だからちがうんだってば.

ブログ人から引っ越しました

富津市

2014-09-25 11:49:05 | 授業ネタ
富津市が18年度に破綻の恐れ[毎日新聞]という報道があって,google newsでは他にあまり報道がないようですが,ちょっと興味深いです.記事によれば,2015年度末には財政調整基金を使い果たし,2018年度に財政再生団体に転落する見通しなんだそうです.「市は1999年度に「財政非常事態宣言」を出し、行財政改革に取り組んできた。05年に宣言を解除したが、税収は落ち込む一方で、職員の人件費や福祉関係の歳出が膨らみ続けている」とのことで,なんで2005年度に解除したのかよく分かりませんが,前途は明るくないようです.

この手の記事で分かりにくいのは,「2015年度決算で実質収支が赤字に転落」とはいいつつ,地方債はここにカウントされてないということではないかと思います.総務省の決算カードを見ると,富津市は2012年度の普通会計歳入額が179.8億円なのですが,このうち地方債が25億円で,歳入の14%を占めています(臨時財政対策債7.5億円(4.2%)を含む).歳出を税や手数料や財政移転でまかなえていなければ赤字じゃんと思うんですがどうなんでしょうか.

あとよく分からないのは,記事でリンクが張られている千葉経済センター「県内54市町村の財政状況と今後の方向性について」をちらっと見ると,富津市を含む君津ブロック(木更津市,君津市,富津市,袖ケ浦市)よりも銚子市・匝瑳市・旭市や山武地方のほうが財政的には危なそうなのに,なんで富津なのかしらん,ということです.このレポートの冒頭では銚子市が昨年度に「2015年度には破綻する」と言ったとあるので,ニュースに引っかかってないだけかもしれませんが.しかし,このレポートでも富津市がとくに状況が悪いというわけでもなく(銚子市は悪いですが),むむむ,というところです.

千葉県も西と東ではずいぶん様子が違うので,首都圏に近いからと思っていると,思わぬ展開になるのかもしれませぬ.


ウルフ・オブ・ウォールストリート

2014-09-18 14:02:29 | 授業ネタ


ジョーダン・ベルフォート.酒井泰介訳.2013.ウルフ・オブ・ウォールストリート.ハヤカワ・ノンフィクション文庫.
2014年1月に同名で公開された映画の原作.「ウォールストリート」というタイトルが付いたノンフィクションということになっているものの,『ライアーズ・ポーカー』のようなウォール街を描いたものとは異なり,どちらかというと(狭い意味で)金融詐欺師の話なので,金融機関の内幕物とは異なる.その意味ではタイトルも邦題もやや誤解を招きやすい.ドラッグや性的表現に免疫がない人には読みにくいかも.
「ウォール街の狼」というのが自称というあたりからして,むむむ,かも.訳者あとがきを先に読めばよかった.

先行研究の読み方

2014-09-09 12:53:51 | 授業ネタ
有斐閣が出している「書斎の窓」という小冊子というかPR誌というか,は,社会科学に関係する研究者のエッセイや著書に対する思いが綴られている冊子で,個人的にはおもしろく読んでいて,最近はゼミの師匠が連載を持っていたりするのでそこはちゃんと熟読しているのですが,それはそれとして,9月号に神戸大学の曽我謙悟先生が書いている「先行研究を読むとはいかなる営みなのか」はかなり興味深いです.ゼミ生にも読ませなければ,と思ったのですが,「読むべき文献リストは毎日、少しずつ手を入れていき」というのはさすがに学部生に求めるのはつらいので,やっぱり院生向けかなあと思い直しているところです.最後の段落も非常に趣深いのですが,

したがって何よりも避けるべきは、読むに値しない文献に時間と労力を費やしてしまうことである。読むという努力それ自体は、研究においては評価されない(努力そのものが評価されるのは初等中等教育までである)。

というのは強調しよう,と感じました.「レポートはきれいに書いて出してください.でなければ,せめて丁寧に書いてください」みたいなことかしらん(違).

コワーキングスペース

2014-09-08 15:50:22 | 生活
大規模な実験装置等を必要としない研究スタイルをとっている大学教員というのは人文社会科学系にはわりといるものですが,そういう人たちのなかには,授業のある日(出校日)以外は大学に来ない,というひとたちがいます.紙と鉛筆があれば(ラップトップがあれば)どこでも仕事ができるので場所を問わないということなのですが,加えて,喫茶店やレストランのように少し騒がしいところのほうが仕事がはかどる,大学の研究室にいると学生や学部長が訪ねてきたり電話してきたりするので集中できない,などの理由もあるようです.ぼくのばあいは,それらしい場所にいないと仕事をしないので,授業があってもなくても営業日には研究室に行く,ということにしていたのですが,最近はときどき行かないようになりました.

極めて個人的家庭的な事情の変化が契機にはなっているのですが,通勤で疲れた,というのが理由の一つです.いろいろあって((c)清水義範),通勤には1時間半弱,往復で3時間近くを使っているのですが,乗り換えがあったり混雑していたりでわりと疲れている,ということに気がつきました.ま,特急や新幹線で通勤するひともいるので文句を言うほど遠くはないのですけど….と思っていたところ,家の近くにコワーキングスペースというのができて,一度行ってみるとなかなか居心地がよいのでそちらに行くようになりました.冷暖房が利いていて無線LANに接続できて,1日いても1000円なので,まあいいか,というところです.飲み物持ち込んでもいいし.いまのところあんまり人を見掛けないので,どういうビジネスモデルになってるのかよくわかりませんが,しばらくこれでいいかしら,と思ったりします.図書館だとパソコンは使いにくいですしね.

という話を知り合いの女性にしたところ,「ああ,六本木のアカデミーヒルズにもありますね」と,しれっと言われました.だから外資系投資銀行に行ってたようなひとはなー,と思いました.あーゆー人生もあったのかしらん(遠い眼).


町村合併

2014-09-05 16:51:02 | 授業ネタ

松沢裕作『町村合併から生まれた日本近代』を読み終えました.やや近代づいていたところでもあるのですけど.

大政奉還から明治の大合併にかけての地方制度の変遷を描いているのですが,平成の大合併を念頭に置いておくと,明治の大合併がいかに性質が違うかということがよく分かります.とくに新しく知ったことは,幕藩期の町や村が空間によって定義されるものといううよりは身分やそれに属する人間によって定義されるという点です.いまは町や村というと一定の空間の広がりで,だいたいは連続して立地している町や村のまとまりを都道府県としている,逆に言うと町や村は都道府県に空間的に包含されているわけですが,藩や代官の知行地はそういうものではなくて,空間的にはばらばら(「モザイク状」)で,村請制のもとで「上」に立つ領主などによってまとめられている,ということのようです.明治初期の地方制度の変化,大合併は,そういうモザイク状の町や村をとっぱらって,空間を基準に線を引くという作業だった,というのが,大きな主張のひとつです.

この本としては,身分的なつながりであった町や村から,地理・空間によって定義される町や村への変化は,市場経済の浸透という文脈の中でどうのこうの,ということも本題らしいのですが,えーっと,そこらへんは正直よく分かりませぬ.

日本の市町村が再分配政策の実施の多く,企画立案の一部を担っているということを考えると,生活の上では「切実な」つながりのないひとびとを地理的・空間的の近接性だけで市町村という「自治体」としてまとめたのが明治期だったおいうのは,なかなか含蓄のあるところではないかと思ったりします.つまり,所得再分配政策を正当化する理由のひとつは,自分が払った税金が誰かの効用を上昇させ,そのことが自分の効用も上げるという利他性にあるわけですが(もちろん,これだけが理由ではないですが),この議論には,再分配の出し手から見て受け手は「気にする」存在であるという仮定があります.自分の税金で誰かの効用が上がってもうれしくも何ともない,取られただけ損だ,ということになると,所得再分配政策はなかなか正当化しずらいわけです.sharing communityの議論(たとえばこれ)ってやつですか.

市町村内で所得再分配が行われるということは,「同じ町に住んでる」ということが共感を呼ぶということを前提としてるのですが,単に距離的に近くに住んでるというだけで,そんなに親近感を持てるとは限らなかったりするのですが,それも明治期以降の短い歴史しかないというのではしょうがないかしらん,と思ったりします.ま,より広い範囲であるところの「同じ日本人だから」で共感できるので,なにがどうだかわかりませんが.でも,「地域のチカラ」に頼るということは「同じ町に住んでる」という共感を利用するということなので,えーと,だいじょうぶかしらんと思ったり.

足立区の話とか聞くと,意外と町会って活躍しているので,だいじょうぶなのかもしれませんが.でも東京圏って,車が使いにくいだけに逆に田舎よりもコミュニティが残存しているというだけという話もあったり.

ちなみにこの松沢先生,同僚だったりするんですが.