【ML251 (Marketing Lab 251)】文化マーケティング・トレンド分析

トレンド分析ML251の文化マーケティング関連Blogです。ML251の主業務はトレンド分析をコアにしたデスクリサーチ。

エンタティンメントとアート(東浩紀×菅野薫×廣田周作 対談より)

2014年12月05日 | カルチュラル・キーワード備忘録
宣伝会議「アドタイ」(2014年12月3日)より。

東浩紀×菅野薫×廣田周作「データベースが支配する世界で広告はどう形を変えるのか?」

▼MEMO 1.コンテクストについて

菅野:僕自身はツイッターでマーケティング解析をすることはないので、大したことは言えないんですが、人ってさんざん悪く言っていても意外に好きということもあるし、ほめている割に嫌いということもある。そういう、表面的に追うだけでは読み取れない部分の方が、自分としては興味があります。

東:数量的な分析と言葉の分析は違いますよね。「バカ」という言葉が本当に全部ネガティブなのか、それを前後の文脈から分析するところまで、今の技術ではまだまだできない。現時点では言葉の分析はあまりあてにならないと思っています。

▼MEMO 2.エンタメとアート

<私の感想>
世の中、エンタメ化しているものが多すぎる。だからブレる。行政だけでなく政治もじゃないかな? 行き過ぎた「サービス化」の帰結じゃないのかな?

東:「リアルタイム」という言葉が出ましたけど、僕はエンタメとアートの違いはそこだと思っているんです。エンタメはリアルタイムに奉仕する。アートはそこからずれていく。ソーシャルメディアはリアルタイムということが本質だから、リアルタイムに機能する感情の増幅装置だと捉えています。逆に、時間がずれるということを考えられる人がアーティストだと思う。今リアルタイムの波に巻き込まれているものは沢山あって、その最たるものが行政です。ある理念に向かって進めるものだったはずが、リアルタイムに市民の声を聞きはじめて、ちょっとでもクレームがあると中止にしたり、どこに向かっているのか、混乱した状況になっている。先の世に残っていくものを作るには、今この瞬間のあるものをぐるぐる動かすことからは、少しずれていかないといけない。
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「動物化するポストモダン」(東浩紀著、講談社現代新書 2001年)(1)

2013年07月27日 | カルチュラル・キーワード備忘録
オタク系文化の日本への執着は、伝統のうえに成立したものではなく、むしろその伝統が消滅したあとに成立している。言い換えれば、オタク系文化の存在の背後には、敗戦という心的外傷、すなわち、私たちが伝統的なアイデンティティを決定的に失ってしまったという残酷な事実が隠れている。オタクたちの想像力を「おぞましいもの」として拒否する人々は、実は無意識のうちにそのことに気がついている。
(25ページより)


確かに。たとえばアニメの元型となっている手塚治虫の漫画の根源はディズニーだし。

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「天皇的キャラクター」と日本人の美意識

2012年08月16日 | カルチュラル・キーワード備忘録
80年代後半、現在、東京都副知事の猪瀬直樹の著書『ミカドの象徴』を読んだことがある。
残念ながら、初版本は手許にはないが、小学館文庫で出てるみたいだね。

そのときだったと思う。
日本の「中心」は皇居。
そこは「権力機構」はなく、
「日本国の象徴」としての天皇皇后両陛下がいらっしゃるだけの森。
ロラン・バルトのいう「空虚の中心」という概念を初めて知ったのは。

どうも、最近、私は“内田樹萌え”なので、
また内田の著書『期間限定の思想』(角川文庫版)から引用したい。
(以下、黒字部分が引用箇所。赤字部分は引用者)

たぶん、日本文化の根底には、たおやかさ、ある種の女性性みたいなものや、すべてを受け入れてしまう包容性のようなものがある。ヨーロッパ的な、実定的でポジティブなものを重ねてゆき、あらゆる隙間を埋め尽くしてゆく、という文化ではなく、空虚さに社会や人間の実質があるというような考え方が、日本人の美意識の内には抜き難く入り込んでいる。絵画にしても、音楽にしても。三島由紀夫的にいうなら、それは政治の中核に空虚がある、ということになる。
(同書239ページより)


そして、具体的な「ヒーロー」として例に挙げるのが長嶋茂雄と、『男はつらいよ』の主人公、寅さんだ。

天皇的キャラクターというのがあるじゃないですか。日本人がもっとも好きで、誰もその人の悪口を言えない、という人。たとえば長嶋茂雄。
(中略)何のために野球をやるのか、ということについて、あの人はたぶん何も考えていない。お金が欲しいだとか、名声が欲しいだとか、すぐれた運動能力によって自己実現をしたいだとか、そういう雑なものが何もなくて、目の前にポンとボールが飛んできたから打つ、捕る、ただそれだけなんです。普通に考えて「意味があること」のために野球をやっているわけではないんです。ボールが飛んでくる、ボールに身体が反応する、「ああ、なんて気持ちがいいんだろう」という純粋な快感だけで成り立っているキャラクターが長嶋茂雄なんですよね。

だから、長嶋を見ていると、その快感が観客にストレートに伝わってくる。ボールゲームに全身で興じている長嶋茂雄自身の快楽がそのまま、まじりけなしに、観客に伝達される。だから、長嶋茂雄を見ている観客はすごく気持ちがいいわけです。その快楽は、他の優れた運動能力を持つ選手(たとえばイチロー)の活躍を見ているときの快楽とは次元が違うんです。長嶋茂雄は空虚なんですよ。彼が空虚な通路だからこそ、彼をシャーマン的な媒介として、観客はボールゲームの本質に全面的に、直接的に触れることができるわけですよね。ああいう無欲無心の人というのが、日本人のもっとも好きなキャラクターなんです。

(中略)他にも、たとえば『男はつらいよ』の寅さんも日本人が好きなキャラクターですよね。
寅さんもまた、ある意味では中空の人ですね。

(中略)長嶋の悪口を言う人がいないように、『男はつらいよ』を徹底的に批判する批評家もいませんね。批判するとしたら、「どの作品も話が同じだ」とか「登場人物が類型的すぎる」とかそういうことでしょうけれど、類型的人物に同じ話を演じてもらうために作られてる映画なんだから、そんなに批判しても始まらない。それでも全四八作という記録的な連作が作られ、一貫して熱烈に支持されているということは、寅さんが日本人が非常に好きな人間のあり方であるということだと思うんです。まわりにいる全員を自分の中に受け入れ、取り込んでしまうけれど、本人は非常に虚ろであり、伝えるべきメッセージも情報も持たない。

寅さんが、「とらや」でみんなを前にとくとくと語ることって、全部、他人から聞いたばかりの話の「請け売り」ですよね。彼自身の経験の中からしみ出るような叡智の言葉というのはほとんどない。あるとしたら、「愛する人を大切にしろよ」ということぐらいだけですけれど、寅さん自身は絶対に「愛される人」にはならないで、去って行くわけです。だから、寅さんからのメッセージはいつも最終的には一方通行で、彼に対しての「返事」は誰からも届かないんですよね。

そういう、本質的に空虚な人間のあり方が日本人は大好きなんです。
他にも例が思いつくかもしれませんが長嶋や寅さんのようなキャラクターが、アメリカやフランスで満場一致的なポピュラリティーを獲得するなんてちょっと考えられないでしょう。
(同書240~243ページより)


「空虚」ではないだろうけど、拙著では日本人の「お笑い」のアーキタイプを「笑点」と指摘したけど(PDF版182ページ)、「類型的」なのがいいところだろうね。

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欲望=自我の統合が不可能という消費社会の病理 (『第四の消費』 三浦展 より)

2012年08月06日 | カルチュラル・キーワード備忘録
私は以前。ある生活研究シンクタンクの研究員のコメントを新聞で読んで「へえ」と驚いたことがある。同研究員が高校生の食生活を調査したとき、高校教員の意見として「食べることを楽しいと感じない、面倒と思う子が増えてきた」という声が目立ったというのである(「東京新聞」2003年1月13日付)。しかし、この話を知り合いの食品メーカーの人にすると、食べるのが面倒くさいという感覚があることは食品業界では数年ほど前から常識だと言われてしまい、また驚いたのである。

(中略)欲求の基本的な源泉は不足である。人は足りないものは欲しいと感じる。あり余っているものはあまり欲しいと感じない。ここで食べておかないといけないと今度はいつ食べられるかわからないと思えば、多少まずいものでもよろこんで食べる。
ところが現代の生活は、コンビニにもファミレスにもファストフード店にもデパ地下にも、そして駅のプラットフォームにすら、いつでもそこでも食べる物があふれている。いつでも手に入ると思えば食べる気が薄れるのは当然だ。食べ物が多様に大量に目の前に存在し、それを自由に選択できるにもかかわらず、むしろそれだからこそ、かえって食べることが面倒になっているのだ。

それはちょうどわれわれが、情報社会の中で、過剰な情報の洪水を処理することができずに、ただ流れている情報をぼんやりと眺めるしかできないでいる状況とよく似ている。欲しいとも言わないのに、つまらない情報が大げさな演出を施されて24時間垂れ流されている。いや、ものすごい圧力で放出されている。

(中略)私があるとき若者に行ったインタビューでも、一体自分が何を食べたいと思うか予測がつかないので、あらかじめ食品を買いだめできないという意見があった。スーパーに行って安いものを買いだめしても、結局食べきれないという。食べきる前に他のものが欲しくなるからだ。だから買いだめせず、何か食べたくなったら、たとえ夜中の二時でもコンビニかドン・キホーテに駆け込むほうが無駄がないらしい。若者は(若者だけではないが)、腹がへったと内発的に感じて物を食べるのではなく、偏在する食物情報による刺激に反応して物を食べるようになったのである。

しかしこうなると、食欲を満たすことは幸福感にはつながらず、むしろ食欲は、食べても食べても満たされることのないもの、むしろ、いつ何時自分に襲いかかってくるかもしれない不快なもの、不気味なものとして意識されるようになる可能性がある。それが、若者が食べることを面倒くさいと思うようになった理由ではあるまいか。そして若者は、いつ何が欲しくなるかわからない自分というものをもてあますようになった。自分がわからなくなったのだ。

(中略)自分がわからないということは、自分の欲求を自分で統合できないでいるということである。統合するには、あまりに自分の欲求には脈絡がなく、突発的に現れすぎる。それが本当に自分の欲求なのかすら不明である。自分をわかるということが困難になっているのだ。

もはや自分は統合されたひとつの「自分(アイデンティティ)」ではない。自分の内部に唯一のたしかな自分があるのではなく、自分の外部に自分でも知らないいくつもの自分があると感じられるのだ。まさに「複数の自分」である。そして、この「複数の自分」こそが、自分をわからなくさせるのである。


(同書132~135ページより)

随分、長い引用となった。
食欲は人が生きる上での生理的で基本的な欲求だ。
にもかかわらず、このような「現象」が見られるとは、重症だ。
「選択肢の多さ」がストレスを生むことは多くの論文や実験結果の発表により周知のこととなっている。
特に目新しい知見ではない。
そうなると、数多くの商品・サービスのうち最もシェアの高いものが選ばれたりね。
つまり、「ネットワーク外部性」も人々の「ストレス」軽減と連関してると思う。

三浦の知見に、私の意見を入れさせてもらうとすれば、「食べること」の目的を考えてみたらどう? ということだ。
もちろん、老いも若きも男も女も「食欲」は生命維持の基本だ。
しかし、「食事」の目的が、「インストゥルメンタル(道具的)」か「コンサマトリー(充足的)」か? という視点で考えてみることだ。
この区分は(後述するが・・・たぶん)、三浦の得意とするところでもあるし。
「食事」の目的が「インストゥルメンタル(道具的)」か「コンサマトリー(充足的)」か、生活者調査の結果から興味深い知見を導き出しているのが、辻中俊樹氏である。

拙著「コンテンツを求める私達の『欲望』」の181ページ(PDF版)で私はこう書いた。

「シニア向け」といわれる商品・サービスを開発するにしても、まず、「シニア」という言葉やニュアンスが少しでも匂えば、到底、受け入れられることはありません。
さらに、20代や30代のリサーチャーが、グループインタビューやデプスインタビューといった定性調査で「仮説」導き出し、定量調査で「検証」したつもりになっても、成功商品・サービスの開発に貢献できるわけがありません。第2章で説明させていただきました夏目漱石の「存在論的不安」のお話のように、「きわめて肉感的」なイメージ(柄谷行人)とセンスが必要となるからです。


この文章を書いていた私の脳裏にあったが、辻中俊樹氏と私の先生でもあった故 油谷遵氏である。
実際、この10年以上、大手広告代理店や有名シンクタンク、多くのマーケティング・リサーチ企業の「シニア」市場分析をみるにつけ、あまりに表層的で呆れるばかりだった。
「これじゃ“成功事例”なんて無理だよな・・・」と。

で、話を戻すと、三浦の言うところの「若者」(若者に限らない)にとっての「食事」の目的とは、「インストゥルメンタル(道具的)」ではないか? というのが私の考えだ。
Facebook を見ていると、美味しそうな食事や飲料の写真をアップされているのは、若くても30代。
ほぼ40代以上の友人たちだ。
20代の「若者」が、そんなことばかりしていたらかえって気味が悪い。
もっと、「食事」どころではない雑多なことに興味・関心を向けるのが「若者」だしね。
年齢を重ねなければ「食」についてのこだわりは高まらない。
まして、辻中氏によれば、「食」と「調理」の目的が本来の意味での「コンサマトリー」になるのは、「仕事」「子育て」から解放された「定年後」のことだという。
40代、50代の「調理」がまだ「生きること」の足かせになっている事実、「美味しいもの」を食べるのが「ストレス解消」の次元に止まっているうちは、「食」「調理」の目的は、十分、「インストゥルメンタル(道具的)」なのである。

そう考えれば、生理的な「食欲」とは別の次元の話として「食べるのが面倒くさいという感覚」は私にもよくわかる。
実感することも多いしね。

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「重層的な自分」から生まれたヒット (『第四の消費』 三浦展 より)

2012年07月26日 | カルチュラル・キーワード備忘録
重層的な仮面は、少なくとも嘘の自分ではない。こうして、ここに「複数の自分」という現代特有の自己意識が生まれることになるのである。

企業にとって、自分らしさ神話の戦略は消費者を簡単に踊らせる手法というわけではない。およそ共犯関係というものがすべてそうであるように、共犯者同士はつねに相手を疑い、相手から裏切られる。同様に、「複数の自分」を持つ消費者は、企業にとってはますますとらえがたいものに「進化」してしまったと言える。

第三の消費社会の後半である一九九〇年代には、それらの「複数の自分」を持つ消費者の増殖が不可解な現象を生み出した。音楽CDが典型的だが、一部のCDが数百万枚のメガヒットとなる半面、数百枚単位で売れるマニアックなCDも確実に存在するが、数万枚の定番的なヒットがなくなるという事態である。これは「複数の自分」という視点を導入しないと理解できない現象である。

仮に一〇〇万人の消費者がいたとしよう。そして彼らがそれぞれ一貫したひとつの自分を持っていたとしよう。彼らの二五%が同じ志向性を持っているとすれば、二五万枚のセールスが期待できる。

ところが彼らがそれぞれ四つの自分に分裂していたとしよう。すると一〇〇万人でありながら「自分」の数は四〇〇万ある。四〇〇万の「自分」が二五%支持すれば一〇〇万枚のセールスが可能になる。つまり一〇〇万人全員が同じCDを買うということが起こる。これがメガヒットのからくりではないかと思う。

(中略)「同調する自分」に訴求すればメガヒットが生まれ、「差別化する自分」に訴求すればセールスは極小化する。逆に、「ひとつの自分」の時代のような中くらいのヒットが生まれにくくなったのである。

これは、生活水準が上がり、相対的にCDの価格が下がったことも背景にはある。若者の可処分所得に対してCD(昔はLP)の価格が高ければ、自分が一番好きなCDだけを買う。CDの価格が安ければ、自分が本当に好きな一枚と、あとは試しにみんなが好きなCDを一枚といった買い方ができる。そうなればメガヒットは生まれやすい。しかも一九九〇年代は、そこに団塊ジュニアという人口の多い世代がいた、ということであろう。

(同書131~132ページより)

ここで三浦のいうところの「重層性」「複数の自分」という概念は、目新しくはない。
またCDだけの話ではない。
以前、何度も書いたが、90年代後半に市場規模がマックスとなった業種は少なくはないのだ。
三浦の論じる「第二の消費社会」と「第三の消費社会」の異なる点、それが、「『ひとつの自分』の時代のような中くらいのヒットが生まれにくくなった」ことである。

では、なぜゼロ年代になってから「売れなく」なったのか?
まず、そうそう卓越した才能は生まれないということ。
メガヒットの後には「飽き」がくること。
「踊らされた感」もある。
「大ヒット」の構造を考えてみよう。
「大ヒット」とは、「本来、買わなくてもよかった」層(グレー層、ライト層)が買ったからこそ「大ヒット」となるのである。
だから、「何で私はあのときあれを買っちゃたんだろうか?」という醒めた感覚が生起するのだ。

それが私がずっと前から言ってきた持論だ。

また、三浦の定義するところの「第四の消費」がゼロ年代前半から始まったこともある。
(「第四の消費って何?」という人は書籍を読みなさい!)

が、一番大きい要因は、三浦も指摘するように、90年代後半に人口ボリュームである団塊ジュニアの諸君の消費意欲だろうね。この時期を過ぎれば、結婚・出産・育児もあっていくら団塊ジュニアの諸君もそうそう、生活必需品以外の支出は抑える。

(もう時効?と考えてるから云うけど)私は30代後半のとき、団塊ジュニアの女性(当時は20代後半)とお付き合いしていたことがある。
彼女の部屋のCDのコレクションを見たとき、彼女の「複数の自分」というものを強く実感した覚えがある。
短い間だったので、彼女から彼女の本当の「パーソナル・ミュージック」(拙著PDF版111~118ページ参照。男性と正反対で女性は隠しがち・・・)のことを聞くことはなかった。

では、これからどうなるのか? どうすればいいのか?
それは生活構造の変化の話であり、有償の仕事の話になるのでここでは書かない(笑)。

第四の消費 つながりを生み出す社会へ (朝日新書)
三浦 展
朝日新聞出版

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「大衆文化のストック化」 (『第四の消費』 三浦展 より)

2012年07月24日 | カルチュラル・キーワード備忘録
(以下、黒字部分は引用箇所)

不安な消費者の二番目の傾向は「永遠志向」である。具体的には海外高級ブランド志向がそれに当たる。海外高級ブランドは、消費者の自分らしさに近づくのではなく、消費者がブランドらしさのほうに近づくべきだという態度を保持している。自分らしさなどという「ぬるい」次元を超えた絶対的なものとして高級ブランドは君臨する。不安な消費者は、高級ブランドが生み出す永遠性という強力な物語に引かれる(ママ)のである。後述する日本ブームなどもこの一種であろうし、最近の神社の人気もそうであろう。千年単位での歴史を持ったものに現代人は引かれる(ママ)のである。

リバイバルブームやレトロブームも「永遠志向」に近い。その対象はグリコ、ディスコ、平凡パンチ、ビートルズなどさまざまだ。大衆文化は本来フローの文化であり、ある一時期に売れても、いずれ消滅し、次の文化に取って代わられるものだと思われてきた。しかし、大衆文化も時間とともに蓄積されて資源になるということをリバイバルブームは証明している。つまり、新しい物(語)をつくらなくても、古い物(語)だけで消費者が十分満足する時代になったのだ。これを私はかねてから「大衆文化のストック化」と呼んだ(拙著『「豊かな社会」のゆくえ』1992)。資産が一〇〇万円しかなければ、どんどん働いて稼がなければならないが、資産が一〇億円あれば、その運用益だけで暮らせるので、がつがつ働く必要はない。それと同じで文化もフローしなければ、次々と新しい流行風俗、ヒット商品を作り出さなければならないが、ストックがあれば、それを使い回すだけでよくなる。企業から見れば、まったくの新製品より、消費者の認知度も好感度も高いかつてのブランドを利用した製品のほうが安心して市場に投入でき、売上げも確実に読めるという効果もある。古い物語の使い回しで十分なのである。

不安な消費者の第三の傾向は「自己改造志向」である。これは、高級ブランドであれ何であれ、物を消費することでは所詮自分らしさやアイデンティティは実現できないことに気づき、自分自身を変えようという態度であり、内面的な自己改造と外面的な自己改造の二つの方向性がある。内面的な自己改造として代表的なものは、さまざまな自己啓発や資格取得、稽古事などの勉強を行う「学習志向」である。

外面的な自己改造としては、茶髪、ピアス、タトゥー、整形などの「肉体改造志向」がある。肉体的改造志向には、より一般的なものとしてフィットネス、筋力トレーニング、ヨガ、さらにサプリメントなども含まれよう。これは藤岡や水野が指摘した「BE」の時代の、言わば究極の姿であるといえる。

(同書127~129ページより)


先日、Facebookで知人がこうコメントしていた。
宝石は人類より遥かに長い歴史がある、だから人々は惹かれるのだと。
普遍的な欲望だろうね。

「大衆文化のストック化」は三浦が指摘する通りの「現象」である。
円環的な時間の流れ、という観点から私 (CMLI) が言えることは、ストック化の流れは今が頂点。
革新的な商品・サービス・文化への希求は緩やかながら高まっていくであろう。

内面的な自己改造。これはゼロ年代から盛ん。
「何のために?」という目標が明確でなければ成果は見込めないこともあり、「資格マニア」への批判の声も少なくはないが、ソーシャルメディアの記事とか見れば実感できる。

外面的な自己改造。
個人差があり、成果が出るには時間がかかるが、達成感が高いのは自分で実感している。
お金による物の購入では到底、不可能なことでもあるし。
三浦の言うように「究極」だろうね。
しかも、普遍的な「病理」だろう(笑)。

自分の経験則から、付け加えると「内面」と「外面」の価値はリンクしてなければいけないよ(笑)。

第四の消費 つながりを生み出す社会へ (朝日新書)
三浦 展
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「自分さがしは消費社会の病理」 (『第四の消費』 三浦展 より)

2012年07月23日 | カルチュラル・キーワード備忘録
(以下、黒字部分は引用箇所)

企業にとっては、消費者に対して、その企業らしさではなく、消費者の自分らしさしか提案できないというのは一種の敗北である。しかし消費者が求めるものが、企業の提案する特定の美しさや女らしさや男らしさやデキるビジネスマンらしさではなく、あくまで自分らしさだというのなら、企業としては、その自分らしさをお手伝いしますよといか言いようがない。
こうして、消費者自身の自分らしさ志向と企業による自分らしさ訴求との共犯関係によって、ますます「自分らしさの神話」が増殖していったのである。

消費の対象だけでなく、仕事も結婚も自分らしくなければならないと信じられるようになった。つまりは、人生全体を自分らしく生きたいと思うようになったのである。

(中略)
何が彼らを自分らしさ主義者にしたのか。彼らを自分らしさ主義者にしたのは間違いなく消費社会なのだ。つまり、自分専用の部屋、自分専用のステレオ、自分専用のテレビ、自分専用の電話、自分に似合う(と言われる)服等々。そうした自分専用の「私物」の私有経験こそが、彼らの自分らしさ主義の土台になっているのである。

(中略)
実際、携帯電話を忘れると不安になる者が多いことは各種調査結果から明らかにされている。携帯電話の場合、単に物として私物であるだけでなく、そこに記録された友人の電話番号や通信記録などによって自分の分身となっているため、持っていないとパニックに陥るのである。人をこれほどパニックに陥れる物が他にあるだろうか? 考えてみると、どうも女性にとっての化粧ポーチがそうらしい。化粧ポーチも女性にとってはまさに自分づくり(make up!)に必須だからであろう。

(同書125~127ページより)

三浦が別の個所で指摘しているけど、流通(小売)の主役が、百貨店からスーパー・量販店、そしてコンビニ、ネット通販へと変遷していったこととパラレルなんだよね(笑)。

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「雑貨の時代」と「差別化消費の悪夢」 (『第四の消費』 三浦展 より)

2012年07月22日 | カルチュラル・キーワード備忘録
(以下、黒字部分は引用箇所)

ロフト、ハンズ、無印良品の成功が示すように、第三の消費社会は「雑貨の時代」であったとも言える。消費者がみずからの感性に基づいて「自分らしさ」を追求するようになると、画一的な大量生産品には関心が薄くなる。洗濯機や冷蔵庫で自己らしさを表現しようとは誰も思わないからである。

(中略)
ファッションでも、もちろん自己表現できる。二〇世紀初頭のシャネルに始まり、一九六〇年代以降のミニスカート、ジーンズ、あるいはイッセイ・ミヤケ、ワイズ、コム・デ・ギャルソンなどのデザイナーズブランドなど、ファッションこそが自己表現の最大の手段でありつづけた。だから、自己表現欲求の高まった第三の消費社会においては、ファッションが消費者の中で重要な役割を演じたのである。

しかし、そうであるがゆえに、ファッションは自己表現として重すぎるとも言える。自己を表現しすぎる、自分をひとつのスタイルを持った人間として表現しすぎるのである。そこには遊びが少し足りない。

自分はそれほどひとつのスタイルに固執はしていない。もっと多面的な存在である、そもそも既存のスタイルによって自己を表現するというのは一種の矛盾である、と無意識に感じとる消費者も増えてきた。そこで、ある特定のスタイルに、意図的に別のスタイルを加え、全体として少し「ズレた」印象を与える必要が生じる。そのとき、雑貨というものが有効であった。

(中略)
こうしたことは、物によって個性、自分らしさを表現することが、とても難しいことであること、自分らしさを表現することが、実はとても難しいことであるということ、自分らしさを追い求めることが一種の蟻地獄的な状況に陥ることにもなりうることを示唆していた。

(同書118~120ページより)


(中略)
だが、「人なみ化」が終わったわけではない。「差別化」と「人なみ化」が同時並行する。「人々は『人とちがう』ことをのぞみながら、同時に『ちがいがわかる』限りで『人と同じ』であることも望んでいる」。「『人とちがう』ことと『人なみ』であることとの狭間で、人々は無限に自分自身を写す合わせ鏡の中にはまりこんでしまう。あるチョイスをしたからと言って、それだけではもう誰も、自分が誰かを説明できない。もう誰ひとり、自分の欲望がわからな」くなるのだ。こうした事態を、上野は、社会学者・井上俊の言葉を借りて「悪夢の選択」と呼んだ。消費が悪夢となった時代。それもまた八〇年代なのである。

(同書123~124ページより)


「自分さがし」っていうのは、マスコミで散々喧伝され我々が刷り込まれたような「フリーター」「ニート」だけの話ではないわけだ。「フリーター」「ニート」にその特徴が凝縮されていただけで。

三浦の鋭い指摘に、私が一言加えるとすれば、「消費によってのみ可能だった自己表現」への「疲れ」に加え、「飽き」もあった、ということだ。「疲れ」は直線的な時間軸、「飽き」は円環的な時間軸で考えることができる。

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コミュニケーションの本質 <ラカン派精神分析>

2012年05月18日 | カルチュラル・キーワード備忘録
『ラカン派精神分析入門 理論と技法』(ブルース・フィンク著、中西之信他翻訳、誠信書房、2008年刊)より(黒字部分が引用)。

意味は聞き手によって、すなわちラカンが言ったように、<他者>の場所において決定されるのである。何かをかなり限定して伝えようとするあなたの意識的な意図に関係なく、その言葉の意味は常に他の人びとによって、すなわち≪他者≫によって決定される。

政治家の言葉を「捻じ曲げて取る」ことで、当人が言わんとしていたこととは別のことを言ったことにしてしまう報道関係者や対立政党の手法は、政治家にとっては悪夢のようなものである。しかし、これが「コミュニケーション」というものの本質である。私たちは人びとに何かを表現するために話す。しかし、私たちが言わんとしたことの意味が何であるかを決定するのは彼らであり、そのため私たちはしばしば狼狽させられる。時には、私たちが言ったことが彼らの立場から解釈され、それにもとづいて重大な決定がなされることもある。このように、聞き手の力というものは相当なものである。

(「第四章 解釈-欲望の場所を開くこと」62~63頁より)


実際に、このような意図的であれ意図でなくても、「曲解」「誤解」で悔しい思いをしたことは誰でもあると思う。
「ひど~い!」とか「信じらんない・・・」とか「何でわかってくんないの?」とか。
が、しかし、ここでのポイントは、「聞き手の力というものは相当なもの」ということだろう。

石井淳蔵も『ビジネス・インサイト 創造の知とは何か』(岩波新書、2009年)で、コミュニケーションについてこう論じている。



「互いに誤解したコミュニケーションが、それとはわからないままに続くのが普通の姿だ」
「発話の意味を決めるのは、発話者の意図ではなく応答者の応答であること」
「コミュニケーションとは、個人の心理や内面には還元されない社会的プロセスである」

(同書、219~220頁より)

で、「マーケティング」とは、誤解のプロセスであるコミュニケーションに擬することができて、偶有性というのは、こういうプロセスの帰結であるんじゃないか? となるのだけどね。

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『絶望の国の幸福な若者たち』 (2)

2011年12月17日 | カルチュラル・キーワード備忘録
いや、あれですな(何が「あれ」なんだか???)、この本の備忘録の1回目を書いてから、別の本を5冊読んでましてね。
今6冊目と7冊目を読んでるところです。
で、2回目の備忘(美貌の方が好きなんですが、私・・・)録です。
(*黒字が引用部分)

世代論が流行するのは、階級論がリアリティを持たなくなった時である。
世代論というのは、そもそもかなり強引な理論だ。
階級、人種、ジェンダー、地域などすべてを無視して、富裕層も貧困層も男の子も女の子も、日本人も在日コリアンも外国人もひっくるめて、ただ年齢が近いだけで「若者」とひとまとめにしてしまうのだから。
(「第一章 「若者の誕生と終焉」50~51ページより)


著者が読売新聞電子版での全文検索結果を集計された「世代」の使用頻度の変化(50ページの【図3】折れ線グラフ)を見ても、60年代前半に「世代」の使用頻度が高まり、70年代前半から爆発的に高まっていますね。
著者は「一億総中流社会」と「世代論」の流行はパラレルと指摘されてますが、やはり、人口ボリュームの多い「団塊世代」が社会ででかいツラ、いや、前面化していったことともパラレルではないかと私は考えます。

「世代論」を、ずっと昔からあったもの、普遍的なものと考えてしまうのはちょっと危険、という意味で著者の指摘は貴重です。
「世代論」そのものじゃないんですけど、われわれのマーケティングの世界では、当たり前のように「性年代別」という軸で解析をします。
「性年代別」だけじゃねぇ・・・というのは昔から言われてますし、世帯年収、個人年収、可処分所得や生活満足度、サイコグラフィック、ジオグラフィックといった軸でクロス集計とかしますが(他にも色々ありますよ・・・。私のオリジナルとかは内緒です・・・)、それでも「性別」「年代別」「性年代別」という軸は基本です。
ただし、そういった軸って当たり前で、昔も今も将来も、という思い込みは危険なんですね。
ポスト消費社会ですしね。

絶望の国の幸福な若者たち
古市 憲寿
講談社

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『絶望の国の幸福な若者たち』 (1)

2011年11月29日 | カルチュラル・キーワード備忘録
おいおい、26歳でこんなおもろくて痛快な本さされちゃ、あたしゃ立つ瀬がないよ~だ。。。

ということで、備忘録その1。
(*黒字が引用部分)

野口おじいちゃんによれば「若者の混乱や崩れ」の原因の一つは「戦後民主主義」であるという。
そして戦後教育が「戦後民主主義の風潮に惑わされて、自由、平等、個性、ゆとりなどの美辞、甘言の孕む危うさに気づく深い思惑を怠った」ことにため息をついている。「戦後民主主義」を「第一次世界大戦の自由主義」に置き換えれば一九三〇年代でも立派に通用しそうな古典的若者論だ。古典としてぜひ図書館の書庫奥深くに封印してしまいたい。
(「第一章 「若者の誕生と終焉」34ページより)


(注)「快刀乱麻 日本教育技術学会名誉会長・野口芳宏 学校が家庭を弱くした」『産経新聞』2007年2月19日東京朝刊。

明治末期から大正初期、そして昭和の戦争に至るまでの「若者論」を詳しくまとめられている。
著者によれば、1960年代後半から1970年代にかけて「若者」は誕生し、「若者論」の原型はほとんど登場したという。
「年齢以外、その多様性は問題とされない均質な集団」として。

同時代的に実感できますよ。
あたしが子供の頃には、FMで朗読番組がありましてね。
五木寛之の『青年は荒野をめざす』とかいうのをやってました(聴いてませんでしたが・・・)。
「青年」なんですよね。

「未来は青年のためにある 青年は未来のものだ」
と言ったレーニンも、著者のいうように若者を「都合のいい協力者」として利用したわけです。

で、80年代の高度消費社会になると、「青年」から「若者」となった若者は「お客様」(消費社会の主役)と祭り上げられたわけで、これもまた同時代的に実感。

さらに著者は、90年代に切り込みます。

たとえば、戦時中の「若者は希望だ」論は、一九九〇年代の起業家政策とよく似ている。バブル崩壊後、日本は起業家の増加を目指し様々な政策を打ち出してきた。政財界から発信されるメッセージを見てみると、起業家という存在は日本経済の救世主であり、雇用創出も担いながら、「公」や倫理観を大切にしつつ、失敗した場合は自己責任を負う存在として規定されてきた。まさに起業家は「都合のいい協力者」である。
(「第一章 「若者の誕生と終焉」36ページより)


おやすみなさい!

絶望の国の幸福な若者たち
古市 憲寿
講談社


青年は荒野をめざす (文春文庫)
五木 寛之
文藝春秋

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「心の健康」と「ゆとり」(土井健郎)

2011年06月20日 | カルチュラル・キーワード備忘録
『表と裏』(土井健郎著、弘文堂、1985年)より。

■心の健康とは?

「心のあるべき姿、あるいは心の健康の由って来るところは、秘密を持って落ち着いておられるということであると思う」(同書132ページより)

いくら伝達しようにも伝達できないものが自分の中にあると悟ること。
自分に秘密があることを苦しく感じることなく、そのことに深い驚異を感じつつ、それを天与の賜物として受け取れること。

■ゆとりとは?

「ゆとりがあるのは空間あるいは金そのものではなく、それぞれの使い方であること」」(同書133ページより)

<お金のゆとり>

使おうと思えばいつでも使えるが、使い方が規定されていないこと。
予め予期しないことが起きても、それにふりむける用意のあること。

<時間のゆとり>

暇を作り出そうと思えば作りだせること。
⇒ 「無用の用」であり、「心の内的自由度」をあらわす。

例えば、仕事をしていて、心はそれに向けられているが、しかし決してそのとりこにはなっていないこと。
だから、必要とあらばいつでもそこから心を引き離せる。
⇒ 遊びの精神に近い。遊びと真面目の間に、あるいは自由と制約の間に、ある絶妙なバランスを保っていられるのが「ゆとり」。

<ゆとりをもつコツとは?>

何が一番自分にとって大事か?というところは秘密にしておくこと。
秘密にしておかないと、自分の自由がきかない。
⇒ 従って、いざという時に、ゆとりを生み出すことはできない。
  すなわち、余白や暇を作り出せない。

「秘せずは花なるべからず」(世阿弥)

土井健郎は1983年、国際価値会議において「ゆとりについて」と題して講演した際、世阿弥の言葉を引いてこう結論づけたそうです。

ゆとりは生活の花であり、これは秘密の価値なくしては咲かすことができない。

このブログを始めてから早4年半。
僕も結構、カミングアウトしましたが、墓場まで持っていかなければならないことも少なくないし、リアルでお会いする方々に知らせることのできないことは、決して書いてはおりませんですよ(笑)。

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経済的自立が個人主義の基礎である英国の歴史

2011年05月01日 | カルチュラル・キーワード備忘録
『近代文明の誕生』(川勝平太著、日経ビジネス文庫、2011年4月)より。

ケンブリッジ大学教授アラン・マクファーレンの『イギリス個人主義の起源』(1978年)によると、英国人の自由とともに個人主義を重んじる価値観の根底には、土地制度があるという。

▼これまで日本で流布している通念

・私有財産制は資本主義社会の本質であり、近代社会の基礎。
・それは15世紀後半から16世紀初めに英国で成立した。
・このような通念は、カール・マルクスやマックス・ウエーバーの影響を受けたもの。
 ⇒ 氏族社会から血縁共同体を経て契約社会にいたる発展の段階を経て私有に基づく近代資本主義が誕生。

▼マクファーレンの説

・英国で高度に発展した個人主義は、土地所有の単位が世帯や家族でなく、もともと排他的な個人であったことと不可分。
・英国では資料に見出される限り、子供は生産可能年齢になると家を出るのが当たり前。
  ⇒ 子供がものにした富を親もあてに出来ない。
    ⇒ 英国人の親子関係は、家父長制からほど遠い「契約」の性質までもが認められる。
  ⇒ 子供は家を出て奉公人となり、女子の離村も珍しくはなかった。
    ⇒ 早くも14世紀の段階で土地が完全に「商品」になっていた。
    ⇒ 土地の所有権の移転は、家族内で行われるよりも、家族以外が圧倒的に多く全体の8割以上。
    ⇒ もちろん、女性も土地保有者。
・つまり、英国社会は、歴史的資料の示す限り、もともと市場志向をもつ個人主義的な社会。
  ⇒ いつでも自由に土地を処分する権利と自由を個人が持っていた。
・土地所有の起源は史料の存在する限り、少なくとも13世紀にまで遡れる。
  ⇒ つまり、私有制の基準を採用するならば、英国はすでに13世紀において“近代的”であった。

日本人は、近代の特徴を自由・個人主義・民主主義というように信じ込んでいる。
日本で土地の私有制が認められたのは、明治5年(1872年)。
土地の私的所有の認可は、国民に経済的自立や個人主義の気風を起こすためという考えではさらさらなく、もっぱら財源確保のためだった。
日本では、自由が利己主義に転化し、地租改正から一世紀以上経って、土地は投機の対象となり、私有権の名のもとに勝手放題のことが行われるようになった。

(以上、『近代文明の誕生』36~39ページより)

う~ん、これじゃ真面目すぎる夏目漱石は、神経衰弱になるはずだわな・・・。
底の浅そうな「グローバリズムの旗手」達も、こういう基本的なことを考えたほうがいいよね。
現在、ビジネス上、「英語」は大切だけど、社内公用語を「英語」にすることの意味とかね。

そして、僕の個人史を洗い直すとき、やはり「自由」「個人主義」が重要なキーになるのです。

近代文明の誕生―通説に挑む知の冒険 (日経ビジネス人文庫)
川勝 平太
日本経済新聞出版社

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「ビオトープ」 マスメディアではカバーしきれない小さいが濃ゆい“情報圏域”

2011年02月26日 | カルチュラル・キーワード備忘録
▼情報の流れの究極の3課題 (佐々木俊尚氏による定義)

(1) ある情報を求める人が、いったいどの場所に存在しているのか。
(2) そこにどうやって情報を放り込むのか。
(3) そして、その情報にどうやって感銘を受けてもらうのか。

佐々木俊尚氏は、近著 『キュレーションの時代』 で、「ビオトープ」という概念を提唱した。
「ビオトープ」とは、wiki の記述にあるように、元来、自然科学の用語。

ギリシャ語でビオ(bio)は生命、トープ(tope)は場所の意味で、この二つを合わせて「有機的に結びついた、いくつかの種の生物で構成された生物群の生息空間」と定義する。
 ⇒ 小さな生態系が維持されるための、最小単位。
 ⇒ 生き物たちがひっそりと生きる、森の中にぽっかりと開いた池や湿地帯のようなイメージ。

情報の需要が供給を上回っていた時代には、情報を欲する人達の圏域が、整然と切り分けられ、可視化されていた。
しかし、インターネットの出現・普及以降、マスメディア以外の「ビオトープ」は無数に広がった。
「圏域は小さいが、情報流通は濃密」というコミュニティの関係性は、インターネットとの親和性が高い。

音楽も国ごと、民族ごとに消費される時代は終わりを迎えつつある。
一つの国の中でも音楽の圏域は共有されないし、国ごとの垂直統合は解かれ、グローバルな音楽市場の中で再結合されていく。
もちろん、グローバルな「プラットフォーム」の存在は不可欠だ。
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うう~ん、流石、佐々木さんですね。“流れる石”のごとくです。

80年代に大手広告代理店の方々(といってもほぼ2社)が、「分衆」「個衆」と騒がれてましたが、当時は高度成長がバブルという爛熟を迎える前夜。
当然、マスメディアは健在どころか“この世の春”を謳歌していたのです。
マスメディアと情報、そして消費の構造が盤石だった頃。
まだ、広告代理店には“余裕”があったわけです。
つまり、「価値観は多様化した」 と得意げに言っても、コントロールは可能、と思われていた。

当時の「消費」に導く「情報」(=電通)、そして、「消費」を支える基盤作りの「仕事選び(ステップアップ幻想)」(=リクルート) について、懐古的に振り返られたのが、山本直人氏。
あくまで、「分析」ということに限れば鋭いんですが。



しかし、高度成長によって完成された経済社会構造が崩れ、マスメディアと大衆の関係性も脆弱になってきた現在は、文字通り「大衆」という概念を支える構造が崩れ、「分衆」「個衆」の連呼によってビジネスチャンスの拡大を試みた方々には、「シャレにならん・・・」事態が訪れたということなんでしょうね。
なんぜ、根本的に“本当”の「分衆」社会が、インターネット社会の出現によって実現しちゃった、わけですから。
「(嗜好の)多様化」が、文字通りの猛威をふるっている、ということでもあります。

大手広告代理店出身で、「夢をもう一度」的な心性が感じられる山本氏の、大きな危機感に駆られた問題意識に、大手新聞社をスピンアウトされた佐々木氏はとどめを刺してしまった、というのが僕流の解釈です。
お二人とも、少なくとも“時代の空気”だけは僕と共有した同世代人ということもあり、そう判断しちゃう僕です。
尤も、「マスメディア vs ソーシャルメディア」という二項対立で、ソーシャルメディアがマスメディアを喰う、という視点は僕は持ってませんけどね。
前にも書きましたが、ソーシャルメディアもその本質は「パーソナルメディア」だと僕は考えます。
だから、パワーダウンしたマスメディアと、勃興するソーシャルメディアの“棲み分け”という方向に進むと思います。

もちろん、僕は論客としての山本氏のファンですし、これからも著作は読ませていただくつもりです。
ただ、それはそれとして、山本氏の 「広告などの情報は消費社会の姿を鏡のように映し出す」 というご自論には納得するものの、この先どうなるのか? は明白かなと・・・考えます。
マスメディアはなくなりはしませんけど、バブル期のような勢いを吹き返すようなことは二度とないでしょう。

『キュレーションの時代』において 「ビオトープ」をターゲティングに活かすこと。
それは、泥臭いながらもとても面白い試みだと思うし、僕もプランニングに活用していきたいと思います。
求められるのは「狩猟者の本能的嗅覚」(佐々木氏)です。

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欲望の「モジュール化」

2010年07月31日 | カルチュラル・キーワード備忘録
■モジュール型から統合型へ-IT産業の潮流

7月21日の「日本経済新聞」朝刊23面の「経済教室」は、
慶應義塾大学の田中辰雄准教授の「IT潮流、日本勢に追い風」

因みに田中先生には、2006年から2007年の一時期、
先生が主催された「著作権保護期間延長による経済効果検証」プロジェクトの
末席にて勉強させて頂いた。
(自分は大した貢献が出来なかったが・・・)

<ポイント>

1.過去30年間、IT産業は「モジュール化」が進行
2.モジュール型より使いやすい「統合型」へ
3.「クラウド」も統合型サービス優位の一例


オープンモジュール型の利点は、技術革新が活発なときは非常に大きく、
90年代、パソコンはワープロ専用機を駆逐した。

オープンモジュール化の流れに乗りきれなかった日本企業は、
自前主義、囲い込み型と批判された。
日本の統合型の成功例、「携帯電話」も、
「ガラパゴス化」などと否定的に捉えられた。

しかし、突破的技術が一巡して、
新しい革新の魅力が薄れてくると、
トラブルに対する「自己責任」を強いられている
ユーザーの不満が高まってくる。

iPad の登場は、ごく自然の出来事。
iPad はハードとOSと通信機能と
一部のソフトをアップルが一体的に提供しており、
パソコンより統合化された製品だから。
(携帯型パソコンとしてみれば、iPad は極めて統合度の高い製品)

もともと統合型の製品は、日本企業の得意とするところ。

以上が田中先生の論旨だが、
ITリテラシーの低い自分も、
このPC立ち上げ時に出てくるメッセージがウザイので、
マイクロソフト社に、「何とかしてくれ!」
とメールを送ったら、
「それはHP社に連絡してくれ」との返信。
面倒なんで、何もしていないが、
今度は、新しく買ったプリンタのせいで、
別のウザイメッセージが。
今度はキャノンだよ。。。

嗚呼、これが「モジュール」型の弊害かな、と。

そう言えば、先日、あるシンポジウムで、
東京大学先端科学技術研究センターの森川博之教授が、
「水平統合」と「垂直統合」の話をされた。

・水平統合 : テクノロジーが固まっていない時期に最適
・垂直統合 : テクノロジーが固まっている時期に最適

「水平統合」は「モジュール化」とほぼ同義。
「垂直統合」も「統合化」ということ。

森川氏も田中先生と同じことを申していた。

「iPod、iPad、Kindle のモデル(垂直統合)は、NTTのiモード」
「きっと米国のビジネススクールで、iモードを勉強した連中が・・・(笑)」

■人間のモジュール化

で、自分が気になるのは、IT環境のモジュール化よりも、
“人間のモジュール化”ということ。



斎藤氏によると、語本来の意味のモジュール化とは、

(1) さまざまなシステムの機能を構成する、半自律的な作業単位のこと
(2) ネットワーク化が進むにつれ、多くの分野がモジュール化され、新たな形で再構成される

そして、

(3) グローバリゼーションがグローカリゼーションをもたらす一つの典型的パターンがあるかも

ということだ。

*注:「モジュール化」とは産業界における組織の理論としてK・Y・ボールドウィンが提唱(『心理学化する社会』198ページより)

<モジュール化の段階>

(1) デジタル化が対象にあらたな分節をもたらす
(2) 分節は機能と効率を中心になされ、モジュール間はネットワークで結ばれる
(3) ネットワークは、同質のモジュール間の結合を促進し、時には特定のモジュールの肥大化をもたらす


「こうした機能全体の解体と再結合は、しばしばグランドデザインを欠いた形でも起こり得る。そのもっとも著名な成功例は、おそらく、『リナックス』の開発だろう。リナックスを支えた『オープンソース』の思想を、ひとつの究極のモジュール化と呼び得るかもしれない」 (同書198ページより)

そして「モジュール化」は、産業界のみならず、
教育、流通、医学などの諸分野で進行しており、
「解体と再構成」は、人間そのものにも及んでいく、
というのが斎藤氏の指摘だ。

「人間のモジュール化」=人間の諸機能が解体され、ネットワーク上で利用可能な形で再構成される

「たとえば個人の情報を大量に詰め込んだICカードが普及すれば、この傾向はさらに進むはずだ。個人情報は、個人認証、経済機能、医療情報、対人関係など、さまざまなモジュールに分割され、さまざまな形で利用されることになる」 (同書199ページより)

■欲望のモジュール化

さらに斎藤氏は、われわれの“欲望”の「モジュール化」を指摘する。
欲望の“分割化と再結合”だ。

▼「性欲」
 ⇒ ネット上の「出会い系」サイトなどで、欲望を共有できる相手を見つけ目的を達成

▼「物欲」
 ⇒ ネットオークションで満たされ続ける

▼「知識欲」
 ⇒ アマゾンなどのサイトに登録すれば、自分の知的関心に合った本を勝手に推奨してくれる

▼「禁煙」
 ⇒ 禁煙マラソンのメーリングリストがある

▼「死」
 ⇒ 誰かが募集しているネット心中の相手に応募する

「まさにネット心中が典型であるが、ここには個人対個人の出会いは存在しない。ただモジュール化し、断片化した欲望を介しての連帯があるだけだ。だからやりとりは匿名のままでも可能だし、むしろ匿名のほうが都合が良いくらいだ。たまたま心中相手のことを深く理解してしまって、その挙句『二人で強く生きていこう』などということになったら、まったく本末転倒ではないか。」(同書199~200ページより)

このあたりの「モジュール化」を、自分が肌感覚で実感したのは、
やはり、SNSを使うようになった2005年辺りだと思う。
改めて、「人間は多面体でいいし、それが自然なんじゃないか?」と。

多くの「オフ会」「勉強会」で、
ハンドルネームで呼び合うことに違和感を覚えつつも、
だんだん慣れていった。
Jリーグ関係のコミュニティ仲間で、
知り合ってから5年経った今でも、本名(名字)をよくわからない人もいる。
(顔を合わせる回数が少ないせいもあるが・・・)

そう考えると、
80年代後半、文字通り“言葉”による定義付けによって、
“世の中での存在” を明確化(クラスター化)された 「オタク」は、
時代の最先端だったのでは? と思ったりするよね(笑)。

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