詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(113)

2018-10-29 09:02:31 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
113  P・V・シェリーに

 この詩にはイタリアで死んだシェリーが出てくる。ギリシアが舞台ではなく、イタリアが舞台。そのイタリアを「ピュタゴラス」と「そらまめ」でギリシアに変えてしまう。

嵐の後 海が打ちあげたきみの胃袋の 二百年後の解剖が許されるなら
ひょっとして 咀嚼したそらまめの残骸が 見つかるのではあるまいか
そらまめを食べてはならぬとは 教祖ピュタゴラスの重い禁忌の一つ

しかし、この禁忌をピュタゴラスは知っていたのか。そして知っているけれども、それをあえて破ったのか。これは、わからない。
「二百年後の解剖が許されるなら」と高橋は「仮定形」でことばを動かしている。
「許されるなら」からあとのことばは、すべて仮定、空想である。つまり、高橋の内部で起きていることだ。

だが 後世のイタリア人は生そらまめを肴に 白葡萄酒を飲むのを好む
きみはヨットの上でそらまめを食べ 死者の国に招かれたのではないか
そらまめは死者たちに属しているとは ピュタゴラスの謎の言葉の一つ
そらまめで白葡萄酒のグラスを傾けながらの ぼくの肆な幻想だが

「幻想」と高橋は呼ぶ。
「幻想」は「謎の言葉」を中心に動いている。伝えられる「謎の言葉」とは文学である。高橋のことばは、いつも「文学」から出発している。そして「文学」としてギリシアへ帰っていく。ことばとことばの緊密な関係、集中力がつくりだす緊密性、構築性へと帰っていく。
「幻想」にはいろいろな種類があるが、高橋の幻想は、「構造」そのもののなかにある。
モーツアルト、キイツ、シェリーと、ギリシアではない人間、ギリシアに住んでいない人間を通して、ことばで、ギリシアと彼らの間に「文学空間」 (ことばで構築された空間) をつくる。「構築する」という動詞で、高橋は、その世界へ入っていく。「これが、私のギリシア」と断定する。
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サミュエル・マオス監督「運命は踊る」(★★★)

2018-10-29 00:56:34 | 映画
サミュエル・マオス監督「運命は踊る」(★★★)

監督 サミュエル・マオス 出演 リオル・アシュケナージ、サラ・アドラー、ヨナタン・シライ

 この映画の映像は、吐き気を催すくらい気持ちが悪い。私は目が悪いせいか、特にそう感じた。目を開けていられない。それも、冒頭の荒野のなかの道から始まる。車で走っているらしいが、全体がわからない。道路はまっすぐだ。一点透視の構造なのだが、焦点となって消えていくのではなく、空中に浮かぶ感じて道が途切れる。おそらくその先は下り坂で、坂の頂上が見えるという「絵」なのだが、この冒頭から私はくらくらしてしまった。先があるのに先が見えない。それを延々と見せられる。
 つぎに目をつぶりたくなるのが、息子の戦死を聞いた父親が椅子から立ち上がり、歩くシーン。これを天井から映し出している。床の幾何学模様は「六面体」を斜め上からとらえたもの(平行四辺形を三つ組み合わせたもの)を繰り返すパターンなのだが、この無限の三つ、終わりがない感じに、私の目はついていけない。どうしても目をつぶってしまう。
 その前の、壁の抽象画も、目を引きつけるけれど、引きつけられた目を維持することができない。目をつぶりたくなる。
 で。
 思わず目をつぶるのだけれど、この映画は、目をつぶっていてもいい映画である。セリフが極端に少ないから、目で見ていないとわからないはずなのだが、このことばの少なさが逆に映像をかってに作り出すのである。一瞬だけ見た映像が、網膜の奥にことばで押しつけられるという感じ。
 どうして、こんなにしゃべらないのか。ことばが少ないのか。
 それは登場人物の「肉体」のなかでことばが動き回っているからだ。激しすぎて、そのままでは「肉体」の外に出ることができない。抑圧というか、制御というか。
 あ、イスラエルは、「ことばの国」なのだ。私はイギリスをことばの国と考えていたが、そのイギリスとは別の意味で「ことばの国」である。
 私はキリスト教徒ではないのだが、田川建三の「新約聖書(本文の訳)」(作品社)を最近読んでいて、「ことば」ということばが頻繁につかわれていることに気づいた。イスラエルはもちろんキリスト教ではないのだが、もとは一つの「神」。そして「神」というのは、まず「ことば」なのだ、と知らされた。
 その伝統というのか、血というのか、そういうものがイスラエル人には引き継がれている。(バーブラ・ストライザンドやビリー・ジョエルが信じられないくらいくっきりとことばを発音するのも、何か、そういうものの影響があるかもしれない。)「ことば」を発することで「神」と向き合っている。「神」と向き合うために、ことばを探している。それは、対話の相手が誰であれ、同じなのだ。その人に向き合うと同時に、「神」と向き合う。自分自身が「神」となって、他者と向き合うということかもしれない。「神」にふれるまでは、ことばを発しない。
 この緊張感が、私のようないい加減な人間には、また非常に苦痛である。私なんか(この文章もそうだが)、考えずにことばを発してしまう。ことばを言ってしまってから、意味を考える人間である。つまり、口からでまかせ。私のような「口からでまかせ」人間には、この映画で語られることばは「強すぎる」。だから、思わず目をつぶる。目を閉ざせば「ことば」が見えなくなる。ことばは「聞く」ものだけれど、イスラエル人のことばは聞いていると、その「形」が見えてくるような、エッジが非常に強いことばなのである。精神の動きを語る(浮かび上がらせる)という感じではなく、精神の存在を「形」にするといえばいいのかもしれない。
 まあ、こんな「印象」はいくら書いてもしようがない気もするが。
 イスラエル人はどう見るのか(聞くのか)、キリスト教徒はどう見るのか(聞くのか)、イスラム教徒はどう見るのか(聞くのか)、それをだれかに尋ねてみたい。
 映画のなかに、父親の兄弟が出てきて「私たちは無神論者だ」というようなことを言う。イスラエルの(あるいは他の一神教の)無神論者にとっては、どう聞こえるのかも、ぜひ聞いてみたい。
 私は、「神」が存在するかどうかを考えたことがない「無神論者」なので、そういう人たちとは、この映画のことばの聞こえ方が完全に違うだろうなあ、と思う。
           (2018年年10月28日、KBCシネマ1)


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