ではあるのですが,「コンテキスト思考」についてはちょっとした(でもないか)事情があって読んでみました.最初にタイトルを見たときには酔っ払って「要するに『空気読め』って本なんだろ」と暴言を吐いてましたが,(熟読ではないにしても)読んでみると,当たらずと雖も遠からず,というところだったではないでしょうか.いや,さすがに「空気読め」よりは範囲はかなり広いか(約3倍).「コンテキスト」という単語を,普通に想起する「文脈」よりも広い意味で使うことによって,分析過程そのものだけではなく,その出発点となる価値観の設定,到達点となる目的の設定についても話を広げています.そういう点では,「コンテキスト」という単語を鍵にいろいろなことを,いちおうは一貫したテーマとして語ってはいるようです.
とはいえ,ちょと斜に構えて振り返れば,どこかで聞いたような話が姿を変え手を変え品を変え登場してきているとの印象も否めません.それは,暗黙知の共有の話であったり,内発的動機付けの話であったり,独自性・差異が利益の源泉だという話であったりします.これらの単語が出てこないので,実は違う話なのかもしれず,うかつなことは言えないですけど.もちろん,それぞれの話がどこかで聞いたような話であったとしても,それをつながったひとつのストーリーとして纏め上げることは有益です.たぶん.
「文脈」が定義によりその「文」には直接に登場しない以上,「文脈」を理解するには読む前の知識・理解が必要で,それがなければただの思い込みや誤解になる可能性があります.ということで,当然のことながら,教養を身につけましょう,という結論になります.これもまた斜に構えてみれば,「ちゃんといろいろ勉強して上を向いて歩こう」という話で,いやまあそりゃそうなんだけどさ,と思ったり思わなかったり.そんなにいうんだったら大学時代にちゃんと「一般教養」科目群を勉強してたんかい,っちゅう話ではないかと.著者のお一人は,教養課程を保持した数少ない大学の出身みたいですし.
なんつうか,「これでビジネスがうまくいくようになる」といった感じの動機で「教養」なるものが身につくのかしらん,とも思ったり.「教養」の定義にもよると思うのですけど,これにもまた内発的動機付けがないことにはやる気も起きないだろうなあという気もしたり.いくつか無理して勉強すれば知的好奇心を刺激されることもあるだろうし,そこから始まるのでしょうか.そういえば,どこで誰に聞いたのか忘れましたが,「すごい」学者さんほど,森羅万象ありとあらゆるものへの好奇心が旺盛で,だからいつまでも若いんだそうです.研究室には「こんな本まであるのか」というような本が並んでいるらしいですな(I井先生のことでしたっけ).
ああそうだ,この本では「文脈」に注目させるためかどうか,「文」のほう(「コンテンツ」)の分析はいまや義務教育・基礎知識にも等しい,としているのですが,さすがにそれは言い過ぎかしらん,と思ったり.統計を使った実証でも,数字に出てこない部分をどう見るか,数字の作り方を正確に把握しているか,の重要性はもちろんなのですが,数字の部分だけであっても,どう組み合わせるか,どれを使うか,に大きなバリエーションがありえます.「データがあれば結果を出すまでは誰でもできる時代になっていて,いまや問題はその解釈だ」というとそれもそうかもしれませんが,そもそもデータをどう処理するかの選択など,結果を出すまでにもさまざまな選択がありえます.ま,その選択のほうは「価値観におけるコンテキスト」ということになってるんでしょうけど.
「論理的であるということは冗長であるということだ」というのは,昔の東大入試の問題文にも取り上げられたことですが,論理とは当たり前のことを述べているので,むしろ実際上(?)重要なのは,結論ではなく前提です.自分の「論理」がどのような前提に立っているのか,を明確に把握できることが,たぶん問題解決には重要で,そのためには論理展開を追う訓練,つまりどこで前提が追加されているかを意識するようなことを繰り返す必要があるのかもしれません.となると,その論理展開そのものの応用可能性という点からも,なにかの基礎理論を身につけるということは意味があるのではないかなあと思ったりします.と思うのですけど,なんだか最近のfancyな話をやりたがって,なんだかよく分からんペーパーにしちゃったりする学生がいるような….ま,好きなことをやるほうがやる気も継続していいんでしょうけど,しかし全般的に意識が低すぎるよな.どうなってんだか.
というようなことを,つらつら考えさせられたということで,いい本でした.はい.
杉野幹人・内藤純.2009. コンテキスト思考 論理を超える問題解決の技術 東洋経済新報社. 価格:¥ 1,680(税込) |