最初の視察先は大川小学校.悲劇の小学校ですが,内部や周囲の瓦礫は片付けられ,建物だけが夏草に囲まれつつありました.看板を使った慰霊碑が立てられ,訪う人が絶えないようでした.小学校は北上川沿いにあるのですが,校庭の場所にたって眺めてみると,裏山はかなり急斜面で,北上川のようすは校舎や土手に遮られて見えませんでした.
石巻から東へ移動し,女川町へ向かいます.女川町立病院(現・女川町地域医療センター)は女川浜の高台にあるのですが,その1階の天井付近まで津波が押し寄せました.いまの駐車場から周りを見ると,津波の到達点より高い地区の家はそのままなのに,低い場所には家がほとんど残っていないのがわかります.女川浜近辺は冷蔵庫が復活したりしていますが,少し内陸にはいった宮城県原子力センター(と原子力防災対策センター?)は片づける人もいないのか,他の建物とは違ってほとんど片付けがされていませんでした.
女川町の中心部を避けて,仮説商店街として女川高校の校庭にきぼうのかね商店街が作られています.女川高校の校舎はそれなりに立派なものが建っていて,校庭が使えないと高校生も困るんじゃないかと思うのですが,この高校の在籍者数はそんなに多くないんだそうです(1クラス編成ですむくらい).多くないからいいというわけではないのですけど.
きぼうのかね商店街の会議室で町議の方から被災状況や復興の方針についてお話を伺いました.興味深かったのですけど,「国の方針が決まらないと」とおっしゃっていたのが気になりました.こういうときにはソフトな予算制約を悪用したほうがよいのではと思ったり(よくないですが).
商店街をあとにして昼食をとりながら女川原発の被災状況についてお話を伺いました.女川原発は標高を高くしていたことなどからとくに大きな被害もなく,むしろ震災時には近隣住民の避難所となった場所です.立地場所を高くしていたこと,外部電源を喪失しなかったことが軽微な被害の要因のようです.標高の設定については貞観津波を想定していたことが知られています(このPDFファイルを参照のこと).ぼんやり聞いている福島第一とつらつら比較すると,女川原発が運良く助かったのか,助かるべくして助かったのかは,なかなか判定しづらいですし,いっしょに話を聞いていた人のあいだでも受け取り方に差があるようでした.しかし,福島の事故の報告書が3種類も出ていて,国会のとかは被規制企業のあり方にまで言及しているらしいですが(読んでないけど),福島と女川,東京電力と東北電力の違いはもうちょっと検討されてもいいのじゃないかと思ったり(Ctrl-Fで東北電力を検索したらほとんどひっかからなかったです).女川のほうが震源に近いわけだし.
女川から石巻に戻って日和山公園に向かいます.被害の大きかった地区を見下ろすことのできる公園として,テレビの中継地点としてよく見たところです.ふもとにはあの門脇小学校があり(地図など),また石巻市民病院やマンガッタンも見えます.川を挟んで日和大橋の向こうの地区(川口町など)にはがれきがまだ多く積んであります.更地になっていたり新築の家が建っていたりもしますが,窓ガラスなどが割れたままの家も散見されます.しかし正直なところ,1年が経って更地には夏草が生え,家の土台が覆い隠されているところもあると,津波の被害地なのか,もともとの荒れ地だったのか,以前の姿を知らないと判別できないかもしれないと思います.もちろん,少し注意深く見ればそこに建物があったことはすぐに分かるのですけど.
案内をしてくださった石巻専修の先生とは日和山公園でお別れして仙台へ戻りました.仙台東部道路の東側も津波の被害を受けた地域ですが,かなりの範囲で稲が青々としていました.なんかすごい.