計量の授業で熱く語ろうと思ったんですけど,いまひとつ反応しない人たちだし,と思ったり.しかし,こういう見方と「ロジカル・シンキング」は親和的なんですかねえ.「ロジカル・シンキング」を知らないのでなんともいえませんが.現代の記号論理学が明確にしたように,われわれが「論理」と呼ぶものは,三歳の童子にでもできる若干の語の使い方を基礎にしている.「…でない」という否定詞,「…かまたは…」という選言詞,「…でありまたは…」という連言詞,「…はみんな」という総括の言葉,それに「何々は…である」の「である」,この五つの語がどのように使われるかを規則の形で書き上げたのが「論理学」なのである.
(中略)
だから「論理的である」,つまり「論理的に正しい」ということもこれらの規則の正しい組み合わせであるということにほかならない.だが,それはとにかくも言葉の使用規則の組み合わせなのだから,でてくるものもまた規則である.ということは,それらは事実についての情報を全然持っていないということである.六法全書をいくらひっくり返してみても誰がいつどこで誰の金を盗んだといった事実情報が全然でてこないのと同様である.事実的な情報がゼロだということを裏返せば,事実がどうあろうと,世界がどう動こうが正しい,ということである.それが,論理学の普遍性とか必然性とかいわれるものである.何が何であろうと明日は雨か雨ではない,それはそうであろう.
同じことが,「論理的な話の進め方」についてもいえる.こうこうである,だからこうなる,とか,かくかくである,なぜならこうこうであるから,といった話がもし論理的に正しいものであるのならそれが何がどうであれ正しいのである.事実はこうこうであろうがあるまいが,もしこうこうならば何であれこうなるのである.ではこのようにある前提なり理由なりからある帰結を引き出すのがどういう場合なのか.それは先にあげた五つの言葉の使用規則の通りに従った場合である.
「ここのお菓子はみんなお前のだよ」と言っておいて,その一つを私がつまむと子供は怒るだろう.私が規則違反をしたからである.「ここのお菓子はみんなお前のだ」と言うとき,それは「このお菓子はお前のもの」,「その隣のお菓子もお前のもの」,……といったことを言うことなのである.だから改めて「このお菓子はお前のもの」ということは,もうすでに前に言ってしまったことを繰り返して言うことなのである.すでに一度述べたことをあらためて再度繰り返す,間違いっこはない,だから論理的に正しいのである.(中略)だから「論理的に正しい」話をするとは,始めに言ったことを言い直し言い換えることであり,したがって始めに言ったこと以上の情報を与えないことなのである.もしも始めに言ったこと以上の情報を与えたならばそれは少なくとも論理的には正しくないはずである.だから同じことを繰り返す,つまり冗長であることが論理的であることなのである.
東京大学の過去問の課題文で,「出口現代文入門講義の実況中継(上)」の最初のほうで取り扱われている文章はお気に入りの1つなのですが,出所が分からなくて気になっていたところ,大森荘蔵の「流れとよどみ」という随筆集のなかの「「論理的」ということ」からの抜粋だということがわかりまして.