【ML251 (Marketing Lab 251)】文化マーケティング・トレンド分析

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『創られた「日本の心」神話』 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史

2011年01月30日 | 書評
■はじめに

近年、日本の歴史、特に戦国時代がブームになってるようですが、歴史に詳しい人にとっては常識となってる事実があります。
それは、「真田幸村」という名前の武将は実在しなかったということです。
真田信繁という武将は存在したのですが、その「真田信繁」が江戸時代になってから「真田幸村」と呼ばれて今に至っているということです。
真田信繁の「信繁」とは、武田信繁(武田信玄公の弟)にあやかったと伝えられてます。
真田信繁の父、真田昌幸は武田信玄公の奥近習衆だったんですが、おそらく信玄公の弟の武田信繁には余程お世話になってたんじゃないかなと想像します。

輪島裕介氏の『創られた「日本の心」神話』を読んみ改めて、70年代に「演歌」が“発明”され、50年代、60年代のある特徴を持った歌(唄)を「日本の心」を持ったものとしてカテゴライズ、包括していったんだなということを認識し、「真田幸村」の存在を連想したわけなんです。

■知的・言説的産物としての「演歌」カテゴリー

「昭和30年代までの『進歩派』的な思想の枠組みでは否定され克服されるべきものであった『アウトロー』や『貧しさ』『不幸』にこそ、日本の庶民的・民衆的な真正性があるという1960年安保以降の反体制思潮を背景に、寺山修二や五木寛之のような文化人が、過去に作品として生産されたレコード歌謡に『流し』や『夜の蝶』といったアウトローとの連続性を見出し、そこに『下層』や『怨念』、あるいは『漂泊』や『疎外』といった意味を付与することで、現在『演歌』と呼ばれる音楽ジャンルが誕生し、『抑圧された日本の庶民の怨念』の反映という意味において『日本の心』となりえたのです」(同書290ページ)

「演歌」が「日本の心」と定義づけられた“仕掛け”は上述のようになります。引用を続けます。

「さらにそれは専属制度の解体というレコード産業の一大転換期と結びつくことで、専属制度時代の音楽スタイルを引き継ぐ『演歌』と、新しく主流となりつつあった米英風の若者音楽をモデルとした非専属作家達によるレコード歌謡との差異が強く意識され、昭和30年代までのレコード歌謡の特徴はおしなべて『古い』ものと感じられるようになり、それがあたかも過去から連綿と続くような『土着』の『伝統』であるかのように読み替えられることを可能にしました。」(同書290~291ページ。赤文字強調は引用者)

「こぶし」や「唸り」といった“演歌”的な特徴要素のレコード歌謡への流入は昭和30年代から。
畠山みどりがパロディ、コミックとしてレコード歌謡に取り込んだ浪曲的意匠を、「唸り」という歌唱技法に極端に推し進めたのが都はるみ。
都はるみは、弘田三枝子の歌唱法を模倣したそうです。
その弘田三枝子の歌唱技法は、戦後のアメリカ音楽受容の一つの“到達点”。

「ためいき路線」の森進一も青江三奈も、ともにバックグラウンドは洋楽。
森進一のしわがれ声は、ルイ・アームストロングを意識したもの。

三橋美智也はビートルズより早くダビング録音を行っていたり。

ちなみに、昭和20年代まで“日本調の伝統”というと、「お座敷」などで歌われた「芸者歌手」の歌唱法。
それは、おちょぼ口でか細く歌うもので、歯を見せて笑うことさえ下品と見なすお座敷文化では、大口を開けて声を張り上げたり唸ったりなんて野暮の極みだったといいます。(同書71ページ)

北島三郎のコスチュームに代表される「和服」姿も、当初はいわば“コスプレ”的な衣装だったようです。
こじつけになるかもしれませんが、現在の“日本人のオタク的心性”に通ずるかもしれませんよね。

■著者 輪島氏の問題意識

しかし、輪島氏が本書を書かれた目的は、演歌は知的・言説的に“捏造”されたものだ、と演歌を批判することではありません。
現在の「演歌」が、(輪島氏が愛する)大衆音楽における「日本的」「伝統的」なものを、もっぱら「暗く、貧しく、じめじめして、寒々しく、みじめ」なものとして描いていることへの強い違和感こそ、輪島氏が「演歌」への批判的な研究に向かわせた動機だったそうです。(同書67ページより)

本書の終盤(第13章 「演歌」から「昭和歌謡」へ)で輪島氏は、「演歌」と「ニューミュージック」がパラレルな存在であり、ともに「J-POP(若者向けの自作自演風の音楽)」に駆逐される経緯を以下のように述べてます。

「『演歌』という言葉である種のレコード歌謡を指示し、それに『日本的』『伝統的』という意味合いを込めるようになったのは1970年前後であり、また、明示的に『演歌』と呼ばれた楽曲がレコード売り上げにおいてまがりなりにも成功を収めていた時期は1980年代半ばごろまでのわずか十数年にすぎません。『演歌』という言葉が市場的に意味を持った時期は、『ニューミュージック』という、もはや死語となった言葉のそれとほぼ重なっています」(同書317~318ページ)

それに続けて、研究の目的について述べられてます。

「繰り返しますが、それゆえに『演歌』は『日本的・伝統的』ではない、と主張することは私の本意ではありません。本書で強調してきたのは、『演歌』とは、『過去のレコード歌謡』を一定の仕方で選択的に包摂するための言説装置、つまり、『日本的・伝統的な大衆音楽』というものを作り出すための『語り方』であり『仕掛け』であった、ということです。」(同書318ページ)

■良質な戦後日本ポピュラー音楽史としての本書

ところで本書では、「演歌」というカテゴリに留まらず、戦後(一部戦前)のポピュラー音楽についての、産業、言説的な視点から、きめ細かな実証的な分析・考察が滔々として溢れており、とても読みごたえがあります。
僕も一気に2度読みしました。
戦後にフォーカスを絞られた日本のポピュラー音楽史を知る上で良質な書籍です。
個人的な感想を述べさせてもらうと、自分が実体験した時代についての言説について、僕よりも年少の方が書かれた書籍では、「ううん、ちょっと違うんだよな、ニュアンスが・・・」と感じることが多いんですけど、僕より約10歳年少の輪島氏の言説から、そういう感じ方は一切受けませんでした。
それどころか、自分が実体験していない過去の事例には心強い納得感を感じました。
輪島氏の研究がそれだけ実証的ということなのかなと思います。

戦後日本のポピュラー音楽史、という視点でもとてもよく整理されてます。
下図は、簡略ながら輪島氏の論を僕がまとめてみたものです。



これだけ充実した内容の詰まった書籍は珍しいです。
余談ですが、昔から音楽産業において、実は緻密なマーケティング戦略(メディアミックスなど)があったことは周知の事実なんですが、割と驚いた事例を本書で知りました。
競合他社の商品(カテゴリ)を貶めるため、わざと“変な”商品をリリースして、新カテゴリ自体を潰してしまうことを「陳腐化戦略」というのですが、この陳腐化戦略まで実行されてたんですね。音楽産業の世界でも。
(*一般的に「陳腐化戦略」は新カテゴリ、新市場創出のために使うんですが、あまりお薦めできる戦略じゃありません・・・)
「GSブーム」によって、「専属制度」の解体という危機感に駆られた専属ディレクターや専属作家達が結託し、質の悪いGSを量産してリスナーを飽きさせたとか。
ちなみに、粗製乱造されたB級GSや、船村徹作の「ステッキーで踊ろう」のような専属作家の「GSもどき」は、現在、カルト化して一部のマニアに珍重されているそうです。(同書32ページより)

■最後に お薦めの2枚



▲50年代や60年代も持ってるんですが、「70年代ベスト」の20曲は全部知ってます。
小学校の頃、宮史郎とぴんからトリオの「女のみち」、よく学校でパロってました。
オリジナルというよりも、「8時だよ 全員集合」で加藤茶がお巡りさんの恰好で自転車にのりながら歌ってたバージョンですかね。
宮史郎とぴんからトリオが「コミックバンド」だったこと、本書を読んで初めて知りました。どうりで面白いはずです。



臼井孝さん(T2U音楽研究所)企画・プロデュースのJ-POPカバー名盤。
演歌歌手は超大物揃いの贅沢盤です。
シリーズ化されて数タイトルでています。
本書でも320ページで触れられています(中森明菜の「艶華」、阿久悠作品カバーの「歌鬼」とともに)。
輪島氏は、「演歌」「アイドル」「ニューミュージック」として区分されていた楽曲群が、かなり似通った特徴を持っていたことを示唆されてます。

創られた「日本の心」神話~「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史~ 光文社新書
輪島 裕介
光文社


青春歌年鑑 演歌歌謡編 1970年代ベスト
クリエーター情報なし
テイチクエンタテインメント


エンカのチカラ-SONG IS LIFE 70’S
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コロムビアミュージックエンタテインメント

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『欲望の音楽』 趣味の産業化プロセス

2011年01月22日 | 書評
学校を卒業し、埼玉(大宮)から都内へ毎朝、定期的に満員電車に乗る生活が始まった。
まだ、都内に住む前のこと。
酷いラッシュの車中でよく考えたものだ。
「東京に人が集中し過ぎる。地方出身者は、せめて学校を卒業したら強制的に郷土へ帰る社会システムにすべきだ!」
自分のように都内に「通える」、近郊の人間は例外として、という自分に都合のいい考えだったが。
でも、「人が集まらなければ、金も物も集まらないんだよな・・・」 と僕の発想は頭の中で堂々巡り。

首都にヒト・モノ・カネが一極集中しすぎる奇形な国の筆頭かもしれない。世界の中で。
この“病巣”は、明治以降に肥大化したと思う。
江戸も世界に冠たる大都市であったが、まだ地方には独自の産業も文化もあったと思う。

ズバリ、「東京」を創ったのは、薩長土肥の田舎モンどもである。
まぁ、幕藩体制が時流に乗り遅れ、「日本を洗濯するぜよ!」と坂本龍馬のような田舎モンが出てきたのも、社会システムの変革は「周縁」から、という理には適っているのだが。
「中心」の活性化には「周縁」が必要だからね。
「中心」にも勝海舟のようなマトモな人材もいたけど、「体制内」であったため、いかんせん敵わない。
とにかく、薩長土肥の田舎モンは、帝(ミカド)まで東京にお移しになるという“暴挙”まで。。。
近代国家として欧米列強に対抗するため、にわかに一極集中を推し進め、国家の体裁を整えたい、ということだったのだろうから仕方がないと言えば仕方がないのだが。

司馬遼太郎が言った、東京帝国大学に象徴される「配電盤」。
それは“頭脳”のみならず全てを東京に集中させた。
(早稲田の大隈は薩長土肥の「肥」、慶應の福沢は中津藩)

ちなみに江戸時代まで、幕臣が利用した関東のリゾート地は房総だったと最近になって聞いた。
ところが、現在では伊豆のほうがステータスが高い。
薩長土肥の田舎モンは、房総では野暮な田舎モンと馬鹿にされたため、やむなく伊豆を別荘地を開拓したそうだ。
思えば、千葉(そして埼玉)の理不尽な境遇は、薩長土肥の田舎モンのコンプレックスに根があるのかもしれない。

連中のコンプレックスによる弊害は、現在まで連綿と続いている。
80年代、「根暗(ネクラ)」がブームになったが、ある本を読んでいたら「根の暗い人間」の典型として、「やたらに千葉・埼玉を馬鹿にしたがる地方出身の東京在住者」といういうのがあった。
タモリのような人間である(当然、ご本人も自覚されていると思う。何しろ頭のいい方なので)。
とにかく、東京に住めば「東京人」なのだ。
そして、家賃負担の必要もなく、自宅から通勤・通学のできる千葉・埼玉の若者を、「あっ、埼玉ね」とか。
でも、そういう自分も地元に対する感情は極めてアンビバレントだった。昔は。
住居も埼玉に戻した今は、アンビバレントな感情は吹っ切れたと思う。これも歳をとったということか?



またしても、まえがきが長くなるという悪癖が出てしまったが(増渕さん、スンマセン・・・)、要は首都一極集中は、地方各都市の富と“多様性”を奪う方向にしか作用しなかったということだ (千葉・埼玉の話は蛇足・・・)。
産業しかり文化しかり。
人材も金も全てが「東京」に吸い上げられるシステム。
かつての元勲達の「国を想う」気持ちはわかるんだけど、その後の鹿児島や山口や高知、佐賀の状況はどうかな? いいのかな?

とりわけ、メディアとの密な連携によって市場を拡大してきた音楽産業の場合、マスで成功をおさめるためには、どんなに地方色の強いアーティストでも“東京発”でなければならなかったわけだ。
「配電盤」は音楽産業において特に強固だった、ということだろう。

本書では、東京、京阪神、福岡、札幌、仙台、沖縄における文化産業の集積の過去と現在が丁寧に検証され、今後の都市復興の道筋が示唆されている。
約10年前、僕が僅かに関わったことのあるインディーズのメーカーでは、沖縄勢の隆盛に対し、「北を開拓する」という戦略をとっていた。
本書を読んだ上で、今考えてみると底の浅い“ビジネス戦略”だったかなと(僕が立案したわけじゃないですけどね・・・)。
「底が浅い」ということは、増渕さんの実証研究のような下地がなかったから、ということだ。

産業化には集積が必要である。たとえきっかけは偶然であっても、集積が進みそれが環境として認識されるには、それなりの必然性もある。

資本主義があらゆるものを“商品化”するのは、改めて言うのも疲れるぐらい必然なことである(もちろん、商品化できないものもあるんだけどね・・・)。
所詮、音楽は“趣味”である。
行き過ぎた“産業化”が市場シュリンクに見舞われている現在、この「所詮、趣味、されど趣味なんですよ」という原点について考えを巡らすことは無益ではないだろう。
90年代に市場を拡大させてきた=消費財化の“針は振り切れた”ということだからだ。

本書では、そのサブタイトル通り、「趣味」の産業化のプロセスを学際的に検証されている。
そして、音楽が“情報”としてその価値を自ら貶めてしまったことも示唆されている。

増渕さんが本書で述べられる通り、「文化的な財」として音楽を捉えなおしていくことは必須であろう。

“欲望” “情報” “文化” とは僕の問題意識におけるキーワードであるが、増渕さんの力作である本書を読んで得るものは大きかった。

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『未来型サバイバル音楽論』 津田大介+牧村憲一

2011年01月15日 | 書評
本書が画期的であるのは、従来型のパッケージ販売をコアとしたビジネスと、デジタル配信ビジネスという単純な二項対立の図式の中で“デジタル配信派の筆頭”と一般的に捉えられている津田大介氏と、音楽業界のメインストリームで数々の実績を残されてきた牧村憲一氏のジョイントさせたことだと考えます。
単純な二項対立の図式に基づいた議論は不毛とならざるを得ません。
そして津田氏は、デジタル万能主義者ではなく、実は音楽の良質な愛好者(ライブはまだ観たことないですが)であることは僕も知っています。
“渋谷系”の産みの親でもあった牧村氏も、あるべき音楽の姿、レーベルのあり方について優れた感覚とセンスをお持ちの方だということが、本書を読んでひしひしと伝わってきました。
(両氏のご経歴は、amazon 商品説明の著者略歴をご参照下さい)



僕は昨年(2010年)11月に読んでみたんですが、牧村憲一氏の書かれた「あとがき」で、牧村氏と津田氏をジョイントをコーディネートされたのが、風来舎社長の森和夫さんだとわかり、とてもすんなりと納得したものです。「なるほど」という納得感が「スコ~ン」と来るような(笑)。

音楽論からテクノロジー論まで、人によって色々な読み方ができる書籍ですが、以下、僕の意識に刺さった内容をまとめてみます。

■レーベルのあり方

あるべきレーベルの姿、について僕は昨年、残響レコードの記事を書いてきました。
なぜ、メジャーといわれた世界で優れたレーベルが誕生しつつも、それが持続可能なビジネスとして根付かなかったのか?
そのいきさつについて本書で牧村氏が総括されてます。
結局、レコード会社にとっての都合のよい投資の“刈り取り場”がレーベルであったのかもしれないと(同書105ページより)。

(1)パソコン、携帯端末も普及による音楽環境の変化とご都合主義の配信。
(2)ミュージシャンも含め誰もが飛びついてしまったお手軽なカヴァー集、バブル的売り上げを想定した過去の悪癖。
(3)既得権に基づくリスナーへの不親切で不利益な対応。
(4)流行りのものに擦り寄る、音楽性の欠如。

上記のことがらは、現在、レーベルを作る際、そのまま反面教師としてのポイントとなり、それこそ原点回帰ではないか? と牧村氏は指摘します(同書105ページより)。
音楽のクオリティと経営戦略の両立。
レーベルの維持には知識と美意識が必要で、核となるのが人と音楽、そしてヒット。
ヒットとは、短期間の売り上げに留まらず、長い時間を超えて売れ続けるという面もある。
これは、ブランドの発想ですよね。

■経験価値と文化サイクル

津田氏が、地方の人と話された逸話があります(同書218ページ)。
今やamazon.をはじめネットショッピングがあるのだから、遠方のTSUTAYAに行く必要はないのではないか? との問いに、「津田さんは地方をわかっていない。地方には娯楽がないので、CDを借りて返しにいくことが文化的なサイクルである」と言われたそうです。
かつての東京的(六本木WAVE)なものが地方で展開拡散(牧村氏)している。
たとえその場で購入しなくても、場のオーラの中で情報を得たり満足感を得る。
そういう環境づくりは、リアルのショップにとって切実でしょうね。

■CDの付加価値

僕も数年前からずっと、CDの二極化のことは言ってきましたが、本書でも当然、そのことは触れられてます。
牧村氏の対話の中で、もし津田氏がプロモーションを任されたら? との問いに以下のように答えています(同書230ページ)。

(1)アルバムという単位は必ずミニアルバムにする。
(2)CD販売はamazon.とライブ会場に限定。会場販売は全て1,000円で販売し、amazon.の優れたシステムを手軽に利用できる「e謡」販売サービスを行う。
(3)一方で2,000円のCDも出して次回のライブ優先予約券とボーナス・トラックを入れる。

このあたりについては、昨年末に読んだジム・コリンズの『トレードオフ』の内容が頭に浮かんできました。



一言でいえば、あらゆる商品は、「上質さ」と「手軽さ」のどちらかの軸で突出したものが成功するということです。
その両方を狙うことは幻想(幻影)でしかない(二兎を追うものは一兎を得ず)。
両方の軸で突出していなければ、「不毛地帯」でくすぶってします。
新しい商品は、ほとんど「不毛地帯」で生まれ、ヒットする商品は「上質」か「手軽」のどちらかの軸で突出する。
「上質」ないしは「手軽」で、多くの商品がひしめき合っている場合、「上質」なら「手軽の部分で、「手軽」なら「上質」の部分で突出すると、それはイノベーションになる。
そういう要旨です。
そう言えば、「ユニクロ」は、「手軽さ」の勝者ですよね。
『トレードオフ』の図表を自分で編集しなおしてみました(↓)。



著者のジム・コリンズ氏は僕と同じでU2がお好きなようなので、本書にもU2が引き合いに出されてますから、僕もU2の引き合いに出します(↓:iTunes の画面だけU2じゃないですが・・・)。



今までの業界のビジネスモデルにおいては、「コンサート・ライブ」はパッケージ販売のためという位置づけでした。
ところが、生活者にとっての価値のマップは違ってますよね。
これじゃビジネスもうまくいかなくて当然です。
ジム・コリンズは、「上質」をこう定義しています。

上質度=経験+オーラ+個性

「上質」にしても「手軽」(価格・入手の便宜性)にしても、その基準は刻刻と変わっていくものです。
つい10年前までは、「手軽」軸の筆頭にCDなどパッケージ商品がいたもんですが、今や「配信」に敵うはずがありません。
(それまでは、「手軽」さを追求したことでマス・マーケットを拡大してきたわけですよね)
となると、「上質」軸を中心にパッケージ商品をポジショニングしていくことが現実的です。
勿論、「上質」軸でも「コンサート・ライブ」には敵いませんが、「コンサート・ライブ」との関連性の中でCDを位置付けていく津田氏のアイデアは的外れではありません。
津田氏が、クローズドチャネルでCDを1,000円の価格設定にしたのは、決して「手軽」軸を求めたわけではないと僕は考えます。

ただ、それにしても現状のCDの価格が生活者にとって高すぎるというのは僕も検証してますので、曲数と価格の戦略はもっと練られるべきでしょう。
また、津田氏のプロモーション・プランは、(津田氏気に入ったアーティストの場合という仮定で)クローズドチャネル(コンサート会場とネットショップ)のお話でしたので、リアル・ショップのことは触れられていません。そのあたりは別の話になるのでしょうが、それでも「上質」軸でのポジショニングが肝要かと僕は考えます。

「上質」と「手軽」を言い換えると、「愛される」と「必要とされる」ことです。
誰だって「愛されつつ必要とされる」は理想でしょう。
人として生きていく上で、「愛されつつ必要とされる」ケースはあるかもしれません。
しかし、ここが重要なんですが、商品の世界ではあり得ないことなのです。
「音楽」は人にとって必ずしも「必要」とされるものではないかもしれません。
(“NO MUSIC NO LIFE”のコアなファンは別ですけど、若い頃、音楽に入れ込んでいても結婚して子供ができれば音楽を買うことから離れるなんてことは当たり前のことでした)
どうあがいても、「必要とされる」ということでは、飲食品や衣料や教育費のような必需品・サービスには敵わないのです。
ならば、「必要とされる」ことよりも「愛される」ことを求めるのは妥当なことであり、「愛してくれる」人達を増やすべく開拓するべきではないでしょうか?

あと余談なんですけど、「HMV」を買収された「ローソン」さん。チケット販売とパッケージ販売(特にEC)のシナジー効果を狙われていると思うんですが、「上質」と「手軽」のトレードオフには、特にお気をつけてくださいね。

■文化としての可能性

『未来型サバイバル音楽論』の第5章「それでも人は音を楽しむ」、牧村氏と津田氏のトークではいくつも示唆的な発想が出てきます。

「ネットはサロンである」もしかりです。
ソーシャル・メディアにしてもその名の通り、社交の場。
「音」までもネット空間の中で完結してしまうことはないと僕も考えます。
リアルな「コンサート・ライブ」やそれに連なるパッケージ商品の存在は不可欠です。
リアルな体験(コト)や具体的なモノを中心にどう価値づけをするか?
それがビジネスにつながっていくんですが、その価値とは「手軽」ではなく「上質」の軸で位置づけられる。
流行のみを追い求めた消費財、というよりも文化資産ではないかと。

音楽がビジネスとしておいしいビジネスではなくなる。
するとお金しか考えない人達は退場せざるを得ない。
津田氏はこう述べ、音楽と芸能界の切り離しが進むことも示唆しています。

牧村氏も、今までの音楽ビジネスを、「音楽のごく一部を培養し」た結果の「音楽芸能界」「音楽エンタテインメント」と規定しています。
そして、「音楽が属しているものはもっと広く、他の文化とのコラボレーションが可能という意味では、音楽ほど広いものはない」と述べられてます。

“原点回帰”と文化としての可能性。
なかなか楽しみな時代がやってきてるんですね、と思います。

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