詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

estoy loco por espana (番外16)Borjaの作品

2018-10-22 11:30:19 | estoy loco por espana

Borja Trénor Suárez de Lezoの作品から。

線を引く

一本の線は
面を分割することにより線の運動を挑発し
線を引く者の認識形態としての
線の保有する意味を
視野に客観化させる
その操作を恒常化することで
視野の有限化を試みる

線の形態は
線の延長する力の遭遇する空間に
線を引く者の
継起的意志の連絡を投影する
また 像化された意志を弁別し
不在の線の捕捉をうながす

そのようにして構成される空間において
方向的意志の所産である線は
内部感覚の習慣の結果の亀裂と重複し
知覚的意志を表象する線の総体に
等価値の無数の経路を与える
知覚の新しい結集
と なる

(私のスペイン語能力では、とても翻訳できない。
googleに任せてみた。
あまりにもでたらめなスペイン語だと思う。
だが、訂正する方法を私は知らない。


Con mi habilidad en el idioma español, no puedo traducirlo mucho.
Lo dejo a google.
Creo que es demasiado aleatorio español.
Pero no sé cómo corregirlo.)

Dibuja una línea

Una linea es
Propagando el movimiento de la línea partiendo la cara.
Como forma de reconocimiento de quienes dibujan líneas.
El significado que posee la línea.
Objetivo al campo de visión.
Al hacer la operación permanente.
Intento de finito el campo de visión.

La forma de la línea es
En el espacio encontrado por la fuerza para extender la línea.
Los que dibujan lineas
Proyectar un contacto de una voluntad recurrente.
También discrimina la voluntad imaginada.
Rápida trampa de líneas ausentes.

En el espacio así construido.
La línea que es producto de la voluntad direccional.
Se superponen con grietas como resultado de los hábitos sensoriales internos.
A toda la línea que representa la voluntad perceptiva.
Dar innumerables caminos de igual valor.
Un nuevo rally de percepción.



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高橋睦郎『つい昨日のこと』(106)

2018-10-22 00:24:16 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
106  もう一つの顔

 ソクラテスのことを書いている。

知恵の人よ あなたの太い首の上の顔については さんざ語られている
しかし 二つの腿の付け根のもう一つの顔に関しては 言及の例を知らない
想像するに下の顔は上の顔の醜さに匹敵するほど 美しかったのではないか

 性器を「顔」と呼ぶのはふつうのことなのか。私は「例を知らない」。
 もうひとつ、この詩には「醜さに匹敵するほど 美しかったのではないか」という表現がある。こういう例も、私は知らない。しかし、「匹敵する」という「動詞」を中心にみつめなおせば、なんとなく「わかる」。「醜さ」と「美しさ」が比較されているのではなく、醜さの「程度都」、美しさの「程度」が比較されている。ソクラテスの顔の「醜さ」は誰もが知っている。一目でわかる。その、一目でわかるという「程度」が匹敵する。
 性器の「美しさ」とはなんだろうか。形だろうか。性交する「能力」のことだろうか。「子沢山」ということばでソクラテスのことを書いているから、今年流行りのことばで言えば「生産力」が高いということか。この詩で問題になっているのは男色だから、「生産性」ではなく、勃起能力ということかもしれない。
 「顔」は見目のよさ、人を魅了する力で勝負する。性器は勃起力で勝負す、人を魅了する。なんだか露骨すぎておもしろくない。
 この詩には、こういう行もある。

見せなかったせいで それは想像の中でますます美しくなっていった
                    
 「美しさ」は固定していない。「美しくなる」という動詞としてつかわれている。しかもそれは「想像の中で」である。想像する、という動詞が加わってくる。想像すると、美しくなる。想像するのはソクラテスではない。そして「想像する」は、詩を読み直してみれば先に引用した三行目にも登場している。
 「想像する」ことが「匹敵する」を呼び覚ましている。「想像する」が「匹敵させる」のである。そうだとすれば、それは「美しくなる」のではなく「美しくさせる」。
 ここにギリシアのすべてがあるかもしれない。
 想像する、想起する。それが「現実」を美しくさせる、完全なものにさせる。ギリシアの、この想像するときの集中力は、ものすごいものだと思う。美しくできないものは、何一つない。

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スタンリー・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」

2018-10-22 00:16:51 | 映画
スタンリー・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」

監督 スタンリー・キューブリック

ユナイテッドシネマ・キャナルシティ博多のIMAX(スクリーン12)で見た。製作50年を記念しての、2週間限定の上映。
 他の劇場はどうか知らないが、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ博多のIMAX(スクリーン12)では、見てはいけない。がっかりする。私は地方都市に住んでいるので巨大なスクリーンで、70ミリのフィルム版を見たことがない。最初に見たのは小倉の古い映画館(いまは、もうない)だった。フィルム上映で、横長のスクリーンだった。そのときの印象がいちばん強い。あと何回か見た。午前10時の映画祭でも2010年4月3日に見ている。これはフィルム版だ。このときも横長のスクリーンだ。私の感覚では、縦1、横2という感じ。ところが、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ博多のIMAX(スクリーン12)はかなり正方形に近い。横のサイズが完全に不足している。これでは昔のテレビを大きくしただけである。「宇宙」の感じがしない。
 私は、昔からユナイテッドシネマ・キャナルシティ博多の音が大嫌いである。大きければそれでいいだろうという感じで、がんがん鳴らしている。耳が痛くなるだけである。月の基地で全員が耳鳴りに襲われるシーンの衝撃が台無しである。「青きドナウ」はまるで洪水だ。

 大好きな映画を見るとき(再映を見るとき)は、よほど注意しないといけない。
 「午前10時の映画祭」では「ゴッドファザー」のフィルム版が無残だった。漆黒の黒が安い喪服の黒になっていて、私は大変なショックを受けた。「七人の侍」は、デジタル版がよくない。かつらがつけていることがくっきりわかる顔が、かつらの境目を処理して目立たないようにしている。「映像」は「狙い」に近くなるのかもしれないが、手作りの力強さがなくなる。クライマックスも映像処理してつくったんじゃないか、と思ってしまう。(最初のフィルム版は、そういう処理ができなかった。)

 私は、この映画では、ハルが「デイジー……」と歌うところが大好きだ。ハル頑張れ、負けるな、と思わずコンピューターを応援してしまう。で、大好きだから、大変な勘違いをする。8年前の「午前10時の映画祭」のときの感想で、あのデイジーの歌はハルが記憶が壊れていくことに抵抗して(何とか記憶を保とうとして、知性を保とうとして)自発的に歌ったのだと思っていたが、違っていたという感想を書いた(と、思う)。それなのに、私はまだやっぱりハルのことを勘違いしている。コンピューターをつくった博士に歌を教わるシーンがあって、そこにはデイジーが一面に咲いているという映像があると思い込んでいた。そんなシーンなどない。2010年に見たときは、しかし、それには気づいていない。記憶が間違っていたとわかったのに、記憶間違いに気づきながらも、そこに昔の記憶をひきずっていた。
 で、変なことを書くのだが。
 映画にしろ、他の芸術にしろ、「間違って覚えている」というのは大切なことだと思う。衝撃が、「間違い」を引き起こして、それが記憶になる。その間違いの中には、間違うことでしかつかみとれない何かがある。私は、いまでも(いつでも)、ハルが大好きだ。デイジーを歌う場面が大好きだ。そのときハルはデイジーの花畑を見ていないが、私は見ている。見える。スクリーンにないものまで見てしまう。このとき、私は、ほんとうに映画の中にどっぷりと浸っていたのだと思う。デイジーの花畑が見えなかったのは、私が映画に浸っていない証拠である。つまり、この映画は、私を勘違いさせるほどの魅力を持っていない。これは、すべてユナイテッドシネマ・キャナルシティ博多のIMAX(スクリーン12)のせいだ、と断言する。
 ほかの映画館は、どうか知らない。この映画館では、絶対に見るな、と言いたい。特に、フィルム版を見たことがある人は、がっかりしてキューブリックの映画を見る気持ちがなえてしまうかもしれない。


 *

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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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