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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「泉」

2020-02-20 11:50:41 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「泉」(「森羅」21、2020年03月09日発行)

 「森羅」21には、池井の詩が三篇。きのうまで「ぼくの詩は」について書くつもりでいたのだが、きょうになってみると気持ちが変わった。「泉」を読んでみる。

あなたの詩は
なぜひらがなで?
そう問われたら
あのはなは
なぜあんないろ?
そうこたえます

 禅問答にはなっていないが、禅問答のようなものだろう。問いの抱え込んでいる「既成のもの(問いの定型)」を拒絶して、あらたなことばの運動をはじめる。「問い」に対する「答え」ではなく、池井自身が世界と向き合ったときに生まれることばそのもので答える。
 もう一度繰り返される。

あなたの詩
なぜ七音(ななおん)?
そう問われたら
あのはねは
なぜななつぼし?
そうこたえます

 「問い」の「なな」が、「答え」に利用されている。言い直すと、ここでは「問いの定型」を叩き壊す、「問い」を無効にするということはおこなわれていない。もちろん逆にいうこともできる。「なな」を取り込むことによって、「問い」を「無意味」にする。
 そのうえで、池井は、こうつづける。

なぜひとは
なぜ?
と問うのか
たんぽぽの
たんぽぽのいろを
てんとうむしの
ななほしを
おさなごが
じってとみている
いやみていない
なにひとつ
わけなんかない
なにもない
こころのなかに
こんこんと
わきでるいずみ

 ここに、私は「反感」と同時に「共感」も覚える。
 反感から書いておこう。
 「おさなご」が私は嫌いだ。池井自身を「おさなご」にしてしまっている。「おさなご」を否定できるひとはいないだろう。そういう「否定できない」ものの「定型」がここに顔を出している。こういう「論理」野あり方は、私が一番嫌いなのものだ。
 「おさなご」は確かに「定型」をもっていない。けれど、思考の(認識の)「定型」をもっていないということと、「思考の定型」を壊すということとは別のことではないか。必要なのは「破壊」であって、「無垢」を引き継ぐことではない。「無垢」には「無垢」の「定型」というものがある。
 「おさなご」が「なぜ」に対して「なぜなら」という「わけ」をもっていないのは、まだ「ことば」が未熟だからである。「わけなんか/なにもない」というのは「おさなご」の「ことばの世界」のことであって、池井の「ことばの世界」ではない。「おさなご」を利用せずに、「池井のことば」にしないといけない。

じっとみている
いやみていない

 この対のなかにある「いや」の速度。即座の反応。私が「共感」を覚えるのは、ここだ。「即座」の「即」は「色即是空」の「即」である。全体的な「肯定」。
 何を見ていないか。「世界」を見ていないのではない。タンポポやてんとう虫を見ていないのではない。それがタンポポであり、これがてんとう虫であるという「区別」を見ていない。タンポポはタンポポであり、てんとう虫はてんとう虫であるという世界ではなく、タンポポを見るときそれはタンポポではなく「世界」である。てんとう虫を見るときそれはてんとう虫ではなく「世界」である。どのような細部も「世界」そのものである。そして、そういうとき、それを見る人自身が「自分」と「世界」の区別を失う。「世界」にとけこんでしまう。「世界」になる。
 この、「世界」になるの「なる」を「おさなご」は自分の意志で「なる」わけではない。そこは「区別」しないといけない。そうしないと「詩」ではなく、「おさなご絶賛」になってしまう。

こころのなかに
こんこんと
わきでるいずみ

 これは、タンポポでもてんとう虫でもいいが、そういうものが「世界」そのものとして休むことなく、憩うことなく、溢れ出てくることを「説明」している。
 池井の詩は、そうやって「生まれてくる」。

 これは「意味」としては、「わかる」。
 でも、私の「実感」から言うと、そういう「世界」は「おさなご」の世界ではない。ここからまた、私の反感ははじまる。私は「おさなご」のときのことを正確に覚えているわけではないが、私は、

じっとみている
いやみていない

 ということをどうしても思い出せない。私は「見ていない/いやじっと見るようになった」としてしか思い出せない。
 私にとって、世界とは、まずそこに「あった」。たとえば庭があり、柿の木があり、畑があり、いろいろなものが植えられている。「いろいろ」と私は書いたが、それが「いろいろ」になるのは「ことば」を覚えてからである。「庭」も「柿の木」も「畑」も、ことばを覚える前は、ただ「ある」にすぎない。
 「私」にしろ、父や母にしろ、それは「ある」何かであって「私」でも「父」でも「母」でもない。私は「自意識」というものが芽生えるのが遅かったのかもしれないが、小学校に入学する前の日、父が「名前くらい書けないといけない」といって「ひらがな」で名前の書き方を教えてくれたとき、あ、ものに名前があるのだと気づいたのだと思う。(これは、もちろん、いま考えていることであって、6歳のときに、そう考えたわけではない。ただ、名前を書くということを教えられ、非常にびっくりしたことを覚えている。)
 私はそれまで「もの」に名前があると意識していなかった。「ごはん」と言えば、「ごはん」というものが、そのとき「世界」のなかから「意味」があるものとして「見えてくる」けれど、そのことばを聞くまでは、そこに「ある」けれど、ただ「ある」だけのものにすぎない。「柿」にしろ「庭」にしろ「畑」にしろ、そこに「ある」けれど「柿の木」「庭」「畑」と「区別」しないかぎりは、ただそこに「ある」だけである。
 「ものの名前」を覚えることで、この「ある」が少しずつかわってくる。「みていない」をつづけられなくなる。「みている」にならないと、どうも、ひとと話ができないということがわかってくる。そして、成長するにつれ「みている」だけになる。つまり、あらゆるものを「区別」して「みる」。それを「わかる」ということだと思い始める。
 しかし。
 ここから「みていない」へ戻るためには、「おさなご」を持ち出してきて「じっとみている/いやみていない」というだけでは、私には不可能に思えるのだ。
 だいたい「みていない」とき(私が何もみていなかったとき)、そこに「ある」もの(世界)は「こんこんと/わきでる」という形では動いていなかった。何一つ「うみだす」(うまれる)必要がなかった。私の家は貧乏で、ものは何もなかったのだけれど、その「ない」ということさえ、ことばを知る前は存在せず、「ある」だけがあった。つまり「完璧」だった。
 池井のつかってる表現を借りて言えば、ことばを覚える、名前を覚える、ということをとおして「世界」が「こんこんと/わきでる」ということが生じた。いま、「世界」はそういう「名前(区別)」であふれている。「渾沌」としている。ここから、すべての「名前」と取り払い、「世界」をとらえなおすには「おさなご」という「比喩」は、なんだか、嘘っぽいのである。「ことば」を知ってしまった人間が、「おさなご」に戻るために、どうすればいいのかが書かれていないと、いらだってしまう。
 このいらだちがあって、きのうは、この詩について書きたいとは思わなかった。しかし、きょうは、このいらだちのために感想を書いておきたいと思ったのだ。








*

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