連休中、実家の書棚にあった
橋本治の
『絶滅女類図鑑』(文藝春秋社、1994年)に眼を通したらこれが結構面白かった。
書棚に橋本治の単行本は3冊見えるが、この本を含め数冊は実家に置いたままだった。
最近、「プチ80年代検証マイブーム」なので、メモをとっておく。
メモなのでコメントはなし。章題だけ自分で決めた。
コメントを書かないのは面倒臭いからだが、結構、自分の身には入っている。
「なるほど!」と思わされる知見も多い。
これから自分が人様に向けて発信(有料・無料)するときの根拠になったりするだろう。
やはり、現在と未来の姿をみるには、過去の「歴史」認識は不可欠なのだ。
だから、ここにメモったことは単に「懐かしい過去のこと」ではない。
「これが、こうして、ああなって」といった“ルート”がよく見えるのである。
「古い!」と思ってそのままにしてしまうのは、思考停止である。
大切なことは「古い!」と思った状況が、現在にどう通じているのか? を把握することなのだ。
さらに、橋本治の紡ぎだす言葉には、汎時代的な普遍性をもっていたりする。
橋本治の著書をすべて読んだわけではないが、私にとって橋本治は作家というより思想家だ。
体系的な理論を構築したわけではないが、思想家だ。
この記事を読まれた方が、「つまらない」とか「わからない」と感じられても、一切、私の関知するところではない。
なにせ、自分のためだけにメモっているからである。
それ言っちゃうと、、、ま、ブログなんてそんなもんなんだけどね、無料だし。
(言い方まで橋本治チックになってきたぞ・・・)
同書の刊行は1994年。
1989年秋に文藝春秋社から創刊された女性誌『CREA』(90年代、私も割と読んでた)に連載された橋本のエッセイ(13回)を単行本化したものだが、1989年から1990年の連載時のエッセイと、1994年当時の「注釈」が、それぞれ<表>、<裏>として構成されているユニークな本である。
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■80年代消費社会の成熟とW浅野のこと
W浅野とは、男を介在させずに女達と直交渉をする“いい女”である。男達にもう“いい女”というものが分からなくなって、「君達にはどういう女が“いい女”なの?」と訊いた結果が“W浅野”なんだからしょうがない。これを「いらない」と言ってしまうということは、「私達もう十分にいい女なんだから、つまらないお手本なんかいらない」ということになる。
「ほら、もうあと一歩で言っちゃうでしょ?」ということである。「ホントにそうなるんだよ、覚悟はできてる?」ということである。
「結構な自覚を持った女達が増えるのはいいなァ」と、私なんかは思ってしまうのだが、大丈夫でしょうね?
(「W浅野はもういらない<表>」29ページ)
それくらい、日本の若い女達は、ガイジンなのである。馴染みのある、そして希少価値だけが売り物になっている贋物の方が、日本では本当の本物よりも、ずっと価値が高いのである。
さて、いつの間にか、日本の若い女達はガイジンになっていた。だから、そんな彼女達にとって、既成の日本の女は、みんなダサくてしょうがなかった。自分達のリアリティーにふさわしい、「日本製のガイジン女優」が必要だった。
「W浅野」というものは、そういうものだったのだろうと、私は思う。戦後日本の飽くことのないモデルチェンジは、「日本製の本物のガイジン」の誕生まで必要なことだったのだろう。
W浅野は、その遂に完成した「日本製ガイジン」だろうと、私は思う。
(「W浅野はもういらない<裏>」42~43ページ)
金のかかったCMの中にこそ現実はあって、現実の中に現実はない。なぜならば、現実の中にいるのは所詮日本人であって、ガイジンになってしまった若い女は、男社会の作ってくれたCMの中でしか生きられないからだ。
W浅野は、そういう成熟した消費社会の中で、ほとんど唯一の消費者である若い女が、「ああ、あれこそが私だ」と実感出来るような、最初のガイジンモデルだったのである。
(「W浅野はもういらない<裏>」44ページ)
■団塊の世代とは?(橋本治も団塊世代)
団塊の世代は、“自分”を主張するくせに、しかし絶対に“自分”なるものの実態を明らかにしない。“自分”とは“自分達”という仲間の中にあって、“自分”なるものがなにかを代表するんだったら、“自分達のある部分”を代表するものだと思っている。
だから、“自分の立場”だけあって“自分”がない。「“自分”を問題にする薄汚さ」とはこれである。
団塊の世代は、その意に反して、とっても女性的で、とっても官僚的なのだ。
(「団塊のオールドミスは土井たか子になれるのか?<表>」53ページ)
団塊の女というのは、妻には向かない。だからもちろん、母にも向かない。かろうじて“友達のような母”にだけなれる。団塊の世代の女は、だから“永遠のガールフレンド”で、それ以上のものではない。彼女たちは妻になる訓練を受けてはいないし、妻になる訓練をあるところで拒んでしまった“都市の娘”だから。
(同上)
妻に向かない女がなんで妻をやっているのかというと、それはもちろん、団塊の世代の第一テーゼが“仲間”だからだ。妻には向かない女の方が、この世代の妻には向いている。彼女らにとって“夫”とは“仲間”であって、彼女らが“友達夫婦”を日本に定着させた。だから-団塊の世代はおかしなことになる。
(「団塊のオールドミスは土井たか子になれるのか?<表>」54ページ)
■男社会の女性誌
男は根本的なところで、自分の性欲に甘い。だから男は、根本的なところで女に甘い。そして男は、根本のところで、「自分は男だ」と思っている。だから男は、根本的なところ-すなわち“自分”というものの領域の中には、絶対に女を入れない。“自分”というものは定員1なので、定員1のところに二人の人間は入れない。つまり、男社会が女を拒むのは、単に定員の問題なのである。
男は女に甘くて、そして同時に、女を自分の領域から排除している。この二つが一緒になって、「女を持ち上げて女を隔離する」という、日本独自の女性誌状況が生まれる。
「女性誌が読者に問題を突きつけない」というのは、このためである。女性誌は、関係ない外部にいる男にツケを回しても、女である読者に絶対に問題を突きつけない。読者である女性に問題を突きつけるということは、その読者の女を通して、それを作っている男が、自分自身に問題をつきつけることだからである。
(「団塊女は嫌われる<裏>」66~67ページ。太字部分は引用者)
■四十代のこと
決定的に、もう若くはない。しかしだからと言って、ただ「若さ」のエネルギーだけでやって来た人間に、「中年の成熟」などというものは簡単には宿らない。
「中途半端だから中年だ」というような時期が、この三十代の終わりから四十代の初めにかけての時期なのである。
(「団塊女は嫌われる<裏>」71ページ。太字部分は引用者)
■「関係」と「制度」
「関係か? 制度か?」とは、「物事の中心を自分におくか? それとも自分の外にある世界におくか?」である。
(「団塊女は嫌われる<裏>」77ページ)
■女の世代論
1989年の秋、ようやく実力を備えてきた若い女達は、自分達の上にいて、そしてただ濃厚な沈黙をたたえているだけのウットウシい団塊の女達の悪口を必要とした。しかし、「それをそのまんま言ってそうなるのだろう」と、私は一方では思っていた。
必要なのは「悪口」ではなく、そのような形で現れる「世代論」だった。「もう、女は世代論を必要とするくらいに、社会的な成熟を得た」-重要なことはこのことだけだった。
(「団塊女は嫌われる<裏>」79ページ)
■ボディコン
ボディコンがなんだったかというと、あれは日本の大人文化に対する若い娘の絶望表現だったのである。
(中略)
ボディコンの娘達は前向きで現実的だから、「つまんない理屈を言って大人の女になるのを失敗するよりも、さっさと大人の女の服を着る」という選択をした。というわけで、彼女達は、“外資系のエグゼクティブのための女秘書の服”を着たのである。
(中略)
ボディコンと最も相性のよかった言葉は、「サイテー!」というやつだが、あれこそが日本の幼児性大人文化に対する絶望の表現だったのである。
(中略)
しかし、“本物のお嬢様”というものは、下品なものを見たとしても「サイテー!」なんぞという言葉をお吐きにならないことを、やはりレプリカンとな彼女達は知らなかった。
本物のお嬢様というものは、「下品なもの」なんていうのは、見たくても見らんない環境にあるから、ただ「まァ・・・・・・」と言って目を丸くするだけなのである。
(中略)
だから、「サイテー!」を口にする彼女達は、そのことによって、「私にはなにが下品であるかを識別する能力だけは備わっている」というプライドだけは保てるが、しかし結局のところ、自分達がその下品でサイテーなものに満ち満ちた世界から一歩も出ることの出来ない、「中途半端で下品な成金世界の娘」であることを暴露するしかないのである。
(「火事場泥棒的ボディコン論<表>」87~91ページ)
つまり彼女等は、男の視線を集めたいわけじゃない。彼女等は、「男の視線を集めるような女」でありたいだけだ。
「男の視線を集めるような女」になってどうするのか?
それが「いい女」なんだから、「いい女」になれば嬉しい。
「なんというニヒルなことだ」などと言ってはならない。人間とは、そういうものなのだ。
人間は、いつも「なにか」になりたい。それが、人間としての最大の欲望だと言ってもいいだろう。
(「ボディコンは絶望する<裏>」96ページ。太字部分は引用者)
ボディコンが。「ボディラインを美しく見せるための窮屈な服」から、「ボディラインを見せて発散が可能になる服」になった時、女の自己達成の歴史は終わった。
(中略)
コルセットで胴を締め上げる-それを受け入れる女は、「おとなしくつつましやかにあれ」ということを要求されるだけのものだった。コルセットは女の拘束のシンボルで、がしかし、ボディコンの時代のコルセットは、「美しくすれば発散はいくらでも可能になる」という、弁証法的発展を遂げた、その後の女の自己達成のゴールだった。ボディコンがケツを振ったら、もうその先はない。女性解放の歴史は、ここにピリオドを打ったのである。
(中略)
女の社会主義である女性解放運動が崩壊して、女の民族主義であるボディコンが台頭した。民族主義の行く末とジリノフスキーの末路がどうなるのかはまだ分からないが、それは、「ボディコンがそうなったか?」というのと同じことである。
ボディコンはどうなったのか?
それは、「バカになって発散するためのトレーニングウェアになった」のである。
(「ボディコンは絶望する<裏>」98~99ページ)
*<その2>に続く。
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