goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

スタンリー・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」

2018-10-22 00:16:51 | 映画
スタンリー・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」

監督 スタンリー・キューブリック

ユナイテッドシネマ・キャナルシティ博多のIMAX(スクリーン12)で見た。製作50年を記念しての、2週間限定の上映。
 他の劇場はどうか知らないが、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ博多のIMAX(スクリーン12)では、見てはいけない。がっかりする。私は地方都市に住んでいるので巨大なスクリーンで、70ミリのフィルム版を見たことがない。最初に見たのは小倉の古い映画館(いまは、もうない)だった。フィルム上映で、横長のスクリーンだった。そのときの印象がいちばん強い。あと何回か見た。午前10時の映画祭でも2010年4月3日に見ている。これはフィルム版だ。このときも横長のスクリーンだ。私の感覚では、縦1、横2という感じ。ところが、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ博多のIMAX(スクリーン12)はかなり正方形に近い。横のサイズが完全に不足している。これでは昔のテレビを大きくしただけである。「宇宙」の感じがしない。
 私は、昔からユナイテッドシネマ・キャナルシティ博多の音が大嫌いである。大きければそれでいいだろうという感じで、がんがん鳴らしている。耳が痛くなるだけである。月の基地で全員が耳鳴りに襲われるシーンの衝撃が台無しである。「青きドナウ」はまるで洪水だ。

 大好きな映画を見るとき(再映を見るとき)は、よほど注意しないといけない。
 「午前10時の映画祭」では「ゴッドファザー」のフィルム版が無残だった。漆黒の黒が安い喪服の黒になっていて、私は大変なショックを受けた。「七人の侍」は、デジタル版がよくない。かつらがつけていることがくっきりわかる顔が、かつらの境目を処理して目立たないようにしている。「映像」は「狙い」に近くなるのかもしれないが、手作りの力強さがなくなる。クライマックスも映像処理してつくったんじゃないか、と思ってしまう。(最初のフィルム版は、そういう処理ができなかった。)

 私は、この映画では、ハルが「デイジー……」と歌うところが大好きだ。ハル頑張れ、負けるな、と思わずコンピューターを応援してしまう。で、大好きだから、大変な勘違いをする。8年前の「午前10時の映画祭」のときの感想で、あのデイジーの歌はハルが記憶が壊れていくことに抵抗して(何とか記憶を保とうとして、知性を保とうとして)自発的に歌ったのだと思っていたが、違っていたという感想を書いた(と、思う)。それなのに、私はまだやっぱりハルのことを勘違いしている。コンピューターをつくった博士に歌を教わるシーンがあって、そこにはデイジーが一面に咲いているという映像があると思い込んでいた。そんなシーンなどない。2010年に見たときは、しかし、それには気づいていない。記憶が間違っていたとわかったのに、記憶間違いに気づきながらも、そこに昔の記憶をひきずっていた。
 で、変なことを書くのだが。
 映画にしろ、他の芸術にしろ、「間違って覚えている」というのは大切なことだと思う。衝撃が、「間違い」を引き起こして、それが記憶になる。その間違いの中には、間違うことでしかつかみとれない何かがある。私は、いまでも(いつでも)、ハルが大好きだ。デイジーを歌う場面が大好きだ。そのときハルはデイジーの花畑を見ていないが、私は見ている。見える。スクリーンにないものまで見てしまう。このとき、私は、ほんとうに映画の中にどっぷりと浸っていたのだと思う。デイジーの花畑が見えなかったのは、私が映画に浸っていない証拠である。つまり、この映画は、私を勘違いさせるほどの魅力を持っていない。これは、すべてユナイテッドシネマ・キャナルシティ博多のIMAX(スクリーン12)のせいだ、と断言する。
 ほかの映画館は、どうか知らない。この映画館では、絶対に見るな、と言いたい。特に、フィルム版を見たことがある人は、がっかりしてキューブリックの映画を見る気持ちがなえてしまうかもしれない。


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

コメント (13)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋睦郎『つい昨日のこと』(105)

2018-10-21 09:40:12 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
105  アンティノウスに

ギリシア風の愛の信奉者である皇帝は ビテュニア生まれのきみを熱愛した
そのことは きみの急死ののち 造らせ祀らせたきみの彫像の数に如実だが

 皇帝はアンティノウスが好きだった。それを誰にはばかることなく、彫像をつくることで語る。その数が何体なのかわからないが「如実」ということばが、有無を言わせない。他人の感覚を圧倒している。「愛」そのものが「如実」だと言っている。「愛」というよりも、「愛する」という行為のなまなましさを感じる。
 ところが、行末の「だが」を受けて、

きみの皇帝への感情を表わす どんなささやかな記念碑も われらは知らない

 詩が、こう展開するとき、見えていたはずの「如実」が消えてしまう。
 主語が「皇帝」から「きみ(アンティノウス)」に変わったためだろうか。
 「感情を表わす」の「表わす」という動詞の働きが影響しているかもしれない。皇帝は、アンティノウを愛していたという「感情を表わす」ために彫像を造らせたのか。違うだろうなあ。「感情を表わす」のではなく、「感情は表れてしまう」。もう、みんなが「知っている」。知られている。奇妙な言い方になるが、皇帝のアンティノウへの愛は、人に共有されている。人はたぶん、無数のアンティノウの彫像を見ることで皇帝の感情を知るのではなく、皇帝の感情を生きる、皇帝になる。少年を愛してしまう。あまりの激しさ(その彫像の多さ)に、自分で笑いだしてしまうくらいに。
 皇帝とアンティノウを比較しても何も始まらない。愛は比較できないから愛なのだ。

本場のギリシアにおいてさえ 念者の少年への思いは詩に残されているが
少年の念者への気持を推し測る どんなよすがもないのが 残念ながら事実
きみの死の謎こそが唯一の美しい例外かもしれない アンティノウよ

 たぶん、少年(アンティノウ)は、愛することを知らない。愛されるだけの存在だ。アンティノウが皇帝への、気持ちを表わすために何かを「つくる」ということはありえない。愛は比較できないように、また、その愛に答えるということもできないものなのだろう。答えようとしたら、それは、きっと「嘘(つくりもの)」になる。
 どこまでも愛する、どこまでも愛される。この、一種の「一方通行」の強さに、人は引きつけられるのではないだろうか。そんな愛があることを「知らない」。だから、「如実」にそれを知りたいと、人は、皇帝をうらやむ。
 「愛」は「論理」になっては、いけない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

estoy loco por espana (番外15)Joaquinの「三つの窓」

2018-10-21 09:12:17 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」

Joaquin Llorens Santa
45x45x30..Hierro macizo..Oxido...

対話

明かり取りの窓が三つ。
一つは太陽を見るため、
二つは月を見るため、
三つは星を見るため。

宇宙は奥深い。
奥深さと向き合うために、
私自身を複雑にする
必要があるのです。

____さらに深いものと向き合うために、
ときには窓を囲む
闇を
見つめることもあるのですか?



非対称に開けられた丸い窓。
静かな動きを誘う。
その動きの中に「宇宙」を感じた。
それを「対話」という詩にしてみた。




El dialogo

tres ventanas para la iluminación
la primera es para ver el sol
la segunda es prara la luna
ls trecera es para las estrellas

el universo es profundo
para enfrentar la profundidad
necesito complicarme
a si miso

---- para enfrentar cosas más profundas,
¿a veces miras a la oscuridad?
la oscuridad
que rodea la luz.


*

tres ventanas redonda de apertura asimétrica.
se invita a un movimiento tranquilo.
sentí "universo" en el movimiento.
intenté convertirlo en un poema llamado "Diálogo".







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「還元」にだまされるな

2018-10-20 09:59:54 | 自民党憲法改正草案を読む
「還元」にだまされるな
             自民党憲法改正草案を読む/番外242(情報の読み方)

 2018年10月19日の読売新聞朝刊(西部版・14版)。1面。

消費増税 全商品で2%還元 検討/経産・財務省 中小店で決済分

 これだけ読むと、消費者に配慮しているように見えるが、どうかなあ。対象者は「現金をつかわないキャッシュレス決済を利用した人」だけだ。さらに「還元対策のポイント」を読むと、最後にこう書いてある。

実施期間は2019年10月から最大1年

 つまり、1年間は「還元」があるけれど、あとはしない。「最大1年」だから、「半年」かもしれないし、「1か月」かもしれない。改憲論議とおなじで、最後まで読まない人には、「よいこと」だけがおこなわれるように見える。
 それに、この「還元」の仕組みが奇怪である。

キャッシュレス決済をした消費者に、増税分と同じ2%のポイントをカード会社を通じて付与し、次回以降の買い物で使える仕組みづくりを進めている。

 「仕組みづくりを進めている」と既定事実になっているのもすごいが、なんといっても不気味なのは、近所の果物屋でキャッシュレスでリンゴを買う。そういう「こまかな日常」まで政府に監視されてしまう。どこの商店を利用したかをチェックすれば、個人の行動範囲までわかってしまう。商店が還元するのではなく、国が還元するのだから、金の流れは国が把握する。「だれそれはうどんは食べるが、そばは食べない。カツ丼を食べるときはかならずビールを飲む」というようなことも監視されるかもしれない。レシート(金の明細)は細分化されているからね。還元された2%で何を買ったかまで、そのうちに細かく解析されるということも監視されるようになるかもしれない。2%還元を名目にした、監視システムの始まりだ。
 1年後には還元がなくなるから、監視もなくなる、と言えるかどうか。これも微妙だなあ。いちどつくってしまったシステムを簡単に放棄するはずがない。だいたい、もし期限が1年間だとして、そのシステムをつくり、運用するのにかかる費用は? その計算は、だれかがきちんとするのかな? 国の(安倍の)利益にならないことを、安倍がわざわざやるかな?
 商店にとってはどうなのかなあ。キャッシュレス化してしまえば(そして、そのシステムを利用すれば)、日々の会計は簡単になるだろうなあ。でも、同時に、すべてをシステムをつくった人(国)に監視されることになる。売り上げが完全に把握されてしまう。確定申告なんかしなくても、税金が計算されて、国から請求書が来るということになるだろうなあ。
 これは国の機関で働く人(公務員)の仕事を確保することであり、同時に税金をしっかり課税するということだね。商店の「節税」がとても難しくなるぞ。まあ、私は商店を経営しているわけではないから、あれこれ気にする必要がないのかもしれないが、監視が強くなることだけはたしかだろうなあ。
 国にそんなことを調べている余裕はない、というかもしれないけれど。どうだろう。調べようとすればいつでも調べられるというシステムが存在することが問題なのだ。そして、そういうシステムがあるかぎり、システム自体を監視する「公務員」が必要になる。国は、国に忠実な人間を確保(雇用)するために、そのシステムをさらに拡大するということも考えられる。
 いまはネットで買い物をすると関連商品を紹介するメールが届いたりするが、これが中小の小売店まで拡大されるなあ。そんなことをしていたら「利益」が出ないと思うかもしれないが、そういうことをしないと淘汰されて、「利益」がでないどころのさわぎではない。システムというのは、いつでも「暴走」することしかしらないものだ。国は(安倍は)、商店さえも選別する。気に食わない商店を排除する方向に動き始めた、ということだな。「あんな商店つぶしてしまえ、自民党に献金する大企業だけにしてしまえ」という作戦かもしれない。

 2%還元システムを利用している店では、ものを買ってはいけない。このシステムを成立させてはいけない、と私は思う。
 1年間の運用なのに、1年かけて準備するには、1年だけの運用ではない何かたくまれていると考える必要がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋睦郎『つい昨日のこと』(104)

2018-10-20 08:48:09 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
104  目

 目は、死んだらどうなるのか。火葬されたあと、目はどうなるのか。

向いあう長箸により 熱い骨が砕かれ 挟まれあうとき
生前 存在の中心にあった目は もはやどこにもない

 この「ない」に、私は、ぞっとした。
 火葬後に骨を拾うということを、私も何度かしたことがあるが、そのとき私が見ているのは骨である。ほかのものは見ない。つまり、目がどこにあるかなど考えたことがない。だから、ぞっとした。
 このあと「かの人は目の人だった」ということばが出てくるが、「かの人」よりも、この詩を書いている高橋の方が、はるかに「目の人」なのだと思う。
 いったい、何を見ているのか。高橋にとって「目」とは何か。「かの人」に託す形で書いている。目は……。

ただし 見られるもののいのちを吸いとる 怖しい穴だった と

 高橋も、見ることで「他者」のいのちを吸い取っているのだろうと思う。
 この詩は「いくつもの夏 いくつもの若い裸の腿」という行で始まっている。いわばセックスを書いているのだが、私には高橋の書いているセックスがまったくセックスとして感じられない。高橋が「目」でとらえ、それを「ことば」にしたあとは、その「肉体」(若い裸)からは、いのちが吸い取られてしまっているのだろう。そこにあるのは、いのちを吸い取られた「脱け殻」にすぎない。いや、「脱け殻」ですらない。

穴なら死後も在り 未来も 永遠に在りつづけるだろう
在りつづけて 無をさえ 空をさえ 吸いつづけるだろう

 高橋が「目」でセックスした相手は、「無/空」なる。「無/空」と書くと、東洋の豊かな「いのち以前」を想像させるが、高橋の書いているのは豊かさとは無縁の「無/空」である。
 ギリシアの哲学者が発見した「ない」があるというときの「ない」である。

 私は高橋に一度だけあったことがある。そのときのことを思い出した。想像はしていたが、やはりぞっとした。「死のにおい」を通り越して、それが「ある」ことは理解できるが、絶対に体験できない「死」そのものが生きているという感じ。いつも「死」と交流していると感じた。高橋にとっては、「死」は「ある」ものなのだ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

estoy loco por espana (番外14)半分の月(Joaquin Llorens Santaに)

2018-10-20 08:25:21 | estoy loco por espana


半分の月(Joaquin Llorens Santaに)

私は知っている、
きみのひざの奥に半分の月がある
ときどき君に呼びかける。
きみにしか聞こえない声で、

私は知っている、
きみのひざの奥に隠れた半分の月。
影を探して悲しむきみの騎士。
光につつまれて孤立するきみの騎士。

私は知っている、
きみのひざの奥の半分の月の痛み。
満ちることはない、
欠けることはない、
きみがきのう泣いたことを。


(この作品は「騎士」のように見える。月の光の中に立っている。そのため、顔が月の形をしている。ホアキンは、膝の中に「半月板」の痛みを抱えているので、それが月の顔になって出てくるのだ。)

(Traduccionando por google.)


Media luna (a joaquin llorens santa)

yo lo se
que hay media luna en la parte de atras de tu rodilla.
que a veces te llama la luna.
que con una voz que solo suena como tu,

yo lo se
que una media luna escondida detras de tu rodilla.
que tu caballero buscando una sombra y se aflige.
que tu caballero aislando por la luz.

yo lo se
que dolor en la parte posterior de la rodilla.
que nunca llenara.
que nunca faltara,
que lloraste ayer.


(este trabajo parece un "caballero". el da pie a la luz de la luna, la cara tiene la forma de una luna.
Joaquín tiene el dolor de "menisco" en la rodilla. pues sale la luna en su cara.)







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

過ぎ去った

2018-10-19 22:42:24 | 


過ぎ去った(ペドロの写真に寄せて)

過ぎ去った
怒りが
過ぎ去った
嫉妬が
過ぎ去った
嵐と太陽が

壊れた
愛が
壊れた
憎しみが
壊れた
窓も椅子も

消え去った
欲望が
消え去った
悲しみが

けれど
残っている
きみの指に触れた、あの
時が


se pasó (a la foto de Pedro).

se pasó
la ira
se pasó
el celo
se pasaron
lluvia y sol

se rompió
el amor
se rompió
el odio
se rompieron
las ventanas y sillas

se desvaneció
el deseo
se desvaneció
la tristeza

pero
permanece
tiempo
cuando toqué tus dedos.....

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋睦郎『つい昨日のこと』(103)

2018-10-19 00:22:49 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
103  何十年ぶり

 この詩も「記憶」を書いている。

今朝 何十年ぶりに きみの噂を聞いた
全くの孤独のうちに死んでいた という
あんなにも熱く 睦言や抱擁を交わしたきみ
それなのに むごたらしく裏切ったきみ

 「噂を聞いた」と書くが、噂はそっけない。むしろ、噂を聞いて「思い出したこと」が書かれている。
 それは噂のなかには含まれないものである。
 噂よりも、思い出の方が重要なのだ。思い出がなければ、噂を聞いても、それは耳を素通りしていく。しかし、思い出は通りすぎたりはしない。「肉体」をひっかきまわす。「肉体」をあのときへと連れて行く。
 それは「裏切り」よりもむごたらしく、同時に甘く、切ない。思い出はいつも矛盾している。整理できない。

あの悦ばしかった夜夜 苦しかった日日が
何十年ぶりに 急に近いものになった

 「悦ばしい」と「苦しい」が結びつくときよりも、「遠い」と「近い」が結びつくときの方が、矛盾として大きいかもしれない。「悦ばしい」「苦しい」は「主観」なのに、「遠い」「近い」は「客観」である。「遠い」「近い」は「客観」としてあらわすことができる。この詩では「何十年」というあいまいなことばでしか書かれていないが、「年月」の長さは客観化できる。それなのに、その「客観」を「主観」が否定し、「遠い」を「近い」にしてしまう。主観は、そのようにして「事実」になる。

 後半は、この美しい「事実」を、まったく違うことばでかき消してしまう。
 後半に、高橋のいまの「事実」があるのかもしれないが、せっかく近づいてきた「過去」を抱きしめないのはなぜなのだろう。
「主観」を知られたくない、という思いが高橋にあるのかもしれない。それは大事な大事な宝なのである。


 










つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時里二郎『名井島』(2)

2018-10-18 09:44:06 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
時里二郎『名井島』(2)(思潮社、2018年09月25日発行)

 「夏庭2」の最後の部分。「この稿は、わたしの語ったことを庭師がタイピングしたものである。」ということばがある。

 わたしの話したように、庭師は写しとっていないかもしれない。しかし仮に、
庭師がわたしの語った内容とはまるきり違ったことを口述筆記として記したと
しても、わたしは庭師の書き得たことばの方に、より近いわたしがいると思っ
ている。

 「わたし」は「わたし」よりも、「他者(庭師)」のことばのなかにいる。「他者」が判断した「わたし」の方が「わたし」に近い。鏡の中の「わたし」の方が「わたし」に近いというのに似ている。
 昔、巨人の原辰徳が「この鏡、よく映るなあ」と言ったとか。「実物」よりも「鏡」の方がいい男だ、という意味である。「理想(?)」の姿を映しだす鏡くらいの意味だろうか。
 これに似た感覚だろうか。いや、逆かな?
 「わたし」が思っている「わたし」よりも、「他者」が思っている「わたし」の方が、「わたし」の主観が入らないだけに、「わたし」という客観に近い。
 だが、客観が正しい、主観が間違っている、とは簡単には言い切れない。
 「より近いわたしがいると思っている。」と書いてある。「思う」は主観であって、客観ではないからだ。

 こういうことを書いていると「うるさい」。
 「うるさい」のだけれど、これを「うるさい」ではなく、「精密」、ゆえに「精緻」、ゆえに「静謐」という感じにしてしまうのが、時里の「文体」である。
 その特徴は、

わたしの話したように、庭師は写しとっていないかもしれない。

 に端的にあらわれている。「ない」という「否定」がことばを押さえつける。「写しとっていない」「かもしれない」。「ない」は繰り返される。あらゆるところに「ない」が潜んでいて、ことばの暴走を阻むのだ。
 「この稿は、わたしの語ったことを庭師がタイピングしたものである。」と書き始めた直前の段落でも、そのことばは、こう引き継がれる。

                                本当は
庭師の書き上げたものをわたしが目を通して、わたしの文章として認証すると
いう手続きが必要であろうが、それはやらない。

 「やらない」ということば、「ない」と断定することで、それまでの「事実(?)」を否定してしまう。
 「否定」のあとに何が残るか。
 「ことば」が残る。ことばが「動いた」という「痕跡」がのこる。「動き」は消えることで、そこに存在する。「ない」が「ある」に変わるのだ。
 この瞬間、私たちの読んでいるのは、詩なのか、哲学なのかという疑問がふっと浮かぶ。

 だから。

 ほんとうは、ここから「さわがしくなる」というのが理想なのだが、あまりさわがしくならない。「知的」なことばの運動に対してきちんと向き合うというのはなかなか面倒なので、面倒になる前に、読者がことばを動かすのをやめてしまうんだろうなあ。「精緻、静謐な文体」と批評することで、感想を中断してしまうんだろうなあ。
 「より近いわたしがいると思っている。」の「思っている」という工程は、「ない」が「ある」と断定できる根拠になるのか。「思っている」だけ(主観)なのではないかと、さらに踏み込むということはしなくなってしまうんだろうなあ。
 という私も、半分以上、「中断」に足を踏み入れているんだけれど。






















*

評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。


「詩はどこにあるか」8・9月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074343


オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977




問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋睦郎『つい昨日のこと』(102)

2018-10-18 08:43:43 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
102  記憶こそ

どうして抱かなかったのだろう ほんの少し勇気を出して
ベッドに腰掛けたぼくに腿を接して きみが腰掛けたのに
けれど 抱かなかったことで きみはその時の年齢のまま
そして きみと並んだぼくの年齢も きみのそれにあやかる

 詩はあと二行続いているが、ここまでで十分だと思う。
 いや、最初の三行だけの方が魅力的だったかもしれない。

 三、四行目は、「けれど」「そして」と動いていく。それは「事実」の描写だけれど、同時に「論理」を誘っている。
 あとの二行は、「論理」にしたがって「結論」を出す。「結論」を「こそ」ということばで強調しているのだが、「結論」の強調はつまらない。
 思い出すことができるなら、それは抱く、抱かないとは関係なく、「肉体」に刻み込まれているのだから、セックスではないのか、と私は思う。
 もしかすると、抱くことよりも抱かないことの方が勇気がいるかもしれない。
 そのとき、こころが、いつもより激しく動いていたのではないか。
 肉体が動けば、肉体がこころよりも優先される。こころは一瞬、忘れ去られる。でも、高橋はそのとき、こころの動きの方を大事にしたのではないのか。ためらう瞬間の苦しみを大事にしたのではない。--私は、そんなことを想像する。
 きっと葛藤があったのだと思う。
 それは「結論」とは関係なく、いつでも美しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暁方ミセイ『紫雲天気、嗅ぎ回る』

2018-10-17 20:12:19 | 詩集
暁方ミセイ『紫雲天気、嗅ぎ回る』(港の人、2018年10月17日発行)

 詩集を読んでいて、ある一行のために、そのあとの詩を読めなくなるときがある。
 暁方ミセイ『紫雲天気、嗅ぎ回る』の「月と乗客」。そのなかに、

私の輪郭がいま、半分ほどは空気に散らばりましたね

 という行がある。たとえば、この行が、そのあとの詩を読めなくさせる。印象が強烈で、次の詩は読めども読めども、頭に入ってこない。
 こういう行に出会ったとき、あ、この行を中心に詩集を読んでみたいと思う。この行が詩集の「キーライン」にならないだろうか、と「予測」してしまう。私のなかで、一種の「偏見」というか、偏った見方ができてしまう。それが邪魔するのである。
 で、私は、詩集を少しだけ読んで、やめた。
 まず、この行について書いてしまおう。

私の輪郭がいま、半分ほどは空気に散らばりましたね

 宮沢賢治を思い出す。しかし、思い出すといっても、宮沢賢治に類似した行(ことば)があるかどうか、私にはわからない。私は宮沢賢治の熱心な読者ではないからだ。かつて読んだことがあるというだけだ。でも感じるのだ。あ、宮沢賢治だ、と。
 どこにか。
 「散らばりました」、「散らばる」という動詞に、宮沢賢治を感じる。
 たとえば、この行が、

私の輪郭がいま、半分ほどは空気にほどけましたね

あるいは

私の輪郭がいま、半分ほどは空気に溶けましたね

 なら、私は宮沢賢治を思い出さない。もっと違う詩人を思い出す。連想する。たとえば萩原朔太郎。「ゆるゆる」とみさかいなく動いていく感じ。
 なぜ「散らばる」が宮沢賢治なのか。「散らばる」には「硬質」な印象がある。硬い。硬いものは「散らばる」とき砕ける。砕けながら、きらきらと広がる。硬いのに、流動というか、自在に変化する。硬いまま、動いていく。「きらきら」と思わず書いてしまうのは、「散らばる」とき、私は「反射」を見ているからだ。
 これが、私の感覚では、宮沢賢治である。

 で。

 かなり書いていることが入り乱れるのだが、実は「輪郭が溶ける」という表現を暁方は、この詩で書いている。

私の輪郭がいま、半分ほどは空気に散らばりましたね

 は、「輪郭が溶ける」を言いなおしたものなのだ。
 だからこそ、私は、驚き、立ち止まり、この行しか読めなくなる。
 最初から引用し直そう。

ビリジアンを刷きつけた山肌が
暮れかかり
より一層、迫ってくると
月明かりでざわつく樹冠のからす
いよいよ大きな
熟れた虹雲があたり全部を呼吸する
紙っぺらになったひとびとは
急行列車のあかるい窓を
しかくくストロボのように動きまわり
ぎこちない仕草で座ったり立ったり
車内では蛍光灯のじりじりした
輪郭が滴って溶けている
けれどもひとびとは
乗客のなかに引きこもっているから
けして
私の輪郭がいま、半分ほどは空気にほどけましたね
などと思いもよらない

 最初は「人(私)」の輪郭ではなく、蛍光灯の輪郭なのだが、それが「私の輪郭」と言いなおされたとき「散らばる」。
 これは、すごいなあ。
 「蛍光灯のじりじりした(光)」というのも宮沢賢治っぽいが、それは宮沢賢治っぽいにすぎない。そのまえの「しかくくストロボのように動きまわり」も、「しかくく(硬質、硬いもの)」が「動き回る(流動する)」が宮沢賢治っぽい。そういう宮沢賢治っぽいものを通りすぎて、宮沢賢治を超えてしまう。
 宮沢賢治っぽい、ではなくて、宮沢賢治そのものが、そこで動いている。宮沢賢治が書いたなら、きっとこうなるだろう、という感じで、そこにことばが動いている。暁方は、宮沢賢治になってしまっている。いや、宮沢賢治を、いま、ここに「生み出している」という感じ。宮沢賢治になって、生まれてきていると言いなおすこともできる。

 心底だれかを好きになって、そのひとになってしまう。そのひとを超えて、存在しなかったそのひとを生み出していく。
 誰かを愛するとは、自分がどうなってもかまわないと覚悟して、そのひとについていくことだが、ついていっているうちに逆に、そのひとをリードして、そのひとが到達したことのないところまでそのひとを連れて行く。未知の世界に、そのひとを生み出してしまう。

 うーん。

 詩は続いている。

(そして山々は一層よるのなか
電車と窓とお月様だけが
切り取られたあやうい
まっきいろな
狭小時間の高密度な額縁だなんてこと
まさか月も乗客も
わかっているまい)

 ちょっと「童話」風に終わる。そのなかに「高密度」ということばがある。
 私が感じたのは、暁方の「肉体」のなかで、宮沢賢治が「高密度」になりすぎて、砕け散り(散らばり)、その散らばったひとつひとつの「断片」が、ひとつずつ新しい宮沢賢治になって成長していく(拡大している)、その「瞬間」というものかもしれない。

 私の「感想」は「論理」になっていないかもしれない。
 たぶん、暁方の強烈なことばの力に酔ってしまって、私は考えることができなくなっている。だから、他の詩も、きょうは読むことができない。
 きょうは、この一行を読んだ。
 それだけで十分な一日である。







紫雲天気、嗅ぎ回る 岩手歩行詩篇
クリエーター情報なし
港の人



*

評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。


「詩はどこにあるか」8・9月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074343


オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977




問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋睦郎『つい昨日のこと』(101)

2018-10-17 07:51:24 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
101  記憶とまぼろし

いったい いくたびの抑えた息づかい 睦言が
指と唇との愛撫が 私の上を通りすぎたことか
いまでは それらの顔も名も 思い出せない

 でも、「抑えた息づかい 睦言が/指と唇との愛撫が 私の上を通りすぎたこと」は覚えている。「肉体」の不思議さ。「肉体」は味わったことを忘れることができない。顔も名前も思い出せないからこそ、逆に「肉体」が覚えていることが、高橋を突き動かす。
 と、読みたいのだが。
 高橋は、すぐに、次のように整えてしまう。

そもそも顔など名など はじめからあったのか
それ以前に 私というものも存在したのか
あったのは最初から記憶のみ その記憶が
まぼろしを拵えあげたにすぎないのではないか
誰とも知らない者の いつとも知れない時の記憶が

 「記憶」を「ことば」と読み直してみる。それも「文学のことば」と読み直してみる。存在したのは「文学のことば」だけである。もちろん「文学」だから「作者」はいる。しかし、「読み人知らず」という作品もある。いつの時代かわからないものもある。それは、人と時を超える。「ことば」が人と時を超える。たとえ有名な作者の「ことば」であったとしても、「名前」ではなく、「ことば」が。「作者」が誰であれ、「作品」が何であれ、人は感動しているとき「作者」も「作品名」も忘れる。ただ「ことば」に自分を重ねる。まるでセックスのように。そして「ことばの肉体」が動き出す。
 高橋は、ことばとセックスしていたのだ。ことばになるもの、ことばになっているものとセックスしていたのであって、「肉体」は動いていないのだ。
 「抑えた息づかい 睦言が/指と唇との愛撫が 私の上を通りすぎたこと」というのも、「文学」であり、「事実」ではない。実際に体験した、と高橋は主張するかもしれないが、それは「文学(過去)」をたどり直したということであって、「いま」を「ことばにならないことば」で切り開いたということではない、と思う。
 高橋のことばにはいつも「記憶」が、つまり「文学」が、「死」が存在する。高橋は、「いのち」とセックスするというよりも、「死」とセックスしている。冷たく、こわばったセックス。
 その「声」に私はぞっとする。

 私は矛盾した人間だから、その「ぞっ」という感じを味わいたくて、高橋の詩を読む。「嫌いだ」というのは「好きだ」ということと、どこかで結びついている。







つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍4選は、あるのか、ないのか。

2018-10-17 07:12:24 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍4選は、あるのか、ないのか。
             自民党憲法改正草案を読む/番外241(情報の読み方)

 2018年10月17日の読売新聞朝刊(西部版・14版)。政治面(4面)で「我が党戦略 語る」という連載が始まった。臨時国会を前にした企画だ。一貫目は、自民党幹事長・二階。見出しに、

改憲論議 謙虚な姿勢で

 と、ある。しかし、安倍のどこが謙虚なのか。
 自民党のホームページには、いまだに「改憲案4項目」が自民党のホームページにも、自民党改憲推進本部のホームページにも明示されていない。明示されているのは「2012年の自民党改憲草案」だけである。「自衛隊明記」に関しては、9条2項削除案と、残したままの案がある、というのがこれまで報道されてきたことである。自民党総裁選では、安倍が残したままの案を主張し、石破が削除案を主張した。安倍が総裁選に勝ったが、だからといって自民党の案が安倍案でかたまったわけではないだろう。かたまったというのなら、明示すべきだろう。同時に、「2012年案」と同じように、「質疑問答集」のようなものも発表し、誰もが議論できるような形すべきだろう。
 改憲、改憲と言いながら、なぜ、議論が広がるのを避けるのか。議論が広がるということは、賛成者が増えることもあるが、反対者が増えることもある。反対者が増えることを恐れているのだ。言い換えると、議論をさせないまま、自民党案を国会に提示し、あっというまに発議まで持っていこうとしているのだ。
 「議論させない」(静かな環境を守る)というのが、安倍の一貫した、唯一の「政治手法」だ。民主主義の基本だが、独裁を目指す安倍は、この「議論」が大嫌いである。「議論」する能力がないからである。だから「質問」もあらかじめ「通告」させるという手法をとっている。「質問」に対する「答え」を官僚に作文させ、ルビ付きの文章を読み上げる。それ以外のことができない。
 改憲問題について「議論させない」ために、安倍は臨時国会を前に、消費税増税について対策を発表した。目先の「割引感(?)」だけを大々的に宣伝している。キャッシュレスでの支払い、しかも半年から1年限りなのに、まるで何もかもが2%還元されるかのような大騒ぎである。この消費税問題が臨時国会で取り上げられれば、どうしても生活に密着した消費税に対する議論が多くなる。その分、改憲問題を議論を減らすことができる、という作戦である。

 ということは別にして。
 きょうの二階の発言で注目したのは、記事の最後の部分。「次のリーダーにふさわしいのは誰か」という質問に、こう答えている。

(総裁の連続4選を可能にする党則改正は)今は考えていないが、政治だから、分からない。

 「今は考えていないが」というのは、時期がくれば考えるということである。「政治だから、分からない」というのは、その可能性の方が高いということだ。3選のために党則をかえたばかりである。ふつうなら、そういうことは「党則をかえたばかりである。そういうことはありえない」と答えるだろう。そうしないのは、すでに4選に向けて動き出しているということ。動きがあるからこそ、ここで「4選はない」と断言できないのだ。そういってしまうと、隠しているものが暴れ出すのだ。
 天皇を強制生前退位させる道筋をつくった安倍は、「悠仁天皇」を誕生させるまでは、絶対に首相を辞めない。悠仁が生まれたときから、それだけを狙っている。そのために、悠仁が誕生する前後にあった「女性天皇」論議を封じ込めている。いまの「天皇-皇太子-愛子」という「天皇継承」を許さない。なんとしても「男性天皇」を貫く。男尊女卑を貫く。女性差別を貫く。「家長」がいて「家族」がある。その「理想形」が「天皇家」である。「家長」は男でなければならない。そして、その「理想形」を政治に当てはめたのが「安倍独裁」である。「天皇継承」で女性を排除し、男性天皇を守ることは、そのまま安倍の独裁を守ることなのだ。そのために天皇を利用しようとしている。4 選へ向けて、安倍の「天皇利用」は加速する。






#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1500円、送料込み)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
ttps://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私が見たものは (ホアキンの作品に寄せて)

2018-10-17 00:27:15 | 


私が見たものは (ホアキンの作品に寄せて)

私が最初に見たものは風、
鉄ではなくて。
私が次に見たのは光、
鉄ではなくて。
それから私は影を見た、
鉄ではなくて。

何を見たんだろう、
私が私に問いかけたとき、
耳が目覚める。

私の耳は聞いた、
静かな息を。
のびあがって息を吸う。
たわみながら息を吐く。
ふれあって息を止める。
その静かな音。

息を合わせる。
息がいっしょに動く。
その確かな音。

私は何を聞いたんだろう。
誰の呼吸を聞いたんだろう。
私の体は、その息に誘われて動き出す。
ああ、私は何をしているのか。

そのとき初めて気づくのだった。
鉄の彫刻が踊っている。
まるで光のように軽く、
まるで風のように明るく、
まるで影のように静かに、

(Traduccion por google.)

Lo que vi (a la obra de Joaquín)

Lo primero que vi es el viento.
No es hierro.
Lo que vi a continuación es la luz,
No es hierro.
Entonces vi una sombra,
No es hierro.

Me pregunto que vi
Cuando me pregunté,
El oído se despierta.

Mis oídos escucharon,
Un respiro tranquilo.
Voló y respira.
Respira mientras te doblas.
Toca y aguanta la respiración.
Su sonido tranquilo.

Para inhalar.
Mi aliento se mueve
Ese cierto sonido.

Me pregunto lo que oí.
Me pregunto quién oyó respirar.
Mis cuerpos se mueven por invitación por su aliento.
Oh qué hago?

En ese momento se notó por primera vez.
Las esculturas de hierro están bailando.
Es tan ligero como la luz,
Es tan brillante como el viento,
Es tan tranquilamente como una sombra,
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

estoy loco por espana(14) Joaquinの繊細な音楽

2018-10-16 22:47:30 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」


きょう紹介するJoaquinの作品。
とても美しい。
悔しいことに、私はこの美しさを表現するためのスペイン語を知らない。
私が書きたいのは、「静かさ」についてである。

「静かさ」を表すスペイン語は、私は「silencio」しか知らない。
しかし、日本には「静かさ」を表すことばがたくさんある。
「静寂」「静閑」「静謐」さらに「しずか」というひらがな表記もある。
「ひそやか」ということばもある。
「沈黙」ということばもある。

この作品を見たとき、私が感じるのは、どの「静かさ」だろうか。
うまく言い表すことができない。
「静」という文字を含んだ「静影」ということばを、ふと思いつく。
それがいちばん近い。
でも、「静影」を表すスペイン語があるのだろうか。
わからない。
だから、違うことばで感想を書くしかない。

いま、ここで踊っているのはなんだろう。
光だろうか、風だろうか。
鉄の彫刻なのに、鉄ではないものを、私は先に感じる。
これは鉄の「静影」なのだ。
鉄が影になって踊っている。
音楽に合わせてではなく、自分たちで音楽を演奏しながら。
そのひそやかな音の響き。

でも、何の影に?

鉄は強い。
細い一本の線になっても、強さを保っている。
薄く引き延ばされても、強い。
曲げられても、強い。
折れることはない。
そういう「強さ」そのものの、ことばにならない何かの影である。
静かに自分を守って生きる力が、新しい形のなかで、喜びの呼吸をしている。
その呼吸が踊っている。


今度も、グーグルの翻訳に任せてみる。
スペイン語にはならないだろうけれど。

(Traduccion por google.)

Obra de Joaquín.
Es muy hermoso
Lamentablemente, no sé español para expresar esta belleza.
De lo que quiero escribir es de " silencio ".

En español por " silencio ", solo conozco "silencio".
Sin embargo, hay muchas palabras que expresan " silencio " en Japón.
「静寂」「静閑」「静謐」 También hay una notación hiragana llamada 「しずか」.
También existe la palabra 「ひそやか」.
También existe la palabra 「沈黙」.

Al ver este trabajo, la " silencio " que siento es lo que siento.
No lo puedo expresar bien.
Se me ocurrirá la palabra "sombra(影) silencio(静) " que contiene la palabra " silencio (静)".
Eso es lo más cercano.
Pero, me pregunto si hay español para "静silencio影 sombra".
No lo se
Entonces, tengo que escribir mis pensamientos con diferentes palabras.

Lo que está bailando aquí ahora.
Ya sea luz o viento.
Aunque es una escultura de hierro, siento las cosas que no son hierro primero.
Esta es la "sombra de hierro" del hierro.
Hierro bailando en la sombra.
Durante la reproducción de música, no en sintonía con la música.
El sonido de ese sonido suave.

Pero ¿qué es la sombra?

El hierro es fuerte.
Incluso si se convierte en una sola línea delgada, mantiene la fuerza.
Incluso si está ligeramente estirado, es fuerte.
Incluso si está doblado, es fuerte.
No se romperá.
Es la sombra de algo que no son palabras, de tal "fuerza" en sí misma.
El poder de vivir protegiéndote silenciosamente es respirar con alegría en una nueva forma.
Esa respiración está bailando.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする