【ML251 (Marketing Lab 251)】文化マーケティング・トレンド分析

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橋本治 金言集 『絶滅女類図鑑』 読書メモ (コメントなし) <その2>

2012年05月09日 | マーケティング話
<その1>より続く。

■女と男の性差・仕事・体

そういう高度成長の中で、女の社会進出の時代がやって来る。「女の時代」には、「意識」と「自律」と「体」の三つを合言葉にして、会社人間の男達の前にやって来るのだった。
(「健康ギャルは不思議に笑う<裏> 118ページ)

「女性の社会参加!」を言って、頭でそれを達成しようとしたって、どこかでなにかがネックになる。それはなにかと言ったら、「女の体が男の体とは違ったシステムを持っているから」である。そしてこのことは、なかなか理解されなかった。
というのは、男の中に、「自分の体」という発想がなかったからである。男にとって重要なことは、「社会の要請にこたえうる健康」があるかないかで、それがありさえすれば、「自分の体」などという、変態じみてメンドーな発想は必要なかった。
 (中略)
男の中には、「自分なりのシステムを持った自分の肉体」という発想があまりない。
(「健康ギャルは不思議に笑う<裏> 121~122ページ)

女が社会に進出するようになって以来、あきらかに、「病気ではないが体調が悪い」状態に対処する「東洋」が市民権を獲得した。つまり、男の社会の中で。女はあきらかに「体調を崩す」のである。

男は、「健康」という精神だけで生きている。ここには「自分の体」がない。男は観念の労働者で、自分の欲望がすり切れるまで、この観念と戦う。男の過労死はあきらかに「戦死」で、女の過労死はあきらかに「事故死」だ。
 (中略)
女が社会に進出して、男も女も、この社会に出て来た女に対して、「男なみ」を要求した。それが出来ないと、「だから女はだらしない」というレッテルを貼るようになった。がしかし、「男の体」と「女の体」は違うのだ。女の体は、自分なりの「生体リズム」というものを持っていて、男にはあまりそういうものがない。男は、そういうものよりも、「自分」という観念を刺激してくれる「仕事」という欲望がないと、生きた気がしない生き物なのだ。
つまり、男にとって、仕事とは、本来「娯楽」の一種なのである。仕事に、あんまり「男の生きがい」なんてものを賭けない方がいい。それをして、女という他人の生体リズムを壊してしまうよりも、「仕事は私の趣味、生きがいは私の人生の造形」などということにしておいたほうがいいだろう。所詮は、そんなものなのである。
だから女だって、「すぐに弱音を吐いてしまう私は、だらしのない女なのだろうか?」などというつまらない考え方をしない方がいい。「これが“体”というものなのだ」ということを、女は少し“女という自分の体”を離れて、男達にも説いてやるべきなのだろうと、私なんかは思っている。
(「健康ギャルは不思議に笑う<裏>」 128ページ。太字は引用者)

働いた女は、だから男達に対して、「労働における肉体の限度」というものを、改めて教えてやった方がいい。それが、この先の人間の社会のためである。そういうことをちゃんと認識出来ない愚かな女だけが、「やりすぎ」という極端に走るのだ。ダイエットのくだらなさは、それが「体を動かさない運動」だからだろうと、私は勝手に思っているのだった。
(「健康ギャルは不思議に笑う<裏> 129ページ)

■女の行動論理

健康で普通の感性を持った魅力的な女というものは、「他人の立場に身を置いてものを考える」ということをしない。誓って言うけれども、私の知っている、まともで美しくて知的で頭がよくて、しかも“それだけ”じゃ全然ない、魅力的な女の全員がそうだ。
 (中略)
別にいやみで言っているわけじゃない。男というものは往々にして、自分とは関係のない他人の内部に深入りしすぎてしまって、それで“自分”なんかを見失ってしまうもんだから、こういう健康的な現実性というものは必要なのである。
 (中略)
女がどうして、自分とは異質な同性の存在を認めながらも、その内面に深く立ち入ってものを考えたりしないのかということの根本は、これだと思う。「考えたってしょうがない」と。

なぜ「考えてもしょうがない」のかというと、まともな女が“安定した自分”というものをつかまえるのに一生懸命だからである。「ひたむき」という言葉を使ってもいい。だから、“女”の“まとも”の中心は、その行動論理にある。
 (中略)
女は基本的に、“行動の人”だし、“行動を願望する人”である。だからこそ、「“自分のこれから先”の参考にならない人間の立場をああだこうだ考えたってしょうがない」ということになる。そういう結論は簡単に出て、「私、そういう人間のことを考えたくないのよ」ということになる。いたって明快で、私はそういう女が好きだ。そしてもちろん、そういう女が“思いやりに欠ける”ということは、あんまりない。
(「女のオタク<表>」 134~135ページ・太字は引用者)

「イマジネーションの欠落は、熟知した社会習慣によって埋める」というのが女の“まとも”だから、私はつくづく、女というものは“行動の人”なんだと思う。女が時折示す“矛盾”というものは、「まだ分からないでいることに対する保留処分がうっかりと出てしまった」というだけのことなんだから、男を糾弾するみたいに責めてもしょーがないぞ。

というわけで、男はみんな、もっと女を働かせた方がいいと思うし、社会参加なんかをどんどんやらせたほうがいいと思う。行動力でいえば、余分な他人のことなんか考えない分、女の方が上なのである。ただし、うかつな野放しをすると、いつの間にか世の中全体がカカア天下になるだけで、これが完成してしまうと、もう男の内面というのは一切日の目が見られないものになってしまう。マザコンの悲劇と大新聞の正義は、女が“行動の人”であることを見誤った結果の同一である。
(「女のオタク<表>」 136ページ)

■基準

人間というのは、やっぱり“自分の基準”と“他人の基準”との間で生きているようなもんだから、その調整でウロウロするのはしょうがないもんだと思った方がいいと思うな。二つの基準の間でウロウロする人間的な行動を、“正体”だの“妄執”だの“偽善”だのと言ってもしょうがない。
(「関寺小町1990<表>」 152ページ)

■男社会と女の翻訳作業

女は「男」になって、男達の作っている「世の中」というものの仕組みを知る。知って、そしてその時には、もう彼女の中から「女」がなくなっている。
「男」になったのは、自分という女をよりよく生かすためなのだから、そのまんまじゃどうにもならない。
「男」になることによって知った事実をそのままにして、今度は、自分を女に戻す。戻して、自分の知った事実を、「女に必要な知識」へと、自分で翻訳する。
こうして得られたものは、しかし、これでもまだ役には立たない。翻訳の結果得られたものは、「自分という女に必要な知識」ではまだなくて、その自分も含む、「女一般に必要な知識」だからである。
だから、ここに最終段階として、「女一般の方法」から「自分という女のための方法」を割り出す作業がくっついて、やっと「世の中で生きて行く」ということが可能になる。
なんともメンドくさい。メンドくさくて厄介で、しかもとんでもなくむずかしい作業だ。

「男になる」ということは、ちょっと我慢して、ちょっと努力すれば、まァ、出来る。しかしそれを、「女のもの」として翻訳しなおすのは、とんでもなくむずかしい。それは、「世の中」から、「人間のすることとはいかなるものであるか」ということを、抽出することでもあるからだ。
(「声も丸文字、頭も丸文字・・・・・・<裏>」 204~205ページ)

*クライマックスの<その3>に続く。

絶滅女類図鑑 (文春文庫)
橋本 治
文藝春秋

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