詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

暁方ミセイ『紫雲天気、嗅ぎ回る』(2)

2018-10-24 21:40:14 | 詩集
暁方ミセイ『紫雲天気、嗅ぎ回る』(2)(港の人、2018年10月17日発行)

 暁方ミセイ『紫雲天気、嗅ぎ回る』に「小岩井農場 二〇一六年」という作品がある。宮沢賢治を訪ねていったのだ。その書き出し。「パート一」

あなたもここを通ったのだ
送電塔が気高く山の上に並び立ち
田の水は澄んだ鏡面反射
目膜も肺も
青くしてしまう 今朝の田沢湖線に
わたしは飛び乗った

 こうして、暁方は宮沢賢治になる。私がいちばん宮沢賢治を感じるのは三行目。「田の水は澄んだ(澄んでいる)」は誰もが書く。そして、それが鏡のようになっているも多くの人が書くだろう。さらに田の水が反射しているとも書くだろう。しかし、それを全部ひとつづきにして「鏡面反射」ということばに押し込めることは、普通はしない。できない。間延びしてしまう。間延びさせずに「鏡面反射」ということばのなかに世界を凝縮する。ここが宮沢賢治である。宮沢賢治になってしまった暁方の書き方である。
 「パート九」に、

山からは絶えず
一直線の連絡は来る

 という行がある。この「一直線」の「一」の感じである。そこにあるのは「一」ではない。いくつもの要素がある。しかし、それを「一」にしてしまう。「一」にすることで、それまで存在しなかったものを炸裂させる。
 「鏡面反射」の「反射」によって、私たちは「反射」しか見ない。いや「反射」によって、それまで見たものがみんな見えなくなる。光がまぶしすぎる。光は、まるで鉱物のように私たちの目を射抜いてしまう。
 この「一直線」、あるいは「一」は、こんなふうに展開する。

ツユクサ
アカマンマ ツメクサ
シロツメ ああこれはきいろい
朝ならこれらが
硝子というのもよくわかる

 複数の植物が、朝の光で「硝子」に変わってしまう。私たちは、何を見たのか。何を見たにしろ、それは「硝子」に結晶する。そして、その「硝子」のプリズムを通して、記憶の中で「ツユクサ」をはじめとする花にもう一度分裂(炸裂)していく。
 この「一」になり、さらに「複数」になっていく透明を暁方は、こんなふうに書く。

(広大なる
稲をわたってくるこの風と秋津
秋津
蓄積された
五百年のさみしさが はがれてここらをたくさん舞う)

 「さみしさ」と暁方は書くが、これは感情というよりも「孤立」(孤独/独立)という状態、「生き方」だろう。言いなおすと「思想」だ。誰にも寄り掛からない、独立した「生き方」が世界を凝縮させ、さらに分光する。その光が激しく乱舞する。乱舞なのに、そこに「統一」がある。














*

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紫雲天気、嗅ぎ回る 岩手歩行詩篇
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(108)

2018-10-24 09:14:51 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
108  喧嘩の後に ポンペイのらくがきから

「おまえのけつに おれのもの つっこんでやる
おれのはでっけえから おまえの口から出るぞ」
「おれのはもっとでっけぇから おまえの口から
つん出て むこうの壁をつき破るからな」

 ことばは暴走する。ことばは、できないことも語ることができる。ことばによって語られたのは、「欲望の事実」、あるいは「本能の真実」である。

つき破った壁のむこうは空 何もない青
ふり返れば壁も 穴も 突起もなくて
何もない 青い悲しみばかりが ひろがって

 「何もない」のか、「青い悲しみ」があるのか。あるいは「ひろがり」があるのか。
 この詩の「青い悲しみ」は、「107  地中海」の「紺青の渦のかがやき」である。
 地中海は、青い。そして、そこにはいつも透き通った太陽がある。輝きがある。あまりにも集中しすぎて、透明になってしまった認識。それはあらゆる存在を、透明な力で明晰な論理にしてしまう。
この喧嘩も、喧嘩なのに論理的である。論理はいつも、ばかばかしい。
 「青い悲しみ」とは、そういうあまりにもギリシア的な精神かもしれない。

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