101 記憶とまぼろし
でも、「抑えた息づかい 睦言が/指と唇との愛撫が 私の上を通りすぎたこと」は覚えている。「肉体」の不思議さ。「肉体」は味わったことを忘れることができない。顔も名前も思い出せないからこそ、逆に「肉体」が覚えていることが、高橋を突き動かす。
と、読みたいのだが。
高橋は、すぐに、次のように整えてしまう。
「記憶」を「ことば」と読み直してみる。それも「文学のことば」と読み直してみる。存在したのは「文学のことば」だけである。もちろん「文学」だから「作者」はいる。しかし、「読み人知らず」という作品もある。いつの時代かわからないものもある。それは、人と時を超える。「ことば」が人と時を超える。たとえ有名な作者の「ことば」であったとしても、「名前」ではなく、「ことば」が。「作者」が誰であれ、「作品」が何であれ、人は感動しているとき「作者」も「作品名」も忘れる。ただ「ことば」に自分を重ねる。まるでセックスのように。そして「ことばの肉体」が動き出す。
高橋は、ことばとセックスしていたのだ。ことばになるもの、ことばになっているものとセックスしていたのであって、「肉体」は動いていないのだ。
「抑えた息づかい 睦言が/指と唇との愛撫が 私の上を通りすぎたこと」というのも、「文学」であり、「事実」ではない。実際に体験した、と高橋は主張するかもしれないが、それは「文学(過去)」をたどり直したということであって、「いま」を「ことばにならないことば」で切り開いたということではない、と思う。
高橋のことばにはいつも「記憶」が、つまり「文学」が、「死」が存在する。高橋は、「いのち」とセックスするというよりも、「死」とセックスしている。冷たく、こわばったセックス。
その「声」に私はぞっとする。
私は矛盾した人間だから、その「ぞっ」という感じを味わいたくて、高橋の詩を読む。「嫌いだ」というのは「好きだ」ということと、どこかで結びついている。
いったい いくたびの抑えた息づかい 睦言が
指と唇との愛撫が 私の上を通りすぎたことか
いまでは それらの顔も名も 思い出せない
でも、「抑えた息づかい 睦言が/指と唇との愛撫が 私の上を通りすぎたこと」は覚えている。「肉体」の不思議さ。「肉体」は味わったことを忘れることができない。顔も名前も思い出せないからこそ、逆に「肉体」が覚えていることが、高橋を突き動かす。
と、読みたいのだが。
高橋は、すぐに、次のように整えてしまう。
そもそも顔など名など はじめからあったのか
それ以前に 私というものも存在したのか
あったのは最初から記憶のみ その記憶が
まぼろしを拵えあげたにすぎないのではないか
誰とも知らない者の いつとも知れない時の記憶が
「記憶」を「ことば」と読み直してみる。それも「文学のことば」と読み直してみる。存在したのは「文学のことば」だけである。もちろん「文学」だから「作者」はいる。しかし、「読み人知らず」という作品もある。いつの時代かわからないものもある。それは、人と時を超える。「ことば」が人と時を超える。たとえ有名な作者の「ことば」であったとしても、「名前」ではなく、「ことば」が。「作者」が誰であれ、「作品」が何であれ、人は感動しているとき「作者」も「作品名」も忘れる。ただ「ことば」に自分を重ねる。まるでセックスのように。そして「ことばの肉体」が動き出す。
高橋は、ことばとセックスしていたのだ。ことばになるもの、ことばになっているものとセックスしていたのであって、「肉体」は動いていないのだ。
「抑えた息づかい 睦言が/指と唇との愛撫が 私の上を通りすぎたこと」というのも、「文学」であり、「事実」ではない。実際に体験した、と高橋は主張するかもしれないが、それは「文学(過去)」をたどり直したということであって、「いま」を「ことばにならないことば」で切り開いたということではない、と思う。
高橋のことばにはいつも「記憶」が、つまり「文学」が、「死」が存在する。高橋は、「いのち」とセックスするというよりも、「死」とセックスしている。冷たく、こわばったセックス。
その「声」に私はぞっとする。
私は矛盾した人間だから、その「ぞっ」という感じを味わいたくて、高橋の詩を読む。「嫌いだ」というのは「好きだ」ということと、どこかで結びついている。
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