105 アンティノウスに
皇帝はアンティノウスが好きだった。それを誰にはばかることなく、彫像をつくることで語る。その数が何体なのかわからないが「如実」ということばが、有無を言わせない。他人の感覚を圧倒している。「愛」そのものが「如実」だと言っている。「愛」というよりも、「愛する」という行為のなまなましさを感じる。
ところが、行末の「だが」を受けて、
詩が、こう展開するとき、見えていたはずの「如実」が消えてしまう。
主語が「皇帝」から「きみ(アンティノウス)」に変わったためだろうか。
「感情を表わす」の「表わす」という動詞の働きが影響しているかもしれない。皇帝は、アンティノウを愛していたという「感情を表わす」ために彫像を造らせたのか。違うだろうなあ。「感情を表わす」のではなく、「感情は表れてしまう」。もう、みんなが「知っている」。知られている。奇妙な言い方になるが、皇帝のアンティノウへの愛は、人に共有されている。人はたぶん、無数のアンティノウの彫像を見ることで皇帝の感情を知るのではなく、皇帝の感情を生きる、皇帝になる。少年を愛してしまう。あまりの激しさ(その彫像の多さ)に、自分で笑いだしてしまうくらいに。
皇帝とアンティノウを比較しても何も始まらない。愛は比較できないから愛なのだ。
たぶん、少年(アンティノウ)は、愛することを知らない。愛されるだけの存在だ。アンティノウが皇帝への、気持ちを表わすために何かを「つくる」ということはありえない。愛は比較できないように、また、その愛に答えるということもできないものなのだろう。答えようとしたら、それは、きっと「嘘(つくりもの)」になる。
どこまでも愛する、どこまでも愛される。この、一種の「一方通行」の強さに、人は引きつけられるのではないだろうか。そんな愛があることを「知らない」。だから、「如実」にそれを知りたいと、人は、皇帝をうらやむ。
「愛」は「論理」になっては、いけない。
ギリシア風の愛の信奉者である皇帝は ビテュニア生まれのきみを熱愛した
そのことは きみの急死ののち 造らせ祀らせたきみの彫像の数に如実だが
皇帝はアンティノウスが好きだった。それを誰にはばかることなく、彫像をつくることで語る。その数が何体なのかわからないが「如実」ということばが、有無を言わせない。他人の感覚を圧倒している。「愛」そのものが「如実」だと言っている。「愛」というよりも、「愛する」という行為のなまなましさを感じる。
ところが、行末の「だが」を受けて、
きみの皇帝への感情を表わす どんなささやかな記念碑も われらは知らない
詩が、こう展開するとき、見えていたはずの「如実」が消えてしまう。
主語が「皇帝」から「きみ(アンティノウス)」に変わったためだろうか。
「感情を表わす」の「表わす」という動詞の働きが影響しているかもしれない。皇帝は、アンティノウを愛していたという「感情を表わす」ために彫像を造らせたのか。違うだろうなあ。「感情を表わす」のではなく、「感情は表れてしまう」。もう、みんなが「知っている」。知られている。奇妙な言い方になるが、皇帝のアンティノウへの愛は、人に共有されている。人はたぶん、無数のアンティノウの彫像を見ることで皇帝の感情を知るのではなく、皇帝の感情を生きる、皇帝になる。少年を愛してしまう。あまりの激しさ(その彫像の多さ)に、自分で笑いだしてしまうくらいに。
皇帝とアンティノウを比較しても何も始まらない。愛は比較できないから愛なのだ。
本場のギリシアにおいてさえ 念者の少年への思いは詩に残されているが
少年の念者への気持を推し測る どんなよすがもないのが 残念ながら事実
きみの死の謎こそが唯一の美しい例外かもしれない アンティノウよ
たぶん、少年(アンティノウ)は、愛することを知らない。愛されるだけの存在だ。アンティノウが皇帝への、気持ちを表わすために何かを「つくる」ということはありえない。愛は比較できないように、また、その愛に答えるということもできないものなのだろう。答えようとしたら、それは、きっと「嘘(つくりもの)」になる。
どこまでも愛する、どこまでも愛される。この、一種の「一方通行」の強さに、人は引きつけられるのではないだろうか。そんな愛があることを「知らない」。だから、「如実」にそれを知りたいと、人は、皇帝をうらやむ。
「愛」は「論理」になっては、いけない。