ (コメントなし) <その2>

2012年05月09日 | マーケティング話
<その1>より続く。

■女と男の性差・仕事・体

そういう高度成長の中で、女の社会進出の時代がやって来る。「女の時代」には、「意識」と「自律」と「体」の三つを合言葉にして、会社人間の男達の前にやって来るのだった。
(「健康ギャルは不思議に笑う<裏> 118ページ)

「女性の社会参加!」を言って、頭でそれを達成しようとしたって、どこかでなにかがネックになる。それはなにかと言ったら、「女の体が男の体とは違ったシステムを持っているから」である。そしてこのことは、なかなか理解されなかった。
というのは、男の中に、「自分の体」という発想がなかったからである。男にとって重要なことは、「社会の要請にこたえうる健康」があるかないかで、それがありさえすれば、「自分の体」などという、変態じみてメンドーな発想は必要なかった。
 (中略)
男の中には、「自分なりのシステムを持った自分の肉体」という発想があまりない。
(「健康ギャルは不思議に笑う<裏> 121~122ページ)

女が社会に進出するようになって以来、あきらかに、「病気ではないが体調が悪い」状態に対処する「東洋」が市民権を獲得した。つまり、男の社会の中で。女はあきらかに「体調を崩す」のである。

男は、「健康」という精神だけで生きている。ここには「自分の体」がない。男は観念の労働者で、自分の欲望がすり切れるまで、この観念と戦う。男の過労死はあきらかに「戦死」で、女の過労死はあきらかに「事故死」だ。
 (中略)
女が社会に進出して、男も女も、この社会に出て来た女に対して、「男なみ」を要求した。それが出来ないと、「だから女はだらしない」というレッテルを貼るようになった。がしかし、「男の体」と「女の体」は違うのだ。女の体は、自分なりの「生体リズム」というものを持っていて、男にはあまりそういうものがない。男は、そういうものよりも、「自分」という観念を刺激してくれる「仕事」という欲望がないと、生きた気がしない生き物なのだ。
つまり、男にとって、仕事とは、本来「娯楽」の一種なのである。仕事に、あんまり「男の生きがい」なんてものを賭けない方がいい。それをして、女という他人の生体リズムを壊してしまうよりも、「仕事は私の趣味、生きがいは私の人生の造形」などということにしておいたほうがいいだろう。所詮は、そんなものなのである。
だから女だって、「すぐに弱音を吐いてしまう私は、だらしのない女なのだろうか?」などというつまらない考え方をしない方がいい。「これが“体”というものなのだ」ということを、女は少し“女という自分の体”を離れて、男達にも説いてやるべきなのだろうと、私なんかは思っている。
(「健康ギャルは不思議に笑う<裏>」 128ページ。太字は引用者)

働いた女は、だから男達に対して、「労働における肉体の限度」というものを、改めて教えてやった方がいい。それが、この先の人間の社会のためである。そういうことをちゃんと認識出来ない愚かな女だけが、「やりすぎ」という極端に走るのだ。ダイエットのくだらなさは、それが「体を動かさない運動」だからだろうと、私は勝手に思っているのだった。
(「健康ギャルは不思議に笑う<裏> 129ページ)

■女の行動論理

健康で普通の感性を持った魅力的な女というものは、「他人の立場に身を置いてものを考える」ということをしない。誓って言うけれども、私の知っている、まともで美しくて知的で頭がよくて、しかも“それだけ”じゃ全然ない、魅力的な女の全員がそうだ。
 (中略)
別にいやみで言っているわけじゃない。男というものは往々にして、自分とは関係のない他人の内部に深入りしすぎてしまって、それで“自分”なんかを見失ってしまうもんだから、こういう健康的な現実性というものは必要なのである。
 (中略)
女がどうして、自分とは異質な同性の存在を認めながらも、その内面に深く立ち入ってものを考えたりしないのかということの根本は、これだと思う。「考えたってしょうがない」と。

なぜ「考えてもしょうがない」のかというと、まともな女が“安定した自分”というものをつかまえるのに一生懸命だからである。「ひたむき」という言葉を使ってもいい。だから、“女”の“まとも”の中心は、その行動論理にある。
 (中略)
女は基本的に、“行動の人”だし、“行動を願望する人”である。だからこそ、「“自分のこれから先”の参考にならない人間の立場をああだこうだ考えたってしょうがない」ということになる。そういう結論は簡単に出て、「私、そういう人間のことを考えたくないのよ」ということになる。いたって明快で、私はそういう女が好きだ。そしてもちろん、そういう女が“思いやりに欠ける”ということは、あんまりない。
(「女のオタク<表>」 134~135ページ・太字は引用者)

「イマジネーションの欠落は、熟知した社会習慣によって埋める」というのが女の“まとも”だから、私はつくづく、女というものは“行動の人”なんだと思う。女が時折示す“矛盾”というものは、「まだ分からないでいることに対する保留処分がうっかりと出てしまった」というだけのことなんだから、男を糾弾するみたいに責めてもしょーがないぞ。

というわけで、男はみんな、もっと女を働かせた方がいいと思うし、社会参加なんかをどんどんやらせたほうがいいと思う。行動力でいえば、余分な他人のことなんか考えない分、女の方が上なのである。ただし、うかつな野放しをすると、いつの間にか世の中全体がカカア天下になるだけで、これが完成してしまうと、もう男の内面というのは一切日の目が見られないものになってしまう。マザコンの悲劇と大新聞の正義は、女が“行動の人”であることを見誤った結果の同一である。
(「女のオタク<表>」 136ページ)

■基準

人間というのは、やっぱり“自分の基準”と“他人の基準”との間で生きているようなもんだから、その調整でウロウロするのはしょうがないもんだと思った方がいいと思うな。二つの基準の間でウロウロする人間的な行動を、“正体”だの“妄執”だの“偽善”だのと言ってもしょうがない。
(「関寺小町1990<表>」 152ページ)

■男社会と女の翻訳作業

女は「男」になって、男達の作っている「世の中」というものの仕組みを知る。知って、そしてその時には、もう彼女の中から「女」がなくなっている。
「男」になったのは、自分という女をよりよく生かすためなのだから、そのまんまじゃどうにもならない。
「男」になることによって知った事実をそのままにして、今度は、自分を女に戻す。戻して、自分の知った事実を、「女に必要な知識」へと、自分で翻訳する。
こうして得られたものは、しかし、これでもまだ役には立たない。翻訳の結果得られたものは、「自分という女に必要な知識」ではまだなくて、その自分も含む、「女一般に必要な知識」だからである。
だから、ここに最終段階として、「女一般の方法」から「自分という女のための方法」を割り出す作業がくっついて、やっと「世の中で生きて行く」ということが可能になる。
なんともメンドくさい。メンドくさくて厄介で、しかもとんでもなくむずかしい作業だ。

「男になる」ということは、ちょっと我慢して、ちょっと努力すれば、まァ、出来る。しかしそれを、「女のもの」として翻訳しなおすのは、とんでもなくむずかしい。それは、「世の中」から、「人間のすることとはいかなるものであるか」ということを、抽出することでもあるからだ。
(「声も丸文字、頭も丸文字・・・・・・<裏>」 204~205ページ)

*クライマックスの<その3>に続く。

絶滅女類図鑑 (文春文庫)
橋本 治
文藝春秋

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橋本治 金言集 『絶滅女類図鑑』 読書メモ (コメントなし) <その1>

2012年05月08日 | マーケティング話
連休中、実家の書棚にあった橋本治『絶滅女類図鑑』(文藝春秋社、1994年)に眼を通したらこれが結構面白かった。
書棚に橋本治の単行本は3冊見えるが、この本を含め数冊は実家に置いたままだった。
最近、「プチ80年代検証マイブーム」なので、メモをとっておく。
メモなのでコメントはなし。章題だけ自分で決めた。
コメントを書かないのは面倒臭いからだが、結構、自分の身には入っている。
「なるほど!」と思わされる知見も多い。
これから自分が人様に向けて発信(有料・無料)するときの根拠になったりするだろう。
やはり、現在と未来の姿をみるには、過去の「歴史」認識は不可欠なのだ。
だから、ここにメモったことは単に「懐かしい過去のこと」ではない。
「これが、こうして、ああなって」といった“ルート”がよく見えるのである。
「古い!」と思ってそのままにしてしまうのは、思考停止である。
大切なことは「古い!」と思った状況が、現在にどう通じているのか? を把握することなのだ。

さらに、橋本治の紡ぎだす言葉には、汎時代的な普遍性をもっていたりする。
橋本治の著書をすべて読んだわけではないが、私にとって橋本治は作家というより思想家だ。
体系的な理論を構築したわけではないが、思想家だ。

この記事を読まれた方が、「つまらない」とか「わからない」と感じられても、一切、私の関知するところではない。
なにせ、自分のためだけにメモっているからである。
それ言っちゃうと、、、ま、ブログなんてそんなもんなんだけどね、無料だし。
(言い方まで橋本治チックになってきたぞ・・・)

同書の刊行は1994年。
1989年秋に文藝春秋社から創刊された女性誌『CREA』(90年代、私も割と読んでた)に連載された橋本のエッセイ(13回)を単行本化したものだが、1989年から1990年の連載時のエッセイと、1994年当時の「注釈」が、それぞれ<表>、<裏>として構成されているユニークな本である。
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■80年代消費社会の成熟とW浅野のこと

W浅野とは、男を介在させずに女達と直交渉をする“いい女”である。男達にもう“いい女”というものが分からなくなって、「君達にはどういう女が“いい女”なの?」と訊いた結果が“W浅野”なんだからしょうがない。これを「いらない」と言ってしまうということは、「私達もう十分にいい女なんだから、つまらないお手本なんかいらない」ということになる。
「ほら、もうあと一歩で言っちゃうでしょ?」ということである。「ホントにそうなるんだよ、覚悟はできてる?」ということである。
「結構な自覚を持った女達が増えるのはいいなァ」と、私なんかは思ってしまうのだが、大丈夫でしょうね?
(「W浅野はもういらない<表>」29ページ)

それくらい、日本の若い女達は、ガイジンなのである。馴染みのある、そして希少価値だけが売り物になっている贋物の方が、日本では本当の本物よりも、ずっと価値が高いのである。
さて、いつの間にか、日本の若い女達はガイジンになっていた。だから、そんな彼女達にとって、既成の日本の女は、みんなダサくてしょうがなかった。自分達のリアリティーにふさわしい、「日本製のガイジン女優」が必要だった。
「W浅野」というものは、そういうものだったのだろうと、私は思う。戦後日本の飽くことのないモデルチェンジは、「日本製の本物のガイジン」の誕生まで必要なことだったのだろう。
W浅野は、その遂に完成した「日本製ガイジン」だろうと、私は思う。
(「W浅野はもういらない<裏>」42~43ページ)

金のかかったCMの中にこそ現実はあって、現実の中に現実はない。なぜならば、現実の中にいるのは所詮日本人であって、ガイジンになってしまった若い女は、男社会の作ってくれたCMの中でしか生きられないからだ。
W浅野は、そういう成熟した消費社会の中で、ほとんど唯一の消費者である若い女が、「ああ、あれこそが私だ」と実感出来るような、最初のガイジンモデルだったのである。
(「W浅野はもういらない<裏>」44ページ)

■団塊の世代とは?(橋本治も団塊世代)

団塊の世代は、“自分”を主張するくせに、しかし絶対に“自分”なるものの実態を明らかにしない。“自分”とは“自分達”という仲間の中にあって、“自分”なるものがなにかを代表するんだったら、“自分達のある部分”を代表するものだと思っている。
だから、“自分の立場”だけあって“自分”がない。「“自分”を問題にする薄汚さ」とはこれである。
団塊の世代は、その意に反して、とっても女性的で、とっても官僚的なのだ。
(「団塊のオールドミスは土井たか子になれるのか?<表>」53ページ)

団塊の女というのは、妻には向かない。だからもちろん、母にも向かない。かろうじて“友達のような母”にだけなれる。団塊の世代の女は、だから“永遠のガールフレンド”で、それ以上のものではない。彼女たちは妻になる訓練を受けてはいないし、妻になる訓練をあるところで拒んでしまった“都市の娘”だから。
(同上)

妻に向かない女がなんで妻をやっているのかというと、それはもちろん、団塊の世代の第一テーゼが“仲間”だからだ。妻には向かない女の方が、この世代の妻には向いている。彼女らにとって“夫”とは“仲間”であって、彼女らが“友達夫婦”を日本に定着させた。だから-団塊の世代はおかしなことになる。
(「団塊のオールドミスは土井たか子になれるのか?<表>」54ページ)

■男社会の女性誌

男は根本的なところで、自分の性欲に甘い。だから男は、根本的なところで女に甘い。そして男は、根本のところで、「自分は男だ」と思っている。だから男は、根本的なところ-すなわち“自分”というものの領域の中には、絶対に女を入れない。“自分”というものは定員1なので、定員1のところに二人の人間は入れない。つまり、男社会が女を拒むのは、単に定員の問題なのである。

男は女に甘くて、そして同時に、女を自分の領域から排除している。この二つが一緒になって、「女を持ち上げて女を隔離する」という、日本独自の女性誌状況が生まれる。
「女性誌が読者に問題を突きつけない」というのは、このためである。女性誌は、関係ない外部にいる男にツケを回しても、女である読者に絶対に問題を突きつけない。読者である女性に問題を突きつけるということは、その読者の女を通して、それを作っている男が、自分自身に問題をつきつけることだからである。
(「団塊女は嫌われる<裏>」66~67ページ。太字部分は引用者)

■四十代のこと

決定的に、もう若くはない。しかしだからと言って、ただ「若さ」のエネルギーだけでやって来た人間に、「中年の成熟」などというものは簡単には宿らない。「中途半端だから中年だ」というような時期が、この三十代の終わりから四十代の初めにかけての時期なのである。
(「団塊女は嫌われる<裏>」71ページ。太字部分は引用者)

■「関係」と「制度」

「関係か? 制度か?」とは、「物事の中心を自分におくか? それとも自分の外にある世界におくか?」である。
(「団塊女は嫌われる<裏>」77ページ)

■女の世代論

1989年の秋、ようやく実力を備えてきた若い女達は、自分達の上にいて、そしてただ濃厚な沈黙をたたえているだけのウットウシい団塊の女達の悪口を必要とした。しかし、「それをそのまんま言ってそうなるのだろう」と、私は一方では思っていた。
必要なのは「悪口」ではなく、そのような形で現れる「世代論」だった。「もう、女は世代論を必要とするくらいに、社会的な成熟を得た」-重要なことはこのことだけだった。
(「団塊女は嫌われる<裏>」79ページ)

■ボディコン

ボディコンがなんだったかというと、あれは日本の大人文化に対する若い娘の絶望表現だったのである。
 (中略)
ボディコンの娘達は前向きで現実的だから、「つまんない理屈を言って大人の女になるのを失敗するよりも、さっさと大人の女の服を着る」という選択をした。というわけで、彼女達は、“外資系のエグゼクティブのための女秘書の服”を着たのである。
 (中略)
ボディコンと最も相性のよかった言葉は、「サイテー!」というやつだが、あれこそが日本の幼児性大人文化に対する絶望の表現だったのである。
 (中略)
しかし、“本物のお嬢様”というものは、下品なものを見たとしても「サイテー!」なんぞという言葉をお吐きにならないことを、やはりレプリカンとな彼女達は知らなかった。
本物のお嬢様というものは、「下品なもの」なんていうのは、見たくても見らんない環境にあるから、ただ「まァ・・・・・・」と言って目を丸くするだけなのである。
 (中略)
だから、「サイテー!」を口にする彼女達は、そのことによって、「私にはなにが下品であるかを識別する能力だけは備わっている」というプライドだけは保てるが、しかし結局のところ、自分達がその下品でサイテーなものに満ち満ちた世界から一歩も出ることの出来ない、「中途半端で下品な成金世界の娘」であることを暴露するしかないのである。
(「火事場泥棒的ボディコン論<表>」87~91ページ)

つまり彼女等は、男の視線を集めたいわけじゃない。彼女等は、「男の視線を集めるような女」でありたいだけだ。
「男の視線を集めるような女」になってどうするのか?
それが「いい女」なんだから、「いい女」になれば嬉しい。
「なんというニヒルなことだ」などと言ってはならない。人間とは、そういうものなのだ。
人間は、いつも「なにか」になりたい。それが、人間としての最大の欲望だと言ってもいいだろう。
(「ボディコンは絶望する<裏>」96ページ。太字部分は引用者)

ボディコンが。「ボディラインを美しく見せるための窮屈な服」から、「ボディラインを見せて発散が可能になる服」になった時、女の自己達成の歴史は終わった。
 (中略)
コルセットで胴を締め上げる-それを受け入れる女は、「おとなしくつつましやかにあれ」ということを要求されるだけのものだった。コルセットは女の拘束のシンボルで、がしかし、ボディコンの時代のコルセットは、「美しくすれば発散はいくらでも可能になる」という、弁証法的発展を遂げた、その後の女の自己達成のゴールだった。ボディコンがケツを振ったら、もうその先はない。女性解放の歴史は、ここにピリオドを打ったのである。
 (中略)
女の社会主義である女性解放運動が崩壊して、女の民族主義であるボディコンが台頭した。民族主義の行く末とジリノフスキーの末路がどうなるのかはまだ分からないが、それは、「ボディコンがそうなったか?」というのと同じことである。
ボディコンはどうなったのか?
それは、「バカになって発散するためのトレーニングウェアになった」のである。
(「ボディコンは絶望する<裏>」98~99ページ)

*<その2>に続く。

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音楽雑誌の衰退-マス・マーケティングの無理が祟り・・・

2012年05月08日 | マーケティング話
昨日、Facebookに、「日刊サイゾー」のこの記事をシェアしました。
おととい、mixiで秋田に住む私の最も古くからのバンド仲間(ドラムス)がチェックしてたのを見てからです。

「まるでファンクラブ会報!?」専門誌は絶滅寸前――音楽系メディアの由々しき現状(2012.05.05 土)

▼以下、黒字部分は引用

音楽関連メディアの凋落が言われて久しい。中でも、“絶滅寸前”とささやかれるのが音楽雑誌。部数の減少だけでなく、広告収入の落ち込みが止まらないという。
「1990年代には10万部以上出ている音楽雑誌もありましたが、現在では比較的売れている情報誌で数万部、グラビア中心の専門誌では数千部しか売れていません。その上、雑誌運営の柱でもある広告が、レコード会社の予算縮小でほとんど入らなくなり、編集協力費名目で一企画あたり数万円入る程度。人件費を削るなどして、赤字幅を減らそうと汲々としているのが現状です」(音楽雑誌編集者)


「最近、ミスチルは3,000部持っているとか、嵐は4,000部持っているという言い方も耳にします。彼らが表紙を飾れば、それだけの部数が見込めるという意味ですが、逆に言えば、現在の音楽雑誌には固定読者がほとんどいなくなってしまったということなんです」(前出・編集者)

レコード会社と音楽専門誌の蜜月関係が、音楽から批評・ジャーナリズム視点を排除し、「プロモーションツール」でしかない、つまらなく魅力のない雑誌にしてしまった負のスパイラルについては、拙著の「最終章」のPDF版171ページの、■衰退したコンテキスト=批評は復権するか? の項に記しましたので、ここでは繰り返しません。

私が最も音楽への希求に貪欲だった歳の頃、輸入レコードの「ジャケ買い」とかよくやりました。
原宿にあったPUNK、NEW WAVE専門店「smash」や、原宿、新宿、お茶の水の「disk union」ですね。
「TOWER RECORDS」の日本上陸前のことです。
コメントカードなんかほとんどなく、お金を無駄にしてしまうリスクがあったからこそ、「感性」を磨いていけたんだな、という昔話はいいんですけどね。
でも、国内盤があったりする新譜の場合、雑誌(私は『MUSIC MAGAZINE』がメイン)のレコード評がリスク回避には役立ちました。
評論家が点数をつけてて、5点満点で☆1つ、という「批判」も必要だったわけです。
なんせ、数千円のお金を使うか? 使わないか? の重要な判断材料なわけですから。
「この人はケチョンケチョンにけなしてても、俺には大丈夫だろう。いや、かえっていい」とか。
が、現在では、フリー動画でいくらでもリスク回避、どころか、それで満足しちゃってとてもじゃないけど、購入なんかしないパターンが多いんでしょうね。

話を戻しますと、Facebookでシェアした記事に友人たちからコメントして頂きましたが、自分でもこの問題について考えなおしてみました。
で、私の頭に浮かんできたことを、Facebookに書き込みましたが、あらためて、ここにもメモしておきます。

(1) マーケティング業界や広告業界の「鉄則」である「露出」の多さ。これに頼りすぎた。
⇒だから当然飽きられるし、消費されるだけ。

(2) たしかに、「時代と寝て」大ヒット、いつまでも愛される楽曲ってあるけど、根本的にコアなファンがつく音楽・アーティストって、リスナーが自分のリスクと能力を駆使して見つけたもの、なんじゃないかなと。

(3) だから、ヒットが欲しいということで全ての楽曲・アーティストを「マス商品化」するのには無理がある。今は亡きHMV渋谷の手書きコメントが、印刷ものになった。手書きの頃は、まだ1対1の交流の様なものがあったけど、批評家や優秀なクリエイターや音楽好きの店員さんがやって成功したことを、マスマーケティングの手法で代替できるなんてのは、勘違いだった。

(4) つまり、「リスナーの負担を軽減してあげましょう」という上から目線の余計なお世話が、音楽好きなリスナーの「楽しみ」を奪ってしまった。

(5) となると、ますます「ミュージックソムリエ」のようなレコメンダーと、彼らの活躍の場が必要となる(「ミュージックソムリエ」については、いずれ詳しくご説明するときまでお待ちを)。

(6) 求められるレコメンダーとは、90年代のCDバブルの頃から続く「買わされた音楽」への怨恨を断ち切り、「(主体的に)買うべき音楽」ってものを、さりげなく見つけ出すのをサポートする存在。

(7) あと、3月の「残響祭り」とか行って感じたんですが、優れたレーベルとアーティストって埋もれすぎてる。ジャンルでもテーストでもリスナーに提供する価値観でもいいんで、何らかのコミュニティ化の必要性を感じてます(単につるめばいいという話じゃなくて)。「ムーブメント」だと成功しても消費されちゃうんで、難しいところですけど。昔だったら、うまくいくと「大手」が触手を伸ばしてきたんだけど、今ではそれも出来ませんもんね、幸か不幸か。とにかく「ビオトープ」をもう少し「大きな流れ」にしないと。

こうFacebookでコメントし、最後に「ブログにも書こうかな」と締めましたら、知人の音楽制作者の大野恭史さんにブログ記事にして頂きました。大野さん、ありがとうございます!

とにかく、80年代後半からの市場の拡大とともに、ますます「音楽」のマス商材化が進むとともに、「音楽ファン」をないがしろにしてきた結果、グレーゾーン(=ライト層)は、流行りの音楽を消費するだけ。いや、消費さえしない。無料で聴けるし。
そういえば、2010年でしたか、ロックを題材にこんなシリーズの記事も書いたことありました。
「消費構造の変遷と音楽消費(粗っぽい仮説)」というシリーズで全7回。
拙著の基(もと)にもなった記事で、黒川伊保子さんの「ブレイン・サイクル」をもとに書かせて頂きました。
(黒川伊保子さんには、拙著で引用させて頂いた旨、事後にメールでお知らせしたところ、ご丁寧な返信を頂きました。ありがとうございます!)

とにかく、みえみえのマーケティングってのは、消費者にそっぽをむかれる

これは、あらゆる商品でもいえることですけどね。

また、最近、CDが売れなくなった話題が結構、ネットで賑わってますね。
別に今に始まったことじゃないんですけど。

直近だとこれら(↓)。

▼若者のCD離れがヤバイ オリコン3位が693枚 当然史上最低最悪の記録

▼ミスチルも危ない!? 「音楽事務所」というビジネスの終焉(2012年4月16日)

去年秋だとこれ(↓)。

▼大規模事務所は経営悪化中!? 絢香、スガシカオ......Jポップ界で「独立」が増えるワケ

で、Facebookでも、マーケティング・リサーチ業界仲間の30代の知人が、直近の2記事に危機感を募らせていました。
純粋なリスナーとしてです。
レコード会社の皆さん以上の危機感で、私も正直、驚きました。

危機的な状況の中にいるのに、一般人よりも業界人のほうが危機意識にリアリティがない。
橋本治流にいえば以下のようなことでしょう。

「『そういう歴史は終わった』と言ったって言われたって、その先の新しい時代をどうやって行くかという方法がない限り、新しい時代なんてものは始まらない。時代だけが新しくなって、その新しい時代を作る方法がなかったら、『しょうがない・・・・・・』と言って、当座の間、古い時代の方法を流用するだけだ。流用して、それが当座限りのものだということも分かっていて、しかし人間というものは、自分と隔絶した新しいスタイルに慣れるというのをしんどがるメンドーな生き物だから、結局は『新しさ半分、古さ半分』の、新しいんだかなんだか分からないような中途半端なスタイルを編み出して、せっかく始まった新しい時代を半分逆転させながら、いつの間にか、中途半端に停滞させてしまう。」
(『絶滅女類図鑑』橋本治著 文藝春秋社 1994年刊 絶版 *このセンテンスは「男社会」についての記述)

私だって、「自分と隔絶した新しいスタイルに慣れるというのをしんどがるメンドーな生き物」なので、過去の反省とかはあるので、「第三者」なんかじゃありません(私も「ゆで蛙」状態で会社を沈めちゃったことがあるのです・・・。だからその落とし前をつけようと日々、奮戦してるわけです)。

が、ともあれ今は、「中途半端に停滞」なんてレベルは超えてしまう状況です。
つまり、「構造」が変わる時期なのです。

「残響塾」の塾長、虎岩さんはFacebookで、「若者のCD離れがヤバイ オリコン3位が693枚 当然史上最低最悪の記録」をみて、チャンス!!!とさえと捉えています。
つまり、アーティストが自ら考えたことを何でもできる時代になり、インディペンデントマインドの時代になったと。
「クリエイティヴィティを『商品』として扱ってきた流通主導の時代が終わっただけのことです。」(虎岩さん、勝手に引用、ゴメンなさい・・・)

商業音楽がそんな構造改革の時代を迎え、音楽好きな若者は、マーケティングの垢にまみれきった商業音楽(しかも著作権の縛りもきつい・・・)にとっくに見切りをつけ、自分達のクリエイティヴィティを発揮する場に行ってしまったわけです。

▼「ニコ動」で進行するコンテンツ革命、熱狂の舞台裏 ネット上の才能を現実世界に解放~ドワンゴの挑戦(1)

狭義の意味での「市場」視点では、小さくなったパイの奪い合いに見えるかもしれませんが、どんなに時代が変わろうとも、変わることのない私たちの音楽への欲求・欲望の視点でみれば、これはこれでいいことでしょう。
「偏差値30の人間がやる遊び=カラオケ」(by 白浜久)よりは、はるかにクリエイティブ(注:少なくとも私たち世代のミュージシャンはカラオケが大嫌いです、実は)。

「多様化」というのはですね、限られたパイの中身が「多様化」するだけじゃなく、パイが色んな方向に拡大していくという変化でもあるのですよ、マーケターの皆さん。

やばっ! こんな時間だ! 早く寝ろ! 校正なしね。。。

*タイトル写真の『Talking Rock!』は、私が購読している数少ない音楽専門誌で、本記事内容とそんなに関係はありません。批判記事とかはないですけど、まだマシなほうです。
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「ブラック消費者」、あなたは大丈夫ですか?

2012年05月06日 | 徒然
関越自動車道の深夜バス事故。
亡くなられた方にはご冥福をお祈りいたします。
私自身は事故の「当事者」ではありません。
もし、「当事者」、例えば自身や身内が被害に逢ったならば、運転手さんに怒るでしょうけど、「第三者」としてそういう感情が湧きません。
いや、「第三者」には違いないのですが、世の中で生きている上で、この事故とは決して「無関係」だとは思っていません。
私は人様の命を預かるバス運転手という職業ではありませんが、バス運転手さんのことが何だか「他人事」に思われないんです。
同情といった感情とも違います。
とにかく、色々と考えさせられることが多いです。
以下は、自分の考えを整理するのに、参考になる記事の一つです。

高速バス事故の「事故の責任」は、あなたにも私にもあるかもしれない。ブラック企業を生み出す「ブラック消費者」という問題

「本来はサービスの受け手と出し手は平等なはずです。お客様に感謝をするのは商売人としては当たり前ですが、消費者としてもサービスの担い手にも感謝をするのが当然ではないかと思っています。」

「社会全体で給料が下がっていく。給料が下がる中でやりくりをしなければいけない。だから、消費者とするとより安いサービスを提供する業者にいかざるをえない。そうなるとその業者で働く労働者にしわ寄せがくる。そしてその労働者に過重労働か賃金引き下げのプレッシャーがくる。するとその人自身がブラック消費者になって、飲食店で怒鳴る。――というバッドスパイラルが起きています。」

「より良いサービスにお金を払う、「適切に支払う」ということは私たちが今日から行動できることです。「安く」でも「高く」でもなく「適切に」です。ほんの少しのトレンドの変化が世の中を変えます。少なくとも今回の高速道路の事故を少しでも「自分事」と受け止めて、少しずつ行動を変えることが、このような悲惨な事故を減らす、遠回りなようで、一番確実な方法です。」


「企業人」としては、「お客様第一」だとか建前を強調し、自ら「消費者」となるやいなや、お店とかで傲慢な態度をとる「あなた」のことですよ。
私も昔はそうでした。でも今はそんなことしません。
「反面教師」を沢山見てきましたし、自分自身、後味が悪いことこの上なし、だからです。
もちろん、人間には「怒り」という感情も生きていく上で必要です。
「怒るべき」ときには怒ることは必要。
しかし、ちょっとしたことでキレるとか、自分の被った悪感情を関係のない人に伝染させること(負のスパイラル)は禁物です。

ギスギスはいけません(そういうのが「いい」と思っているような「迷惑企業人」が多いのが現状ですが・・・)。

立場を超えて皆が気持ちよく生きることができれば、世の中は良くなるに違いありません。

*タイトル写真は、大宮公園の新緑です。

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