ここのところ寝苦しい日々が続いておりますが,午前4時ごろでしょうか,うつらうつらしていたら(最近よく眠れなくって),消防車の音が妙に近くに聞こえるのでなにかしらねえ,と思っていたところ,ベランダから覗いても煙が見えるわけでなし,またうつらうつらしていたら,今度は「消防です.鎮火したので落ち着いてください」などと拡声器で呼ばわっている声が聞こえて,おやおややっぱり近かったのかしらん,と思っていたら,駅へ向かう道沿いにあるお蕎麦屋さんの1階が現場でした.あらあら.厨房から失火して,内部だけ焼いて鎮火したようなのですが,おやおやですよ.ゲリラ的な豪雨の前後に風が強い時間帯があるので,注意しないといけないですねえ.
計量の授業で熱く語ろうと思ったんですけど,いまひとつ反応しない人たちだし,と思ったり.しかし,こういう見方と「ロジカル・シンキング」は親和的なんですかねえ.「ロジカル・シンキング」を知らないのでなんともいえませんが.現代の記号論理学が明確にしたように,われわれが「論理」と呼ぶものは,三歳の童子にでもできる若干の語の使い方を基礎にしている.「…でない」という否定詞,「…かまたは…」という選言詞,「…でありまたは…」という連言詞,「…はみんな」という総括の言葉,それに「何々は…である」の「である」,この五つの語がどのように使われるかを規則の形で書き上げたのが「論理学」なのである.
(中略)
だから「論理的である」,つまり「論理的に正しい」ということもこれらの規則の正しい組み合わせであるということにほかならない.だが,それはとにかくも言葉の使用規則の組み合わせなのだから,でてくるものもまた規則である.ということは,それらは事実についての情報を全然持っていないということである.六法全書をいくらひっくり返してみても誰がいつどこで誰の金を盗んだといった事実情報が全然でてこないのと同様である.事実的な情報がゼロだということを裏返せば,事実がどうあろうと,世界がどう動こうが正しい,ということである.それが,論理学の普遍性とか必然性とかいわれるものである.何が何であろうと明日は雨か雨ではない,それはそうであろう.
同じことが,「論理的な話の進め方」についてもいえる.こうこうである,だからこうなる,とか,かくかくである,なぜならこうこうであるから,といった話がもし論理的に正しいものであるのならそれが何がどうであれ正しいのである.事実はこうこうであろうがあるまいが,もしこうこうならば何であれこうなるのである.ではこのようにある前提なり理由なりからある帰結を引き出すのがどういう場合なのか.それは先にあげた五つの言葉の使用規則の通りに従った場合である.
「ここのお菓子はみんなお前のだよ」と言っておいて,その一つを私がつまむと子供は怒るだろう.私が規則違反をしたからである.「ここのお菓子はみんなお前のだ」と言うとき,それは「このお菓子はお前のもの」,「その隣のお菓子もお前のもの」,……といったことを言うことなのである.だから改めて「このお菓子はお前のもの」ということは,もうすでに前に言ってしまったことを繰り返して言うことなのである.すでに一度述べたことをあらためて再度繰り返す,間違いっこはない,だから論理的に正しいのである.(中略)だから「論理的に正しい」話をするとは,始めに言ったことを言い直し言い換えることであり,したがって始めに言ったこと以上の情報を与えないことなのである.もしも始めに言ったこと以上の情報を与えたならばそれは少なくとも論理的には正しくないはずである.だから同じことを繰り返す,つまり冗長であることが論理的であることなのである.
ちくま新書のほうは年金に特化していて,より基本的なところから書いてある一方で,日経新聞の単行本のほうは,福祉・年金・医療・介護の社会保障全般を取り扱っていて,数か所グラフも出てきて最後は財政危機まで論じているという違いがあります.ま,単行本のほうの年金の説明は新書のほうとかなり重なっているのですけど.内容としては,経済学方面から社会保障制度を考えているひとにとっては基礎的なことが半分から2/3くらい,経済学方面のひとでもぼくみたいにうっかり新聞も読まないひとにとって目新しい情報・切り口が1/3くらいという印象でした.ええと,1/3に根拠はないです.ふだんから経済学方面から社会保障を考えてはいないような一般の方々にとっては,「不都合な真実」がけっこう多いのではないかと思います.厚生労働省の計算を「粉飾決算」と言ったりするあたり,お上が嫌いな方面に迎合し過ぎなんじゃないかと危惧されるところでもありますが,間違いではないのでそれも表現の範囲内かと.
目新しい切り口というと,後期高齢者医療制度の解説のあたりでしょうか.制度改正に直接の利害関係者しか入っていないから,現状維持が(「看板の掛け替え」が)交渉解になるのは当然のことで,したがって決め方を変えない限り政権が代わっても駄目ですよね,という話.sunaharayくんが直近の動きを書いてますが,ええとまあその通りというところでしょうか.ここに限らず,鈴木先生のこれまでの精力的な統計的実証・シミュレーション・フィールドの知見に支えられた堅実な論調ですごいなあと思います.ときどき単語が過激なような気もしますけど.なんていうか,D先生に通じるところがあるのかしらん(他意はないです).
あいかわらずいまひとつ賛成しにくいのは積立方式化のはなし.もちろん積立方式への移行は,年金に限らず医療であっても,ひとつの有力な選択肢だし,それはそれで見識ではあろうと思うのですが.賛成しにくいというか,ひっかかっているのは2点.ひとつは,とくに年金についての,積立方式化にともなう二重の負担です.いまの現役世代から積立方式に移ったとすると,いまの現役世代の支払った保険料は,その現役世代が引退してから受け取るために積み立てられることになるので,いまの引退世代は,そのままでは年金を受け取ることができません.だっていまは積立金が(もし積立方式で運用されていたとしたらあるべき水準に比べて)かなり少ないから.この本での議論は,だからいまの引退世代のための支払いは公債発行を行ってまかなっておいて,将来の世代で公債を償還すればいいじゃん,となります.筋が通ってていいのですけど,公的年金がちゃんと受け取れても,公債償還で税金取られるんだったら,手取りは変わらないわけで,じゃあべつに積立方式とか言わなくていいじゃん,と思います.もちろん,税金と社会保険料では世代内の負担の在り方が異なりますし,特に消費税は,社会保険料と違って引退世代からも徴収できるというメリットがあるわけですが,それって年金給付に課税したほうが金持ちから取りやすいいいんじゃないかしら,と思ったり.賦課方式のまま年金給付を削減しても同じことが実現できるのじゃないかなーと思います.このへんはさんざんに理論的に検討されているはなしで,賦課方式のデメリットをどこに見出すか,の問題なので,どっちが正しいってことでもないです.でもなー,年金給付だけ将来の債務を明示化するのはなんでなんだろう,と思ったり.将来の教育給付は明示化しないですよね.こっちもある意味では給付を約束しているのに(←いちゃもんに近いです).
もうひとつは,積立方式にして資金運用に失敗したらどうすんじゃろか,という点と,資金運用にともなう手数料をどうするかという点です.積立方式にする以上,資金運用の方法は加入者の選択に任せられるべきであって,失敗したら残念でした,というだけのはなしなんですけど,じゃあそれって「公的」年金なのか?と思ったり.資金運用には手数料がつきものですが(だから金融機関の方々の給料が高いんじゃないかと疑ってみたり),高い手数料を払うのが効率的か,というのは実証的な話じゃないかと思います.だいたい,政府部門に金を持たせるとロクなことがないですし.自動車の自賠責みたいに,加入だけ義務付ければ,政府部門が直接に金を扱うことにならないですが,運用手数料は残ります.もちろん,賦課方式にも手数料のようなものはあるので,相対的な問題ではあるのですけど.
とか,いちゃもんをつけてみましたが,頭も整理されてよくできた本だなあと思います.はい.
財政赤字バイアスがあるというのはうすうす分かる話ではあるのですが,その源泉として言われているのがおもに次の3つではないかと.第1は再選動機,第2は戦略的動機,第3は共有資源問題.いずれもそれなりに実証的に支持されているのではないかと思います.第1のは,選挙に勝ちたい政治家が有権者の歓心を買うために財政支出・赤字を増やす,というもの.第2は少しわかりにくいのですけど,財政赤字を発生させることによって次の政権の手足を縛る(利払費があるから)というもの.第3は,予算過程に利益集団が介入するというもの.利益集団というとアレですが,各省庁が自分の政策が重要だと主張するのもこれに当たるっちゃあたります.
財政赤字バイアスがあるときに,対処する方法として知られているのが4つ.第1は市場規律,第2は選挙.ギリシャになりたくないでしょうっ,というのが前者ですね.後者は,財政赤字が増え過ぎると,有権者も(とくに財政保守主義のばあい)反発するかもね,という話です.この2つが資本主義・民主主義の世の中としては王道(?)なんですが,これだけだと機能しないことが多いので,あと2つ方法があります.一つはルールを決めてしまうというもの.均衡財政の原則を定めた財政法第4条や,いまとなっては懐かしい財政構造改革法,あるいは骨太の方針2006,なんてのがこれにあたります.ヨーロッパ的には安定成長協定やマーストリヒト条約ですか.もうひとつは,財政委員会,日本でいうと財政制度等審議会などを使って予測あるいは助言させるというもの.このいずれの方法もうまくいかないことはあって,ルールには抜け穴があるし(creative accounting),ルールそのものが破られることがありますし,審議会も意見が無視されてしまえばなんにもなりません.ルールや助言を尊重するという合意がある,あるいはルール・助言に従わなかったときに制裁があるというのが重要です.ええと,ルール対裁量,というはなしにもつながるところですが.
いずれにしても,予算を決める人たちにとって財政赤字を減らすというのはしんどいことなので(財政赤字バイアスの裏返しだから),やりたくないことをやらすためには実効性のある約束をしてもらわんとね,ということで,小難しく言うとコミットメントデバイスをどう設定するか,ということです.とくに中央政府のばあい,上位政府がいない(EUだとそうでもないかも)ので,強制されないのですよね.IMFが脅しになりうるか,というと,IMFも強制力がないのでちょっくらびみょー.あ,そういえばIMFの消費税15%って,けっこう過剰報道だったそうですな.
衆参のねじれがあるときに,つまり政権交代の可能性が高いときに約束もコミットメントもないだろ,という話もあるのですが,だからこそ,超党派での合意を作ってしまえば政権交代のときに妙なこともできないのじゃないかしら,と思います.そういう点では,参議院選挙のときに自民党の消費税政策にのっかった菅総理はえらかった,と思ったんですが,えーとどうもそういう意図はなかったらしいような雰囲気です.どうなんでしょーか.
参議院選といえば,民主党の敗因は消費税らしいですが,消費税って自民党も言ってたじゃん,というのはどうなんですか.言い方っつうか,出し方の問題なんですかね.あと,ねじれねじれって言ってますが,二院制をとって選挙の時期がずれて いて,しかも選挙の方法が似ている(片方が地方の代表からなる,とかではない,という意味で)となれば,ねじれはしばしば起きるんじゃないですかね,って岩本先生がおっしゃってました.そうなんですよねえ.
2010年度の地方交付税(普通交付税)の配分をめぐり、これまで税収が豊かで国から交付税をもらわない不交付団体だった横浜市や名古屋市などが、交付団体に転落することが20日、分かった。不交付団体は09年度の152自治体からほぼ半減、00年度の78を下回り平成で最少となる見通し。景気後退により、法人事業税と法人住民税を中心に税収が大幅に落ち込んでいるのが原因。原口一博総務相は23日の閣議に、自治体への配分額を示す10年度の普通交付税大綱を報告する。都道府県については08年度まで不交付団体だった愛知県が09年度に引き続いて交付団体となっており,10年度の不交付団体は東京都のみです.
地方交付税交付金は標準的な歳出とされる基準財政需要から,標準的な歳入とされる基準財政収入を引いた額がマイナスであればそのマイナスぶんだけ交付されることになっているので,交付団体になるということは,歳出が多いか,歳入が少ないか,です.記事にあるとおり,景気後退によって税収が減少すれば歳入が減るので,交付団体になりやすくなります.では,昨年度152あった交付団体というのは横浜や名古屋といった大都市ばかりなのでしょか?
09年の不交付団体の一覧表は総務省から提供されている(←このリンク,すごい辿りにくいです.修正希望.)ので見てみると,横浜市・川崎市・名古屋市・千葉市・相模原市といった政令指定都市が不交付団体になっていることがわかります.が,政令市のうちで不交付団体になっているのはこれらの市だけで,札幌・仙台・京都・神戸・大阪・広島・福岡・北九州といったむかしからの政令市は交付団体ではありません.大阪市や北九州市に典型的に見られるように,大都市には大都市なりの支出が多いわけなので,平均的に金持ちが住んでそうな都市が不交付団体なのかしらん,と思ってみると,たしかに,武蔵野市・三鷹市・国立市・鎌倉市・藤沢市・浦安市といった名前があります.埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県の不交付団体は比較的金持ちの多い町なのかもしれません.
しかし,そういうイメージとは少し異なる市町村がいくつかあります.たとえば北海道泊村・青森県東通村・青森県六ヶ所村・新潟県刈羽村・宮城県女川町・佐賀県玄海町といったところ.あるいは群馬県上野村・長野県南相木村.あるいは福島県広野町・三重県川越町.これらの町村はいずれも十分な税源を持っています.それは固定資産税.最初のグループは原子力発電所,2番目のグループは水力発電所,最後のグループは火力発電所です.ちょっと変わった(?)ところでは,大阪府田尻町は関西空港の,愛知県飛島村は名古屋港の,新潟県聖籠町は新潟東港の固定資産税をもっており,不交付団体になっています.もっとも,発電所やダムがあれば不交付団体になると決まったわけでもないですが.
こういう税収の多さについては,財務省広報誌「ファイナンス」2010年7月号の岡部真也「市町村の財政運営(1)―市町村税の「税収格差」―」に一覧表と一緒に出ています(っていうか,この記事を見ながら書きました).
えーっと,だからどうってことでもなくて,そうなってるのねー,というだけのはなし.これらの裕福な市町村は合併もしたがらないんじゃないでしょうかねえ.
ゲートで名前を住所を書くと,ものしりしょうゆ館の位置を教えてもらえるので(といってもゲートから見えてますが),勝手に入っていきます.入っていくと,受付のおねえさんっぽいひとが出てきて,パンフレットを渡されて,順路に沿って見て行ってね,と言われます.で,勝手に見ていく,と,こういうしくみ.醤油は発酵食品なので,小麦と大豆に塩水をかけて麹をつくって発酵させて絞って火入れして詰める,という工程で,その順序でちょっとずつ工場のなかが覗けます.とはいっても,予約しないで行くと覗けるところはほとんどなくて,今回は麹がぐるぐるまわっているのが見えたくらいでした.でも,発酵していくもろみの香りをかいだり,どでかい圧縮機を見てびっくりしたりくらいのアトラクションはあります.ええと,それくらいしかなかったとも言いますけど.基本的に亀甲仙人のしょうゆ塾で分かるんじゃないかという気もしますが.しません.日曜日だったせいなのかどうかわかりませんが,職人技とか自然の神秘とかを目の当たりにして恐れ戦き,おまけの醤油でも大切にしないとなあとしみじみと思わされる,というほどロマンやスペクタクルにあふれたものでもないです.そうはいってもやっぱり工場見学というのはおもしろいです.1時間くらいしょうゆのことしか考えないことって,普段はなかなかないでしょう?しょうゆかすなんて見ないし.酒粕ならみかけるけど.
ぐるっと回ると入口に帰ってくるので,そこでおねえさんから特選丸大豆しょうゆをいただきます.この小瓶も発酵や圧縮やの長い過程を経たものなのかと思うと感慨もひとしお,という顔をして受け取るのがよろしいかとおもいます.ま,むしろ驚いたのは,キッコーマンがデルモンテと関係してたとか,ワインも作ってたのかとか,そっちのほうですが.
ねえ,しあわせってなんだあっけ?
自己免疫疾患というのは,免疫系が自分自身の正常な組織を攻撃してしまう病気ですが,リウマチについてはその原因は分かってないんだそうで.他の結果とあわせて,肉とか豆腐とか枝豆とかちゃんと食べてくださいね,それから急性炎症型とかストレス型とかに当てはまる結果なのでちゃんと休んでください,とか言われました.これ以上サボっていいってことかしら.わくわく.
「強い社会保障」で村おこしこれを書いている鈴木亘先生のことは,すごいなあと思うのですけど,なんとなくよくわからんなあと思うこともあるのですが,この寓話はよくできているなあと納得しています.成長分野を政府部門が決めることができるかという点,ある産業に傾斜させるということは他の産業から資源を移動させなければならないという点が指摘されているのではないかと.あとたぶん,「社会保障が成長につながるのか」ということについても書いてあるのかしらんと思ったり.社会保障は,なんらかの事故にあった人たちを「ふつう」に戻す,あるいは戻そうとするためのものなので,言うなれば,なんかの拍子にマイナスになったものをゼロにするのがその主な役割と考えられて(障碍者施策などの文脈ではたいへん不適切な表現なので,治癒可能な医療分野あたりを想像したほうがよいです),ということは,「成長」には向かないのではないかしら,とうすうす感じております.まあでも,そんなことはオオヤケの場ではちょと言い難いですが.
というわけで,いわゆる社会保障施策が対象としているリスクへの保険を十分に提供することができれば,他のリスクを取ることができるようになるので,そのルートで経済成長に寄与するかもしれませんね,とは思います.医療保険が充実して,病気になったときのためにとっておかなければならない貯金の額が減れば,そのぶん,株式投資等に回してもいいと思う人も出てくるかも,という話.あんまり実証に乗らなさそうな話ではありますが.
ま,この爺さんたちみたいに「子孫に莫大な借金を残しては、申しわけなくて、死んでも死にきれねぇだ」というのが,日本に当てはまるかどうかは,またなんともはや.